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ウラガリ第3話



 そこは淡い光に包まれたエメラルドグリーンの洞穴だった。
 しっとりと塗れた石英の天井は、中心部が丘のように小さくせり出している。水気は長い時間をかけてそこへ集まっていった。
 そうして生まれたひとつの水滴が今、表面張力の抵抗を受けながらも、丘の頂点から少しずつわが身を剥がしはじめた。
 やがてぽたりと落ちた小さな透明の球体こそが――「自分」だ。
 個の溶け合う全体から分離され、雫となって下へと引っ張られていく感覚。産道を通り、一心同体であった母体から独立しようという瞬間も、こんな感じだったのかもしれない。
 そんな思いにとらわれながら、吉沢操《よしざわみさお》はまぶたを開いた。
 息吹を四度繰り返し、ゆっくりと呼吸を整える。
 隣では、小柄な少年が同じタイミングで <鎮魂帰神> から脱しようとしていた。操は、うたたねから目覚めるように瞳を開いていく彼をしばらく見守った。
 視線が合うと、どちらからともなく微笑がもれた。
「おつかれさま、健《ケン》」
「今日は、いつになく集中できたよ」彼は笑みを口元に残したまま言った。「みさ姉はどうだった?」
「うん。私も同じ」
 操に言わせれば、 <鎮魂帰神> は最上のデトックスだ。より高位の全体子――人によってはそれを神とも呼ぶようだが――と自分を同調させることで、肉体と魂がリフレッシュされるような気がする。
 細胞のひとつひとつを米を研ぐように洗浄し、洗い立てのシーツを敷くように肌を張りかえる。
 その清々しさは経験した者にしか絶対に分からない。
「健、湯浴みしよう」
 安座の足を解き、立ち上がる。元気良くうなずく弟を連れ、操は道場を出た。脱衣所に入ると、健はさっさと服を脱ぎ捨て――鏡を一顧だにすることなく――バスタブへ飛び込んでいく。一方、ショーツだけになった操は、自身をすばやく検分した後、タオルをまとってから浴室の戸を開けた。
 早朝、道場で共に汗を流したあと、こうして健と汗を流す。
 もう十年以上続いている日課だが、操もさすがに一度は中止を考えたことがあった。きっかけは言うまでもない。思春期を向かえ、第二次性徴が現れはじめたせいだ。以来、彼の前で肌をさらす意味は変わった。それでも、操は健との入浴を続けている。
 吉沢健は約二歳下の十四歳。今年中学にあがったが、肉体的・男性的には小学生時代と大きく変わってはいない。身長はいまだ百五十センチに達しておらず、同時期、すでに百六十近かった操との差は、いつしか頭ひとつ分にまで及ぼうとしていた。
 熱っぽい視線を感じて、操は健に目をやった。
 最近の彼は、しばしばこうして姉をじっと見つめることがある。
「どうかした?」操は穏やかな口調で訊いた。
「うん……」視線を固定したまま、健は気のない返事をよこす。そして、「みさ姉は良いな」と独り言のようにつぶやいた。そうして、ふと白昼夢から覚めたように顔を上げる。
「みさ姉はさ、ここ何年かでかなり大きくなったよね」
「――そう?」
「うん」生真面目な表情でうなずく。「なんか、TVの人みたい」
 言葉の意味をはかりかねて操は首をかしげる。詳しく聞き出すと、「TVの人」とはすなわち、モデルや女優の類を意味するようだった。化粧品などのCMで誇らしげに美貌とプロポーションを誇示する彼女たちに、姉のイメージが重なるのだという。
「それ、褒められたのかな。あんな人たちみたいに綺麗って思ってくれてるってこと?」
 頬が上気するのを感じたが、入浴中だったのが幸いした。健はそれが必ずしも湯につかったせいではないことに気づかないだろう。
「あ、うん。そうだね。……うん。みさ姉、すごく大きくなって、綺麗になったと思う」
 できるなら余裕のある微笑と口調で、すぐに返答すべきだった。
 だが、実際の操は「ありがとう」の五文字をしぼり出すまで数秒を要した。――もっとも、健はその不自然さに気づかなかったらしい。何か気落ちした様子で自分の小さな身体を見下ろしている。
「僕、中学になったのに、なんでみさ姉みたいにならないのかな」
「ああ、そういう……」
 半分落胆、半分安堵しながら苦笑する。
 ふたりで浴室を出ると、脱衣所で着替えながら操は慰めの言葉を探した。
