4 27

先日、ある人が新聞に靖国神社と戦犯、特に東条英樹について書き、最近の中国、韓国での反日運動への対応を
書いているのを読んだれど、何だかチョッと変な感じだった。
書くまでもなく、東条英樹という人は開戦時に総理大臣を務めた人だが、戦争を始めた人ではない。
当時の日本という国は総理大臣が戦争を欲し、だからと云って、それが実行されるという政体だった訳ではない。
むしろ、総理大臣の職務が、ひどく軽いものされて仕方がなかった国だった。
また、天皇がそれを嫌だと言い、だからと言って回避されるという国だった訳でもない。
そうした個人の気分とか信念で、戦争が始まり、戦争が終わるということはない。
(どう考えても戦争はそのような単純なものには思えない。)
むしろ、東条という人の罪は戦争を始めたなどと書くよりは、戦争を回避する努力を怠ったと書くべきで、その方が正しい。
(彼が戦争の回避に熱心であったとしても、戦争は回避されなかったと思うにしろ)
また、天皇に戦争の責任があるとしたら、戦争の回避に無力な立場だったということにあり、天皇個人にその責任がある訳ではない。

戦時中、東条という人は、海軍(特に連合艦隊)の暴走に嫌悪感を抱いていたとしても、海軍の作戦に口出しを出来る立場にはなかった。
また、海軍の将官が東条という総理大臣の意向を配慮するなどということは金輪際なかった筈で、つまりはそんなふうになっていた。


チョッと飛んで書く。
いろいろと考え込んでいると、何だかつまるところは無責任さで、責任回避能力に長けた連中のずるさが国に膨大な災害をもたらすということらしい。

4 20

先に書いたドイツ潜水艦の話の続き。
ドイツ敗戦時に日本が接収した潜水艦は6隻で、その艦名をイ501、イ502、イ503、イ504、イ505、イ506と書いたけれど、
補足して書くと、イ503、イ504は元々はイタリア潜水艦。これはイタリア降伏時にドイツが接収した艦で、ドイツ敗戦時に日本が接収したもの。
どちらも神戸で敗戦を迎え、紀伊水道にて処分される。何だか船というものは人の一生に似ていなくもない。

付け足しで書くと、イ500潜(Uボート)はドイツからペナンまで2ヶ月と10日間の航海をする。
(艦長以下乗組員はドイツ人で少数の日本人が同乗している。)
これは制海権を持たない彼らには想像を絶したものだったろう。
艦はペナンから日本に回り、乗組員は日本で技術指導にあたり、のちペナンに帰る。
すでにインド洋の航海は無理になり、従って帰国の目途も立たず、乗組員は日本軍と一緒に任務に就く。
ちょっと信じがたい話だが、彼らはドイツ降伏時に摂取した6隻の潜水艦に乗船し、運輸などの任務についていた。
やがて終戦を迎えるのだから、彼らは2度敗戦の憂き目に会うことになる。途方にくれるとはこんな時に使う言葉かも知れない。
詳細は不明だが、彼らは無事にドイツに帰国する。
荒れ果てた国から荒れ果てた国への帰国がどのような心情をもたらすかは、想像するしかない。

記憶で書くので、間違いがあるかも知れないけれど、日本が中国と戦争を始めた頃、中国海軍が軍艦を一隻日本に注文したことがあった。
それを日本の民間会社が請負い、完成させ中国海軍の駆逐艦だったかになり、日本との戦争で撃沈される。
ただ撃沈場所が河口だったらしく状態は鎮座で、艦は引き上げられ、修理の上、日本の駆逐艦になり、戦場に現れ米軍に撃沈される。
こんなふうに2度撃沈されるという運命もあるらしい。
そういえば、米軍駆逐艦が戦争初期に日本に捕獲され、のち日本の海防艦に変身し、戦場に現れたこともあった。
この時、この海防艦を見た米軍の兵隊は、ひどく驚いたようだった。という記事を読んだ記憶がある。こうなると本当に船は人に似ている。

