岩崎 啓眞のPC今昔物語

実は、僕がPCエンジンについて色々語ろうと思ったんですが、何しろ僕がPCエンジンを買ったのは93年と遅く、最盛期も終わろうかという頃だったのでPCエンジンの歴史の生き証人である(笑)岩崎啓眞さんが雑誌に書かれたコラムを通じ、PCエンジンの偉大さを実感して貰うことにしました。

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岩崎啓眞<いわさき ひろまさ>パソコン時代からゲーム業界に携わるプロデューサー。代表作にPC−88版「エメラルドドラゴン」など。PCエンジンには黎明期より大きく関わり、代表作に「天外魔境U 卍MARU」「エメラルドドラゴン」「リンダキューブ」などがある。

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初の多人数プレイオプション!

 PCエンジンが初めて作り出した・今のゲームマシンで極当たり前にあるものの1つか“マルチタップ”。
これもPCエンジンが世に誇れることの1つなのだ。PCエンジンの登場当時はファミコンの全盛時代で、固定された2つのパッド(注1)が付いていたこともあったし、当時はアーケードの移植か、RPGのように1人で遊べる物が中心だったこともあって、それ以上の人数でプレイするゲームはほとんどなかったのだ。
 とはいっても、PCエンジンの初期には、このマルチタップがサポートされているソフトが、ボードゲーム系の「桃太郎電鉄」や「遊遊人生」と、あと一人で゜プレイした方がゲームとしては楽だった「ダンジョンエクスプローラー」等だったので、すばらしく普及しているとは言い難い物だった。
 当時、実は例外的に面白かった「モトローダー」と云うゲームもあったのだが、これもイマイチマイナーで、やっぱりマルチタップはあまりメジャーな物とは言い難かったのが事実だったのだ。
 と、まあイマイチ人気のなかった…というより、5人もプレイできる意味がなかったマルチタップなんだけど、これが爆発的に普及したのが「ボンバーマン」。マルチタップを使った、リアルタイムの5人の戦いによる、それまでの対戦ゲームと完全に一線を画した面白さの威力で、PCエンジンのマルチタップの売り上げを驚異的に伸ばし、まさに誰でもマルチタップを持っているのが当たり前…というところまで普及させたのだから、まったく凄い物だと思う。
 で、この「ボンバーマン」の大当たりにより、多人数でプレイする面白さが注目され、SFC、メガドライブなどでも相次いでマルチタップが発売され、「ボンバーマン」はSFCでもヒットソフトになって(注2)、シリーズ化されているのは、誰でも知っているだろう。
 でも、これも最初に「5人までプレイできる」というのをウリのひとつにして、マルチタップを作った(最初から考えておかないとハード的には結構面倒なのだ)PCエンジンだからこそ簡単に作れたんだし、その意味でまさに「先見の明があった、偉い!!」と言えるわけ。
 そして、今、多人数プレイを他のマシンで楽しんでいる人は、PCエンジンに感謝するべきだよね、なんて思ってしまうのだ。(電撃PCエンジン95年11月号掲載)
注1:ファミコンには、本体自体にパッドが二つ固定して付いていて、取り外しが出来なかった。逆にPCエンジンは、取り外しがが可能だったが、パッド端子が1つしかなかった。だから、PCエンジンでは二人以上でゲームをプレイする時、マルチタップは必須だった。ちなみに、メガドライブ以降の全てのゲーム機は、パッド端子二つの、取り外し可能型だ。
注2:ボンバーマンは、もともとパソコン用のソフト。それが、ファミコンに移植され、その後のPCエンジン版で、対戦可能となり大ヒットした。初の乗り物キャラのルーイも、PCエンジン版「ボンバーマン’94」で初登場したものだ。

