- #03 Citta stellante -
  
     


「思うにバーニィは、生真面目なのよね」
ファーチェはフォークにパスタを絡ませながら言った。夕食の席でのことだ。
「私以上に真面目な人は沢山いるし、私はまだまだ勉強足りないから、
 もっと真面目でも良いと思ってるわよ」
「そうじゃなくてね、私バーニィが鼻歌一つ歌ってるのを聞いたことが
 ないなあって思って」
「そうかしら」
パクンとパスタを飲み込むファーチェ。
「気が張ってるっていうか、隙がないっていうか」
「そうかしら」
バーニィもフォークを口に持っていきながら考える。
鼻歌が出るほどウキウキした気分には確かになったことはないかもしれないけれど、
私そんなに近づかないでっていうオーラが出てたかしら。
「ねえアテナ、私そんなに怖い顔してたりした?」
「え?」
急に話題を振られてあからさまに驚くアテナ。
「え、ええっと、そんなことは、なかったと思います」
「ほらごらん」
「駄目よ、アテナは良い子だもん、誰かのことを悪くいえる子じゃないわ」
「じゃあ私は言えるってこと?」
「もしかしたらその方が人間らしいかもよ。
 それに、そんな人は生真面目じゃあないだろうしね」
「そんなものかしら」
「そうよ。ああ、食べた。ご馳走様。じゃね、お二人さん」
そう言うとファーチェは笑顔で手を振って席を立った。
「鼻歌かあ」
バーニィは一人ごちで見る。だいぶ生活に余裕は出てきたと思うから、
そのうちそんなことも出来る日が来るかもしれないな。
歌かあ。
そう思ったバーニィはふと隣のアテナを見た。
「ねえ、アテナ、明日あなたの練習に付き合って良いかしら?」
「お仕事のほうは大丈夫なんですか?」
「午前中は空いてるから。ちょっと確かめたいことがあってね」
「そうですか、それなら、お願いします」
「別にしごこうとか思ってるわけじゃないから、気を楽にしていつもどおりやれば良いからね」
「はい、わかりました」
軽く頷いてからバーニィは残りを食べ始めた。
「今日のパスタ、ちょっと味が薄いと思わない?」
「え、そうですか? 私には丁度良いですけれど」
「ふふっ、ホント、アテナって良い子よね」
「バカにされてる気がします」
「褒め言葉よ。自信持ちなさい」
「はあ」
それからも会話を交わしながら食事を取り、そしてアテナは部屋へ、
バーニィはまたゴンドラへと向かった。
夜のしじまを縫って進むゴンドラが、静かな水面に波紋を広げていく。
いつもよりゆっくり、ゆっくりと漕いでいく。
見上げる空はもう見慣れた区切られた空だ。よく見れば、結構星が見える。
アクアは空気の澄んだ星だから、こんな都会でも田舎と変わらず星が綺麗なのね。
そっか、ここも田舎も変わらないのか。
バーニィの胸の中ですとんと落ちるものがあった。

翌朝。
相変わらず寝起きの悪いアテナを笑いながらバーニィは着替えを済ませ、部屋の窓を開けた。
夏の日差しが高くまぶしく降り注ぐ。
バーニィは窓から身を乗り出して町並みを見回した。
レンガのじゅうたんが当たり一面に広がっている。
会社の建物が高いために見晴らしは最高だ。
「さてと。じゃ、先に行ってるね」
そうアテナに言い残してから、バーニィは部屋を出た。
前日の約束どおり、バーニィはアテナの練習用ゴンドラに乗り込んだ。
初めて見てから少し成長の後が見える。
良い調子に行ってるみたいね。バーニィは風を受けながら思った。
「ところでバーニィさん、昨日言ってた確かめたいことって、なんですか?」
アテナは漕ぎ出したときからずっと不安げな表情をしていた。
昨夜からずっとそこのことが頭から離れなかったのだろう。
珍しく夜寝る前に歌声がなかった。
「ああ、それはもうちょっと先に行ったところでね」
バーニィはさらっと言い流した。
アテナはともかく慎重に漕がないと、と緊張気味にオールを動かした。
そろそろ大きめの運河にぶつかる頃合となった。
「ねえ、アテナ、ちょっとカンツォーネを歌ってみて。あなたの好きなもので良いわ」
「え、カンツォーネですか?」
アテナは意味を理解できないでいた。
「いつも部屋で歌ってるでしょう。あれ、一度大きな音で聞いてみたいなって思ったのよ。
それに、ウンディーネはカンツォーネも歌えないと駄目でしょ? その練習だと思って」
「はい、そういうことなら、わかりました」
やっと納得いったアテナは、すっと息を吸い込んでから口を開いた。

