漢帝国

Han Empire



高祖劉邦        武帝劉徹        光武帝劉秀


漢王朝系図

歴代漢皇帝

年代 前206~後220
建国者 前漢:高祖劉邦 後漢:世祖光武帝劉秀
領域 中国・ヴェトナム・韓国・朝鮮
首都 長安・洛陽・許昌
主要都市 呉・薊・宛・江陵・成都・番禺・敦煌
民族 漢人・蛮族・羌族・西南夷・越族・西域人他
周辺民族 匈奴・鮮卑・烏桓・西域諸国・高句麗・三韓・扶余・倭・林邑
言語 漢語
文字 漢字
宗教 儒教・老荘・神仙信仰・仏教
貨幣 銅銭(五銖銭)
産物 絹・織物・紙・金・銀・鉄・鏡
滅亡 前漢:後8年に王莽により滅亡 後漢:220年に曹丕に禅譲して滅亡


		 前206年に劉邦が建国した王朝。前256年、西方の大国秦の昭襄王は東周を滅ぼし
		て八百年以上も続いた周王朝の命脈を絶った。昭襄王の孫の秦王政(始皇帝)は強大な軍
		事力を背景に当時中国に割拠していた斉・楚・燕・韓・魏・趙の六国を次々と攻め滅ぼし
		、前221年に中国を統一した。政は皇帝を名乗り、数々の改革を行い、封建諸侯を廃し
		て郡県制を布き、度量衡・文字を統一した。一方、厳格な法治主義を適用し、批判を封じ
		る為に儒者を穴埋めにして経書を焼き払わせるなどの政策を行った。こうした厳しい統治
		は民衆の反発を招き、始皇帝の死後に陳勝・呉広の反乱が起こった。南方の楚では、将軍
		の血を引く項梁と項羽が挙兵した。沛の亭長であった劉邦も反乱に参加した。
		 劉邦は項梁の担ぎ出した楚の義帝の命で、秦の都咸陽のある関中に攻め込み、秦王子嬰
		を降伏させた。義帝は先に関中を征服した者をその王とすると約束していたが、北方での
		戦闘で活躍した項羽が自ら論功を行い、劉邦は遠く離れた漢中の王とされた。
		 劉邦は韓信の計を用いて関中を奇襲して奪取した。項羽は劉邦を攻撃したが、劉邦は黥
		布や彭越らの諸侯を味方に付けて項羽に対抗した。五年に及ぶ抗争の後、劉邦は項羽を滅
		ぼして中国を統一、皇帝の位に登り、長安に都を定めた。劉邦は秦の郡県制と封建制を合
		わせた郡国制を布き、秦の苛法を除いて国家の安定を図った。
		 二代恵帝の死後、高祖の后である呂后の一族が権力を握ったが、呂氏は呂后の死後に重
		臣の陳平・周勃らにより滅ぼされた。陳平らに迎えられて後を継いだ文帝は倹約に努めて
		国力の充実を図った。文帝の子景帝の時代、力を蓄えた諸侯王が反乱(呉楚七国の乱)を
		起こし、乱の平定後には諸侯王の力は大きく削減された。
		 七代武帝の時代、漢の国力は大いに増し、北方の遊牧民匈奴を撃つ計画が立てられた。
		武帝は匈奴に敗れて西方に移動した大月氏と同盟を結ぶ為に張騫を派遣した。張騫は途中
		匈奴の捕虜となりながらも大月氏の下にたどり着き、同盟こそ果たせなかったが、西域の
		詳細な情報を伝えた。武帝はその情報を基に、大月氏や安息(パルティア)に使者を送っ
		た。
		 武帝は北は匈奴を破り、東は朝鮮を滅ぼし、南は南越を滅ぼし、西南夷を服従させ、西
		は西域諸国を服属させ、国威を大いに高めたが、度重なる戦争により国費は著しく消耗し
		た。その為に各種の税が設けられ、塩鉄の専売、均輸法・平準法の制定などの増収・抑商
		政策が行われた。
		 漢は西域との通交を深め、九代宣帝の時代には西域都護が置かれ、タリム盆地の諸国は
		その支配下に入った。前1世紀末の十二代哀帝の時代には、大月氏国から初めて仏教が伝
		えられた。
		 後8年、外戚の王莽が傀儡皇帝の孺子嬰から帝位を奪い新を建国した。西域諸国はこれ