時代はスーパーCDロムロムへ……

 あまりパッとしなかったPCエンジン周辺機器だけど、唯一普及したのがCDロム。でも、初代CD−ROM2は、宣伝とは裏腹に当時のメモリ事情を反映して、きわめて小さなメモリしか持っていなかった為に、慢性メモリ不足でゲームを作るのはとっても厳しかった。そんなわけで、あまりにつらいCDのプログラムだったんだけど、その救世主になったのがスーパーCD−ROM2。なんとメモリ容量が、それまでのCD−ROM2の4倍、2メガビットに拡張されると言う代物だった。
 2メガビットと云えば、当時まだ主流だったファミコンのRPGなら一発ロードではいるくらいの要領だったのだから、随分な量のメモリになったわけだね。とはいっても、今だからバラしても構わないと思うけど、当時は“4メガにするか2メガにするか”で、激論が交わされていた。プログラマーサイドとしては4メガの方がいいに決まっているけど、そうすると値段が猛烈に上がる。それだけのお金を、今までのユーザーに払わせて良いのか?と云うような激論の末に2メガに決定したわけ。
 さて、それはともかくとして4倍のメモリになりゃあ、プログラムが楽になると思われていたスーパーCD−ROM2だったが、実はそんな事は全然なかった。確かにメモリが増えたお陰で、プログラムは少しは楽になったんだけど、ゲームをするプレイヤーの要求はその何倍にも膨れ上がるわけだから、メモリが増えた分プログラムは複雑になり、扱うデータも巨大化して、作るのはもの凄く大変になった。
 その上メモリが4倍と云うことは、当然読み込み時間も普通にやると4倍になってしまう。いかにアクセスをごまかして、なおかつアクセスを出来るだけ少なくするか…というのは、常にゲームを作る人間にとって大命題になってしまった。でも、結局メモリに余裕があればあるほど良いゲームは作りやすいし、当時のロムゲームよりちょい少ないくらいの容量が、1回のロードで使えることに加えて、スーパーCD−ROM2初期のゲームの出来が良かったこともあって、あっという間にメーカーもユーザーもスーパーCD−ROM2に移行していったのだ。
 そしてスーパーCD−ROM2が登場してほんの1年ほどで、事実上PCエンジンはスーパーCD−ROM2ゲームマシンになってしまったわけだね。(電撃PCエンジン95年12月号掲載)

そしてDUOが登場した……

 発売されて以来、PCエンジンのソフトの主力となったスーパーCD−ROM2だけど、これを支える中心的なハードになったのが“DUO”シリーズだ。このシリーズは、DUO、DUO−R、DUO−RXと3代にわたって改良されてきたけれど、主な改善点は価格とパッドとか、パワーランプだとかの細かいところで、初代DUOで作られた基本的な性能とデザインコンセプトは変わらず踏襲されている。いわば息の長いハードなのだ。
 このDUOシリーズには二つの特徴がある。1つは問題点で、拡張バスが存在しないこと。これによって事実上PCエンジンのコア構想(注3)、つまり“ホームコンピューターとしての核になる”と云う考え方に終止符を打ったと言っても過言ではない、と云うと「カードスロットがあるじゃないか」って言葉が聞こえてきそうだが、背後にある拡張バスと、カードスロットではどうしても拡張性に違いがある。言い替えればDUOは「PCエンジンはゲームマシンとして行くんだ」と決めたハードでもあるのだ。
 そしてもう1つが、こちらは誇れることなんだけど、世界初の一体型のCDゲームマシンであること(僕の知っている限りだけど(注4))。実際の所、初代DUOの曲線と直線の組み合わせによるオーディオ機器をイメージさせるデザインは、現存するハードでは3DOリアルUとか、あまりメジャーではないけれど、コモドールのCDTとか、様々なハードに影響を与えている。
 そして更にいえば、このデザインは、本当に初代DUOは秀逸だと思う。当時、持ち歩くことが出来る…というデザインコンセプトで作られただけあって(殆ど買った人はいなかったと思うけれどバッテリーパックもあった)緒津と安っぽいけれどブラックの薄いA4番のサイズの中にピタリとまとめ上げられたデザインは、当時のダサい、いかにも“おもちゃ”って感じのゲームマシンデザインの中で、ずば抜けたセンスの良さを誇っていたのは間違いない。
 ただ、初代DUOは薄くするためにずいぶん設計で無理をしたらしくて、CDに関してのトラブルが多かったとも思うけれどもね。まあ、何にしてもDUOの登場によって、ゲームマシンのデザインが変わったと言っても間違いではないと思うし(実際それはDUO以降のゲームマシンを見れば明らかだ)それはPCエンジンが誇れることの一つではないだろうか?(電撃PCエンジン96年1月号掲載)
注3:コア構想とは、NECホームエレクトロニクス(以下NEC HE)が、PCエンジンを「マルチプラットホームの家庭用コンピューター端末」として、普及させようとした初期PCエンジンの戦略の柱だったもので、実際に、コア構想の基に発売された周辺機器としては、プリンターやグラフィックツールなどがあるが、どれもイマイチ世間に認知されず、この傾向はゲーム業界の宿命のようになっていて、3DO、サターンに至るまで改善していない。そう言った経緯から、ドリームキャストがどうなるかは、まさに見物と言える。
注4:当時、パソコンですら標準装備されていなかったCD−ROMを搭載させたPCエンジン、間違いなく家庭用ゲーム機としては、初めてCD−ROMを採用したゲームマシンだ。このCD−ROM搭載のPCエンジンの登場により、ゲーム業界は、大容量の時代を迎えることになる。技術の進歩が著しく激しいコンピューター業界にあって、10年後の現在でもCD−ROMメディアが全盛な事を考えると、実に先進的なマシンだったのだ。

