縦書き 横書き


ウラガリ第8話



 モノトーンに沈んだ世界だった。
 きな臭い空気は、どこか屍臭を孕んでいる。血煙の溶け込んだ生ぬるい風が肌に纏わりついて不快だった。鉛色の空は重く、圧迫するような曇天が続いている。足元を見れば、焦土と呼ぶに相応しい荒野がマグマにかぶせたカサブタのように不気味な煙をあげていた。
 そんな世界の中心で、少年が慟哭していた。
 どろどろに混ざり合った異形の家族たちを抱きしめ、泣いていた。
 彼を取り囲むゲル状の川は、人間の海だ。溶けた肌からただれ出した肉と脂肪、そして湯気をあげる臓腑とが、他人のそれと混じりあってできた死者たちの群体だった。
 融解した人々は、死してなお陰界の法則に囚われ無に還ることを許されない。混ざり、腐敗し、歪み狂った理性の残滓が、その責め苦からの解放を渇望していた。呪詛のように死を望む叫びを、ただひとりの生者に浴びせかける。その声が幾百も重なり、読経のような低い響きとなって覆い囲む。
 少年は、涙を零しながらそれを拒んでいた。
 何としてもできない。そんなことができようはずもない。うずくまり、激しく頭《かぶり》を振りながら、彼は逆に許しを請い続ける。
 臓腑の河と成り果てているのは、血を分けた少年の父であり、母だった。生まれた時から知っている、ようやく言葉を覚えはじめたばかりの弟分なのだ。きっと自分を本当の兄だと思い込んでいるに違いない幼子。「にいちゃ」と呼んでくれる、家族同然の存在だった。
 遊びに行くと、いつもこっそりと菓子をくれた隣家の老婆。二日前、ゲームソフトを借りたばかりの友人。中学にあがる直前の春休み、精一杯の勇気を振り絞って告白してくれた少女だった。
 無精ひげを撫でながら、「女の子とうまくやる方法」をいたずらっぽく教えくれる二輪レンタルの店主も。内地で買ってきた希少品のお下がりを惜しげもなくくれる姉の級友も――
 今の少年を形作る、人生そのものとさえ言える島の家族だった。
 だがそれでも、溶け合う彼らは死を願い続けていた。人としての最期を少年に求め、請う。温羅として生まれ変わる前に。
 だから少年は、泣きながら両親を、小さな弟分を自らの手で葬っていった。その度に謝罪を繰り返し、殺め続けた。優くしてくれた老婆、クラスメイト、自分を好きだといってくれた女の子。すべてのその手で息の根を止めた。彼は五百回殺し、五百回泣いた。
 やがて異形の人海は躯の山と果て、少年はすべてを失った。
 故郷の家族たちをひとり殺すごと、自らの心もひとつ死んでいった。
 何より、ここにはもう最愛の姉がいない。
 もう何もない。喉は裂け、流れる涙すらも枯れ果て、本当にもう何も、欠片ひとつ残っていなかった。
 少年はただ、虚ろな目で壊れた世界を眺め続けていた。
 荒涼とした焦土に粘つく死臭の風が吹く。寄せては返し、返しては寄せる波の音が闇の向こうから静かに聞こえていた。

 ――そんな、夢を見た。

 訓練の賜物か、五十狭芹香の覚醒は迅速だった。
 虫の音ほどのかすかな囁き声を聞きつけ、肉体が即座に反応する。
 目蓋を開き、何度かしばたくことで闇に眼を慣らした。顔は動かさず、視線だけを周囲に巡らせていく。
 狭い寝台と、子ども用と見紛うばかりの小さな机。そして申し訳ばかりのロッカー。四畳半が精々という小部屋に、自分以外の気配がふたつ。
 軍部としては稀有な例なのだろう。AOFの隊員には末端にさえ個室があてがわれる。鎮魂帰神を基本とする部隊においては、個々の精神集中が生命線となるからだ。
 そうした事情でここが相部屋でない以上、気配の主はルームメイトなどではない。
 だが、芹香は警戒態勢をとらずにいた。
「芹香様。お休みのところ、申し訳ありません」
「ああ……」
 馴染みの声にうながされ、芹香は寝台の上で起き上がった。ベッドサイドを手で探り、電気スタンドのスイッチを入れる。柔らかな電球色が室内を照らし出すと、そこには予想通りの面子が顔を並べていた。いずれも女性で、この時間だというのにAOF仕官の制服をまとっている。ひとりはまだ若く、もう一方はそろそろ初老の域に達しつつある年代だった。胸と肩に光る階級章は、両者が上層部――本来なら、芹香が気安く面会できる相手ではないことを物語っていた。
