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105
jeu desprit
交渉




13.

 中原は音質で物事の快、不快を判別することが多かった。碁が好きなのも、半分は碁盤に石を置いたときの音が小気味良いからである。人間の場合も、特徴的で良い声を出す者には少なからず好感を抱く。ラケットが黄色いテニスボールを弾き返す瞬間の弾けるような軽音も、中原はそこそこ気に入っていた。
 意図したものではないのだろうが、緩いスライス回転のかけられたボールを中原はフォアハンドで打ち返した。心地よい手応えと共に、球はほぼ狙い通りのクロスボールとなって相手コートに返っていく。名も知らない練習相手は、それをラケットに当てることができなかった。
 中原は何度かステップを踏んだ後、身体を揺するのを止めて額の汗を拭った。中学校での短い間ではあったが、軟式のテニスを経験していたことがそれなりに役立ちつつあるらしい。硬式と軟式とでは随分と勝手が違うものの、筋としては変わらない部分もある。慣れてしまえば、ある程度はイメージ通りにラケットとボールを扱うことが出来た。
 しばらくすると、練習を中止するように言う実行委員の声が聞こえてきた。午後五時までは、対抗戦に選手として参加する者なら何人も、担当競技についての練習を行わなければならない――というこの時期特有の義務があった。五時以降は、企画参加に熱心な者だけが任意参加の特別練習を行う。中原のように部活動に所属しておらず、また対抗戦に特別な感情を持っていない生徒は、この特別練習をパスして帰宅の準備に入るのが常だった。
 対抗戦という大きな催しが、娯楽の乏しい白丘市や体育会系の部活動で目立った活躍をあげていない白芳にとっていかに重要なものであるかは、中原にも理屈として理解できる。だからと言ってそれは、イヴェントを楽しもうという連中に混じって、同じような馬鹿騒ぎを繰り広げる理由にはならない。

 借り物のラケットを専用ケースに仕舞いこむと、中原はジャージ姿のまま学外テニス場をあとにした。白芳の運動場はテニスコートや野球場を設けるには狭すぎるため、こうした施設を隔地――西側の未開発地域――に用意していることが多い。白芳の敷地がアメリカ合衆国だとすれば、この学外テニス場はアラスカのような存在だ。
 対抗戦の練習のため中原が利用しているテニスコートは、学園から数百メートルと割と近い場所にあるが、野球場やサッカーグラウンドまでは二キロ近い道のりを行かなければならない。テニス場がアラスカなら、これらはハワイ諸島と言ったところか。部員たちは毎日ロードワークを兼ねて、学校と練習場とを行き来しているようだった。
 学園に戻ると、中原は教室に置いていた制服に着替え、通学簿を受けとって真っ直ぐに校門へと向かった。
 霞台南に自宅のある中原は、東西南北の四箇所に設置してある通用口のうち南側の門を利用することにしていた。校舎を出るとグラウンドの南東方向を回りこむように歩き、クラブハウスの裏手を通って生徒会館を左手に眺めながら門を目指す。
 全校生徒の約半数が選手や実行委員として居残っているため、下校しようという人間の数は通常と比較してかなり少なかった。受験を控えてイヴェントどころではない三年生、部活動に入っていない一般生徒の姿がそのほとんどを構成しているようである。
 その帰宅組のなかに、中原は思いがけない人物の姿を見出した。一瞬なにかの勘違いかとも思ったが、周囲の人間が似たようなリアクションを見せていることからも、どうやら間違いないらしい。相手も中原の存在に気づいたようで、軽く微笑みながら静かな足取りで歩み寄ってくる。

「こんにちは。最近よく会うみたいね」
 壱棟長、坂本雅美は丁寧に言うと柔らかく微笑んだ。
「その節は――」
 どのように応じて良いのか分からず混乱しかけた中原は、なんとかそう言って後の言葉を濁した。
「そのラケット、テニスのでしょう。対抗戦に出るの?」
「僕の意思じゃありません」
「と言うことは、人数合わせで選ばれちゃったんだ」坂本はくすぐったがるように眼を細める。「でも良いじゃない。私なんか一年のころからずっと候鳥会にいたから、競技には一切参加できなかった」
 そういう人間もいるのだから、と彼女は中原の二の腕を軽く叩いた。第一印象からはもっと物静かな女性を思い描いていたのだが、思いのほか気さくな側面もあるらしい。
 それにしても、その壱棟長がなぜ校外に向かっているのかが気になった。立場上、彼女は校内の誰よりも大きく重い仕事を抱えているはずだった。中原のような人間と混じって、こんな時間から帰宅できるような身分ではない。
「候鳥会は外で仕事をすることもあるのよ」
 まるで中原の心を読んだかのように、壱棟長は言った。
「今日はね、理事長と話をさせてもらう予定なの。彼女のお宅は盛岡市だから」
「――僕は何も訊いていません」
「そうね。私が勝手に喋っただけ。気に障ったのならごめんなさい」
 坂本は全く動じた様子を見せず、柔らかな口調でそう言った。まるでその一言一言に緩衝作用が秘められているかのようだった。不思議と気勢を削がれ、彼女の望むままの情報を知らぬうちに漏らしてしまいそうな気分になる。
「そうだ、この前の後輩の非礼についても謝らなきゃね」
 坂本はその小さな肩を中原と並べて歩きながら、思い出したように言った。
「貴方に会館まで来てもらったとき、うちの日吉が気に障るようなことを言ってしまったでしょう。本人も、あの後かなり気にしていたみたい。貴方には随分不快な思いをさせてしまったみたいだし、本当にごめんなさい。泪のこと許してあげてね」
「いえ――」中原は俯いたまま首を左右した。「あの人は本当のことを言っただけですから」

「誰にでもああいうことを言うわけじゃないの。場合によっては、傷つけるだけで事態を余計に悪化させることもあるから。でも、貴方はそんなにヤワなタイプじゃないって考えたんだと思うの」
 それは恐らく過大評価なのだろう。だが、中原はそのことを自ら指摘しようは思わなかった。言ったところでどうなる問題でもなかったし、今後、彼らと付き合いを深めていくつもりもなかった。
「僕は候鳥会に興味を持てません。学校生活に特別な幻想を抱くこともない。貴方たちがどんな活動をしようと自由ですが、僕の日常には介入して欲しくありません」
 誰であろうと構うことなく、他人が抱えている事情に理解を示して回ろうという候鳥会の姿勢は傲慢にも思えた。人は自分でない誰かを容易に理解できるものではない。
「私には実体験がないから想像してみるしかないし、たぶんそれだけじゃ不充分なんだと思う。貴方の全部を理解しろと言われても、それは無理」
 坂本雅美の言葉に中原は思わず足を止めた。彼女は本当に人の心を読めるのかもしれない。そうでなければ、どうして考えていることが筒抜けになるのか。
「中原君――」合わせるように歩調を緩めると、坂本は中原の顔を見据えた。「貴方、どうして須賀長佐や大津弐棟長が自分を次々代の <師光> に推しているのか、理由を考えたことがある?」
 考えようと幾度か試みはした。しかし、その度に思考を放棄してきたというのが実際だった。話があまりにも現実的でなかったからだ。玄関のインターフォンを鳴らして現れた見知らぬ男から、「貴方は宝くじに当選されました」と札束の入ったトランクケースを差し出されるようなものである。とても信じられるような話ではない。
「さっきも言ったでしょう。僕は候鳥会に興味などない」

