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妻の実家の法事に出席する。

しばらく書いていなくて、久しぶりに書き込んでいる。
毎日がどうにも慌ただしい。HPの更新さえままならず、少々いじけている。最近、どうもいじけて過ごしている。
いじけなどせずに、のんびり感を持てばいいのだろうけど、まあ、性格なのだろう。

5 8

蝉しぐれの続き。

文四郎が父の遺骸を荷車で運ぶのは炎天下の城下である。
疲労感は耐え難いもので、16歳の文四郎にはどうにも惨い仕打ちだが、その荷車がふっと軽くなる。
驚いて振り返ると
道場の後輩の杉内道蔵が荷車を押している。
道蔵は荷車を引いている文四郎を見かけ、追いかけて来たのだった。
文四郎と道蔵の会話が始まる。
「死人はいやじゃないのか」
「いえ」と道蔵は言う。牧さんのお父上ですから、何とも思いません。
道蔵の目の前には死体の足先があり、それが筵から覗いて見える。
文四郎は次のようなことを言う。
自分は腹を切らされた罪人のせがれで、これから世間は敬遠するだろう。お前ももう俺には近づくな。
道蔵はそれには答えない。答えないまま黙々と荷車を押す。
道蔵はこの時14歳。現在ではちょうど中学2年生の年齢になる。
文四郎は16歳だから、現在では高校1年生ほどの年齢で、つまり、そんな年齢の子どもの会話が以上の会話になる。

このあと、テレビとか映画で描いた光景になる。
お福が小走りに駆けてくるのだ。荷車の遺骸に小さな手を合わせ、それから荷車の棍棒を懸命に引く。
お福の眼からは涙が溢れ、それを拭きもせず、一心に棍棒を引く。
この時、お福は、まだ12,3歳の子どもだった。

江戸期の子どもを知ることはない。江戸期の武家の子どもの修身というものが、どんなものかは、どうやっても理解は出来ない。
ただ、憧れではなく、ひとつの理想を、教育というもののひとつの理想として、それがあってもいいのではないか。
それというのは、そうした子どもを作る風土のような何かのことで、現代がまだ、どこかに持ち続けている何か。

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アマゾンから「蝉しぐれ」が届いて、届いた日から、そればかりを見て過ごしていたものだから、この連休は「蝉しぐれ三昧」の毎日だった。
劇場版はテレビ版とは違っていたけれど、それなりによく出来ていて、とても上質な日本映画を見ていた余韻は、まだ続いている。
劇場版の映像は叙情的で、テレビ版が叙情をではなく人の成長する内面をドラマチックに描いたという違いがあるにしろ、
どちらも小説で描いた世界を映像化しているのは確かで、それが成功したのも事実だった。

「秘剣村雨」は映画では省略されている。テレビでは省略されてはいないけれど、「秘剣村雨」を文四郎に伝授する人物を原作とは違って登場させている。
これは小説をドラマ化する場合、登場人物を省略して簡素化するせいで、映画はさらに簡素化しているので「秘剣村雨」さえ省略される。
省略することで話の筋が違ってくるけれど、話の筋は小説を読めば済むので、あまり重要ではなく、むしろそれでも「蝉しぐれ」の世界が成立してしまうのは
さすがという感じがする。この映画の監督がテレビ「蝉しぐれ」の脚本を書いているので、これは当然とも思うけど、やはりさすがなのだろう。

文四郎は父が死ぬ前に言い残す「はげめ」という言葉を大事に生きる。はげめとは「剣術にはげめ」ということだった。
ひたすらはげむことで文四郎は「秘剣村雨」を伝授されるのだけど、物語の中ではこの「秘剣村雨」が彼を救う。
彼を救うとは単純に彼を救うということではない。彼が大事にしているもの、彼のかけがえのないもの、彼が愛して止まないものを救うということで、
これは「はげむ」ということがいかに人に大事なことかを端的にあらわしている。
(「秘剣村雨」が現実離れしたものであるとか、漫画的だという評は殆ど意味がなく、むしろ人がはげむことで得る何かだと思えばいい。)

人は何事かに「はげむ」ことで生きていれば、それで人の大事な何かを守ることが出来る。
そんなことが伝わって来て、何だか気分がいい。

本当に何だか道徳的なことを書いている。
道徳的といえば、この「蝉しぐれ」はひどく道徳的な小説で、映像も道徳的に出来ている。で、この道徳感は鮮烈な気配さえ漂う。

道徳感が鮮烈というのは、やはり、道徳というものが身にしみている何かではなく、憧れる何かになったせいだろうか?