「お前たちか」
 言いながら、芹香はデスクに置いた腕時計に目をやる。見間違いでなければ、いわゆる丑三つ時と呼ばれる時間帯だ。
「芹香様、また夢を見られたのですか?」
 その指摘で、芹香は自分の頬に手をやった。触れる冷たい感触に、自分が涙していたことを知る。
「どうも、そうみたいだね」
 塗れた指先を見つめながら、芹香はつぶやいた。
「最近、頻度があがってきてるような気がする。あれは、どう考えても温羅に潰されて陰相転化しつつある場所の夢だ」
「現実に <温羅の日> が訪れて、何か触発されるところがあると?」
「夢診断については素人だ。フロイトくらいは短絡的でも許されるだろう?」
「芹香様、お使い下さい」
 若い方が清潔なハンカチを差し出してくれる。芹香は礼を言ってそれを受け取った。
 幼少の頃より「美都」と呼び慕ってきた、姉代わりであり友人でもある女性だ。
「ふたりには、前にも言ったかもしれないけど」涙をぬぐいながら芹香は言った。「私は彼に会わなくちゃいけない気がする。それが何かは分からないけど、自分が彼を救う唯一の方法を知っている人間だってことには確信を持てるんだ」
「もう十五年以上も見続けておられますからね」
 美都が目に複雑な色を湛えてつぶやく。
「うん。ここまで続いていることに意味がないとも思えないし、あの夢は現実の出来事である気がする。過去であれ未来であれ、彼は実在した、あるいはしようとしてるんだろう」
「その夢を見る時は、ご自分を遠くに感じられるのでしたね」
 美都の問いに、芹香はうなずいて答えた。
 たとえるなら、自分がどこか自分でない感覚だ。肉体から幽体となって抜け出し、一歩後ろから世界を眺めるようなイメージ。
 あれは、鎮魂における一種のトランス状態に良く似ている。
「――それはそうと、ふたり揃ってどうしたんだ」
 彼女たちはいずれも五十狭家から出向してきた、芹香専属の侍従だった。AOF内でこそ雲上人として振舞っているが、こうして人目を忍んだ場でなら立場は本来のそれに戻る。
「間もなく、非常召集がかかります」
 年配の方、静江が言った。美都が義姉なら、彼女は義母とでもいうべき存在となるだろう。
「まあ、戦時中だからな。でも、何の?」
「皇典講究局《こうてんこうきゅうきょく》が託宣を得たそうです」
 皇典講究局。芹香は一度、口の中だけで反芻し、響きを確かめた。
「神祇省《じんぎしょう》の下部にあるっていう、あれだったか?」
 五十狭の者として、芹香も噂くらいは耳にしたことがあった。
「帰神で降ろした神霊から国政に関する神託を受けて、中央に情報を回す専門部局だったかな」
 それはかつて、 <陰陽寮> の陰陽博士や天文博士が担っていた仕事だった。土御門の祖が真羅に殺害され、陰陽道が事実上の衰亡に至るまでは。
「政《まつりごと》のことばかりではありません。天災の予知をはじめ、一定の目立った実績を挙げています」
 清江の言葉から即座に思い浮かんだのが、伊豆沖で起こった先の震災だった。あの件では、政府の迅速な対応が各方面から高く評価されている。地震そのものが事前に予測されていたのなら首肯できる話だった。
 そこまで聞けば、もう説明は必要ない。
 精度の高い予言――もはや預言とさえ呼べる精度の未来視が可能なら、対温羅に活かさない手はないだろう。
「では、その皇典講究局が温羅の出現ポイントを予知したか」
 芹香は問うというより確認するように言った。静江がうなずく。
「はい。局の巫《かんなぎ》たちが度重なる帰神により得た、信憑性の高い託宣とのことです。これを受け、AOFは先ほど予測ポイントへ二個中隊の派兵を決定しました」
「任務に当たるのは第一、第二中隊」美都が引き継ぐように言った。「派遣地は長野県佐久市。既に輸送ヘリCH-47JACが四機、木更津からこちらへ向かっています」
 身体が強張る。背中がざわつき、全身の産毛が逆立っていくのを感じた。
「その話、間違いないんだな?」
「はい。決定事項です」
