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ウラガリ第10話



 市の陰相化は、新たに現れた温羅によって急加速していた。
 光を通さない陰界の瘴気が、その濃度を増しながら徐々に勢力図を拡大していく。街全体が黒い霧に覆われていくようだった。
 ――摂津、門倉、藤堂。散開は中止。戦力を分散すると、各個撃破される危険がある。藤堂は摂津を回収して、門倉のポイントへ。三人で連携して、一体ずつ確実に潰していけ。
 芹香は指示を飛ばし、眼下の街を俯瞰する。
 ――撤退途中で進路を塞がれた部隊が、温羅と交戦に入りつつある。可能なら合流して指揮下に入れ。
 別れてきた乙班の残りと支援班は、幸いにも既に他班と合流できているようだった。出現した温羅とぶつかるルートからも外れている。
 そのことに安堵しかけた時、芹香は喉元に刃物を突きつけられたような戦慄を覚えた。
「自分の心配はしなくても良いの?」
 からかうような口調が、逆に首筋の肌を粟立たせる。反射的に <風火二輪> を加速させ、反転しながら距離を取った。
 信じられない思いで、芹香は人間の形をしたその「何か」を見つめる。
 一瞬前までそれは、一千メートル離れた地上に立っていたはずだった。真っ直ぐに自分と睨み合いをしていたはずなのである。それが気づけば、背後を取られていた。
 ――なんだ。これは?
 帰神中の人間ではない。だが、温羅でもない。矢喰をまとわず、陰界の気配を全く感じさせることがない以上、そうとしか考えられない。それでいて、戦闘に特化した神性 <中壇元帥> の後ろをとるほどの実力の主でもある。
 そんな化物の話など、聞いたこともなかった。
「ふうん」
 女は妖艶な笑みを浮かべ、検分するように芹香を眺めた。
「軍にも綺麗な女の子がいるのは知ってたけど、お飾りじゃなくて、前線で活躍してる人のなかにもいたのね」
 見えているものを信じるなら、それは妙齢の女性だった。同姓から嫉妬を買う種の美貌とでもいうのか。計算された立ち振る舞いと、どこか媚びるような表情が印象に強い。肢体は極めて肉感的で、露出も大胆なイヴニング風のドレスをまとっている。色は鮮血のように深いワインレッド。冴え冴えとした月光を浴びて、そのシルクの生地は夜空に飾られた薔薇のように艷《あで》やかだった。
「氏名と所属を述べろ」芹香は声にして告げた。「温羅と同時に現れた上にこうして向かい合っている以上、ただ一般人として扱われようなどとは思うな」
「綺麗で、若くて、気が強くて、それに身持ちも硬そう。あの人が一番好きなタイプだと思うな。あなた」
 芹香の言葉を無視して、女は言った。
「そういうタイプを籠絡して、屈服させるのが好きなのよ。彼」
 彼――?
「もちろん、私も好きよ。そういうの」
 芹香はともかく、もはや <中壇元帥> に迷いはなかった。 <風火二輪> を踏切台のようにして後方へ。再び一千メートル級の間合いを確保しつつ、宝貝を瞬時に入れ替える。
 彼が選んだのは <金磚> だった。芹香の両手が見えないボールを掴むように構えられると、そこに回転するレンガ状の物体が現れた。ジャイロのように軸を様々に変える高速運動は残像を産み、 <金磚> を本当に一個の球体であるかのように見せている。
「疾」
 言霊と共に <中壇元帥> は、芹香の両腕を押し出すように伸ばした。放たれた <金磚> は黄金色の光芒を描き、レーザー光線のように女へと急襲をしかける。
 空を焦がすような黒い炎は、その瞬間に現れた。
 直径数十キロクラスの――街一つを飲み込んだ――陰相領域を人間サイズにまで圧縮したような、超高密度の <矢喰> 。まさに結界と呼ぶにふさわしい不可侵の領域が、女の周囲に瞬間展開された。黒炎の発する陰界の熱気を前に <金磚> は鳥の羽も同然だった。触れることすら許されず、空気の揺らめきに押し返されるがごとく弾き返される。
「あら、怖ぁい」
 女がおどけるように身を縮こませた。
「怖くて私、過剰防衛しちゃいそう」