 

ハードのパワーで長引いたPCエンジンの寿命

 今までPCエンジンのソフトやハードについて色々取り上げてきたけれど、なぜPCエンジンはハードとして比較的長く生きることが出来たのだろうか(注5)?無論CD−ROM2の成功や、要所要所でいいソフトが出た、と云ったこともあるが、その“いいところでいいソフトが出る”為には、やはりハードがそれなりの出来でなければいけない。逆に言えば、PCエンジンはソフトを作りやすく、使いやすいハードだったわけ。
 では、PCエンジンのハードの特徴と云えば“素直だったこと”簡単にいえば“変な制限がない”。今までのゲームマシンはプログラム的に「AをやるとBが出来ない」ということが極めて多く、ずいぶん苦労したが、PCエンジンではこの手の制限がほとんどなかった。またユーザーには絶対に分からないことだけど、一般的に、同じハードでも何種類かのタイプの違う物があり、タイプによって微妙に動作が違うんだけれど、PCエンジンでは、この手の種類が極めて少なく、またそれぞれのタイプで動作の違いがほとんどなかった。この2つの理由により、PCエンジンは比較的プログラムの組みやすいマシンだったのだ。
 また、当時主流だったファミコンのCPUとほぼ同じCPU(若干命令に違いがある)でありながら、4倍以上の圧倒的な速度があったので、ファミコンでプログラムを組んでいたノウハウを活かしつつ、より高度なプログラムに移行することが出来た。でも、この“制限が少なくて速い”のは制作にとってはいいことだけれど、逆に価格に跳ね返ることでもある。その為に、PCエンジンはゲームマシンとしては高価な物(注6)になってしまって、普及するのに時間が掛かってしまったという面もあるわけ。
 でも、このお陰で、ゲームマシンとしては比較的息の長い寿命を送ることが出来たのだから、結果的には良かったのだと思う。(電撃PCエンジン96年2月号掲載)
注5:PCエンジンは、87年の発売以来、97年まで、実に足かけ10年にわたり、600本以上のソフトが発売された。かつてあれだけ普及したスーパーファミコンやサターンの今を見て、最近のゲーム業界を考えてみると、ファミコンやPCエンジンのように10年持つゲームマシンは、今後出ないのではないかと推測される。
注6:有名な話として、初代DUOは定価で59,800円もした。それがDUO−Rでは39,800円、RXで29,800円と数年掛け値下がりしたものの、この価格設定が普及への足かせになったのも曲げられない事実だと言えよう。仕方がないとはいえるけど。

最も使いやすかったPCエンジンの開発用ソフト

 なぜPCエンジンが長い寿命を保てたのかということを、前回はハードの面から取り上げたけれど、今回は“開発用ソフト”の点から見てみることにしよう。
 PCエンジンの開発用ソフトとシステムは、ハドソンから提供されていたワケなんだけれど、当時としてみると、この開発システムは極めて秀逸だった。プログラム用のツールは非常に高速で使いやすく、かつバグも少なくて、まさに最強。また、グラフィック用のツールも、当時としては群を抜いて使いやすく、ゲーム業界のデザイナーで、このソフトを持っていなければモグリと云われるほど優秀なソフトだった。
 当時の他のゲームマシンのツールと比較すれば、その差はプログラマーなら誰が使ってもハッキリと分かるぐらい圧倒的に優秀だったのだ。
 ではなぜここまでのソフトが用意できたのだろう?それはPCエンジンが、どちらかというと、ソフトハウスのハドソンが中心になって開発を進められたからだ(ハドソンは老舗で、色々なハードや周辺機器も作っている)。その為に、ソフトハウスの自分たちに使いやすいソフトを作ったということがその1つ。
 そして2つ目が、そのPCエンジンの開発の最中に飛田氏(代表作:「桃太郎」シリーズ)、和泉氏(代表作:PCエンジン版「R−TYPE」「ネクタリス」)等に代表される、すこぶるつきの優秀なプログラマーがハドソンにいて、かつ、その人たちが自由に振る舞い、開発用ソフトなどを作ることが許される環境があった(これは普通の会社ではあまりない)ということ、これに尽きるだろう。そんな観点から、PCエンジンの寿命が長く持った理由は“ソフトを作る人が、使いやすいように作った”ことで得られた物だったんだと思う。そして、そう言う意味でPCエンジンはよく言われる「ソフトは人の力だ」と云うことを本当に開発レベルからちゃんと大言した、本当に使いやすいマシンだったんだと、僕は思っているのだ(電撃PCエンジン96年3月号掲載)