「そうか」
 静かに言ったつもりが、実際に出た声はまるで別物だった。自然と口元が大きく歪んでいく。声を漏らさずに済んだことは幸運に思うべきなのだろう。もし漏れていたなら、底冷えするような獣のそれになっていたに違いないからだ。
「そうか」隠すように顔を伏せ、芹香は繰り返した。「温羅とまともにやり合えるか」
 ようやく、あの化物どもを狩り殺せるのか。胸の内で付け加えた。握り拳の中、短く切りそろえたはずの爪が手のひらに食い込む。
「この三ヶ月、温羅はゲリラ的にチクチクと一撃離脱を繰り返していましたからね」
「これで戦況も変わります」
 芹香の異変に気付かぬ様子で、侍従ふたりが声をそろえる。
 確かに、温羅は神出鬼没だった。出現場所も襲撃間隔も不規則であったため、人類は必然的に後手に回らざるを得ない。いたずらに被害を拡大させるだけの日々が続いていた。
「で、本題はなんだ。それだけを教えるためだけに、人目を忍んでわざわざここに来たわけではないんだろう」
「は――」
 静江と美都が示し合わせたように戸惑いを露にする。
「それなんですが、芹香様におきましては、今回の緊急招集による出動が最後から二番目の任務となることをお報せしようと」
 少し考え、芹香は結局、首をかしげた。
「どういう意味かな」
「実は」と静江が言いにくそうに切り出した。「貴久《たかひさ》様が、芹香様をお手元に戻したがっておいででして」
「父が」
 口にして、そういうことかと納得した。あの過保護な親なら、 <温羅の日> を迎え、逆に危険な隠し場所となったAOFから娘を退かせたがりもするだろう。
「まあ、私の封穴を解くなら一度、本家に戻る必要はあったわけだしな。いずれそういう話になるであろうとは思っていた」
 芹香は爪先でベッド脇のブーツを探った。足を通し、靴紐を縛りながら言葉を続ける。
「しかし、それを抜きにしたところで、あの父のことだ。本当なら、今すぐ私に荷物をまとめさせるつもりだったはずだろう? なのに、まだ二度も出撃機会があるということは、AOFがよほど交渉をがんばったらしいな」
「相変わらずの慧眼、恐れ入ります」
 美都が、叱責を受けた子どものように身を縮める。
 名門・五十狭家と自衛軍。今回、その狭間で生じた巨大な力学に芹香は振り回された格好だ。従者として、そうした事態に何ら手を打てなかったという自責の念があるのだろう。いかにも、生真面目な美都らしい反応であった。
「AOFは貴久様の要求を飲むかわり、次の作戦の終了後、芹香様に特殊任務を課すという条件を出してきました」
「ほう。どんな?」
「芹香様、ボニン諸島についてはご存知ですね?」
 静江が質問に質問で返す時は、決まってろくな話にならない。芹香は小さく嘆息し、答えた。
「東洋のガラパゴスだったか――地理の教科書に乗ってる知識だ。中学生だって知ってるよ」
 天気予報でも、離島扱いとして必ず触れられる地名だ。
「それでなくても、三ヶ月前、温羅の襲撃を受けて陰相転化したという報告は有名だし、各種メディアを騒がせていたろう。あまつさえ、同じ日に <破壊の杖> が降ろされたんだ。あの気配は基地中の人間が感じて、蜂の巣を突いたような騒ぎになったじゃないか」
 胸を押し潰すようなプレッシャーと、全天を覆うかのごとき巨大な狼のヴィジョン――
 あの夜、芹香は世界のあげる悲鳴をはっきりと聞いた。
 より上位に位置するホロンが、この現実世界の摂理と法則を陵辱しながら、無理矢理に形を成したのだ。温羅を直視した人間が精神を砕かれるように、星の魂魄が汚染されかけたのである。
 もし、あれが完全な帰神であったならと思うと、今でも背筋を冷たい汗が伝う。ゴールディング風に言うならば <ガイア> は発狂し、地球圏は一瞬にして陰相に堕ちていたに違いなかった。
「で、そのボニン諸島が?」
 これには美都がすぐに応じた。
「AOFは最終任務として、芹香様をボニン諸島に派遣するつもりなんです」
「三ヶ月も前に、陰相転化しているのに?」
「正確にはボニン諸島の第二島、コフィン島が目的地ですね」
「答えになってないぞ、美都。そこに何がある?」
