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106
gymkhana
対抗戦



16.

 学外テニスコートから白芳までの道のりを一気に駆け抜け北門に辿りつくと、大津はようやく歩調を緩めた。弐棟長が血相を変えて中央会館に飛びこんでいった、などという目撃証言が出ては困る。額に滲み始めていた汗を拭い、呼吸を整えながら校内に入った。大したショートカットにはならないが、業者・職員用の駐車場を斜めに横切る、中央会館への最短距離を選ぶ。
 この中央会館というのは、地上三階、地下一階からなる箱型のモダンな建物で、中には購買部や学生食堂、職員室、校長室、理事長室などがひしめいている。白芳の関係者なら生徒や職員、男女を問わず誰もが一度は足を踏み入れる施設だ。
 目的の保健室はこの地上二階にあった。大津は使用頻度の低い西側勝手口から館内に入り、階段を上って二階を目指した。中央会館は土足で上がりこめる数少ない施設であるため、校舎に戻って上履きをとってくる必要も無い。
 保健室の小さなドアの前に辿りつくと、ノックをしてから扉を開けて中に入った。室内は貧相なドアから想像するよりも幾分広く、いつもと変わらない不可思議な温かさに包まれていた。左側の壁には清潔で真っ白いベッドが二つ並んでおり、――今は開け放たれているが――薄いカーテンで個々を隔離できるようになっている。その向かい側の壁には、教室で生徒が使用するものと全く同じ規格の机と椅子のセットが三つ置かれていた。脇には教科書や教材などを収めたキャビネットも見える。純粋な保健室ではなく、教室と何らかの形で融合してできた部屋のような印象があった。
 これは生徒会と養護教員たちの努力が作り上げたものだ。白芳は候鳥会の方針もあり、不登校児童などの支援に力を入れている。その結果、システムとして採用することにしたのが <保健室登校> だった。クラスメイトのいる教室にどうしても足を運ぶことができない、という生徒のために保健室を避難場所として解放、段階的な訓練を行って教室復帰を目指すのが <保健室登校> の主眼とするところである。つまり、自宅と教室との中間点として保健室を利用しているのだ。
 現にいじめや人間関係の問題で不登校状態に落ちいった生徒が、この保健室登校を通して何人も教室に帰っていき、そして卒業していったことを大津は知っていた。この部屋に並べられた学習デスクはその証なのだ。

「あ、棟長さんだ」
 久しぶりに訪れた保健室の中には、全部で三人の人間がいた。そのうち唯一面識のない女子生徒が笑顔で大津のもとに駆けよってくる。彼女は「本物だ」とか「顔が恐い」だとか自分勝手な感想を呟きつつ、ちょこまかと大津の周りを動きまわって初めて見る弐棟長を色々な角度から観察しだした。
 得体の知れない娘ではあるが特に危害を加えてくる様子はない。候鳥会三役をアイドルか何かのように認識している生徒が意外に多いことを大津は経験上よく知っていた。好きにさせておくことにして、保健室を任されている奥村教諭と中原の元へ向かう。
 二人は安物のパイプ椅子に半ば向かい合うように腰掛け、香りから察するに珈琲だと思われる液体を飲んでいた。奥村愛用のデスクには女子生徒のマグカップも置かれていたが、こちらには口をつけられた形跡がない。
「ご無沙汰してます、奥村先生」
「うん、久しぶり。対抗戦の準備はどう?」
 大津が特に問題となるようなことは起こっていないと答えると、彼女は自分のことのように嬉しそうな顔をした。
 奥村さくらは三〇代に入ったばかりの若い教員で、五年ほどまえから養護の教師として白芳に勤めている。坂本雅美ほどではないものの小柄な体格の女性で、大津はそのキャラクターのことを良く知らなかったが、生徒の間では <ガチャピン> に似ていると評判であるようだった。どうも、いつも眠たそうな顔をしているあたりが両者の類似点であるらしい。
 しかし、何に似ていようと――たとえそれが緑色の怪物であっても――奥村が尊敬すべき教員であることに変わりはなかった。若さゆえの情熱か或いは本人の気質なのか、彼女はたいへんに勉強熱心な人物で、あらゆることに努力を惜しまない。不登校児童や悩みを抱えた生徒たちの良きアドヴァイザーとして理想的な働きをしてくれているし、彼らや候鳥会のために理解のない教職員たちと意見を戦わせてくれることもある。そのせいで孤立傾向にあるようだが、本人はそのことを全く気にしないでいるようだった。
「中原。お前、大丈夫なのか。倒れてここに担ぎこまれたって聞いたが」
 改めて問いただすまでもなく、中原は元気そうに見えた。少し顔色が悪いようにも感じられるが、表情は平素と何ら変わりない。そもそも深刻な問題があるようなら奥村が無理やりにでもベッドに寝かせているはずだった。
「本人の話なんかから総合して考えると、軽い貧血だったみたいね」
 長年の経験から、目の前の少年が控えめで口下手な人間であることを察したのだろう。中原に代わって奥村がそう説明した。
「もともと体調が良くなかったんで、対抗戦の練習をパスして家に帰る途中だったそうだよ。ちゃんと通学簿にも許可をもらってるし、念のためにテニスの監督をやってる霜山先生にも確認したけど、彼もそういう届け出を受けたって言ってたから間違いない。食欲がなかったから朝も昼も何も食べてないって言うし、そりゃ気分が悪くなっても無理はないよ」
 外傷は受身のときにできた手の擦り傷程度なので、具合が良くなれば帰宅して構わないのではないか、と彼女は付け加える。
「そうなのか、中原」
 本人に問うと、彼は小さな声でそうだと答えた。
「大津君の周りをブンブン飛び回ってる、そこの小動物が担ぎこんで来たんだよ」
 奥村は苦笑しながら、大津にまとわりついている女子生徒を眼で示した。少し驚きながら大津がそちらに視線を向けると、娘はようやく自分に皆の注目が集まっていることに気付いたらしく、動きをピタリと止めて照れたような笑みを浮かべる。
 恐らく一年生だろう。改めて見ると、中学生と見間違えるくらいのあどけない顔をした少女だった。柔らかな丸みはあるものの、体つきに女性らしい曲線はまだ現れていない。より多くの情報を掻き集めようとするかのように瞳は円らかで大きく、好奇心いっぱいに見開かれていた。奥村の言うように、エネルギッシュで小動物のような愛らしさを感じさせる娘である。

