縦書き 横書き


ウラガリ第7話



 吉沢健が最初に見たのは、地表すれすれに浮かぶ巨大な流線型の物体だった。表面は琥珀のような艶と光沢を持ち、蒼ざめた象牙色をしていた。形状はどことなく、一度だけ乗ったことのある新幹線の先頭車両を思わせる。
 それが、横並びに大小五つ。もっとも小ぶりなものでさえ、乗用車を超えるサイズがあった。
 次に見たのは、そのやや後方に聳え立つ巨大な建造物だった。灯台を連想させる巨大な円柱形は、距離が近すぎるせいか水平固定の視野ではどこまで伸びているのかすら窺えない。全体にからみつく黒い蔦《ツタ》――あるいはコケらしき何かが地肌を覆い隠すほど密集し、毛皮をまとっているようにも見える。
 だが、すべては観測の誤りなのかもしれない。
 その単純な事実に気づくまで、どれくらいを要したか。
 毛皮のようなものではなく、あれは毛皮そのものではないのか?
 考えられうる限り最悪の仮説に行き着いた瞬間、健は無意識に数歩後退した。肉体の要請そのままに腰からくだけ落ちる。同時、地に腰を打ちつけた衝撃が、前方に凝り固まっていたピントが狂わせた。半ば偶然に視野が開ける。
 そして健は、見なくて良い物まで網膜に焼き付けることとなった。
 視点を真横にスライドさせること数十メートル。眼前にあるものとまったく同じ建造物が五つのオブジェ付きで構えられている。
 黒銀色の体毛で覆われた、建造物サイズのあれが前足なら――そこから伸びる、ひとつが車よりも大きな流線型は、爪だ。
 健は呆然と顔を上げた。骨が痛み出すまで首を曲げ、夜空を仰ぎ見る。そこにはもう、星はなかった。代わりに、真夏に見る信じがたいほど巨大な積乱雲のように、全天を覆うものがいた。
 気づけば、健を取り囲む温羅たちまでもが同じものを凝視していた。その様は、上位神に祈りを捧げているようにも見える。そう錯覚させるほど、その獣は何もかもが違った。まさしく階梯違いの化物だった。
 階梯とは、すなわち次元の違いを意味する。
 生物として、存在としての厳然たる格の差だ。
「破壊の……杖」
 声の主はジェイク・セヴァレイだった。口を半開きにしたその横顔は、コフィン島を焼く劫火に照らされ橙色に染まっている。
「破壊の杖だ? あり得るわけないだろうが」
 二度目の声は、もうヒステリックと表現できるものに変わっていた。
「あの操が、こんなもの降ろせるわけがない。俺と五分はってた程度の女だぞ」
 ――帰神法 <破壊の杖> 。
 犬飼部に伝わる至尊至貴の蘊奥については、健も聞いたことがあった。と言うより、日本では誰もが知る伝説のひとつとすべきだろう。
 かつて温羅王 <真羅> に挑んだ五十狭芹彦の傍らには、常に三人の忠臣が控えていたとされている。その一柱こそが、操の遠祖と言われている犬飼健《イヌカイタケル》だった。
 神話で語られる彼は、対真羅戦における最終局面にて、 <唯密相承四位> を超える犬飼部最奥の秘中秘を披露したと言われている。それこそが <破壊の杖> と呼ばれる大帰神であった。
 その下顎は大地を穿ち、上顎は月まで届いたともいう犬狼類の最大神性――
 神話はその圧倒的暴力を、真羅すらも追い詰めたものとして伝えていた。
 今、その伝説が眼前で再現されようとしている。
 だが健は、驚きはあれ不思議と恐怖を感じていなかった。確かに身震いはある。ただそれは、神と呼べる存在への畏怖の念に由来するものだった。何より、あれは姉がいた場所に、入れ替わるようにして現れたのだ。
「みさ、姉?」
 健の声に呼応したのかは定かでない。だがそう思わせるようなタイミングで、獣が双眸を開いた。遥か上空――血の滴るような深紅の瞳が、双子月のように並んで妖しい輝きを放つ。
 瞬間、大地が怯えるように振動した。それは健の知る地震と呼ばれる現象とはまったく違ったものだった。地面だけでなく、空間そのものが震えている。大気が液体に変わったような重さを持ち、呼吸すらままならない。貯水槽に叩き込まれ、巨人の手で振り混ぜられているような感覚だった。
