9 30

二日前から帰省していた息子が帰ると言うので帰り際に少し話をした。
息子は静岡のあるお店に勤めていて、以前、このお店で万引きがあって、その話だ。
無茶をしてはいかんよ。と僕。
スーツを着て革靴履いて300メートル追いかけた。と息子は言う。
へとへとになったらしい。万引き犯人を追いかけた時の話で、犯人は樫の棒を持ってたらしい。
へとへとになって樫の木を持った万引き犯と素手で格闘すれば負けるに決まっている。
頭にこぶが出来たと嘆き、蹴りが効かんかったと嘆いた。
悔しい。と言ってたけど、相手の外国人がナイフを持ってなくて良かったと思う。

そういう話が僕にはないなと思う。
生涯、人と格闘をしたことがない。
これからもない筈だし、坐骨神経痛で走るのもままにならない体で、それは無理だと思う。
息子の頭にこぶを作ったのは樫の木だ。
樫の木は木刀を作る材料になるくらい硬い。
我が家にもそれがあるけど使用したことはない。
これで相手の頭を一撃すれば頭が割れる。

息子に警察は樫の木が濡れてて良かったと言ったらしい。
濡れた木は少しだけ柔らかい。
こぶで済んだのは幸いなのだろう。


9 29

10月は先の話だと思っていたら明後日から10月だ。
10月となると今年も残り3カ月しかない。
唖然とする。

今日も何人かの生徒が作業をしていた。
よく思うことは、生徒は好きな革で好きなものをその作り方を僕から聞いてその作業をする。
僕と来たら、作らなくてはならないものをどんなふうに作るかを工夫しながら作業をする。
同じ作業でもそれだけの違いがある。
これは当然のことだろう。僕はそれで収入があり生徒はそれで出費がある。

30年作業をしていても工夫する時間が離れることはない。
さっき、お客さんから送られた画像を眺め色を眺めどういう染料を使ってその色を出すかを考えていた。
多分、染色に2度ばかり失敗するだろう。
30年以上クラフトをしていても失敗ばかりしてる。
ただ、失敗の予想が立つ。というのが救いかも知れない。

ここによく書くけど、クラフトはその方法はどうでもいい。
デザインも素材もどうでもいい。
生徒が教えて欲しいと言えば、どんなことでも僕は教える。
秘伝というか簡単には教えないよ。などというのは僕には何もないので何でも教える。
僕が知ってることは何でも教える。
覚えるかどうかは生徒に任せ、だから、覚えてもいいし覚えなくてもいい。
そういうこともどうでもいい。
どうでもよくないのはちゃんとあって、それが分かっていればいい。


9 28

午後1時前に電話があって、シャッターを上げたら速攻でそこに行きますから。と電話の向こうで女性が言った。
僕は「あまちゃん」を観ていた。
午後1時になってシャッターを上げたけど誰も来なかった。
10分程してひとりの女性が来た。
それから、鞄の打合せをした。
女性は息が上がっているように見えたので、僕はそんなことを言った。
走って来たので。と女性は答えた。
この瞬間、唐突にかわいい女性だな。と僕は思った。
そう思うと何だか明るくなる。
道に迷って走ってしまった。と彼女は言い、10年前にもここに来たと言った。
それを聞いて、そんなこともあったと思い出した。

彼女が帰るとひとりの女性が来て続いてひとりの女性が来た。
1時半からふたりの予約が入っていた。
どちらも体験教室の参加でふたりが作業をしているといつも土曜日に来る年配の女性の生徒が来た。
都合3人がひとつの机で作業をした。
ふたりの体験が終わると僕はその作品の画像を撮った。
なんて言うかな。
今日4人の女性がここにいたけど、みんなかわいいな。と思った。
そんなことを感じてしまう日もある。


9 26

午後7時を過ぎて岩村のMさんと清州のMさんとU君とIさんが一緒に帰った。
夕食を一緒に食べるそうだ。
近所の職人さんも帰り僕はビールを買いにひとりで酒屋に走った。

