3 夜、一人ゴンドラを滑らせる。静まり返った水面を波紋が広がっていく。 大通りに面しているオレンジぷらねっとからどんどん内陸に入っていく。 大きな水路が一本真ん中を貫き、それから分岐して様々な小水路が延びる。 何処まで行っても水路の両脇には建物がそびえ立ち、 上方の景観は細く端の切られた空が伸びるだけだった。 軽くため息をついて、バーニィは来た道をまたゆっくりと折り返していった。 「あれ、こんな遅くにどうしたの?」 社に戻り、部屋の前に来ると廊下を歩いていたプリマの一人が声をかけてきた。 先日のお茶会で親しくなった子だ。 「え、ああ、ちょっとその辺を漕いできました」 「こんな時間に? 景色を楽しむには暗すぎると思うけど」 「いえ、ちょっと別件で」 「そう」 彼女はそれ以上深く追求することなく、おやすみと一言残して去って行った。 バーニィも部屋に入る。するといつものように小声で歌が聞こえる。 特に気にすることもなく、バーニィは着替えてベッドに入った。 ここでもやはり何事もなく時は過ぎていくのだろうか。 ゴンドラを漕いで、お客様を満足させて、そうして日々を過ごしていく。 ウンディーネという職業が嫌いなわけじゃない。 ただやはり何年も仕事をしていくと、たまにこういう瞬間に出会ってしまう。 マンネリとの対話だ。 グランマのように長く続けられるならそれも良いと思う。 別の道を見つけてそちらへ行くのも良いと思う。 今のところこの仕事にまだ満足行くほどの技量が身についてないと 思っているから、こうして大きな会社に入って自分を磨こうと思ったけれど、 自己研鑽の裏で視野狭窄に陥っていないかと思うことがある。 ウンディーネはお客様あっての仕事だ。 そのお客様へ、自分のサービスは行き届いているだろうか。 いや、サービスという言葉自体がすでに何か違うような気がするのは、気のせいだろうか。 こっちに来て一度だけグランマとすれ違ったことがあるが、 あの人の操舵はまるで水と戯れるような感じだったし、 お客様との会話もごく自然に、まるで長年の付き合いのような自然さがあった。 あの高みまで上ると、どんな景色が見えるんだろう。 なれないと知っていてもウンディーネである以上やはり憧れる。 一度でいい、話をしてみたい。そしてその景色の一端だけでも垣間見てみたい。 でも。 じゃあ、もしその景色が見えたら、その先には何があるんだろう。 このウンディーネという仕事の先には、いったい何が待っているんだろう。 考えは取り留めなく、そして行く当てもなく彷徨って行く。 そうしているうちに、バーニィは眠りに落ちていった。 |
バーニィの目覚めはいつもすっきりとしない。 頭が重たいのは毎日考え事をしながら寝てしまうからだろうか。 そういう性格だから仕方ない、こういうのは職業病とは言わないでなんていうんだろう、 性格、だろうか。 いけない、また考え事をしている。 留守になっていた手を動かして着替えを済ませる。 扉を閉めてふっと息を吐く。今日はやけに朝から疲れてる気がする。 今日のお客様は何人だろうか。いけない、また考え事をしている。 すると扉が開く音が聞こえた。 「あ、おはようございます、バーニィさん」 アテナが実に珍しく爽やかな顔で挨拶してくる。 「おはよう、アテナ。あら、今日は早いのね」 バーニィの何気ない一言にアテナは顔を赤くした。アテナはとことん朝が弱いのだ。 バーニィに少しいたずら心が湧いた。 「間違えて誰かの部屋に入ったりしなかった?」 「からかわないでくださいよバーニィさん、恥ずかしいです」 バーニィは失笑し、アテナはさらに照れてしまった。 けれど、とバーニィは思う。 アテナは普段あまり表情を変えないから、こういう些細なことで表情を崩すのは きっと私たちがいい関係を築けてるからかもしれない、と。 「アテナ、朝食は? まだなら一緒にどう?」 「はい、喜んで」 朝の食堂は清々しく、そして賑やかだ。 慣れてきたのでこの喧騒が一日の始まりという感じがするようになってきた。 いつものようにアテナの手引きで場所を見つけて食事を取る。 「おはよう、お二人さん。どうしたのバーニィ、なんか疲れた顔してるよ」 そして気づくといつも隣にはファーチェがいる。