4 30

海外のプレスがイラクで解放された人たちへのバッシングが理解出来ないと言う。不思議だそうだ。
けれど、何をしてもバッシングされるというのはこの国の空気みたいなもので、そうした空気の存在の不思議さを嘆いた方がいい。
例えば、今回のバッシングへの前提に自衛隊へのバッシングがある。これもこの国の空気みたいなもので、自衛隊員であることが、
ある方々には犯罪者のように映るらしい。
犯罪者といえば、最近、ある方々には国民年金を未納だった国会議員が犯罪者のように映るらしく、ひどく深刻にその事実をテレビで語る。
国会議員が国民年金未納だった事実は笑止です。笑止以外の何かを感じない。

4 27

昨日、西区役所の会議室にて体育指導員の感謝状贈呈に出席。
そういえば体育指導員というよく分からない地域の仕事を8年間続けたものでした。その8年間への感謝状を役所がくれた。
記念品も頂いて、これは傘でしたけど、まあ、こんな風に仕事は終わるものかという印象でした。

体育指導員という仕事のことではなくて、地域のいろんな仕事を聞いていると、結構思うことがある。
例えば、子供が「子ども会活動」に参加したいのだけど、母親が子供を子ども会に参加させなくて、
子供が本当にかわいそうだということを話していた人がいたけれど、子供を子ども会に参加させないのは、
母親が子ども会の役をしたくないという理由のせいで、つまりは親のエゴで子供が泣いたりしている。というそんな話です。
親のエゴというのは別にして、ある印象を感じたのは、そうした話は、実は世間に多くあり、詰まるところは人の
身勝手さへ嘆きになるのだけど、そうした中で地域があり地域活動があるということです。
付け加えて書くと、町費を払いたくなくて町内会に参加せず、この割合が西区では10%ほどあり、名古屋市全体では30%ほどあり、
ある区では70%ほどあり、という具合に町内という単位でもそうなっている。
町内会に入らないのは町費のせいだけではないとも思うけれど、地域の人間が地域の人間との関わりを抜いて生活したい人が
多くなり続けているのは、確かで、その現実の中に地域が成り立っている。
名古屋市は東海地震の対策に熱心に取り組もうとしているけれど、まあ、以上の理由で無理でしょう。
災害が来れば、積極的な人との関わりが唯一の救済方法のような気がするのだけど、それが否定されれば
無理になってしまうのは仕方がない。
最近「自己責任」という言葉が漂っているけれど、これは何か変な言葉で、世間は無責任に出来ていて、
無責任に出来ている世間が、人に責任を求めてどうするの?と単純に思う。(世間とは世間の人という意味で書いている。)

「責任」という言葉は現在死語に近い。

話変わる。
昨夜の夕刊に「ファルージャの悲劇」と題した評論を書いた人がいて、それを読んだ。
読んで感じたのは実は「ファルージャの悲劇」の事ではない。単に戦争のことだけど、戦争とは人を殺戮するものだという認識。
これは人を物理的に殺戮するもので、アメリカ軍にその傾向が顕著にあるように思い、またそれを一番実感しているのは日本人の筈では
ないかということだ。歴史の中でアメリカと熱心に戦争したのは本当は「日本」という国で、結果的に日本人はアメリカ軍に屠殺され続けたというのが
本当のところで、そこに広島・長崎の悲劇がある。
この悲劇を日本の戦争指導者のせいにして終わりにしているところが、また、日本の不思議なところで、従ってよく分からないのだ。
殺戮は市民への殺戮だ。市民も戦闘員も区別はなく人を殺戮しつくす。戦争の現実はそれに尽きるのだから、戦争は悪であり、
従って、イラクでの戦争は悪である。世界には悪が平然と存在している。
これは「ファルージャの悲劇」以上の悲劇です。


4 23

イラクの人質が開放され、開放された3人が何かと話題になるけれど、開放された一人の女性が歩行も困難になるほどのプレッシャーは痛々しい。
プレッシャーとは世間に対するプレッシャーのことで、そうした世間の中で生きて行くという不安感。不安感という表現は多分、正確ではなく、
自分の置かれた立場が何か途方もない立場だと認識した事態へのとても大きな戸惑いがあるのだろう。個人が受け止めるには余りに大きなプレッシャー。
そこから、彼らの自問自答の繰り返しが始まるような気がする。

ひとつの話として以下に書く。
開放された家族への中傷が多大でそれがこの国に住む人たちの現実だということに驚いたりして、そこからひとつの議論を始めたりする人がいる。
家族への中傷の理由を政府の態度のせいにして、だから今の政府は悪い。という発言をする人もいるのが、また、この国の別の現実。
極めて個人的な感想かも知れないけれど、世間が中傷と苛めで出来上がっているのは、当たり前の現実で、
それを知らなかったという大人がいるとすれば、それが不思議でならない。
中傷と苛めは世間の現実で、それが分かっているから、何かをする場合は武装すべきだと、昔から実感していた。
武装とは、強い信念とか、理想、また単純に体力のことだ。
ボランティア活動は、今、武装してするものです。
これは地域でボランティアをすれば、即座に理解することで、理解していないということは、実はボランティア活動をしていないに過ぎない。
そして、ボランティアをしない人が、ある方向からある話をあるメディアで語り続ける。これを茶番という。
最近、テレビを見ていると、この茶番が多いと感じて仕方がない。誰とは書けないけれど。

4 20

ひとつの話があるのなら、今度は何章目に入るのだろう?

自分の最近の日常のことです。