1 31
土曜日の夜に「しゃしゃんぼ」にいた。
4時間半もいた。
好きな人たちと一緒に飲んでいると時間が過ぎる感覚が変になる。
「しゃしゃんぼ」での酔いのあとでサッカーアジア大会決勝戦をテレビ観戦する。
決勝戦は延長に入り、まさかPK戦じゃないだろうなと思っていたら李がボレーで得点する。
観戦が終わると3時に近く、さすがに眠く、シャワーを浴びて寝てしまう。
そうやって昨日になる。
昼になれば生徒が来る。
夕方になれば生徒で溢れる。
そのまま夜も7時を過ぎる。
Y君が来て、O君がいた。
ふたりがここで一緒に作業をするのは久しぶりで、横にはN野さんがいた。
3人は同じ車に乗り込んで一緒に帰る。
昨日はそうやって終わり、月曜日になる。
どうにも寒い月曜日で、空には目に痛いほどの青さが広がっている。
僕はこの日を休日にした。
1 26
ミクシーの画像を変えた。
鞄から僕自身の画像にした。
随分と長い間、写真を撮られるのが嫌いだった。
どうも自分が自分を観るというのが嫌いらしく、結果的には僕の写真がない。
何十年間もの自分の写真が殆どないという事態になっていた。
昔、あるテレビ局が取材に来て、僕の作業しているところを撮りたいと言い、僕は構わないけど手だけにして欲しいと言った。
職人の使う道具についての取材なら、それでいいんじゃないかと。
無論そうにはならず、長々僕が画面に出てしまった。
僕は容姿に自信がある筈がなく、その逆でもなく、まあ、容姿というものがどうにもならないものなら、
どうにもならないものにどうという感覚を抱くのは無駄だなと、当たっているのかそうでないのかよく分らない結論を持っていた。
最近、どうもそれが進歩した感じがしている。
どうにもならないのが容姿とか印象で、けれど、それが正直な自分であれば、自分をはっきり出してもいい。
この場合の出してもいいは出した方がいいという気分を含んでいる。
生きてゆくというのは、正直な自分をさらして生きてゆくということだ。
これについての詳細を書けば、人生論のようになる。
だから、省く。
1 23
昨日の朝から今日の夜までが一日って感じがしている。
昨夜、JFCで焼肉を食べて遊んでいたからだろう。
焼肉やさんに3時間いた。
ビールを3杯飲んでコーラを飲んだ。
飲む場合はいつものことだけど、よく喋った。
焼肉やさんで遊んでいたのは、O君とY君とMちゃんとA、それに僕になる。
今日の夜はMちゃんに変わってN野さんが混ざって5人が「シルビア」でバーガーサンドを食べていた。
集ってばかりになる。
AとO君がナゴノスペースでイベントを開催した。
昨日と今日のことで、そこにはY君も絶えずいたので3人合同開催の感じもしている。
定期的な開催を予定していて、その最初だったので、まあ、手探りではじめたイベントだった。
これからの発展を祈るしかない。
突然だけど、朝にMちゃんからメッセージが届いた。
「革工房うえすと」というコミュニティをミクシーの中に開設したという知らせです。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=5443807
焼肉を食べていてそんな話になり、数時間後には出来ていた。
こうした企画はMちゃんが正しく、まごまごしていると、たいていはうやむやになってしまう。
これを読んでいて、面白そうだなという人は参加して下さい。
多分、どこかで会員特典がある。
1 20
ずっと寒い。
明日も零下と予報が伝える。
これだけ寒いと工房も暖房が効かない感じで僕は厚着をして仕事をしている。
染色した革は乾かないほどで、こうなると仕事の能率も悪くなる。
1月も20日になるともう終盤だなって感じになる。
つい先日お正月だったと思っていたら、もう1月も終わりそうになる。
今度の土日はAとO君がナゴノスペースでワークショップを開催するけれど、それが終われば、
本当に1月も終わる。
その終わりだなと感じてしまう頃に新年会を開く。
時期としては随分と遅い。
新年会は「S」になる。
1月29日の午後6時半開始です。
これを読んでいる生徒さんで参加希望の人は連絡をよろしく。
1 16
朝起きて着替えをしていると駐車場に車の入る音がする。
タルが来たんだなと着替えを続け顔を洗う。
