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ウラガリ第6話



 操の聞く話によると、吉沢家は古くから島の漁協を束ねる位置にあったという。その意味において、他所でいう網元に近しい位置づけなのかもしれない。
 コフィン島では、住民の大半が集合住宅に住まう。そんな中、道場つきの屋敷を構えていられるゆえんは、恐らくその辺りにもあるのだろう。
 他方、責任ある立場にあるため、父母は家を空けがちだった。裕福な暮らしの代償といえば代償か。おかげで吉沢操は、弟とふたりで夕食をとることも多かった。はじめてエプロンを着てから八年あまり。もはやそこは自分の領域とさえ思える。
 この日も、操は食卓で健とふたり向き合っていた。ひたむきに食事する彼の姿はいつも微笑ましい。どんぐりで頬を膨らませるリスを彷彿とさせる姿だった。
「健。ここ、ついてるよ」
 ジェスチャ付きで指摘すると、彼は顔をあげて目をくりくりさせた。すぐに言われた箇所をティッシュでぬぐう。
「とれた?」
「うん。とれた」
 健は礼代わりに微笑を見せると、再び食事を再開する。今夜は彼の好物である茶碗蒸しがメニューにある。そのせいか、箸も進んでいるようだった。――数ある好物を必ず一品は出すため、それは毎夜のことではあったが。
「うー、おなかいっぱいになったよ」
 ほどなく、食事を終えた健が満足そうに目を細めた。
「ごちそうさまでした」
 満腹というのは言葉だけではないらしい。彼はふらふらと立ち上がり、食器を洗い場へと運んでいく。
「今日もすごくおいしかった。みさ姉、ありがとう」
「うん」
 八年間、毎日作り続けても、彼はお礼の言葉をかけてくれる。はるか昔、彼と両親のために食事を用意した、はじめての夜とまったく同じように。
 時が過ぎれば「特別」だった物事も、やがては「日常」に変わる。それが普通であり、当然なのだろう。なのに、健はいつまでも特別なことだと思い続けてくれる。当たり前のものとはせず、いつも感謝し、敬意を払ってくれる。
 それは人類が獲得しえる最も価値ある美点のひとつなのかもしれない。最近、操はそんな風に思いはじめていた。
「今日はね、茶碗蒸しが特別だったんだよ」
 洗い物をしながら、操は言った。隣では健がすすいだ食器を鼻歌まじりで拭いている。
「そうなの? いつもと違う味がすると思ったけど、おいしかったよ」
「すごく簡単に作れるの。茶碗蒸しなのに、蒸さずにできたんだ。どうやったか分かる?」
 このやりとりをするために、操は誰にも料理を手伝わせない。
 マジシャンが楽屋から他人を遠ざけたがるのと同じだった。ネットでレシピを探し、時に自分で研究し、家族の反応を見る。手間がかかると言われる料理を、十分で作ったのだと明かす時の楽しさは他にかえがたいものだった。だからだろうか、操は多くの主婦が主張するという「献立を考える苦労」を未だに理解できずにいる。むしろ、苦労するのは内地からしか得られない食材の調達だ。
「豆乳を使って、湯煎して作ったんだよ。準備も含めて、五人前十五分なんだから」
「みんなの分、十五分で作っちゃったの?」
 健は目を丸くして驚く。それから感嘆の吐息と一緒に「やっぱり、すごいなあ」というささやき声を漏らした。
 それが原因だったのかは定かでない。どうしてかは分からない。
 しかし、操は急に熱いものが込み上げてくるものを感じて、しばらく動きを止めた。流しっぱなしの水を止めて、タオルで手を拭う。
「健――」
 小さく呼ぶ声に、弟がきょとんとした顔をあげる。操は両腕を伸ばして、その表情ごと彼を自分の胸に収めた。幼子のように柔らかい健の黒髪に頬をすり寄せる。
「みさ姉?」