 その問いに静江と美都は一瞬、顔を見合わせた。ややあって静江が代表するように口を開く。
「あそこには <黒桃の書> が保管されていたそうです。島のほぼ全域が陰相転化した今、管理者を含めた島民は全滅したと見て良いでしょう。そこで、政府は <黒桃の書> の確認と回収を考え出したようですね」
「コクトーの書か。ちょっと記憶に無い響きだな」
「長く歴史に葬られていた禁書です。無理もありません」
「私の浅学のせいばかりではないということか。内容は?」
「真羅に破れて晒し首にされたイサセリが、幽冥界について叙述したものとされています。千年以上前、帰神法で半狂死状態のイサセリを降ろした犬飼部の巫が、錯乱状態で自動筆記したのだとか」
 帰神によって降ろされた神が、人間の手を使って書を著す。神典や魔書と呼ばれるものの成立法としては、もっとも良く知られた手続のひとつだ。
 この <黒桃の書> の場合、本文は中臣《なかとみ》文字に酷似した神代文字で筆記されており、最低でも第三階梯の帰神状態でなければ読むことすらできないという。内容も狂死したイサセリの壮絶な苦痛と呪詛に塗れ、常人にとっては支離滅裂な描写が大半を占めるらしい。情報的価値の出せる部分についても、読む者の精神を汚染・破壊し、狂死させたという記録が残されているとのことだった。
「中には八大陰相のひとつである <鬼城山> の詳細や、イサセリが真羅と対峙した際の戦法、そこから得られた戦術的データなども含まれていたとされますが――」静江が首を振り振り言葉を継ぐ。「いかんせんあまりに危険性が高いことから禁書の指定を受け、長くコフィン島に封じられていたそうです」
「待て。 <黒桃の書> がそれほどのものなら、当然、管理者にも相応の格が求められるものだろう。 <破壊の杖> を降ろした者がそうであったとは考えられないか?」
「あり得ると思います」静江が神妙な顔で首を縦に振る。「どのようにしてか <黒桃の書> の存在が温羅にばれたのかもしれません。そのせいでコフィン島は襲撃を受け、土地と書を守ろうとした管理者が応戦した際、 <破壊の杖> を降ろした――そして、結果的には敗れた――これは私たちばかりでなく、AOFや政府も、だいたいそのように考えているようです」
「単独であれを帰神したというのなら、封穴を解いた私さえ遥かに凌ぐ手練ということになるからな。処女王にも比肩し得る巫だったのかもしれない。そんな大才が敗れたというのか」
 確かに、事実としてコフィン島の陥落は免れ得ていない。 <破壊の杖> が妖魅系の霊性であり、帰神すれば陰相転化を促進することになる点を別に考えても、守護者は土地を守れなかったのだ。
 もっとも、第四階梯の帰神ですら倒しきれない温羅の実在は、千六百年も前に証明されていた。いうまでもなく、真羅だ。イサセリたちは四人がかりで挑み、あの <温羅の王> 一体の前に敗れている。これはすなわち、 <破壊の杖> の同格を四体降ろしてさえ、真羅には通じぬということに他ならない。
「戦いになるのか……人類は」
 そんな思いが口からこぼれた時、かぶさるようにアラートが鳴り出した。続いて緊急招集を告げる大音声《だいおんじょう》が舎内に響き渡る。
「――神典回収の件は分かった。お前たちはもう戻ってくれ」
「はい」主人の言葉にうなずき、静江が言った。「コフィン島には私たちもお供させていただきます。ですが、とりあえずは今夜の出撃です。先手を打つ以上、戦闘は必至。芹香様、何卒お気をつけ下さい」
「ありがとう」
「ご武運を御祈り致します」
 一礼すると、軍人らしいメリハリのきいた動作で彼女たちは辞去していった。話ながら進めていた準備は、もう完了している。足音が遠ざかっていくのを聞き届け、芹香は廊下に出た。
 ここからは、予想通りに慌しい夜となった。
 訓練どおり全隊員が五分で集うと、これも予想通りにブリーフィングが開かれる。この場ではまず上官により、温羅の出現予測ポイントの割り出しに成功したことが説明され――情報の出所として皇典講究局の具体名は出なかったが――次いで、作戦の説明とポジショニングの振り分けが行われた。