 またも刹那だった。 <中壇元帥> が稼いだ距離を、女は嘲笑うかのごとく瞬時に縮めてみせた。同時、白く華奢な細腕が防御をかい潜って芹香の喉元に迫る。身を捩って急所を避けるが、手そのものからは逃れられない。鷲掴みにされた鎖骨が砕かれる感触と共に、口の中に血の味が広がった。
 一方、手がかりを得た女は、微笑んだまま芹香を振り回す。最後は、愛犬にフリスビィを放りでもするように地上に向けて投げ捨てた。
 無造作にも見えるその動作は、だが狂気的な加速を生んで芹香を弾丸と変えた。咄嗟に <風火二輪> を呼び出し、逆噴射。減速を試みるも間に合わない。芹香の肉体は地上二十階、一三一戸からなる高層高級マンションをブチ抜き、地表に突き刺さった。
 墜落点となったのは隣接する居住者用の大駐車場だった。芹香の肉体は、駐車されていた <ヴェンチュリィA300> の黒いボンネットを直撃。両隣の乗用車を巻き添えにしながら、地面のアスファルトを板チョコのように粉砕する。
 巨大なクレーターの中心で、芹香が最初に見たのは白く形の良い脚だった。膝上で切り離された右足が十一時の方向、およそ三歩分の距離に転がっている。比較的鮮やかな切断面から、赤黒い鮮血がとろとろと垂れ流れていた。
 それ以外は何も見えなかった。周囲は爆煙にも似た粉塵にまかれ乳白色に染まっている。その向こう側で時おりチラつく黄昏色の揺らめきは引火したガソリンの炎だろう。
 遍音速まで加速された五十キロの物体が直撃したのだ。周囲にはミサイルが着弾したような被害が出ているはずだった。最悪なことに、街からの脱出を図るため、駐車場にはマンションの住人が大勢詰め寄せていた。死傷者は恐らく片手の指では数え切れまい。
 空高く舞あげられたアスファルト片がパラパラと断続的に降ってくる。どこからか、火の付いたような幼児の泣き声が届いてきた。苦痛の呻き、くぐもった嗚咽が四方八方から重たく響いてくる。
 嗅覚は、鉄屑の錆びたような匂いと、漏れ出したオイル、それに焼け焦げるゴムの刺激臭が混じり合ったもので既に半ば麻痺しつつあった。
 中壇元帥が <混天綾> を発動してくれなければ、おそらくは即死だった。防御、捕縛などに用いられるこの紅い綾布状の宝貝は、水分子を支配下に置く。この特性を利用し、中壇元帥は大気中から莫大な量の水分を集め、超高圧で皮膜化しつつ周囲に展開。自身が帯びた位相空間と併せ、芹香の肉体をほぼ無傷で守りぬいていた。
 つまり、あそこに転がっている右足は私のものではないらしい―-
 芹香がようやくそのことを把握した時、その声は降ってきた。
「帰神って凄いのねえ」
 言葉と裏腹に、さして驚いた風もない口ぶりだった。
 芹香の後を追って降下してきたのだろう。女が駐車場に形成された巨大クレーターの縁に降り立った。視界が曇っていようとも、その凶々しい気配だけではっきりと分かる。
「ねえ、あなたって、もしかして天才ってやつなんじゃない?」
 言葉と同時、周囲を覆っていた爆煙の薄霧が一瞬で消し飛んだ。化物の存在を恐れ、自ら霧散していったかのようだった。引いていくベールの向こう側から、艶然と微笑む女の姿が現れる。
「貴様、これだけの惨状を生み出しておきながら」
 中壇元帥が盛んに <閙海> を要請している。
 そもそも自身が戦闘用の人型宝貝であるこの少年神は、伝承の中で度重なる能力強化を受けたとされていた。生まれた時は人間と違わない姿であったらしいが、最終的には三面六臂、あるいは三頭八臂にまで変貌を遂げたという。閙海を経てこの状態に變成《へんじょう》した場合、中壇元帥の戦闘能力は劇的に向上する。種類を変える度、いちいち出し入れしていた宝貝を同時顕現させることも可能だった。
 問題は伴われるリスクだ。だが、もう選択肢はない。
「―― <閙海> 」
 言霊にした瞬間、芹香は意識と肉体との乖離がより大きくなるのを感じた。体から半分ほど抜け出ていた魂が、強風に煽られ完全に飛び出てしまったような感覚。並行して、中壇元帥の影響力と支配力が爆発的に増していく。
 最初に訪れた客観的変化は、時間経過の極端な鈍化だった。停滞とさえ言い換えて良いだろう。
 先ほどまでとは比較にならないほど、元帥の支配領域は拡大している。半径は今や駐車場全域を覆っていた。その内部に存在する全てが、スロー再生のように動きを緩慢にしていた。車体を焦がす炎の揺らめきまでもが、樹液に閉じ込められた羽虫のごとく静止している。手を伸ばせば、摘めそうな錯覚さえ抱かせた。