「そうだったわね」
 坂本は寂しげに微笑んだ。そして小さく俯くと、自分に話す権利があるかは疑問だが――と前置きした上で語り始めた。
「私には無理だけど、大津君には貴方のことがよく理解できるんだと思うの。理解っていうよりは共感って言うべきかな。彼も貴方と似たような経験をしてきた人だから。タイプは違うけど須賀君もそう。だから、彼らは貴方のことを気にしてるんだと思う」
 そして彼女は、大津晨一郎の父親のことを知っているか、と訊いてきた。全く知識になかったので、中原は知らないと正直に返した。
「あの人のお父様はずいぶんと前に亡くなったそうだけど、生前は全国的にも名前を知られた人だったそうよ」
 さもありなんと言ったところか、弐棟長の父親が著名人だったという話に驚きはなかった。威風堂々とした大津晨一郎の肉親として、むしろそういった社会的立場は相応しくあるようにさえ思える。常に人々の関心を引きつけてやまない煌びやかな印象は、中原が抱く候鳥会そのものへの漠然としたイメージであったのかもしれない。
 だが、坂本の次の一言は、中原の想像がおよぶ範疇を完全に逸脱したものだった。
「もう十何年も前の話だけど、生後間もない子供が殺される事件があって世間的に騒がれていた時期があったらしいの。その殺害犯として逮捕されたのが、大津君の実の父親。つまり、大津君は犯罪加害者の家族なのよ」
 大津の父親は最終的に無期懲役の判決を受け、数年後に獄中死したのだと坂本は補足した。まだ三〇代の若さだったそうだが、病死であったという。
 思いもしなかった話の展開に中原は混乱した。なにか反応を見せるべきだとは思うが、喉でつかえたように言葉が出てこない。口内はからからに乾いていた。
「お母様も大津君が幼いころに亡くなられていてね、父親もそうした具合で子供のそばにはいられなくなったから、彼はかなり早い時期から天外孤独みたいな身の上になったみたい。正確に言うと親類は何人か残っているらしいだけど」
 しかし殺人を犯した男の子など、誰も引き取りたがらなかったという。大津晨一郎は就学年齢に達するまで養護施設に預けられ、中学生になってからは全寮制の学校に通うようになったらしい。
「ここに来るまでどんな生活を強いられていたのか、大津君は詳しいことを何も話してくれない。でも、人殺しの家族として社会から徹底的な迫害を受けていたって噂は事実なんでしょう。彼自身は何の罪も犯していないけど、周囲の人間から見ればそんなことはどうでも良かったみたいね。被害者が赤ちゃんだったことも不運だった。
 自分の生活に満足していない人たちは、いつも感情の捌け口を探してる。だから、殺人犯やその家族ならどんなに痛めつけても構わないって――そんな感じの自己弁護が成り立てば、幾らだって残酷になれてしまう。貴方も良く知ってることだとは思うけど」
 戦慄の中で、中原は深く首肯していた。その通りである。人間はいつも <合法的に痛めつけられる他人> を探し求めている。特に人生に不満を抱えている者や、コンプレックスを上手く処理できない者にその傾向は強い。
 中原均は中学時代からの嫌われ者だった。暗い人間だ。周りの人間を見下したような態度をとっている。だから攻撃しても良い。どんな仕打ちを与えても良い。それは正当な行いであり、断罪なのだ。
 合理化や自己の正当化が上手い人間は、いつだって十字軍になり得るのだった。正義や神の名のもとに、異教徒を虫けらのように惨殺する。
「白芳に編入してくるときの面接で、大津君が言ってたそうよ。自宅や学生寮の窓ガラスが割れて、飛び込んできた石に『人殺し』って殴り書きが添えられていたら、そろそろ引越しを考える時期なんだって。自分は慣れてるから良いけど、他人に大きな迷惑がかかるからそこには居られなくなる。――だから、彼の履歴書は転校の記録でいっぱい。その内容が本当なら、高校もここが四校目になる」

「四校……」
 中原は一度だけ顔を合わせただけだが、その時の大津弐棟長からはとても想像できない経歴だった。彼は矜恃ある、自信に満ちた男に見えた。自分とは対極的な、全てにおいて恵まれた人間の集いこそが候鳥会なのだと思っていた。
「あの人がここに来てから二年目になるけど、それって一所での学園生活としては最長記録らしいの。全部、前の弐棟長のおかげなんだって、彼は言ってる」
 先代の師光は、大津晨一郎に支援を約束したという。
「誰にも人殺しなんて言わせないから、普通の高校生になれって。周囲の雑音は自分が封殺するから、ここにいる間に自分の問題にケリをつけろって。そんな風に言ってもらえて、本当に約束を守ってもらえて、死ぬほど嬉かったって大津君は言ってた。俺は世界一の幸せ者なんだって」
 そこまで言うと坂本壱棟長は照れくさそうに笑って、自分の話はこれで終わりだと告げた。少し喋り過ぎたかもしれない、と小さく首を竦める。
 校門近くで立ち止まっていたせいか、中原と坂本は周囲の注目を集めつつあった。そのことが何となく彼女の迷惑になりそうな気がして、中原は先に立って歩き始めることにした。その動きを受けて、坂本も同様に足を動かし始めたことが背後からの気配で知れる。
「――なんで、弐棟長はその話を僕にしなかったんですか」
 中原は前を向いたまま、呟くように言った。大津自らがいまの話を持ち出していたのなら、もっと早くに中原の気を引くことができたはずだった。前回の会館での話も、もっとスムーズに進んでいたはずだった。
「あまりそういうことを喋り歩くようなタイプじゃないから、彼。それに他人と環境を比べあったって仕方がないでしょう。あの人は、貴方と不幸合戦をして勝ち誇りたかったわけじゃないのよ」