 木更津駐屯地から来た四機の大型輸送用ヘリ <キャリパーCH> は、その作戦会議中に到着していたらしい。十分後、芹香は第四小隊にあてがわれた機体に乗り込み、高度一千メートルの上空を飛んでいた。
「分かっていると思うが――」
 隊員たちの注目を集めながら、小隊長が低い声を響かせた。
「温羅の出現が予測されている長野県佐久市は、いわゆる十万都市だ。市民の避難誘導は二時間前から行われているが、現地からの報告によればまだ完全ではない。作戦開始時刻までの完全退避は、もはや絶望的と考えて良いだろう。
 出現日時及びポイントの予測は、このように事の直前に出されることもある。今回は数時間の猶予があった分、まだマシな方だと思え。非戦闘員がそこら中にいる残っている中、温羅相手に市街戦なんてのは今後、状況として当たり前になる。心しておくように」
 耳を傾けながらも、隊員たちは各々の装備点検に余念がない。遮蔽システム越しに聞こえるタンデムローターの唸りと、拡声された小隊長のバリトン、それに装備品の立てる雑音とが交じり合い、機内は独特の喧騒に満たされていた。
「広いですね……今日」
 芹香の隣で帰神甲冑のチェックをしていた攝津《せっつ》曹長が、ふと手を止めてつぶやいた。
「そう、だな」
 矢野祐一郎率いる甲班が、休暇中に全滅したのは三ヶ月前。以降、本日に至る迎撃戦においてAOFは相当数の死傷者を出している。現状で補充人員は確保されておらず、第四小隊は数が半減していた。元より三十名が乗り込める <キャリパーCH> だが、部下のいうようにどこか閑散として見えるのはそのせいだった。
「本当にもう、彼らはいないんですね」
 摂津が、無人のスペースにぼんやりとした視線を投げた。
 かつて甲班が陣取っていた場所である。
 こんな時、場を盛り上げてくれるのは決まって彼らだった。矢野祐一郎が班長とは思えぬ態度でおどけ出し、委員長肌の鳥飼素子が眉を吊り上げて小言をはじめる。それが毎度のパターンだった。鳥飼の言葉なぞどこ吹く風の矢野と、ひとりでヒートアップしていく鳥飼。収集がつかなくなるすんでのところで、同班の良心的存在、内澄子がなだめに入る――
 馴染みの光景が、なぜだか懐かしく思い出された。
「俺、甲班の騒ぎを見てるのが好きでした」
 摂津はあごを高く上げ、紫煙を吐き出すように深く嘆息した。
「甲班長がちょっと羨ましかった。あの人を怒ってる時の鳥飼さん、楽しそうだったんですよ」
「鳥飼?」
「はい。俺、ずっと見てたから分かるんです。怒ってるはずなのに、どことなく幸せそうだった。くやしいけど、でも、そうだった」
「そうか……」
 男女の機微にはどうしても疎いらしい。芹香には感じられなかったことだった。摂津の気持ちにすら、今更気付かされる。
「しかし、言われてみると、そうだったような気もするな」
 それで思い出す。
 もう半年ほど前の話になるだろうか。矢野准尉――二階級特進・上級特尉――が、ふらりと芹香の前に現れたことがあった。消灯時間も迫る夜分、学習室でひとり文献を漁っている時のことだったはずだ。
 話がある。そう言ったあと、彼は真っすぐな言葉で気持ちを打ち明けてくれた。自分にとって、石原芹香は特別な存在になりつつある。それは、異性という意味においての特別なのだ。
 それが、彼の告白だった。
 当然、驚きはあった。だが、悪い気はしなかった。
 飄々とした態度は、照れにも似た彼一流の韜晦だったことを芹香は知っている。一見、軽薄そうな彼の振る舞いの裏には、常に深い思慮があったことも。決して口に出されることのない信条を、誰の目にも触れない処で現実にし続ける。矢野はそんな男だった。
 時間が欲しい。そう答えたのは、今振り返っても妥当な対処であったと思う。話が突然過ぎたし、夢の少年ことを自分の中で処理し切れていない部分があったからだ。
 いずれにせよ、芹香ははっきりとした答えを渡さず、悪戯に時を過ごした。そして、 <温羅の日> を迎えたのである。
「鳥飼さん――甲班の人たちも、人間として逝けたんでしょうか」
