- #02 impennata -
  
     
【il terzo:アンジェロ・ファルコーネ】

「クリオ、ゴンドラ借りるぞ」

晃の自室謹慎が解けた。といって、人間が劇的に換わるということはない。
相変わらず鋭い眼光の晃の姿は社のあちこちで目に付いた。

「今日は駄目。水路の水量が安定しないからプリマ以外は出ちゃいけないって、掲示板にも出てたでしょう」
「え、そんな……それこそ絶好の練習日和じゃないか」
「駄目なものは駄目。もう少し周りの情報をしっかり把握しなさい。美砂に言われたばかりでしょう」

晃の練習熱心には頭が下がるが、こればかりは従ってもらわないと困る。
晃は困って辺りを見ている。全く、本当に練習の虫ね。
クリオはこっそり笑いながら仕事に戻ろうとしたが、丁度シングルの子が外に出ようとしていたのが見えた。
あの子は確かシングルの……。

「アンジェロ!」
「はい?」

アンジェロは、きょとんとした顔でクリオを見つめた。

「ねえアンジェロ、もしかしてこれから散歩?」
「え、ええ、そうですけど」

アンジェロはおずおずと答えた。

「丁度良かった。この子連れてってくれない?」
「え、クリオ、散歩ってなんだよ、私がしたいのはゴンドラの練習だぞ」
「良いのよ、私に従ってれば。アンジェロ、頼めるかしら?」
「え、私、そんな……」
「あなたはいつもどおり散歩してればいいの。晃、良い勉強になるから一緒に行ってきなさい」
「散歩がなんの勉強になるっていうんだ? 本当に散歩が勉強になるのか?」
「勿論」

それでも納得いかない様子の晃はしばらく腕を組んで考え込んでいたが、
結局今日一日ゴンドラに乗れないのならと折れたらしい。

「……わかった。よろしく頼む」
「え、あ、う、はい」

こうして不服そうに晃はアンジェロについて散歩に出て行った。
世話のかかる子だ。でも絶対にあの子についていけばあなたには良いことだらけよ、晃。
そしてクリオはニコニコしながら仕事に戻った。

***************************************************
 
「アンジェロー、こんな日くらいゆっくりしてようよー」
「だめ、今日はお散歩日和なのっ」

他人の部屋をまるで自室のように思ってベッドでくつろぐ友人を部屋に残し、アンジェロ・ファルコーネは部屋を出た。
今日は水路の水量が安定しないらしい。イレギュラな水量で水路がどんな風に様変わりしているのか、
それが気になって仕方なかった。ただでさえ水路のチェックするのは難しい。だからイレギュラ時の情報を手に入れようと
前から決めていた。そしたら思わぬお供が付いた。噂の新人ちゃん。なんとなく後輩なのにおっかなくって、なるべくなら
関わらないところで暮らしたかったなというのが本音。一度夜に彼女が尋ねてきたときも、上手いこと話をすることは
出来なかったと思う。というよりあれは何か台風がやって来て去って行ったという印象だったし。困ったなあ。

姫屋から出てしばらく、カツカツと石畳にヒールの響く音のみがする。
うう、なんか睨まれてる。水路に集中しなきゃ。今日は逃しちゃいけない日なんだぞ。ん〜、この辺の水路はいつもどおりだ。
折れて道端、橋の上、川岸。 姫屋の周りはそんなに影響を受けてないみたい。
水の流れを管理している場所からこのあたりは結構離れているから、潮の干満がひどくなければこのあたりで異常が
起こるはずはないのかな。じゃあ、あのあたりはどうかな。
と、その前にそうっと振り返ってみる。
鋭い眼光キラリ。
駄目、やっぱりこわい!
視線がどうも気になって、いつもより早足になっちゃう。
姫屋からこっち、晃ちゃんは私の一挙手一頭足を見ている。こっちはおかげで緊張の連続でゴンドラのシミュレーションも
上手くいかない。困ったなあ、どうしよう。

