年代 | 前317頃〜前180頃 |
建国者 | チャンドラグプタ・マウリヤ |
領域 | 北インド・中インド・南インド・パキスタン・アフガニスタン |
首都 | パータリプトラ |
主要都市 | タクシャシラー・ウッジャイニー・スヴァルナギリ・トーサリー・マトゥラー・サーガラ |
民族 | アーリア人・ドラヴィダ人・ヤヴァナ人(ギリシア人)・カンボージャ人(ペルシア人) |
周辺民族 | セレウコス朝・バクトリア・インド・グリーク朝・サータヴァーハナ朝・シンハラ王国 |
言語 | サンスクリット語・プラークリット語・ギリシア語・アラム語 |
文字 | ブラーフミー文字・カロシュティ文字・ギリシア文字・アラム文字 |
宗教 | 仏教・バラモン教・ジャイナ教・アージーヴィカ教 |
貨幣 | 1パナ(銀貨)=16マーシャカ(銅貨)=64カーカニー(銅貨) |
産物 | 象牙・宝石・香辛料 |
滅亡 | 前180年頃、シュンガ朝のプシュヤミトラにより滅亡 |
前4世紀〜前2世紀にインドを支配した王朝。前320年頃、下層出身とされるチャンド ラグプタは北インドを支配するマガダ国のナンダ朝に対して兵を挙げた。チャンドラグプタ は軍師カウティリヤの献策により諸勢力を味方につけ、パータリプトラを占領してナンダ朝 を滅ぼし、マウリヤ朝を開いた。マウリヤの名は王家のトーテム孔雀(マユーラ)に由来す るとも、チャンドラグプタの出身部族の名に由来するとも言われる。 チャンドラグプタは当時西北インドを支配していたアレクサンドロス大王の残した武将た ちを撃ち破り、西北インドを手中に収めた。その後、東方属州の大半を勢力に収めたセレウ コス朝のセレウコス1世と戦って勝利し、アフガニスタンにまで及ぶ広い領土を獲得した。 チャンドラグプタは戦象を贈ってセレウコス1世と和平を結び、セレウコスは娘を王妃とし てチャンドラグプタに与えた。 その後、チャンドラグプタは中インドに進出して領土を広げたが、王位を子のビンドゥサ ーラに譲り、ジャイナ教の師バドラバーフに従って出家し、断食の末死んだという。 ビンドゥサーラは南インドに進出して更に勢力を広げた。後継者選びに際し、ビンドゥサ ーラは長子のスシーマに後を継がせたいと望んでいたが、大臣たちは弟のアショーカを後継 者に推していた。ビンドゥサーラはアショーカに兵を率いずにタクシャシラーの反乱鎮圧に 向かわせ、アショーカを亡き者にしようとしたとされる。 ビンドゥサーラの死後、アショーカは兄スシーマを倒して王位を獲得した。アショーカは 南インドを征服し、南端を除く全インドを版図に収めた。アショーカは東南のカリンガ国征 服の際に多くの人民を殺したことを憂い、仏教に傾倒するようになった。諸国の仏蹟を巡礼 し、各地に多くの仏舎利を奉納する仏塔(ストゥーパ)を建てた。また、第三回仏典結集を 行い、諸外国に仏教伝道の為の使者を派遣した。アショーカの王子マヒンダはスリランカに 渡って伝道を行った。 アショーカのダルマ(法)の理念に基づく命令や政治方針は磨崖碑・石柱の形で刻され現 在も残っている。アフガニスタンのカンダハルで発見された石柱には、ギリシア系住民とペ ルシア系住民の為にギリシア語とアラム語で法勅が記されている。 晩年、アショーカは過度の布施により国庫を消耗させた為に幽閉され、権力を失って死ん だという。アショーカの死後、王子クナーラあるいは王孫サンパディが王位を継いだとされ るが、王統は諸文献により異なり、諸王が分立する状態に至ったことが窺われる。中インド では、サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)が独立した。 前180年頃に最後の王ブリハドラタが将軍プシュヤミトラに暗殺され、マウリヤ朝は1 50年足らずで滅亡した。プシュヤミトラはバラモン教を信仰しており、シュンガ朝を建国 すると、仏教徒を迫害した。マウリヤ朝の滅亡後、インドは再び多くの地方王国が分立する 状態となった。 マウリヤ朝は長きに渡り分裂状態にあったインドを初めて統一した王朝であり、王権も強 大で官僚機構も整備されていた。チャンドラグプタの宰相カウティリヤの著したとされる『 実利論』には様々な種類の官僚・官吏がその職務と共に記述されている。征服した土地は属 州とされ、主に王子が副王として統治した。 マウリヤ朝の興ったマガダ国はヴァルナ制度が緩く、ナンダ朝の時代にはシュードラ出身 者が王となり、クシャトリアを迫害した。マウリヤ朝もヴァルナ制度には厳格でなく、ヴァ ルナ制度を否定するジャイナ教・仏教・アージーヴィカ教などに保護を与えた。アショーカ の時代に仏教は最大の保護を受け、各地に仏塔が建てられ、教団への巨額の布施が行われた。 その後の仏教の隆盛にはこのアショーカの保護と伝道政策が大きく影響している。 北インド・西北インドを統一したチャンドラグプタは東西を結ぶ王道を敷設して駅亭を置 いた。アショーカはその一定区間ごとに休憩所と給水所を設けるなどの交通・通商網の整備 を行った。 マウリヤ朝は西方のギリシア人世界と積極的に交流し、セレウコス朝からはメガステネス ・デイマコス、プトレマイオス朝からはディオニュシオスが使者として派遣され、ビンドゥ サーラはセレウコス朝のアンティオコス1世の下に葡萄酒と干しイチジクと哲学者を求める 使者を遣わし、アショーカはアンティゴノス朝マケドニア・エペイロス王国・セレウコス朝 ・プトレマイオス朝・キュレネ王国に仏教伝道の使者を派遣した。 貿易面では、象・象牙・真珠・宝石などが輸出され、西方世界の珍奇な品が輸入された。 貨幣経済も発達し、パナと呼ばれる単位で役人の俸給も支払われていた。 文化的には諸宗教の経典・注釈書の編纂が行われ、首都パータリプトラやタクシャシラー は学問の中心地であった。仏塔や寺院の装飾などに見られる仏教美術が花開いたのもマウリ ヤ朝の時代のことである。西北のタクシャシラーではヘレニズムの影響を受けた美術品が多 く作られた。 軍事面では専らインドの統一に力が注がれ、西北方面のギリシア人世界とは友好関係が守 られていたが、前205年頃にセレウコス朝のアンティオコス3世がカーブル地方に侵入し 、ソファガセーナと呼ばれる現地の王に巨額の金銭と戦象を貢納させた。その後もギリシア 人の侵入は続き、前190年頃からはバクトリアのデメトリオス1世がヒンドゥークシュ山 脈を越えて侵攻を開始した。マウリヤ朝を滅ぼしたプシュヤミトラは対ギリシア人の戦争で 活躍したとされる。 マウリヤ朝を含むインド王朝は史書をほとんど残さず、年代は仏教経典・ジャイナ教文献 ・プラーナ文献や伝承・碑文などにより復元しなければならないが、諸文献及び伝承は互い に食い違いがあることが多く、正確な復元は困難である。