4 17

4月はとっくに始まっていた。

昨日、今日とドライブをする。
ホントに久しぶりの休日の感じで、ドライブがその感覚に輪をかける。
先にこのページに何かを書いていた時は、吹雪いた街を眺めていたものだった。
それから3週間が過ぎてみると、その3週間には夏日があったり、桜が咲き、桜が散るという時期があり、
Tシャツを着て街を歩く人がいたりする。
季節は実に性急なものだとつくづく思う。

以上とは何の関係もなく以下を書く。
最近「亡国のイージス」 「終戦のローレライ」という小説を読んでいた。
その話に関連したことを書く。
「終戦のローレライ」は昭和20年8月の架空の話だけど、実は架空ではなく、本当の話がある。
戦時中、日本にはドイツ潜水艦(通称Uボート)が2隻存在していた。
Uボートは日本の通常潜水艦に比べ小型で、日本ではその小型艦をロ号と読ぶ。日本の潜水艦はイ号、ロ号、ハ号の3種類があるけれど、
これは大きさからの名称で、Uボートはそのロ号に当たる。
もう少し説明すると、ドイツ潜水艦はドイツからの供与艦になり、より正確に書くと、ヒットラー個人からの供与艦で、それは研究対象兵器になった。
つまりは出撃することはなかった潜水艦だった。加えて書くとUボートは2隻あり、艦名はロ500潜、ロ501潜という。
(ちなみにロ501潜は昭和19年5月日本への回航中に大西洋にてイギリス駆逐艦に撃沈される。)
昭和20年5月ドイツ降伏時に、アジアに存在したUボートは必然的に日本に接収された。これが6隻あった。
艦名をイ501、イ502、イ503、イ504、イ505、イ506という。この6隻も出撃するには無理がありすぎて、主に補給活動に専念し、終戦時まで出撃はしていない。
「終戦のローレライ」という小説ではさらにドイツからの捕獲艦が存在し、それがイ507になり、特殊兵器を搭載し出撃するという架空の話になり、
小説は8月15日で終わる(実際は現在まで続く。)けれど、実話はさらに奇怪な話として歴史の中にある。
本当のことなのだが、昭和20年8月18日にロ500潜が出撃をしている。
出撃した軍港は舞鶴港で、秘密裡にではなく、堂々と市民の見送りを受け、軍楽隊の演奏を背景にしての出撃で、戦時中であれそのような出撃は
なかったろうと想像される風景だった。時刻は午後2時で、ひどく暑かった。とある隊員の記憶にあるのだから、おそらくはそうだったのだろう。
書くまでもなく、8月18日は終戦後で、ロ500潜に出撃命令があるはずがなく、だから、これは堂々とした抗命事件になった。
停戦命令が国内でも実施されるのが困難だった証明になる。と書くべきか、終戦直後の軍の混乱の証明になるかは別にして、舞鶴の参謀連の焦りはすごかった。
さらに話をややこしくするのは、ロ500が舞鶴司令部の管轄にあるのではなく、呉の管轄にあったせいで、ロ500への舞鶴司令部の停戦命令に対しての
ロ500からの拒否の返答は度を過ぎたものだった。このやり取りは書かないが、やり取りの間にロ500は日本海を北上する。
実はロ500はウラジオストックを攻撃しようとしていた。ウラジオストック軍港にいるロシア艦船への攻撃を出撃の目的としていた。
8月18日夜半、ロ500は舞鶴とウラジオストックの中間地点に到達し、海上で、搭載している主砲、機銃の試射をする。
翌19日、ロ500は突然に反転をする。呉司令部の説得を受け入れたというのが反転の理由で、以後の資料はなくなる。
この後、舞鶴に翌19日寄港するはずなのだが、艦長以下の殊遇は分らない。
昭和21年、ロ500は日本海にて米軍により処分される。