12 29

夕方、仕事に使うリングがないと気が付いて東急ハンズまで歩いた。
そうやって、突然に年の瀬の駅前の喧騒の中に紛れ込んだ。
東急ハンズは久しぶりになるけれどリングを買えば用はなくなり歩いて帰宅した。
1時間ばかり散歩したのと変わらない。

先日、「しゃしゃんぼ」の玄関でAの靴と僕の靴を眺めていた。
当然ながらサイズが違う。
ちっちゃい靴だなとAに言うとAはサイズを言う。
サイズは2センチしか違わないけれどきっと横幅の違いだな。
Aの靴はスマートで僕の靴は太っている。
そんな話をしていたら「しゃしゃんぼ」の女将さんが後にいるのに気が付いた。
僕とAにさえどうでも良さそうな会話は女将さんにはさらにどうでもいい会話で、そんな顔つきをしていた。

今年、Aとは「しゃしゃんぼ」に何度も足を運んだ。
僕はビールを飲んでAはお茶を飲みいろいろ食べて他愛のない話ばかりした。
明け方にN野さんがくれた入浴剤で湯に浸かったよ。
いつもシャワーで済ますので、湯船に浸かるのが珍しければ入浴剤を入れるなんて10年ぶりだ。
とかそんな類の話ばかりをしていた。
きっと来年もそんな話ばかりすることになる。
今日、NHKが来年6月までの日程表を郵送してきた。

12 27

夕方、N君が来た。
彼はびっくりするものを持参してここに置きに来た。
もうすぐAが来るよ。今日はNHKなんだ。
NHKって何時からですか?
6時半からだけど、Aはここに5時半には来るよ。

そんな会話をしていたけれど、5時半にAは来なくて45分になっても来なかった。
遅れるんかな?
6時近くにAから渋滞に巻き込まれたとメールが入る。
こりゃ駄目だな・・・・・・。

N君に時間はあるかと聞けばあると言う。
じゃあ、僕は先に行くのでAが来たらAをNHKに送ってくれないかなと実に勝手なことを僕が言う。
いいですよとひどく簡単に彼は言う。
N君が神様に見えた瞬間だった。
な訳で、僕はひとりで車を走らせた。
すでに6時を過ぎていて、僕が遅刻する訳にはいかないからだ。

結局、僕もAも6時半には間にあってNHKでの今年最後の講習をした。
これは2クール目の最後の講習でもある。
相変わらずに和気藹々と作業は進み、最後に良いお年をと挨拶してみんなと別れた。

Aと一緒に帰宅してAと一緒に「しゃしゃんぼ」へ出かけた。
「しゃしゃんぼ」はいつもと違い随分と混んでいたので少し待たされた。
待たされたというのは初めてだった。
それからAとふたりで忘年会をした。

Aの今年はいい年だったと思う。
来年が見えるということはいいことだからだ。

なかなか見えるものではない。

先日、黒沢丈夫という人が死んだ。
誰?とAが聞く。
零戦の士官パイロットだった人で、日航123便が墜落した現場の村長をしていた。
それから、昭和16年12月8日にフィリピンを攻撃した3空の話をして、昭和19年の秋にフィリピンで開始された特攻の話をした。
黒沢丈夫氏はそのどちらにも関係がある。
そして、彼の村長時代に御巣鷹山に500人を超えた乗客を乗せた日航123便が墜落した。
昭和60年8月12日の夕刻のことだ。
彼の以後の人生はこの墜落事故の犠牲者の鎮魂のための尽力であった感がある。

時々、人は何故死ぬのかと考えることがある。
その生は寿命というものに尽きる気がしている。
この寿命という言葉の意味を考えることがある。


12 25

雪は降ったり止んだりしている。
今日はクリスマスの日曜日で、本当にホワイトクリスマスになった。
このクリスマスはものすごく寒い。

Iさんが来て作業をしていた。
彼女はここで半日作業をしていたので、僕は半日Iさんといたことになる。
いろんな話をしながらIさんはひとつの作品を完成させて夜がはじまる頃に雪の中を車を走らせて帰った。
今年はもう来る予定がないので、良いお年をと挨拶をする。

