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作者別一覧

・エミリー＆ジョン・ヴィッシャー(1)
・コニー・ウィリス(1)
・上野正彦(3)
・サラ・ウォーターズ(1)

EMILY B. VISHER & JOHN S. VISHER
エミリー＆ジョン・ヴィッシャー

「ステップファミリー」（原題：HOW TO WIN AS A STEPFAMILY）
形態	単行本	種別	啓発書	部門	－
出版	WAVE出版	値段	￥1700	初版	2001-07-26

総合	☆
ストーリィ	☆
技術	☆☆

　夫婦のどちらか（あるいは両方）が一度結婚を経験し、なおかつ子供を設けた上で、再婚を果たして作った家庭があったとする。日本語ではこれを一言でなんと表現するか。残念ながら、適した言葉は今のところ存在しない。
　だがアメリカにはある。 <ステップファミリィ> がそうだ。
　本書はサブタイトルにもあるように、「幸せな再婚家庭になるために」必要な予備知識やヒントをまとめた教養書である。著者は、やはりステップファミリィの父母であるヴィッシャー夫妻。彼らはステップファミリィのためのサポート機関 <ＳＡＡ：ステップファミリィ・アソシエーション・オヴ・アメリカ> を設立者であり、エミリィは心理学博士、ジョンは医学博士であるそうだ。本書の原本に限らず、ステップファミリィに関連する書籍を数多発刊し、これらは境遇を同じくする多くの人々のいわばバイブルとして重宝されているという。
　日本語版を監修された春名ひろこ女史は、ヴィッシャー夫妻らに刺激を受け <ＳＡＪ：ステップファミリィ・アソシエーション・オヴ・ジャパン> を創設した人物であり、ステップファミリィ育ち、自らもステップファミリィを作った二児の母親でもある人物。翻訳は、棚橋朋子氏による。巻末に、監修者あとがきあり。

　よくよく考えてみれば、本書に書かれていることは人間が他人との良好な関係を構築していくために必要な、基本事項に過ぎない。どの章でも共通して主張されているのは、コミュニケーションの重要性であり、他人を思いやる気持ちの大切さ、ときには気分や物の見方を転換してみることの必要性である。
　だが同時に、これらは他人から指摘されてはじめて具体的に気付かされる、見落としがちな基本事項でもあるのだろう。
　自分が抱えている問題や苦悩が世界で唯一のものではないことなど知れているはずだが、やはり本書を通して「自分と同じことで悩んでいる人がこんなに大勢いるのだ」ということを改めて確認することは、精神的にも大きな救いとなるだろう。
　ステップファミリィのみならず、子供のいない再婚夫婦、また互いに初婚であるという夫婦にも多くの示唆を与えてくれる、まさにパートナーたち必携の書だ。

　ヴィッシャー夫妻は、ステップファミリィの成立を「企業の合併のようなものだ」と表現している。
　二つの会社が一つになる際には、様々な問題がつきまとう。会社が二つあったのだから、社長も二人、役員会も二グループある。だが合併となれば、二人のうちどちらかの社長は社長でなくなり、互いに違った社風や職場の雰囲気は必然的に変わらざるを得ない。
　合併にともない組織での自分のポジションが奪われたり、大きく変わったりすることは人にストレスを与える。特に子供はこれらに敏感に反応するだろう。再婚者のカップル同士は往々にして将来を楽観的にとらえ、楽しいこと、再婚のプラスの面ばかりに注目したがるが、その裏で喪失したものがあることにも注目しなければならない。
　少なくとも一方の家庭は、離婚前に住んでいた家を離れて新しい環境に放り込まれる。慣れ親しんだ生活空間の喪失。家族が増えることによる経済的な負担は、生活の制限にも繋がりかねない。これは、自由や趣味の喪失にも繋がる。そもそもステップファミリィは、一つの家庭の分解を経ずしてなりたたない家庭なのだから、そこには最初から大きな喪失感がついて回る――とヴィッシャー夫妻は指摘する。たとえ望んだものであれ、離婚は人の心理に大きな影響を及ぼす。大切な配偶者を死別という形で失ったならなおさらである。
　まずは自分や相手が何を失くし、どれだけ傷ついているかを理解しなければステップファミリィは次に進めないのだ。