  <破壊の杖> と島周辺の自然環境。いずれが全体子としてより高位に位置するか、それが歴然とあらわされた瞬間なのだろう。温羅を見て人間が精神崩壊を起こすように、島と生態系が上位階梯の存在に畏怖しているのが分かる。
 健は唇をかみ締め、必死に足がかりを探した。棒立ちの彫像と化した温羅の隙をつき、四つん這いに近い格好でその場を離れる。近くに火のついていない街路樹を見つけて、飛びつくように掴まった。
「くそっ、化物が」
 悪態をつくジェイクは、明らかな苦悶の表情を浮かべていた。脂汗を滲ませ、胸板の辺りを掻き毟っている。それは友人が喘息の発作を起こした時の姿を思い起こさせる光景だった。だが、温羅がそうであるように、幽冥の住人たちに呼吸の概念はない。
 ならば何をそんなに――と思ったと同時、健は理由に気づいた。
 ジェイクの周囲を固めていた温羅から、矢喰が消えている。燃えるように蠢く、あの黒ずんだ水銀の結界がどこにも見えない。
 位相空間の加護を失った巨人は、溶岩で固めたできの悪い人形のようだった。全身は艶のない黒色を基調にしていて、至るところに発達しすぎた筋肉を思わせる節くれがある。何十というそれらの瘤《コブ》は、不整脈の心臓よろしく思い出したような脈動を繰り返していた。内部にマグマに似たものを閉じ込めてでもいるのか、時折、煌々とした赤銅色の何かがあちこちから怪光となって顔を覗かせている。その異形の姿は――たとえ矢喰を失おうとも――人類の物理攻撃が通用しそうには到底思えない。そんな禍々しさがあった。
 だが、相手が上位階梯の神ともなれば話は変わる。
 矢喰と呼ばれる結界は、温羅が幽冥界の法則、摂理を空間ごとこちらの世界に持ち込むこんだ――いわば現実の侵食に他ならないとされている。ならば同様の理屈で、より上位の現実から侵食を受けることも、また有り得るのだろう。
 そして、黒銀の狼は咆哮した。
 かつて <呑み込むもの> の戒めから放たれた時も、魔狼はこうして吼えたのだろう。
 横殴りの暴風に晒されながら、健はそんなことを思っていた。
 世界の終わりを告げる獣の叫び。その再現だ。
 現に今、日常というなの世界が眼前で崩壊しようとしている。
 島を焼き尽くそうとしていた炎は、一瞬で千切れるように消し飛んでいた。
 塵と返されたのはそれだけではない。温羅たちの群れも同様だった。
 目視されただけで絶対の結界を奪われ、雄たけびを浴びせられただけで存在そのものを抹消される。
 玄理の窮極。格の差――
 姉は普段使わないような強い言葉で、そう告げていた。
 あれが決して大げさな表現でなかったことを、健はまざまざと思い知らされる。童話に描かれるドラゴンと違い、破壊の杖の吐息《ブレス》は強酸性を持つわけでも火炎が吐き出されているわけでもない。単に発生を伴う排気に過ぎなかった。ただし、枕詞くらいはつく。たとえば、「猛烈な」とあらわされる台風そのもの、といったような。
 内地に上陸する台風は、ほとんどが勢力を弱めた、精々が「非常に強力な」それであるに過ぎない。だが、太平洋の只中に浮かぶコフィン島の住人ならば知っていることだった。
 頭に「猛烈な」とつくものの風速は、時に秒速六十メートルにまで達する。木造建築なら砂細工のように粉砕し、鉄塔すら歪めてしまう風だ。街路樹は根こそぎ倒され、荒れた波は四階建てのビルを呑み込むほどの津波に姿を変える。
 破壊の杖の咆哮が一帯にもたらした暴風は、そんな台風とそっくり同じだった。
 眼球を削り取るような荒ぶる風に、目を開けていられない。
 正気を保つため、自分の存在を確かめるために、健は意図して叫びを上げた。だがその声すら、耳元で渦巻く大気の唸りに絡め取られ、まったく鼓膜に届かずにいる。
 顔面を炙っていく大気の激流は、健に満足な呼吸すら許してはくれなかった。身体にも重たい打撃のように吹き付け、防御の上からでも着実にダメージを蓄積させていく。樹にしがみつく手が痺れ出すのは、あっという間のことだった。抜け落ちるように体力が費えていく。酸欠で気が遠のく。