「君が中原の面倒を見てくれたのか?」
「面倒を見たってほどのことでもないですけど。家に帰ってたら、腐乱死体みたいなのが落ちてたんで近付いてみただけです。生きてたんで、念のために保健室に連れてきました」
 彼女は億面なく大津の顔を真正面から覗き込み、嬉しそうに言った。
「棟長さんって、何でそんなに顔怖いんですか」
「放っておいてくれ。それより、詳しく話を聞かせてもらいたいんだが」
「私、あっちの方の――」と、女生徒は東の方を指差す。「青空駐車場みたいなところで人が倒れてるのを見つけたんですよ。本人は大丈夫だから構わないでくれって言ってましたけど、ヘロヘロだったし具合が悪そうだったから、少し休ませた後でここに連れてくることにしたんです。肩を貸してあげたけど、時間がかかったし凄く疲れました」
 奇妙な話だった。中原が対抗戦の練習を休んで帰宅することにしたのは事実なのだろう。彼が通学簿に不正な細工をするとは思えない。しかし、資料によると中原は白芳の南西にある霞台南地区に住んでいるはずだ。倒れているところを発見された東側は、自宅と正反対の方向である。帰宅するために学校を出た彼は、なぜ東に向かったのだろう。
 中原は何かを隠しているのかもしれない。そのことを追求してみるべきか大津は迷った。この場では相応しい話題ではないし、部外者が多過ぎる。たとえ喋るべきことがあったとしても、彼は口を割らないだろうと思われた。
「あの、用も済んだみたいなので、私そろそろ帰ってもいいですか」
「おお、そうだった。そうだった」遠慮がちにかけられた女生徒の言葉に、奥村は慌てて頷いた。「大津君の方で何かないんだったら、私は構わないよ」
「俺も今は特にないな。もしかしたら後日、また話を聞くことになるかもしれないが……とにかく今日のところはもう帰ってもらって構わない。ごくろうさん」
「よし、じゃあ帰ろうっと」
 少女はベッドの上に放り投げてあった学生鞄を手に取り、戸口へ駆け寄った。ドアを開けて廊下に滑り出ると、失礼しましたと元気に言って小さく頭を下げる。中原が椅子から立ち上がってそれに応じたのが気配で分かった。
「あの、棟長さん。棟長さん」
 そのまま姿を消すかと思いきや、彼女は小さくドアを開けた隙間から手で大津を招いている。
「どうした?」
「ちょっとお話があるんですけど」
 彼女と人目を忍んで話さねばならないことになど全く心当たりはなかったが、この手合いは下手に逆らうと余計に面倒なことになる。中座の非礼を奥村に詫びてから、大津は渋々と彼女のもとに向かった。廊下に出るとドアを閉めるよう指示されたので、言われた通りにする。彼女はそれを見届け、さらに周囲に人の姿がないことを確認してから慎重に口を開いた。
「棟長さん。あの男子、候鳥会に入るんですか?」
 予想もしていなかったその言葉に、大津はひどく驚かされた。中原を <弐棟長補> として迎え入れようという話は候鳥会の中でしかされていない。外に漏れると騒動に発展しかねないため一種の機密事項として扱っているくらいだ。彼女がそのことを知っているはずはなかった。
「どうしてそう思う?」平静を装って訊き返す。
「だって棟長さん、あの男子が保健室に担ぎこまれたって聞いて、学校の外から駆けつけてきたんでしょう? 良く知っている人だって証拠じゃないですか」
「なんで――」大津は更に混乱した。「俺が学外に出てたことを知ってる」
 少女は意外な質問を受けたような顔で、小さく首を傾げた。なぜそんな分かりきったことを訊かれるのだろう、とでも言いたげだった。
「窓越しに人影が見えたから分かったんですけど、棟長さん廊下の左側から保健室に向かって来ましたよね。それって、西側の通用口からこの建物に入ったってことでしょう」
 確かに彼女の言う通りだった。保健室には廊下に面した壁に磨ガラスの窓が取り付けてあるため、大津の影を見てどちらの方向からやって来たのかを知ることは可能だろう。その方角によって、西側の通用口を利用したのか、正面玄関を利用したのかを予測することもできる。
 それから彼女は、中央会館に来る人間の多くが南側の正面玄関を利用する事実を指摘した。会館は学校敷地内の一番北にあるため、ほかの施設からだと正面玄関を利用するのが一番手っ取り早い。西側の通用口を使うのは、北門や西門から入ってきた人間だけだという。
 いずれの門を利用したにせよ、そこから入ってきたということは、つまり大津が外に出ていたことを意味する。

「なるほど、良い洞察力だ」大津は本心から言った。「でも、それが俺の後継ぎ問題とどう繋がるんだ」
「今は対抗戦の準備で忙しいから、棟長さんは遅くまで仕事をしなくちゃいけないと思うんですよ」
 そういう立場にある候鳥会のメンバーが外に出ていたのなら、対抗戦の打ち合わせのために沢野井高校に出張してたか、学外にある野球場やサッカー場の見回りに行っていたとしか考えられない、と彼女は言った。
「棟長さんは、私があの男子を保健室に連れてきてから三〇分もしないうちに駆けつけてきましたよね。沢野井と白芳を三〇分で行き来するのは難しいから、たぶん近くの練習場にいたんでしょう。一番近いテニスコートだったかもしれない」
「そうだ、確かにテニスコートにいたよ」
 大津は舌を巻きながら認めた。マイペースでふわふわした人間に見えるが、この娘は間違いなく頭が良い。彼女がどれ程の人間なのか、少し興味が沸いてきていた。
「それにしたって早いですよ。テニスコートからここまでは、走ったとしても一〇分や一五分はかかりますよね」
 だとしたら、中原を保健室に連れ込んでから幾らもしないうちに、その情報が学外にいる大津の元へ伝えられたことになる――と彼女は主張した。中原を以前からマークしていて、何かあったら連絡するように予め手配していたとしか思えない手際の良さだと結論づける。
「俺はちょうど北門から外に出ようとしていた所だったのかもしれない。或いは、歩いて数分のところにいたとか。そこに連絡が入れば、短時間で駆けつけることはできるぞ」
「保健室に入って来たとき、棟長さんは少し息を切らしてましたよね。で、その手を見る限り――」
 そう言って、彼女は大津の手を指差した。
「棟長さんは、格闘技か何かを長いことやってる人だと思うんですよ。顔も怖いし」
「せめて人相が悪いくらいにしといてくれるか。できれば眼光が鋭い、とかな。あんまり女子供に恐い恐い言われると、さすがに傷つくんだが」
 彼女は一瞬驚いたように眼を見開くと、腹を抱えて笑いながら謝罪の言葉を口にした。それから何度か深呼吸をして目尻に溜まった涙を拭ってから、改めて大津の手が拳骨を意図的に鍛えようとした人間のそれであることを指摘する。
 大津は思わず自分の両手を掲げ見た。確かに第一関節と第二関節の外側が大きく変形し、平べったく広がってしまっている。強い衝撃を長年に渡って与え続けると、身体の部位はそれに適応しようとして自らの姿を変えるものだ。スラックスで隠れてはいるが、足のすねにも似たような現象が起こっていることを大津は知っていた。
「慧眼だな。まあ、これだけおかしな手をしてりゃ誰でも気付くものかもしれないが」
「やっぱりそうなんだ。参考までに何をやってるんですか?」
 大津は小学校時代の四年間を少林拳に、中学から高校二年までの五年間を空手の稽古に費やしてきたことを教えた。候鳥会入りを切っ掛けに部は辞めたが、それでも個人的な鍛錬は今でも続けている。 <拳立て> と呼んでいる拳で身体を支えながら行う腕立て伏せも、継続して行っているメニューの一つだった。伝統派の空手は寸止めが基本だが、それは直接打撃の破壊力を恐れるからであり、拳の強度に自信がないからではない。
「棟長さんくらい長く身体を鍛えている人は、ちょっと走ったくらいじゃ息を乱しませんよ」
 乱れてもすぐに回復するだろう、と彼女は言った。したがって、大津はある程度の距離と時間を走ったと考えるべきだと続ける。それは学校の近くにはいなかった証拠になるだろう。
「俺がそうまで必死になるのは、あいつが重要人物だから……ってことか。生徒会役員選挙も近いし、それで師光候補だと考えたわけだな?」
 少女はにっこりと笑って、元気良く頷いて見せる。大津は呆れながらそれを見詰めていた。日吉泪がたびたび似たようなマジックを披露してくれるが、それを可能とするためには頭の回転が速いだけでなく観察力にも優れていなければならない。
「でも残念だったな、あいつは苛められっ子なんだよ。だから生徒会関係者に注意を促すように指示を出してたんだ。集団行動に馴染めない奴は、こういうお祭り騒ぎの時に集団から弾かれやすいからな」
 対抗戦や文化祭のようなビッグイヴェントの前後に、苛めを受けたり不登校になったりする生徒が生まれやすいのは事実だった。皆が団結しようとしている時に輪の中に入っていけなかったり、周囲と自分との温度差に気付いたしまったとき、その生徒はクラスの中でやっていく自信を失う。集団の中に、自分の居場所を見出すことができなくなってしまうのだ。