 壱棟長の話が事実だとするなら、大津晨一郎の眼に自分の姿はどのように見えていたことだろう。中原は考え、身を縮めずにはいられなかった。
 学校で小さな嫌がらせを受けるだけなら、校外に出てしまえば安全だということになる。自宅という聖域が確保されているからだ。しかし、大津はそうではなかったはずだった。彼の敵は学校だけでなく、自宅の周囲にも無数に存在したことだろう。彼にとっては社会――ひいては世界そのものが敵に見えたに違いない。二四時間、どんな時もどこにいても心休まる瞬間などなかったはずだった。
 己を不幸だと考える人間は、より過酷な環境にいる人間のことなど想像しなくなる。自分の悲運を嘆くのに必死で、そうした精神的な余裕を失ってしまうからだ。自分も同じような状態にあったのかもしれない、と中原ははじめて気付いた。
 大津晨一郎からすれば、中原均の住まう環境は楽園のように見えたものだろう。少なくとも中原には生活を保証してくれる両親があり、学校のトラブルから逃げこめる家庭があった。そして自分の身体に人殺しの血が流れていると思い悩む必要もなかった。立場を交換できると言われたなら、大津は喜んで話に応じたかもしれない。
「――それじゃあ、私はこっちだから」
 南門を潜ると、坂本雅美は中原の通学路とは反対の方向を指して、別れの言葉を口にした。
「つき合ってくれてありがとね。それから対抗戦のテニス、幸運を祈ってます。試合、見に行く時間がとれたら良いんだけど」
 少しだが話せて良かったと言い残し、中原に会釈する間も与えず壱棟長は立ち去っていった。踵を返そうとする彼女を呼びとめようともした中原だったが、かける言葉を探し出すことは結局できなかった。もし引きとめたとして、何を話すつもりだったかすら自分で分からない。
 盛岡市に向かうという本人の言葉を信用するなら、恐らく坂本はこれからJR東北本線を利用するつもりだろう。最寄りの駅は学校を挟んだ北にある。彼女が自分と話をするために真逆の方角に向かって歩き続けていたことに中原が気付いたのは、その小さな後姿が視界から完全に消え去ったあとのことだった。



14.

 バブル期に急ピッチで開発されていった白丘市は、市の中心部に位置する繁華街から遠退くにつれ、森林や田園風景に囲まれた片田舎本来の姿を見せ始める。街の南西部に位置する霞台南地区は、そうした僻地を切り開いて作られた新興住宅地であった。このような場所の情景は全国どこでもさして変わることはなく、霞台もまた林立するアパート群や似たような外見をした一軒家の連なりから成っていた。
 猫の額程度の狭い庭に、他との識別点をほとんど持たない二階建て。ここに住まうのはいわゆる中流階級の人間たちであり、夫婦共働きの家庭であるケースが目立つ。中原家もその例外ではなく、学校から帰ったとき彼を迎えるのは無人の沈黙であるのが常だった。
 自宅で一人きりの時間を過ごすことは、決して苦痛ではなかった。孤独を感じることも稀にしかない。小学生が人間関係に疲れを訴え出す時代である。そうした社会的なしがらみから解放された一時は、むしろ安らぎすら提供してくれるのだった。
 それに、ここ最近はクラスメイトからの嫌がらせもピタリと止んでいる。逆に気味の悪さすら感じてしまう平穏ぶりだが、もちろんそれは願ってもない状況だった。こうした日々が続くのなら、登校時に発熱することや吐き気を催すことも無くなっていくかもしれない。
 制服から部屋着に服を変えると、中原は自室で詰碁の問題を幾つか解いた。碁を生業にする気はなかったし、プロ試験に合格できるとも思わなかったが、向上心を持ち努力を怠らないよう心掛けなければ、それを生涯の趣味とすることは難しい。たとえ遊びであっても、それは時に痛みや苦悩を伴うものでなければならない――というのが中原の持論である。楽しいばかりのものごとは、長い眼でみたとき人間に何ももたらしはしないのだ。

 一八時過ぎ、碁会所仲間の山村という男から電話がかかってきた。盛岡市で不動産業を営む六〇代の老人で、キャリアや段位は中原を上回るのだが、相性の問題なのか実際の対局では中原と互角の勝負をする。
 碁を嗜む仲間であり良き好敵手として、彼は孫の年齢である中原にも礼儀と敬意を忘れない男だった。中原にとっては、年齢差を越えた貴重な友人の一人である。気さくな好々爺なので、山川万美代などにも良く懐かれていた。
 山村の用件は、数年前の棋譜を望むものだった。第五五期本因坊戦の予選で青木喜久代八段が当時 <棋聖> のタイトルを持っていた依田紀基九段を中押しで破った対局の記録である。腕前としては男性に一歩譲ると言われる女流棋士が、現役タイトル保持者を破る快挙は三〇年近くなかった事件であり、その時は随分と囲碁会を騒がせた。
「持っていると思います。 <別冊囲碁クラブ> でその棋譜を見たような気がする」
 少し待つよう告げて、書棚に整頓してある日本棋院発行の書籍を漁った。中原は亡くなった祖父から受け継いだ分を含め、囲碁関連の資料を豊富に揃えている。棋譜という、囲碁の試合の進み方を記録したものも多数所持しており、碁会所の知人たちから提供を求められることが良くあった。
 山村が今回所望している対局は、中原の記憶が確かなら一九九八年のものであるはずだった。本因坊戦は予選を含めるとほとんど一年がかりの長丁場となる。結局、問題の棋譜は十一月末のものであったことが判明した。
 目的の物が見つかったことを告げると、山村はたいへん喜んだ。コンビニエンス・ストアでコピーを取り、自宅の方にFAXする約束を交わす。その後は、女流棋士で最も実力を持った人物は誰かという話題で盛りあがった。山村は女流史上初の九段獲得に最も近いとされる青木八段を推し、中原は現在もっとも勢いのある小林泉美五段を候補にあげた。
 受話器を置く間際、山村からパソコンをはじめるよう勧められた。好奇心が強く研究熱心な彼は、数年前からインターネットを通じた囲碁や資料収集も始めたそうだった。パソコンに全く触れたことのない中原より、六〇歳の彼の方がよほど感性が若いのだろう。
 人の可能性とは、若さや年齢ではなく意識と積極性とが生み出すものなのかもしれない。