今日、ここで作業をしてた生徒さんとここに遊びに来た生徒さんは同じ数だった。
これだけ生徒の数が多くなると机を増やせないかなと生徒は考える。
困ったなと思う。
元々人数を限定して教えるつもりではじめた教室だった。
ただ、生徒の予約のやり繰りをしているし予約を断る事態も何度かあるのが現実となると、
本当に困ったなと思う。
困った理由に僕の作業時間というものがある。
僕の仕事は革工芸品を作ることで教室がメインでない。
つまりは生徒が多くなれば僕の作業時間が削られることにもなる。
これは割と重い問題だ。
実は器用じゃないんだ。

今日もいろんなお土産を頂いた。
「栗きんとん」なんかもあった。
もうそんな季節なのかと考えて、去年、中津川まで栗きんとんツァーをしたのを思い出していた。
夏は過ぎて少し肌寒い季節に入っている。


9 25

NHKではこんなことをしている。

昨夜はふたりの生徒が新しい制作に入った。
ひとりは新人で、こんなのを作りたいけど無謀でしょうね?と聞いた。
無謀を無謀と理解して作業に入るのは無謀を無謀と知らずに作業に入るよりは遥かにいい。
それからネットで検索して印刷した画像のいくつかを僕に見せた。
それはどこかのブランドの職人が制作しただろうという高級な感じのトートバッグだった。
無謀でしょうね?と革で鞄を作ったことがない生徒は重ねて言い、色はこれがいいとロイヤルブルーの色合いを見せた。
大丈夫だよ。と僕はサンプル制作の手順を教えた。
サンプル制作が終われば染色経験のない生徒にロイヤルブルーの染色の方法を教える必要があるけれど、
鞄の制作よりはこの染色が遥かに難しいだろうと予想した。
もうひとりは革の薔薇の花が飾りに着いたファスナーのコインケースだった。
僕はコインケースに飾れそうな薔薇の花を床革で作りそれを見せた。
それは数秒で済んだ気がする。
あとはその薔薇の大きさに合わせたコインケースを作れば出来てしまうと納得させた。
それから、ランドセルを制作してる女性に細部の制作を教えトートバッグを制作している男性にトートバッグのファスナーの取り付けを教えた。
カービングしている女性にきれいに出来るカービング方法を教え、鞄のひねり金具の取り付けを教え持ち手の制作を教え底鋲の付け方を教えた。

10人の生徒がいれば10個の作成がある。
僕は同時に10個の作成をしているようなもので、2時間が過ぎれば異様な感じで空腹感を感じてしまう。


9 24

3連休の最後の日はだらだら過ごした。
生徒の予約はないしこれをするという予定もなかった。
たまには休んでもいい。
それで、今日したことと言えばサイトの更新ぐらいだったし外出もしなかった。
他にしたことを書けば何通かのメールを書いたぐらいだ。
何通かには仕事のメールもあれば個人的なメールもある。
個人的なメールはMに書いた。

9 23

午後1時半にふたりの生徒が来て財布の内装を作りはじめた。
その15分後に近所の生徒が来て財布の内装を作りはじめた。
その15分後にふたりの生徒が来てひとりは染色をひとりはファスナーパースのファスナーの取り付けをはじめた。
それからnamaが来て「出雲まんじゅう」の差し入れをしたのでそれを食べた。
namaが帰るとNHKの生徒さんが来てキャッシュトレイを作りたいと言うのでその作業を教えた。
そうしていればU君がきてカービングをはじめた。
U君が来ればO君が来る筈で、実際に来た。
彼のあとにはSさんが予約した時間に来てそのあとmikiが来てT君が来た。
今日、何人来たんだと考えたんじゃなくて、何人に何を教えたかを考えた。

