南匈奴伝



(※前書はそのまま匈奴伝といい、南北を言わない。今、南と称すのは、
明らかに北匈奴の為に生じた呼び方である。南単于は王化に向かう事最も
深く、故にその順なる者を挙げてこれに冠したのである。東観記は匈奴
南単于列伝と称し、范曄はその単于の二字を除いたのである。)
南匈奴[酉兮皿]落尸逐[革是](けいらくしちくだい)単于の比は呼韓邪
単于の孫、烏珠留若[革是]単于の子である。(※前書に曰く。単于は広大
な様をいい、天の単于然たるに象る。 呼韓邪は冒頓単于の八代の孫、
虚閭権渠単于の子である。名を稽侯[けものへん册](けいこうさん)
という。東観記に曰く。単于の比は匈奴の頭曼の十八代の孫である。 臣賢
が考えるに、頭曼は冒頓単于の父であり、頭曼単于から比に至るまで、父子
が相伝える事十代、単于の位を相伝える事十八代である。(李慈銘は「単于
の位を」の後に兄弟の二字が入るとする。)匈奴は孝を若[革是]と記す。
呼韓邪単于より後、漢と親密になり、漢帝の謚は常に孝とするのを見て
これを慕ったのである。その子の復珠累単于以下は皆、若[革是]と称し、
南単于比以下はただ[革是]と称した。)
呼韓邪より後、諸子は順番に立ち、比の季父の孝単于の輿の時に至り、比
を右<十十奥>[革建]日逐(おうけんじっちく)王とし、南辺及び烏桓を
統治させた。(汲本・殿本には孝単于の孝の字は無い。)
建武の初、彭寵が漁陽に反乱を起こし、単于とともに兵を連ねると、
(朝廷は)また仮に盧芳を立て、五原に入居させた。(※東観記に曰く。
盧芳は安定の人である。属国の胡数千人が反乱を起こし、参蛮に在った
際、盧芳はこれに従い、姓を劉氏と偽り、西平王を自称した。匈奴の句林
王が兵を率いて参蛮胡に来降すると、盧芳はそれに随って匈奴に入り、
数年間留まった。単于は中国が未だ平定されない事から、これを輔立
しようとし、毋楼且王を遣わして五原に入る事を求めた。盧芳は仮号将軍
の李興らと結謀し、李興は北の単于の居地に盧芳を迎えた。盧芳は外は
匈奴を頼みとし、内は李興らの力を借り、故によく広く辺郡を攻略する事
ができた。)
光武帝の初、まさに諸夏(中国国内)を平定しており、まだ国外の事に
手が回らなかった。
六年(30)に至り、初めて帰徳侯の劉颯(りゅうそう)を匈奴に使い
させ、匈奴もまた使者を遣わして来献し、漢はまた中郎将の韓統に命を
伝えさせ、金幣(金貨)を贈り、旧好を通じた。(※旧好は宣帝・元帝の
代に匈奴が中国と和親した事をいう。)
しかし、単于は驕り高ぶって自らを冒頓に比し、使者への受け答えの言葉
も道に外れ高慢であった。(※冒頓は匈奴単于の頭曼の子で、夏后氏の苗裔
に当たり、その先祖を淳維という。淳維より頭曼に至るまで千余年である。
冒頓は始皇帝の時に当たり、鏑矢で頭曼を弑殺してこれに代わり、控絃
(弓兵)三十余万を擁し、強盛となり諸夏と敵対し、驕慢無礼な態度を
取り、高祖を苦しめ、呂后をからかい侮辱した。この事は前書に詳しい。
前書に曰く。更始二年(24)の冬、中郎将の帰徳侯の劉颯・大司馬護軍
の陳遵を匈奴に使いさせ、単于に漢の旧制の璽綬を授けた。単于の輿は
驕り高ぶり、陳遵・劉颯に「匈奴は元々漢と兄弟であった。匈奴国内が
乱れた際、孝宣帝が呼韓邪単于を輔立した。故に臣と称して漢を尊んだ
のである。今、漢はまた大いに乱れ、王莽の為に位を奪われ、匈奴もまた
出て王莽を撃ち、その辺境を一掃した。今、天下は騒ぎ乱れて漢を思い、
王莽は遂に敗れて漢はまた興った。これはまた我が力による物であり、
まさに今度は我を尊ぶべきである。」と言った。陳遵と劉颯はともに
止めさせようとしたが、単于は遂にこの考えを変えなかった。 言葉が
道に外れ高慢であったというのは、こういった類である。)
帝はこれを遇する事初めと同様であった。