「アンジェロさん、さっきから何をしてるの?」
「ひっ」

驚かさないでよお。

「え、あ、うん、水を見てるの」

なるべく顔をあわせないようにして、自然な振りをして答えた。思わず水を触ってみたりもした。

「水?」
「うん、水」
「水……ああ、今日は水量が安定しないって言ってたっけ。それのチェックですか?
 でもそれってあんまり意味なくないですか? だってこれは滅多にないイレギュラだってクリオも言ってたし」
「でも、プリマは今日もお仕事に出てるよ。お客様だって今日しかない人だっているし、
 例えば自分がそういう日に当たって、そんな人に今日は水量が安定しないからゴンドラを出せません
 なんて言える?」
「あ……」

晃ちゃんは何か思い当たる節があったようだった。
ウンディーネに必要なことは沢山ある。水路のことはその中でも一番の問題ごとだ。
食堂でもいつもプリマの先輩たちは話してる。あそこの水路は早くしないとすぐに水量が上がる、とか、
あっちの水路はゴンドラの往来が激しくてなるべく別のルートを知っておいたほうが良いとか。
だから、操舵技術の覚えの悪い私がプリマになるには人一倍水路のことを知らなくちゃいけないと思った。
それで散歩を始めたんだけど、いつしか水路見学が楽しくなっちゃってた。
水路から少し視線をずらすと、四季折々の景色が入ってくる。
水も景色の一部に溶けて、素敵なコントラストを奏でる。
ゴンドラを漕ぎながら見る景色は本当に素敵だ。風も心地よければいうことはない。
でもゴンドラに乗らなくても勿論景色は楽しめる。ゴンドラよりゆっくりと、自分の足で季節を感じるのも素敵だった。
それを知ってからは一秒でも部屋にいるのが惜しくなった。
そしたらあるとき、いつも面倒を見てくれるプリマの先輩が言ってくれたんだ、
「いつかアンジェロは最高のプリマになれる」って。
寂しげでも、楽しげでも、そんな景色のあるこのアクアという星が私は大好きだ。
ウンディーネを目指したのだって、ゴンドラに乗ったときのあの風と目くるめく景色を見ることが
できるからだったりもするくらい。でも、勿論自分本位じゃあ駄目だって、この間美砂さんが言ってたよね。
あの時は晃ちゃんと他の子が喧嘩を……晃ちゃん!
振り向いた私に見えたのは、一転の曇りもない疑いの眼差しの晃ちゃん。怒らせた? うわー。

「アンジェロさん、アンジェロさんはさっきからずっと頭の中で何をイメージしてたんですか?」

え、何、今なんていったの?

「目を閉じて指で空をなぞったりオール捌きをやってみたり。それってイメージトレーニングですよね?」
「え? ええ」
「それって今までの道筋でもずーっとやってたんですか?」
「え? あ、うん。もし自分がゴンドラを漕いでて、その、潮の干満の代わり際にこのあたりを
 漕がなくちゃいけなくなったら、どういうルートを通って行こうかしらって。
 だってほら、誰かに訊くわけにはいかないし、それじゃお客様を心配させちゃうでしょう?
 でもお客様のご都合を壊しちゃうかもしれないから本当はそういう状況は先んじて回避しなくちゃ
 いけないんだけど」
「でもそれじゃゴンドラに乗らないと意味がないでしょう?」
「そうね、確かに実践に勝るものはないと思う。でも、こうして自分の足で見て回ると、
 普段ゴンドラからでは見えないものが見えるかもしれないでしょう?」
「見えないもの?」
「そう。特に景色はね。例えばこの木々にしたって、一年中同じじゃないでしょう。
 芽が出て花が咲いて、葉が生い茂って散って、また芽吹いて。その自然の営みの中を
 進んでるんだなあって思うと何気なく漕いでるゴンドラもより楽しくなるでしょう?」
「……アンジェロさん、結構恥ずかしいこといいますね」
「え、え、え、そ、そうかな」
「それはいいとしても、自然とウンディーネと何か関係があるんですか?」
「え? そ、そうね、例えばほら、お客様が見たら気分よくなっていただけるかなあ、とか。あは、あはは」
「……」

