- #02 impennata -
  
     
【il quarto:dietimo】

「アンジェロさん、丁度良かった。この時期特に夕日の綺麗な場所って知ってますか?」

階段の踊り場で、下りてきた晃は上ってくるアンジェロを捕まえた。

「そうね……ちょっと寒いけど、ため息橋を抜けてその先の」
「晃、さっきジラフさんが呼んでたよ、昨日のことで話があるって」

シングルの子が階下から晃を呼んだ。

「すぐ行きま〜す」
「晃、あとで郵便局に行ってくれないか、お客さんがどうやら忘れ物したらしい」

姫屋のスタッフがまたしても階下から晃を呼んだ。

「何でそんなこと私がやんなきゃいけないんだ! それはそっちの仕事だろ!」
「晃、すぐ怒鳴らない!」

階上からカジラギの声がすっと飛んできた。

「すいません、カジラギさん……なんだよ、自分だって怒鳴ってるくせに」
「ふふっ」

目まぐるしい一瞬のやり取りたちがアンジェロには心地よく、面白かった。

「あ、アンジェロさんごめんなさい、呼びとめておいてお待たせしちゃって」
「いいのよ、別に」
「でも、まだ今日の仕事あるでしょう。聞きましたよアンジェロさん、
 お客さんからの人気上々らしいじゃないですか。さすがです」

晃は羨望の眼差しを向けた。それに対してアンジェロはいつものように謙遜しながらはにかんだ。

「そんなことないわ、たまたまよ。それにここへはちょっと休憩に戻ったところだから大丈夫よ。
 それにしても大人気みたいね、晃ちゃん」
「そんなことないですよ、みんな私のことからかって遊んでるんです」

晃はふくれてみせる。

「いいじゃない、みんなそれだけあなたのことを気に入ってくれてるのよ」
「別に頼んでないです。それにだいたい郵便局って何ですかまったく。
 人のことパシリか何かと思ってやがる」
「晃ちゃん、言葉遣い」
「あ、すいません。で、夕日なんですけど」
「そうね。姫屋側から出てすぐの橋を抜けた先を右折してね、そのまま直進すると三叉路に分かれるの。
 そこの一番右の水路を真っ直ぐ行くとちょっと開けたところに出るから、そこが良いと思うな。
 開けた瞬間に広がる視界いっぱいに夕日が飛び込んでくるのが素敵よ」
「へ〜。姫屋のそばの橋を抜けた三叉路を右ですね、ありがとうございます」
「あ、でもこの時期はもう夕暮れになると寒くなるから、気をつけて」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」

そして晃は一礼して階段を駆け上がり、それを追うようにアンジェロが
ゆっくりと階段の上がって自室へと戻っていった。
そんな景色は、いつの間にか姫屋の日常になっていた。
クリオにとって、そんな光景をニコニコしながら眺めるのが日常となっていた。

「クリオ、手が止まってる」
「すいません」

おっと、怒られるここまでが正式に私の日常だ。最後のはちょっと困ったもんだと思うけれど。
などとクリオは思って苦笑いを浮かべた。

「またぼーっとして。うちはそんなに暇なの、今?」
「いえ、そんなことはないんですけど、まあだんだん寒くなってきてますから少しずつお客さんは
 減ってきてるかもしれないですね」
「でも0じゃないんでしょ。ちゃんと仕事する」
「いや、なんだか平和な日常だなあと思って」
「はあ? あんたどうかした?」
「私はどうもしないんですけど、しいて言うなら晃が」
「晃がどうかしたの?」
「晃、変わったなあって思って」
「そう? いつもどおりじゃない」

いつもどおり、か。そう言われれば、晃は今までもそして今日もいつもどおり忙しく動き回ってる。
確かにいつもどおりだ。そこに周りの人々、という新たな要素が加わったけれど。

「そうですね、ええ、そうですね」
「ねえ、あなた本当に大丈夫?」
「大丈夫ですよ、本当に。ちゃんと仕事はできますって」

まだジェンナは納得いかない表情だったが、クリオは妙に納得いった気分でいた。
今では以前のように誰彼構わず部屋へ押しかけるということを止めていた晃だったが、
プリマへの突貫練習志願は相変わらず。中でも美砂は練習から帰ってきても自室までの道すがら、
ずっとその日の練習中に問題となったところを厳しく指摘し、それを真摯に受け答えする晃の姿が良く見受けられた。
そのまま二人は夜になるまでずっと話し込んでいるようだった。
傍若無人だった晃もずいぶん大人になったものだと、クリオは昔を懐かしみながら思っていた。
それほど昔のことでもないのにずいぶん昔のことに思えるのは、それだけ晃と顔を合わせてきたからだろうか。
一人で反復練習、暇を見てのアンジェロとの散歩、日々社内で水路情報交換。
何をとっても晃は他のシングル仲間に負ける要素はない。
けれど唯一つ、彼女の練習風景を見ていないのでクリオには何も言えないものがあった。
表情だ。
気になっているのだが、美砂との会話を聞いている限りではそれこそ毎回のように厳しく指摘されていたので、
少々芳しくない様子。あの性格だからこればかりは仕方ないのかもしれないなあ、などとぼんやり思ってはいたが、
お客を一人で取るようになるまでにもう余り時間はないだろう、とふと思ったりすると、早くそれが上手くいくようにと
クリオには願うしか出来なかった。
そんなクリオだったが、ある日の食堂で同期や先輩と一緒に談笑している晃の姿を見かけた。

