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8 17
福井の大会で壹岐いちこ選手が自己ベストを更新した、11,52。
これ、予選で出したので決勝では11,50をきるかと期待したけど、無理で、11,65だった。
でも、凄いです。
10年ぶりの記録更新なんだから。
おめでとうございます。
ファンしてて、思わず、やった!と嬉しい声が出た。
7 27
もうすぐ8月が来る。
パクキョンウォンが死んで92回目の8月が来る。
パクキョンウォンとは東京羽田から満州新京への飛行の途中熱海市玄岳の山肌に激突してその生涯を終えた朝鮮人女性飛行家。
享年は33歳だった。。
その若い死を憐れんだ地元の有志の人たちの慰霊が今もまだ続いているのは彼女への思いがつよくあるからだろう。
このパクキョンウォンの飛行は単独飛行だった。
同乗者がいたら、また違った運命になったかも知れない。
彼女の生涯での最後の打電はジョンヒへの「行ってくる。これが最後のチャンスだから。」だった。
実際、彼女のこの飛行は2度チャンスを逃したすえにようやく掴んだものだった。
4度目は来ないだろう。
だから、無理するしかなかった。
翌年、ジョンヒは2等飛行士になり、初飛行の地に選んだのは玄岳だった。
因みにジョンヒは映画「青燕」の中の架空の女性だけど、モデルになった女性はいる。
いつも「先輩、先輩}とパクキョンウォンに親しんでいた日本人女性飛行士だ。
一体、パクキョンウォンとはどういう女性だったんだろう?
7 22
選挙が終わって二日が過ぎた。
私、選挙期間中は毎日神谷さんの演説を聞いていた。
梅村さんの演説を眺めていた。
北村さんが気になっていた。
選挙の結果は予想のとおりで、これは大体は希望のとおりだったということ。
民意は悪いもんじゃない。
マスコミは左翼の広報部なので参政党叩きがいよいよ露骨すぎる気配になってきた。
もう、マスコミは民意を敵にするしかないんだろうな。
兵庫県知選で底板が破れかかったマスコミは今回でとうとうそれが破れたってことか、
いよいよ終焉を迎えたことなのかな。
7 14
期日前投票に区役所まで出かけた。
20日ほど前、梅村みずほさんが参政党に入るという報道が出て、本当だったらいいなと思っていたら、
本当に彼女の入党会見と参院選出馬会見が神谷代表同席であった。
あれからたった2週間だ。
今回の選挙、凄いことになってる。
既成政党が慌てているというか、マスメディアの慌て方が尋常ではない。
相当まずいと、無様な参政党叩きをしまくってる。
余程、厭なんだろう。
ここに梅村みずほ頑張れと書いたのは4月のこと。
頑張り過ぎたのか昨日は演説中にめまいを起こして座り込んだ程だ。
華奢な身体なんだから、少しは休んだらと言いたいけど、聞かないだろうな。
使命感もあるかも知れない。
参政党の人気は吉川りな議員と梅村みずほ議員によるところが大きい。
どうせなら、梅村さん、全国比例のトップで当選をと願う。
東京ではさやさんのトップ当選を願う。
にしても、参政党の女性議員は演説が上手いし迫力がある。見栄えもある。
法務委員会の吉川議員を見ていて、石破と比較してしまう。
総理は吉川議員が相応しい。
7 1
昔、新舞子のAさんちに行ったことがある。
1971年の初夏のことなので、もう53年も昔のことになる。、
行ったという表現には、なんだか旅先の観光地ような雰囲気があるけど、
感覚を書けばそうだし、なにより53年も古い昔という現実に絶句もしてしまう。
そんなに時間が過ぎているのかと。
その年、僕は21歳だった。
Aさんは公人なので苗字を書いてもいい。
安藤さんという。
新舞子の安藤さん。
彼は水上飛行士であり衆議院議員を2期勤めた政治家であり実業家でもある。
そんな人だった。
追記すると、新舞子の地で水上飛行場を経営し水上飛行研究所を主催し水上飛行学校を運営した人でもある。
そんな人だった。
何だか、ものすごい人が知多にいた。
安藤さんの家は、家というか敷地は、敷地というか庭はとても広かった。。
広い庭には離れがいくつかあった。
離れとは小邸宅のようなもの、独立した小部屋のことだ。
そのひとつに用があって入ったことがある。