それからシャッターを上げる。
最初に目に入ったのは雪で、雪の中に車があって運転席にタルがいる。
随分と吹雪いている。
西区はまずいよ。西区に入るとすごい雪になって駅前のビルが見えんなどとタルは言う。
そう言われても西区にだけ雪が降ってる訳ではない。
ふたりで朝食を食べながら、雪は止むかと予報を読む。お客さん、来れるかなと心配する。
誰も来ないんじゃないかな。
ナゴノスペースにはMが来た。Mの5人の友達も来た。
誰も来ないってことにはならず、逆に僕の教室にキャンセルの電話が続けて入る。
生徒もこの雪では遠方から来るって訳にはいかない。
気温は零下2度とテレビが伝える。
こうなると、降り積もった雪の端は氷柱に変わってしまう。
どうにも寒く、僕は布団にもぐりこむ。
しばらく寝て、起きるとお客さんが来る。
車のタイヤにはチェーンが付いている。
こんな雪の中でも来る人はいるんだなと妙に感心する。
感心して打ち合わせをしているとY君が来る。
Y君も偉いなと感心する。
そのY君とナゴノスペースまで一緒に歩く。
タルの後片付けを手伝いY君とふたりで寄り道をしながら帰宅する。
タルはナゴノスペースから直に帰ることにした。
車は我が家に置いて荷物はナゴノスペースの倉庫に入れた。
今日の一日を書くと、降り積もった雪になり、零下の気温になる。
Y君の雪の中を歩く光景にもなる。
1 15
午前9時に目覚ましが鳴り響く。
同時に夢が覚める。
だから、午前9時に僕は夢を見ていた。
夢の中にはタルがいて、タルはこれから巡礼の旅に出るところだと言う。
お遍路さんの装束を身にまとい、そんなことを言う。
その夢の1時間後に、僕は本当にタルと一緒にナゴノスペースへの路を歩いている。
さっき、タルの夢を見てたよ。と僕が言う。
どんな?とタルが聞く。
四国巡礼の旅に出るところだったと僕が答える。
なんで?
オレが死んで、その鎮魂ですと夢の中のタルは言っていたよ。
僕は夢の中で死んでしまった。
これは僕の幼年の頃のアルバムだと、百科事典のようなアルバムを僕は片付けては眺めている。
その中には僕の10歳までのすべてが詰め込んである。
次に10代のアルバムを取り出す。同じ百科事典のようなアルバムで、これには僕の10代のすべてが詰め込んである。
次に20代のアルバムを取り出し30代のアルバムを取り出し40代のアルバムを取り出す。
最後に50代のアルバムを取り出し、それを眺め、悪くはなかったななどと考えている。
どうも60代のアルバムはないらしい。
夢はそんなものだった。
自分が死ぬ夢はいい夢ですよとタルは言う。
夢診断ではそうらしく、確かに再生を暗示するらしい。
もっとも、再生を暗示されても再生しなくちゃいけないほどのドジはしてないつもりだけど。
1 13
木曜日の夕方、ここでAとO君がナゴノスペースでのイベントの打ち合わせをしている。
横にみきちゃんがいる。そうしているとIさんが来る。
僕を入れると何人がいたことになるかと思う。
Mが遊びに来ていた。予告なしに来て沖縄のお土産を渡してくれた。
ありがとう。
Mがいた沖縄は天気が悪く、名古屋に戻れば寒さに震えたらしい。
1月の半ばともなると、どこにいても天候は良くない。
Mがいても、教室には年配の生徒さんがいて、僕はMとおしゃべりする余裕がない。
Mはひとりで遊んでいる。
1 10
マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れて熱湯を注いだ。
ビシッと厭な音がしてコーヒーがこぼれ始めた。
あっ、ひびが入ったなと焦り、このマグカップは酷使したからなと妙に納得する。
それで水を飲みコーヒーを飲みお茶を飲みココアを飲んで、ビールを飲んでいた。
殆ど毎日愛用してしまうとマグカップも寿命が尽きてしまうもんなんだと妙に納得する。
Aに何て言おうかとしばらく考えこんでいた。
そのマグカップはAが僕にプレゼントしてくれたものだった。
昨夜、午後7時を過ぎて花ちゃんを車で駅前まで送る。
どうにも寒い夜が始まっている。
花ちゃんは昼の生徒が帰ったあとで入れ違いのようにここに来た。
忘年会から会うことがなかったので、久しぶりの感じがする。
誰もいないの?
誰もいないよ。
Yちゃんは?