「へえ……」

ずいぶんと見ない間に良い表情をするようになったなあとクリオは感心した。
よく見れば昔はエイミリアについていた新人ちゃんたちの姿もそこにある。
他のみなもそれなりに変わったらしい。良い方向へ進んでいるんだ。クリオは嬉しくなった。
全てはあの美砂の信じられない行動から始まったのだろうか。そんなことを思った。
最初にその話を聞いたときには本当に驚いた。ボーっとしてるわけではないがどちらかといえば温和な美砂が、
まさかそんな行動に出るとは。しかし、誰よりも周囲の人間のことに気を配る美砂のことを思えば、
あの時流れていた新人の中の不穏な空気が気になっていたに違いない。
また、晃に対するシングルの対応も感じ取っていたのだろう。
そういう意味では、社内の空気を一発で美砂は変えたのだ。さすがは当代随一のウンディーネである。
それからクリオの思惑通り、アンジェロは晃にとって大きな存在となった。
晃には周りを見ることが決定的に欠如していたのだ。
常に一人でいたし、自分も何でもひとりで解決できると思っていたのだろう。
それを解消したのはアンジェロだった。
ところがその逆に、傍若無人な晃の相手をすることで、アンジェロもおどおどしたところが減っていった。
これはクリオも思ってもいなかったことだった。
そしてその変化をいち早く察知したのは、アンジェロをよく世話していたプリマのロベッシャータだった。
ロベッシャータに後で訊いたら、アンジェロについて気弱さその一点だけが特に気がかりになっていたという。
まさか晃が解消することになるなんてね、人間のつながりって本当に面白いもんだね。
そう笑ってロベッシャータは話してくれた。本当にそうだね、とクリオも心から同意した。
姫屋は大所帯である。そこには様々な人間模様が描かれる。喧嘩だってある。涙だってある。
けれど、笑顔も沢山ある。
決していつも順風満帆でことが運ぶわけじゃない。けれど皆昇格するに連れて、日々を送るに連れ
姫屋の看板を背負うことを意識するに連れて、その伝統と格式を背負うにふさわしい人間へ成長していく。
それは姫屋という大所帯の中で様々な人間ともまれることによって磨かれ、少しずつ客と相対することに
よって確立されていく。それは晃のように傍若無人だった人間でも、エイミリアのように身分を鼻にかけていた
人間も変わりはない。それは素敵な化学反応だと、クリオは思う。
勿論、そんな日々生長していく彼女たちと相対することで、私も日々様々な経験を積んでいけるのだ。

 
【il quinto:ricorrenza】

姫屋に戻ってきた晃が部屋の窓からつまらなそうに外を見ている少女に気づいたのは、
仕事が終わって姫屋の玄関をくぐる前に背伸びをしたときだった。少女の手にはヒメ社長が抱かれていた。
その見たのことない顔に晃は、そういえば仕事が忙しくてここのところ落ち着いて社内を見たことがなかったな、
と改めて思いなおした。
早速中に入るとカウンタに頬杖をついて晃はクリオに尋ねた。

「クリオ、2階の真ん中くらいの部屋に見かけない女の子がいたんだけど、誰? 三つ編みの女の子だったな」
「2階の真ん中の部屋の三つ編みの女の子?」

クリオは思案げな表情をしたが、すぐに気づいてパッと表情を明るくした。

「藍華ちゃんね。そういえばあなたここしばらくここにあまりいなかったもんね」
「藍華? 新人か? でもそれならまだ新人採用の時期じゃないだろう?」
「あの子は特別なのよ」
「なんだよ、いつからここはそんな贔屓するような会社になったんだよ」
「違うのよ。あの子、ここの跡取り娘さんなのよ」

一瞬晃はきょとんとした表情になった。

「そりゃまたずいぶんなお嬢様だな。ここでの立場で言えばエイミリアより上か」
「今から社に慣らしておきたいって上からのお達しでこないだからここにいるんだけど、
 立場上みんななかなか気軽に話せないのよね」
「なるほど」
「まあ何を話したら良いのかわかんないって言うのもあるんだけど、あの子もちょっと気難しいところがあるみたいで。
 返答がみんなつっけんどんなのよ」

それを聞いて晃は見るからにいやそうな表情になった。これだからお嬢様ってのは困るんだよなあ、と呟く。

「あら、タチの悪さはあなたのほうが勝ってると思うわよ」
「どういたしまして」

クリオの一言に晃もさらっと言い返したが、その口元は明らかに引きつっていた。

「でもそれならお嬢同士エイミリアに任せりゃ良いんじゃないのか?」
「私より晃のほうが適任だって言ってたわよ」
「ちっ、相変わらず嫌なやつだ」

とはいうもののその顔は苦笑いを浮かべていた。今や二人はお互い認め合うプリマだ。

「それなら一度会ってみるか」
「ふふ、あんまりいじめちゃ駄目よ」

片手を挙げてわかってると言って、晃は藍華の元へと向かっていった。
本当かしら。 けれど美砂と同じように、誰彼差別することなく相手をする晃のことだ。
クリオは事の顛末がどうなるか、密かに楽しみになった。

(fin.)

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