		に背き、新の西域都護を殺した。新は後23年に反乱により滅んだ。
		 後25年、漢王室の血を引く劉秀が後漢王朝を建国、都を洛陽に定めた。二代明帝は西
		域に使者を遣わし、大月氏から摂摩騰・竺法蘭の二僧が中国に招かれた。摂摩騰らは洛陽
		に白馬寺を建てて訳経を行った。
		 四代和帝の時代に西域都護となった班超は、西域諸国を服属させ、部下の甘英を大秦国
		(ローマ)に派遣した。甘英は安息の西界に至り引き返したが、大秦国を含む西方の最新
		情報を得て帰還した。
		 六代安帝の時代、漢は西域都護を廃して西域経営の規模を縮小したが、その後も商人や
		仏教を伝える僧は次々に漢を訪れ、中には漢に帰化して侯の位を授かる者もいた。十一代
		桓帝の時代に洛陽に至った僧安世高は安息の太子であったとされる。
		 また、南方からは天竺国(インド)の使者が来献し、桓帝の時代には大秦から国王安敦
		(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が至った。十二代霊帝は西域の服装・
		食事・音楽・舞などを好み、洛陽の貴族たちは競ってその真似をしたという。
		 霊帝の時代、宦官の一族が各地で収奪を行い、農民の不満が爆発し、太平道の張角に率
		いられた黄巾の乱へと発展した。霊帝死後の混乱により軍閥の董卓が台頭、少帝を廃して
		献帝を立てた。これに反対した諸侯は同盟を結んで反董卓の兵を挙げたが、董卓は洛陽を
		焼き払って長安に遷都してその勢いを挫いた。
		 董卓が暗殺されると、各地で州牧・太守などの地方官が軍閥化し、その中で長安を脱し
		た献帝を迎えた曹操が台頭し、次々と敵対勢力を倒して華北を統一した。
		 一方、江南では孫権が一大勢力を築き、漢王室の血を引く劉備と同盟を結んで曹操に対
		抗した。208年、孫権・劉備連合軍は赤壁で曹操を破った。その後、劉備は西方の益州
		を征服、曹操・孫権・劉備の三者が鼎立する状態となった。
		 220年、曹操が死ぬと、子の曹丕は傀儡状態の献帝から帝位を奪い魏を建国、四百年
		以上続いた漢王朝はここに断絶した。これに対し、劉備は蜀漢、孫権は呉を建国、中国は
		三国時代へと移行した。この後、西晋による三十年足らずの統一時代を除いて、中国は長
		きに渡る分裂時代を迎えた。
		 漢は儒教に基づいて農業を基本とする抑商政策を採った為、西域との通商にはそれ程熱
		心ではなかった。しかし、西域からの文物は漢人の生活に大きな影響を与えた。葡萄・砂
		糖・葱・蓮・胡瓜・茄子・紅花・胡桃・人参・琵琶・石榴・林檎などは皆西域から伝わっ
		たものである。この他にローマで作られたガラス工芸品も琉璃の名で珍重された。また、
		仏教は魏晋の時代に広く信奉され、多くの寺院が建設された。
		 漢からは絹が主な輸出品で、ローマではセレスと呼ばれ、金と同等の扱いを受ける程珍
		重された。この他にローマでは漢の鉄も最良の品質を持つとして高く評価された。また、
		各地の出土物にはしばしば漢鏡が見られることから、鏡も輸出品であったようである。
		 中国は学問・文化の発達は早く、春秋時代に孔子により大成された儒教は漢の国教とな
		った。また、老子・荘子を祖とする道家思想は神仙を尊ぶ神秘主義と結びついて道教に発
		展した。
		 ローマ・パルティア・クシャン朝はヘレニズムの影響を強く受けたのに対し、中国はそ
		の影響が最も薄く、絵画・書道・音楽・工芸において独自の発展を遂げ、東アジア諸国に
		大きな影響を与えた。