財布の内装の作成方法を教えトレイの作り方を教え、ファスナーの取り付けの注意を教え、カービングを実際にして染色を教えた。
染色はふたりに教えた。
ひとりはヌメのナチュラルの鞄を黒色に変更したいというのでその方法を教えた。
オイルを含ませたヌメ革を純黒にするのは無理だけど、生徒はたいていは無理を言う。
その無理な作業をした訳だ。
方法を書けば、まず水性染料で筆を使って鞄を染め、染料が部分的に染まれば部分的に全く染まらないということを確認し、
それからアルコール染料で上塗りした。
これは筆で水性染料を使ったのと同じことをする訳だけど、アルコール染料なので一見すれば染まったように見える。
あー、染まった。と生徒は言う。
言うけれど、それを水で濡らしたタオルで拭けば殆ど以前と同じに戻る。
それで今度は布でこすって染色させた。
表面のワックスを取る作業と染色の作業に足したようなものだから、これで染まる場合がまれにある。
結果を書けばこれは無駄だった。
それは分かっていることで、その分かっていることを納得させるために生徒にそんなことをさせたようなものだ。
どんだけワックスを塗ったんだ?と聞けばたっぷり塗ったと生徒は言う。
僕は溜息を吐きたくなった。
ワックスがしっかり沁み込んだ革に染料で染色出来る筈はない。
それから、僕はある作業をした。これを数分で済ませ放置した。
放置時間は一日ほどで、多分、明日には黒い鞄になってる筈だ。
続けて別の作業をすればナチュラルのヌメ革の鞄は純黒のヌメ革の鞄になる予定だ。
染色とはいつもそういうものだ。
染色にはいくつもいくつも方法がある筈で革の状態に合わた作業を選ぶことにもなる。
だから染色の方法はいくつもいくつも知る必要があるし工夫をする必要もある。
染色とは顔料を塗りまくる作業ではない。

昨日、その染色をもうひとりの生徒がした。
これはカービングへの染色だ。
ただし、彼は染料で地染した革にカービングをしていた。
普通はカービングをして染色をするものだけど、彼は地染を先にしてしまった。
地染を先にするもの悪くはないけれど染色は限定される。
いくつもいくつもあるのではなくこの場合はふた通りしかない。
そのどちらがいいかの判断が難しい。仕上げの処置も関係するからだ。
さて、どっちを選ぶってことだ。

書いてることを考えながら、こういうことじゃないかなと考えている。
僕はいくつもいくつもデザインして制作してる訳だからいくつもいくつもの制作の引き出しがある。
何を作るにも何処の引き出しを開ければそれが出来るかは大体は分かる。
僕の場合はそうだけど、生徒はその引き出しがない。たいていは全くない。
それで教えているのだけど、どんな場合もひとつの方法しか教えることが出来ない。
方法のすべては連動してる訳だから、本当はひとつを教えてもあんまり意味がない。
だから、意味のあるものにするには時間というものがかかる。
その時間の中に工夫と失敗を一杯入れないと、やはり、どうにも難しい。


9 21

先日T君からメールが届いて、それから何気にメールの宛先を読んだら師匠と書かれていた。
彼は僕を師匠と認識しているらしいし、彼にはそれ以外の認識はないかも知れない。
彼から師匠と言われると悪い気はしない。

僕を師匠と認識しているのがどれだけいるかは知らないけれど、師匠と言われて悪い気はしないでしょ?と聞かれたこともあるけど、
はっきり書いてしまえば、悪い気分になる時はある。

滅多にないことだけど、もう教えないからね。と言うことがある。
先日、そう言った。
つまりはそういう生徒がいた。

時々、訳の分からない電話がある。
そういう電話を掛けてくるのはたいていはネット関係だ。
この時は教室の件で、話を聞いていれば生徒募集の広告が要件らしかった。
サイト読んでます?と僕。
読んでますよ。と相手が言った。

読んでないだろ。と思う。
サイトには営利で教室を開いてないと書いてある。
営利ではないので営業はしない。
営業はしないので広告を入れることはしない。
生徒はいてもいいしいなくてもいいのが僕の教室だ。
そう公言している教室に営業の電話をするか?

じゃあ。と電話を切った。

工房はものを作っていればいい。
作る技術があればそれを伝達するのも仕事になる。
教室はそういう理由で存在している。


9 20

淡々と日々が流れている。

先日、僕の生徒と僕の生徒が結婚するという報告がラインで流れた。
流れてしまえば僕の緘口令も消えるので、最近、その話題が続いた。

ここには出雲大社の縁結びの神様が住んでいるかと思うくらい縁に関することが多い。
そう書きながら、昔、出雲の90歳のおじいさんが木彫したいう七福神の置物が鎮座してるのも関係してるんじゃないかと考えた。
ここにある置物はその2柱だけど、そういうことってあるのだろうか?
昔、あるお婆さんがここに来て、これを買ってくれないかと僕に頼んだ。
それが我が家の2柱の置物だ。
お婆さんは出雲からそれを売りに歩いていたらしい。
大きさは20センチぐらいあってここに飾っても良さげな感じがした。
それをお婆さんの言い値で買った。
価格はよく覚えてないのだけど2柱で今のパソコンが買えるぐらいぐらいの価格だった気がしている。
縁起ものは値切って買ってはいけない。

それ以来鎮座している。
鎮座という表現が正しかは省くけど、それ以来、縁に関係した話題が多いと考えている。

9 13

昨日の夕方にU君が来た。
昼ご飯を食べさせて下さい。と言ってパンをかじりはじめた。
本当にパンを食べるお昼ご飯の時間を過ごしたくてここに来たらしく、作業をしていた何人かの生徒にもどうぞ。と言ってはパンを配った。
僕にも先生食べて下さいよ。とパンを配った。
すると昼食タイムのような夕方の時間がこの工房には漂った。
それから作業しているみんなといろんなおしゃべりをして彼は帰って行った。
やはり変な男だと思う。

そういえば火曜日に区役所のM君が来た。
これは「西区民まつり」の打合せがメインだけど、それ以外にもいろいろな情報の交換をした。
「西区民まつり」は去年と同様に開催される。天気も同様になるといい。
一年は本当に早く流れてしまう。
何故だか去年のそのイベントのことを鮮明に覚えている。
終了1時間前には材料がなくなり現場で少し革を裁断して追加をした。

9 12


先日のNHKの講習には体験者がいた。
講習のあとで体験ではなくちゃんと学びたいと彼女は言うので事務室で手続きをお願いいます。と僕は言った。
僕の教室ではサンプル制作と型紙制作を熱心にする。
教科書はなく自分が作りたいものを作っていいよというのが僕の教室のスタンスだ。
作るものの型紙がないんですけど・・・・と彼女は言うけど、その型紙を作るのを教えるよ。と僕。
実際、サンプルと型紙が出来ればあとは遊びの作業のようになるものだ。
教科書もカリキュラムもないとは好きな革製品のカタログを見本にそれを作ってみようということになるので、
革で何かを作ったことがなくてもトランクさえ作ってしまうということにもなる。
びっくりする。
たいていはびっくりする。
けれど、なんで驚くのかが僕には分からない。

最近、ここによく職人歴50年の年配の男性が来て遊んでいる。
彼はいろんな工房とか教室を知ってるらしく、どこも駄目だけどここはいいよなどと言う。
駄目なことには教える先生の能力のこともあれば料金のこともある。

ある教室がある。
ここがどれだけ駄目かと長々と彼は言うので僕は長々と聞くことにもなる。
そこの先生は何も知らずだから教えず料金だけはしっかり取るのであれは詐欺だと言う。
1時間2,100円取るので5時間いたら1万円を超える講習代金になる。
それに交通費を入れれば費用も馬鹿にならないし、本当に馬鹿馬鹿しいのは何も教えて貰わなかった事実だ。
聞きながら、僕の教室は2,000円を打ち切りにしてしまうので5時間作業しても2,000円で済むのになと考えた。
教えるのは僕だから、たいていは何かが完成する。
僕のところが極端なんだろうか?

9 11

昨夜は」NHKから帰宅して「しゃしゃんぼ」まで飲みに行き帰ってから速攻で寝た。
風邪気味だった。
早く寝ると早く起きて、だから、午前中は仕事をしていた。
午前に電話がなるのは知ってたけど、本当によく鳴った。
それから、年配の女性の生徒が来て、よく分からない会話をした。
彼女が帰ると最近よく来るようになった職人さんが来てハトメリングを袋一杯くれた。
いるもんじゃないけど断るのもどうかと頂いた。
ハトメリングなので金具の塊みたいなものだ。、ざっと1万個ばかりある。
1万個の中のひとつでも使うことがあるんだろうかと眺めては溜息をついた。
何処かの帽子やさんから頂いたと彼は言ったけど、帽子を作る工場ならいるんだろうけど帽子を作らない工房にはあんまりいるものではない。


夕方、仕事がひと段落したのでMとメールのやり取りをした。
Mがひと段落してるかどうかは無視して珈琲を飲みながらドーナツをかじりながら何通もMの携帯にメールを書いた。
隣がなくなって不便だね。とMは書いた来たけど、そういえば隣は喫茶店だったなと思い出した。
随分古い時代に喫茶店があった気がしたけど、なくなったのは1年前のことだ。
1年が過ぎれば最初に感じた不便さも感じなくなってしまう。
人の適応能力とはすごいも
んだ。

9 9

先週の木曜日の午前に電話があった。
電話をかけてきた人は午後に来る予定の年配の生徒さんで孫の体調が悪いので欠席します。と言った。
受話器を降ろすとまた電話が鳴った。
この電話の向こうの人も午後に来る予定の年配の生徒さんで、同じことを言った。
つまりは、同じ内容の連絡を続けて聞いて、そういえば、僕も風邪気味なのだと気が付いた。
朝から咳き込んでばかりいる。
季節の変わり目に体調を崩すのは珍しいことではない。

昨日の日曜日の昼過ぎにふたりの生徒が来た。
予約なしに来たので、いいでしょうか?と聞いたけどよくはなかった。
予約が4人いれば他に作業する場は僕の工房ではなくなる。
けれど、僕は駄目とは言わないのでそれからの工房は人で溢れた。


9 3

夕方、mikiが来た。
彼女は工房を開いて1年近くが過ぎた。
工房に籠って一年が過ぎれば上達するもんだなと持参したサンプルを眺めて感じたものだった。
僕の思考法が彼女に入りこんだな。

昨日、60代後半の男性が遊びに来ていた。
革職人歴50年という人だ。

僕は同業者と初めて会った。
業界を知らず同業者を知らないと書いていて、実はこの職人さんは自転車で5分の距離にいた。
こうなると30年以上をここにいて同業者を知らないでいたという事実には唖然とする。

初対面にしては話が弾んだ。
クラフトについて当事者としてそれなりの感想を持つ人をはじめて知った。

偶然の話。

先日、ある劇団の試験を受けたことがあるよ。と言ったらみんな驚いた。
先生ってそういう人?
それが、役者になる気なんて全くなくそういう関係の仕事がしたいと考えたこともなく、それでもそういうことが僕にはあった。
19歳の頃の話だ。
これは恥ずかしい過去なので滅多に話さないし、ここにも書かないけど、これに関係した話を少し書くと、
この面接会場にAという女性がいた。彼女と少しだけ話をした。
彼女はそれから俳優になって上京して歌手になった。
当時のアイドルで芸名は「あべ静江」だった。
昔のアイドルなので知らない生徒が多かったけど、当時は有名な歌手で知ってる生徒もいた。
彼女の親友にNという女性がいる。
Nは当時名古屋で放送されていた深夜番組「ミッドナイト東海」のDJをして「あべ静江」のことをよくマイクの向かって話していた。
この番組では森本レオがDJしてたけど、Nの時期は彼のあとになる。
Nがあるお店の娘と知ったのは彼女の放送を聞いていた頃から10年ほど過ぎたあとだ。
そのお店には僕は30年以上通っているので、時々そんなことを思い出す。
そのお店は「Y」と言う。
「Y」は昔は盛んなお店だった。
今は寂れたお店だけど昔は何人もの番頭さんがいた。
その番頭さんのひとりにHという女性がいた。
店を仕切ってる感じがするちゃきちゃきしてるおばさんだったけど、彼女の姪も歌手をしていた。
「林寛子」というアイドル歌手で、後に彼女は黒澤明の息子と結婚する。
繋がりとはおどろくものだな。
その「Y」というお店の近所に昨日ここに来た職人さんがいる。