「そっちの方だったんですか」
 少女は悲しそうに呟いて、項垂れるように顔を伏せた。
「こっちの可能性も頭の中にはあったのかい?」
「――はい」彼女は落ちこんだ様子で言うと、顔を上げて大津と視線を合わせた。「同じくらいの可能性があるなら、しあわせな方をとりたいじゃないですか」
 大津は微笑みかけた。が、代わりにこの話を口外しないよう彼女に頼む。中原のためでもあったし、候鳥会や一般生徒たちのためでもあった。
「もちろん、誰にも言いません。私は見かけによらず口にチャックは得意ですから、安心してください」
 大津は今度こそ微笑を浮かべた。廊下に連れ出してこの話を持ち出した配慮からも、彼女の言葉は信用できる。
「ところで、あの男子はなんていう人なんですか?」
「一年の中原均だ。同じ学年だろう? 友達募集中のはずだから、これを機会にぜひとも仲良くしてやってくれ。小躍りして喜ぶだろうよ」
「棟長さんは友達募集してないんですか?」
「俺とも仲良くしてくれるつもりか。博愛精神に満ちてるな」
「棟長さんも博愛精神を発揮して、私の友達を注意して見てあげてくださいね」
 誉め言葉を笑って受け取った後、表情を引き締めながら彼女は言った。
「たぶん、お腹か背中を痛めてると思うので。私の勝手な想像ですけど」
 根拠を訊いてみたところ、ここに連れてくるまでの間、中原が何かを庇うような歩きかたをしていた、と彼女は証言した。その割に手や足は不自由なく動かしていたと言う。痛めた胴体を振動や負担から保護するため、慎重に歩こうとしていた結果なのではないか――というのが彼女の推論らしかった。
「分かった、気をつけて様子を窺うことにする」
 少女はその言葉を聞いて嬉しそうに眼を細めると、別れの言葉と共に小さく頭を下げた。協力に感謝の言葉を送り、駆け去っていく後姿を見送る。廊下の角を折れてその背中が見えなくなってとき、大津は彼女の名前を聞きそびれたことに気付いた。追いかけることもできたが、縁があればまた顔を合わせる機会もあるだろうと考えてそのまま保健室に戻ることにする。
 ドアを開くと、部屋では中原が帰宅の準備をしていた。奥村が気分が悪い時は無理をせずに保健室を利用してよいこと、その他にも問題があれば何でも自分に相談してかまわないことなどを言い聞かせているが、中原がそれを素直に受け入れるようなタイプだとは思えない。恐らくは彼女もそれを理解しながら、しかし職務として諭さざるをえないのだろう。
「お、色男が戻ってきた」大津の姿を見て、奥村が悪戯っぽく笑った。「どんな内緒話をしてきたの?」
「いろいろと仲良くしてもらう約束を取り付けただけですよ」
「あんまり色んな所で女の子泣かせてると、そのうち酷い目にあうよ」
 刺されるようなことがあっても治療はしてやらない、と奥村は意地悪く言う。
「全く相手にされないより、御婦人に恨みを買うほうがなんぼかましですよ」
 大津は苦笑いしながら二人のもとに歩み寄り、中原の背中をさり気なく叩いた。
「おう、もう帰るつもりか?」
 手が触れた瞬間、中原の身体が弓なりに仰け反った。束の間のことだったが、相貌に苦悶の表情がよぎる。中原は素晴らしい精神力を発揮してすぐに平静を装って見せたものの、はじめから反応を予期して観察していた大津の眼は誤魔化せない。奥村も異変を察知したのか、息を呑んで表情を固くした。
「ひょっとして、君――」
「奥村先生。ちょっと中原と二人で話をさせてもらっていいですか」
 大津が割って入ると、奥村は思案するように黙った。脳裡で様々な計算や状況のシミュレートが行われているのだろう。しばらく中原と大津の間で視線を往復させた彼女は、やがて諦めたように小さく嘆息した。そして白衣のポケットからプラスティック製のタグがついた鍵を取り出し、大津に差し出す。
「情けないけど、今回は先を越されちゃったからね」奥村は微かに肩を竦め、自嘲的な笑みを浮かべた。「話が終わったら、鍵をしめて渡しに来て。下でお茶でも飲んでるから」
「先生、ありがとう」
 言葉にしなかった確認事項を眼でやりあってから、彼女は部屋を出ていった。元から静かな室内は、途端に時の流れから取り残されたかのような静寂に包まれる。頭上の蛍光灯があげる密やかな唸り音さえ聞こえてくるようだった。
 大津は先ほどまで奥村が暖めていたパイプ椅子に腰を落とし、女子生徒が残していったマグカップを手に取った。ブラックコーヒーが苦手だったのか、やはり唇が触れた形跡は全く無い。大津は冷えかかった中身を一口含み、奥村の使いこまれたスチールデスクにゆっくりと戻した。

「良い先生だろ。設立の経緯もあって、候鳥会ってのは伝統的に教師側と仲がよろしくないんだが、あの人は少ない例外の一人だな。保健室登校にも熱心に取り組んでくれてる」
 そうしようと思えばできたはずだが、中原は鞄をとって出ていこうとはせず、大津の話を黙って聞いていた。
「学校ってのは人間が大勢集まるだけあって、色んな生徒がいるもんらしくてな。保健室を教室代わりにして、なんとか学校を卒業できたって人間もいるんだ。――まあ、転校を繰り返してきた俺や保健室を避難場所にしてる連中なんかは、お前から見ると環境から尻尾巻いて逃げ出した人間にしか見えないのかもしれないけどな」
「――貴方は強い人だ」中原は静かに言った。
「へえ」大津は思わず片方の眉を吊り上げた。「お前みたいな男からそう言ってもらえるとはね。少しは自惚れてもいいのかな」
 椅子の背もたれに体重を乗せると、天井を見上げながら頭の後ろで両手を組む。そして、自分がこうしたことを口にすると大問題に発展しかねないが、と前置きした上で続けた。
「本音を言うと、俺は保健室登校だの引きこもりだのには何の興味もねえんだ。不登校の奴だって、どうなろうが知ったことじゃない。候鳥会がそういう方針を立てていて、棟長の義務としてそうだからって理由で取り組んでるだけであってな」
 大津は体勢を戻して一口コーヒーを啜ると、中原の反応を横目で窺った。彼は表情を変えず静かに耳を傾けている。ただ、こちらの話に興味を抱き始めていることが雰囲気から感じられた。
「どっかに閉じ篭もって、誰にも会わず何もせず。それで人間、生きていけるわけないだろ。結局、この世は弱肉強食。生きていくには弱過ぎる奴らまで全員面倒を見きれるほど、候鳥会や人間社会には余裕なんぞねえ。
 不登校やら引きこもりが成立するのは、そいつの代わりに誰かが外に出て金を稼いでくる奴や、そいつのために食事を作って部屋まで運んできてくれるお人よしがいてくれるからだ。そんなマザー・テレサの生まれ変わりみたいな人間に依存しないと、日陰の少年少女は生きていけないわけよ」
 頭にこないか、と問いかけながら大津は中原に微笑みかけた。
「手足が一本もなくて動きたくても動けないっていうなら分かるけど、やろうと思えば何でもできる奴がそれで生きていくなんてさ。――まあ、俺の場合はコンプレックスとか僻みなんだろうけどな。自分には引きこもる家も、面倒見てくれる家族もいなかったもんだからさ。そういうのに守られてぬくぬくやってる人間が癇に障るってのが真相なんだろう」
 もちろん、候鳥会の誰もが大津と同じような考え方をしているわけではない。たとえば日吉泪や須賀裕樹はどちらかというと大津よりの論客だが、現壱棟長の坂本や先代孤舟、先代千草などはこれに真っ向から対立する思想を持っていた。会内部でも幾度となく激論が戦わされ、その度に方針が見直されてきたのだ。
 何が正しく、何をもって最高の選択とするのか。そうした答えは長い候鳥会の歴史の中でもまだ導き出されたことがない。この先も永遠に分からず終いなのかもしれなかった。
「だから、師光をやる資格なんて本当なら俺なんかにはない。むしろ、お前みたいな人間がなるべきなんだと思ってる」
 大きく息を吐き出すと、大津は居住まいを正して中原に顔を向けた。
「何があったんだ、中原。話せよ」