 健が不思議そうな声で言った。しばらくさ迷ったのであろう彼の手が、やがて操の背をやさしく撫でた。
「何かあったの?」
 その言葉で自然と思い出されることがあった。言うまでもなく、昼間の――ジェイクの件だった。彼が残していったハンカチは、今も自室の机の上に所在無く置かれている。
「みさ姉、教えて。僕、がんばるよ?」
 胸の中で健が身じろぎした。つぶらな瞳と視線がぶつかる。彼は短い腕を精一杯に伸ばし、少し姉を抱く力を強めてくれた。
「あのね、健」
「うん」
「お姉ちゃんってね、強いものなのよ。健を守らなきゃいけないしね。でも、時々、エネルギーを充填しないとだめかもしれないの」
「エネルギーを充填ってどうするの?」
 操は答える代わりに実践した。全感覚を最大限使って、相手の存在を確かめる。額にかかった彼の前髪に唇を寄せ、しばらくその状態を保った。そして腕の戒めから健を解放する。
「今のが充填の儀式だよ」
「もう、良いの?」
 息が詰まったのか、健は少し呼吸を乱していた。それ以上に、何が起こったのか計りかねているらしい。目を白黒させている。
「うん。ちょっと疲れた時に、今のをすれば大丈夫」
 その言葉に、健が何か答えかけた時だった。廊下の先から物音がした。玄関が開かれ、複数の足音が同時に聞こえてくる。動作にクセがあるせいだろう。それだけで、操は親たちが帰宅したことを正確に察知できた。
 ほどなくダイニングのドアが開き、予想通りの面子が顔を見せた。
 成人の男女三人。操と健に共通する母親と、彼女の夫たちだ。
 かつて、人類は滅亡の危機を幾度も経験してきた。兵士として先に死んでいく関係上、特に男性の絶対数が極端に減るのは歴史の常だったといえる。そんな背景から生み出されたのが、いわゆる重婚制であった。いまや世界的にも珍しいものではなく、特に欧州ではほとんどの国が導入しているシステムだ。激減した男性を女性が共有するというのが一般的な形だが、日本では女性が複数の夫を持つことも禁じられてはいない。
 その一妻多夫モデルの身近な好例が、この吉沢家ということになる。
「おかえりなさい。遅かったね。ご飯、すぐ食べるでしょ?」
「ああ……」
 問いかけながら準備に入っていた操は、沈んだその声に思わず振り返った。改めて見た両親の表情は、それと分かるほど強張っていた。健も異常に気づいたらしい。怪訝そうな顔で大人たちの様子をうかがっている。
「会合で何かあったの?」
 操は訊ねるが、重い沈黙しか返らない。時間がそこだけ停滞しているかのように、大人たちは緩慢だった。健の父親はネクタイをのろのろと左右に揺すり、母は上着のボタンを無意味に弄っている。
 何かあったのか再び問おうとした時、操の父親が口を開いた。
「ふたりとも、落ち着いて聞いてくれ」
 ゴングに救われ、自コーナーへようやく帰り着いたボクサーのように、彼は力なく食卓の椅子に腰を落としていた。
「操も健も、島の様子がおかしいことには気づいていたか?」
「うん。そういえば、今日はちょっと変だったかもしれない」
 傍らの健が答え、操も無言で首を縦に振った。
 父はそれに「そうか」とだけ応じ、また沈黙した。ずいぶんと間を置いてから、子と視線を合わせずにぽつりと語りだす。
「昨日な、東京が落ちたんだそうだ」
「落ちた――って?」
 胸にざわつくものを感じながら、操は訊き返す。
「温羅が、現れたんだ。最初は渋谷に。今はそこらじゅうに。もう首都圏の半分は陰相転化して、何百万という人間が犠牲になっているらしい」
 瞬間、隣から息を呑む気配が伝わった。操は一瞬で水気を失った唇を湿らせ、言った。
「じゃあ、TVも電話も、ネットも通じないのはそのせい?」