そこは8畳ほどの部屋が二間あり、小さな台所もあったような気がしてるけど、これは古い記憶なので定かではない。。
最近、パクキョンウォンを想像していて、想像が流れて西崎キクさんを想像するようになり、
二十歳の彼女は、安藤さんの飛行学校の生徒さんだったと知って、僕は慌てた。
1971年当時、彼女はご存命で安藤さんもご存命だった。
西崎キクさんをモデルにNHKが朝の連続ドラマを制作し放映したのは1976年のこと。
「雲のじゅうたん」がその題名だった。
6 10
知多半島に新舞子という地がある。
戦前、名鉄が名古屋の金持ちたの別荘地として開発したところで地名もおそらく名鉄がつけたのだろう。
その新舞子の海岸に水上飛行場跡地と書かれたちいさな碑がある。
説明すると、戦前、新舞子海岸は水上飛行場だった。
水上飛行場は別名新舞子飛行研究所とも水上飛行学校とも呼ばれ、つまりそんな機能を併設していた。
砂浜には何機もの水上飛行機が駐機してある写真が残っている。
飛行練習生の集合写真も残っている。
10人ほどの練習生が前列は椅子に座り後列は立ち並んでいる写真だ。
その牧歌的というか家族写真のような写真の中にひとりの若い女性がいて、
名を西崎キクという。
写真は1933年に撮られたもので、西崎キクがバイクに跨っている写真もある。
バイクと並んで立っている写真もある。
因みにバイクはハーレーだ。
おそらく飛行学校にあったものだろう。
陽気に笑顔をカメラに向ける彼女は少女ではないにしろ大人という年齢でもなく、
この新舞子飛行練習生時代の彼女はたった20歳だった。
その年齢で彼女は日本最初の女性水上飛行士になり、2等飛行士免許も取得する。
パクキョンウォンが事故死した1933年のことだ、
翌1934年、彼女が日満飛行に出発し飛行に成功し女性としてはじめて海峡を超えたことになる。
西崎キクは21歳だった、
5 31
先の続き
「最も幸せな瞬間は空へ飛び立つ時だった。」
パクキョンウォンはそんな言葉を残している。
切実な本音だったろう。
1925年冬、雪景色の立川飛行学校の門前に自転車を押しながらたどり着いた彼女の背中が愛おしい。
彼女は24歳だった。
空を飛びたいと思いたってから13年が過ぎている。
単独初飛行を経験しようとしている彼女の瞳が美しい。
思い続けた瞬間が目の前にある。
いいことばかりじゃないのよ。
戦後になって、パクキョンウォンと同時期に飛行士をしていたある日本人女性が何かの拍子にそんなことを言ったことがある。
日本人ですらそうなら朝鮮人である彼女の胸の内を想像すれば、辛くなる。
映画の終わりの頃。
ジョンヒがキョンウォンに打信するシーンがある。
先輩。とジョンヒが言う。
ジョンヒです。
回航してください。
回航、回航、回航、回航と4度打信する。
間を置いてキョンウォンから返信が届く。
行ってくる。
最後の機会だから・・・・。
これがキョンウォンの最後の打信になり最後の意思表示になる。
1933年8月7日午前11時20分のことだ。
彼女は、行ってくる。と言うしかなかった。
5 20
2005年公開の韓国映画「青燕」の題名は主人公朴敬元の搭乗機からきている。
劇中には最後の離陸時の機体に「青燕」の文字が描かれ日差しを受け西の空に飛び立つ情景がある。
朴敬元。本名パクキョンウォン。
朝鮮人初の民間女性飛行士。
彼女の略歴は、劇中、ハンジミン演じるイジョンヒのおしゃべりがそれになる。
朴敬元。
1901年産まれ、テグ出身、慈恵看護学校卒、身長168センチ、
操縦科第91期生、総飛行時間は46時間35分。
イジョンヒの言うとおりを書けばそうだけど、あまりに簡潔過ぎて、
付け加えて書くと、お酒と煙草が好きで、モガでもあった。
銀座で遊び、ダンスをし、そんな場面が映画にはある。
1925年来訪。
自動車運転免許取得、民間タクシー運転手を勤めながら立川飛行学校に通う。
1928年、2等飛行士免許取得。
1933年8月7日、日満親善飛行に出発。
その午前に撮影された、つまり、日満親善飛行出発前の彼女の写真の何枚か残っている。
写真の中には満面に笑みが溢れ、そして、どことなくおどけている彼女がいて、
天候はわるくなかった。
夢は叶う筈だった。
いつだったか、恋人が彼女に聞いた。
空がそんなに好き?