「健はきっと大きくなるよ。来年は、私を追い越してるかも」
「そうかなあ」
「そうよ。男の子は一年で三十センチ伸びたりするんだから」
 朝食をとり、家を出てからも、健は物思うように「そうかな」という言葉を繰り返し唱えていた。横を並んで歩きながら、操はひそやかに微笑を浮かべる。
 仔犬のような少年が、「もっと男らしくなりたい」と柔らかそうな眉をハの字にしかめる姿は愛らしかった。彼にはそんな微笑ましい背伸びをいつまでも続けていてほしい気もする。
 反面、男性として成長した健も見てみたいというのも本音だった。その彼としかできない付き合いを思うと今から胸が高鳴る。
 父親も母親も平均以上の身長を誇るのだ。遺伝を信じるなら、健は本人の心配をよそに恵まれた体躯の青年に育つだろう。
 その厚くなった胸板に手を沿え、ちょっと背伸びをして彼の口元に唇を寄せる。いつか、そんな日が来ることを操は夢見ていた。
 姉弟とはいえ、これはなにも非現実的な話ではない。
 なぜなら健は、希少かつ貴重な血統を維持するため、外部からこの島に移された――一種の養子ともいうべき存在だった。
 すなわち、操との間に血のつながりは無い。そもそも姉弟という関係性からして対外的な便宜上のものにすぎなかった。
 健を守るための理屈は、インターネットが生み出された理由と基本的には同じだ。大切なデータは一カ所に集めて置くのではなく、分散させて管理・保管した方が良い、という発想である。
 これは近年、血筋の保存方法としては常道的な手段となっていた。健の犬飼家がそうであるように、たとえば五十狭芹や名方古世、留玉の子孫たちも、名を変えて全国に散り散りとなっていると聞く。
 このコフィン島は、本土から約一千キロの彼方にある小島である。人口は四百五十人。空港がないため、交通手段は船のみ。それも直行便は存在せず、隣島の <ポート・ロイド> まで二時間かけておもむき、そこで乗り換えなければならないときている。さらに言うなら定期船は週に良くて二度しか出ず、東京港までは最低でも二十五時間、波に揺られる必要があるのだった。
 銀行もコンビニもないこの辺境の地は、貴重な遺伝子を持った人間の隠し場所にはもってこいということなのだろう。
 少なくともコフィン島では、交通事故による死者や殺人の被害者が五十年間ひとりも出ていない。そして何より、有史以来、この島に温羅が出現したという記録はないのである。
「――そんなに心配なら、健は帰神をがんばってみたら?」
 歩きながら、あいかわらず難しい顔をしている健に操は言った。
「どういうこと」
 歩調をゆるめて、彼は顔を上げる。
「帰神は本来、温羅と戦うための手段じゃなくて、神託を得るためのものなのよ」
「そうか」健が目を輝かせた。「僕が大きくなれるかとか、大きくなるための方法とかを知ってる霊性を帰神でおろせば良いんだ」
 しかし、彼は割れた風船がしぼむように覇気を失っていった。
「でも、帰神をそんなことに使って大丈夫なのかな」
 操は笑う。「神様、怒っちゃうかもね」
「――なんか、楽しそうだな。ふたりとも」
 背後から特徴のある涼やかな声がかけられた。振り向くと、さして急ぐ風もなく長身の少年が歩み寄ってくる。彼の長いコンパスは、それでも瞬く間に操たちとの距離を縮めた。
「おはよう、ジェイク」
 操が口を開くと、健の声が重なった。
「おはよう。あいかわらず仲良いねえ。何の話してたの?」
「健が、身長伸びないって悩んでるのよ」操が答える。
「なんだ、そんなの心配すんなよ」
 ジェイクはにっこりとして、弟分の頭に手を置いた。そのままクシャクシャと髪をかきまわす。
「大丈夫だって。俺もむかしは健みたいだったんだから」
 彼は欧米人特有のがっしりとした骨格と、ライトブラウンの髪、光の加減によっては金色に見えることもある瞳の持ち主だった。百八十センチに届こうかという長身は、健と一学年違いの中学二年生であるとも、かつて健くらいの頃があったとも、にわかには思えない。
 立ち振る舞いという意味でも、ジェイクは健と対照的だった。同年代の男子と比較しても、一線を画する存在といえるだろう。多くの男性が望みながら――しかしその多くは夢見るだけで終わる――泰然とした構えと余裕ある物腰を、彼は十代半ばにありながらすでに身に着けつつあるのだ。
 島に唯一存在する中学校に、女子生徒は六人。そのほとんど全員を、このジェイク・セヴァレイは夢中にさせている。
「なあ、操も覚えてるだろう」
「えっ……ごめんなさい。何が?」
 突然の問いかけに、操は何度か目をしばたく。
「だから、俺が健くらいの身長だった頃さ」
「ああ、そうね。ジェイクは小さい頃から大柄だったけど」
「じゃあ、やっぱりだめじゃないか」健が唇をとがらせる。「ジェイクは人種が違うんだから、僕とじゃ比較にならないよ」
 コフィン島は日本の領土である一方、その名が示すように西洋文化の影響が色濃い。そもそも無人島だったこの地を最初に発見したのはスペイン人だった。また、最初の住民となったのも欧米系の白人を代表とした外国人たちであったという。
 それゆえ、コフィン島には今でもブロンドや褐色の肌をした人々が多く見られ、日本人との混血も進んでいる。ジェイクのように完璧な欧米系の外見を持ちながら、流暢な日本語をしゃべる住人も決してめずらしい存在ではなかった。
「――それでね、みさ姉はちゃんと帰神ができるようになって、背のことを聞いてみたらどうかっていうんだ」
 健の言葉にジェイクが小さな笑い声をあげた。
「そりゃまた、前代未聞の帰神になりそうだな。じゃあ、がんばって修練を積まないと。あんまりのんびりしてると、帰神を成功させる前に背が伸びちまうぞ」
「それはそれで良いけど」健が困ったように眉根を寄せる。「僕は帰神も早くできるようになりたいんだ」
 神代のむかしから、その特殊な才能に恵まれた者が「巫女」などとして珍重されてきたように、帰神法とは試せば誰もが成功させられる類のものではない。コフィン島小中学校に通う計四十八人の児童・生徒のうち、帰神に一度でも成功したことがあるのは操とジェイクを含めても四人しかいなかった。
「じゃあ、ちょっと急ぎましょうか」
 操はふたりより一歩先んじて、振り返った。
「今日は一時間目から帰神の演習があること、忘れてない――?」

 義務教育期間中の子どもが五十人にも満たないコフィン島では、小学校と中学校が同じ校舎内に混在している。
 学年にひとりしか生徒がいないという状況もあるため、アリスマティックタイムのように、学年の垣根を越えた合同授業が行われる機会も多かった。帰神法演習については、小・中の全校生徒が中庭に集って取り組むのが当たり前の光景となっている。
「そこ、一年の杉田君。ふざけない」
 ホイッスルの鋭い音が響き、教師が叱責の声をあげた。
 操は模擬の帰神甲冑を半ばまでまとった格好で、走っていくジャージィ姿の教師を見やる。
 全校生徒が一同に会する帰神法演習は、低学年の生徒にいわせれば単なるレクレーションに過ぎないのだろう。飛んでいく教師の先では、乳歯を何本か欠いた一年生がふざけ半分で他人にちょっかいを出していた。
「杉田君。帰神法の練習は大事なことだっていつも言ってるでしょう。どうしてちゃんとできないの?」
 うつむいて沈黙する少年を眺めながら、操は襟廻を整えた。
 模造品とはいえ、演習用の帰神甲冑は精巧に作られている。素材は本物と同じくアルミ合金や強化プラスティック。総重量も五キロ前後と大差はない。
 違いがあるとすれば細部にまでびっしりと刻み込まれた神代文字や言霊文字が、手彫りではなくプリントだという点だ。
「ねえ、操。どう?」
 隣で三具を着けていた三年生――佐々木優子が、足をちょこちょこと動かしながらオルゴールの人形よろしく一回転してみせた。
「うん。ちゃんとできてるよ。きれい、きれい」
 操は軽く拍手する真似をしながら微笑む。
 こうしてはたから見る限り、帰神甲冑は戦国時代の武者鎧にフォルムが近い。頭から爪先まで全身を覆い、さらには面頬と呼ばれる仮面のような顔面防具を含むことから、 <当世具足> の一種とも言えるだろう。
 西洋の防具に影響を受けている点でも、具足との間には共通点がある。たとえば帰神甲冑では、足に金属製のプレートを貼り付けたブーツ型の靴を履く。これは、鎖で編んだ足袋や草履が精々だった武者鎧より、西洋のグリーブに近い装備といえるだろう。
 また兜と面頬も、最近になって一体化したタイプが出回るようになったきたと聞く。こちらも武者兜というよりは、フルフェイス・ヘルメット寄りのイメージとなるはずだ。
「――そんなことじゃ、もし温羅が攻めてきたらどうするの? 帰神を身に付けておかないと、鉄砲もミサイルも温羅には効きませんよ? お友達やお父さん、お母さんを助けてあげたいでしょ。そういう時、ちゃんと帰神の練習をしてなかったら何もできないじゃない。だから、ちゃんとしましょうって言ってるの」
 中庭の西側では、まだ教師の説教が続いていた。
 いつの時代も教育者の使う言葉と語調は変わらない。操が六歳の時も、同年のわんぱく坊主がまったく同じように叱られていた覚えがあった。
「ふざけてる子に、神様が力を貸してあげようって気持ちになりますか? ならないでしょう? その帰神甲冑だって、おもちゃじゃないのよ。帰神法っていうのは、本当なら神主さんや審神者《さにわ》っていう専門家の人たちが、何日も神殿にこもって、それでようやく成功するかもしれないっていう難しいものなんです。そう教わったでしょ? 帰神甲冑は、そういうのをしなくても先生や杉田君が帰神できるように助けてくれる大事な道具なの。見て、どこにもここにも、難しくて読めない昔の字がいっぱい書いてあるでしょ。これは祝詞っていって、帰神甲冑を作ってくれた職人さんたちが、手でひとつひとつ書いてくれた、帰神を助けてくれるためのお守りの言葉なの。杉田君が上手に帰神できますようにって、書いてくれたものなんです。それをふざけて扱って良いんですか?」
 その時、少年がちらりと顔をあげ、小さく口を動かした。声は聞こえないが、操からは何か抗議の言葉を発したように見える。
 おそらく、それは正解だった。
「練習用だとかは関係ないんです」
 口ごたえでさらに立腹したのか、教師が声を一オクターブ高める。
「模造の練習用を大事にできない人が、どうして本物を大事にできますか。これは、杉田君が本物を渡されたときにも大事にできるかなーっていうのを見るための練習でもあるんです。だから先生、ちゃんと見てたでしょ。杉田君はどうせ見えないと思ってるかもしれないけど、先生にはちゃんと見えるんです。誰がどんなことしてるか、ちゃんと分かってるの」
 自分に直接関連がないとはいえ、耳に心地よい声ではない。癒しを求めるように操は視線を転じた。
 最初からチェックしていた場所に、求める義弟の姿はまだあった。すこし距離があるため姉の目に気づいた様子はない。
 彼はボタンすらまともに留められない小学一年生の側に張り付き、かいがいしく世話をやいていた。わざわざ片膝を地について、視線の高さをそろえて相手を見守っている。離れていても自然な笑みを浮かべているのが分かった。
「操。あんた、好き好き光線出しすぎだよ」
 突如、真後ろから聞こえた声に操は驚く。
 距離をとりながら振り向くと、優子が大きな笑みを浮かべて立っていた。
 既に面頬までつけた彼女は <水茎> や <真寿美の鏡> 、 <豊国> といった古代文字で全身を埋め尽くされている。耳なし芳一もかくやと思わせる姿だった。
「ねえ、ところでさ」と、優子が声をひそめながら顔を寄せてくる。「なんか今日、先生たちピリピリしてない?」
「ああ……うん、してると思う」操は急いで首を縦に振る。
 その同意で勢いを得たか、優子は早口に続けた。
「だよね。ほら、藤木先生ってあんまり大声だして起こるタイプとかじゃないのに、今日は一年生相手にあんな感じだし。朝だって、職員会議が長引いたとかではじまるの遅かったもんね」
 同じことは、操もなんとなく感じていた。
 それも教師が――というより、島の大人たちが全員、得体の知れない緊張感のようなものを漂わせている気がするのだ。
「もしかして、また地震かな? この前の伊豆ん時は、津波に注意とか言っといて結局は来なかったけど」
「確かに、あの時と雰囲気は似てるね」
 そう応じながらも、操は違う可能性を考えていた。
 なんとなく今朝、自宅で行った帰神のことを思い出す。あの時、混じりあった <第三階梯> の海には、気のせいで片付けてしまいたくなるほど微妙な違和感を覚えていた。そのことが、今になって妙にひっかかる。
「――ねえ、操さ。せっかくこれから帰神やるんだし、藤木先生がなんで機嫌悪いのか、ちょっと確かめてみてよ」
「そんな、帰神はコックリさんじゃないんだから」
 操は苦笑交じりに優子を見つめ返す。登校中、自分も冗談半分で似たようなことを言いはしたが、優子はどうやら本気らしい。