晃ちゃん黙り込んじゃった。そうだよねえ、やっぱり私が楽しんじゃ意味ないもんねえ。

「そうですよね」
「うん、意味ないよねえ」
「お客様のことを考えて、ですよね」
「うん、う……え?」

晃ちゃんは相変わらず難しい表情をしているけれど、今何て言ったのかな?
う〜どうして私ってこう人の言うことをしっかり聞けないのかなあ。
晃ちゃんみたいにどっしり構えられたらいいのになあ。

それから少し歩いたところで、また晃が訊ねた。場所は橋の架かる水路。
手前からまっすぐ橋をくぐっていくのだけれど、橋に行く前には横道がドッキングする。
さらに橋を越えると水路はT字路になる。

「アンジェロさん。例えばアンジェロさんがそこの横道から出てきて橋をくぐって、
 その先を右に折れていくとしたら、どうゴンドラを漕ぎますか?」
「え?」

唐突だ。しかも難しいことを訊かれた。私、ここ苦手なのよ。いっつも上手いシミュレーションできなくて。
しかもそんなシチュエーション考えたことなかった。うわあ、困っちゃったなあ。

「えと、こちらの横道から出るのね? まず一声かけてゆっくり出て、なるべくゴンドラの舳先を
 先の道の端に付くまで真っ直ぐ出しちゃうかな。こっちの道、細いもんね。曲がり際にゴンドラを
 壁にぶつけたら、お客様にご迷惑がかかっちゃうもんね」
「それから?」
「それから? そしたらゆっくり右に回って橋をくぐって、それから水路のなるべく左を通るようにして
 T字路まで行って、また一声かけて今度はなるべく小回りで右旋回かな」
「……ん〜」
晃ちゃん何考えてるんだろう。
でも待って、どうしてシングルの私がペアの晃ちゃんの判定をドキドキしながら待たなくちゃいけないの?

「そ、そりゃあ、操舵術は晃ちゃんのほうが上手かもしれないけど」
「え?」
「あ!」

声に出ちゃった。どうしよう、また睨まれちゃうよ。

「アンジェロさん、何故橋をくぐった後水路の左を通る選択をしたんですか?」
「え? あ、ああ、それは、横道を出た後のゴンドラは水路の左側を位置してるでしょう?
 そこから無理に右に位置換えしても、次のT字路の右折前にもう一度左側に膨らまないと
 右折は出来ないじゃない? そしたらゴンドラを無駄に揺らしちゃうかもしれないし、
 それに水路の水がゴンドラの動きに合わせて揺れちゃうとお客様にも水路にもかかっちゃうかも
 しれないじゃない。どちらにもかけちゃうとまずいでしょう?
 だから、一番大回りで行くのがいいかなあって思って」
「なるほど」

晃ちゃん納得してくれたかな?

「じゃあ、T字路の左奥からゴンドラが出てきたら、どうしますか?」
「ふえ?」

ひ、左? ん〜……

「そのゴンドラの右旋回を手前で待つかな」
「どうして?」

何、何、何なの一体、もうやだあ。

「えっと、水の流れが奥から手前に流れてるから、こちらが突っ込んじゃうと水しぶきが上がっちゃうでしょう?」
「水の流れ、か」

お願い、もう今度こそ納得して!