 中原は小さく俯いた。包みこむようにして持った紙コップの中を覗きこんでいるようにも見える。大津の声が室内の静謐に溶けこみ完全に消え去っても、彼は微動だにせずその姿勢を保ち続けた。どこからか、秒針が時を刻む音が聞こえてくる。グラウンド側の窓から斜めに射し込んで来る夕日に、室内を舞う埃が浮き上がって見えた。
 どれだけ沈黙の時が流れたのか分からなくなった頃、中原はようやく顔を上げて大津と眼を合わせた。
「僕は最初、中学を卒業すれば周囲の嫌がらせは自然消滅するものだと思っていた。でもそれは見こみ違いで、白芳に入学してからも質の違った嫌がらせを受けるようになりました」
 信じたくなかったが、己にそうした嫌がらせや苛めを生み出す原因が備わっていることを認めざるを得なかった、と中原は続けた。責任の全てがクラスメイトたちにあるのではなく、その一端は自分にも求めなければならない。そう考える必要に気づいたという。
「でも、彼らは僕が想像するより悪質だった。卑怯な人間だった」
 中原が明確な怒気を孕ませ、声量を上げてそう言い放ったことに大津は少なからず驚いた。付き合いは短いが、中原のようなタイプの男のことは良く知っているつもりだった。感情を内に閉じこめ、めったなことではそれを表に出さない。怒りさえ胸の内で静かに燃やすのが、この手合いのスタイルなのだ。
「――どうした。何があったんだ」
「彼らは周囲の人間をコントロールして、計画的に嫌がらせを行っていた。目的を持ってそれをやっていたんです。たぶん、主だった新入生を調査して適当な人間を選ぶような作業もやったんでしょう。結果として、今年は僕が選ばれた」
 それから中原は、昨日の夜に自宅で起こった事件と先ほど三人組の男に脅迫されたことを話した。細かい部分をかなり端折っているようだったが、要点は確実に伝えてくる。その内容を聞くうち、自分の顔色が急速に変化していくのを大津は感じていた。
「連中は使えそうな人間を標的に絞ると、徹底的な嫌がらせを開始する。ネガティヴな風聞をばら撒き、自然に苛めの対象となるように追い詰めていく。精神的にも肉体的にも追い詰める。そうしてタイミングが来たら、取引を持ちかける」
 中原は淡々と語るが、彼のような人間がこうした語り口を選択すると話にひどくリアリティが感じられてくる。背中を冷たい汗が流れ落ちていった。全身の筋肉が萎縮し息苦しさを感る。
 中原に持ちかけられた取引、それは対抗戦での八百長を要求するものだったという。指定された試合で、指示通りに負ける。もちろん候鳥会などに露見すれば停学や退学の処分を受けかねない危険な話であるが、悪質な嫌がらせに神経を参らせていた生徒は飛びつかざるを得ないだろう。報酬として、迫害や暴力の中止を持ち出されればなおさらだ。
「やつらは僕のような人間が代々この話に組みこまれている、というようなことを言っていました。だとしたら考えられることは一つしかない」
 中原は断固とした口調で言った。みなまで聞くまでもなく、大津も同様の結論を得ていた。
 すなわち、白芳と沢野井の対抗戦で八百長が仕組まれている。更にその裏では大規模な賭博が行われており多額の金が動いている。企画者は不正で対抗戦を恣意的に操作し、この八百長賭博で巨大な利益をあげているのだ。

「考えてみれば、僕が対抗戦テニスのダブルスメンバーに選出された経緯も不自然だった。クラス会議では他の人間が選手に決定されていたのに、後日登録ミスが発生したということで僕に変更された。中学時代に軟式テニスの経験があるという情報がどこからか漏れて、クラスの連中もすぐに納得した」
 中原は、自分がテニス部エースの織田という男とペアを組むことになったこと、織田の実力が白芳でも沢野井でも飛び抜けたものとして評価されていること、自分たちのペアが本命扱いを受け一勝を確実にとれると期待されていることなどを語った。
「なんなんだよ。冗談じゃねえ……」大津は脂汗を拭うと、悪態を吐いた。「そんな小汚いやり口で対抗戦を引っ掻き回されてたってのか。しかも白芳の内部で、何年も前からずっと」
 大津は奥歯を噛み締めながら、何が中原をここまで激昂させたのかを理解した。
 全てが人の弱さに帰結するものであったなら、彼は静かにそれを受け入れ続けただろう。結局、苛めや嫌がらせとは自分の生き方に確信や満足感を得られない人間が起こすものなのだ。そこにはいつも、劣等感や彼らなりの焦りが透けて見える。何かをやるべきなのは分かっているが、何をすれば良いのか分からない。環境、将来、または自分自身などに対する漠然とした不安や不満、正体の知れない苛立ち。それらが他者への攻撃性という形をとって表に出されたとき、苛めは起こる。
 中原はそういう刹那的なやり方でしか自分を表現できない人間たちを哀れんでいたのかもしれない。被害者ではあったが、確固たる生き方と自己同一性を確立していた分、中原の方が周囲の人間たちより人格的に安定していたのだ。精神的優位にあったと言っても良い。
 だが、今回の件はそうしたケースではなかった。自分に対する苛めが、金儲けの手段として行われていたことに彼は憤ったのだ。緻密な計算に基く嫌がらせという名の工作、算盤勘定によって弾き出された苛めの効用。そこには人間的葛藤などない。苛めを行う側の人間が虚しさや痛みを感じる構図がない。
 血の通わない苛めが自分の身にだけでなく他人にも行われてきたこと。その苦痛が金に換えられていたこと。同じことがこれまでも、そしてこれからも繰り返され続けるであろうこと――。
 今回、彼らは誤った獲物を選んでしまったのだった。今年も上手く事を運びたかったのなら、決して中原均を選ぶべきではなかったのだ。彼のような人間は温厚で大人しいが、戦うと決めたら決してその意志を曲げることはない。相手を滅ぼすか、自らが滅びるまで進み続けるだろう。

「これ以上、続けさせるわけにはいかない」
 中原は静かに、しかし固い決意を感じさせる口調で言った。
「いま止めなかったら、来年もその次も延々と同じ事が繰り返される。僕のような思いをする人間が何人も生み出されて、食い物にされ続ける」
「協力させてくれ」
 大津は即座に言った。そして、候鳥会が予てから対抗戦の裏で行われている不正や八百長賭博の存在を察知し、これに関する調査を行ってきたことを話す。全てではないが、現在進行中の計画についても大方のことを伝えた。
 だが、中原は立ちあがると首を左右に振った。傍らに置いてあった学生鞄を握り、大津と視線を合わせる。
「これは僕の問題です」
「そういうわけにはいかないんだよ」対抗するようにパイプ椅子を蹴って立ち上がる。「誰の仕業だか知らないが、対抗戦を滅茶苦茶にされると皆が迷惑する。これはもう白芳全体の問題なんだ」
「それは理解しています。だから、不正や八百長が行われているという事実だけはこうした伝えた。それ以上のことは知りません。必要なら候鳥会は候鳥会で動けば良い。僕は自分のやり方で行動します」
 中原はそれだけ言い切ると、話は終わったとばかりに出口に向かい始めた。
「なんだってそう片意地はるんだよ。いまの話を聞いた限りじゃ、個人でどうこうできる問題じゃねえぞ。組織立って動いてる相手だろうが」
「候鳥会は環境そのものなんだ」中原は立ち止まらずドアを引き開けながら言った。「一度でも他人の力を頼ったら、もう後戻りできなくなる。同じようなことが起こったとき、絶対にまた他人の力を頼ろうとするようになる。それを抑制できるほど僕は強くない」
 大津はその言葉を聞いて、坂本や日吉に中原との類似性を指摘されたことを思い出した。確かにもし自分が中原と同じような立場にあったとしたら、彼と同じようなことを言って同じような選択をしたかもしれない。
 問題の解決を他人に委ねてしまいたいという欲求も狂おしく強いが、同時にそれをやってしまった時に失われるものについて思いを巡らさずにはいられないのだ。
 だから大津は中原を止めることができなかった。中原の方も、大津のそうした心理を理解しているらしい。その表情から、彼が強い罪悪感を抱いていることが窺えた。
「弐棟長――」廊下側に出ると中原は深く頭を垂れた。「色々とご迷惑をおかけしました」
 ドアは静かに閉められていった。



17.