この3連休は生徒が殆ど来なかった。
さすがにクリスマスイブを工房で過ごす生徒はいないってことで、僕は黙々と作業をしていた。
今年中に終わらせたい仕事はまだまだあるなとカレンダーを眺め、毎年こんな年末を過ごしているんだなと思う。
この思いには呟きも入る。


12 24

昼ごはんを食べて仕事場へ行き、机の上の携帯を開くと着信履歴があった。
これはりょうからで、りょうの携帯に通話を入れると「極めて近くにいるよ。」と返事があった。
シャッターが開いてないよ。
営業は午後1時からだよと言って僕はシャッターを上げた。
目の前にりょうがいると予想していたけれどりょうはいなかった。
寒気のせいか外は随分と寒い。
しばらくするとチワワを3匹連れてりょうが来た。
チワワは3匹とも猫より小さい。
そこの公園で散歩させていたよとのんきにりょうは言う。
3匹は寒さに震えていた。
今運動していたのに寒いのかなとりょうがつぶやく。
寒いだろ・・・・・・・・。

それからりょうと一緒の2時間を過ごした。
突然にクリスマスイブにりょうと過ごす時間が出来たことになる。


12 23

予約なしに生徒が来て相談を受けた。
こんなのって出来ますか?
それって簡単に出来るよと答えて早速作業をはじめた。
実際にそれは1時間半で完成してしまった。

朝、みきちゃんが来た。
これはナゴノでの体験教室のためで「ナゴノ」へ出向くと鍵が開いてない。
合鍵はないのでこれには困った。
仕方がないかと工房に戻りFに電話をする。
彼も驚いてこれから開けに行きますと返事をする。
12時半に再度出向くとFが到着したところで鍵は空いていた。
中に入り準備を終えると靴屋さんが来た。
靴屋さんは今日は土日ではないので昼からの営業と言う。

12 22

昼に生徒が作業していると別の生徒が来て、ひとりが帰ると3人目の生徒が来た。
この3人の生徒は毎週熱心に作業をしに来る。
ついでに書けば、今日の3人は忘年会には不在だった。
先週の土曜日にここの忘年会をしたけれど、考えてみれば忘年会に来た生徒でここに熱心に通う生徒はあんまりいなかった。
熱心に通う時期は終わってしまったようで、それを思うと何だかおかしい。

今日、革が2枚配達されて、それをAの工房に配達した。
今月は通常の月の倍ほどの革が入荷している。
僕が消費しているのは少なく生徒の消費が多い月だ。
多いってことは作業が活発ってことなのだろう。
不思議と12月はいつもそんな月になる。
来年の抱負を含んだ月でもある。

12 21

今週も半分が過ぎてしまえば、いよいよ今年も残り10日となる。
いつも時間に追われて仕事をしている気分だけど、12月はさらにそれが強い。
時間に背を押されて動いているようなものだ。


今日、映画監督森田芳光氏の訃報を聞いた。
彼の享年は61歳というので僕と同じ年齢になる。
この同じということで感じることが多くある。
多く感じてしまえば、自分の未来を断定してしまうこともある。

夜になればプロレスラー上田馬之助氏の訃報が流れた。
プロレスラーはみな波乱万丈の人生を生きて死んでゆくんだなと妙な納得をして彼の履歴を読んでいた。
彼が死去した土地は大分県臼杵市と書かれていた。
大分県臼杵市は映画「なごり雪」の舞台になった町だ。
この臼杵市という今の時代からぽつんと取り残されたような印象がある町で彼は晩年を過ごし活動をした。
彼と町は似合っているような気もする。


12 18

昨夜はこの工房の忘年会で、夜11時に解散をした。
土曜の夜に4時間半い続けた「一心」には今年もお世話になったものだ。
みんなよく喋っていたな。

昨夜はそうだったけれど、今日は生徒が来て作業をしていた。
タルは朝からナゴノに詰めていた。
昨日の夜に飲んで騒いで今日ここで作業をしている生徒を眺めていると、
なんだかどっぷりここに浸っているみたいなものだなと感じてしまう。
湯冷めしないんだろうか・・・・・・・・・?


