4 29

藤沢周平「蝉しぐれ」のDVDをアマゾンに注文を出す。劇場版とNHK版のふたつを出す。NHKの放送では何度か見ていて、映画ははじめてになる。

「蝉しぐれ」の小説を読んでいて、読み終えて、さらに抜粋して読んでみて、そうして感じたんだけど、この小説は大変な名作です。
こうした小説を書く人がいた。ということは感動的です。

4 20

携帯はケータイと書くらしい。
ケータイの機能の紹介番組を見ていて、ただの道具に過ぎないと考えていたケータイが革命を始めているかも知れないと、機能の多さに唖然とした。
あと一年ばかりが過ぎれば、ケータイの進化はさらに進んでいる筈だから、そうなれば、もうこれは完全な革命だろう。
生活自体を変えるというか、時代のスタイルの根本を極めて短時間に自然に変えてしまうというか、そんな革命。

ところで、僕のケータイは鳴らない。故障ではなく、単に鳴らないだけ。
着信記録を調べると、どうも1週間に一度の着信らしく、送信となると、10日に一度になるらしい。

誰かケータイを鳴らしてくれないかな。

4 18

「新陰流兵法目録」なるものがある。別名「連也口伝書」。
連也とは柳生連也斎厳包のことで、あの高名な柳生兵庫助厳利の3男である。
この口伝書を連也は13歳で書いたといわれるので、彼の天才ぶりが分る。

戦後の最高傑作は何かと聞かれて、五味康祐の「柳生武芸帳」をあげる人は多い。
この小説自体は荒唐無稽の話だが、この武芸帳という巻物のモデルがどうもこれらしい。
小説の中でもこの巻物の内容は明かされないので(そもそもこの小説自体が未完のまま終わっている。)、何とも書きようがないけれど、
小説の中で、五味康祐は唯一柳生連也斎という登場人物を愛情を込めて書いている。
五味康祐という人は余程「柳生連也斎」なる人物が好きで、彼の名前を題名にした小説も書いている。
その口伝書は兵法の口伝書で、だから「柳生武芸帳」の中で推理される内容ではない筈だけど、口伝書は秘伝で、誰も知ることがない。
尾張柳生のご当主を除いては。
何だか、それが気になっている。ずっと。

4 16

「団塊の世代はその膨大な人口が他の世代と比較して目立つために、幼い頃から学校で知らず知らずに競争を繰り広げた。
そのため、青年期を迎える頃には、他の世代に比べてとりわけ自己主張が激しくなった。また「平等」に強いこだわりを持ち、他人の足を引きたがる傾向が強い。」
とウェキペディアは団塊の世代に書いている。
僕は団塊の世代と微かにずれる。微かにずれるということは、彼らが兄で、兄のうしろを歩くように生きてきた弟の世代と書いてもおかしくない。
正に弟で、兄のしてきたことの後始末をしながら歩いているようなものである。

僕には団塊の世代に対して愛憎がある。
団塊の子どもの世代を団塊ジュニアという。
現在、年齢は25〜30前後のはずで、この世代も僕の子どもたちの世代と微かにずれる。
だから、僕の子どもたちも団塊ジュニアの弟のように生きることになるかも知れない。

そんなことをぼんやり考えていた。

4 11

昨日から雨。激しい雨が降る。

先にイチローの言葉からはじまるあるスポーツコラム、正確にはスポーツコラムではなく政治評論みたいな一文に僕は反発をして、少し書いた。
その中に、一文を書いた人をこの作家と書いたが、この作家とは星野智幸氏である。

本日の夕刊(中日新聞)に藤島大氏がそれに関するコメントを出している。
(藤島大という人は僕の好きなスポーツコラムを書く人で、彼の文体のテンポは良く、発想の角度は意外性があって、面白い。)
さて、藤島大氏は先の星野智幸氏の一文にこう書く。イチローの屈辱発言に対してである。