 ――恐らくこの通話を終えるまでが、中原にとっての最後の平安だった。結局、候鳥会のもたらしてくれた束の間の救いは、そう長続きするものではなかったのである。そして大津弐棟長がかねてから指摘していた「候鳥会の限界」というものが、まさにそれを予見したものであったことを、後に中原は知ることになる。
 一九時に母親が仕事から戻ると、中原家ではすぐに食事の準備が進められた。九州地方に転勤が決まっている父親は、その影響で自宅に戻る機会がめっきり減ってきている。彼は単身赴任を選ぶようだったから、しばらくはこのような母親と二人きりの夕餉が続くはずであった。
 最初の異変は、その夕食の最中に起こった。中原家では食事中にTVをつけないことになっていたし、母親と二人きりでは話題も限られている。だからだろうか、突然鳴り出した破裂音の連続は静かな食卓を揺るがすほどの大音響として襲ってきた。
 高圧電流のスパークを思わせるそれは、まさに鼓膜を突き刺すような衝撃だった。何が起こったのかまったく理解できない。驚愕のあまり中原は肉じゃがに突き刺した箸を凍りつかせ、母親は小さな悲鳴を上げる。一瞬にして二人の聴力を奪い去っていたその轟音は、日常生活を営む上では遭遇しようのないものだった。
 そんな中でどうにか平静を保てたのは、向かい合って座る母親が身を縮めながら落ちつきなく周囲を見回していたからだろう。彼女は気の毒にも恐怖のあまり軽いパニック状態に陥ったらしく、「今のなに」という言葉を何度も繰り返しながら破裂音の正体を必死に探し求めていた。
「分からない。すぐ近くで鳴ったような気がしたけど――」
 近くどころの話ではないはずだった。少なくとも隣家で何かあったというレヴェルではない。何者かが部屋の中で機関銃を乱射していたのだという説明にも納得してしまいそうな爆音だったのである。家の中で何かが行ったのは間違いなさそうだった。
「落雷かもしれない」
 自分でもまるで信じられないものだったが、中原はその仮説を口にした。混乱した者には、何でもいいから理性的な話題を差し向けなければならない。
「今日は晴れよ」母親はカーテンをめくり上げ恐々と外に目をやる。「それより、なんか癇癪玉の音みたいじゃなかった?」
 中原には癇癪玉というものが何なのか分からなかったが、それを問い返すかわりに別の言葉で彼女を安心させることにした。
「僕が様子を見てくる。何か分かるかもしれない」
「頼むね」

 席を立つと、まず庭を見渡せるガラス戸に近付いて外の様子を確認した。夜目を凝らすかぎりでは、異常を見出すことはできない。もちろん、落雷の形跡なども見当たらなかった。
 不安顔の母を居間に残し、トイレや風呂場も含めて中原は一階のあらゆる部屋を点検して回った。いずれにも変わった様子はなく、耳を劈く炸裂音の発生源になりそうなものは存在しなかった。
 しかし何かが起こったことは確実なのだ。探し方が悪いのかもしれない、と首を捻りながら二階へ続く階段を上る。階段から一番近い両親の寝室を最初にチェックすると、次にトイレ、客間の順に様子を窺っていった。やはり異常はない。
 結局、当たりは最後に向かった自室だった。部屋に首を突っ込んだ途端、焼けた火薬の匂いが鼻腔を突いてくる。一瞬、火事かとも思ったが、自室に火元となるものが存在しないことは中原本人が一番良く知っている。
 念のために各部屋を繋ぐ廊下を一度見回してから、慎重に自室へ足を踏み入れた。手探りでスイッチを探し出し、照明をつける。
 整理整頓の行き届いた室内に目立った異変は見当たらなかった。ただ、花火大会をやらかした直後であるかのように、濃い火薬の香りが部屋中に充満している。それは開け放たれたガラス戸越しに外部から漂ってくるようであった。二階に設置されているバルコニィだ。
 意を決して網戸を開き、露台に足を下ろす。気が付くと、硝煙のような薄っすらとした白い煙が中原を取り巻いていた。春の夜風がそれらを吹き流していくが、あたりに残留している異臭はなおも嗅覚を刺激し続けている。
 部屋から漏れ出してくる明かりを頼りに眼を凝らすと、すぐにジュース缶のような物が落ちているのを発見することができた。周囲を見回す限り、焦げあとが目立つ同様の缶が全部で三個散乱しているようだった。熱を持っているようなので火傷に注意しながら、それらの内の一つを取り上げて部屋に戻る。
 照明の下で見ると、それがどこにでもある清涼飲料水の空き缶であることが分かった。三五〇ccのアルミ缶である。その飲み口からは焼けただれた導火線が覗いており、これを辿っていくと缶の中に爆竹の束が詰めこまれているのが分かった。誰かがこれに火をつけ、家の外から中原家のバルコニィ目掛けて投げ入れたのだろう。音の正体は、これら何十という爆竹が頭の上で一斉に鳴り出したものだったのだ。一歩間違えれば火災につながりかねない、悪質な悪戯である。

 少し考えたあと、中原は三個すべての空き缶を回収し、部屋にあったビニール袋に放り込んでクローゼットの中に隠した。――ここで考えるべき問題は幾つかある。誰が何の目的でこのような真似をしたのかと、このことを母親にどのようにして説明するかの二点だ。
 この場合、何も見つからなかったと報告し話をうやむやにしてしまうのは有効な解決方法となり得るだろうか。それとも不安がっていた彼女を安心させるために、元凶となったものをきちんと示すべきなのだろうか。
 頭を悩ませながら階下に向かっていると、居間においてある電話が鳴り出したのが分かった。嫌な予感がしたため、足を速めて短い廊下を通りリヴィングに戻る。電話には、母親が応対に出ていた。二言三言かわし、彼女は受話器から顔を離すと中原を呼ぶ。
「均、あんたにみたいよ。生徒会の大津さんだって」
「大津――」
 最初に思い浮かんだのは、やはり弐棟長の大津晨一郎の相貌だった。白芳の生徒たちは住所や電話番号、学歴、趣味、家族構成までを記した <生活調査表> という物の提出を義務づけられている。業務上の権限を行使すれば、弐棟長はそれを参照して全校生徒のあらゆる情報を得ることができるはずだ。教えた覚えのない自宅の電話番号を知っていてもおかしくはない。
 おかしいのは、彼が中原に電話をかきたということだ。最近なにかと候鳥会と関わる機会が増えたが、大津と電話を通じて話すようなことなどなかったはずだった。

「電話、かわりました。中原均です」
 不審に思いながらも母から受話器を受け取った。
「はじめまして、中原均君。ベランダ、見た?」
 明らかに大津とは別人の、若い男の声が聞こえてきた。その後ろから複数の笑い声がする。何人かの人間が携帯か公衆電話を取り囲み、薄笑みを浮かべながら状況を楽しんでいる図が脳裡に浮かび上がった。
 途端に恐怖と混乱で身体が強張った。腕に鳥肌が立ち、うなじの産毛が逆立つような冷たさが背中を走り抜ける。
「なんかヤバイことになってるらしいよ、キミ。候鳥会とかに色々チクったりされると、恐がって友達も逃げちゃうしさ。友達うらぎると、色々あとが恐いから気をつけてね」
 冷静になろうと努めた。必死に状況を分析する。しかし何も考えられなかった。閃光で焼かれたように頭は白く染まり、思考することすらままならない。
「友達と仲直りしたかったらさ、あした学校終わったあと、ちょっと付き合ってよ」
 世間話をするような軽い口調で学校近くの裏路地を指定すると、相手は答えも聞かず一方的に通話を切った。ツーという発信音が再び訪れた静けさの中で木霊する。
 どれくらいそうしていたのか分からない。耳から引き剥がすようにしてようやく受話器をフックに戻すことができたとき、電話が切れてからたっぷり三〇秒は経っていただろう。