12 16

深夜に雪が降った。
みぞれのような雪が降った。
その雪の中を傘をさしてコンビニまで歩いた。
パンを買いパンを食べた。


12 13

3週間ぶりにNHKに行くと「先生」と声をかけられ、今日、授業風景を撮影しますからよろしくと言われた。
いいですけど、今日、アシスタントがいませんよ。
あー、あの可愛いアシスタントさんはいないんですか。それは残念ですね。と本当に残念そうな顔をNHKの担当がする。
どうも、NHKでは僕とAはワンセットで印象されているみたいだ。

今日はAの都合が付かなかった。
それで、Aのいない授業風景が撮影された。
撮影と書いてもデジカメで何枚かを撮影しただけで、これがNHKのサイトに掲載されるらしい。
ただ、僕を含めて誰も撮影されてる意識はなかったみたいだった。
いつもそうだけど、誰もが作業に集中している。

よく思うのだけど、NHKに集まる僕の生徒は優秀だと思う。
覚えることにかなり熱心で時間を惜しんで作業をしている。
和気藹々としてるけど、礼儀正しい。

Aはいなかったけど、7時半を過ぎてN野さんが突然に来た。
予期してなかったので不意をつかれた感じがした。
アシスタントがいなかったので、ちょうどいいって感じがしたものだった。


NHKでの講習が終わりN野さんを名古屋駅まで送った。
今日は「しゃしゃんぼ」へ行かず、自宅で夕食を食べた。


12 11

土日が過ぎた。
この土日は東京で仕事をしている娘が滞在していたので、今夜の夕食は鍋にして随分と賑やかな時間になった。
夜遅くには静岡にいる息子も帰って来たので家族全員が揃ったことになる。
こうした時間が突然に来た。

今度がいつになるかの予想が付かない。

今日はふたりの生徒の今年最後の作業になった。
まだ早いかなと思ったけれど、来年も良いお年をなどと挨拶をして手を振って車を見送った。

今年はまだ3週間を残している。
まだと書いたけど、まだで良かったか?


12 10

浅田真央のお母さんがなくなったという話をしていた。
工房には男性の生徒がふたりいてKがいた。
そんな最中に電話が鳴ったので受話器を取りオーダーの注文を受けた。
オーダーの内容を聞いて最後に連絡先を聞き名前を聞いた。
「まお」です。と受話器の向こうの女性が答えた。

夕方、駅前の料理店に電話を入れて17日の忘年会の参加人数を伝えた。
昨日も伝えたけれど、今日ひとりが増えたので訂正の電話になった。
14人と伝えた。
だから、今年の忘年会には14人が参加するので、随分と賑やかになるのだろう。
去年もそのぐらいの人数だった気がしている。
14人とはここに通うメンバーの半数ほどになる。

夕方、生徒が帰ってしまうと空いた時間が出来た。
ちょうど東京から帰省した娘が駅前に行くと言うので車で送り、12月の土曜日の駅前の賑やかさを眺めた。
忘年会のシーズンのせいだろう。


12 8

今日、生徒が僕の机を眺めて、いつも整頓したくなると言う。
確かに、僕の机はどうしようもなく乱雑な状態が続いている。
その整頓という言葉から急にAを思い出した。
Aがいて、Aが帰るといつも机の上が綺麗に整頓されていたものだった。
いつ整頓したんだろうといつも不思議に思ったものだった。


