年代 | 前27〜395 |
建国者 | アウグストゥス |
領域 | イタリア・西欧・東欧・トルコ・シリア・パレスティナ・エジプト・北アフリカ・アルメニア・イラク |
首都 | ローマ・ニコメディア・コンスタンティノポリス・ミラノ |
主要都市 | アレクサンドリア・ビザンティウム・アンティオキア・エフェソス |
民族 | ラテン人・ギリシア人・ケルト人・ゲルマン人・ベルベル人・フェニキア人・パレスティナ人・ユダヤ人他 |
周辺民族 | パルティア・ゲルマン人・ケルト人・アラン族・ヌビア人・アラブ人他 |
言語 | ラテン語・ギリシア語 |
文字 | ラテン文字・ギリシア文字 |
宗教 | ギリシア・ローマ神信仰・皇帝崇拝・イシス崇拝・ミトラ教・キリスト教・ユダヤ教 |
貨幣 | 金貨・銀貨・銅貨 1アウレウス金貨=25デナリウス銀貨=100セステルティウス銅貨 |
産物 | 金・銀・銅・オリーブ油・葡萄酒・大理石・ガラス工芸 |
滅亡 | 395年に東西に分裂 西:476年にオドアケルにより滅亡 東:1453年にオスマン・トルコにより滅亡 |
伝説では、英雄アエネアスの血を引くアルバ・ロンガの王子ロムルス・レムスの兄弟が 前753年にローマ市を建設。ロムルスが初代王となった。前509年に市民の蜂起によ り国王タルクィニウスが追放され、共和政へと移行した。 共和政ローマでは、元老院により選ばれた執政官(コンスル)が政権を担当した。貴族 (パトリキ)と平民(プレブス)の抗争を経て都市国家として成熟し、前272年にイタ リア半島を統一。重装歩兵を主力とする強力な軍団を率い、カルタゴとの三度に渡るポエ ニ戦争に勝利し、アンティゴノス朝マケドニア・セレウコス朝シリアを滅ぼしてヨーロッ パ・アジア・アフリカに及ぶ巨大な版図を築いた。征服地には属州が置かれ、属州からは 豊富な物資や労働力である奴隷が供給された。 前2世紀末〜前1世紀にかけて、ユグルタ戦争・同盟市戦争・ミトリダテス戦争などの 反乱が勃発、ローマ市民内でもマリウス(平民派)とスッラ(閥族派)の抗争が発生した。 その混乱の中で、ポンペイウス・クラッスス・カエサルらの有力政治家が台頭し、第一次 三頭政治を行った。クラッススがパルティアとの戦いで戦死すると、カエサルはポンペイ ウスを倒して実権を握り、独裁官に就任した。 前44年、カエサルの独裁を憎む共和派のカッシウス・ブルートゥスらはカエサルを暗 殺した。カッシウスらはカエサルの養子オクタウィアヌス、武将のアントニウスにより倒 され、オクタウィアヌス・アントニウス・レピドゥスにより第二次三頭政治が行われた。 アントニウスは東方属州を支配し、パルティアに攻勢を掛けたが、エジプトでプトレマ イオス朝の女王クレオパトラ7世との恋に溺れ、ローマ市民の反感を買った。アントニウ スと決別したオクタウィアヌスは、前31年にアクティウムの海戦でアントニウスを破り 、翌年プトレマイオス朝を滅ぼしてエジプトを併合した。 前27年、オクタウィアヌスは国家の要職を独占し、アウグストゥスの尊号を受け、帝 政を開始した。ローマ帝国の成立である。アウグストゥスの死後、ローマは属州からの莫 大な収入により繁栄を続けたが、三代皇帝カリグラ、五代皇帝ネロの暴政により国政は混 乱し、68年のネロの暗殺によりクラウディウス朝は断絶した。 ネロ暗殺後の混乱の中、軍人のウェスパシアヌスが元老院の承認を受けて帝位を獲得、 フラウィウス朝を開いた。ウェスパシアヌスの子ドミティアヌスは専制政治を行い、反対 派を粛清した為に恨みを買い暗殺され、フラウィウス朝は三代で断絶した。 後を継いだネルウァは混乱を収拾し、以後ローマは五賢帝時代と呼ばれる百年に及ぶ繁 栄期を迎えた。ネルウァの後を継いだトラヤヌス帝はパルティアに遠征、その首都クテシ フォンを占領するなど、帝国の最大版図を築いた。五賢帝最後のマルクス・アウレリウス ・アントニヌスは漢に使者を送った。 マルクス・アウレリウスの死後、子のコンモドゥスが後を継いだが、暴政を行った為に 暗殺され、ローマは再び混乱状態に陥った。193年、軍人セプティミウス・セウェルス が軍団兵の支持を受けて帝位に登り、セウェルス朝を開いた。 セウェルスの死後、カラカラとゲタの兄弟が後を継いだが、カラカラはゲタを殺害して 権力を独占した。212年、カラカラは帝国内の全自由民にローマ市民権を付与したが、 属州民税が無くなり、市民権を得る為に兵士となる者がいなくなり、国家の弱体化を招い た。カラカラはパルティア遠征の途上で暗殺され、235年にアレクサンデル・セウェル スが反乱で殺されると、セウェルス朝は断絶した。これ以後、ローマは激しい権力闘争で 帝位が目まぐるしく移り変わる五十年に及ぶ軍人皇帝時代に突入した。 ローマ皇帝は五賢帝時代を除いて、安定した長期政権を築いた者は少なく、帝位を狙っ た反乱や暗殺が相継いだ。また、暴政や度を越した浪費や常軌を逸した行為を行う皇帝が しばしば見られ、皇帝は尊崇の対象とはなり難く、実力者が取って代わる風潮が生まれた。 ローマ帝国は西方はブリタニアまで征服したが、東方への進出はパルティアが絶えず障 壁となった。前1世紀頃から、シルクロードを通って漢の絹が伝わり、富裕層を中心に金 と同等の価値を持つ程に珍重された。パルティアが漢との通交を遮った為、エジプトから 紅海・インド洋経由でクシャン朝や南インドの国々と貿易を行って東方の産物を手に入れ た。166年には皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(大秦王安敦)の使者が直 接南海経由で漢に至った。ローマ商人が東方に積極的に進出していたことは、ヴェトナム 南部のオケオ遺跡から、アントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウスのコインが出土 していることや、『梁書』諸夷伝に三国呉の時代に大秦の商人秦論が交趾(ヴェトナム北 部)に至ったと記されていることからも分かる。しかし、3世紀に入りササン朝との戦争 の為に金を輸出できなくなると、南海貿易は次第に衰退した。 ローマの文化は学問・芸術・建築・生活様式において、当時の世界最先端に位置してい た。学問分野ではストラボン『地理誌』、プリニウス『博物誌』などの傑出した著作が生 まれ、芸術分野ではヘレニズム美術を受け継ぎ、彫刻・フレスコ画などが発達し、建築分 野ではパンテオン・コロッセウム・凱旋門などの壮大で華麗な大建築が多く作られ、生活 分野では上下水道の整備、浴場・公共体育館・公共図書館の建設などによりローマ市民は 快適で文明的な生活を送ることができた。