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ウラガリ第1話



 改札を抜けると、矢野祐一郎はまっすぐに駅舎の出口を目指した。街角から差し込んでくる陽光が自然と足取りをはやらせる。
 溢れるほどの人、溢れるほどの物。色彩の洪水ともいうべき派手な原色の街並み。白い太ももをあらわに黄色い笑い声をあげて道行く娘たち。どれも基地の中では絶対にお目にかかれないものだ。これで平常心でいろというのが無理な話だった。
「シャバだ、いやっほぅ!」
 最後は小走りになりながら、祐一郎は駅前広場へと躍り出た。
「待って、ちょっと待ってください。班長」
 背後から服のすそを掴まれ、祐一郎は軽くつんのめる。振り返った肩の高さ、約半歩分の距離に形の良い卵型の顔があった。
 白い肌に映えた黒ぶちの眼鏡。その奥から、できの悪い生徒をとがめる教師のような双眸が祐一郎を見据えている。
 彼女――鳥飼素子は、半年前に第四小隊 <甲班> へ配属された十六歳の新入りだった。階級は曹長。私服の着用が許可されている外出時にありながら、それでも軍支給のズボンを履いてくるあたり彼女の性格が如実にあらわれている。
「矢野班長、あなたは我々を監督、引率する立場にあるはずです」
 今にも腰に手を当てそうな語調で鳥飼曹長が言った。
「ん、まあそうかな」祐一郎は人差し指で頬をかく。
「そのあなたが先頭切って、シャバだひゃっほうでは困るんです」
「いや、ひゃっほうじゃなくて、いやっほ――」
 鋭い眼光に射すくめられ、祐一郎は言葉を飲み込んだ。
「まったく、少しは石原班長を見習ってください」
 長嘆した鳥飼曹長が、少し離れた場所に集った一団を指した。
 なるほど、そこには同じ第四小隊の乙班、五名の姿がある。中心になっている――女性としては長身の部類に入であろう――黒髪の女性が話題の主、乙班長の石原芹香《いしはらせりか》だった。
 彼女は素早く点呼を取り、休めの姿勢をとった班員たちに何か口頭で伝えていた。大方、自由時間についての諸注意といったところだろう。なるほど、と思いながら祐一郎は鳥飼に向き直る。
「オーケイ、分かった。よし、じゃあ甲班、ちょっと集まってくれ」
 祐一郎は声の調子を変えて班員たちに呼びかける。年頃らしく喜色を満面に浮かべて周囲を見回していた彼らは、すぐ駆け足で集ってきた。鳥飼を含め四人が揃ったのを確認して、祐一郎は続ける。
「えー、甲班の諸君。先日は休みを潰しての災害救援活動、ご苦労だった。本日はその代休としてのアレなわけだけど、久々の外出だからってハメ外し過ぎないように。問題起こすと、今度どっかの地震で緊急出動しても代休もらえなくなるかもしれないからな」
 はい、と全員が了解の声を張り上げる。ここはおとなしく話を聞いて、一秒でも早く開放されようという魂胆だ。
「こっからは基本的に個別行動になるけど、帰りはまたここに集まって、全員揃ったのを確認することにしよう。良いですか、ひよっこども。お家に帰りつくまでが遠足なんです。各自、自分が基地を代表している身と思って高潔に振舞うように。横断歩道を渡っている老婆を見つけたら、相手が嫌がっても無理やり荷物を運んでやるくらいの正義っぷりを市民にアピールし、点数を稼いでほしい」
「ちょっと、班長」
 背筋を伸ばし直立不動の構えだった鳥飼が、まなじりを吊り上げながら一歩踏み出してくる。
「やばっ。トリちゃん、いまおれ、めちゃくちゃ良いこと言わなかった? 自分が基地を代表してると思えとか、超名言だよ。これ」
「ふざけてるんですか、班長!」
「まあまあ、素子」
 鳥飼とは同期となる女性隊員、竹内澄子曹長が割って入った。
「班長は、ユーモアを交えて退屈な話を聞きやすくしてくれてるんだよ。きっと」
 何事をも好意的に解釈する、彼女は大変にありがたい娘だった。