 その言葉で芹香は我に返った。声の方を向くと、摂津の真っすぐな視線が待ち構えていた。それだけではなく、いつの間にか周囲の注目を集めていたらしい。乙班員の全員、そして声の届く範囲にいる別班の隊員たちも芹香の返答を待っているようだった。
「そう願いたい」場の全員、何より自分に向けて言った。「でも、違った時のことも考えなくちゃいけない」
 あの日、矢野と甲班がどのような最期を遂げたのか、芹香は知らなかった。
 だが、彼らが帰らなかったことは確かな事実なのである。
 直接、温羅の手にかかったのか。あるいは戦わずして廃人となったのか。
 どちらにしても、精神崩壊を起こして陰相に堕ちた可能性――物言わぬ温羅に転生した可能性は否定できない。これから現れるという温羅が、姿を変えた彼らでないとは限らないのだ。

  もしもお前が人間で
  俺が戻らなかったら
  温羅のためにできるであろうことを
  俺のためにしてやってくれ

 芹香はほとんど唇の上だけで、その奇妙な詩を諳《そら》んじた。
<温羅の祈り> と呼ばれる、フランス発祥の古い文句だ。
 どの時代、どの国にあっても兵士たちの思いは共通していた。その事実を、この詩は何より雄弁に物語る。
 芹香は続けた。
「温羅は人間の尊厳を踏みにじり、死者の魂を辱める。だから彼女のために、お前の出来ることをしてやってほしいと私は思う。摂津。鳥飼のために、鳥飼かもしれない温羅をすべて狩るんだ」
 摂津がきゅっと唇を結んだ。
「私はそうする。矢野祐一郎を殺すために戦う」
 芹香は、愛用の野太刀を左に握って言った。鞘から少しだけ刃を抜き、現れた刀身に右手で持った小柄を打ち当てる。静江と美都に手回しさせて得た、矢野愛用の小柄だ。
 刃のかち合うかすかな金属音が耳朶に触れた。
「それがAOFの理念だってことは、分かってるつもりです」
 言葉と裏腹に、摂津の声は酷く揺れていた。
「でも、俺、怖くて」
「温羅が?」
 芹香の問いに、摂津は目を固く閉じてかぶりを振った。
「もし鳥飼さんが壊れて、どろどろの肉の塊になって、それで死んだ後も温羅として辱められているなら、そんな冒涜、俺も許せません。何とかしたいし、解放してあげたい」
 でも、と攝津は消え入りそうな声で続けた。
「実際に温羅を見たら……もしかしたらって思うんです。自信ないんです。本当にその時が来たら、俺、ひょっとすると……」
 その先は語られなかったが、言わんとすることは明白だった。
 使命も、片恋の相手のことさえあっさりと忘れ去って、自分はただ震え怯えることしかできないかもしれない。温羅と出会ってしまった瞬間、守るべきものだと、変わらぬ愛だと思っていたものを放り捨て、自分はひとりで逃げ出してしまうのではないか。精神を破壊され、陰相に堕ちていくのではないか?
 温羅を前にした兵士の誰もが、常に抱く恐怖だ。
 もっともそれは、各々で克服しなければならない問題でもある。今の摂津に必要なのは、そのための時間なのかもしれない。しかし、戦火にあって時は無情に働く。目的地は近づき、作戦開始時刻が迫ろうとしていた。
 AOFの隊員にとって、パラシュート降下は必須技能のひとつだ。帰神甲冑を完全装備した状態で、全隊員が高度一千メートルからの降下を完璧な形でこなす。
 だが今夜は、着陸した機体から直接土を踏むことを許された。第四小隊が降りたのは、大型商業施設の建ち並ぶ市街地のはずれ。第三小隊が一緒だった。そこからは、隊それぞれが甲・乙・丙の三班および遊撃支援班に分かれ、所定のポイントに散開する。芹香は乙班員五名と支援班からの応援二名を率い、高機動車で繁華街のほぼ中心部に向かった。
「お待ちしておりました。中央即応連隊、本部管理中隊の宮島久子特尉です」
 コンコースの片隅に設置された略式拠点では、完全武装の女性兵士が直立不動の構えで乙班を待っていた。現地に先遣され、主力――この場合、AOF――の受入れ準備を行う部隊の人間だ。本来は基盤の設置をはじめ補給、衛生、施設、通信、整備などを担当するはずだが、今回は住民の避難誘導にも借り出されていると聞いていた。
「対温羅特殊作戦群第四小隊乙班長、石原芹香特尉です。早速ですが、状況は?」