「そうだ」一気に十も老け込んだような声で父は続ける。「陰相転化した範囲に基地局が含まれていたんだろう。衛星を使った通信は、今夜の会合で方針が決まるまで、パニックを回避するために意図して止めてもらっていた」
「…… <温羅の日> が来たのね」
「そんな」姉の言葉を遮るように健が叫ぶ。「 <温羅の日> は三百年ごとじゃなかったの?」
「それは、歴史的にだいたいそのくらいのスパンだった、というだけのことよ」
 母が思いのほかはっきりとした声で言った。目にも、先ほどまではなかった力と意思が宿っている。怯える子の姿を見て、声を聞いた。そのことが何かのスイッチになったのかもしれない。性別が同じだからか、操には分かる気がした。彼女に悲壮な覚悟を見た気がした。
「母さんの言うとおりだ」操の父が重々しく言う。「イサセリヒコ命《ノミコト》が温羅と戦って負けたのは、西暦四百年頃だと言われている。その次に温羅が現れたのは、それから七百年もした西暦一〇九六年だ。そんな風に長い間隔が空くこともあれば――」
 その先は続けるまでもない。人類を蹂躙して回った温羅が忽然と姿を消したのは半世紀前。今度はたった五十年で再び狩りを楽しむことになったということだろう。その間、人類は奇跡の復興を遂げ、五十億までその数を増やしたのだ。連中にしてみれば何ら問題はないはずだった。
「この島は本土からは一千キロも離れてる。襲われたことだって一度もない。だから、そう心配することはない。でも、温羅日は来た。備えはしておきなさい」
 その言葉を思いのほか冷静に受け入れている自分に、操は気づいていた。それは多分、帰神で得てきたヴィジョンと無関係ではない。
 誰にも――健にさえも――明かしたことのない、綻びの予兆。日常の崩壊、早い離別、大いなる眠り、といったイメージを、第三階梯との感合の中で操はしばしば得てきたのだ。
 そこから <温羅の日> を連想したことがないと言えば、嘘になる。
「ねえ、封穴はどうするの?」
 操は伏せがちになっていた顔をあげて訊いた。途端に両親たちの眉間に深いしわが刻まれる。
「あれは本当に最後の最後、それ以外にどうしようもなくなった時の話だ。下手に弄れば、たちまち温羅に嗅ぎつけられて、この島にやつらを呼び寄せることにもなりかねない。分かるだろう?」
「そうよ、操。封穴をどうこうしなくちゃいけなくなった時点で、もう私たちの負けと考えるべきね。心配しなくても、そんなことには絶対私たちがしないから、安心しなさい」
 大人たちが口をそろえる。確かに一理ある話ではあった。
「さあ、お前たちはやれることをやるんだ」
 この話はこれで終わりだ、という口調で健の父親が言った。
「万一に備えて、すぐに疎開の準備をしておきなさい。ピイル島に移ることになるかもしれないしな。父さんたちは、夕食を食べたらもう一度出かけなきゃならん」
「会合?」健が訊いた。
「そうだ。孤島だけに物資の問題もある。明日の朝は、お前たちと一緒に学校へ行くことになるんじゃないかな。詳しい話はそこであるだろう。忙しくなるかもしれない。今夜はできるだけゆっくり休むようにしなさい」
 もちろん、それは不可能な話だった。

 その夜、操は弟を部屋に呼び、ふたりで床に就いた。
 娯楽に乏しいコフィン島の夜は本来早い。少ない小売店は夕方になるとすべてのシャッターを下ろす。だが、今夜だけは例外だった。親たちは宣言どおり夕食後に出かけ、日付が変わっても戻らない。物資の調整がはじまってるのだろう。通りを走る車の流れは途切れる気配を見せずにいた。自警団も巡回を開始したような気配がある。
「みさ姉はこのことが分かってたの?」
 隣から細い声がした。まもなく午前二時。いつもならベッドに入ってすぐ眠ってしまう健も、今日ばかりは目が冴えているらしい。
「ううん。まさか。私もびっくりしてるんだから」
「温羅だって……僕たち、どうなっちゃうのかな」