「さっきの何だかわかった?」
 のろのろと食卓に戻ると、母親が身を乗り出すようにして報告を求めてきた。興味が先行しているせいで、息子の様子がおかしいことにも気付かない。中原は混乱の残る頭で、異常はなにも発見されなかったと告げた。それで納得させられるとは思わなかったが、やはり落雷や車のバックファイアの類ではなかったのか――という仮説を添える。
 いずれにしても、不可解な現象を経験にした人間の多くは、納得しやすい説明を自らでっちあげて己を安心させようとするものだ。それに、彼女はもともとサバサバした性格をしている。少しの間は不安を残すだろうが、二三日もすれば今夜のことなど忘れていることだろう。
 中原親子は再び箸をとりあげたが、テーブルに並べられた食事は中途半端に熱を失ってしまっていた。短い間に様々なことが起こったため、なかなか食も進まない。特に中原には、さきほどの電話の内容に関して考証を重ねる必要があった。
 重要なのは電話がかかってきたタイミングと、ベランダを見たかという問いだ。
 あれは、爆竹を詰めた空き缶を投げこんだことに、自分たちが何らかの形で関与していたことを示唆しているのだろう。或いは実行犯そのものだったのかもしれない。
 彼らが何者であるかについては、まだ何とも言えない状態である。しかし、白芳の人間である可能性が高いと考えてよさそうな気はしていた。
 現在、クラスメイトをはじめとする周囲の人間たちは、中原と候鳥会との関係を勘繰って手出しを控えているように見える。先週、 <熊男> たちのグループに暴力を振るわれていたところを大津弐棟長らに救われたことから、そうしたムードが俄かに漂い始めた。事実、あの件をきっかけに中原への嫌がらせは激減している。
 彼らがストレートに考えたとするならば――事実、彼らの思考はいつだって恣意的かつ短絡的だ――、候鳥会が動き出した原因を中原に求めたことだろう。つまり、「中原均は自分が苛めを受けていることを候鳥会に報告し、問題の解決を彼らに託した」というような結論を採用したと思われるわけだ。これを候鳥会への密告、いわゆるチクリだと捉えるのはいかにも連中らしい解釈だといえる。

 今夜のアクションは、その密告に対する彼らなりの報復だったのだろうか。
 ありえそうな話ではあった。他人を攻撃することで自分の何かを癒そうとする者は、その他人が自分と同等かそれ以上の力を持つことに恐怖や憤りを覚える。決して抵抗しない、好きなだけ殴れる人間だと思っていた相手が思わぬ反撃を試みようとしたとき、それに殺意すら抱くこともある。
 中原が候鳥会という後ろ盾を得て自分たちに抵抗するようなことは、彼らにとって決して許してはならない行為なのだ。
 そこまで考え至ったとき、唐突に大津弐棟長の言葉を思い出した。
 関わってしまった以上、嫌でも <候鳥会> の力と限界とを知ることになるという、いつかの忠告である。
 確かに彼らの力はすぐに分かった。生徒会館に呼ばれた翌日から、中原に手出しをしてくる人間は一人もいなくなった。
 だがそれは、候鳥会の抑止力が苛めが表面化することを一時的に押しとどめていただけに過ぎない。もっと早くに気付くべきだったのだ。苛めを生み出す構造は、以前と何一つとして変わってはいなかった。その安息は、中原が自らの行動で勝ち得たものなどではなかったのだ。
 候鳥会には長い歴史がある。生徒のための組織であるのなら、それは苛めや不登校問題との戦いの歴史でもあったはずだった。大津はその歴史を学び、中原が抱えている問題の本質にも逸早く気付いていたのだろう。そして忠告してくれていたのだ。
 ――時間は少しある。そのあいだに考えろ。
 彼は言った。あれは候鳥会が稼ぎ出した一時を利用し、できるだけの準備を整えろということではなかったのか。再び嫌がらせが始まる前に、自分に何ができるかを考えろという意味ではなかったのか。

 たとえそうだったにしても、今となっては後の祭である。候鳥会が用意してくれた時間は無駄に費やされた。嫌がらせを行っていた連中は再び動き出し、校内だけでなく自宅にまで中原を追いかけて来ようとしている。事態は悪化しつつあった。
 明日の呼び出しに応じた場合、どんな仕打ちが待ち受けているのか考えただけでも身体が震えてくる。暴力は更にエスカレートするだろう。要求される金品の額も大きくなってくるかもしれない。家族を巻き込んでしまうのも恐かった。
 父親は近く九州へ単身赴任する予定だ。今、両親に中原の抱えている問題が発覚してしまえば、それは単身赴任から家族揃っての転居という形に変わるだろう。そうすると、長い時間をかけて作った碁会所の仲間とも連絡が取りにくくなる。転校の学校には候鳥会に代わる存在はあるまい。今の環境でなら何かが変えられるかもしれない、という予感も完全に失われるだろう。
 転校先の学校では、苛めは全くないかもしれない。新しいクラスメイトたちに温かく迎え入れられ、普通の高校生としての学園生活を謳歌できるかもしれない。そうなれば、家を出る時に熱が出ることも、頭痛で倒れそうになることもなくなるはずだった。
 考えるだけで幸せになる。夢のような話だ。
 しかし、喜びに満ちた日々のなかに小さな染みが残り続けるだろう。結局、環境に背を向けたのだという後悔が胸に居座ることだろう。山川や候鳥会の期待を裏切り、楽な選択に逃げたような気分を最後まで消すことができないだろう。
 そうした心のシコリは、平穏な日常生活を送ることのできる幸福の前にあって、些細な問題でしかないのかもしれない。実際、小さなことだ。他人に聞かれたら、馬鹿なことで悩むものだと笑われるに違いなかった。
 だが、それが今までの冷たい生活の中で育んできた、自分なりのこだわりであることを譲るつもりはなかった。些細で愚かなものなのかもしれないが、それでも中原均としての矜持なのだ。捨ててしまえば、今までの自分を否定することに繋がる気がしてならない。