 対抗戦本番を明後日とする翌朝、大津の目覚し時計は五時三〇分に鳴り出した。起床時間として、これは通例より半時間早いタイミングである。中原均が対抗戦賭博の関係者と接触した件に関して、いつもより三〇分早く候鳥会の会議が行われるためだった。
 ベッドから抜け出した大津は共同洗面所で手早く洗顔を済ませ、部屋に戻って三着あるトレーニングウェアの一つに着替えた。準備を整えるとジョギング用のシューズを片手に寮のエントランスに向かう。途中、一階の給湯室によって冷蔵庫のミネラルウォータをコップ一杯分飲んだ。寝ている間に失った水分を補給すると同時に、眠っていた腸の働きを活性化させる効果があると聞いて以来、もう何年も続けている習慣である。
 靴を履いて玄関を出たあと、裏手にある小さな中庭で簡単な柔軟体操と筋力トレーニングを行った。身体が充分にほぐれ額に薄っすらと汗が滲んできた頃、いよいよ片道三キロメートルのロードワークに出かける。
 全国あらゆる地域での生活を経験してきた大津は、白丘市が提供する早朝の空気の鮮度を良く知っていた。その透明度は光化学スモッグに覆われた首都圏とは比較にならない。この街では、条件が揃いさえすれば星を散りばめた満点の星空が、ほとんどいつでも拝めるのだ。
 蒼穹を見上げると、綿のような雲が申し訳程度に漂っている程度の文句のつけようのない快晴が広がっていた。五月のいまであれば日の出は四時過ぎ。起床時間には既に朝日が顔を出しているため気分良く走ることができるのだった。
 大津は陽光の眩さに眼を細めながら、北東に向かういつものコースを黙々と走った。そのまま白丘明芳学園を通り過ぎて駅の方向へ直進していくと、市内最大の面積を誇る <中央公園> に辿りつく。球場が幾つか入ってしまいそうな広い公園で、木々の彩りに囲まれたジョギングコースなどもある。これを辿って園を縁取るように一周し、寮に帰るまでが大津の定めたランニングコースだった。

 時間がいつもより三〇分早いせいか、いつもすれ違う年配の男性や挨拶を交し合うのが習慣になっている若い女性の姿は見当たらなかった。人の気配そのものが園内の常と比較して少ない。一時期、山下剛が中央公園を練習場として使っているというような噂を耳にしたことがあったが、専属マネージャーの姿を含め彼らと遭遇するようなことはなかった。ひっそりと静まり返った園内を予定通り一回りし、一抹の寂しさを感じながら寮への帰路を辿る。
 五分ほど走っただろうか。寮まで一キロ弱、中原たちが練習場に使っているテニスコートの近くを通りかかったときだった。大津は、視界の先で巨大な獣の影がチラつき始めたことに気付いた。五〇メートルほどの距離から、遠目にも分かる相当な速度で接近してくる。あまりの大きさに距離を読み違えたのかとも思ったのが、そうでないことはすぐに分かった。 <バスカヴィルの魔犬> を彷彿とさせる大型犬グレイハウンドの頭部は、時として人間の腰の高さに達することもある。坂本雅美のような小柄な人間の横に立つと、腹部辺りに顔が来るようなサイズなのだ。
 大津は、向かい側から近付いてくるグレイハウンドに <インターセプター> という名前が与えられていることを知っていた。種族を同じくする犬が皆そうであるように、無駄な部分をナイフで削ぎ落としていったような、細身ながらも強靭でしなやかな肉体の持ち主だ。走る姿を見れば全身が筋肉とバネの塊であることがわかる。
 もし <インターセプター> の主の話が真実なら――もっとも、大津は彼女の虚言を聞いたことがないが――、グレイハウンドはあらゆる犬種の中で最速の脚力を持つらしい。最高速度は時速六〇キロメートルにまで達し、その歩幅は軽く五メートルを超える。ドイツでは <風の犬> の異名を取るというが、それも頷ける話だった。流体力学のセオリーを体現したかのような見事な身体つきをしているのだ。
 黒い狩猟犬のクビには灰色の首輪が控えめに取りつけてあり、それは頑丈そうなリールへと繋がっていた。その反対側の先端を握るのは、グレイハウンドにも劣らないくらいに鍛え上げられた肉体を持つ若い女性だった。すらりと伸びた長い脚を黒いジャージに通し、上半身には紺色のTシャツを身に着けている。汗でシャツの一部が肌に密着し、その下に着用しているスポーツ用の下着の輪郭が窺えた。
「おはようございます、弐棟長」
 日吉泪はリールに力をこめて <インターセプター> に停止の命令を伝えた。常人の全力疾走に近い速度で走ってきたというのに、彼女の声には淀みや不規則性が全くない。毎日、朝晩一時間ずつをグレイハウンドの散歩に費やしているという話は聞いていたが、それが嘘でない証拠だった。
「まさかお前さんに会うとは思わなかったな。お宅の屋敷からだと五キロはあるだろう。いつもここを走ってるのか?」
 足を止めて息を整えると、大津は <インターセプター> の様子を窺いながら訊ねた。狩猟犬は主の安全を守るため大津の挙動を鋭く見守っている。何か不穏な動きを見せれば、彼はその名の通り三〇キログラムの対人迎撃用ミサイルとなって獲物を仕留めにかかるだろう。
「いえ――」日吉は愛犬を一瞥したが、すぐに大津へ視線を戻した。「時間はいつもと同じですが、コースは少し変えました」
 無言で理由を問うと、彼女は中原均の自宅を一度見ておきたかったのだと告げた。
 日吉を含めた候鳥会幹部には、昨夜のうちに電話連絡を入れて中原から聞いた話を伝えてあった。そのため、日吉が爆竹を投げこまれた中原家の様子に興味を持つのも不自然な話ではない。彼女とグレイハウンドが走ってきた方向は、確かに中原の自宅がある霞台南に続いている。
「なにか分かったか?」
「そういう期待をして行ったわけではないので」
 彼女特有の素っ気無い返答に、大津は思わず苦笑した。日吉という人物は、対人関係やそれによって生じる摩擦のことなどを全く考えずに言葉を発し、行動を起こす。協調性といったものがまるでない。そこを最大の欠点として坂本らに散々指摘されているようだったが、本人は己のスタイルを改める気はあまりなさそうだった。
 それで損をしているという自覚がないのだから無理もない話かもしれない。人的ネットワークに接続されていなくても必要充分なパフォーマンスを展開できる人間というものは、希少だが確かに存在する。だが、いまの日吉のスタイルは、周囲の人間たちから傲慢と認識されやすい要素を多分に含む。それが、候鳥会にあって少なからずネガティヴな方向に働いていることは確かだった。