「まあ、そういうわけだから」祐一郎はにこやかに続ける。「再集合は一七〇〇時ね。緊急招集がかかった場合は、この広場にある犬の銅像前に集まるように。道に迷ったら大声で泣いてお巡りさんを呼べ。じゃあ各自、念のために時計合わせ。――以上、解散」
 それはさしずめ、陸上競技のスタート合図だった。解散宣言と同時、男子隊員たちは脱兎のごとく駆け出していく。その姿はすぐに人ごみに紛れ見えなくなった。一方の女性ふたりは、彼らほど子どもじみてはいないらしい。こちらも一緒に行動するつもりなのか、あちこちを指差しながら何かを話し合っていた。
「甲班は元気がいいな」
 背後からの涼やかな声に、祐一郎は振り返った。
 とは言え、目視で確認するまでもなくそれは石原芹香でしかあり得なかった。乙班もすでに解散したらしい。いつの間にか、彼女は握手を交わせる距離に近づいてきていた。すぐ後ろには乙班の女子隊員を二名、従えている。
「私は、これから彼女たちをあれに乗せてくるよ」
 石原准尉がすいと鼻先を頭上に向ける。祐一郎は釣られてそちらに視線を投げた。そこには、駅上空をまたぐようにロープウェイが架かっていた。七階建ての百貨店と、やや背の低いビルの屋上を繋いでいる。コミカルな曲線を描く橙色の車体が印象的だった。
「君はどうする」顔を戻して石原が訊いた。
「えっ、おれ?」
 本音を言うなら、彼女といたかったところだ。が、それができないと分かった以上、肩をすくめて応じるしかない。
「適当にぶらつくよ。お互い、短い休日を堪能しようや」
「うん、そうだな。じゃ、良い休日をね」
 軽い笑みを見せて彼女が踵を返す。短く切りそろえられた後ろ髪がさらりと揺れた。たびたび思わされるが、彼女には軍人には不釣合いとも言える妙な気品がある。
 しばらく石原准尉たちの背を見送っていると、また後ろから声をかけられた。話が終わるのを待っていたのかもしれない。鳥飼と竹内の女子隊員コンビが歩み寄ってくる。
「どうした、ふたりとも」
「いえ、なんでも」竹内曹長は思わせぶりな含み笑いを見せ、「ほら、素子」と相棒を肘で小突く。
「もう、だから私は良いんだって」
「そんなこと言わないでさ。せっかくのチャンスなんだよ」
 言いながら、竹内はあとずさるように距離を置きはじめた。
 それに気づいた鳥飼は狼狽もあらわに目を見開く。
「ちょっと、澄子?」
「じゃ、あたしは行くから。素子、がんばってね」
 今度は止める間もない。流れるような動きで竹内曹長は通行人の群れに紛れ込んで行った。
 祐一郎は鳥飼とふたり、半ば呆然とそれを見送る。
「なんなんだ今のは。トリちゃん、澄子と一緒に行動するんじゃなかったの?」
「いえ、特にそういう予定ではなかったんですけど……」
 らしくないほど戸惑った様子で鳥飼軍長はうつむく。
「ふうん。なら、店でなんか飲む? 良かったらおごるけど」
「えっ」驚いたように彼女が顔をあげた。
 意外そうではあるが、嫌悪感は抱いていない。そう見た祐一郎は鳥飼の背後に回った。彼女の背を押すようにして――あげられる抗議の声を無視しながら――歩きはじめる。少女の背は小さく、軽く、びっくりするほど薄く感じられた。改めて女性の身体が、自分とはなにか別の法則で成り立っているのだということを思い知らされる。
 駅周辺は店舗数三桁を数えるという喫茶店激戦区だ。店探しに苦労することはなかった。さほど混んでおらず、かつ女性の比率が大きそうな喫茶店を選び、祐一郎は鳥飼曹長をそこに誘う。最初こそ逡巡する素振りを見せたが、結局、彼女はそれにしたがった。
「あの、ご一緒させていただいてありがとうございます」
 ウェイトレスの案内で二人がけテーブル席に着いたあとだった。しばらくうつむきがちにしていた鳥飼が面をあげた。
「いつも世話になってるからさ。トリちゃんには感謝してるよ。おれみたいなタイプが頭はってるチームは、厳格で真面目な人のサポートがないと成り立たない」
「班長は意図してそういう構図を作ったんじゃありませんか?」
 鳥飼は正面から祐一郎を見据えたまま、意を決したように続けた。
「私たちが入る前の班長は、少し違うタイプの人だったと聞いてます。私がこういう性格だって知って、まるでそれに合わせるみたいに今のスタイルを取るようになったって」
「おいおい、誰にそんなこと吹き込まれた?」
 苦笑交じりに応じた祐一郎へ、きっとした視線が突き返される。
「石原乙班長です」
「あいつ……」思わず天を仰ぐ。
「私、最初は矢野班長のこと尊敬できませんでした。ちゃらんぽらんで無責任で、チームの長にはふさわしくないと思ってたんです。それで、あの、そのことを石原乙班長に相談したことがあって」
 懺悔の心境に近いのか、また矢野が顔を伏せる。そのまま気落ちしたような声で言葉をついだ。
「その時、乙班長に言われたんです。以前の矢野准尉はどちらかというと、澄子みたいに潤滑油として機能するタイプだったって。彼はその組織において自分の演じるべき役割を見出す能力に長けた、ある意味で一番冷静なタイプなんだ――と」
「あのなあ、トリちゃん。おれがそんな器用なタイプに見える?」
 祐一郎は半分呆れながら深く息を吐く。
「石原准尉は人格者だ。基本的に、本人がいないところでその人のことを悪く言うことはない。批判するなら、当人に反論の機会を与えないとフェアじゃないと思ってるからね」
「確かに、乙班長にはそういうところがあると思いますけど」
 言葉とは裏腹に、鳥飼はまだ納得したわけではないらしい。珍しく少し唇を尖らせる仕草を見せた。
「とにかく、石原も石原で結構、融通のきかないところがあるんだから。言うことを鵜呑みにしちゃだめなんだよ」
 鳥飼は規則に厳格であり、同じことが石原芹香にも言える。
 違いがあるとすれば一点。石原が頑なに守ろうとするのは、自分で作った自分ためのルールであるということだ。
「あ――」
 ふと、鳥飼がなにか思い出したように顔をあげた。
「乙班長と言えば、私、ちょっと気になることがあるんですけど」
「まあ、あいつは色んな意味で個性的だからね。男より男前だから、同性からもモテるし。実際、あいつはカッコ良いよ」
「いえ、そういう意味ではなくて」
 鳥飼は言葉を探すように、一度口をつぐんだ。
「あの、石原准尉って何か事情のある方なんですか?」
「ん」意図せず祐一郎は片眉を吊り上げる。「事情って?」
「気のせいかもしれないですけど、さっきの乙班長、尾行されているようでしたから。今日だけじゃなくて、前からそういう気配は何度か感じることがあったんです。それも、どちらかというと身辺警護を目的とした護衛的な位置の取り方で……」
「それ、誰かに言った?」
「え、いえ」
 祐一郎の眼光に鼻白み、曹長は慌てて首を左右に振った。
 それから恐る恐るといった調子で問いかけてくる。
「あの、やっぱり何か?」
「いや、おれも詳しいことを知ってるわけじゃない」
 祐一郎は背もたれに身体を預けながら答えた。これ以上のことを話すべきか一瞬考え、結局また口を開く。
「ただ、これはおれの想像だけど、トリちゃんの言うように石原准尉にはなんか裏があると思う。今日の外出にも警護がついて回ってるってのは見間違いじゃないと思うし、実は基地でも特殊な待遇を受けてるみたいな節がある。本人は迷惑してるようだけどね。見たこともないお偉いさんらしき連中が、基地の隅であいつにぺこぺこしてるのを見たことがあるんだ」
 眼鏡の奥でアーモンド形の目が丸くなる。
「じゃあ、たとえば軍最高幹部クラスのご息女だとか……?」
「うん、それはおれも考えた。でも、もうひとつ」
「なんですか?」鳥飼曹長が身を乗り出した。
「こっからは完全におれの妄想だと思って聞いて欲しいんだけどさ。石原って字はね、イシワラとか、イサとも読むことができるんだよ。トリちゃんも知ってるかもしれないけど」
「イサ――」
 それで祐一郎がなにを言わんとしているか理解したらしい。ただでさえ白い少女の顔から、さらに血の気が引いていった。
 イサ・セリカ。日本人なら誰でしも、その音の響きから即座にあるものを連想する。せざるを得ない。
 それは千六百年前、 <温羅の王> に挑んだ伝説的英雄の名だった。
 激闘の末、温羅に破れ、非業の死を遂げたとされる男だ。
 敗北した彼は斬首に処され、その首は陰相転化した鬼城山《きのじょうざん》の深遠――聳え立つ温羅の居城前に串刺しにして晒されているという。
 一説によれば、永い時を経て腐敗し、干からびたその首級は、いまだ死ぬことを許されず魂の慟哭を続けているらしい。
 人であり、また多神教においては神とも定義できる彼は、幾つもの異名を持つことでも知られる。そのうち最も本来の名に近しいとされるのが、五十狭芹彦《イサセリヒコ》だ。
「イサ……五十狭芹……」
「そう」祐一郎は静かにうなずく。「五十狭芹彦と五十狭芹香。ほとんどそのまんまって感じだろ?」
 ちょっとこじつけ気味だけどね、と笑いつつ続ける。
「歴史書の語るところによれば、 <温羅の王> と互角に戦ったイサセリの血統を恐れ、温羅たちは彼の一族を根絶やしにしようとしたらしい」
 実際、イサセリの実姉、百襲媛《ももそひめ》は天才的な帰神の才を持っていたという。巫女として彼女が見せた神懸りの数々は今も語り継がれている。
 また、異母弟である稚武彦《ワカタケヒコ》も、兄と並ぶ――そして兄と同じく温羅に敗れたが――神話クラスの英雄だった。
 絶対不可侵といわれる温羅の <矢喰> でも、帰神法による高次干渉だけは無力化できない。
 彼らがイサセリの血筋を恐れるのも道理といえた。
「その話なら私も知ってます。だから、イサセリの一族は名を変え、身分を伏せて野に散ったとか。他にも阿部や御神楽、楽々森といった鎮魂帰神の名家も同様に雌伏の道を選んだらしいですね」
「そう。断言はできないけど、のちにイサセリの <イサ> の部分を姓に据えて、別の字を当てたという仮説には一定の――」
 そのとき、常軌を逸した光景が祐一郎を沈黙させた。
 向かい合って座る鳥飼素子のうしろ、通りに面するガラス張りの壁越しに、高速で飛来してくる物体がある。
 それはあり得ないことに、道路標識のように見えた。
 根元から引きちぎられた白い金属製の支柱。その先端には、青地に赤い斜線の入った円形のプレートがついている。
 まさしく、「駐車禁止」の標識そのものだ。
 それがヘリコプターのプロペラのよろしく、馬鹿みたいな回転速度を保ちながら――
「素子、しゃがめ!」
 叫んだのが先か、彼女に飛びかかったのが先か。祐一郎は少女曹長を抱き込み、椅子ごと床に押し倒した。直後、凄まじい轟音が周囲に響き渡る。五センチの距離に極太の稲妻が落ちてきたような衝撃だった。単なる音だけでなく、内臓を直接ゆらすような物理的刺激が全身を襲う。遅れて人々の悲鳴と泣き声、怒号があちこちから同時にあがりはじめた。割れたガラスの破片の類だろう。背中にはぱらぱらと何かが落ちてくる感覚がある。
 祐一郎は鳥飼を組み敷いたまま、顔だけあげた。素早く周囲を見回し状況を確認する。小洒落た喫茶店は一瞬で姿を変えていた。全面ガラス張りの外壁は粉砕され、もはや店の内外を隔てるものは何もない。床には砕けたガラスをはじめ、割れた食器や木片、砕けた石膏ボードの類がびっしりと敷き詰められていた。倒れて動かない人間や血痕の類は見当たらないのがせめてもの幸いである。
 次いで祐一郎は飛んできた標識を探した。
 回避しなければ直撃コースだったのだから、店の奥へ飛んでいったと考えるべきだろう。
 果たして、それは厨房への入り口付近、ウェイトレスたちの待機スペースで見つかった。不謹慎にも笑ってしまいそうな光景だった。駐車禁止の標識が壁に対してほぼ垂直に突き刺さっている。そのシュールな絵面は、ほとんどたちの悪い冗談の世界だ。
「ん……班、長?」
 腕の中で鳥飼が身じろぎした。軽いショック状態にあるのか、彼女の表情と声は寝起きのようにはっきりとしない。
「なにが、あったんですか」
「いやなに、駐車禁止が飛んできただけだよ。良くあることだろ?」
 言いながら、背中に回した腕で彼女が起き上がるのを手伝う。
「大丈夫か。怪我はないね?」
「え、あ――はい。私は大丈夫ですけど」
 服についた調味料らしき粉末を払いつつ、彼女はのろのろと立ち上がる。そして周囲に目をやった瞬間、その手をぴたりと止めた。
「えっ……これ、えっ?」
 しばたく目が、やがて助けを求めるように祐一郎へと向けられた。
「まあ、ちょっと落ち着こう。鳥飼曹長。パニックする権利は一般人に譲らないと。おれたちにはおれたちなりの仕事がある」
「あ、はい。すみません。そのとおりですね」
 白昼夢から目覚めたように、彼女は表情を引き締めた。
「おれは、あいつが――」と、祐一郎はしゃくった顎で壁に刺さった標識を示す。「事故か竜巻か、ダウンバーストか――ともかく、どこからどうして飛んできたか外で調べる。きみはここに残って警察に通報。同時に被害状況を確認して、負傷者がいれば救助と処置を。第四小隊にはおれが緊急招集をかける。連中が来てもおれがもどらなかったら、甲班は石原准尉の指揮下に入って指示に従うこと」
「了解しました」
「なあに、うまくやれるって。責任はおれがとる。トリちゃんは、思うとおりにやってくれれば良いから」
 言い残して祐一郎は歩き出した。人が殺到している出入り口を避け、崩れ去った外壁を跨いで外に出る。それから爪先でアスファルトを叩き、靴底に刺さったガラス片を飛ばした。
 顔をあげて街を見渡した瞬間、降ってわいたトラブルをどこか楽しむ感覚と、飛んできた標識へのささやかな好奇心は消し飛んだ。
 破壊は喫茶店の中だけで起こったのではない。
 ガラスをぶち破って現われた道路標識など、街ではじまった崩壊の小さな飛び火に過ぎなかったのだ。
 二メートル先、根元から折られた信号機がそれを物語っていた。
 路面に垂れ落ちてスパークする電線が、炎上する幾台もの自動車が、悲鳴をあげて逃げ惑う人の海が――ひとつの事実を告げていた。
 気づけば、爽やかな陽光降り注ぐ蒼天はもうどこにもない。
 かわりに墨色をした肉厚の雷雲が急速に勢力を拡大し、いまや全天を支配しようとしている。
 太陽などもはやどの位置にあるのか見当すらつかず、色鮮やかだった昼の街はモノトーンに沈みこんでいた。
「おい、うそだろ……」
 無意識にそんなつぶやき声がこぼれ出た。
 この状況下なら、電話回線は間違いなくパンクしている。軍支給の携帯無線を取り出し、祐一郎はそちらで小隊に緊急招集をかけた。全員まだそう遠くまでは行っておらず、幸運にもそろって屋外にいたらしい。この異変について説明する手間はなかった。
「どうなってんですか。何が起こってんですか、班長」
 同じ甲班の本田曹長が、質問というよりは悲鳴の声をあげる。
「みんな、何かに異様なほど怯えて……それに、いきなり夜みたいに……おかしいですよ! これって、おかしくないですか」
「今は考えるな。何も考えるな。とにかく行動するんだ。おれと合流することだけに集中しろ。全員が集まればなんとかなる」
 叱咤して、無線を切った。周囲に視線をもどす。
 車の流れは完全に断ち切られていた。パニック状態の人々が車道にまで溢れ出し、あちこちから衝突音が聞こえてくる。
 ひとつ向こうの通りでは、運転を誤った速度超過のスポーツセダンが歩行者の集団を巻き込みながらガードレールに突っ込んでいくのが見えた。どこかの事故車は――制御系が破損したのか――延々とクラクションを鳴り響かせている。
 助けを求める声を聞きつけ、祐一郎は車体のひしゃげた軽ワゴンに駆け寄った。フレームが歪んで閉じ込められたのだろう。後部座席で若い娘が泣きながら窓を叩いている。
「手伝います」
 ボーイフレンドらしき青年に声をかけ、車内の娘に微笑みかけた。
「燃料漏れはないから、炎上の心配はしなくて良さそうです。窓を壊すから、少し下がっていてください。すぐに出られますよ」
 青年に小銭を出すよう言って、祐一郎は軍支給の巾着を空にした。受け取った小銭を袋に入れ、回転させながら窓に叩きつける。
 初撃でクモの巣状のヒビが入り、二度目でガラスが砕け散った。
 その途端、脱出路を得た娘が窓枠から飛び出してくる。恋人たちが抱き合った。
「――班長!」
 カップルから礼の言葉を受け取っている最中、横から複数の声が近づいてきた。見ると、甲班の四人が全員揃って駆け寄ってくる。先頭を走っているのは喫茶店に置いてきたはずの鳥飼曹長だった。
「おう、みんな集まれたか。トリちゃん、報告してくれる?」
「はい。従業員の協力を得て店内を確認したところ負傷者は二名、死者はありませんでした。負傷の内訳は打撲とガラスによる切り傷で程度は極めて軽く、応急処置でこと足りました」
「そりゃ良かった。で、警察はなんて?」
「警察への通報は店舗責任者に依頼したのですが、電話が繋がらず、私も携帯電話で試みたところ同様に不通であったため、改めて班長のご指示を、と――」
「そうか。ごくろうさん。乙班はひとりもこなかったの?」
「いえ」鳥飼は首を振る。「三名集まって来たので乙班長の到着まで現場を預けてあります」
「ああ、石原准尉は部下ふたりとロープウェイに乗りに行ってるからね」
 頭を下げて避難していく恋人たちを見送り、祐一郎は自分の班員たちに視線をもどす。
「ちょうどゴンドラの中にいるみたいで、降りてくるまで少し時間がかかるらしい。他の三人来たなら、今のところそれで全員だよ」
「そんなことより、班長」
 男子隊員の本田曹長が詰め寄ってきた。自分でかきむしったのか、群集に揉みくちゃにされたのか、髪がぼさぼさに荒れている。
「これ、何が起こってるんですか。ちょっと普通じゃないですよ。サーカスから逃げ出したライオンが現われたって、これほどは」
「まったくね」
 うなじの産毛が逆立つのを感じながら、祐一郎は言った。
 街を徘徊しているのはライオンどころの存在ではない。
 草でもむしるかのごとく道路標識を引き抜き、腕力だけで何百、何千メートル先へと放るような真性の化物だ。
「全員、気を強く持て。丹田に力を込めろ」
 声が震えかけたのは、足の裏に感じられはじめた小さな地響きのせいではない。
「絶対に <鎮魂> を忘れるな。ちょっとでも気を抜くと精神ごとあっちに持っていかれるぞ」
 他の甲班員たちも、その意味するところを理解したのだろう。
 何より、祐一郎の視線の先にあるものに気づいたのだろう。
 誰かが短い悲鳴をあげ、違う誰かが固唾を飲む気配が伝わる。
 人々が逃げ出してくる先――南西へ流れていく目抜き通りのゆるやかな曲線の向こう側だった。
 なんの躊躇もなく、その巨大な人型は姿を現した。
「うそだ……」
 本田曹長がいやいやをするように頭を振った。
 ゆっくりと二歩後退した彼は、群集のひとりに肩をぶつけられ、その場にへたり込む。
「だって、前の終わりからまだ五十年しか経ってない。 <温羅の日> は三百年周期だって言われてたじゃないか……」
 成人男性の頭の位置に腰がある。人間の胴回りより遥かに太い二本の足で、アスファルトを陥没させながら歩行する。
 それは、そんな生物だった。
 体長四メートル。蝿でも払うかのように繰り出される無造作な横なぎは、人体を一瞬にして挽肉に変え、バラバラに四散させていく。
 その度に、血煙が花火のごとくぱっと咲いては消えていくのが遠目に見えた。
 人型をしているが、決して人間ではあり得ない。
 それは、半世紀ぶりに姿を見せた人類の捕食者――
 温羅だった。


to be continued...
つづく
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