　本書を読み進めていくと、ステップファミリィがいかに多くの問題や課題に直面し、複雑な事情を抱えざるを得ないかが良く分かる。ヴィッシャー夫妻は論理的にこれらを整理し、われわれ一般人には気付きにくかったり、上手く言葉にできなかったりすることを分かりやすく解説してくれる。
　ありがたいのは問題を提起するだけでなく、自分たちがセラピストとして関わってきた実際のステップファミリィの例などを持ち出し、あらゆる問題に解決の糸口やヒントを用意してくれていることだ。
「パーフェクトな解決法があるという幻想は持つべきでない」としながらも、彼らが示してくれる先人としての助言は、これからステップファミリィを築いていこうとする家庭にとっては宝石のようにも思える貴重なものとなるだろう。
　当事者や子供たちばかりでなく、時に祖父母たちがステップファミリィの大きな味方となったり、障害になったりする。優先すべきは、順に「Ｉ：個人としての独立」「Ｃ：幸せなカップルの成立」「Ｐ：良い親となる」であり、とくに夫婦の関係を円満にすることは子どものためにもなる。ステップファミリィを形成した後も、離婚した相手と子どもは定期的に会わせたほうが上手くいく。ステップファミリィの成立により、年頃の男女が出会った場合、彼らが互いを過剰に意識しあったり、異性として関係し出したりすることもある。子が義理の父母に性的な関心を持つといった問題も浮上しうる。……まさに経験者の口からしか出てこない情報が満載だ。
　我々は本書に触れることにより、我々は様々なタイプのステップファミリィが遭遇してきた問題を先取りし、その効果的な対処法に精通することが出来る。なにより、トラブルに直面しても、「あの本にあった状況だ」と思えることで半狂乱になる必要がなくなるのは有難かろう。

　構成の点から言うと、本書は全九章からなっている。ステップファミリィの形成を円滑に進めるため、その段階に沿った内容になっているのが特徴である。具体的には、「ステップファミリーとは」「新しいパートナーとの交際」「再婚の準備をしよう」「新しい生活――最初の数ヶ月」「新しい家族の関係を築く」「元の夫、妻との関係」「おじいちゃん、おばあちゃんとのつきあい方」「子どものためにできること」「幸せなステップファミリーになるために」……という並びになっている。
　本書に存在する唯一の欠点は、絶版となっていて入手が極めて困難であるということだ。初版刊行から四年が経過しても、本書は国内でほとんど唯一のステップファミリィ専門書なのだそうだ。にも関わらず絶版になっている、という状況が日本におけるステップファミリィへの理解度を如実に示しているような気がする。売れる売れないは別にしても、復刊を望みたい。
2005/04/07

CONNIE WILLIS
コニー・ウィリス

「リメイク」（原題：REMAKE）
形態	文庫本	種別	ノヴェル	部門	長編
出版	ハヤカワＳＦ	値段	￥580	初版	1999-06-30

総合	☆☆
ストーリィ	☆
技術	☆☆☆

　想像してみてほしい。
　ある日、とても不可思議な少女――あるいは少年でもいいが、以下では便宜的に少女で統一する――と出会い、その人物に強い興味を持ったとしよう。もしかするとそれは興味という名の恋愛感情なのかもしれない。
　その彼女は、決して叶えられることのない大きな夢を持っている。自分自身と向き合って握手を交わそうというくらい無茶な夢だ。だから誰もが彼女の夢を笑う。実際に会えば、我々もきっとその一人になるに違いない。
　ところがある日、何十年も昔のヴィデオから彼女の姿が発見されたとしたらどうだろう。もちろん、彼女が生まれる遥か以前の古い記録映像から、である。
　それだけではない。そこでは今と変わらない彼女が、夢をかなえた姿で輝くばかりの笑みを浮かべているのだ。
　ヴィデオを見た人間は、きっと驚愕するに違いない。そして我が眼や正気を疑い、何が起こったのか様々な可能性を懸命に考えようとするだろう。彼女はどうやって夢をかなえたのか。どうやって時代を遡ったのか。そんなことがそもそも可能なのか。
　そしてきっと、じかに会って確かめるために彼女を探し始めるだろう。
　――本作 <リメイク> はそれを描いた物語である。しかもＳＦ界の女帝コニィ・ウィリスが、その天才的ストーリーテリングの手腕をいかんなく発揮して書き上げた作品なのだ。これで面白くないわけがない。

