亀田 鵬斎

かめだ ぼうさい

1752〜1826

 父は萬右衛門は、上野邑樂郡佐貫庄五箇村の生まれ、江戸馬喰町の鼈甲商長門屋の通い番頭をつとめた。井上金峨に学び、二十余才にして塾を開いた。赤坂日枝神社の側、駿河台、本所出村、根岸などに住まいを移し、下谷金杉で没した。遺骸は浅草今戸正福寺に葬る。もっともその造詣を見るものに善身堂一家言中の「性説仁説」がある。しかし、朱子学を中心としなかったので、松平定信の異学の禁に際して、五鬼の一人とされ、下町儒者の大物とされていた。詩文が上手で、書や工芸もした。酒を好んで「金杉の酔先生」とも呼ばれた。

 著書に「大学私衡」「東西周考」「伊呂波釈文」「鵬斎文抄」「善身堂詩抄」「論語撮解」「律数解酔銘帖」胸中山」「候鯖一欝」などがある。

創設者の一員。文化11年「墨陀梅荘記」(石碑)を選し書く。