 大津は日吉を連れて中央公園に引き返し、自動販売機からスポーツドリンクを二本購入して片方を彼女に渡した。それから適当なベンチに並んで腰を下ろす。日吉はグレイハウンドを解放し、人気のない芝生の上を自由に駆け回る許可を与えた。大津は他人に襲いかからないか危惧したが、徹底した訓練を受けている <インターセプター> は主を守護するとき以外決して牙を剥くことがないという。日吉いわく、彼を疑うのは人間の親友を疑うのと同じくらい難しいことであるのだそうだ。
「信頼関係が一度でも結ばれると、犬は滅多に人を裏切らないんだろうな」
 言いながら日吉の横顔を見詰めかけていた自分に気付き、大津はさり気なく視界の中心を正面に戻した。夢のような容姿を備えた異性というのは、実在すればしたで扱いがたいへんに難しい。身体のどこに眼を向けても、なにか罪悪感のようなものに苛まされてしまうのだ。視線を引き剥がすのに多大な努力を要するような女とは、極力ふたりきりで向き合うべきではない。たとえ恋愛感情が芽生えようのない間柄にあったとしても、だ。
「きのう中原から聞いた話が事実なら、同じ学校の中に犬よりも信用のおけない奴がいるってことになる」
 大津は缶の中身を一気に煽ると、軽く嘆息してから続けた。
「明後日はもう対抗戦本番だ。中原からの報告を踏まえた上で、候鳥会としては今朝の内に方針を決め直さなくちゃならない。ならないんだが、どうも先が読み辛くてな。お前はどういう展開になると見てる?」
「中原均の協力を得られるなら、随分とやりやすくなるでしょう」
 しばらくの沈黙のあと、日吉は愛犬を見詰めながらゆっくりと口を開いた。
「しかし、それは無理と考えるべきかと。彼のような人間は、否と一度答えたら滅多なことではそれを曲げません。候鳥会は彼との直接的な連携を断念して、次善の策をとるしかない」
 彼女がそう言うなら、その通りになるのだろう。大津は素直に認めた後、次善の策についての具体的な説明を求めた。
「中原は恐らく、八百長賭博の仕掛け人を突き止めようとすると思います」
「つまり、対抗戦で不正をやらかしている連中の黒幕か?」
 日吉は一つ頷き、大津が奢ったスポーツドリンクを少し口に含んだ。
「中原均ができることと言えばそれしかない。本番以前に動くつもりなら方法も限定されてきて、これは嫌がらせを仕掛けてきた連中に、上の人間と会わせろというような交渉を持ちかける以外にないでしょう」
 その言葉から大津がすぐに思い浮かべたのは、クラブハウスの近くで中原を取り囲んでいた一年生たちだった。香月や松田たちと一緒に、はじめて中原を探しに行ったとき会った連中だ。
 白芳の内部に、中原や対抗戦出場選手たちの情報を外へ流している人間がいることは、もう疑いようがない。その内通者が教職員である可能性も否定できないが、生徒同士でしか知り得ないような細かい情報が漏れていることを考えると、やはり学生の中にもそうした存在があるのだろう。中原に暴力を加えていた生徒たちの中に、その情報係が紛れこんでいたとしてもおかしくはない。
「中原の要求に応じる応じないは別として、その連中は上に伺いを立てる必要が出てくる。OKが出れば、中原は組織の中枢にいる人間と面会できるかもしれません。向こうは電話などでの接触を考えるかもしれませんが、中原の性格からして直接対面以外は受け付けないと思われる。その人間と正面から顔を付き合わせるつもりでいるはずです」
 日吉はその情景が見えるかのように虚空の一転に視点を集中させた。
「裏にいる人物を明らかにした上でどのような行動に出るかまでは、まだ何とも言えませんね。具体的な名前をあげて告発するかもしれないし、沈黙と引き換えに対抗戦の八百長賭博から手を引くように持ちかけるかもしれない」
「あまり無茶をしてくれないよう祈るのみだな」
「候鳥会としてはこれを利用すべきでしょう。中原や彼にちょっかいを出していた人間に監査をつけて、その行動を徹底的にトレースする。校内だけでなく校外でも」
「そうか――」大津は顎を撫でながら感嘆の声をあげた。「関係者っぽいやつの背中に糸を貼り付けとくわけだな。あとはその内の誰かが黒幕のところに行くのを待って、動き出せばその糸を伝って後を追えばいい」
 日吉は再び頷き、大津が自分の話を正しく理解していることを認めた。
「そういうことです。マークするのは中原本人と、彼に不正をやらせようとしている陣営。それから中原がペアを組む予定の織田も」
「ああ、そいつを忘れてた」大津は自分の迂闊さを嘆きながら、右手で膝を思いきり叩いた。パチンという小気味よい音が静かな園内に響く。「そうだよ、確かに織田も要チェック人物だよな」
 対抗戦テニスにおいて織田・中原ペアが最強だといわれる由縁は、テニス部のエースとしても知られる織田健治の実力がそれだけずば抜けているからだった。彼らのチームを意図的に敗北させるためには、中原よりまず織田の協力が絶対必要になってくる。

「日吉、連中は織田と既に話をつけてると思うか?」
「織田の買収は最初に行われたはずです」彼女は断言した。「彼の周囲で嫌がらせや迫害が起こっていたという報告はないし、そうした形跡もない。恐らく金で動かしたんでしょう。少し人間性を調査すれば、中原均が買収できるタイプの人間でないということは分かる。しかし、彼の場合はむしろ例外的なケースだったはず」
 飛び抜けた実力があると言ったところで、それは白芳と沢野井の間だけでの話だ。織田も所詮はお山の大将であり、全国水準にはほど遠い。プロへの転向など夢のまた夢に違いなかった。テニスプレイヤーとしての先が見えた人間である以上、高校生が一〇年アルバイトを続けても届かないような金額を提示すれば買収も難しくはない。
 ごねるようなら、中原のパターンを教えてやれば良いだけことだった。卒業するまで徹底的な迫害を受けるか、大金を手にして美味しい思いをするか。選択をつきつけられれば、中原のような莫迦でない限り後者を選ぶだろう。日吉はそう主張した。
「恐怖と金を上手く組み合わせれば、買えない人間などそうはいないものです」
「お前もか?」大津は片方の眉を吊り上げながら日吉の横顔を覗きこんだ。
「私を脅迫することはできません。金や権力も駄目です。しかし買収は不可能ではないでしょう。私にはどうしても手に入れたいものが一つありますから」
 大津は微笑みながら視線を正面の芝生の方へ戻した。束の間の自由を得た犬が弾丸のような速度で疾走している。走っているというよりは跳んでいるように見えた。信じられない速さで、驚くほど複雑な動きをする。その姿を眼で追いつづけるには相当の鍛錬が必要になりそうだった。
 本人が言うように日吉泪の買収は不可能に近い。その意味で、彼女は中原と似たような固さがある。しかし大津は、彼女が買収に応じそうなほど欲しているものに心当たりがあった。それを手にいれるためになら、命懸けにもなるだろうと思われるものだ。
「――織田は切り札です」しばらくして日吉は言った。「ある程度の証拠が集まれば、彼を締め上げて何らかの情報を得ることもできるでしょう。賭博組織の中枢にある人間を知っているかもしれない」
「確かにな」
 大津は缶の中身を全て飲み干すと、自慢の握力で小さく握り潰した。近くに屑入れがないかと探したが、座ったまま放りこめるような位置には見当たらなかった。
「特に今回のようなケースでは、布石を惜しんでいては勝負ができません」日吉は真剣な表情で呟いた。「この件の指揮をとっている人間は、恐らくかなり頭が良い人間でしょうから」
「でも、候鳥会の追求から逃げ切れるほどではない。――だろ?」
 それに答える代わり、日吉は不敵に微笑みながら立ち上がった。そして <インターセプター> を呼びつける。主の求めに応じ、犬は風のような速度で跳んできた。
「時間的限界なのでそろそろ失礼します、棟長」
 愛犬を再び手元に繋ぎとめると日吉は言った。大津は失念していたが、これから五キロ近い道のりを走って帰らなければならない彼女に、これ以上ここでのんびりと過ごしている余裕はない。
 日吉は長い時間引き止められたことを許し、大津は飲み物を奢った礼を受け、二人と一匹はそれぞれの帰路についた。
 大津が制服に着替えた日吉と顔を会わせたのは、約一時間後だった。
 午前七時、孤舟館の会議室に集まった五人の候鳥会幹部たちは普段より三〇分長い会議に挑み、およそ日吉の言った通りのことを決議し、監査委員を使って可能な限り中原と織田、そして内通者候補としてあげられる生徒たちをマークさせる方針を固めた。



18.