イチローは屈辱と言ってもよかった。なぜなら、それは「スポーツの内側の言葉」だからである。
つまり、「屈辱発言」許される。と副題が付く。

藤島氏の一文を読んだ後で、これを書いている。

付け加えて書く。4月5日の文に付け加えて書く。
星野氏が書いた一文は、すべてイチローの「屈辱」という言葉から成立しているようなものだけど、その前提のとらえかたが違えば、感想は違ってくる。
はっきり書けば、星野氏の一文は暴論である。暴論ゆえに腹立たしいものである。
星野氏の感想は、イチローの言葉から、それを好感する日本人に失望する。という感想で、そのような感想を持つことは自由で、
発言は許されていいものだけど、「失望する」という言葉を使えば、意味合いは違っても来る。
アンタには失望するよ。と言われれば、誰でもいい気はしない。
ましてや、理由ときたら、イチローの「屈辱」という言葉に好感を抱いたのが理由とくれば、なおさらで、
それを理由に、デリカシーの欠如とか、暗いナショナリズムとか、挙句には韓国を差別している。というレッテルを張られたりすれば、
つまり、そのような人の根源の部分を暗く断定するような発言であれば、意味合いは違って来る。
これは、根拠のない理由で人を侮辱していると同じではないか。

4 9

天気のいい日曜日で、いつもと別の世界にいるような静けさが町にある。
昨日の嵐の一日の余韻が少しばかり漂っている。

誰もいなくて、誰も来ない日曜日は滅多になく、洗車をした。
洗車を終えてもすることがなく、ぼんやりと過ごす。
どうやら僕は、何かをしていないと落ち着かないのではなく、何かをしていると落ち着きがない性格らしく、今現在、妻と子どもがいなくて、
することがなく、自由な空間にいるかと考えると、ホント、のんびり感が満ちてくる。
本当に予定のない日曜日で、さて、コーヒーを飲みながら、寺井尚子を聴いてみる。


4 8

中日対巨人戦が名古屋ドームであって、それをテレビで見ていた。
野球を見ることが、僕には珍しく、それを見ていたのは川上と上原が投げ合っていたせいだ。
8回が過ぎ、同点で9回を迎えている。
9回の表の巨人は零点で、裏の中日にサヨナラの期待がかかる。
案の定、巨人の守備の乱れも手伝って、1アウト満塁の好機を中日は迎える。
外野は前進守備に入り、打席に立浪が入る。立浪である。
投手は上原で、上原は交替する気配はなく、投げる。無論、この場合の交替はない。
上原の投げた2球目を立浪が打つ。無造作な感じで打つ。その瞬間、ボールがライトスタンドに入るのが分る。
ボールの行方をすべての人が見て確認する。熱狂がスタンドを覆う。
僕が気になったのはその瞬間の上原だった。立浪には何の興味も湧かず、上原の心情を見ていた。
腰が折れ、片膝をマウンドの土に付けた上原だった。上原の表情だった。あれはいい顔だった。
戦う男のいい顔だった。

僕は中日に興味がない。中日の選手にも興味がない。巨人は嫌いなチームで、つまりはどうでもいい試合だったけれど、
戦うということに、人生を凝縮して生きている人を見るのは、気持ちがいい。


4 6

久しぶりに外食をする。いつ以来かが分らないほどの外食で、それをしたというのが僕のニュースのようになる。
実際、僕は滅多に外食をしない。
昨日、名古屋ドームでローリングストーンズの公演があって、それに息子と妻が出かけた。
だから、夕食は外食したっていい筈なのだけど、そうはしないで、カレーなどを家で食べる。
夕食の後はひとりで過ごし、ひとりで寝てしまう。
そういえば、ローリングストーンズの公演にも僕は出かけない。チケットが無料であっても出かけないよ。と僕が言えば、息子は呆れていた。
実は、僕はひどく出不精でもある。

今日の夕食は生徒と一緒に食べた。これも久しぶりだけど、ステーキを食べた。ついでに牡蠣フライを食べた。
どちらも好物なのだけど、ずっと食べることがなかった。機会がなかっただけだけど、ついでにおしゃべりなどをした。
食後のおしゃべりも僕には珍しい時間で、何だか呑気に時間が過ぎた。