 中壇元帥という名の神が、世界から法則と摂理の支配権を奪った結果だった。
「なあに、それ」
 いささかながら、今度は本当に驚いたらしい。女が小さく目を見開く。中壇元帥の支配圏に身をおきながら唯一、動きの速さを維持している存在が彼女だ。
「温羅の <矢喰> みたいな靄々がおっきい人の形になって、あなたと重なって見えるけど。それが憑依してる神様?」
 女が目を輝かせながら軽く手を打つ。愛らしい仔犬を見つけて身悶えするような仕草だった。
「腕が四本もあって、あれみたい。なんだったかな……」
「疾」
 クレーターの中央に伏した体勢のまま、中壇元帥が行動に出た。両腕を正拳突きの要領で素早く伸ばす。これに反応したのは、その手に通されていたナットを思わせる巨大な双輪だった。中壇元帥が生まれながらに帯びていたという、投擲用の宝貝だ。
 予測を超えた速度と威力を感じたのだろう。女の顔から笑みが消えた。瞬間的にあの狂気じみた矢喰を展開し、迫り来る <乾坤圏> を受け止める。
 だが、それは布石に過ぎなかった。防御させ女の動きを封じると、中壇元帥は <風火二輪> をもって疾走。瞬く間に背後を取る。間髪入れずに繰り出したのは、 <火尖鎗> の殺人的な打突だった。
 もはや何手先までの読み合いなのか、芹香には理解が追いつかない。
 矢喰でコーティングした白く華奢な手が、紅蓮の炎を巻いた槍の穂先を鷲掴みにして止める。その時にはもう、第三・四第の腕にそれぞれ握った元帥の <陰陽剣> が、袈裟懸けに女を襲おうとしていた。
「そう、思い出した」
 突如、女の声が真隣から聞こえた。 <火尖鎗> から抵抗が消え、陰剣と陽剣が虚空を切り裂く。忽然と消えた敵の姿は、声の方向に転移していた。
「阿修羅っていうんじゃなかった? あの、顔と手がいっぱいある仏様」
 満足そうに言い、女は軽く息を吹き出すような仕草を見せた。微かに尖らせた唇が妖麗な艶を放つ。
 だが、芹香を襲った衝撃は見かけほど可愛いものではなかった。不可視の何かが <混天綾> の水膜を破り、元帥の位相空間に激突した。相殺しきれない衝撃が芹香の肉体を軋ませる。
「今のあなた、あの阿修羅像そっくりで怖いのね。でもあれって顔は三つなんだっけ。ね、あなたもうひとつ顔出せないの?」
「何者なんだ、お前は」
 乱れた呼吸で芹香は言った。肩が波打ち、咳き込みそうだった。
 宝貝の行使は、伝説に違わず気力との交換となる。出力に比例する点においても変わらない。限界が近づいていた。
「人の姿で、なぜ温羅を超える矢喰を持っている?」
「私、あなたと違って帰神の才能はなかったのよね。だから正直、コンプレックスだった」
「人間だった時代があるような言い方だな」
「どうかな。そんな凄い帰神ができて、しかも私より綺麗なんて、ちょっと悔しいじゃない? だから教えてあげない」
 女は目を細めるようにして冷たく微笑んだ。
「でも、そうね。私たちって、 <ちょうき> って呼ばれてるのよ。それだけは教えてあげる。私は、三番目なんだって」
 あ、でもこれって「順位」じゃなくて、「なった順番」よ。女は取り繕うように付け加えた。
「ちょう、き――」
「うん。身分はお姫様だけど、御主人様にね、束縛されちゃうの」
 その言葉は、芹香の脳裏で <寵姫> という文字と結びついた。
「元は彼氏いたんだけどね。奪われちゃった。でもしょうがないと思わない? 代わりに、こんな凄い力が貰えるんだし」
 つまりそれは、人の姿と精神を保ったまま温羅に成った、ということなのかもしれなかった。理論上、そんなことが可能なのかは分からない。少なくとも、芹香は報告例を知らない。
 だが、人語を理解し、流暢に使いこなす亜種は確認されている。高位の温羅や <王> 真羅が、人類を超える知能を有しているという話に至っては、何千年も前からの定説だ。
「ねえ、凄いでしょ? 私、もう歳とらないのよ。あの <処女王> とおんなじ。ずっと綺麗なまま永遠に変わらないの。鎮魂さえ満足にできなかった頭空っぽの小娘が、よ? 今や伝説の女王様と肩を並べてる」
