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ウラガリ第9話



 青灰色をした夜のアスファルトが、投光器の光を照り返していた。辺り一帯にぶちまけられた重油のような大量の染みは、まだ温かさの残った新鮮な人血に他ならない。粘膜をひりつかせる硝煙の刺激臭と、錆びた血の匂い。
 そして、朝霧のようにたち込める薄煙の向こう側に、温羅はいた。
 それは、一枚絵さながらの光景だった。
 炎上する軍用車両から発せられる金色の光。頭上から降り注ぐ乳白色の人口光。血溜まりが弾いた瑠璃色の月光……
 すべてが巨大な人型のキャンパスで混じり合い、プリズムのように複雑な輝きを放っている。
 だが、その幻想的な光景をぶち壊すように、温羅の足元に挽肉となって散らばっている人体はあまりにグロテスクだった。ねり歯磨きのチューブを強く握りすぎてしまったかのように、千切れた胴体から様々な臓器が弾け散っていった結果だろう。特に腹圧で押し出された小腸は、鮮やかなピンク色の胴体を持った全長六メートルの大蛇を見るようだった。
 しかしもう、その光景に気圧されるような者はいない。
 拠点からここまで移動中、乙班員の全員が既に略式鎮魂に入っている。もちろん、芹香も例外ではなかった。
 市井では、鎮魂の説明として「極度の集中状態」という表現が良く用いられるという。耳元で名前を叫び呼ばれようが、部屋が火事になろうが気付かないほどの精神統一――
 だが、この認識には一部、誤りがある。
 統一というよりは、むしろ拡散。少なくとも五十狭芹香にとっての鎮魂とは、俗にいう幽体離脱に近しいものだった。
 肉体から意識だけの存在として抜け出し、一歩離れたところから自身を客観する。環境と、その一部としての己を俯瞰する。
 このため、鎮魂下に扱える情報量は飛躍的に増す。
 神経は鈍化するが、知覚は極限まで鋭敏化するためだ。耳元で叫んでいる人間はもちろん、遥か頭上や背後の出来事、隣室で発生しようとしている火事の察知さえ可能となる。
 そしてもうひとつ。神性や霊性を呼び寄せる術――という性質がもたらす副次的な効果が、鎮魂法にはある。
 それが、第三者との精神感合の強化だ。
 すなわち、言葉や手振り、表情などを介さない意思の伝達である。
 ――目標を確認。総員、第四略式帰神に入れ。
 隊の先頭に立つ芹香は、無言で指示を送った。背後で隊員たちが了解を示すのを感じる。それを確認し、芹香は自らも帰神法に移った。

 ――天照る神の教への祓
   ひと度祓へば 百日災難を除き
   もも度祓へば 千日咎を捨つる

 本来、鎮魂帰神法は神殿などのしかるべき場、しかるべき補助役を伴ない、充分な時間をかけて行うものである。
 だが、戦場においてはそんな悠長なことは言っていられない。
 速やかに鎮魂のトランス状態に入り、瞬間的に目的の神性を召喚する。この二点のクリアが、神出鬼没の温羅に対抗するには絶対に必要な条件とされてきた。
 そのニーズに応えるため考案、開発されたのが今日の帰神甲冑だ。
 着用携帯可能《ウェアラブル》な社であり、鎧の姿をした審神者であり、神々を引き寄せるための篝火として、それは生み出されたのだ。
 だが、この帰神甲冑も万能の存在ではない。
 なぜなら人外を引き寄せるその効能は、温羅にも通じてしまう。全身に何百個という電球を光らせた、輝く全身鎧のようなものだ。温羅にとって帰神甲冑は極めて目立つ存在であり、隠密行動には決定的に向かない。
 つまり、こちらが温羅を確認した時、温羅もこちらを見つけている。
 その鉄則を実証するかのように、温羅が動きはじめた。

 ――千代万代年経ても 天神の恵みは尽きじ
   生生代代に尊きは 天地の恩仰ぎても