4 5

昨日、夕食時にテレビを見ていたら、教師とタレントが何やら学校というか、教育というかそんなことの対話というか対論というか、そんな番組を流していた。
時間帯からその番組はバラエティ番組になってる筈で、実際もそうで、そんな番組に出て教育現場を語る教師がいて、それに文句を言ったりするタレントがいる。
教育もバラエティになる。現在はそんな時代らしい。いいか悪いかなどは考えないけれど、まあ、大変だな。
大変というのは時代が大変だな。という意味で、教育が大変だな。ということではない。
教育は大変に決まっている。世間に人がいて、人がいる以上、大変に決まっている。

話を変える。
WBCで日本が優勝した。この出来事も何だか古い。
昨日、それに関した評論が中日新聞の夕刊に掲載される。題名は「差別はなかったか」
書いた人は作家らしく、この作家を僕は知らない。
さて、この評論の文中にイチローという選手が出る。イチローのコメントとそれを自然に受け入れる日本人はデリカシーが欠如しているとこの作家は書く。
イチローは小泉首相に似ているとこの作家は書く。
ちなみにデリカシーとは韓国へのデリカシーで、つまりは日本は韓国を差別している。とこの作家は書く。
「差別はなかったか」という題名は、無論、差別はあった。と題名を変えてもよく、「WBCがまとうくらいナショナリズム」と副題がつく。
すべてはイチローが韓国戦に2度負けた時のコメント「僕の野球人生の中でもっとも屈辱的な日です。」のコメントからはじまる。
どうやら、この作家はイチローも小泉首相も多数の日本人も暗いナショナリズムを持つと信じているらしい。

で、思うのだけど、
イチローのコメントから、それだけを導き出して、それを批判しない日本人に失望する。と書いてしまう人もいる。という現実の方が、
僕には驚きで、さらに書けば、少しばかり腹も立つ。
何で、僕が韓国を差別して、デリカシーがなく、暗いナショナリズムを持つのか。何で、そんなふうに断定されてしまうかが分らない。
僕はイチローのコメントに好感を抱いた日本人には違いがなく、だからといって、それがそうまで断定されてしまう根拠になるのでは、
好感にしろ、嫌悪感にしろ、何かにある感覚を抱くということが出来なくなる。ではないか。
感覚さえ、ある方々に合わせた感覚を持つ以外仕方がなくなる。ではないか。
これは馬鹿げている。
ちなみにイチローのコメントは韓国への差別でもデリカシーの欠如でもなく、単に国の持つ野球の歴史への認識を元にしているコメントで、
ユニフォームに「JAPAN」を抱いた選手のコメントとしては正当過ぎるコメントで、だからイチローに好感を抱く。
かつてこの国の野球をしている選手で、それを意識して「JAPAN」のユニフォームを着た選手がいただろうか?
むしろ、ようやくこの国の野球は技術がではなく、意識がそんなレベルに来たと、僕は好感を抱く。
野球に歴史があり、歴史に扉があるのなら、イチローが先頭に立ち、それを押した。

4 2

名古屋は嵐のような一日になる。
雷鳴さえ轟く。桜は散るのだろうか?

こんなひどい天候の日でも生徒は来てくれて製作に没頭している。僕はそれを手伝っている。
今日の生徒のひとりはベルトポーチを完成させ、ひとりはバイク用のサイドバッグの製作に入る。

日曜日の夕方にはいつも空腹感が来る。日曜日には昼ごはんをあんまり食べないせいかも知れなくて、
よく近所のお好み焼きやさんでたこ焼きなどを買う。特別旨くもないのだけど、まずくもなく、何となく食べている。
時々おかしく思うのだけど、僕は生徒のアシスタントみたいに製作を手伝い、たこ焼きなどを買ってきては、それを生徒と一緒に食べて
お茶を入れる。これでは、僕はどう見ても生徒のアシスタントであるしかないらしく、人には先生だなんて見えないんだろうな。