総集編(上)

 後継機種のFXも出て、そろそろPCエンジンもゲームマシンとしての寿命は全うしたと言えるだろう。発売されたのが1987年なんだから、足かけ9年の間、現役のゲームマシンとして生きることが出来た比較的寿命が長いハードだったワケなんだけど、どうして長く生き残ることが出来たのだろう?
 まず当然の事ながら、いいソフトが出たこと。当たり前のことだけど、いいソフトが出ないと、どんないいハードであろうとたちまち寿命は尽きてしまう(現実に、発売されたソフトが出なくてあっという間に消えたハードってあるよね)そして、いいソフトが出るためには…しっかりしたハードであること。当たり前ながら、ハードの出来が悪くてはソフトは作りようがない。更に加えて、矛盾しているようだけど、まず最初に“いいソフト”があること。というのも“いいソフト”と簡単にいっても、人によって面白さの感じ方は違うから、“色々なユーザーにとっていいソフトが揃っている状態”になるには“それなりの数のソフト”があることが要求されるワケ。
 そして、それなりの数のソフトが揃うためには、サードパーティーの数が必要で、サードパーティーが参入するためには、ハードが利益を見込めるぐらい売れていないといけない。…その為に、“最初のハードの売り上げを伸ばすいいソフト”が出なければならないのだ。例えばファミコンなら「ゼビウス」とか、「スーパーマリオブラザーズ」がそうだし、SFCなら「F−ZERO」「マリオ」「ファイナルファンタジーW」なんかがそうだ。
 これらの初期の名作ソフトってのは“キラーソフト”と呼ばれる、ハードの普及を助ける極めて重要なソフトなわけ(と言っても、その後のソフトが出なければどうしようもないけれどね)。
 では、PCエンジンのキラーソフトは何だろう(注7)?最初の1本は疑いもなく「R−TYPE」。これがなくしては、PCエンジンはなかっただろうと言うほどの名作だ。ともかく限りなくアーケードに近い移植で、PCエンジンの当時としては圧倒的だったグラフィック、サウンド、ハードのスピードを余すところなく見せつけて、ユーザーに欲しいと思わせたのだから見事な物だ。こうしてハードは普及するワケなんだけど……。でも、その前に更に大事なことがある。キラーソフトが出るためには、そのキラーソフトを作るための環境が必要なのだ。つまり、ゲームマシンのゲームを作る環境がしっかりしていなければ、ゲームは当然まともに作れない。
 さらにPCエンジンではCD−ROMっていうROMに比べればずっと開発環境がしっかりしていないとソフトが作れない世界が主流になったので、開発環境は極めて重要だったのだ。
 そして、PCエンジンの開発環境は実に使いやすかった。どうして使いやすかったのかというと…と言うところで、行数が尽きたので次回下巻に続く。(電撃PCエンジン96年4月号付録「PCエンジンファイナルソフトコレクション・上巻」掲載)
注7:PCエンジンのキラーソフトとして、他にあげられるのは、ハドソンの「ボンバーマン」「桃太郎」「イース」シリーズ、そして「天外魔境」シリーズ。ナムコの「源平討魔伝」「プロ野球ワールドスタジアム’91」。日本物産の「F1サーカス」シリーズ。コナミの「グラディウスU」「ドラキュラX」「スナッチャー」「ときめきメモリアル」。ヒューマンの「ファイプロ」。NECアベニューの「スーパーダライアス」。NEC HEの「ストUダッシュ」等が挙げられる。どれも、他機種からの移植や、PCエンジンから始まったヒットシリーズだ。名作ばかりだぞ。

総集編(下)

