5 31

5月も過ぎてしまう。

チョッと驚いた話がある。
昨日生徒が来ていて、雑談などをしていた。
生徒は昔、昔と言っても高校生の頃だというのだけど、小人を見たことがあると言う。
小人って、あの童話などに出てくる小人のことで、夜、彼の部屋の小窓に座っていたそうだ。
小窓に2頭身の小人が座って彼を眺めていたそうだ。小人の身長は20センチほどだったと言う。
それ、夢だろうと僕が言う。そうかも知れないけど怖かった。と彼が言う。
で、どうしたの?と聞くと、また寝てしまったと彼は言う。
そんな話を今日の夕食時に家族と話していると、突然、大学にいる時、そんな話を聞いたと娘が言う。
娘の大学の同級生も小人を見たそうだ。状況は生徒の話す内容と同じで、小人って本当にいるんだと娘が妙に感心していた。

そういえば、生ちゃんのHPを読んでいたら、深夜、彼の仕事場で妙な現象が起きると彼は書いていた。
詳しくは書いてないので、どういう現象かは分らないけど、どうも霊現象みたいな書き方だった。
生ちゃんはそういうことを書いたり、話したりすることはない人なので、意外で、だから、今度詳しく聞いてみよう。


5 30

昨日、今日と生徒が連日、遊びに来ていた。
生徒はずっといて、ずっとおしゃべりなどをしていた。

こうしたことは息抜きになる。

深夜、メールを書くことが仕事になっている。平均すれば毎日10通ほどのメールを書いている。
書くメールの多い日は20通を超えることもある。
メールは殆どの場合、深夜書いているので、午後3時とか4時発信のメールになる。
それに驚く人もいて、一体どんな生活をしているのかと聞いて来る人もいる。
確かに人が寝ている時間に僕は起きている。起きて、仕事をしたり、HPの更新などをする。
それが続くと、時々身体が持たないなと感じて、一日だれて過ごしたりする。

この生活習慣が良くないことは分ったいるので、やはり、いい加減にした方がいいか。

5 26

土曜日も夕暮れてしまうと、何となく開放感が漂う。
開放感のせいか、唐突な感じで生徒を飲みに誘う。それから2時間ばかりを駅前の居酒屋で過ごす。
居酒屋で生牡蠣をレモンで食する。生中を4杯ばかり飲む。適度に酔い、徒歩で帰宅する。


5 25

先に「柳生十兵衛7番勝負」のことを少し書いた。もう少し書く。
柳生十兵衛という人は1650年に死ぬ。享年は44歳。彼は44歳でその死を迎えるので、その死因にはいろんな説が出てくる。
個人的には彼の死因には何の興味がないので、それは省く。
書きたいのはこの1650年という年のことで、この同じ年に柳生兵庫助が死去。
因みに柳生宗矩は1646年に没し、、宮本武蔵は1645年に没している。
柳生兵庫助は尾張徳川義直に仕えていたが、この義直も兵庫助と同年に没し、義直と犬猿の関係でいた将軍職の家光は翌1651年に没する。
ところで、「柳生十兵衛7番勝負」に出ている由井正雪は1651年の「慶安の変」の首謀者とされ、同年自害しているので、
この1650年前後というのは、実に慌ただしい。
NHKのドラマでは柳生十兵衛と由井正雪の闘いを描いているけれど、史実では十兵衛と正雪には何の関係もない。

1650年という年は、先に列挙した人たちが、急いで没した感があるけれど、これは大阪の陣を経験した人たちが、
つまりは戦国の気風の残影をどこかに留めていた人たちがいなくなったということで、時代が武から文へと変換されることを意味している。
この変換後に来るのはその子どもたちの時代で、柳生連也などもその中に入る。
この1650年、連也は25歳の青春期にあり、その後を文の時代の剣士として生きる。
彼の晩年はすでに元禄の世で、天下は太平である。
彼の祖父である島左近は、石田三成の謀臣だった人で、彼には典型的な戦国の武将の気配があった。
彼は、関が原で死ぬが、それから1世紀を隔て、柳生連也斎が没することで、島左近が漂わせていた気配も消える。