　時は21世紀初頭。編集技術の飛躍的進歩とＣＧ革命により、過去の俳優がデジタル化されて復活した時代。彼らデジタル・スターを使うリメイク映画ばかりが製作され、生身の俳優が演技する本物の映画が１本も撮られなくなったハリウッド。
　映画の映像編集に携わる青年トムは、とあるパーティの席で不可思議な少女アリスに出会う。50年以上前に活躍した伝説的タップダンサー「フレッド・アステア」に憧れる彼女は、死に絶えたジャンルである「ミュージカル映画」でアステアとタップを刻むことを夢見ていたのだった。
　今は死んだアステアをデジタル技術で復活させ、好きなように編集させることが出きる。ミュージカルなど忘れられた世界である。本物のダンスを知る人間も、ダンスを教える人間も、ミュージカルで踊ろうなどと考える人間も、全てが絶滅種となったハリウッドである。トムはアリスの夢の実現を信じなかった。
　だが、アリスが姿を消してしばらくしたある日、トムは編集中の古い映画の中にアリスの姿を見つける。何度も確認するが間違いではなかった。1950年代のミュージカル映画の中で、彼女は確かに踊っていた。
　彼女は本当に夢を叶えたのか。だとすれば、どんな方法で。
　トムは友人たちの助力を得ながら、アリスを探すためハリウッド中を駆け巡る――。

　ＳＦ界のビッグタイトルである <ローカス賞> の1996年度ノヴェラ（長めの中編）部門を獲得し、同年の <ネビュラ賞> 長編部門候補にも名のあがった本書は、1995年に女流作家コニィ・ウィリスによって発表された。
　訳者による後書きによれば、ウィリスは「いままで書いた中で１番良い小説だと思っている」そうだ。1992年にトリプルクラウン（３冠）を獲得した <ドゥームズデイ・ブック> をおさえて言うくらいだから、よほど思い入れのある作品になったのだろう。
　恐らく、この作品は読む人間を選ぶ。作中に映画関連の情報が恐ろしいほど氾濫していて、巻末にまとめてある100個を超えた注釈を参照しながらでないと内容を完璧に把握することは難しい。
　しかも単に配置してあるだけでなく、映画のタイトルや名シーン、名台詞、その役柄を演じた俳優などの事情が、本編中に登場するキャラクターたちの心理や立場を比喩的に表現するものとして利用されている。
　さらには映像関係の専門用語やＳＦ的語句までもが、特に説明が加えられることもなくポンポンと乱用されているのだ。こうしたスタイルの小説に慣れていなかったり、肌が合わない人間はきっと戸惑うはずである。ある意味、読み通すのに少しばかりの努力を強いられる小説だといえるだろう。
　だが、そこをおしてキチンと読み通していけば、本書はそれに見合うだけのものを我々に提供してくれるだろう。
　コニィ・ウィリスはそれだけの作家だし、訳者や編集者たちが40ページを超える巻末資料という形で職人技を披露してくれているからだ。（脇役――物知りヘッダなどの魅力的な脇役の存在も特筆せずにはいられない）
　最後のページをめくり終えたとき、きっと読者の胸は弾んでいるはずだ。そして翻訳担当の大森望氏が指摘しているように、無性にミュージカルを観たくなるに違いない。表紙を開く前は関心すらなかった <踊るニュウ・ヨーク> のアステアとエレノアのタップに興味津々でいることだろう。
（あとがきには日本でのヴィデオ販売はないとされているが、2003年に「踊るニューヨーク」と題したＤＶＤ版が国内で販売されている／ASIN：B0000ZP6EU）
　本書はそうした魔力を秘めた、ミュージカルでありＳＦであり、何よりラヴストーリィなのだ。
　本当のダンス・チャンス・ロマンスは <リメイク> を読まずして語れない。
2004/11/05

MASAHIKO UENO
上野正彦

「死体は語る」
形態	単行本	種別	ノンフィクション	部門	－
出版	時事通信社	値段	￥1300	初版	1989-09-20

総合	－
ストーリィ	－
技術	－

　監察医とは何か。その職務は。――こう問われて、的確な回答を瞬時に返せる人間は稀有だろう。
　本書は、30年を超える法医学のキャリアを持ち、前東京都監察医務委員長として活躍した上野正彦医学博士が、監察医としての経験をいかして、その職務や具体的に扱った事例、様々なエピソードなどを語ったノンフィクションである。
　監察医としての仕事は、死体の声を聞くことに他ならないと上野博士は語る。人が原因不明の不自然死、変死を迎えたときに彼は任務を与えられる。その人物がなぜ死亡したのか、病死なのか事故死なのか、それとも殺人なのか。検視や解剖によって正確な死因を究明し、死者の人権を保護すると共に社会秩序を守ることこそが監察医に課せられた役目だという。
　死者の２割は変死や不自然死だというから、我々一般人にも決して無縁な世界とは言い切れない。普通に生きていれば誰かを身近な誰かを看取ることもあるだろうし、そのうち10人に１人は監察医のような人々の世話になる死に方をする――というのが統計上のデータだからだ。
　参考までにと手に取ったが、なかなか興味深いエピソードが語られていて面白かった。しかし、素人を対象にした簡単なことしか書かれていないため、この分野の専門的なデータや具体的な資料を欲する人間のニーズには応えられない。また著者はあくまで法医学のプロであって、物書きのプロではないため文章表現にかなり稚拙な部分が見られる。
　そうは言っても、その道の第一人者が自らの経験を語るわけだ。一般人にとっては刺激に満ちた内容であることに変わりはない。
2004/01/27