「寵姫というからには、寵愛を授ける男が後ろにいるはずだ」
 芹香は <混天綾> を操り、上空から水分を集めながら訊いた。周囲で炎上する車体を、順に水の半球膜で包み込んでいく。それから内部の時間だけを限定して等倍速に戻した。
 大方の消火に成功したのを確認し、芹香は続ける。
「さっきも、後ろに誰かいるようなことを仄めかしてたな。その人物についても話してもらおう」
「あら。私、調子に乗ってまた喋りすぎちゃった?」寵姫を称した女は、柳眉を片方だけ吊り上げた。「――嫌よ。最初はあなたを捕まえて帰って、あの人に褒めてもらおうと思ったけど。私って基本、自分より若くて綺麗な女は死んだ方が良いって考えなのよね」
「お前は、人間を辞めることで力を得たんじゃなかったのか?」
「そうよ」紅い唇の隙間から、白く鋭い犬歯が覗いた。「あなたも強いけど、私はもっと強い。これからそれをたっぷり教えてあげる」
「人を捨ててなお劣等感に囚われ続ける者が、他者に何を教示できる」
 先に動いたのは、またも中壇元帥だった。地表付近で戦えば、駐車場内の一般人に被害が及ぶ。芹香は上空に場所を移したかったが、閙海時はその声も届かない。元帥は低空を豪速で駆け、真っ直ぐ寵姫へ襲いかかった。
 元より、彼は後先考えて戦うタイプではないとされる。芹香の気力が尽きかけていることもお構いなしの戦術だった。元帥は同時に <乾坤圏> と <金磚> 具現化。牽制のために惜しみなく放っていく。
 寵姫は瞬間跳躍してこれを回避するが、二種三個の投擲宝貝は執拗だった。別の座標に目標が再出現するやいなや、そちらへ向けて自動追尾を開始する。
 それでも、寵姫の顔から余裕の笑みは消えなかった。鬼ごっこを愉しむかのように、時に瞬間移動で、時には直接身を翻して宝貝を翻弄している。
 そのチェィスゲームに自らも加わろうと、元帥が <風火二輪> を吹かしかけた時だった。唸るような低い地響きを、鎮魂下の鋭敏な感覚が察知した。同じくして先ほど突き破ったマンションが、中程から車の排気ガスに良く似た鼠色の煙を発しはじめる。
 その発生源は、建物のやや左によった中心部。まさしく、先ほど芹香が通り抜けた箇所だった。見れば、直径にして五メートルにも及ぶだろうか。少女の肉体が穿ったとは到底思えないほど巨大な風穴が空いている。
 人体を貫通した九ミリの鉛弾は、背中側にコーヒーカップ大の穴を生むことがある。それと原理は同じなのだろう。そして、弾丸と化していた芹香の肉体は、マンション全体を支える背骨にも等しい支柱を叩き折ったのかもしれない。
 中壇元帥の計算によると、倒壊までおよそ十七秒。支配領域の外側であるため、現在進行形でカウントダウンは進んでいる。芹香の目には居住者の存在を示す生命の光点が、まだ無数に見えていた。崩落がはじまれば、そのほとんど全てが助からないだろう。
 中壇元帥は、無視しての戦闘継続を望んでいた。
 ――敵を倒せ。戦え。人間たちは死んだ方が都合が良い。助けてどうなる。どうせ陰相に飲まれ、死ぬか温羅に変わるのだ。
 確かにその主張は正しい。だが、その無駄とも思える救助のためにそもそも自分は居残ったのだ。
 芹香は閙海を解除し、再び肉体の主導権を取り戻した。即座に <風火二輪> を顕現させ、マンションへ向かう。
 未閙海だと、近づいてもマンション全域を元帥のテリトリィに含むことは難しい。それでも大部分を範囲に含むことできる。あとは <風火二輪> の速度に任せ、芹香が抱きかかえて安全域まで運べば良い。速度は音を超えるが、支配領域内であれば物理法則は無視できる。一般人を無傷で運べるだろう。生命の光点の総数は五十七。シビアだが、全員を救出できそうだった。
 だが、その計算をご破算にしかねない大きな障害がひとつある。
「あら、私を放って人命救助?」
 行く手を遮るように、その障害が出現した。まさに瞬間移動だ。
「退け! お前に付き合ってる暇はない」
「嫌よ。あなたにも生体反応が光って見えてるんでしょ? あれがまとめてぱあっと消える瞬間、凄く綺麗じゃない。私、それを見るのが好きなの。荷物をくるむプチプチを潰すみたいな快感に、ちょっと似てると思わない?」
 ――班長!
