そういわれても、こちらはちんぷんかんぷん、聞きかえすのもおもしろくないので、だまっていると、今井は、例の調子で語ってくれた。チゴイネルワイゼンというのはサラサーテの作曲したヴァイオリン協奏曲だ、ただし作曲した年代ははっきりしていないが、それや甘美なものでジプシーの旋律やリズムをとりいれたもの、ヴァイオリンの効果や魅力をおしみなく表現した曲だぞと話してくれた。こうなると聞かずばなるまい。
「聞かせろよ。」
と頼む。かれは、喜んでさっそく隅田川のうちにわたしをつれていってくれた。こんなところはまことに好意的で積極的であった。チニーかなにかのいい蓄音機だったので、音も生きていた、私は文句なしに魂が奪われた。生まれてはじめてヴァイオリンというものの響きに魅せられた。
3年のときふたりで「童謡大会」を催した。講師に西条八十、本居長世、藤森秀夫の三氏、歌い手は本居みどりさん、きみ子さんにおねがいした。盛会であった。両嬢に大きなキューピーを三越で買い、今井と二人で抱えて帰ってきたことがある。
こんなことを書いていてはきりがないからやめる。ただもうひとつ忘れがたい思い出を書いておしまいにしょう。
大正12年3月、ともかく今井もわたしも高等高師を卒業することになった。わたしは高知県の田舎、田原という町の中学校に赴任することになり、かれは大分県の中津中学校にいくことになった。その夏休み、今井は東京に里帰りして、9月1日、中津にもどる途中、わたしのうちにたちよる。むし暑い日であったが、すき焼きを食おうということになり、石油こんろを縁先にもちだして、ジュージューやりはじめた。今井は酒がすきだったから極上の酒をたんまり用意してかんたいした。パンツ一つの裸でさて箸をつけようとしたとき、ぐらぐらっと地震が襲ってきた。ふたりは、「わあっ」と叫びながら、縁側から庭にとびおり、そのまま道に出て、ゆれ動く家を見上げていた。しばらくしてわたしの妻が、赤ん坊を抱きかかえてあたふたと外に出てきて、
「あなたたちのんきね。石油こんろの火も消さないで飛び出してさ、すぐそばに赤ん坊が寝ているのに……」
と笑いながら文句をいう。こういわれてわれわれ野郎どもは顔色なかったことを思い出すのだ。
このときの赤ん坊は長女ののみちで、20の夏チフスで昇天。
それどころか、今井栄も、そのあとさっさとこの世を去っていってしまった。わたしといっしょに満州で教科書関係の仕事も束の間で、亡くなるとき会えなかったので、いまでもまだ隅田川の岸へ飛んでいけば今井は例の飄然たる和服姿で歩いているようなきがしてならない。
いつか今井の家に泊めてもらったとき、たまたま夜火事が近くにあった。半鐘の音にこわがる小さな洋子さんと涼子さんを両側に抱くようにして、「こわくないよ、風が向こうに吹いてるからねー」と慰めたこともついきのうのことのように思われる。
北海道からいっしょに入学した武田も山本もすでにいない。わたしだけがこうして生き残り、この6月には満77の年を迎え、「三度遺失」の域に達した。ふしぎな気がする。
こんど今井の著書が三版を重ねるという、ついてはなにか思い出を書くようにと頼まれて書いたが、書くほどに懐かしさがこみあげてきて胸が苦しくなる。旧友はよきもの、せめて今井の書いたものを改めて読みなおし、冥福を祈ろう。
今もって一つ、惜しいことがある。それは今井が神官の正装束をつけて榊を払う仕草を見なかったことである。
昭和49年7月14日