「大丈夫」操は人差し指で、弟のふっくらとした頬を撫でた。「こんなこと言う資格ないかもしれないけど、いざという時は私が守ってあげるから」
「でも、本当ならそれは僕の役目じゃないか」
「そんなの関係ないもん。弟を守るのはお姉ちゃんと決まってるんです」
 暗がりの中で、健が嘆息した。
「どうして、僕はこんなに小さいんだろう」
「じゃあ、もう休もう。寝る子は育つって言うしね」
「うん」
 彼が決して納得していないことは声音から分かる。だがそれでも姉の言葉に従って眠る気にはなったらしい。「お休み、みさ姉」という小さな声が聞こえた。操は同じ言葉で応じ、もう一度――今度は唇を使って――健の頬に触れる。
 ジェイクの件もあって、自覚する以上に疲れていたのかもれしない。操が夢の世界に落ちたのは、すぐ後だった。
 夢の中で、故郷の島が燃えていた。業火の高熱で空気が揺らめき、周囲の景色を陽炎のように歪めている。昼間さながらに明るいのは、視界の大半を炎が包み込んでいるせいに過ぎなかった。鳥たちが逃げていく空には星が浮かんでいる。夜を昼に変えるほど、空を焦がすほど、火の手は常軌を逸していた。
 それにも関わらず、操は自分を抱きしめるようにして身を縮めた。奇妙な寒気に身体が震える。見なくても唇が紫に染まっているのが分かった。
 夢にしては感覚が真に迫りすぎてはいないか。
 そのことに気づいた瞬間、操は跳ね起きた。この時期では考えられないほど室温が低い。水気を飛ばそうとする犬のように、全身がぶるりと震えた。肌は死人のように青ざめている。なのに夜着の背中は寝汗に塗れていた。
 ベッドサイドの時計を見た。蛍光塗料を頼るまでもなく、はっきりと目視できる。午前二時四十一分。丑三つ時とされる時間帯に近い。だが、窓からは赤銅色の光があふれ出し、室内を煌々と照らしあげていた。
「健、起きて」
 半ば悲鳴のような声で、操は自分が芯から怯えきっていることを知った。胸騒ぎが肌を粟立たせる。なぜかも分からず、泣き出しそうだった。
「みさ姉……?」
 もともと寝起きの良い健は、すぐに目を覚ました。
 寝ぼけ眼で姉を探すその姿を見た瞬間、操はたまらず弟をかき抱いていた。腕にありったけの力を込める。いつも優しい彼は人柄そのままに、切ないほどあたたかかった。ひたすらにあたたかかった。
 突然のことに混乱していた健も、窓から差し込んでくる怪光で一気に覚醒したらしい。すぐにはっと息を飲む気配がして、操の中で身を強張らせる。
 操は身体を離し、肩を掴んだまま弟の瞳を覗き込んだ。
「健。部屋にもどって、急いで着替えて」
 その眼差しと口ぶりに只ならぬものを感じたのかもしれない。健は何も言わずにうなずいてくれた。
「着替えたらまとめておいた荷物を持って、玄関に来て」
「分かった」
 再び力強くうなずき、健は部屋を出て行く。
 携帯電話を確認したが、やはり回線は復活していない。固定電話の方も同様だった。両親と連絡をとって現状を確認するためには、やはり直接的に合流するしかないのだろう。
 操は記録的な速度で身支度し、ボストンバッグを肩に担いだ。ドアを開けた時、同じく部屋を出てきた健とはち合せする。彼はTシャツとジーンズの組合せに、帰神甲冑の下地とも言うべき三具を半ばほど身に着けていた。ボクサーでいうなら、グローブ下のバンデージといったところだろう。
「やっぱり、温羅――なのかな?」弟は硬い表情で姉を見上げる。
 操は正直に、「分からない」と答えた。「でも、たぶん……」
 この寒気と悪寒は、島が陰相化しかけている証だろう。何より気配で分かる。屋外のあちこちを徘徊する、異形の何かの存在だ。
「みさ姉、僕たちどうなるのかな。これからどうするの?」