静岡から電話があったよ。
花ちゃんはカービングをしている。僕はリメイクの作業をしている。
それ、すごく可愛いと僕のリメイクしている鞄を指差す。
だから、頂戴。
頂戴と言われてもあげるよと僕は言えない。
すごく可愛いよ。
花ちゃんといると、時々、混乱することがある。
混乱はいつも明るい混乱で、その花ちゃんを車に乗せている。
去年の今頃、何してたと思う?
・・・・・・・・。
木靴の鞄を作っていたよ。
・・・・・・・・。
一年とはそれなりに意味を持つものだ。
1 8
今年も1週間が過ぎた。
この1週間に何をしていたかと考えて、結局、何もしないで終わってしまったなと考える。
けれど、多分、なんかしている。
今年初めての生徒さんと年始の挨拶をする。
そうしていると、いつもの土曜日を感じる。
Mが一年越しに作業をしていた鞄がその制作を完了する。
ヌバックの鞄を抱え満足そうな笑みを浮かべてMが帰るとタルが残る。
タルは来週にはナゴノスペースでイベントを開催する。
はやいもので12月のイベントからひと月が過ぎている。
そんな話をする。
タルはセカンドバッグを制作中で、その型紙を切っている。革に染色をして乾かしたりしている。
僕は休息を入れている。
ふたりの間でとりとめのない会話が続く。
「ノルウェイの森」をタルと観ていたのは10日ほど前になる。
上映が終わり劇場が明るくなり一緒に映画館を出た。駅前を歩き「一心」に寄ってお酒を飲んだ。
カウンター越しに「一心」の主とタルの3人でおしゃべりをした。
明日から年末年始の休暇に入ると主は言って、サービスだよと赤出汁を出してくれた。
機嫌良く酔っている主は饒舌だった。
それから、10日ばかりが過ぎている。
タルと一緒にipadで「ノルウェイの森」の予告編を眺めていた。
小説の話をして、そんな時代の話をして、ユニクロのCMのいくつかを眺めた。
直子の話をして緑の話をして永沢の話をしてレイコの話をしてワタナベの話をした。
時々、僕は馬鹿ではないかと思うのだけど、タルが直子という名前だと、今日、タルに言われるまで気が付かなかった。
何故、それを忘れていたんだと変な気分で考えて、映画を直子と観ていたのも偶然には違いがない。
1 6
昼、久しぶりに実家に寄って仏壇に手を合わす。
そうしていると、住職が来て読経をはじめる。
5日ともなると仕事を始めても変ではない。
そうだと考えて机に向う。
けれど、仕事をしようという気が全く起こらない。眠くさえなる。
仕方がないかと寝てしまう。
正月の歯痛以来、どこか体調が変な気もしている。
こういう場合は寝てた方がいい。
夢を見ていた。
午前も夢を見て、その夢の続きを夕方見ていた。
悪い夢ではなく、今年は夢のようなことをするかも知れないと予感する。
僕は、長い旅の夢を見ていた。
それが昨日のことで、今日からは仕事だとメールソフトを起動する。
元旦以来受信したメールが328と出て来る。
殆どは迷惑メールかどうでも良さそうなメールで無視して良く、残った10通ほどに返信を書く。
書いているとMが来る。
Mは去年最後の生徒になって、今年最初の生徒にもなる。
誰も来ない工房でMと一緒に過ごし、隣りの喫茶店で珈琲を飲んでおしゃべりをする。
1 4
昨日までの二日間は歯が痛く、外出もせず読書ばかりしていた。
なんで歯痛があったか不明で、今日は何ともないので駅前をぶらつく。
文字どおりぶらついて帰宅する。
本屋に寄り一冊の本を買う。
お正月は「ノルウェイの森」を読んで過ごす。
それを読み終えて翌日には「零戦最後の証言」という題名のノンフィクションを読んでいる。
これは、文学とはほど遠い。
「ノルウェイの森」の話。
小説を読んで映画を観るか、映画を観てから原作を読むか、または、どちらかひとつにする。
「ノルウェイの森」はどっちなんだろう?