 木の枝に引っかかっていたハンカチが、次の瞬間、強い風にさらわれ瞬く間に飛び去っていくように――
 健は唐突にその意識を手放した。
 それからどれくらいが経ったのかは分からない。
 次に気付いた時、健はうつ伏せに倒れていた。
 目がしょぼつく。唇の端にはりついた砂汚れが不快だった。
 口内にまで侵入してた異物を吐き出し、健は立ち上がる。全身が重くはあるが、大きな怪我はないらしい。
 見回す辺りはまだ暗く、頭上には月と星が見えた。それはすなわち、狼―― <破壊の杖> の姿が消えていることを同時に意味した。島全土を覆っていた火の手も完全に収まっている。もっとも、熱までは失われておらず、所々から灰色の煙が立ち上っていた。吹き付けてくる生ぬるい風には、きな臭さがまだ濃く残っている。
 薄雲が流れ、赤味がかった月が露になった。錆びくれたような光が廃墟と化した町を照らし出す。その惨状を背景に、右上半身が欠けた歪な人型が立っていた。手駒を失い、自らの半身すら奪われて佇む、かつて友人と呼んでいた男の姿だ。
 彼が真羅の血を飲んだ、人間をやめた、という話は事実らしい。
 ジェイク・セヴァレイは温羅を一瞬で粉砕した神の咆哮にも耐え、今は失われた肉体を急速に復元しつつある。欠損箇所が煮立った液体のように泡立ち、弾け、新たな細胞として肉付けられていくのが見えた。
「は、馬鹿な野郎だ……」
 つぶやき、ジェイクは半ばよろめくように歩き出す。右足を引きずりながら彼の向かう先に、健は瞠目した。
 青白い何かの塊に見えたそれは、崩れ落ちた姉に他ならない。
 下着以外、着衣のほとんどを失い、力尽きて伏す吉沢操だ。むき出しの肌が月明かりを浴び、そのせいでどこか無機的にさえ映る。
「みさ姉――ジェイク、それ以上みさ姉に近づくな!」
「ああ?」
 まとわりつく羽虫を見る目が健へ向けられた。
「まだ生きてたのか、お前」
 刹那、ジェイクが目を細めたような気がした。錯覚か否か、瞬きして確認しようとした刹那だった。突如、健の眼前で何かが爆ぜた。音もなく、光もない。不可視の何かが、超至近距離で膨張するように弾ける。
 ブレーキの間に合わなかった軽ワゴンに、正面からはねられたかのような衝撃だった。うめき声すらあげることを許されず、健は宙を舞った。一瞬で平衡感覚が奪われる。重力加速に本能的な恐怖を感じている間に、健は背中から地に叩きつけられた。
「近づいたらどうなるっていうんだ、健」
 その声は、前後左右から同時に聞こえてくるようだった。未だ足首を握られ、身体ごと振り回されているような感覚がある。
「見ろよ。死んでるぜ、お前の姉貴」
 何を言っているのか、何を言われているのか分からない。
 死んだ、と言ったのか。死んだ。誰が? 両親か――
 確かに、状況は彼らの死を示してはいる。温羅のあの恐るべき指で串刺しにされ、どろどろの肉塊となって溶け合った島民たちの残骸を見もした。だが、その中から両親を判別したわけではない。彼らの死は確認されたわけではない。
 では、姉か――? それは何としてもあり得ないことだった。彼女が自分を置いてどこかに行くなど、絶対に考えられないことだ。彼女が死ぬことなどない。まったく想像もできない。だから、そんなことは起こりえない。
「馬鹿なやつだ。この期に及んで手加減とは、大した余裕じゃないか。え、操よ。温羅は容赦なくやれても、お友達は無理ってわけか」
 乾いた空虚な笑い声が木霊した。
「ふざけやがって」一転、吐き捨てるような言葉が続く。「ああ、確かにお前は天才だったよ。何世紀にひとりってクラスの鬼才だ。認めるさ、この化物が。破壊の杖だ?――冗談じゃねえ。あんなもん、お前みたいな小娘が使えていいもんじゃねえだろうが。その上、見せたいだけ見せ付けて死に逃げかよ」
 割れそうな頭痛と定まらない焦点に、健は苦痛の呻きをあげた。両手を地に這わせ、なんとか姿勢を保とうと努める。だが、何を間違ったか次の瞬間には転倒していた。
「まあ、良い。幸い、身体は無傷だしな」
 幾分、口調を穏やかにしながらジェイクが言う。