「ご覧の通り、芳しくありません」
 特尉は柳眉をひそめた。階級は同じだが、芹香とは二倍近い年齢の開きがあるように見える。
 その彼女の視線は、渋滞中の幹線道路に向けられていた。避難経路として民間人に解放された大通りのひとつだ。トランクに荷物を積み込めるだけ積めた乗用車の群れが、その重量にボディを深く沈ませながら長蛇の列を形成している。ひっきりなしに聞こえてくる誘導ホイッスルとクラクションの連奏は、彼らの恐怖と焦燥の表れだろう。
「避難進行率は六十八パーセント。拡声器での呼びかけに応じようとしない住人も相当数残っていまして、作戦開始時刻――」
 宮島特尉は腕時計を一瞥して続けた。
「あと三十八分での避難完了は極めて困難な状況です」
 分かっていたことの確認でしかなかった。が、それでも乙班の隊員たちはざわめき出す。現場の緊張感を肌で感じたためだろう。それが数字に血を通わせ、リアリティをもたらす。
「本拠点のコードはBC7。中央の天幕が通信本部となっております。確認事項がありますので、乙班長と遊撃支援班の方々は準備が整い次第、そちらまでおいで下さい」
 拠点内の簡単な案内を手早く行い、特尉は敬礼と共に立ち去っていった。芹香はとりあえず、指定された詰め所へ部下を誘導する。
 テントの内部は広く、三十人は収容できそうなスペースがあった。入口手前は会議室然としており、人数分の椅子と長テーブルが設置されている。卓上には握り飯の山が積み上げてあった。それを見るや、男子隊員たちは早速そちらへ群がりつつある。
 奥には金属製のフレームとカーテンで仕切った、レストルームらしきものが設《しつら》えられていた。病院の大部屋を連想させる光景だ。AOF隊員にとっての精神統一の重要性を組んだレイアウトなのだろう。
「私は本部天幕に顔を出してくる」
 最後に足を踏み入れた芹香は、入口に立ったまま言った。
「数分だが、その間は自由にしていろ。ただ、面頬はともかく装備は解くなよ。温羅が今この瞬間、この天幕の中に出現してきても対応できるようにしておけ」
「しかし、目と鼻の先にあんな渋滞ができてるようじゃ」
 頬張り過ぎた米粒を飛ばしながら、斉藤曹長が眉間に皺を寄せる。
 その隣で摂津も調子を合わせはじめた。
「人口十万として、避難が七十パーセント弱しか進んでないなら、まだ三十万人が逃げてないって計算ですよ」
「前回から五十年しか経ってないとは言うけどさ、人類にとっての半世紀は長かったってことでしょ」
 中村曹長は肩をすくめかけ、着込んだ帰神甲冑に阻まれる。代わりに口をへの字にしてから、彼女は続けた。
「滅亡の危機を何度経験したにせよ、私たちみたいにその時代を知らずにいる世代の方が今は多いわけよね? だから、平和ボケなんだよ。奇跡の復興とか言われて、既に何十億って人がいる世界に生まれたんだから、人類死滅とか言われてもピンと来ないんでしょ」
 確かに、その観測には一理以上のものがあるだろう。
 人間とは魂に負っていたはずのトラウマすら、五十年で忘れかける。その切り替えの速さこそが最大の武器なのだ。一方で、それは最悪の愚かさでもある。だから歴史は繰り返す。
「しかし、避難を拒んでいる市民の中には、街と心中する覚悟の人間もいるだろう。一概には言えないはずだ」
 気持ちと裏腹に、芹香はそう言った。
「三十万人を抱えて戦わなくちゃいけない現実は変わらんのだ。各自、その上で何が自分にできる最善であるかを考えておいてくれ。では、支援班のふたり――大沢と張は着いて来い。本部の天幕に行くぞ」
 ふたりが駆け寄ってくるのを確認し、踵を返す。テントから一歩踏み出したと同時だった。不意に、六十トン級の大型クレーンが横倒しにでもなったような、重たい衝撃音が辺りに響いた。振動が地中を走り、足の裏を通して伝わってくる。震えというより、痺れに似たこの刺激。訓練で馴染みの感覚だった。爆発物の炸裂である。
「総員、面頬まで着装の上、鎮魂法に入れ。別命あるまで臨戦体勢のまま待機」
 捲くし立て、芹香は走り出した。爆心地は外に出ればすぐに分かった。北西方向に一ブロックほど、建ち並ぶ商業ビルの向こう側だ。投光器と街灯の光に照らされ、立ち上った黒煙が見える。