 前回は、PCエンジンの開発環境が使いやすかった理由を書きかけたところで、終わってしまったわけなんだけど、今回はその続きから。で、どうして使いやすかったのかといえば、やはりそれは「PCエンジンがハードメーカーとソフトメーカーの協力によって作られた」からだ。
具体的には、ハドソンが持っていた「ゲームマシンのノウハウ」と、NECが持っていた「LSIの生産能力」が組合わさって作られたハードだ。実際的な開発用の環境が作られたのは北海道のハドソン。開発したのは、天才的なプログラマー二人(飛田氏・和泉氏)が中心……というよりは、ほとんどこのふたりが開発用ソフトを作ったのだ。
 また、この二人はゲームのプログラマーでもあったので、自分たちにとって使いやすい環境を目指して作った。だから、結果的にソフトハウスにとって使いやすい環境が出来たのだ。
 つまり、PCエンジンというのは、ハドソンが「ファミコンを見た上で、ソフトハウスにとって使いやすいように作ったハード」なのだ。まさに、ソフトハウスの卓越したプログラマーによって作られたからこそ、これだけ優れた開発環境が出来たのだね。で、このふたりのプログラマーは「R−TYPE」(和泉氏)、「桃太郎シリーズ」(飛田氏)で、更にPCエンジンを盛り上げていくことになる。
 さらにまた、PCエンジンというのは実に色々な試みをやったハードだ。例えば現在の新世代マシンの主流となっているCD−ROMを初めて積んだハードであったり、マルチタップを作ったり、カード型のソフトにしたりと、まあ今までのゲームマシンの中でも最もモデルが多く(注8)周辺機器のバラエティー(注9)もイラストを描く道具など、多種多様だった。この沢山の周辺機器の中で大ヒットしてPCエンジンの主流を占めたCD−ROMを作り上げる中心になったのがハドソンの中本氏だ。当時のハドソンの中で、良くも悪くも実に冒険的で新しいことの好きな面白い人だ。この人がいて、強引に(どちらかというと無理矢理に近かった)推し進められたからこそ、CD−ROMも完成したし、「天外魔境シリーズ」も登場したと言っても過言ではないだろう。
 そして、ここにあげた人たちとハドソンの他の人たちの努力に加え、様々なソフトハウスがPCエンジンの使いやすさに感心し、CD−ROMの大きな容量や、その可能性に感動して参入してくれたからこそ、PCエンジンは長年にわたって活躍できたのだ。そして、さまざまな名作が作り出された。
 その意味に置いて、PCエンジンは「ソフトを作るのはメーカーでもなくハードでもなく、人なのだ」と言うことを本当に示したハードだったと思う。PCエンジンはそろそろ世代交代の時期だけど、作り出したCD−ROMのソフトのスタイルは形を変えて今に受け継がれ、生き延びていくだろう。(電撃PCエンジン96年5月号付録「PCエンジンファイナルソフトコレクション・下巻」掲載)
注8:PCエンジンシリーズは、ハードだけでも★初代PCエンジン(ボディーがホワイトだったことから白PCエンジンと呼ばれている)★機能を絞った廉価版のPCエンジンシャトル。★対応ソフトが5本しか発売されなかったPCエンジンスーパーグラフィックス。★初代の機能を向上させ、価格を下げたPCエンジンコアグラフィックス。★更にその廉価版のコアグラU。★PCエンジンをCD−ROMハードにして見せた拡張ハードのPCエンジンCD−ROM2。★そのパワーアップ版のスーパーCD−ROM2。★全てのHuカードソフトが使用できた携帯ゲーム機PCエンジンGT。★PCエンジンとしての機能は殆ど持っていて、持ち運びまで出来たノートパソコンのようなPCエンジンLT。★そしてDUOシリーズ3機種と、モデルの多さでもNo.1だ。
注9:周辺機器の多さもPCエンジンの凄いところだ。マウスや、複数のパッド、スティックなどはともかくとして、他にもこんな物が出ていたので紹介しよう。まずはバックアップメモリ。ハドソンの天の声シリーズ、NEC HEのバックアップブースターメモリベース128。光栄のセーブくんとかなりの数が出ている。これは、PCエンジンが拡張されたり、大容量のソフトが出たりしたためだ。そして岩崎氏の言っているイラストを描く道具イラストブースター。それをプリントできるプリントブースター。さらにコードレスパッド、実はこれもPCエンジンが元祖だ。

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