うん。と彼女は答えた。
空にいれば日本人も朝鮮人も男も女もないでしょ。
5 7
連休中には韓国映画「青燕」を何度か観た。
1度観ては泣き。
2度観ては泣き。
3度観ては号泣した。
映画の主題歌は「西の空」という。
歌を聴くと泣いてしまう。
映画には20年前のハン ジミンがいた。
4 19
梅村みずほ議員が維新に離党届を提出したとのこと。
前からこの党の彼女の遇し方には随分と酷いな感じていたので、これでいい。
2年前の法務委員会で彼女がその発言で党員資格停止処分を受けた時に離党した方がいいと、
ここに書いたけど、2年遅れの現実になった。
頑張れ。梅村みずほ。
二日前の朝に渡部カンコロンガ清花という女性のnoteを読んた。
何度か読んだ。
もう2年前になるけど、岐阜多治見の今井るるという女性が立憲に離党届を提出し自民から県会議員選に立候補したことがあった。
あの時は酷いバッシングが彼女にはあった。
今井るるさんはその地区の立憲の支部長をしていたものだから、バッシングは嵐のようなものだった。
裏切り者と
実際、彼女の辻立ち風景を眺めていて、身体的に危ないなと思ったものだった。
そんなことを思い出した。
渡部カンコロンガ清花さんはどうなんだろうな?
右からも左からも叩かれそうな気配がありそうな。
そういえば、N党立花さんの記者会見を観てたら、誹謗中傷の質問があって、
実は知らなかったんだけど、彼には誹謗中傷が多いんだけど、その中にある女性歌手からの誹謗中傷があり、
実際、彼女は兵庫県知事とかその支持者(県民のこと)を悪と言い、立花さんとかその支持者をネトウヨと中傷してるけど、
それに立花さんはどう対応するかという質問だった。
そんな歌手を知らないので、どういう対応もしないというのが立花さんの答えだった。
その歌手、有名じゃない・・・・・・・・・・・?
ですか?
歌手とはSのこと。
Sは渡部カンコロンガ清花さんのnoteを読んだのかな?
4 1
新築した我が家には夫婦と子供がひとりが住んでいた。
40年以上昔のこと。
それから次女が産まれ、その3年後に長男が産まれて我が家は5人家族になった。
だから、食卓には5人がいた。
でも、時が過ぎれば5人が4人になり3人になりとうとう夫婦ふたりの食卓になった。
去年にはふたりのひとりが入院したのでひとりの時期があった。
そういう事態になった。
そうでも、先日、食卓には家族5人がいて長男の嫁がいてその子供がいた。
都合7人という訳だ。
なんだか、家族の歴史というか人の歴史というのは凄いなと思う。
3 27
抜歯した。
天気のいい土曜日の午前のこと。
2年ほどグラグラしていた奥歯を抜いた。
抜いてうがいをしたら血が出た。
またなにかあったら来て下さいと歯医者さんが言う。
定期的ではなくて突発的でいいらしい。
何もないことを願うけど、それは無理だろう。
3 20
いつだったか忘れてしまったけれど、ある女性歌手が嫌いになって、
保存していた彼女のファイルのすべてを捨てた。
嫌いになった訳は書かない。
10年以上の間、よく聴いていたけれど、クリック一回で、それが消えた。
見事なものだと思う。
それから、全く彼女の歌を聴かなくなった。
先日、偶然に、ある歌声がパソコンのスピ^−カーから流れて来た。
好きな歌で、ある歌手がカバーしていた歌だ。
聴き惚れたという感じだった。
カバーしてるのは誰なんだろうなと考えて、彼女だと知るのに、そんなに時間がかかった訳ではない。
なんてこった。
3 17
快晴。
確定申告の期限日。
提出した。
毎年、期限日にしか提出出来なのは、余程、嫌いなんだろう。
提出が終わると、ほっとして、珈琲を飲んだ。
3 9
ちょうどひと月前にイオンモールで開催された西区役所主催のイベントに参加した。
ノリタケイオンモール。
我が家の近所にあり名古屋駅から近い。
寒い日だった」。
