初め、使者は常に通じていたが、匈奴は度々盧芳とともに北辺を侵した。 九年(33)、大司馬の呉漢らを遣わしてこれを撃たせたが、一年経って も戦果は無く、匈奴はさらに盛んになり、略奪は日に日に増した。 十三年(37)、遂に河東に侵入したが、州郡は禁じる事ができなかった。 ここにおいて、しばらく幽・并の辺境の人間を常山関・居庸関以東に移し、 匈奴左部は遂にまた国境内に移り住んだ。(※前書によると、代郡に常山 関、上谷郡の居庸県に関があった。) 朝廷はこれを憂い、辺境の兵を郡毎に数千人増やし、大いに亭候(物見櫓) を築き、烽火を整えた。 匈奴は漢が盧芳を賞金を懸けて求めていると聞き、欲を出して財帛を得よう とし、盧芳を帰して投降させ、その賞を得る事を望んだ。 しかし、盧芳は自ら帰順した事を功とし、匈奴が遣わしたと言わず、単于 もまたその計を告げる事を恥じ、故に賞は遂に行われなかった。 これにより大いに恨み、入寇は最も激しくなった。 二十年(44)、遂に寇略は上党・扶風・天水に至った。 二十一年(45)の冬、また上谷・中山に侵入し、殺人・略奪は非常に 多く、北辺は安寧な年が無かった。 初め、単于の弟の右谷蠡王(うろくれいおう)の伊屠知牙師(いとちがし) は順番からまさに左賢王となるべきであった。左賢王とは単于の儲副 (世継ぎ)である。 単于はその子に位を伝えようとし、遂に知牙師を殺した。知牙師は王昭君 の子であった。王昭君は字を[女嗇](しょう)という。南郡の人である。 (※前書に曰く。南郡シ帰の人である。) 初め、元帝の時に良家の娘を選んで掖庭に入れた。時に呼韓邪が来朝して おり、帝は命令を下して宮女五人をこれに賜った。王昭君は後宮に入って 数年、御される事が無く、悲しみと恨みを募らせており、掖庭令に自分が 行く事を請うた。呼韓邪が辞去するに臨んで大いに群臣を会し、帝は五人 の女を召してこれに示した。昭君は容色優れて美しく化粧をし、漢宮を 光り輝かせ、辺りを見回して歩き回り、左右を驚嘆させた。帝はこれを 見て大いに驚き、留めようと思ったが、信を失う事はできず、遂に匈奴に 与えた。 王昭君は二子を生んだ。呼韓邪が死ぬと、その前の閼氏(えんし=后)の 子が代わって立ち、王昭君を妻に望んだ。 王昭君は上書して国に帰る事を求めたが、成帝は胡俗に従うように命じ、 遂にまた後の単于の閼氏となった。 比は知牙師が殺されたのを見て、「兄弟を以て言うなら、右谷蠡王は順番 としてまさに立つべきであった。子を以て言うならば、私は前の単于の 長子であり、私がまさに立つべきだ。」と恨み言を言い、遂に心中疑いと 懼れを懐き、(単于の)居地に顔を見せる事は希となった。 単于はこれを疑い、両骨都侯を遣わし、比の領する兵を統率させた。 二十二年(46)、単于の輿が死ぬと、子の左賢王の烏達[革是]侯が立って 単于となった。 侯がまた死ぬと、弟の左賢王の蒲奴が立って単于となった。 比は単于となる事ができず、既に怒りと恨みを懐いていた。匈奴の国内は 連年旱魃と蝗に見舞われ、赤地(木々の生えない地)が数千里に渡り、 草木は悉く枯れ、人畜は飢えて病となり、太半が死に絶えた。(※三分の 二を失う事を太半という。) 単于は漢がその隙に乗じる事を畏れ、使者を遣わして漁陽に赴かせ、和親 を求めた。 ここにおいて、(朝廷は)中郎将の李茂を遣わして命を伝えさせた。 一方、比は密かに漢人の郭衡を遣わして匈奴の地図を奉った。 二十三年(47)(比は)西河太守の下に赴いて内属を求めた。 両骨都侯はその意を具に察知し、五月の龍祠に会し、単于に報告し、 <十十奥>[革建]日遂は以前から不善を為そうとしており、もし誅さなけ れば国は乱れるであろうと言った。(※前書に曰く。匈奴の法では、年の 正月に長幼諸々の人間が単于の居地に会して祀りを行い、五月に大いに 龍城に会し、その先祖の天地の鬼神を祭り、八月に大いに[足帯]林に会し、 人畜の数を計り調べる。) 時に比の弟の漸将王は単于の天幕の近くにいてこれを聞き、駆け付けて 比に報告した。(殿本は漸将王を斬将王に作る。)比は懼れを懐き、遂に 領する南辺の八部の民四・五万人を収め、両骨都侯が帰還するのを待ち、 これ殺そうとした。 骨都侯は到着を前にその企みを知り、ともに軽騎で逃げ去り、単于に報告 した。単于は万騎を遣わしてこれを撃ったが、比の兵の盛んなのを見て、 敢えて進まずに引き返した。 二十四年(48)の春、八部の大人はともに議り、比を立てて呼韓邪単于 とした。その祖父がかつて漢を頼って安全を得た事から、故にその号を 襲おうとしたのである。 ここにおいて、比は五原の塞を訪れ、永く蕃蔽となり、北虜を防ぐ事を 願った。帝は五官中郎将の耿国を用いて議り、その後にこれを許した。 その冬、比は自立して呼韓邪単于を名乗った。(※東観記に曰く。十二 月癸丑に匈奴は初めて分かれて南北の単于となった。)