   猶ほ餘りあるは 神の徳に越ゆることなし

 祝詞の奏上が進むうち、芹香は霊性の巨大なうねりに包まれていくのを感じた。その感覚は、敏感な者が降り出す前に雨の匂いを嗅ぎつけるのに似ている。
 湿り気を増す風。ざわめきだす木の葉。肌で感じる気圧の低下。嵐の到来がこれらをもたらすように、神もまたその訪れに際して予兆をもたらす。そして彼らは、気づけばそこに現れている。
 ここからは、昔やった指遊びをイメージすれば良い。
 左右の指を祈るように組み合わせ、人差し指だけをまっすぐ伸ばす。立てた二本の人差し指はくっつけず、少し距離を置いて立てておくのだが――
 その開いた空間をじっと凝視し続けていると、不思議な現象を体験できる。離れていた指が、引きつけ合うようにしてその距離を縮めていくのだ。
 呼び寄せた神性と自分を感合させる作業は、これと良く似たものだった。
 芹香を取り巻くエネルギーの奔流は、今や物質化しようとでもしているかのようにその密度を高めていた。その気配と自分の肉体とを重ね合わせるようにして、「視る」。
 瞬間、自分を取り巻いていた神性の奔流に、芹香はさらわれた。怒涛のうねりに取り込まれ、混じり、融合し、一体化し、そして渦を巻きながら肉体へと雪崩込んでいく。
「第四小隊乙班、状況開始」
 高らかに宣言し、芹香は先頭切って地を蹴った。
 同時、降ろした <中壇元帥> を介して、足元に <風火二輪> を顕現させる。炎と風をまとったこの車輪状の推進器は、名の示すように二輪一対の宝貝だ。
<風火二輪> はまず、温羅と正面から視線をぶつけられる高度まで芹香を導いた。直後、爆発的に加速。そのまま音すら置き去りにして、目標の背後に回り込む。
 宝貝を用いた運動は物理法則の大半を無視できる。その中には人体にかかるはずの負荷や、周囲にばら蒔かれていたはずの衝撃波も含まれていた。
 驚くべきは、 <熱の壁> にすら肉薄しようかというこの動きに、温羅が完全対応してきたことだった。元より、この化物には前後の概念などないのか。気づけば、後頭部と思っていた場所に、腐った死魚のような双眸が現れている。
 先制をしかけ、部下たちを勢いづかせる――
 そんな芹香の思惑は、この温羅の反応によって阻まれる形となった。首と胴体の接合部あたりから、何の前触れもなく黒光りする突起が飛び出してくる。それは狂気的な速度で迫り来る、女性の細腰ほどの幅を持つ鋭利なブレードだった。
「先手を取った」という確信が災いした。
 あるいは事実上、これが温羅を相手にした初実戦という緊張もあったのかもしれない。
 ここで芹香は、己でも信じがたいミスを犯した。
 防御か回避か――その二択に、刹那ではあれ迷ったのである。
 胴体を腹から両断されずに済んだのは、 <中壇元帥> のおかげだった。芹香と違い、彼は回避を即決。先読みしていたような動作でブレードをかい潜る。次の瞬間にはもう温羅の懐に入っていた。
 間髪入れず元帥は <風火二輪> を戻し、入れ替わりに <火尖槍> を顕現させた。そして <風火二輪> を失った芹香の肉体が自由落下をはじめるより早く、右腕を一閃する。連動するのは、握られた槍状の宝貝だ。先端から吐き出される劫火が、燦爛とした紅い軌跡を描く。
 核撃をも無効化する <矢喰> も、宝貝による侵食の前には凡庸な盾に成り下がらざるを得ない。
  <火尖槍> の穂先は易々とその盾を切り裂き、温羅の胴を薙ぎ払った。瞬間、四メートルの巨大な人型がダンプに跳ねられた幼児のように弾け飛んだ。立ちふさがる電柱を小枝のごとくへし折り、そのままアスファルトを削りながら滑っていく。路面に深い溝が刻まれていく様は、バターナイフに削られたマーガリンさながらの光景だった。
 芹香は意識の中で、乙班員たちの喜色が弾けるのを感じた。彼らの興奮と士気の高まりが <中壇元帥> を介し、情報として飛び込んでくる。
 勢いづいた彼らは俊敏だった。既に訓練通りのフォーメーションを完成させ、芹香が指示を飛ばすまでもなく追撃に入る。
 前衛に配置されているのは三人。 <三関帝> の異名を取る、乙班の名物的な存在だった。
 摂津誠、門倉ゆき、斉藤恵雄――
 性別、人格共に揃ったところのない三人だが、ただ一点のみ大きな共通項を持っている。
 すなわち、 <伽藍神> を好んで降ろすのだ。
 六名の班員中、三人までもが同じ神を選んで帰神する。これはAOFの中でも類を見ない偶然だった。そう突出した能力を持つわけでもなく、彼らが広く名を売っている所以である。
 とはいえ、帰神のあり方にはやはり個性が出ていた。外見的変化を伴なう「有形帰神」であることこそ変わらないが、その発露の度合いが大きく異なっているのだ。
 その点でもっとも顕著なのは、紅一点である門倉曹長だった。彼女は、 <伽藍神> が好んで用いたという青龍偃月刀 <冷艶鋸> を具現化するに留めていた。自分の体重よりも重い大薙刀を、少女の姿のまま振りかざしている。
 これに対し、摂津と斎藤のふたりは、肉体にまでその変化が認められた。なによりまず、身長が両者ともほぼ倍化している。九尺――二・七メートルと言われた <伽藍神> のそれを再現しているのだろう。
 さらに銀色の帰神甲冑は、萌葱色も鮮やかな王侯装束に。象徴ともされる艶やかで豊かな黒ひげは、腹にまで届かんばかりだ。もはや両者とも原型を留めていない。当の本人たちは、湯気のように輪郭すら朧な姿と化し、偉大なる武神の背後に張り付いていた。
 個性豊かな三関帝たちが、夜のメインストリートを疾走する。その姿は走るというより、もう滑空に近い。瞬く間に、温羅へ肉薄していく。
 彼らがより高位の巫《かんなぎ》であれば、神速の愛馬 <赤兎> を並行して降ろし、既に温羅へ到達していただろう。だが、彼らはまだその域にまでは達していない。
 今回は、そこが物を言った。
 倒れていた温羅の姿が突如、蜃気楼のように揺らめきだす。
 芹香が我が目を疑った瞬間、もう陰界の巨鬼は仁王立ちの体勢で三関帝を待ち構えていた。矢喰が黒い炎となって、挑発するように蠢く。
 三関帝の追撃。温羅の迎撃。芹香の見立てでは、紙一重の差で後者が先んじるように思えた。
 だが、温羅より、三関帝より早く有効打を決めた者がいた。
 乙班の最後尾に構えた、中村ゆかり曹長である。
 彼女が帰神で降ろすのは <那須与一資隆> 。平家物語などに伝えられる、稀代の弓兵だ。
 彼にまつわる逸話の中で、最もよく知られるのが源平合戦のひとつ <屋島の戦い> におけるエピソードである。揺れる舟上に設置された扇の的を見事射抜いてみせた神業は、やがて伝説となり帰神の対象にまでなった。
 その弓神の加護を得た一撃は、まさに光そのものだった。理力の矢は時を凍てつかせて戦場を切り裂き、射と同時に目標へ到達。援護射撃というには余りある破壊力をもって、巨神の頭部を爆砕する。
 完璧な連携だった。 <与一> のバックアップは元より織り込み済み。三関帝は余裕をもって間合いを詰め、必殺の <冷艶鋸> を温羅に叩き込む。
「目標沈黙」
 三関帝のひとり、斉藤曹長の報告が芹香の意識へ直接届られた。
 専門家の間でも見解の分かれるところだが、温羅に生死の概念はない――というのが定説となりつつある。
 どうすれば殲滅、あるいは撃退したことになるのか。AOFにも一応の目安はあるが、絶対的な指針はない。
 ただ、連撃を受けた眼前の温羅は、人型の体躯を急速に崩壊させつつあった。その様は、人間の屍体が陰相に堕ちる時と酷似している。肉が沸騰するように泡立ち、徐々に溶け出していく。
 人体との違いがあるとすれば、その後だ。液状化した温羅は、陰界の法則によって汚染された地表へと沈みはじめる。やがてそこには、影のような黒い染みだけが残された。
 AOF基準において、殲滅と判断される現象だ。
「よし。第一種警戒体勢のまま、乙班は総員、帰神を解除」
 自身は帰神状態を維持しつつ、芹香は命じた。
 五人の部下たちは、長時間の帰神にまだ耐えらるレヴェルにない。休める時に休ませる必要があった。
 周囲の陰相化は、温羅が消えた後もゆるやかに進行しつつある。一度汚染が始まれば、基本的に自然治癒はない。
 芹香は <風火二輪> を召喚し、乙班帯同の支援班へ走らせた。
「支援班、禊《ミソギ》はどうか」
 通信担当のひとりが、声に応じて頭上を仰ぐ。
「増援を呼びました。とりあえず、空間より死者の禊を優先させていますが――」
 通信担当は芹香から視線を外し、やや離れた同僚を見やった。
 そこで行われているのは、鎮魂の神楽だ。ひとりの巫女が長い黒髪を踊らせ、横たわる骸の山で軽やかに舞っている。
 それは高峰の頂点から眺める日出のように荘厳であり、だが、茜色の大地に伸びる黄昏の人影を見るような物哀しさをも秘めていた。
「幸い市民に犠牲は出ませんでしたが、CRF東部方面隊は全滅。鎮圧の際に抵抗した <温羅教団> を含めると、死者は四十九名にもなります」
 巫女の肌に浮かぶ玉の汗が、躍動に振られて弾け舞う。その透明粒は投光器のライトを浴び、一瞬の煌めきを見せて消えていった。
 陰相に堕ちて温羅に成り果てるのは、なにも精神を破壊された人間ばかりではない。心停止後も、脳幹の一部――とりわけ視床下部などは、蓄えていた微量の血液を糧として短時間なら生き長らえることがある。この数分間、屍体は精神崩壊した人間と何ら変わらない。陰相に捕われれば、堕ちて温羅の仲間入りが確定する。
 その悪夢から魂を救えるのは、禊《ミソギ》による浄化をおいて他にないとされている。すなわち神楽による死者の鎮魂とは、単に慰めや手向けの儀式に留まらない。伝染病患者の火葬と同じなのだ。被害の拡大を防ぐため、必要に迫られた作業としての側面も持つ。
「祓《はら》いきれるか?」
 芹香の問いに、通信担当はゆっくりとうなずいた。
「間に合いそうです。准尉が温羅を倒してくれたおかげですよ。陰界からの影響力が減じて、禊の効率が高まっていますから」
「倒した……か」
 芹香は <風火二輪> 上から、巫女の舞う悲哀の神楽を見つめた。
「知ってるか。温羅には一〇八の階級があるという説があるらしい」
「ええ。 <王> たる真羅と並の温羅の間には、それだけの確たる格差があるということでしょう」
 さすがに、聖数一〇八との合致はできすぎだと思いますが。通信担当はそういって薄く笑む。
「そう。加えて、一〇八なんて数が出てくるほど多くの亜種が報告されているのも事実。さっきのあれが底辺の雑魚であったことは、手合わせした感触で隊員たちも感じているだろう。それが一匹現れただけでこれだ。とても倒したという気分にはなれそうにないよ」
 それに、温羅を始末したというのに胸騒ぎが収まらない。この作戦が開始される前からあった嫌な予感――あれは杞憂であったのだと未だに安堵する気になれないのだ。
「で、土地の浄化の方はどうだ」
 とめどない思考を振り払う。芹香は努めて事務的に訊いた。
「そちらは人手が足りません。増援が到着しても、陰相化の進行を一時的に抑えるのがせいぜいでしょう」
 陰相化は火事と同じだ。ボヤのうちでなければ、ある程度の被害を許容した上でしか沈静化を計算できなくなる。
 これだけの死者が出るまで温羅を暴れされた状況は、もはやボヤで済む段階を逸脱していた。
「ここは良いけど、ここから幾らも離れていない住宅街には、まだ三万からの住民が残ってるんだ」
 芹香は眉間に皺を寄せ、そちらへ視線を向けた。 <中壇元帥> を通せば、人間個々の存在が蛍の光を見るようにはっきりと認識できる。都会の夜景そっくりに、その光はあちこちに数多く瞬いていた。その光点が身を寄せ、天の川もかくやという輝きとなっているのが人口密集地帯だろう。正確には、二万九千と四人。
「温羅は現実に出現し、陰相化がはじまっています。もう状況は違いますよ」
 その涼やかな声は、神楽を終えた巫女によるものだった。死者たちの葬送と浄化を終えたのだろう。汗に濡れた装束を肌にぴったりと張り付かせ、ゆっくりと歩み寄ってくる。その洗練された動作は、歌舞の一部がまだ実践されているようでもあった。
「もう温羅が現れない可能性に賭けて、居残るという選択はあり得ません。残った一般人を早く退避させないと」
「曹長、ご苦労だった」芹香は <風火二輪> を地表近くの限界点まで下降させた。「禊は無事に?」
「お送りできたと思います」
 二十代、まだ半ばにも満たないといったところだろう。支援班の巫女は長い睫毛をそっと伏せる。深い諦念を感じさせる表情だった。
「石原乙班長、彼らの遺体を運び出して葬るというのは、やはり?」
「生者の避難すらままならない状態では……残念ながら輸送の手段がないな」
「では、せめてここで荼毘にでもふせれば良いんですけど」
「いえ――」無線を耳に押し当てていた通信士が口を挟んだ。「もう、そういうことを言っていられる状況ではないようです」
「何があった?」
 その傍目にも明らかな硬い表情に、芹香が訊ねる。
「BC2でも温羅の出現が確認されたそうです。既に第三小隊丙班が排除したそうですが、やはり陰相化が進んでいるとか」
 現れる温羅が一体と保証されていたわけではない。それもあり得ることだった。が、それだけで通信士が血の気を引かせるとは思えなかった。
「で?」芹香は重ねて問う。
「……市の陰相転化を免れ得ないとした群本部は、He3型兵器の使用を決定したそうです」
 通信士は喉仏を一度上下させ、一気に続けた。
「九十分後に、BC3および6ポイントへ戦略爆撃機から投下される予定とのこと。間もなく、AOF全軍に撤退命令が出されます」
「待って、九十分で? しかもヘリウムスリィを使うって、上は正気なの」
 疲労も霧散したのだろう。巫女が詰め寄るようにして身を乗り出す。
「そんな短時間に三万人も長距離避難させるなんて、物理的に無理よ!」
「確かに」通信士のこめかみを汗が伝う。「しかし、どのみち市民は助かりませんよ。核ミサイルが早いか、市全域が陰相転化するのが早いか。逃げ切れないっていう意味では、どっちも同じですから」
 確かにその指摘は正しい。道路の一部は軍が接収・占有していて通れない。一般用の避難誘導路にしても長蛇の渋滞が続いている。
 ここから先は部下たちにも話を聞かせるべきと判断し、芹香は乙班に召集をかけた。鎮魂の交感を通じ、五人の少年少女兵に呼びかける。訓練通り、彼らは一分かけずに集まった。芹香と向き合う位置に、綺麗な横列ができあがる。
「全員、休め。中村曹長はただちに第四略式帰神にて <与一> と感合。 <鷹の目> をもって周辺を警戒。特に、温羅が消失していったポイントを重点的に頼む」
 芹香はまずそう命じてから、改めて全員を見渡した。
「皆、話は聞いていたな? 間もなく、全軍に撤退命令が出される。群本部はHe3型核兵爆弾の投下を決めたようだ。是非はともかく、な」
「自分は、当然だと思います」
 斉藤曹長が休めの姿勢を保ったまま、器用に肩をすくめた。三関帝の一角として自信をつけたか、舌も滑らかに続ける。
「もともと群本部はHe3の用意をしつつ、この作戦をはじめたんだと思いますよ。温羅の出現予想時刻までに十万人を完全退避させられるなんて、最初から誰も本気で思っちゃいなかった。残ってる連中だって、たかをくくって避難命令を無視した平和ボケの集団ですよ。戦場になるって警告されてんのに、のんびり観戦決め込んだんだ。結果がどうあれ、自業自得です」
「私も、斉藤曹長と同感です」
 中村曹長が、どこかぼんやりと告げる。 <与一> を帰神させている影響だ。
「今から逃げても、市全域が陰相転化する方が早いはずです。三万の民間人は、このままだと三万の温羅に変わってしまいます。そうなる前に、He3で人として死なせてあげるのはむしろ温情ではないでしょうか」
「とはいえ、九十分後に核ミサイルが落ちてくるって言えば、状況なめてた連中もパニクって避難しだすだろうけどな。今更もう遅いけど」
 斉藤が嘆息交じりに、皮肉な笑みを浮かべる。
「温羅よりミサイルに現実的な危機感を抱く。市民の認識なんてそんなもんだぜ」
「――お前たちの言い分は分かった」
 芹香は右手を軽く掲げ、部下たちの発言を制す。
「撤退に異論がないなら良い。準備が整い次第、正式な撤退命令が出るだろう。お前たちはそれを待って、第四小隊の他班と合流。速やかにこの場を離れろ」
 その口ぶりに違和感を覚えたのか、摂津が怪訝そうに眉をひそめる。
「あの、班長は?」
「私は残る。中村や斉藤の言うように、He3の使用にはやむを得ないところもある。だからせめて投下直前までは、市民に避難を呼びかけつつ、誘導に努めてみるつもりだ」
「そんな、危険です」
「問題ない。 <中壇元帥> を降ろした状態なら、秒間九百八十メートルは稼げる。投下六十秒前の退避開始で安全圏に入れるさ。それに――」
 芹香は言葉を区切り、わずかに顔を伏せた。が、すぐに面《おもて》をあげて言葉をつぐ。
「私はこの任務を最後に、乙班を離れることになっている。それどころか、一時的にではあれ軍籍から抜けることになるかもしれない。理由についてはまだ口にできないが、これは群本部も了解済みの決定事項だ」
 ざわつきこそしなかったが、部下全員がその表情に顕著な反応を示した。それを敢えて無視し、芹香は続ける。
「今回の犠牲は、新たな三万の温羅を生まないための必要処置である――とするお前たちの見方は、兵士として正しい。しかし、生命を消耗品とする戦場の価値観そのものは狂気そのものだ。私は乙班を預かる身として、お前たちにそれを学ばせるだけの機会を提供しきれなかったようだ。ならせめて、その歪の修正くらいはしておくべきと考えている。最後の仕事としてね」
 その言葉が終わるのを待ち構えていたように、無線機が高鳴った。
 通信士から端末を受取り、芹香が代表して応答する。
 発信者の司令部はまず状況の報告を求め、そして予想通りの指示をよこしてきた。すなわちHe3の投下に備え、指定時刻までに全軍撤収せよ。その手順。ルートの確認。
 芹香は、乙班長として全命令に「了解」を返した。無線を切ると、部下に連絡内容を報せる。
 その途中、非常事態宣言のサイレンが周囲に木霊しはじめた。大気そのものを揺らすような大音響は、どこから鳴らされているのか特定することさえ難しい。
 そのサイレンの残響が尾を引きながら消えていくと、今度は入れ替わりに音声による街頭アナウンスが流された。
「只今、非常事態宣言が発令されました。佐久市全域に陰相転化の恐れがあります。住民のみなさんは、市当局および警察、陸上自衛軍の指示に従い、速やかに避難して下さい。只今、非常事態宣言が発令されました」
 ――状況はこの通りだ。
 騒音を避けるため、芹香は肉声を使わず部下たちに呼びかけた。
 ――お前たちは可及的速やかに第四小隊に合流し、所定の場所へ急げ。
 ――班長、本当に行く気ですか?
 中村が正気を伺うような顔で、芹香を見つめる。
 ――そうだ。今さらついて来るなんて言い出すなよ。死んで自業自得と思ってる相手のために、本気で生命なんてかけられるわけがない。お前たちは行け。命令だ。
「待って下さい」
 自らの声帯を震わせ、摂津曹長が一歩前に出た。
「それは中村、斉藤両曹長の発言であって、自分の見解を代弁したものではありません」
「そうです。私もお供させて下さい」
 摂津の行動がきっかけになったのだろう。三関帝として連携を組む、門倉ゆき曹長も名乗りを上げた。一拍遅れ、門倉と仲の良い藤堂京子までもが無言で進み出る。
「良く考えろ」芹香は正面から彼らを見つめ返した。「軍から離れる私と違って、お前たちのキャリアはこれからも続くんだぞ」
「お言葉ですが、班長。自分たちは命令に違反するわけではありません」摂津が直立不動の構えで言った。「可能な限り避難を呼びかけ、その後、命令通り『可及的速やか』に合流ポイントへ向かいます」
「私も同じ認識です。移動に高機動車ではなく、より速度の出せる帰神を用いることで、時間を多めに確保するだけです。指定の制限時間はもちろん厳守します」
 門倉が訴え、藤堂はそれに力強くうなずく。
「上官が上官なら、部下も部下といったところか」
 芹香は思わず笑みを漏らした。 <風火二輪> に反転とゆるやかな上昇を命じ、部下たちに背を向ける。
「私はもう、かばってやれないんだぞ」
「石原准尉」
 やりとりを聞いていた巫女が、思いつめた表情で駆け寄ってきた。
「お力になれれば、私もご一緒したいのですが……申し訳ありません」
「いや。それより、他班でも死者が出ている可能性がある。貴女は、彼らのために神楽を舞ってやってほしい」
 芹香は彼女と向き合える位置に降り、汗で頬に張り付いた黒髪を正してやった。巫女が淋しげに微笑む。
「どうか、ご無事で」
「ありがとう」
 微笑を返しながら、芹香は再び上昇した。邪魔な電線を見下ろす位置まで達すると、一度 <風火二輪> を止める。
 ――摂津、門倉、藤堂、行くぞ。全力でついて来い。
 ――了解。
 三つの意思が重なって届くのを確認するやいなや、芹香は一気に加速した。真っ直ぐに、もっとも生命の光点が集中した方向を目指す。方角で言えば南南西。今回の作戦区分では、BC3とされていた座標だ。高層の集合住宅が立ち並ぶ、市内最大級の住宅街だった。
 直線にして五キロに及ぶ距離を、芹香は十秒足らずで踏破した。
 眼下に広がる人々の住まいは――比喩的な意味でなく――夜の暗闇に沈んでいた。陰相転化の影響でライフラインに影響が出たのだろう。BC3エリアの大部分が停電状態にあるらしい。
 その闇の中で、通りという通りを埋め尽くすように蠢いているのは、人間と自動車の群れだった。非常事態宣言を聞きつけてから出てきたにしては、動きが早すぎる。おそらく人々は停電などの異常から、逸早く危機を感じてとったのだろう。
 拡声器を通したひび割れた声。連発されるホイッスルの響き。クラクションと人々の怒号。火の付いたような子どもの泣き声。
 時々木霊する空を切り裂くような破裂音は、車のバックファイアか、軍の威嚇射撃か――