 その発見と、タイミングとしてどちらが早かったか。軍用特有の硬い銃撃音が、セミオートの間隔で木霊しはじめた。
 情報を得ようと、芹香は周囲を見回す。タイミング良く、先ほどの女性隊員が目に入った。携帯無線で何か話していた彼女を捕まえ、芹香は詰め寄る。
「宮島特尉、何事ですか」
 特尉は片手で待つよう合図し、連絡を終えてから芹香に向き直った。
「石原特尉。これは温羅の襲撃ではなく、人為的な妨害行為です」
「つまり、テロだと?」
 宮島特尉は冷静にうなずいた。
「いわゆる <温羅教団> の工作部隊です。どさくさに紛れて入り込んだようですが、計画はこちらで察知していました。――といっても直前のきわどいタイミングだったようですが」
「では、今の爆発は?」
「CRF東部方面隊の部隊が対象に急襲をしかけた際のものです。すでに鎮圧と状況終了の報告が入っていますので、ご安心下さい。では」
 早口に告げ、彼女は素早い敬礼と共に立ち去っていく。
 人類と温羅との歴史は長い。イサセリが破れ趨勢が決せられる以前、神代の昔より彼らは人類の天敵であり続けた。その中で、幾多の信仰と宗教が殺され、多大な影響を受けてきたことは事実だ。古くは <過去七仏> のことごとく、二千年前には <救世主> と呼ばれた新興宗教の開祖が真羅の餌食とされている。日本でもやはり土御門が斃れ、結果として陰陽道の衰亡に繋がった。
 ならば真羅を「神」、温羅を「真理」とする信仰が生ずるのも必然であったのかもしれない。
 曰く、人類の原罪に対する罰。
 曰く、自浄作用を持たないヒトにもたらされた外部浄化装置。
 かくして温羅を崇め、同族を憎む人間たちが生まれた。以降、流転する時代の暗部には常に彼らの存在があった。
 温羅は必ずしも人類共通の外敵ではなく、必ずしも人類に団結をもたらすとは限らない。それが歴史の語る事実である。
 と、芹香は、宮島特尉が足を止めていることに気付いた。距離にして十歩分といったところか。走る動作の途中、そのまま凍りついたようにも見える。
 芹香はすぐにその理由を理解した。 <温羅教団> は鎮圧された。そう報告されたはずなのに、銃声が止んでいない。セミオートの断続的な響きは、今や切れ目のないフルオートのそれに――ややあって、今度は <ハンマー> の炸裂音らしきものまでもが加わりはじめる。正式名称81ミリ迫撃砲。市街地で、戦闘単位のテロリスト相手に用いるような兵器ではない。
 芹香は早足で、立ち竦む宮島特尉に寄った。彼女の手元から雑音で歪んだ男の叫びが漏れてくる。オープンチャンネルの携帯無線機は、現場と繋がっているらしい。
「……らを……に……」
 スピーカー越しの切羽詰った叫びが、迫撃砲の着弾音にかきけされた。
「ビ、シィ……にて、オ……うせ……。至急、お……」
 地が一際大きく震え、それをきっかけに交信が途絶えた。宮路特尉が血相を変えて呼びかけるが、一向に応答がない。
 こちらは完全武装の軍事集団なのだ。それと正面から渡り合っているのなら、もう結論はひとつしかない。
<温羅教団> とは別の何かが現れたのだ。
 混乱が深まる中、ようやく上げられた照明弾が夜空を白みがかった橙色に照らした。戦慄くようなサイレンが追随するように鳴りはじめる。
「特尉、我々AOF第四章隊乙班は、作戦通り現場へ向かいます」
 頭一つ高い位置からの声に、宮島特尉が蒼白になった相貌を上げる。彼女もまた、先の <温羅の日> を知らない若者のひとりなのだ。
「陰相転化がはじまります。この距離なら、相手が単独であったとしても数十分でBC7拠点も飲まれるでしょう。上に報告して可及的速やかに部隊を移動させていただきたい」
「では、これは? 今、起こっているのは――」
「託宣には意味があったということです、特尉」
 芹香は厳かにうなずき、続けた。
「東部方面隊はもう手遅れかもしれません。あなたも早く退避した方が良い。あれは温羅だ。ここからは私たちの仕事です」


to be continued...
つづきを読む
兼メールフォーム