 声帯を介さないその声は、 <風火二輪> さえの凌ぐ神速の疾風と同時に芹香へ届けられた。伝説の霊獣 <麒麟> を降ろした藤堂京子が、二関帝を背に駆けつけたのだ。
「なに?」
 突然の闖入者たちに、寵姫が顔をしかめる。
 その顔面に向け、摂津が青龍偃月刀を投げつけた。女が上空へ逃げると同時、麒麟が疾風と化して芹香の側を通り抜けていった。
 ――救助は我々が。班長はその化物の足止めをお願いします。
 すれ違いざまの言葉に、芹香は思わず笑みを浮かべる。
 ――助かった。頼むぞ。
「ねえ、見た? 今の鹿みたいなの。ラーメン屋さんの丼に描いてあった、中国の動物にそっくり。あれも帰神なの? 若い女の子の気配がしたけど」
 寵姫は、まさに珍獣を見たようにはしゃぐ。だが一転、すぐに表情を曇らせた。
「それにしても、一対一の勝負だと思ってたのに。兵隊さんって、意外とズルなのね」
 芹香は無視して、 <風火二輪> を操作した。電線と同じ高さ、女と向き合う位置にまで身体を持ち上げる。
「でも、そんな兵隊さんだからこその弱点を、賢い私は知ってるのよね」
 愉悦に唇を歪めた瞬間、寵姫の姿がかき消えた。気づけば、パニック状態と化した駐車場に着地している。芹香の身体が巨大なクレーターを形成してから、客観時間にして二十秒ほどになるか。ようやく、彼らも上空を飛び回る化物の存在を感知したらしい。
 寵姫が目をつけたのは、クレーターからやや離れた場所にいた親子であった。母親らしき若い娘が、幼子を抱きしめたまま助けを求めている。そのすぐ側には、全身に重度の火傷を負った成人男性が倒れていた。おそらくは彼女の夫だろう。車の爆発炎上に巻き込まれたに違いない。焼け焦げた衣服が、溶けて爛《ただ》れた皮膚に張りつき、融合したように見える。
 芹香の確認する限り、男に生命の光は見えなかった。妻らしき娘はそれに気づいていないのか、或いは認めようとしていないのか。ただ、救助を求め声を嗄らしている。胸に守られた小さな少年は、ショック状態で無反応の人形と化していた。
「あらあら、かわいそう。兵隊さあん。助けてあげて」
 寵姫はくすくすと笑いながら、親子に歩み寄っていった。
 何が目的かは分からない。だが、うなじの毛が逆立った。芹香は加速して地表へ向かう。
 だが、寵姫が機先を制した。蠅を追い払うように、無造作な動作で腕を一閃する。瞬間、黒い炎としか形容しようのない塊が、芹香の眼前に現れた。それはとぐろを巻き、大蛇が獲物を捕食する時のように芹香を絡めとる。
「うら若い娘が助けを求めてるのに、冷たい人たちねえ。誰も助けに来てくれないなんて。まあ、どこも同じような状況だから仕方ないか。じゃあ、私、ちょっと手助けしちゃおうかな」
 寵姫は呆然とする母子に馴れ馴れしく擦り寄っていく。そして足元の遺体を、ボロ布でも取るように摘みあげた。
「お気の毒に、これあなたの御主人?」
 ぶら下げた骸を娘の前に突き出し、わざと直視させる。
「でも、残念。もう死んじゃってるみたいよ。彼」
 母親の唇がね「えっ」という形に動いた。
「たぶん、重度の火傷によるショック死ねえ。あなた、まだ二十代でしょ? かわいそうに、その歳で未亡人ってやつね」
 寵姫は艶然と微笑みながら、吐息がかかるほどの距離まで娘に顔を寄せた。そらに笑みを深めて続ける。
「私、哀しい話って基本、苦手なの。だから、また三人で暮らせるように力を貸してあげようかなと思うんだけど」
「やめろッ」
 芹香は咆哮し、 <風火二輪> を収めた。間髪入れず <混天綾> を全開にし、水壁と位相空間で締め付けてくる黒焔を押し返す。
「動かないで、兵隊さん。分かるでしょ? あなたが私を止めるより、私が次の動作に入る方が速い」
 事実だった。「母」を大切にしたという中壇元帥にも思うところがあったのだろう。芹香と珍しく歩調を合わせるように、彼も動きを鈍らせる。その一瞬の逡巡を見逃さず、跳ね返した黒焔が再び芹香を絡め取った。
 目を向けずとも、その様子が見えているに違いない。寵姫は再び母子に向き直った。優雅な動作で腰をかがめ、ショック状態に陥った幼い少年と視線を合わせる。まだ言葉を覚えはじめて何年も立たない年頃か。虚ろな瞳が、ぼんやりと女を見つめ返す。
「ねえ、ボク。大丈夫だよ。お姉ちゃんが、お父さんを治してあげる。ね、またお父さん元気になって欲しい?」
 幼子の瞳がわずかに揺らめいた。しばらくして、そのふっくらとした薄桃色の唇が震えだす。
「……ホント?」
「ホントよ。お姉ちゃんが、本当にお父さんを元気にしてあげる。そしたらボクも嬉しいでしょ?」
 子どもがこくりとうなずいた。その頭を優しく撫でてやり、寵姫は立ち上がった。そして、上空で硬直を余儀なくされている芹香へ、流し目に近い一瞥を投げてくる。
「あの――」