「指定避難所は学校だから、みんなそこに集まってる可能性が高いと思う。行けば何かしらの情報が手に入るはずよ」
 操は弟の手を取り、しっかりと握った。バッグを改めて担ぎなおして玄関へ向かう。
 嫌な予感で、健とつないだ手に汗が滲んでいた。酷い胸騒ぎに吐き気がもよおす。本来、島民たちは、犬飼部の血統を保護保存するためのバックアップ要員として配置されている。有事の際ともなれば、真っ先にこの屋敷に駆けつけ、避難誘導に努めてしかるべきはずだった。
 にもかかわらず、今に至るまでそれらしき動きは一切見られていない。それが何を意味するか――
 操は無理やり思考を振り払って、玄関のドアを開けた。ここまでくれば施錠など意味を成さない。自然と足を速めながら前庭を抜け、門を潜る。
 そこに、彼はいた。
 すぐ後ろで健も足を止める。呼吸すらも止めたかもしれない。
 そうさせるだけのものが、向かい合うジェイク・セヴァレイの後ろには控えていた。燃えさかる民家の炎に照らされ、黄昏色に輝く黒ずんだ水銀。地上四メートルの人型。じかに見るのははじめてだが、間違えようもない。伝説の温羅だ。それが、確認できる限りで五体。王を護衛する守護騎士のように屹立していた。
「よう、久しぶり……ってほどでもないな」
 連休明けの通学路で出会ったかのように、ジェイクは笑った。
「どちらかというと、はじめましてって感じだと思うけど」
 相手から視線を逸らさず、操は肩のボストンバッグを下ろした。手に力を込めたまま健を背中にかばう。
「あなたはジェイク・セヴァレイも、ついでに人間も辞めちゃったみたいだから」
「望んでそうしたわけじゃないんだがね」
 皮肉な笑みを浮かべつつ、ジェイクはひょいと両肩を持ち上げる。
「何をしたの? 島をどうするつもり」
「そう睨まないでくれよ。ある意味、俺は最大の被害者なんだぜ。これは理不尽のおすそ分けってとこだよ」
 アルカイックな笑みを浮かべたまま、ジェイクは肩越しに背後を見やる。そこに広がる元地集落は火の海と化していた。エキゾチックな白いペンション。歴史ある民宿。島の食堂とも言うべき馴染みの寿司屋。老朽化した都営住宅も、友人知人たちの住まいも――
 その一切が夜空を焦がそうと競い合うかのように燃えさかっている。炙り上げられた火の粉が、クリムゾンの煌きを放ちながら空へと消えていく。
 そして、崩落していく建物の影、タマナの並木をなぎ倒しながら、温羅たちが姿を現した。
 続々と集う黒銀の巨人たちは、猛禽類のような鍵爪を自らの身長ほども伸ばしていた。その指には、飾り物のように人間が幾重にも串刺しにされている。矢喰に飲まれた彼らは生きながら陰相に堕とされ、互いに溶け合い、混ざり合い、人外の肉塊へと姿を変えつつあった。
「お前らの親は、どの辺かね。あっちか、別のか。あんまり時間が経つと原型を留めなくなるからな」
 ジェイクが肉の指輪と化した島民たちに視線を巡らせる。
「まあ、どこかには刺さってるよ。面白いだろ。温羅にオブジェ化させると、うまくすりゃ、有機的統合性ってのを擬似的に維持させたまま――まあ、脳死みたいな状態で永久保存できるんだぜ。新鮮な死体ってわけさ」
「ジェイク……なんで……」
 膝から崩れ落ちずに済んでいるのは、背中に健を守っているからだった。これが現実の出来事だとは思えない。まだ悪い夢の中にいるような気さえしていた。
 ジェイクが愉悦に口元を歪め続ける。
「お前らはイサセリの末路を見たことがあるか? やつが首を斬り落とされて、串刺しにして晒されてるってのは本当なんだ。俺は見た。伝説の英雄様はぶざまに泣き叫んでたよ。あれと同じだ。温羅流の首級挙げってとこだよ」
 背中に触れる健の手が、それと分かるほどはっきり震えていた。操は丹田に力を込め、きゅっと唇を結ぶ。
「どうして? 何があったの、ジェイク」
 確かに、学校で告白を受けた時、そしてそれを断った時、彼はショックを受けているように見えた。遠い昔のことのようにも感じられるが、あれはたかだか半日前の出来事に過ぎない。
「どうしてと聞くか」
 乾いた笑みを浮かべたと思った瞬間、ジェイクの姿が掻き消えた。
「こっちこそ教えてほしいよ。操」
 続く言葉は背後からした。同時に、健の苦しげなうめき声が聞こえてくる。慌てて振り返ると、そこには消えたはずのジェイクがいた。猫の仔でもそうするように、健の首根っこを無造作に掴みあげている。
「俺のどこが、このチンケなガキに劣るって言うんだ?」
 不思議なものを覗き込むように、ジェイクは健の顔を覗き込んだ。宙吊りにされた健は、呼吸しづらいのか苦悶の表情を浮かべている。地面から離れた両足は、もがくようにばたついていた。
「健を離して!」
「顔か? いや、能力か。それとも知能? なんだ。どれだ? 身体能力。将来性。統率力。どれが俺に勝るんだろうな。こいつに、俺のどこが劣るってんだ」
 言うと、ジェイクは興味を失ったように健を放った。予備動作さえ伴わない一閃は、しかし信じがたいほど人体を遠く投げ飛ばす。
「健ッ」
 駆け寄ろうとする操の前に、ジェイクが立ち塞がった。
「心配するな。お前たち姉弟を殺すつもりはない」
「どいて」
「最後にもう一回だけ、聞いておいてやるよ」
 操の言葉を無視してジェイクは言った。
「俺と来る気はないか? 将来のヴィジョンは変わっちまったけど、こっちもこっちで面白そうだ。そう思うことにしたよ。実際、真羅は人間が認識している以上の知能と能力を誇る。あれは比喩抜きで、本当に神なんだ。人間ごときに倒す倒さないを検討できる相手じゃない。それは思い知ったよ。なら、あちらについた方が賢くはあるだろうさ。知ってるか、操? 連中は俺たちの認識や概念の枠を超えたものだ。時間も生死も――俺たちが宇宙のルールだと思ってる第二階梯の摂理は、真羅にとっちゃ書き換え可能な低次言語によるソースコードに過ぎないんだ」
「だから、折れたっていうの? 勝てないと分かったから、諦めてあちら側に回ったの?」
「いやいや」
 ジェイクはおどけた様子で首をゆっくりと左右する。
「軍門に下れとは言われはしたが、俺は俺なりに抵抗したんだぜ? 人間辞める気なんざなかったしな。でも、連中は問答無用なんだよ。中欧の温羅にはな、吸血種ってのがいる。俺が会った二体の真羅のうち、片方はそいつらの <王> だった。俺はその吸血種の王に血を飲まされた。真羅の血だよ。最初に言ったが、俺は最大の犠牲者なんだ」
「だからって」
「お前はこの地獄絵図の中、温羅の群れに囲まれても正気を保ってる。才色兼ねた、希少価値の高い女だ。だから殺さない。それどころか俺の体液をやるよ。処女王とはまた違った方法になるが、それで老いない身体が手に入る。女は好きだろ。永遠の若さとか永遠の愛ってやつ。俺のものになるなら、代価にそれをくれてやるよ」
「お断りよ、そんなの」
 言下に、努めて毅然とつき返す。
「ジェイク。あなたの論理は破綻してる。私を希少としながら、一方でマジョリティの価値観に押し込めようとしてる」
「そう言うと思った――よ!」
 瞬間、体当たりを仕掛けられたような衝撃が操の全身を襲った。息が気管につかえ、混乱と恐怖で思考と身体が凍りつく。
 喉輪の要領でジェイクに押し倒されたのだ、と理解したのは馬乗りになった彼と視線がぶつかった後だった。
「視野狭窄ってやつだ、操。真贋を見極めるには、本物を熟知しないとな。お前は本当の男ってものを知らずに来たから、家族的な安心感を異性愛と取り違えたりするんだ。だから」
 ジェイクの両手が操の胸元に伸ばされた。防ぐ間もない。獣じみた膂力が、紙でも切り裂くように操のシャツを破り去る。
「俺が開眼させてやるよ。たっぷり身体に教え込んでやれば、お前も分かるだろ」
 操の右首筋に顔をうずめ、ジェイクはささやきかけるように言った。
「思ってたんだ。倫理とか情けとか全部捨てちまった時、俺の能力はどこまでのことができるかってな」
「みさ姉! ジェイク、やめて。もう、やめてよ」
 どこか遠く、その叫び声は聞こえてきた。途端、恐怖と驚愕で凍り付いていた情感が溶け出した。それは視界の歪みに変わり、涙として操の頬を伝っていく。
「おう、さすがは犬飼の血筋。この状況で、まだ発狂してなかったのか」
 嘲笑するジェイクの上唇からは、鋭く尖った犬歯が見え隠れしている。彼が温羅へと變成したことは、もはや疑いようもなかった。が、周囲に展開した言葉なき巨人とはまた別種の何かであることも確からしい。真羅の血で直接的に転化したことと、それは無関係ではないのだろう。
「どうした、健。お前は純血の犬飼部じゃなかったのか。そろそろ凄いところ見せてくれよ。ぐずぐずしてると、お前の大事な姉ちゃんが犯られて、別の男に無理やり女にされちまうぞ」
 ジェイクは操の首を左手一本で押さえつけたまま、空いた右腕でホットパンツを剥ぎ取っていった。そして、これ見よがしに健の方へと投げつける。
 動きを封じられた操は、弟の姿を視界に収めることができずにいた。しかし、彼が泣いていること――そして温羅の群れに囲まれ、自分同様に身動きが取れない状況にあることは、気配で読み取れた。
 ジェイクが覆いかぶさってくる。獣じみた熱い吐息が肌に触れた。ざらりとした舌の感触を頬に覚えながら、操は炎に照らされた星空を見上げていた。
「――ジェイク。あなた、ひとつ勘違いしてる」
「ああ?」
 抑揚を欠いたその言葉を不審に思ったか、ジェイクがぴくりと反応した。
「昼間、言ったでしょう。私は知ってることを全部、健に話したって。あなたの知らないことを含めた全てを」
 彼は、その意味するところをもう少し真剣に考えるべきだった。
 二千年を超える歴史を生き延びてきた旧家を、過小に評価すべきではなかった。
「情報は扱う者が多いほど、外部への漏洩リスクが高まる。そのための対策を、どうして犬飼が取らなかったと思うの?」
「何が言いたい」
 身体を起こしたジェイクは、覗き込むように操の相貌を見下ろす。彼の瞳は混乱に揺れていた。
「私なの」操は静かに告げた。「犬飼の直系は、健じゃない。私なのよ、ジェイク。嫡子を狙うあなたのような人間が現れた時、私のために標的になって、私の身代わりになって傷つく人間が必要だった。少なくとも犬飼部はそう考えた。健はそのために配置された避雷針のような存在なの」
「なに――」
「健は私を守るための《誘惑物》デコイ。真の直系はこの私。犬飼操なのよ」
 ジェイクが零れ落ちるほど目を見開く。
「滑稽な劣等感よね。あなたは犬飼の血統を羨んで、ずっと健を筋違いに妬み続けていた。なにも知らずに」
「操、てめえ」
「でも、それをバネに上っていけるのなら、あなたには可能性があると思ってた。応援するつもりだったのに」
 果たして、この少年は塁上の走者を気にし過ぎ、自分からリズムを狂わせていった。そして今、自滅しようとしている。腹いせに無関係の島民まで巻き込みながら。
「ねえ、ジェイク。確か、帰神の天性――犬飼の末裔にも勝る潜在力があなたの自慢だったよね? 正しい判断を下すには、本物を熟知しなきゃいけないって言ってたよね? 良いよ。だったら、見せてあげる」
 新たに得た温羅としての本能がそうさせたか、ジェイクは地震を予感した野生動物のように身を強張らせた。後方に跳躍し、瞬時にたっぷり十歩分の間合いを取る。
 彼の判断は正しかった。