前日は雪の一日だった。
中日新聞の女性記者さんが取材に来ていた。
5日程過ぎてその記事が出たらしい。
用事で郵便局に出かけた時に、局員さんから、
あれ、Kさんところですよね?と聞かれた。
我が家は中日新聞を購読してないので、何のことかが分からなかった。
気付くのに何秒かかかった。
どういう記事だったのかがいまだに知らないままでいる。
あれからひと月も過ぎると春になっている。
今日、名古屋女子マラソンがあった。
佐藤選手が勝ったのには少し驚きがあった。
良かった、
おめでとう。
1 31
足の爪を切っている時、指先の肉も切りおとしたらしく夥しく血が出た。
血は吹き出てる様子。
まずいな。
午後2時のこと。
仕事場でそんなことをしたのだから、床が血で汚れた。の
止血しようとしたけど手元にはティッシュぐらいしかない。
動けば床の汚れが酷くなるばかりで、身動きもとれない。
ホント、焦った。
焦りながら30分ほどが経過して、僕は足を椅子の上に置いて、
おとなしくした。
家には誰もいない。
それで、妻が帰宅するのを待った。
信じられないかも知れないけど、2時間を待つ時間に使った。
妻が帰宅した。
妻は汚れた床を嘆いた。
すでに夕方だった。
2025 1 15
今更だけど携帯の機種変更をした。
ギブアップだった。
実は僕はスマホを持ってなかった。
今時、珍しい人間だろうと思う。
ショップから帰って大急ぎでスマホケースを作った。
仕事で相当数は作っているけど、自分のははじめての制作になった。
にしても、スマホって何なんだろう。
電話とメッセージが出来れば、それで良いんだけど、
だから、スマホの95%ほどの機能は無駄になる。
来年あたり90%になるのかな?
12 20
12月になると、毎日カレンダーを眺めながら過ごしている。
気付けば、今年も10日程しか残ってない。
その10日程を無事に過ごすこと、出来るかな?
出来るけど。
さて、仕事、仕事。
12 10
韓国ドラマ「ザ グローリー」を観ている。
何度も観ている。
飽きることもなく毎日そうしている。
秋の頃、やはり韓国ドラマ「亰城クリーチャー」を観ていた。
何度も観て、飽きなかった。
夏の頃は「私たちのブルース」を観て。
という具合に過ごしていた。
一日のうちの数時間をそうして過ごしていた。
悪い時間ではない。
12 3
公園のベンチに座り晩秋の黄昏を眺める。
すぐに冬がはじまる。
樹々も冬支度をするのだろう。
こんな時期が好きだ。
10 15
今年の夏も遠い記憶になる。
そんなもんだ。
6 16
病院から出ると土砂降りの雨だった。
雨は強い風に混ざりその霧が病院の玄関を濡らした。
僕は自転車で来ていたのでこれでは帰れない。
こういう時は、雨が上がるのを待つしかない。
病院に通うことに慣れれば待つことにも慣れるもんだ。
暗い空に日差しが漏れると雨は止んだ。
止めば瞬く間に夏の空が広がる。
僕は自転車置き場まで歩き自転車に乗り帰ってきた。
6 13
門倉有希さんが亡くなって1週間が過ぎて、早いな。
彼女の歌う歌が好きった。
しゃ枯れた声で歌う歌が好きだった。
彼女の笑顔が好きだった。
泣きそうになるよ。
50歳で逝くのは、あまりに早いなと嘆くよ。
乳がんだったいう。
がんを呪う。
5 10
飯山陽さんがひどく怒っていた。
悔しさが入り込んだ怒りで泣きそうだった
これは先の選挙での選挙妨害のこと。
飯山さんはまさに選挙妨害の当事者で加療が必要なまでな被害を受けた。
選挙妨害擁護!鈴木紗理奈を許さない。
と彼女は言う。
TBSの番組「サンデージャポン」での鈴木の発言が対象。
バラエティ番組の女性タレントのトンチンカンな発言だけど、
セカンドレイプみたいなものにもなるので、
飯山さんが怒るのは当然で、徹底的に当然だ。
女性の敵と飯山さんは鈴木のことを、そういう。