 委員監査会がその活動の場を校外にまで広げることは滅多にない。だが例外となるケースが稀に無いわけではなかった。
 たとえば白芳は登下校時に生徒が通学路から外れることを禁じている。一旦帰宅してからでない限り、放課後にコンビニエンスストアや喫茶店に寄ることは許されない。寄り道をするためには <通学簿> という手帳に理由と保護者の許可を記入し、担任に認可の証印をもらわなければならないのだ。
 しかし、いつの世にもルールを率先して破りたがる人間は存在する。彼らに対応するため、学校側や保護者会は制服姿で街をぶらついている生徒を目撃したら是非とも職員室に通報してくれるよう、外部の人間に協力を呼びかけるようになった。
 この求めに応じた誰かが実際に連絡を入れてきた場合、状況によってはその生徒に監視がつけられる。違反者が特定されないときは、商店街に監視役を配置してこれをつきとめる。事実関係を確認し、できるなら現行犯で確保するためだ。
 通常、学校側は生活指導の職員を使って独自に動くのだが、候鳥会や風紀委員も立場上なんらかの行動を起こさなければならないことが多い。そうしたとき、校則違反者の摘発は委員監査会のメンバーに任されるのだった。監査会の歴史は長く、内部には様々なデータやノウハウが蓄積されている。彼らが適任なのだ。
 しかし伝統ある委員監査会も、生徒の自宅を張り込むような真似をしたことはないはずだった。旧世紀ならまだしも、現代ならプライヴァシィの侵害やストーキングなどの罪に問われかねないからだ。自宅に戻って制服を脱いだ後は、生徒としてではなく一人の青少年としての権利が優先されるべきであることは言うまでもない。
 しかし、ことが対抗戦に関する不正ともなれば――それも学内の人間が少なからず関与した大規模な八百長賭博ともなれば、取り締まる側も多少のリスクを背負って行動せねばならない。これを看過した場合のダメージの方が遥かに深刻なものとなり得るからだった。学園を運営する上でのリスクマネジメントは候鳥会の最も重要な職務の一つなのだ。

 五月一六日の午後八時、動きやすい私服に身を包んだ大津は、各所に配置された監査委員の様子を見て回ったあと持ち場に戻った。彼の担当は中原均の観察だった。中原家から一ブロック半ほど離れた五階建てのアパート屋上に陣取り、昨夜から双眼鏡でその動向を探っている。
 とはいっても部屋の内部を覗き見る必要はなかったし、可能であってもやる気はなかった。要は、中原がどこかへ出かけようとしたとき上手く追跡できれば良いのだ。門付近に照準を合わせ、中原が姿を見せるかどうかを確認していれば済む。
 大津は、条件がそろえば時速四五キロの速度が出せることを自慢にしている愛用の自転車を、 <メロディー・ロード> なるアパートの駐輪場に違反放置した。この <メロディー・ロード> は、中原家の観察に最適なポイントとして日吉が見つけてきたものだった。彼女が犬をつれて霞ヶ丘南にまで散歩にやってきた理由は、まさにこのアパートを見つけるためだったのだろう。
 太陽は当の昔に西の山並みへ没し、頭上では代わって月が自己主張をはじめている。それをぼんやり見上げつつエントランス付近で五分ほど待っていると、夜のしじまを破ってピザの配達便が近づいてきた。タイミングからいって、先ほど公衆電話で呼び出した店員に間違いない。荷台から商品を引っ張り出そうとしている若い男に、大津は微笑を作りながら歩み寄っていった。
「202号の吉元だけど――」郵便受けで確認し、一時拝借することにした名前を口にした。「もしかしてそれ、うちの注文かな。ミックスのLとコーラ二つ?」
 二階まで運ぶ手間が省けた幸運を喜んでいるのだろう、アルバイトだと思わしき青年は安堵したような表情でそうだと答えた。
「ちょうど良い、ここで受け取りますよ。いくらでしたっけ」
「四四一〇円です」
 大津は臀部のポケットから愛用の財布を取り出して四五〇〇円を渡し、釣銭と領収書を受け取った。バイクが軽い排気音とともに去っていくのを横目で見届け、暖かいピザの箱と特大コークのセットを抱えてエレヴェータに向かう。途中に管理人室があったが、通いの老人が昼の間にしかいないことは確認済みだった。乗り込んだエレヴェータは屋上に直通しており、部外者でも自由に出入りできるようになっている。日吉の選択は今回も非の打ち所がなかった。

 辿り着いた屋上はなかなかに広く、ネットを用意すれば対抗戦テニスの試合会場になりそうな面積があった。エレヴェータのほかには非常用階段と貯水タンクらしきものが二基、用途の知れないパイプや通風孔のようなものが目に入るものの、それらは空間の極一部を占拠しているに過ぎない。誰でも入り込める分、落下防止のためのフェンスが周囲に張り巡らしてあるのが特徴である。これなら、アパートの子供が遊び場にしても何ら危険は生じないだろう。
「ちわ、 <ドミノピザ> です」
 エレヴェータから下りると、大津は双眼鏡を構えて中原家を監視している背中に声をかけた。少し長めの柔らかそうな髪が、ゆったりと優雅に波打っている。それだけで彼が香月敏幸であることは誰にでも知れた。
 その隣には、なぜかもうひとつ――それも女性型の後姿がある。これは、まったく予定にない人物のものだった。
「オッス、晨ちゃん。お帰り」
「なんでお前がいるんだよ」笑いかけられたところを逆に睨み返すが、松田奈子にこの種の威嚇が通用しないことは過去に実証されていた。「女子生徒は原則的に日没後のこういう活動には参加しないんじゃなかったのか。安全面やらなにやら考えてよ」
「ほら、私ってスーパーウーマンじゃない? そういうのを超越しちゃってるわけよ」
 松田は自慢のバストを強調するように張り、ファッションモデルのようなポーズをとる。大津はそれを完璧に無視して香月の傍らに歩み寄った。隣に並ぶと四方を取り囲む二メートル近い金網越しに中原家の方へ目を凝らす。
「遅かったですね」双眼鏡を覗き込んだまま香月が言った。「どこ行ってたんですか?」
「各方面の様子見だよ。張り込んでるのは俺たちだけじゃないからな」
 八百長に関与していると思われるテニス部の織田や中原が <熊男> と呼んでいる生徒のグループをはじめ、マークしなければならない人間は数人に及ぶ。候鳥会幹部や監査委員などがツーマンセルでそうした連中に張り付き始めたのは昨日からだ。
「帰ってきたならそろそろ変わって下さいよ。館長は何しに来たのか全然分からないくらい役に立たないし、だいたい見張りは二時間交代って決まってるんでしょう。僕の番になって、もう二時間半にはなりますよ」
「まあそう言うなよ、差し入れだってあるんだ」
「やった、ピザだ」目を輝かせたのは香月ではなく松田だった。
「言っとくが、お前のぶんはないぞ」
 大津がすかさず言うと、不服があるらしく彼女は頬を膨らませて抗議の声を上げだした。相手にするだけ疲れるだけである。どの道、小食な香月の取り分のほとんどが彼女の胃袋へ消えていくことになるのは分かりきったことだった。