「心配しないで」戸惑う母親に、寵姫はとびきりの笑みで応えた。「死後間もないなら、蘇生は可能よ。兵隊さんに禊もされてないし。旦那さんのこと、本当にどうにかできるはずよ。任せて」
「よせ。死者の魂を冒涜する気か!」
「もう。野暮なこと言わないでよ、兵隊さん。私はご家族の意思を尊重してお役に立つだけよん」
 芹香の叫びを一蹴し、寵姫はゆっくりと本性を顕にしていった。陰界の住人があまねく身にまとう <矢喰> 。あちらの理に身を浸した者の持ち込む別世界の法則。それは、鴉の濡れ羽のような黒色をした炎だ。寵姫は望むなら、それを無いもののように意図して抑制できるらしい。そんな芸当が可能だとすれば、解放はいとも容易い。
 広げられた陰界の瘴気は、三人の親子を瞬く間に包み込んだ。変化は即時あらわれる。まず、父親の骸が痙攣するように跳ねた。火傷で皮膚が剥け、露出していたピンクの肉がボコボコと煮立ちはじめる。屍体の腐乱映像を数倍速で眺めるような光景だった。脂肪と筋肉が半液状化し、骨の隙間から崩れ落ちていく。支えを失った眼球が頭蓋骨から零れ落ち、ピンポン玉のように転がった。
 恐怖の絶叫が響き渡った。守るように抱いていたはずの子どもさえ放り出し、母親はその場に腰から崩れ落ちる。その足元に、熱を持った水たまりがじわじわと急速に広がっていくのが見えた。
「もう、若い女の子がはしたない。そんなに怯えることないじゃないの。偉大なる復活。生命の神秘を目撃してるのよ?」
 寵姫が冷やかすように、母親のまなじりを覗き込んだ。
 陰界の理は、弱い者から蝕んでいく。次の犠牲者は、庇護を失った子どもだった。父の変貌で決定的な衝撃を受けたのだろう。精神を破壊され、魂の抜け殻と化した幼児にも陰相転化の兆候がではじめた。肌に不気味な波紋があらわれ、それが徐々に顕著になっていくと、突如として人体を象る輪郭が崩壊した。空気を入れすぎた風船のように、身体のあちこちがボコボコと膨れ上がる。おそらく三歳にもなっていなかったであろう彼の肉体は、瞬く間に成人を超えるサイズにまで膨張していった。膨らみすぎた肌が張り裂る。鮮血と弾けた内臓の一部が周囲にまき散らされた。やがて、愛らしい幼児は心臓のように絶えず蠢動を繰り返す、血まみれのグロテスクな肉塊と果てた。それでいて、もはや有機物とは思えぬほど煮立ち、泡立ち、 <矢喰> をまといながら急速に自らを肥大化させていく。それは周囲の空間と質量を喰っているようにも、あるいは陰界の彼方から何かを吸い寄せているようにも見えた。
 肉塊は、いつしかビル二階分の高さを誇るようになっていた。煮沸のような泡立ちも落ち着き、その表面は溶解したコールタール、もしくは流れ続けるチョコレートフォンデュのように滑らかになりつつある。そして見る間に――歪ながら――人型に近づいていく。
 父親も部分的に同じ変遷を辿り、同じ極致へ至ろうとしているのが分かった。新たな温羅の誕生。その瞬間だった。
 おそらくは、寵姫の展開した陰相領域が極めて強力なものであったためだろう。變成《へんじょう》までが通常、あり得ないほどに速い。
 若い娘のそれとは思えないほど野太い絶叫と共に、母親が白目をむいて昏倒するのが見えた。矢喰の瘴気にあてられつつ、眼前でこの世のものではない光景を目撃したのだ。正気でいられるはずもない。その美しい相貌が腐った果実のようにひしゃげ、爆発と表現にふさわしい膨張をはじめた。崩壊の波は全身に伝播していく。皮膚の内側で猛獣が暴れ狂っているかのように、彼女の身体は不定形に膨らんでは弾けていった。
「なんということを……」
「凄おい。人間、変われば変わるものねえ」
 愕然とする芹香を嘲笑うように、寵姫が無邪気に黄色い声をあげる。
「親子三人で、新しい家庭生活をエンジョイしてね」
 芹香の中で何かがスパークした。まとわりつく黒焔を力任せに引きちぎり、寵姫へ向かう。同時、別方向からも奇襲をかける人影があった。残りのふたりに場を託し、こちらへ向かっていた摂津曹長だ。義に厚く弱者に寛容であったという <伽藍神> が今、憤怒の表情で女に襲いかかろうとしていた。
 訓練の賜物というべきだろう。阿吽の呼吸だった。 <風火二輪> の加速を得た芹香が頭上から。摂津の青龍偃月刀 <冷艶鋸> が背後から。意図的にタイミングを合わせ、寵姫に振るわれる。回避されても同士討ちにならず、次のアクションの妨害とならない角度。完璧なその連撃を、しかし女は余裕をもって捌いてみせた。 <冷艶鋸> の猛撃を左手で軽く受け流し、芹香の <火尖鎗> は右手でがっちりと掴み止める。体《たい》を崩した摂津へは、掬い上げるような蹴りの追い打ちが叩き込まれた。その一瞬に乗じ、掴まれた槍を捨てた中壇元帥は <斬妖剣> に獲物を持ち替えた。巨牛の胴体すら両断せしめるであろう斬撃が神速で打ち込まれる。
 寵姫はお得意の転移でそれを回避した。その手には、いつの間に奪い取ったのか摂津の青龍刀が握られている。
 ――摂津、あれを収めろ!