そういえば、鈴木が知っているかどうか、飯山さんはとても戦闘的な女性だ。
思うんだけど、メディアは取材というものをしない。
取材をしないでメディアを名乗る。
大手メディアはみな左翼です。
左翼だから活動がメインの仕事になるので取材なんてしない、
だから鈴木のように何も知らず、トンチンカンな発言を真面目にするのがいつも出てくる。
聞いてて観ていて気分のいいおのではない。
ずっと思っているんだけれど、
テレビのコメンテーターは誰もいつも同じことを言う。
メディアは左翼だから左翼的なコメントをするしかないんだろう。
するしかない。忖度。
これはNHKのニュース解説者もそうだ。
違うと言うなら、飯山さんを出してみますか。有本香さんを出してみますか。
日本のメディアは民主主義の敵になりつつあるよ。
当然だろうな。
左翼は民主主義と自由を嫌い、暴力を好む。
5 3
「ゴジラ−1。0」をようやく観た。今日一日で3度観た。
ものすごい映画だった。
今更だけど。
オスカーは作品賞でも不思議ではない気もする
観ながら日本の大手メディアがこの映画にスルーを決め込んだ理由がようやく分かった気がした。
大体、主人公の名前は敷島浩一という。
なるほどな。
あえて敷島と名付けた。
多分、そうなんだろう。
或いは、僕の想像は違っているかも知れない。
そうであっても、日本のメディアは文化の敵になりつつある。
2 29
さっき、Abemaプライムを解約した。
そもそも、あるドラマが観たくて契約しただけだったので、とっくに必要なかったんだけど、ずるずると。
Abemaは、ホント、しょうもない。
プライムビデオで「ゴールデンカムイ」を観ている。
相当、面白い。
どことなく、五味康祐の「柳生武芸帳」に似ている。
そんなふうに観ている。
今更だけど、「昼顔」という数年前の映画をプライムビデオで何度か観た。
何度かというのは面白いから。
前田選手が日本記録を更新してひと月以上が過ぎた。
女子マラソンの日本記録だ。
嬉しかった。
興奮もした。
涙が出そうにもなった。
あれは、強烈な復活劇だった。
児玉が復帰した。
壹岐あい子が復活した。
角良子、めげずに、頑張れ!
1 22
今年、はじめて名城公園を散策した。
建設中のアリーナは巨大なテントに包まれていた。
歩いたりベンチに座ったり、立止って池の鴨を眺めたり、ジョギングする人を眺めたり、
そんなことをして1時間ほどを過ごし、帰宅した。
誰もいない我が家で湯を沸かしコーヒーを煎れてゆっくり飲んだ。
明るい夕方のことだった。
1 19
歩道を自転車で走っていたら、横をふたりの小学生が自転車を漕いでいた。
ふたりの会話が聴こえきた。
地震の話をしていた。
お正月に来なけりゃいいとか、可哀そうだ。とかそんな会話。
続けて、ひとりの男の子が言った。
100円寄付したぞ。
低学年の感じがしてたけど、偉いな。と思う。
10歳にも満たない男の子のようだった。
素直にいい気分になった。
1 15
今年最初の土曜日にnamaが来て、プロレスを観ての午後の数時間を一緒に過ごした。
毎年そんなふうに一年がはじまる。
この10年間ほど、そうなんだ。
僕が17歳の夏休み、2泊ほどの旅行に出かけた。
それが僕の最初の旅行になる。
能登半島をバスで1周した旅行だった。
記憶は薄れ、楽しい旅行だったか苦行だったの記憶さえない。
20才の頃、輪島に民泊したことがある。
この記憶も曖昧になってしまった。
元旦の夕方、地震があった。
能登半島地震と名前が付いた。
名古屋も震度4の揺れを観測されたので、珍しく地震に恐怖を感じた。
3,11の時のように、揺れの最中、外に出て電線を眺めた。
波打つように揺れていた。
それから、テレビを観続けた。
最悪の年のはじまりだった。
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