 ――できるだけのことをやろう、と思った。
 そう意気込んだところで、圧倒的な暴力の前に結局は何もできずに終わるだろう。殴られ、財布を奪われ、人格を否定され、無価値なゴミにも等しい人間として扱われ続けることは容易に予想できる。
 だが、明日はきちんと説明を行うつもりだった。自分は候鳥会に泣きついてなどいないこと、家族は巻き込むつもりはないこと、自分は誰の力を借りるつもりもないこと、他人に迷惑がかかるようならそれを防ぐために自分なりの抵抗をすること。
 行動の自由や財産を失うことが人の終わりなのではない。自分が自分たる由縁を失うとき、魂を売り渡すとき、人は真に価値を失う。
 これからの日々を思うと、歯を食いしばらずにはいられなかった。その夜、床についた中原は布団を頭から被り、堪えきれなくなった僅かな涙を隠した。声を押し殺し、嗚咽しそうになる自分を叱咤した。
 厳しい環境の中で己の尊厳を守り通すのは、たいへんな苦痛を伴う戦いである。だが、大津晨一郎は中原よりずっと困難な世界でそれをやり通したのだ。
 自分にもできると信じたかった。
 そしていつか、彼のように笑ってみたいと思う。環境に打ち勝ち、己の行動を誇りながら、彼のように毅然として立っていたい。
 もう、そう思うことでしか、中原は自分を鼓舞することができなかった。



15.

 長年の経験から、中原は自分の身体が三七度以上の熱を帯びていることを知った。
 呼吸は荒く、動悸がやまない。ペンチで締めつけられているかのように頭が痛む。下校時に、登校前と同じような症状が出るのは初めてのことだった。
 肉体は毎朝のように登校することを拒む。今回は同様の手段をもって、中原が危険な連中との交渉に挑もうとするのを押しとどめようとしているのだ。
 しかし、肉体の欲求に屈して学校を休んだことが一度もないように、今度も自分の意思を貫くつもりだった。たとえ一方的に押しつけられた呼び出しであれ、これに応じなければ事態は暗転していくばかりだ。逃げ出せば家族に迷惑が及ぶ上、自分自身も多くの物を失うことになる。
 義務付けられている対抗戦の放課後練習は、体調不良を理由に休むことにした。これまで生真面目にメニューをこなしてきたことが功を奏し、監督の霜山教諭――もともと男子テニス部の顧問をしている男だ――は同情した様子で帰宅の許可をくれた。彼は十何年か前の白芳の卒業生であり、生徒や候鳥会に好意的な姿勢をとっている数少ない教師の一人であるらしい。その人柄は、テニス部の部外者である中原たちに丁寧で熱心な指導をしてくれたことからも窺える。
 だが、世の中には彼のような人格者ばかりがいるわけではない。通学簿を受け取ると、中原は重たい足取りで校舎を後にした。これからのことを考えると身体が小刻みに震え、恐怖のあまり吐き気をもよおしてくる。
 呼び出し相手の要求は酷く抽象的で、放課後に白芳の東にある路地裏に来いというものだった。具体的な時間指定がないため、一口に放課後といっても様々な解釈の仕方が出てくる。場合によっては、かなり待たされることになりそうだった。しかし、のんびり対抗戦の練習に参加して相手を待たせるよりかはましである。彼らは恐らく、中原のために無駄な時間を費やすことを快く思わないだろう。
 白芳の東側には、竹林や青空駐車場、古い民家などか疎らに散る過疎的な地帯が広がっている。これを更に東に進み飛鹿川を渡ると、打って変わって閑静な高級住宅街 <飛鹿区> に入るのだが、どちらにせよ、昼間であってもあまり人気のない一帯であることに変わりはない。大勢で一人の高校生を取り囲み、殴る蹴るの暴力や脅迫行為を行うには打ってつけの場所だろう。市の西端に広がる倉庫街も捨てがたいだろうが。

 約束の場所に辿りついたのは、一六時二八分だった。春真っ盛りだというのに木枯らし吹き荒れる晩秋のような季節感が漂う所で、人の気配はおろか生命の息吹ともいうようなものが一切感じられない。周囲に視線を巡らせても、目ぼしいものといえば遠くに見える背の高い集合団地がせいぜいだった。辺りには枯れ萎れたような小麦色の雑草が疎らに生えており、そうでないところには一般に貸し出されていると思わしき小さな農園やビニールハウスなどがポツポツと点在している。ここ一〇年、エンジンをかけられた気配のないサビくれた乗用車が置き捨ててある駐車場などもあるが、そのスペースのほとんどは有効活用されている形跡がなかった。都会の駐車場事情を嘲笑うかのような眺めだ。
 しばらく様子を窺ってみたが、指定場所の範囲が広すぎるため確かなことは言えないものの、先客が待ちうけているような様子はなかった。相手の容姿はもちろん名前すら知らない状況では、声を出して捜し求めることもできない。時計の文字盤を睨むか、薄汚れた電柱に張りつけられた番地表示を確認するくらいしか中原にできることはなかった。
 結局、この日の最後の幸運は、連中が時間にルーズでなかったことだったのだろう。
 背後に人の気配を感じたのは、それから幾らもしないうちだった。もちろん、中原は待ち合わせの相手であることを疑わなかった。が、振り返ってそれを確認しようとした瞬間、肩甲骨の間あたりを強い衝撃が襲った。肺から一気に空気が吐き出され、無意識に呻き声が上がる。前のめりに倒れこんだせいで掌をすりむいた。
 咳き込みながら身体を起こし改めて振り向くと、そこにはラフな私服姿の若い男が三人立っていた。どの顔にも見覚えはない。同じ高校生かもしれないが、或いは一〇代を終えた人間である可能性もあった。
 確かなのは、彼らが白丘明芳学園の生徒ではないということだった。少なくとも、ダブついた黄色い服――ストリート・ファッションというのだろうか――の男は、手入れが行き届いてはいるものの濃い顎ひげを生やし、長いもみあげと一体化させている。これは白芳において明確な校則違反だ。風紀委員や生活指導の教員に見つかれば、校門から先には進ませてもらえないだろう。

「ちゃんと来たじゃないの。感心、感心」
 一人が幼児をあやすような口調で言うと、連中は何が可笑しいのか顔を見合わせながら笑い声をあげた。
「ごめんねえ、いまの足が滑っただけだから」
 艶のある黒髪を女性のボブカットのように切り揃えた男が、にやつきながら言った。
「コイツ、バランス感覚ねえんだ。事故だと思って許してやるよな?」
 竹刀を持った男が、先の割れた剣先で地面を軽く叩きながら中原に顔を寄せる。NOと言わせてもらえるような圧力ではなかったため、中原は渋々首を縦に振って見せた。
「おお、許してくれるか。中原君、優しいねえ」
 黄色い服のひげ男が言うと、三人は再び声を揃えて弾けるように笑い出す。
 もちろん中原には、彼らに追従して一緒に微笑むつもりなどなかった。それより思考を働かせなければならない。暴力ではどうやったところで太刀打ちできる見込みはないのだ。ならば、武器になるのは機転と頭脳だけである。それらを駆使して、家族に迷惑がかかるような行為は今後一切避けるよう約束を取りつけなければならないのだった。
 だが、彼らを相手にそうした交渉をして意味があるのか。中原は疑問に思い始めていた。電話口で「はじめまして」という言葉を聞いた時に気付いて然るべきだったが、彼らは白芳で嫌がらせをして来た連中とは明らかな別口である。この時間から私服でうろつけること、高校生というには多少老けて見えることなども、それを証明しているような気がした。
 だとすればこの三人組は何者なのか。どんな理由で中原を標的に選び、どのような方法で電話番号を知ったのか。白芳の生徒でないにも関わらず、なぜ候鳥会への密告に関する話を持ち出してきたのか――。
 だがそれらに関する思考は、男たちの声によって強引に中断させられた。

「中原君、友達と上手くいってないんだって?」
 ボブカットの男は一歩距離を詰めると膝を折り、しゃがみ込んだままの中原と視線を合わせた。世間話でもするような口調と共に、掌で肩を何度か軽く叩かれる。
「駄目だなあ。男友達だったら、ちょっとくらい乱暴なスキンシップとかあるでしょ。さっき、おれが足滑らせてみたいにさ。それくらいのことで、お忙しい先生がたや……なんだった、あれ。ほら、教師会じゃねえ」
 助けを求めるように後ろの仲間たちの顔を振り仰ぐと、黄色い服の男が「校長じゃなかったか」と片方の眉を吊り上げながら言った。
「それそれ、校長。校長会。なんか、生徒を勝手にクビにできたりする凄いやつらなんだって? そういう偉い人たちの手を煩わせちゃだめでしょ。君の友達はスキンシップのつもりだったんだからさ、それをイジメとか決めつけられてチクられたりすると傷つくわけよ」
「それには誤解がある」
 唾を飲みこみ、中原は意を決して顔を上げた。正面から対峙する男達を見据える。声は震えていなかっただろうか。顔は青ざめていないか、恐怖に引きつってはいないか。自分は交渉のためにここに来たのだ、と己に何度も言い聞かせた。
「僕は候鳥会に密告なんてしたことは一度もない。そうするほど彼らに期待なんてしてなかった。役員の顔も名前も知らなかったし、先週になって彼ら側から声をかけてくるまで口をきいたこともなかった」
「あぁ?」ボブカットのにこやかな笑顔が一瞬で霧散し、怒張したどす黒いしかめ面にとって変わる。次の瞬間、左の頬が弾けるような音を立てて高熱を発し始めた。視界が鈍く揺れ、閃光に焼かれたように白く染まる。何度も経験してきたため平手で殴られたのだということはすぐに分かった。
「なに言ってんの、お前。おれらが知らないとでも思ってるわけ?」
「てめえがチクったんじゃなけりゃ、何で連中がお前のとこに来んだよ」
 男の一人が竹刀を突き出し、中原の左肩を鋭く小突いた。バランスを崩されたため、さきほど擦りむいた手で何とか身体を支える。痛みを噛み殺しながらなんとか体勢を整えると、中原はありたけの気力を奮い起こしてもう一度顔を上げた。
「僕は嘘をついてない。本当に、彼らとは先週の水曜日にはじめて会ったんだ。それ以前に候鳥会と接触しておいて、そうしなかったなんて言う理由はない。そんな卑怯なことはしない」
 その言葉が三人の質問に対する答えになっていないことに気付いた中原は、急いで付け加えた。
「うちの学校には委員監査会というのがいて、自分が委員だということを公表せずに生徒の素行を監視しているという噂がある。教師が生徒に体罰を振るったり、誰かが校則違反や苛めを行った場合、候鳥会に報告することになっているらしい。もしそういう役職が実在するなら、候鳥会が向こうから僕の存在を察知することもあり得ると思う」
 意外にも身なり以上の知能を持っていたらしく、彼らは中原の言葉が意味するところをすぐに理解した。それに値すると考えたのか、協議するように顔をつき合わせ小声で二、三言やりあう。事前に仕入れていなかった情報に触れ、少し困惑しているようにも見えた。

 相手の注意が自分から逸れている間、中原は束の間の思考時間を確保できた。これを利用し、彼らがどの勢力に属し、何を目的として動いているのかを改めて考察する。最初は例の <熊男> たちと関係しているのかとも思っていたが、可能性は残されるものの確信を抱けるほどの裏付けは得られていない。
 ただ、候鳥会の名がすぐに出てこなかったことなどを考え合わせれば、もうこの三人が白芳の関係者でないことを疑う余地はない。だとすれば誰かから情報を得て、その誰かの指令で動いているという考え方もできる。しかし <熊男> や他のクラスメイトなどは、あくまで校内という限定された小社会――コミュニティ――でのみ影響力を持つ小者だ。学外の、しかも年長者と思われる人間を顎で使うような真似はできないだろう。
 嫌な予感がした。優れた情報収集能力、年代や学区を越えて非行少年グループを動員できる力、巧妙な計算が見え隠れするやり口。全てが裏で一つに繋がっているのだとすれば、その糸が収束していく先にはかなり大きな何かが存在することになる。それは明らかに高校生のレベルを超えた何かだ。
 その反面、こうした危惧が丸きりの杞憂である可能性も高かった。何故なら、この三人を動かしている人物は明らかに候鳥会の介入を恐れている。中原を呼び出し、こうして脅しをかけているのもその表れだろう。連中は、白芳の中で何かをやりたがっているに過ぎないのだ。それ以外に候鳥会を警戒する理由などない。
 シンプルに考えるなら、候鳥会が動き出したことに危機感を抱いた <熊男> のような連中が、中原に脅しを入れるよう学外にいる知り合いを拝み倒した、というような結論が出てくる。この三人が白芳の卒業生だとするならば、 <熊男> たち現役高校生の先輩という立場だ。両者間に繋がりがあってもおかしくないし、見返りを約束すれば動かすことも難しくないと思われた。
「――オイ」
 低い声と共に左耳を強く引っ張られ、思わず悲鳴を上げそうになった。気付くと何らかの結論を出したらしく、三人は再び中原に視線を集めている。想定外の事態で精神的優位を失ったか、或いはこれから本題に入ろうとしているからか、彼らの表情はには先ほどまでの余裕が感じられなかった。
「お前、嘘ついてんじゃねえだろうな」
「嘘なんかついてない。僕は他人に迷惑をかけたくないんだ。巻きこみたくない。教師や生徒会を頼れば家族にも話が伝わってしまう。それは僕の本意じゃないし、色々な意味で不都合なんだ。だからいままで全部、自分で処理するようにしてきた。これからもそのつもりだった。候鳥会が出てきたのは僕にとっても予想外のことだったんだ」

「どっちでも、もう関係ねえんだよ」
 竹刀の男が手にした得物で地面を思いきり叩いた。そうなることを計算に入れて先をバラした竹刀は、甲高い破裂音を周囲に木霊させる。あれが自分の身体に振り下ろされたとき、どのような痛みが襲ってくるのだろう。考えないようにしたかったが、視線と意識を竹刀から引き剥がすのは困難だった。
「校長だか教頭だかが出しゃばってきたことに変わりないんだろうが」
「ま、そういうことだわな」黄色い服が肩を竦める。
「その辺についちゃよ、もう済んだことだしこの際勘弁してやろうや。だいたい俺たちの目的は、中原君と学校のお友達との仲直りだしな」
 そう言うと、にっこりと微笑んでボブカットは立ち上がる。そしておもむろに右足を後ろに引くと、サッカーのペナルティキックを決めるように中原の腹部を思いきり蹴り上げた。
 笑顔に油断させられていたことが災いし、凄まじい衝撃が襲ってきた。大砲の直撃で腹に大穴を空けられ、脳を真っ赤な火箸で掻き回されているかのようだった。内臓全てが食道を逆流して口から飛びてて来るような嘔吐感が込み上げてくる。痛みのあまり呼吸も出来ない。出す気のない獣のような呻き声を上げ、中原は辺りをのた打ち回って苦しんだ。胃液か血か唾液か、自分でも何なのか分からない何が唇の端や鼻から糸を引いて流れ落ちていく。目尻からは涙も溢れ出ていた。
「うわ、痛そうだな。お前、これはさすがに酷くないか」
 誰かが頭上で囁いている。酷く歪んだ音声だった。耳ではなく、直接頭蓋骨の中に反響して聞こえる。意味をもった言葉であることは分かるのだが、苦痛で発狂しそうになっていた中原にはそれを理解することができなかった。
「普通だろ。スキンシップよ、スキンシップ」
「馬鹿、ちゃんと予告してからやってやれよ。おい、行くぞ中原君」
 次に訪れたのは、熱したナイフで肌を斬り裂かれるような灼熱感だった。同時に拳銃の発砲音のような乾いた高音が二度、三度と鳴り響く。背中の肉が沸騰して弾け飛んだような気さえした。腹と背を同時に痛めつけられ、中原はもう痛みに痙攣しながらその場にうずくまることしかできない。
「お前みたいなクズに勝手な行動されるとよ、困る人間がいるんだ。分かるか、おい」
 前髪を掴まれ、顔を強引に持ち上げられた。真正面から烏の濡れ羽色をした瞳が中原を覗いている。痛みで意識が混濁する中、もうそれが三人のうち誰のものなのかすら判別できなかった。
「もう痛い目あいたくねえだろ。家族に手、出されたくねえんだろ。学校でネチネチ苛められんのは嫌だもんなあ」
 また頬を何度か平手打ちされたようだったが、もう痛みは感じられなかった。圧倒的な暴力を前に、理性や意志の力など何の役にもたちはしない。思考力は奪われ、闘争心や反骨精神は萎えていく。いま中原に唯一分かるのは、血の味が口内に広がり始めたという事実だけだった。

「でな、中原君。お前、今度の対抗戦でテニスやるよな。午後二時のダブルス最終戦で、ペアはテニス部の織田健治ってやつだろ」
 耳には聞こえていた。だが、頭には届かなかった。なぜ、自分ばかりがこんな目にあうのだろう。この時間はいつになったら終わるのだろう。どうすれば彼らは満足するのだろう。何の罪で自分は他人からこうまで人格を無視され、クズ呼ばわりされ、地面を這いつくばらされているのか。何が悪い。生き方か、生れ落ちたことか、存在そのものか。
「規約によると、ダブルスの試合で部員同士はペアになれないそうじゃない。でもお前は、中坊のとき軟式だかなんだかで経験積んでるから、丸っきりの素人ってわけでもないんだろ。でもって、ペア組む織田は白芳と沢野井を合わせて考えてもナンバーワン・プレイヤーなんだってな。ある意味ふたりとも経験者、これって最強じゃねえか?」
 最強ペア、最右翼、本命、一勝確実。彼は表現を様々に変え同じことをアピールする。
「ところが、そのお前たちが本番じゃ負けちまう予定なんだな。織田君は相手ペアの挑発に血が上ってミス連発。もしかしたら、試合途中に手か足を捻っちまうかもれしない。ま、そういう話になってる。なんにしても、やる前から結果が分かってた試合でまさかの大波乱だ。対抗戦も盛りあがりそうだろ?」
 笑い声が複数頭の中に響いてきた。恐らく三人が腹を抱えているのだろう。こんな風に誰からも嘲笑われて、最後まで価値を認められず終わるのだろうか。中原均はそうなるしかないのだろうか。
「でもな、お前が張り切りすぎると万が一ってこともある。本命が前評判通り勝っても全然面白くねえだろ。負けた方が盛り上がるときは、負けるように努力するのがショーマンってやつだ。――そこで中原選手には織田君の努力を支援してやって欲しいのよ。良い試合を演出しつつ、最後には僅差で負けていただきたいわけ。分かる?」
「聞いといた方が良いぜ。お前みたいなのは、代々この話に組み込まれることになってんだからさ。しかもおれたちって友だちじゃん。頼み聞いてくれるよな」
「もちろん、こっちの話を聞いてくれればお前にも特典があるわけよ。対抗戦を予定通り盛り上げてくれるとアラ不思議、クラスメイトたちの苛めはパッとなくなり平和な学園生活が戻ってまいります。家で爆竹が鳴ることもなくなるんじゃねえ?」
 再び幾つかの笑い声が木霊して聞こえたとき、自分の中で何かが形になったのを中原は感じた。激痛や呼吸困難、恐怖、絶望感などに邪魔されてそれが何なのかは判然としない。だが、自分が一つの事実を悟ったことだけはわかった。
「じゃあ、そういうことだから。くれぐれもよろしく頼むね。とち狂って試合に勝ったりされるとよ、スキンシップがいきなり厳しくなったり、イタ電とか家が燃え出したりとかするかもしれないから気をつけろな」
「僕たち傷つきやすいから裏切ったりしないでね」
 その木霊を最後に、頭蓋の中を跳ねまわっていた音が遠ざかっていく。
 ――やがて静けさが訪れた。


to be continued...


■履歴

脱稿2004年09月03日
初出[phase.13]2004年11月06日
初出[phase.14]2004年11月09日
初出[phase.15]2004年11月13日

本作は書き下ろし作品です。

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