 芹香が警告を発するも、遅い。防御圏を破って摂津の肉体へ直接叩き込まれた一撃は、彼に甚大なダメージを与えていた。白い歯が鮮血に塗れているのが見える。
「これ、お返しするね」
 人間の太腿ほどもある極太の柄。斬馬を目的としているようにしか見えない巨大な刃。五十キロの重量を誇ったとされる大鉈 <冷艶鋸> を、女は軽々と片手で弄び、そして投げた。
 池に鯉の餌でも放るような、無造作ともいえる投擲だった。にもかかわらず、中壇元帥の眼をしても、放たれた物が単なる斜線としか認識されなかった。摂津には見えたかどうかも怪しい。
 暴力的なまでに加速された大鉈は、本来の主の元へ一直線に返環された。直撃こそ免れたものの、膝から崩れていた摂津をかすめるようにして地に刺さる。数千の稲妻がひとつの束となり落雷したようだった。生じた衝撃波は飛び散る土砂を致死性の散弾に、圧縮された空気を凶悪な鈍器に変え、周囲の人間達に等しく襲いかかった。周辺の樹木が根こそぎ吹っ飛ぶ。電線は大縄跳びで振り回されるように震え、共振した自動車の窓ガラスは一瞬で粉砕する。爆風に撃ち抜かれた誰かの眼球からコンタクトレンズが剥がれ飛んでいく。
 摂津は、爆心地の中心で奇跡的に原型を留めていた。だが、帰神は解けている。ダメージは左半身に集中したようだった。上腕部の半ば辺りから左手が失われていた。脚には関節がひとつ増え、ありえない方向に曲がっている。帰神甲冑も左半分が吹っ飛び、大部分が朱に染まって見えた。
 生命の光点は、まだ消えていない。だが傷の具合を見る限りきわどいところではある。意識を失っているのは不幸中の幸いとすべきだろう。鎮魂帰神法の庇護下にいられないのなら、その方が安全だった。
「怖そうな大男だったのに、見かけ倒しね。それとも――」
 地上一メートルほどの虚空に腰かけ、寵姫はその形の良い脚を見せびらかすようにして組む。
「やっぱりあなたが優秀すぎるのかな。兵隊さん」
 芹香は奥歯を噛み締めた。気づけば周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図だ。駐車場はもはや完全に陰相に沈み、あちこちで死者や負傷者が闇に堕ちようとしている。芹香自身も、そろそろ体力の限界だった。
「近くの人はほとんど死んじゃったし、次はどこにしようかな」
 ショーケースに並んだケーキを選ぼうとするかのように、女の声は楽し気だった。
「お前の目的はなんだ。どうして、こんなことをする。どうしてこんなことが平気でできるんだ」
「豊かな人間は、たくさん食べ物を輸入して、その四割を食べきれずに残飯として捨ててるんでしょ? 同じことだと思うけどな。あなた、まるで人間は理不尽なことを全然してないみたいな言い方するけど」
 幼子のように、寵姫は脚をぶらつかせつつ唇を尖らせた。
「私はただ、刺激的だからやってるだけよ。温羅ちゃんをやっつけられちゃったみたいだから、誰がやったのか様子を見に来てえ……そこで兵隊さんを見つけたから、カッコいい帰神とか見せてもらおうと思って。それに爆発とか綺麗だし。人間がぶくぶくしながら温羅になっていくのを見るのって、なんか映画みたいで凄いじゃない」
 あとは、と寵姫は続けた。
「やっぱり、自分がどれだけ変わったか確かめてみたいじゃない? 兵隊さん、はじめてピストル支給された時、撃ってみたいと思わなかった? これで人を撃ったり、使ったりしたらどんなことができるかとか。みんな、どんな顔して驚くかとか」
「力を手にすれば使ってみたくなるのが人情とでも? 人間であることをやめた者が人情を語るか」
「人類の新しい可能性って認識して欲しいな」
 その時、遂にマンションの崩落が本格化した。一度はじまれば、あとは一瞬だった。発破解体のごとく、建物全体が加速をつけて落下していく。大した音も無い。底なし沼へ吸い込まれていくように、ものの数秒で倒壊は完了した。
「あっちも終みたいね」寵姫がつまらなそうにつぶやいた。
 ふたりの少女曹長は、避難任務を見事成し遂げたようだった。瓦礫と化した建物を挟み、芹香のいる駐車場の反対側にそれらしき生体反応を感じる。
「じゃあ、そろそろ片付けしちゃいましょうか」
 寵姫は改めて周囲を見渡し、最後に芹香へ視線を戻す。
「あっちに逃げたマンションの人と、兵隊さんの部下をやっちゃえばこの辺は大体綺麗になるわよね」
 もはや問答に意味はなさそうだった。芹香は <風火二輪> で一気に寵姫との間合いを詰めた。相手はそれを受け止めるより、距離の維持を選ぶつもりらしい。推進力らしきものもなく、だが <風火二輪> と同等の速度で低空を滑空していく。そうして逃げながらも、正確に避難民の方へと向かいつつあった。
 追いつけない。 <風火二輪> を全開にしながら、芹香は焦燥感に襲われていた。それにもう、自分にこの女を倒すことは不可能だろう。仮に他の部隊と連携したところで、この化物を仕留められるだけの決定力は得られない。芹香はそう計算した。
 ならば、できることは時間稼ぎが精々だ。
 ――門倉、藤堂!