話を変える。

真珠湾攻撃から70年が過ぎて、また、この日が来た。
70年というのが節目なのか、それに関連したいくつかの報道があった。

もうすぐ山本五十六という人物を描く映画が上映されるらしい。
この連合艦隊司令長官は戦果が乏しかった「い号作戦」が終了した日、ラバウルから最前線視察に出かけ戦死する。
視察には将兵への激励の意味もある。
昭和18年4月18日のことだ。

先に書いた豊田譲という作家は「い号作戦」開始日に出撃し撃墜された。
彼は空母搭載の艦爆機の搭乗員だったけれどその空母から飛び立つことはなく陸上からガダルカナルへと出撃した。
この日の天候は良く機上から入道雲を迂回するように飛行する味方機を眺め、それを米粒のように感じたらしい。
彼は1週間の漂流の後、ニュージーランドの艦艇に救助され、救助された瞬間に捕虜となった。


山本の戦死後連合艦隊司令長官は古賀峯一が引き継ぐ。
古賀は殉職し豊田副武が後任を勤め昭和20年5月に小沢治三郎が最後の連合艦隊司令長官となる。
書くまでもなく、昭和20年5月ともなれば日本に艦隊はない。


12 4

Mが来た。3年ぶりになる。
3年ぶりに会ってしまえば、随分と懐かしく近況報告ばかりになる。

Mは机に置いてあるミニアルバムを眺めて、そいうやってここに通う最近の生徒さんの顔ぶれを眺めて誰も知らないと言い、
Nさんは来てるの?と聞いた。
Nはたまにお菓子を持って来るよ。と僕は答えてNに電話をかけた。
MとNの会話が始まったけれど、Nは驚いたろうな・・・・・・・・・・・。

昨日の夕方、そんなことがあった。
今日の夕方はここにN野さんがいた。
僕へのプレゼントだと言い入浴剤をくれた。
僕へのプレゼントに入浴剤を思いつくN野さんの感覚は、どこか面白い。

そのN野さんが財布を完成させた。
この作業にはいろいろあった気がするけれど、財布も完成してしまえば、驚くほど素敵な財布になっている。
市販品よりはずっといいし、これは本当だ。


今日は作業をしないでサイトを作成していた。
そのサイトをアップして、それからN野さんの作業に付き合い、同時に工房の経営みたいなそんな話をしていた。

工房に経済効率が必要なのか必要でないのかが僕には未だに分らないけれど、
ここは30年間持続して今後も続くのは確かだ。
多分、工房は主宰する個人と直結するものだから、経済効率というよりは経営する個人の内面を考えていた方がいい。

一体、自分は何がしたいかというそういうことだ。


12 1

12月に入ってしまった。
師走である。


このところ絶え間なく仕事をしている。
12月は休日の予定がないので体力は大丈夫なのだろうかと少しの不安がある。
もういい歳なんだからと娘がメールをくれたけど、本当にもういい歳なのだ。

先日、お客さんから仕事の問い合わせがあり、迂闊にもその仕事が完了してなかった。
それから、現在一体いくつのオーダーを溜め込んでいるのかとか考えこんだ。
数えても意味がなさそうなそんな疑問が電話のあとで湧いてくるのは、疲労感のせいかも知れない。

ホント、ちょっとお疲れだな。


話は飛ぶ。

先日、NHKのサイトを眺めていたら「真珠湾からの帰還」というドラマを放送するという。
このドラマは真珠湾攻撃を特殊潜航艇で攻撃して生きて捕虜になった酒巻和夫という人を描くらしい。
酒巻和夫の海軍での階級は少尉で、海兵は68期になる。
この68期には酒巻と同様にその初陣で捕虜になった豊田譲がいて、彼の著書に酒巻和夫が出て来る。
酒巻と豊田は捕虜収容場が同じ時期があった。
海兵68期は300人に満たない。

海兵68期はその卒業が昭和15年になる。
昭和15年に少尉であれば、昭和16年に始まる戦争での消耗は激しい。
捕虜であれ生きて帰還し、さらに戦後を生きてくれたのは何かしら希望を感じる。