その瞬間、音が街中の空気を揺らして響き渡った。

折りしもゴンドラは大きな運河へ出るところだ。往来のゴンドラが通りかかるだろう。
ところが、ゴンドラは一向に運河を横切ろうとしなかった。
アテナは歌うことに夢中で、運河を横切る際の約束事である声をかけることを忘れていた。
「ゴンドラ、通りまーす」
バーニィが大きな声で言った。
それに気づいたアテナはしまったという顔をしたが、バーニィはアテナのほうを向いて
良いのよという表情で頷いた。アテナは照れながら声量を落として運河をゆっくりと進み出た。
開けた視界。
そこに待っていたのは、列を成すようにして止まっていたゴンドラの群れだった。
様々な職種のゴンドラが、運河から出てくるバーニィたちのゴンドラを待っていた。
一目、聞こえた歌声の主を見ようと待っていたのだ。
その光景にアテナは驚いて歌うことを止めてしまった。
「どうしたの? 気にしないで続けて」
「え、あ、えっと」
「みんな、あなたの歌声を待っているわ」
「え、そんな」
「ほら、恥ずかしがってちゃプリマにはなれないわよ」
「あ、はい」
そしてまた、美しい歌声が水面に広がる波紋のようにあたり一面に広がっていった。
周りのゴンドラは皆漕ぐことを止めてしまっていた。中には観光中のウンディーネもいた。
アテナが歌い終え、ふうっと息を吐き出したとき、
今度はさざ波が押し寄せるように拍手が当たり一面からアテナに向けて起こった。
アテナはすっかり舞い上がってしまい、顔をこれ以上ないほどに真っ赤にした。
バーニィも晴れやかな笑顔で拍手を送った。
「素晴らしいわ、アテナ。私、こんな素敵なカンツォーネを聴いたの初めてよ」
周囲からは拍手だけでなく喝采が沸き起こっていた。
アテナはいよいよもって困ってしまい思わずその場にしゃがみこんでしまった。
「ば、バーニィさ〜ん、どうしたらいいんですかあ?」
困り果てて情けない顔のアテナは、先ほどの歌声とはかけ離れた怯えた声で
バーニィに訊いて来た。
「そうね、お辞儀でもしたらいいんじゃない?」
「お、お辞儀ですか」
アテナは立ち上がってm言われるままに四方にペコペコと頭を下げた。
歓声はしばらく止まなかった。
社に戻った二人を今度は、同時に戻った、先ほどの場に居合わせていた
社のペアやシングルがわっと取り囲んだ。
バーニィは仕事があるからと言ってわざとアテナを一人にして受付へ行った。
残されたアテナはまた困り果てておろおろしていた。
「どうしたんですか、バーニィさん、なにか良いことでもあったんですか?」
「うん、すごく良いことがあったのよ。もう想像以上だったわ」
受付のコゼットに言われて、バーニィは予約確認も気もそぞろに言いながら、
まるでほろ酔い気分で答えた。
「いったい何があったんですか? 教えてくださいよ、バーニィさ〜ん!」
いたずらの片棒を担ぐようなニヤり笑い顔で絡んでくるコゼットに、
うふふと笑ってバーニィは答えをはぐらかした。
その日、アテナのことが社中に話題になったのは、いうまでもないことだった。

何度目かの夜のゴンドラ。
鼻歌でカンツォーネを歌いながら、ゆっくりゆっくり漕いでいく。
初めてゴンドラを漕いだペアの初日。
真っ直ぐ漕ぐことに一生懸命で周りの景色を見る余裕なんてなかった。
少しずつ慣れていって、周りを見られるようになって、
時々空の高さに吸い込まれそうになった。
プリマに合格した時の夜は、興奮してどこまでもどこまでも
天の川を追いかけて漕いでった。
仕事に慣れて、星空も心もすっかり色褪せたものになった頃、
オレンジぷらねっとから声をかけられた。
場所を変えれば、この空もまた違う表情になるかもしれない。
そしてオレンジぷらねっとに来て初めての夜は、
けれど空が区切られていることに寂しさを感じた。
仕事漬けの毎日が続いて、空を見る余裕もなかった頃、区切られた空のように
私の心もぎゅっと枠に押し込まれていたような感じだったのだろう。
けれど空は区切られていても星が瞬き、夜も朝も高かった。
場所は変わっても空は空だった。
けれどこの区切られた空が初めて見たときより澄んで、高く思えるようになったのは、
私の心が枠から解き放たれたからかもしれない。
その解放を解き放ったもの。
そして今日の午前中の出来事。
田舎を離れてここまで着た。
これから先のことを思ってげんなりしたりもした。
確かにこれからも空は変わらない。
けれど気持ち一つで空は色んな表情を見せてくれることがわかった。
気持ちよさそうに私の歌を聴いてくださった老夫婦。
昼間のアテナの歌声を聞いたときの衝撃。
人の交わりの少ない田舎では味わえない、沢山の人との出会いが、
私のウンディーネとしての生活を彩ってくれる。
それを楽しめるようになれば、毎日が同じことの繰り返しだなんて思って
げんなりすることからも少し解放されるかもしれない。
ゆっくりと進んでいくゴンドラの周りには、波紋がどんどんと広がっていった。
この波紋のように、私の心も何処までも限りなく広がっていけたら。
すっと夜空を見上げた。
ああ……暗い空がいつもよりも高く感じる。落ちて行きそう。
仕事が多くて大変な日々ではあるけれど、私はここへ来てよかったと思う。
『――ということでそっちへ帰る予定はなさそうです。
 和宏もこっちへおいでよ。私、案内するよ。』
久々のメールは、隣のアテナの気持ちよさそうな歌声を聴きながら、
心地よい気持ちを綴り織った。

(fin.)

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