「なるほど。私がいつまでもペアでいる理由がなんとなくわかった気がします」
「え、何の話?」
「だからシングルはさすがですねといってるんです」
「は、え、はい?」
「まったく……」

え、何、何でそんな呆れたような顔するの? もう、私どうすれば良いのよお。

「アンジェロさんが困ってどうするんですか」
「だって、晃ちゃん難しい顔してどうするどうするって訊いて来るんだもん。それに晃ちゃんのほうが
 きっと操舵術は上手いんだから私の答えの間違いを沢山探してるんだって思ったから」
「アンジェロさん、それ、沢山間違ってますよ」
「え?」

晃ちゃんの言葉はどうも驚かされることばかりだ。今度は何を言われるんだろう。

「そもそもペアがシングルに操舵を訊くのって当たり前じゃないですか、だって私たちは経験不足で
 正しい判断が出来ないんですから」
「は、はあ……そうかな」
「そうです。それに、ペアの私より操舵も上手いからアンジェロさんはシングルなんでしょう?」
「そ、それはわかんないよ、もしかしたらプリマの先輩がしょうがないかってシングルにしてくれたかも」
「姫屋のプリマがそんないい加減なジャッジ下すわけないじゃないですか!」
「は、はいっ!」
「……それに、一番の違いは、やっぱりアンジェロさんの目線が常にお客様に向いてることですよ。
 水路のこと、水の流れ、飛沫、それに景色」
「そ、そうかなあ」
「アンジェロさん、私が言うのも変ですけど、もう少し自信持って良いと思います。私がお話を聞かせて
 もらったシングルの方の中でそこまでお客様のことを考えられてたのはアンジェロさんだけなんですから!」

そ、そうなのかなあ。自分ではそうは思えないんだけど。
でも晃ちゃんに言われてなんでだかわかんないけどちょっと自信が付いた気がするなあ……
なんだか困ったシングルだな。

「ふふ」
「どうしたんですか、いきなり笑ったりして」
「だって、どっちが先輩なんだかわかんないんだもん」
「え、あ、すいません、私でしゃばったこと言っちゃって」

晃ちゃんが慌ててる。初めて見たな、こんな顔するんだ。
「ん〜ん、そんなことないよ。私も今のでいい勉強になっちゃった。ありがとう、晃ちゃん」
「いえ、そんな」

あ、照れてる。こんな顔もするんだ! うわあ、晃ちゃんかわいいっ!

「す、すわっ! い、今アンジェロさん変なこと考えてたでしょう?」
「どうしてえ?」
「だ、だって、なんか目つきがなんとなくいやらしい……から」
「うふふ。どうかなあ〜」
「アンジェロさんっ!」
「うふふふふ」
「そ、その笑い方止めてください! 嫌なことを思い出します!」
「え〜、そうなの〜、うふふふふ」
「すわっ! 止めて〜!」

*********************************************
 
あれから数日。あちらこちらで水路の情報交換をし始めた晃の姿を見て、わかりやすい性格だなと
苦笑しながらも、クリオは自分のしたことが正しかったことを認識した。

「アンジェロ、なんか晃に懐かれちゃったって?」

これから練習に出ようとしていたアンジェロがゴンドラの確認に来たので、クリオはアンジェロを呼び止めた。

「あ、ええ。私のほうも色々と勉強になることがあるから、結構楽しいです」
「そう、でもシングルがペアから何を勉強するの?」
「そうですねえ、初心、かな」

……まったくこの子はどこまで良い子なんだか。

「さて、私も晃ちゃんに負けないように頑張らないと」
「うん、頑張って」
「アンジェロ!」
「はい?」

アンジェロを呼び止める声が上から聞こえてきた。

「あ、ロベッシャータさん」

声の主はプリマ・ウンディーネのロベッシャータだ。彼女はよくアンジェロの練習を見てたわね。

「丁度良いところにいたわね。アンジェロ、今日はちょっと私に付き合ってくれない?」
「え、構いませんけど、どちらに行かれるんですか?」
「ん〜、今日はどこへ行こうかなあ。とりあえずそれはおいおい教えるわ」
「はいっ」

そして、ロベッシャータが階段を下りてくるのを待って、二人はゴンドラ置き場へと向かっていった。

 →第4章