「死体は生きている」
形態	文庫	種別	ノンフィクション	部門	－
出版	角川文庫	値段	￥460	初版	1996-11-25

総合	－
ストーリィ	－
技術	－

　「死体は語る」に続く、上野医師の監察医としての体験談を語るノンフィクション。体裁は「死体は語る」とまったく変わらない。単行本は1990年09月、角川書店から刊行された。ここで紹介しているのはその文庫版。
2004/01/27

「死体の証言」
形態	文庫	種別	対談集	部門	－
出版	光文社文庫	値段	￥480	初版	1995-04-20

総合	－
ストーリィ	☆
技術	－

　元東京都監察医務委員長の上野正彦と日本推理作家協会理事の小説家、上村正夫との対談集。基本的に上村氏が質問者に回り、推理作家としての立場から時に子供の様に無邪気な質問を投げかけ、それに上野博士が経験と豊富な知識をいかして法医学的見地から応えていく――というスタイル。
「ある場所に殺したい人間を監禁し、山で取れるキノコや水だけを僅かに与え、長時間かけて衰弱しさせる。その死体を山に捨てれば完全犯罪は成立するか。法医学はそれを見抜けるか？」
「推理作家は面白いことを考えますね」
　……といったようなやりとりが面白い。本書は、1990年12月に光文社から刊行された単行本を加筆修正した文庫版。
2004/01/27

SARAH WATERS
サラ・ウォーターズ

「荊の城」（原題：FINGERSMITH）上・下
形態	文庫本	種別	ノヴェル	部門	長編
出版	創元推理文庫	値段	￥940+940	初版	2004-04-23

総合	☆
ストーリィ	☆
技術	☆

　サラ・ウォーターズ。世界的な眼で見ても、近年これほどまでに評者・読者双方の注目を集めている女流作家は珍しい。日本国内だけに絞ってみてもその人気と評価は絶大で、最初に出版された「半身：AFFINITY」は <週刊文春ミステリーベスト10> 第１位、 <このミステリがすごい！04年版> 第１位、 <IN★POCKET文庫翻訳ミステリー総合> 第３位、 <Yahoo! ユーザーが選ぶベストミステリ2003> 第３位など様々なランキングの上位に顔を見せている。
　そのウォーターズが2002年に刊行した新作が、本書「荊の城」だ。これもまた中村有希氏によって翻訳され、2004年に日本語版が発売されるや高い評価を受けた。半身に続き <このミステリがすごい！05年版> の第１位を獲得しＶ２を飾ったほか、 <IN★POCKET文庫翻訳ミステリー総合> でも堂々の第１位を獲得している。また <ＣＷＡヒストリカル・ダガー（英国推理作家協会・歴史ミステリ部門）賞> も受賞、文学色の強いイギリスの <ブッカー賞> 最終候補にもあがったというから驚きだ。
　――とはいえ、この作品がミステリかと改めて考えると、少し微妙なものがある。殺人事件は発生するがそれは全体の比率からすれば小さなイヴェントに過ぎず、その謎や殺人に用いられたトリックを最大の関心事として物語を引っ張っていくような構成をとっているわけでもない。むしろ数奇な運命をたどる二人の少女を主人公とした冒険小説と言えそうな気もするし、この少女たちが憎みあい騙しあいながらも惹かれあっていく一風変わった恋愛小説のようにも思えてくる。