これも私の最近の朝の馴染みの光景だ。 「ファーチェの元気が羨ましい限りだわ」 「ごめん、こればっかりは分けられないのよね」 「いいの、気にしないで、いつものことだから」 「いつものことだから気になるんじゃない」 「ありがとう、ファーチェ」 「どういたしまして、バーニィ」 アテナは一連の会話にくすくす笑っている。 なんだか最近ファーチェとの会話がコントのように思えてきた。 私の性格も変わってきたのかしら。ここに来てから一月経つからかしら。 会社の人間ともだいぶコミュニケーションがとれて仲が良くなってきた。 仕事も順調にこなしている。万事問題なく日々は進んでいる。 こんな日々に何を考えなくちゃいけないんだろう。 客商売だから緊張はするけれど、もう少しリラックスしてもいいのかもしれないわね。 でも、そのやり方がわからないな ……いけない、また変な考えを起こしてる。 オールを持つ手を少しだけ緩めてみる。今日は力を抜いていこう。 |
漕ぎ出して外に出てみると、相変わらず空は高く風も心地よい。 空気は前の社のあった土地のほうが澄んでいる気がするけれど、 この街の匂いにも慣れてきた。 今日の最初のお客様は仲睦まじい老夫婦だった。 二人の笑顔にこちらも気持ちが緩んでしまう。 事前にコースは聞いている。 観光だというが、二人とも手に持ったガイドブックをまるで見ていない。 かといってバーニィに殆ど質問をしてこない。 辺りを眺めてささやかな発見をしては、二人で話しあったりたまにバーニィに訊いてくる。 要するに二人は詳しいガイドより、このアクアという大気を楽しみに来たのだろう。 バーニィはそう判断した。 そういう二人に言葉は多くいらない。 「〜♪」 バーニィは大きすぎず小さすぎずでカンツォーネを二人にプレゼントした。 背中越しだが、二人とも気持ちよく聴いてくれている気がする。 その後も歌の合間に二人から質問が来てそれにバーニィが答え、 またバーニィのカンツォーネをBGMに二人は辺りの景色と風を楽しんでいた。 「とても気持ちのよい時間が過ごせました。どうもありがとう」 「本当、歌も景色も何もかもが素敵な旅だったわ」 「こちらこそ、そういっていただけて光栄です。またのお越しをお待ちしております」 最後は共に柔らかな笑顔で別れた。 「なんだか久々に歌ったな」 バーニィはいつにない充実感を得ていた。こういう操舵は久しぶりだった。 以前の土地はヴァポレット代りのような使われ方を多くしていたから、 しょっちゅう今日みたいな操舵だったけれど、 こちらではそうはいかないからとなんとなく封印していた。 バーニィは次の約束の場所までの間中、また考えにふけっていた。 こういうとお客様には失礼かもしれないけれど、さっきはとてもリラックスして操舵できた。 やらなきゃいけない、伝えなきゃいけない、そう思い過ぎることでこちらが萎縮してしまったり 押し付けがましく思わせたりして、お客様のご機嫌を損ねることだってあるだろう。 前からゴンドラが来たのでオールを刺して自分の舟を止める。 相手のゴンドリエーレと軽く挨拶して、舟をまた出す。 観光名所の多いこの都会に出てきて、そういうガイドを求めるお客様が普通だったから、 伝えなくちゃいけないという考えが私の中で強かった。 一月経ったとはいえまだ不慣れな土地だから、いつ何時ガイドブックに載っていない 場所のことを訊かれて困るとも限らない。 そしてどんな状況であれ、私たちは優雅でなければならない。 ずっと気を抜けない日々だった。 けれど。 良い意味で気の緩みも持つべきじゃないだろうか。 そうすることで心に余裕が生まれる。ちょっとしたことにも慌てず対応も出来る。 優雅に行おうと思わずとも動作は優雅さを帯びる。笑顔も増える。 お客様への心配りも柔らかなものになる。 ちょっと短絡的で、ポジティブすぎるかしら。でもいいわよね。 気を引き締めつつ、少し抜きつつ。このくらいを目指してみよう。 目前の桟橋でバーニィの新たな客が手を振っていた。さあ、実践だ。 |
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