小説は、ワタナベが40歳になる少し前にその19年前を回想することで物語は進行する。
回想は突然にはじまり、そのはじまりは苦痛と混乱を伴う。
直子のような女性はいそうでいない。緑のような女性もいるようでいない。
レイコみたいな女性もいなさそうで実際にいないし、永沢のような男性は絶対にいない。
では、ワタナベはどうなんだろうかと考えて、いそうだなと思う。
思うけど、おそらくそんなにはいない。
そうでも、登場人物のすべては、誰もがどこかに少量のそんな気配を漂わせているような気がする。
誰もがその内面に直子を緑をレイコを永沢を持っている気がする。
そうやって生きているし、そうやって死ぬ場合もある。
読後感をそんなふうにしか書けないのは、少し困った話だ。
1 2
Mからの年賀状を眺めている。
書に堪能なMの年賀状はそれ自体が作品のように仕上がっている。
これでは、どうやってMに年賀状を届けたらいいかと悩んでしまう。
僕は文字というものをボールペンでの走り書きでしか書いたことがない。
とても拙い走り書きで、年賀状もそうしている。
Mにこれを届けていいんだろうかという悩みが出てしまう。
高校の頃、僕はヘッセを読みふけっていた。
ヘッセの書くあの時代のあの村の世界を想像して過ごしていた。
昨日と今日、「ノルウェーの森」を読み続けて、唐突なのかそれが当然なのかそのヘッセを思い出していた。
ヘッセを思い出すとはそれを読んでいた時代を思い出すということだ、
そして、40年も過ぎてしまえば、記憶というものはせいぜい色彩としての記憶でしかないと知る。
同時にそれは青春という時代が記憶としても色彩としてしか存在しないものだと知る。
その時代の細部を、どうやっても思い出すことが無理だと分ってしまうと、これは随分だなと思う。
生きて行くとは、或いは生きてしまうとは、とても大事なものを失くすということかも知れない。
失くして、それを糧に生きて、そしてまた失くすという作業の連続かも知れない。
喪失感は身体に大きな空洞を作り、生きていけるんだろかと悩み、それでもいつかはそれは埋まり、
埋めることが出来てたとしてもその重みは色彩として残る。
1 1
大晦日は一日中工房の整頓をしていた。
片付けはなかなか終わらず、夕方になる。
そんな時間になると、さすがにもういいやになってしまう。
夕食には、いつもより多くの飲酒をする。
そのせいか「紅白歌合戦」という番組がはじまる頃には眠くなり布団に入ると寝てしまう。
そのまま寝続けて目が覚めると午前5時になっている。
例年とは違い、年越しを寝て過ごしたことになる。
それから風呂に湯を張り、半時間ほど湯に浸かる。
風呂から上がり、年越しのそばを食べる。
そうやってはじまる今年はどんな年になるんだろう?
「ノルウェイの森」を観てから、映画の場面を反芻している。
「ノルウェーの森」の本ってあったっけ?
妻が息子の名前を言い、あるんじゃないかなと返事をする。
息子に「ノルウェーの森」ってある?と聞く。
あるよと言うので、借りた。
3頁ばかり読んで、いつ書かれた本なんだと文庫本の最後のページを読む。
初版は1991年4月発行で、2004年7月には49刷発行とある。
僕は、村上春樹という作家の作品を読んだことがない。
何故と聞かれても、多分、同世代だからだろうなとしか答えようなない。
村上春樹に限らず、同時代を過ごしてしまった作家、或いはさらに若い世代の作家を読む気がなく、
実際に読むことがなく20年を過ごしていた。
「ノルウェーの森」の発行から20年が過ぎ、息子は20歳に読み、僕が今頃になって読んでいる。
多分、映画を観ないでいたら、読むことはなかったはずだ。
「グレート・ギャッビー」という小説がある。
アメリカ人作家フィツジェラルドの小説で、これを「ノルウェーの森」の主人公のワタナベが読み漁っている。
ワタナベは18歳で「グレート・ギャッビー」を読んでいる。
それを知ってひどく驚いたもので、僕にもそれを読み漁っていた時期がある。
これは映画になり、「ロバート・レッドフォード」がギャッビーを演じた。
僕は、今でもそうだけどこの俳優が好きで、そのポスターを実に懐かしく思い出してもいる。
ギャッビーとはひとりの女性を思い続けることでその人生の悲劇を演じてしまう男の話だ。
直子は国分寺のアパートに住んでいる。
20歳の僕も国分寺のアパートに住んで、朝には中央線で四谷に出た。そこで電車を乗り換えて飯田橋で降りた。
そこにバイト先があったからだけど、そうして過ごした時期がある。
小説を読みながら、妙にそんな偶然に驚くものだ。
正月を読書で過ごすのも悪くはないなと思う。
今年の正月に予定は何もないので、時間だけはある。