　ここで物語の内容を紹介しておこう。
　話の舞台は19世紀半のイングランド。シャーロック・ホームズが活躍し <ジャック・ザ・リッパー> が徘徊していたとされる――いわゆるビクトリア朝時代で、現代のように自家用車が一般的な存在ではなく、代わりに夜の霧の中を馬車が走り回っていた頃の物語である。
　主人公のスーザンは17歳になる下町の少女。貧しい犯罪者の巣窟で育ち、自らもスリとして生計を立てる彼女の元に、 <紳士> と呼ばれる男がある大きな仕事の話を持ちかけるところから話は展開していく。 <紳士> は莫大な財産を相続することになる娘をたぶらかし、彼女と結婚することでその財産をそっくり奪い取ろうという計画を立てていた。スウには侍女として令嬢に近づき、 <紳士> との結婚を上手く誘導する役割を果たして欲しいというのだ。
　莫大な報酬を約束されたこともあり、スウは <紳士> の計画に加わることになる。侍女として順調な滑り出しを見せたスウは、寂しく大きな城に半ば幽閉されたかのような令嬢とやがて心を通わせていくが、その裏で <紳士> の計画は着々と進行。スウは令嬢と計画とのあいだで揺れ動きながらも、自分の役割を忠実に演じていく。
　遂に計画は最終段階に入り、全てが <紳士> とスウの目論見どおりに幕を下ろそうとするが、事態はやがて思わぬ方向へと転がっていくことになる。

　とにかく話の展開が全く読めない。いや、ある意味で話は全く展開などしないのかもしれない。次々に衝撃的な過去や事件の裏の顔が見えてきて、読者の認識が幾度も覆されていくだけなのだ。白だと思っていたものが黒であったことが判明し、それを信じかけた頃に今度はそれが灰色であった根拠が投げかけられる。何を信じていいのか、何が真実なのか。キャラクターたちの役所の目まぐるしい変化、それに伴う大どんでん返しの連続こそが本書の最大の魅力なのだろう。
　19世紀の風俗を描写する著者一流の活き活きとした筆遣いも見事だし、17歳の少女同士の間に芽生える不思議な恋愛模様なども特徴的。
　正直な話、二大ヒロインともいえるスウ・トリンダーと令嬢モード・リリィには感情移入がしにくかった。どちらも決して賢いとはいえないし、中途半端に善良で生半可に優しい。対応できない事態に陥ると癇癪を起こして暴れ、状況と現実を冷静に把握して計画的に事を運ぶ能力に欠ける。それを実行するための覚悟も決められない。なんともハッキリしない連中であるのに癖が強いという、ある意味で最もなじみにくい人格の持ち主たちだからだ。
　だから彼女たちに心底同情するのは難しかったし――同情しかけても、途端にそれが冷めてしまうような冷徹で自己中心的な言動をとるのだ――、最後まで彼女たちの心情に深く共感することは適わなかった。が、そんな少女たちの間に成立した肉体的な意味も含めた愛情のようなものには、不思議と説得力を感じてしまったのも確かだ。女性同士の間に芽生えるレズビアン的な愛情というのは、ウォーターズ作品に共通する何らかのテーマの一つなのかもしれない。
　批評家や多くの書評ではあえてその部分に関する言及が避けられているように感じられるが、サラ・ウォーターズの著作を語る上で決して無視することのできない要素だと思われる。

　隅々まで計算しつくし、19世紀の英国を見事に描写し、息もつかせぬ展開で見事なストーリィテリングを披露してくれるサラ・ウォーターズは、まだ新人の部類に入る経歴の若い物書きである。それでこの完成度とは舌を巻くばかりだが、全く欠点が無いわけでのもない。本書は文庫本で800ページを超える大作だが、果たしてここまでの文量が必要だったのか。前半と中盤には、それぞれに少し冗長とも思われる部分がありもどかしさを感じた。あまりに言動が計算されつくされていて、キャラクターの誰にも感情移入ができなかったのも痛いといえば痛い。舞台やテーマなどは、もしかすると人を選ぶというようなこともあるだろう。ミステリとして評価されているが、いわゆる本格推理小説などからは程遠い存在でもある。そうした意味でも、ある種の読者に肩透かしを食わせることになるかもしれない。
　とはいえ、そうした短所になりかねない部分を綺麗さっぱり忘れさせてくれるようなパワーを備えた作品であることも確かだ。それは本書が受賞してきた文学賞の数を見ても分かるし、読者による人気投票の結果、書評家たちのレビューなどからも歴然としている。
　広くお勧めするようなことはしないが、ここまで読み進めて「荊の城」に興味を持ったという人々には是非手にとって欲しい作品である。ちなみに下巻の巻末には翻訳者によるあとがきがある。原題「FINGERSMITH」は荊の城というような意味ではなく、主人公スウ・トリンダーの職業でもある <スリ> をさす言葉。ただ令嬢の元にもぐりこむ際、スウは偽名として「スーザン・スミス」を名乗る。また令嬢のほっそりとした美しく白い指先は再三にわたって強調的に描写されている要素の一つだ。もしかすると――穿ちすぎかもしれないが――これらを暗示させるような意味も原題には含まれているのかもしれない。
2004/11/21

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