 目を閉じてもパニックぶりが伝わる、戦場のような狂騒状態だった。整理にあたるCRF東部方面隊や役場の広報車、警察消防、そのいずれもが人の波に飲み込まれ、ほとんど機能していない。
 と、背後に気配を感じ、芹香は振り返った。 <麒麟> を降臨させた藤堂が、二関帝となった摂津と門倉を背に駆け寄ってくる。
 ――来たか。
 芹香に並んだ彼らは、同じように住宅街を見下ろした。三者が共通して、その惨状に息を飲むのが感じられる。
 ――こういう時の群集を動かすのは容易じゃない。各自、散開しつつ降下。帰神した姿を晒しながら、肉声ではなく直接彼ら精神に働きかけてみよう。
 効果があるかはともかく、それしか手がないことは誰もが分っている。芹香の指示に、部下たちは即応した。摂津は群馬方面へ。藤堂は西部、門倉が北部方面へとそれぞれ散っていく。
 だが、目星をつけた地点へ降り立つ途中、三人は凍りついたように動きを止めた。
 ――班長!
 門倉の悲鳴にも似た意識の声が、芹香の意識に突き刺さる。
 言われるまでもない。 <中壇元帥> は、門倉が反応するより早くそれを察知していた。
 まさに突然の出現だった。上空、約五メートルといったところか。洞穴の天井に止まった蝙蝠のように、巨大な人型が逆さ吊りで浮遊している。
 先ほど倒した個体より、体躯こそひとまわり小型に見える。だが、身にまとった <矢喰> の濃度と強度は比較にならないほど強大だった。
<中壇元帥> が感知した限り、その総数は二十四。佐久市全域に展開しているのが分かる。
 既に群集の多くは、初めて見る <温羅> の出現に気付きはじめていた。彼らが持つ生命の光点をとっても、それは明らかだ。陽光を思わせる淡い黄蘗《きはだ》色の輝きが、ウイルスに汚染されていくかのごとく黒ずんでいく。それは、黒番が一挙に形勢を逆転しはじめた終盤のオセロゲームを見るようだった。
 だが、芹香と <中壇元帥> を芯から驚愕させたものは別に存在していた。
 悲鳴をあげて逃げ惑う人の群れ――
 前を行く者を引きずり倒し、生贄に捧げながら進む暴徒と化した人間の海の中、涼やかに立つ人影がひとつあった。
 一千メートルを超えた距離を隔て、人間にしか見えないその「何か」は、真っ直ぐに芹香を見つめていた。 <矢喰> をまとう気配も、周囲を陰界の法則で汚染することもなく、ただ自然とそこに佇んでいる。
 それでいて不思議と、押し寄せる人の波にさらわれることもない。世界から、その狭い空間だけが切り取られているようだった。何ものにも影響されることなく、それはその場所に存在することを許されていた。
 他に出現した、二十四体の温羅を忘れるほど戦慄だった。 <中壇元帥> がしきりに警告を放っている。
 それを見透かすようなタイミングだった。
 人の姿をした化物が、芹香を見つめたままゆっくりと表情を変えはじめる。
 口元に広げられたそれは、誘うような微笑だった。


to be continued...
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