 自らの身に神霊を降ろす――すなわち神人感合が帰神法なら、鎮魂法はその準備段階ともいえる一種の精神集中技法だ。
 しかし五十狭芹、犬飼、楽々森、九鬼、留玉、葛葉、御神楽……これら神々の末裔とも言われる名家に生を受け、その中でも特に才に恵まれた逸材には、鎮魂法など必要ない。
 手続きを踏んで資格を得るまでもなく、その血をもって神々との交渉を生まれながらに許されているためだ。
「もういなくなったジェイク・セヴァレイに手向けよ」
 下着とわずかに残った衣類の残骸だけをまとい、操はゆっくりと立ち上がった。
「彼が目指していたものを見せてあげる。本当の帰神の天性というものがどんなものか。玄理の窮極いかなるか。あなたと私の格の差を、最後に教えてあげる」
「おいおい。何様だ、操」
 ジェイクが引きつらせたように口元を歪ませる。双眸には憎悪にも似た激情を湛えていた。
「確かにお前は健よりマシかもしれない。ウチの学校で帰神のできる三人のうちのひとりだからな。でも、その程度だよ。帰神の腕でいやあ、お前と俺に大差はなかったじゃねえか」
 操はその言葉に一拍で応じた。打ち合わされた手のひらが、高く乾いた破裂音を上げる。
「ひと――」ゆっくりと目を閉じ、唱えた。「ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、やは、ここの、とをなりけりや――ふるべゆらゆらとふるべ」
「操! てめえ帰神甲冑もなしにか」
 ジェイクが反応するが、遅い。
「あはりや、あそばすとまうせぬ、あさくらに、はかいのつえたるおほかみ、おりませしませ」
 幽斎の法で妙境に達したなら、周辺の空間の理は術者に隷属する。
方向性はともかく、理屈としては温羅の <矢喰> と変わらない。その証左として、今の操には時間が止まっているように見えた。
「――夫れ当世は晦冥に堕ち至り」
 ジェイクが、温羅の群れを総動員して阻止に入る。温羅が四方から迫ってくるのが分かった。
 だが、コマ送りのようなその動作では、到底、神事の妨害などできはしない。
「月に陰雲、仰ぐ天穹|光明《ほし》も無し。十種神宝《とくさしんぽう》失われ、言語妙用を欠く也」
 健が泣きながら叫んでいた。
 姉がやろうとしていることの意味と結末を、彼は正確に理解している。
 だから、操の名を呼び、思いとどまるよう懇願を繰り返していた。
 それが今の操にはたまらなく幸せで、悲しかった。
「然れど、遠く嘆きが汝《な》が名唱えて呼ばうなら」
 操は自らに宿る犬飼の血を温羅に悟られないよう、祭祀によって気配を薄めている。素質が水瓶いっぱいの御酒だとするなら、大半を別の容器に移し出すことで、リスクの分散を図ったのだ。
 そして、犬飼一族が別の容器として選んだ対象こそ、義弟たる吉沢健だった。
 彼は操の代わりに犬飼の血の香りをばら撒き、有事の際は優先して殺されることを義務付けられていた。祭祀による解除か、健の死をもって封穴は解かれ、操の元に犬飼の才はもどる。
「密か息衝く操立て、朋よ」
 なのに、操が真実を告げた時、健は笑った。
 じゃあ、僕はまだちびだけど、みさ姉の役に立てるってこと?
 徒競走で一等をとった時のように、彼はそう言ってただ笑ってくれた。誇りだと言ってくれた。
 その言葉に今まで何度、どれだけ救われてきたことか――
「逆風《さかかぜ》荒ぶ、此の光無き夜を往け」
 幽冥の深遠から、星を覆うほどの霊性が浮上してくる。その狂気的な力の奔流を感じながら、操は柔らかに目を細めた。
 これがきっと最後になるだろう。
 最愛の少年を瞳に焼き付ける。
「ずっと、ありがとう」
 そう、唇だけで囁いた。


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