5 23

これ、向こうのコーヒーメーカー。これでコーヒーを煎れると美味しいですよ。と彼は言い、使い方の説明をする。
突然に来た彼は、向こうのお土産を置いてゆく。
向こうとはイタリアのことで、3月をイタリア滞在で過ごしたと彼は言う。
彼はイタリアでいろいろな勉強をしたいと以前に言っていたけれど、本当にそうして帰国した。
若いということは、どうやらそういうことらしい。

昨日、四国をお遍路して帰宅した生徒が帰ってきたと我が家に報告に来た。
1200キロを徒歩で過ごした彼は日焼けして、たくましく、体脂肪を10ぐらい落として、落ち着いていた。
彼と2時間ばかりの雑談をする。
1200キロと簡単に書いているけれど、その距離は名古屋から東京へ歩き、東京から歩いて帰り、さらに東京へと歩く距離と同じで、
まあ、感心ばかりする。
お遍路の旅は、山登りの旅のようなもので、やはり、感心ばかりする。

みんないろいろと決意をして、何事かをしている。
僕も何事かをしなくてはとは思うのだけど、思いは日々の慌ただしさに紛れ込んでしまっている。
若さを失うということは、案外、こうしたことかも知れない。

5 20

叔父の死去から4日が過ぎた。通夜、告別式と続き、ようやく落ち着いた感覚が僕の中に出てきた。

5 11

土曜日は慌ただしい曜日。
朝から、絶え間なく人が出入りする。
それは、生徒だったり、お客様であったりする。

先の連休にDVDで「硫黄島からの手紙」を観ていた。その映画を観てしまうと、「父親たちの星条旗」が観たくなり、観た。
どちらも、誰もが観るべき映画で、こうした映画がアメリカで受け入れられることは、いい。

5 8

NHKの木曜時代劇が現在「柳生十兵衛7番勝負」という番組を放送している。今日の放送には柳生連也が登場していた。
この番組の主役である柳生十兵衛という人は詳細の分らない人で、それゆえに講談ものになる。
ところで、この番組の主役である柳生十兵衛には興味が湧かず、柳生連也斎厳包という人のことが気になっていた。
柳生連也斎厳包とは柳生新陰流第5世にして、不世出の天才剣士と云われた人で、父は柳生兵庫助利厳、母は島左近の三女になる。
島左近とはあの島左近である。
この柳生連也斎厳包が柳生新陰流を集大成したと云われる。

テレビ番組を観ていて少し想像したのだけど、連也は十兵衛に出会ったことがその生涯であったのだろうか?
そんなことはなかったと思うのが多分本当のところだろうけど、連也には江戸詰めの時代があったので、あったかも知れない。
出会えば立会いなどをしてみたりしただろうか?

連也には十兵衛ではなく、その弟の宗冬と立会いをした逸話がある。
これは慶安御前試合というもので、逸話の中で宗冬はその親指を連也に砕かれている。
この詳細は不明で、本当のことか尾張柳生家の喧伝かは分らない。ただ、連也という剣士がそんな逸話を残す剣士であったのは事実だったようだ。

何で、こんなことを書き始めたかといえば、
先日、柳生延春氏が死去したという新聞記事を読んだ。
柳生延春氏とは、柳生新陰流第21世を継いだ人で、だから、柳生新陰流は現代でも脈々と継承されている。

ところで、連也はその晩年を連也斎と号す。
生涯を独身で過ごし、子はなく、その遺骨は遺言のとおり、俵に詰めて、熱田沖に押し流された。

5 3

連休の後半がはじまる。町は至って静かである。
連休と言っても僕は仕事をしている。仕事をしているけれど、町が休日というのはやはり休日の気分が僕にもが漂い、呑気な感じで仕事をしている。
シャッターは閉めている。
さて、この今日からの3日間は生徒が来ない。誰も来ないのかな?


そういえば、僕の生徒が現在お遍路の旅を続けている。
ちょうど半分ほどの行程の筈で、彼の気分の中では峠を越した感じなんだろうか?
彼のブログを読んで、彼にエールを送る。