「あれ、違うの? でも、良く引き合いに出されるよね。コックリさんみたいに、帰神はちゃんとお帰りいただくまで気を抜いちゃだめです、とか。それとも神様って細かいことは教えてくれないの?」
「神っていっても、キラキラ光る人間そっくりの超常的存在が現れて、なんでも教えてくれるわけじゃないから」
 優子は少し考えるような素振りを見せ、片眉を吊り上げた。
「どういう意味?」
「そうね……」
 今度は操が思案する番だった。
 本来、鎮魂帰神とは何からなにまで感覚的なものだ。それを体感したことのない者に言葉で説明するのは、ほとんど不可能に近い。
「たとえば犬って、一匹ずつ名前や性格が違うでしょう?」
「ふむふむ。シロとかジョンとかね」
「そう。でも、どんなに名前や性格が違っても、チワワや柴犬っていう単位でまとめることができるでしょ?」
「できるね。人間でいうなら国籍とか人種みたいな感じで」
「そして、そういう犬種単位で見ても気性が荒いとか、人なつっこいとかいう大きなレヴェルでの個性や性格が犬にはあるじゃない?」
「うん。あるある。テリアとかウェルシュ・コーギーは気性が荒くて、逆にレトリバー系とかは誰にでもなつくよね」
「帰神でいう神様って、そういう犬種みたいな大きい単位が――群体が持ってる意思のことなのよ。人間でいうなら、町とか国とかそういう集団が持っている意思や心。つまり <第三階梯> のことなんだけど」
「じゃあなに、集団に意思があるってわけ? 全チワワの心とか?」
「近いものはあるみたい。生物学の超個体とか集団的知性にちょっと似てるのかな。さっきのたとえで言うと、シロとかジョンとか、そういう細かい単位の意識を <心> 、テリアとかレトリバーとかいうちょっと大きな単位――第三階梯が宿す意識を <霊> 、もっと大きな哺乳類とか生物とか生態系とか、そういう第四階梯の持ってる心を <神> っていうみたいね」
「ああ、それなら分かる」
 にやりとして、優子は小中の教科書で幾度となく目にしてきた一文を暗誦しはじめた。
「天地にありては神といい、万物にありては霊といい、人にありては心という。心とは神なり――でしょ? じゃあ、あれってそういう意味もあったんだ」
「うん。だから帰神もすごいところまでいくと、大陸とか惑星レヴェルの意識と交感して、中を覗かせてもらったりすることになるのよ。そんなの、人間の心や魂じゃふつう耐えられないから、壊れる前に接続が切れて失敗しちゃうの」
「なんかそれ、結構やばそうに聞こえるんですけど」
 優子は、通販で買った服が失敗だった時の顔でいう。
「うん。演習や座学じゃ教えられないけど、本来、帰神ってすごく危険なものなんだと私は思う」
「さすが、帰神に成功したことのある人は言うことが違いますなあ」
 嫌味のない口調でそう冷やかした優子は、「まあ、コックリさんでも気軽にやったら呪われるっていうくらいだからねえ」と、小声でつぶやきながら何度かうなずいた。
「でもさ」彼女はすぐに顔をあげて続けた。「その理屈だと先生って集団に宿ってる霊性をおろせば、藤木先生がごきげんななめな理由って分かりそうじゃない。星を相手に帰神しろってわけじゃないんだから、操ならいける気がするけど」
「うん。でも、あんまり固まりが小さすぎると逆に難しかったりもするのよ」
 群体というなら、クラゲやサンゴ礁もその一種だ。しかし、あれを神性ととらえることは難しい。彼らを神として自分の肉体に憑依させようと考える者もいないだろう。たとえ、あらゆるものに宿るからこそ <八百万の神> であったとしても、だ。
「まあまあ、そう言わないでさ」
 含み笑いにも似た表情を浮かべ、優子は操の背後に回りこんだ。そのまま操の軽く肩をもみ、諭すような声で「先生、やってみてくださいよ」とささきかけてくる。
「もう、だからそんな簡単なものじゃないんだってば」
 言いながらも、操は観念しつつあった。個人的にもまったく興味がないわけではない。どうやってか口の中に入り込んだ睫毛と同じだった。些細だが強い違和感があるのなら、早めに処理しておきたい。そんな心情もある。
 だが、自ら言葉にした通り、帰神は簡単なものではなかった。
 その日の演習中、神憑りに成功した生徒は――操も含め――誰ひとりとしていなかった。


to be continued...
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