 芹香の声に応じ、霊獣 <麒麟> にまたがった門倉みゆきが対面方向から接近してくる。女を挟撃できる位置取りだった。
「もう、今度は三人がかり?」
 行く手を塞がれた形の寵姫は、急制動をかけその場で停止した。困ったように小首を傾げる。
 ――藤堂は摂津を回収。そのまま戦線を離脱しろ。
 ――私だけ? そんな。
 ――私と門倉も、必要な時間を稼げたら即時撤退する。今は摂津の保護が最優先だ。あの負傷は生命に関わる。急げ。
 ――了解。御武運を。
 背から門倉が飛び離れるのを確認すると、藤堂は一瞬で摂津の元へ駆けつけた。今度は彼を背に乗せ、乙班最速の機動力をもって前線から急速離脱していく。
「あ、鹿さんは行っちゃうんだ。残った兵隊さんより、あっちの子の方が強そうだったのに」
 寵姫は拍子抜けしたように、肩をすくめた。芹香は無視してタイミングを図る。
 ――門倉。摂津が一瞬でやられたのを見ていたな? お前は私の対角を維持しつつ、距離を取って牽制に努めろ。
 ――了解。
 門倉の手から青龍偃月刀が消え、代わりに弓が具現化した。それを見計らい、中壇元帥はすかさず攻勢に入る。
 だが勝負は、再 <閙海> するだけの余力を持たない時点で、既に芹香の負けだった。一度に複数の宝貝を顕現できない以上、攻撃時には <風火二輪> を納め、武器に交換するしかない。必然、 <風火二輪> は間合いを詰める際の初動にしか使えない。動きは直線的にならざるを得なかった。
「ねえ、もう腕を六本にはできないの?」
 マタドールが闘牛を躱すかのように芹香を翻弄しつつ、寵姫が問うてくる。門倉が牽制に放つ矢も、 <矢喰> に阻まれもはや用をなしていない。攻撃が当たらない。
「あの変な鹿さんもいなくなっちゃったし、もう兵隊さんたちの芸は出尽くしちゃったって感じね」
 寵姫がカッと眼を見開いた。瞬間、芹香と門倉の背中で不可視の何かが爆発した。その衝撃波は中壇元帥の結界に干渉。減衰しながらも突き破り、芹香の肉体を直接殴りつけた。口内に血の味が、鼻腔に錆びた香りが広がる。
 ダメージで相手の動きが止まったのを、寵姫は見逃さなかった。間髪入れず、ソフトボール投げの要領で左右の腕を軽く振り払う。投げつけられたのは、 <矢喰> を固めた黒い炎だった。左腕から出たそれは門倉に、右腕のものは芹香に――
 中壇元帥は <風火二輪> でなんとか回避をはかるが、門倉は直撃だった。大蛇のようにうねる黒焔が少女の細身を絡めとる。肺が圧迫され、悲鳴さえ出ないのだろう。低い苦痛の呻きを残し、門倉は真っ逆さまに落下していった。
「一対一にこだわりがないなら、私も応援呼んじゃって良いよね。見たいものは大体見たし、そろそろ最後のしめにしましょ」
 その言葉が招集の合図であったかのようだった。次の瞬間、寵姫の背後に無数の温羅が並び集っていた。最初に現れた二十四体の亜種たちである。数が二体減っているのは、展開したAOFに殲滅されたためか。スイッチのON/OFFを切り替えるような、それは突然の出現だった。

to be continued...
次話・近日公開予定
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