「玩具の人形くらいには役立つだろう。新鮮なうちに保存して、俺のコレクションにしてやるよ。おい、聞いてるか弟。お前の姉ちゃんは、俺が有効活用してやる。このまま腐らせるより良いだろ?」
「姉……みさ、姉――?」
 その言葉がなにかのスイッチになったかのように、意識にかかっていた靄《もや》が俄かに退いていった。視界がクリアになり、思考も正常にもどる。
 そして健は、回復したばかりの聴覚で、何かが柔らかいものに突き刺さる生っぽい音を聞いた。生理的嫌悪に由来するその耳障りに、肌が一瞬で泡立つ。弾かれたように音の方へ視線を向けた。
 久しぶりに見る気がする姉の姿が、そこにはあった。糸の切られた傀儡そのままに、四肢を無造作と投げ出している。肌の大部分を露出した両足は、地上一メートルほどの地点にぶらぶらと浮いていた。釣り糸に繋がれているからではない。腹から突き出たレイピアのような細い刃のせいだった。その根元は彼女の背中側にあり、ジェイク・セヴァレイだった男の左手に繋がっている。
「お目覚めか、健。どうだ? 蝶の標本みたいでなかなか見事だろう」
 自信の作品とでもいうように、ジェイクは誇らしげな口ぶりで言った。
「うそだ……」
 今、目にしている光景が信じられない。とても現実のものだとは思えない。あれではまるで、吉沢操がもう生きていないように見える。魂の抜け殻のように見えてしまう。
「ジェイク、もうやめてよ! なんでこんな……みさ姉を放してよ」
「おいおい、これはお前のためでもあるんだぜ」
 困った子だ、とでも言うようにジェイクは首を左右する。
「脳死患者の保存みたいなもんだ。あれは事実上の死体だが、呼吸器つけて抗利尿ホルモンとエピネフリンを投与し続ければ、生きているような状態を擬似的にでも維持できることがある。髪が伸びたり、お前みたいなガキだと身長が伸びたりな。血色も良くて、身体もあたたかいって例もあるそうだぜ?」
 彼が何を言っているのか、健は欠片も理解できずにいた。なぜ、この局面で薄笑みを浮かべていられるのかも。なぜ、姉があんな姿になっているのかも。何もかもが分からない。
 分からないまま、それでもジェイクは朗々と続けていく。
「温羅の作る人間標本には、似た効果があるようでな。まあ、こいつは完全に死んじまってるから駄目かもしれんが、うまくすれば血の通うあたたかい死体として保存できるかもしれん」
「みさ姉を返して、ジェイク」
 彼らに向かって歩み出そうとした瞬間、後ろから突かれたように膝がカクンと落ちた。転倒しそうになるところを、慌てて立て直す。
「こいつには一度、女の悦びってやつを教えてやろうと思ってたんだ。本当なら、気の強さが残ってるうちにやりたかったんだけどな。そこはまあ、今更言ってもしかたねえ。保存状態さえ良ければ、せいぜい末永く可愛がってやるさ」
 愉悦に浸りながら、ジェイクは空いた右手で少女の右腿あたりを撫でる。失われていた彼の右上半身は既に完全復元を終えたらしい。その周囲にはうっすらと陰相領域―― <矢喰> までもが蘇りつつあった。黒ずんだ銀色の炎が、ちろちろとその火勢を増していく。
「――ジェイク!」
「少し、うるさいな。お前」
 彼は面倒そうに健を一瞥した。瞬間、再びあの不可視の爆発が起こる。咄嗟に出しかけた両腕の防御も間に合わなかった。押し潰されるような衝撃に、肺から空気排出を強制される。気付くと健は宙を滑り、気付くともう、地に叩き付けられていた。ぐしゃりという、鈍く嫌な感触が全身を襲った。
「聞こえるか、健。操は今日から俺のものだ。もうすぐ、この島は陰相に堕ちる。お前は一緒にのたれ死ね。まあ、お前もうまく落ちれば、あの木偶みたいな温羅になれるかもな」
 そうしたら、駒として俺が使ってやるよ。
 声が遠ざかっていくように聞こえたのは、彼らが姿を消そうとしているからか。それとも、自分の意識が遠退きつつあるからか。あるいはその両方なのか――
 確かめる間も術もなく、吉沢健は絶望のなかで暗闇に沈んでいった。


to be continued...
つづきを読む
兼メールフォーム