「それで、他のところはどうでした?」
 香月は大津に双眼鏡を渡しながら言った。弐棟長佐である須賀の持ち物で、暗視機能のついた軍用品である。夜にも高い性能を発揮する代物だが、その反面たいへん高価でもあり重量も大きい。
「駄目だな。相変わらず誰も動き出す気配がない。織田も、今日は早めに練習を切り上げて帰宅したみたいだ。それきり全く外には出ていないとよ。――まあ、奴にせよ中原にちょっかい出してた奴らにせよ、やろうと思えば上との連絡は電話で済ませられるからな。本番が明日だってときにバタバタしだすとも思えねえし」
 大津は受け取った双眼鏡を構えて中原家にポイントを合わせた。保健室で最後に顔を合わせてから二日半、中原は全くそれらしい動きを見せようとしてこなかった。本番前に何らかのアクションを起こす気があるなら、もう残された時間は今夜しかない。
「中原少年は何かやらかす気があるのかねえ」
 背後の松田が、大津の持ってきたビニール袋をさっそく漁りだした。間もなく、ピザの香りが一際強くなって周囲に漂いだす。
「それより心配なのは彼が本番でどういう選択をとるかですよ」言葉とは裏腹に香月の口調には深刻さが感じられなかった。「大津さん、この飲み物もらって良いんですか?」
「いいぞ、一つはお前の分だ。ついでに俺の分も取ってくれ」
「あれ、二つしかないじゃん。私のぶんは?」
 残った紙コップが一つもないことに気づき、松田が素っ頓狂な声をあげる。
「だから、お前のぶんは無いってさっき言っただろう。鳥じゃねえんだからしっかり覚えとけよ。大体どこから沸いて出たんだ、お前は」
「しかたないな。カッキィ、私と間接キスしよう」
 ピザも半分よこすよう要求すると、松田は誰の返事も聞かないうちにさっさと最初の一切れに食らい付いたようだった。小さな咀嚼の音と、訊ねもしない味の批評が聞こえてくる。
「こうなってくると、日吉さんを見習って僕らもゆっくり構えるべきなのかもしれませんね。中原君の件が空振りに終わっても来年再来年と時間をかけて対策を練っていく、というような」
 ストローから口を離す音がした後、香月がのんびりとした口調で言った。
「どういう意味だ?」
「日吉さんが立てた計画があったじゃないですか。監査委員を二人おとりに使って、八百長をしている人たちの中に潜り込ませるっていう」
「あれは本人も認めていたが、効果をあげるには時間が足り無すぎるだろう」
 事実、彼らが賭博や八百長の関係者と接触に成功したというような報告は無い。
 大津は香月に渡してもらった紙コップを右手に持ち、双眼鏡を構えたままストローで中身を吸った。コークの炭酸が口内で弾けては消えていく。
「いえ、それを計算に入れた上で彼女はもっと大局的に物を見てますよ。だって、おとりにする監査委員は計画が終わったあと使い物にならなくなるんだから、本来なら三年生を使うべきなんです。彼らはどのみち卒業を控えているから、――こう言っては何ですけど――使い捨てにされるような仕事にも向くでしょう。でも、日吉さんはあえて二年の監査委員を選んだわけですよね」
「ああ、それは私も思った」松田から横から口を挟んだ。「あの作戦は要するに釣りだからね。不正をやってる連中が今年食いついてこなくても、二年の監査委員を使っていれば来年も引き続きエサ役を任せられるってわけでしょ。あの子、自分が千草になった来年のことも、ひょっとしたら卒業した後のことまで考えて計画を立ててるんだと思う」
「そう、なのか?」
 言われてはじめて気づいたことだった。日吉が二年の監査委員を起用するよう提案したのは、受験を控えた三年に大役を任せるのを酷と考えたからだ――くらいに思っていたのだ。

「あの子はちょっと違うよね」珍しく声のトーンを落とし、松田は呟くように言った。「頭が良い人を見て凄いと思うことは何度かあったけど、鳥肌が立って怖いと思ったことはなかった。……ピーマン嫌いなくせに生意気な娘だ」
「え、彼女ピーマン嫌いなんですか?」香月は苦笑を噛み殺したような声を上げた。
「人参も嫌いらしいよ。あと牛乳でしょ、パセリでしょ、セロリ、卵類、こんにゃく、グリーンピースとか。人前では平気な顔してバリバリ食べちゃうけどね、嫌いな食べ物がないのか訊いてみれば出てくるわ出てくるわ」
 意外な感じがしたが、反面さもありなんとも思えた。日吉は何かを好きになることより嫌いになることの方が得意そうではある。
「しかし、良くそういうことを喋ったな。人には絶対に弱点をさらさない奴だと思ってたが」
「そう言えばそうですよね」香月が賛同の声をあげる。
「身内にはそういう部分を積極的に開示するようにしてるらしいよ。虚勢を張るより得手不得手を正確に伝えておいたほうが連携を取りやすいって」
「面白いな。ピーマン嫌いであることを明らかにしないと円滑に進まない連携ってどんなのですか」
 香月は今度こそ声を上げて笑い出した。普段は控えめな微笑を浮かべるのが精々である彼にしては珍しいことだった。
「そう言えば、その日吉と坂本はどうしてるんだ」
「ああ、千草連なら孤舟館に詰めてるよ」松田はピザを頬張ったまま、くぐもった声で言った。「徹夜で過去の資料を洗って、これまでの対抗戦で起こった大番狂わせを調べるんだってさ。ま、八百長が行われたと思わしき事例探しだね。それと、いじめとか嫌がらせを受けてた生徒との関連性を突き止めようとしてるみたい」
「なるほど」
 対抗戦の裏で八百長賭博が長く行われてきたなら、中原やテニス部の織田のように不正行為に駒として組み込まれた生徒たちもあったことだろう。当時いじめを受けていた者と、対抗戦の波乱に関与していた選手とが一致すれば、彼らが八百長に加担していたという見方が強まる。該当する生徒の多くは既に卒業しているだろうが、個人を特定することが出来れば話を聞き、有用な情報を引き出すことができるかもしれない。恐らく、坂本と日吉はそのように考えたのだと思われた。
「彼女たちなら何か見つけ出しますよ」
 声にこそしなかったが、香月の言葉と同じことを大津も考えていた。
 だが、それはそれである。大津たちが別行動を取ってこの場所にいるのは、自分たちなりのアプローチから対抗戦賭博の仕掛け人を見出すためなのだ。
 とは言え、その鍵を握る中原均は依然として動きを見せようとしない。時刻は午後九時を回ろうとしていた。

「でもさ、今が春でよかったよね。屋上で張り込みなんて、これが冬だったりしたら冷凍サバより凄い具合に凍死しちゃってるよ」
 腹も膨れて暇を持て余し始めたのだろう、松田は気だるそうな声で様々な話題を展開していく。彼女の話はどれも色鮮やかで退屈とは縁遠い。どのような描写にも生き生きとした躍動感があり、人が記憶から抜け落としてしまうような些事すら人生の楽しみの一つとして受け取っていることが良くわかった。だから、松田奈子の周囲には絶えず人が集まる。
「今の時期だって天気が悪かったら、もう最悪なことになってるよ。どしゃぶりだったらピザだって食べられなかったしさ。――あ、それで思い出したけど、降ってくる雨粒って絵で描くみたいな滴の形してるんじゃないって知ってた? なんか空気抵抗の関係で、かまぼこの断面みたいな感じになってるんだって。どうよ、晨ちゃん。素晴らしい勉強になっただろう」
「かまