5 23

雨が降り、西区民まつりは中止になる。中止になるほどの雨だとは思えなかったのだけね。
中止の知らせは連絡すべき予定時間よりかなり遅れて入る。遅れたのは、多分、主宰者の会議が長引いたせいだろう。
何といっても少雨決行などとパンフレットには書いてあったのだから中止にすべきかは迷うところだ。
ただ、中止はたいていこんな場合にはない。台風などが来れば別だけど、たいていは決行される。
いろんな事情があるので、滅多に中止はない。ところが今回は中止になった。
おそらく昨年の影響なのだろう、。実は昨年も雨で、雨の中で決行して、ひどい結果になってしまったからだろう。
その二の舞はどうにも演じたくはなかった気持ちが主宰者にはあったのだろう。

5 18

5月15日の中日新聞サンデー版の「サンデークラフト」というコーナーに当工房の師範代N君のインタビュー記事が掲載される。
(ちなみにN君を師範代というのは、僕が勝手につけたあだ名で、いつも当工房で師範してくれる人ではありません。
追伸ですが、N君は相当に手先の器用な人で、感覚が鋭く、大変真面目な人です。)
記事は中日新聞と東京新聞に掲載されたらしく、当工房のHPのアクセス数が、大幅に増える。
記事はクラフトを楽しんでしている人のインタビューで、実に楽しく拝見したものです。写真も楽しかったし、
ひさし振りに愉快な新聞記事だった。
最近の新聞にはろくな記事がないのは確かで、面白くもない読みもので詰まっていたけれど、これは違った。


5 8

ひとつの話を書こう。

僕は、革を素材に何かを作る。ということを生活の糧にしている。だからプロという訳ではない。

僕はひとつの話を書いている。プロとアマの違いについてを書いている。
「それを職業にする。」ということは何だろう?という問いは、こうした仕事を始めた頃からあった。今はない。
最近、よく分るようになったのだけど、それで食べていける、いけないという違いは詰まるところはプロとアマの差ではない。
作品の出来がプロとアマの差を決定する。ということは全くない。
それで食べてゆけないプロなど腐るほどいて、また、すごい工芸作品を作るアマも数多くいる。
だから、そうしたことがプロとアマの違いにはならない。
けれど、プロとアマには決定的に違うものがある。それは製作する姿勢に他ならない。
つまり、プロとアマの違いは楽しんで作るか、苦しんで作るかだけだ。前者がアマで、後者がプロになる。
クラフトという作業は楽しいものだと僕は言い、それを普及させる努力もしているけれど、これは遊ぼうとすれば十分遊べるという意味で、
本当は製作するという作業は楽しいものではない。製作を続ければ、続ける分だけ楽しくはなくなるものだ。
むしろ苦しいもので、逃げたしたいもので、夢にまで追いかけられるものだ。仕事を放り出して、遊んでいられたらとつくづく思うものだ。
プロとはそうしたものだ。何故なら、お金を支払う注文主という絶対的な批評家がいて、批評家には満足して貰わなければならないからだ。
断っておくが、書いているのは、店頭に製作した品を飾り、それを気に入った誰かが購入するという形式で成立している作品の製作者のことではない。
僕は、僕が作りたい何かを作っている訳ではない。特定される知らない誰かが欲しい何かを作っている。

僕は仕事の依頼を基本的には断らない。どんなに難しい作業であれ、基本的には断ることはない。
それは簡単に書けば、プロというのが理由で他に理由はない。
僕はどんなものでも受注で作る。注文主の依頼を入れて、受注で作る。完成していつも思うことは、これで大丈夫か。ということだ。
これで注文主は満足するだろうかと、いうことだ。そう、僕はいつもテストを受けているようなもので、絶えず満点を取る必要がある。
だから、本音を書けば、いつも苦しい。

5 6

鉄道事故をおこした会社が非難の的になっている。この会社は非難されていい。
100を超えた数の死者が出て、400を超えた数の人が負傷をしたんだ。非難は大いにされていい。
ただ、本当のところ、今を生きる我々に、事故を起こした会社にどんな非難が出来るか?と思う時がある。
事故の原因は会社のモラルなんだろうか? そうしたモラルを常識にしている我々なんだろうか?

人を非難するのが、この社会に住む人々の好物のようで、テレビを見れば、誰もが突然に教育者になったように、
分り切ったことを真面目に話す。で、悪夢はなくなるんだろうか?
ボウリングをしていたそうだ。事故当日にそうして遊んでいたJR西日本の社員がいたそうだ。
3次会まで飲食していた社員がいたそうだ。で、彼らは非難されるけど、実際に彼らはどう仕様もない人たちだけど、
本当は、社会に住む誰もがそんな人たちだと誰もが気付いているんじゃないのか?
ボウリング大会の中止を進言した社員がいないと報道するけれど、そうした進言する人を変人扱いにするのが、
この社会だと本当のところ、我々は知ってる筈ではないのか?


誰もが、自己の責任で物事を考え、何事かを決定し行動する。ということを不可にしてきたこの社会で起きた事故の付けはこの社会が支払うしかない。
支払う期間は多分無限なほどの長さになるけれど、そうでなければ、我々自身が生きるに値しなくなるかも知れない。

5 1

5月になった。5月は1年の内でもっとも好きな季節です。


街は連休の最中で静かです。
本日は昼から雨になる。初め、ひそやかに降る雨は夕方になる頃には本格的に降るようになる。
雨は夜を過ぎても止む気配はなく、連休の天候を心配する。
もっとも僕は連休を返上して仕事に勤しむ。相変わらずにこなす仕事が相当数あるので仕方がない。
本日、娘を連れて母の見舞いに行く。母の居場所に到着すると電話が鳴り、工房へと帰る。
工房で用事を済ませ、改めて母の居場所に戻ると、また電話が鳴る。
同じことの繰り返しをする。こんなふうにホントに落ち着かない日曜日の午後を過ごす。結局、雨に濡れた。

鉄道の大事故から1週間ほどが過ぎた。106名という人が瞬間的に、あるいは死を意識する時間を持った上で死んだ。
数百人の人が傷を負い、さらにその数倍の数の家族の人が悲嘆にくれ、どうにもならない悲しみに向き合うことになった。
死んだ人の無数の友達が苦しみ、事故で生き残った人が生き残った意味を考え込まざるを得ない悪い記憶を作り、さらに生きて行く事態。
何故、現代にこんな悪夢が起きてしまったのか。
何かが、根本的な何かが、今を生きている我々には欠けているんだろうか?
事故を起こした誰かではなく、組織でもなく、もっと違った何かが、この社会、今、我々が住んでいる社会、また時代にはあるんだろうか?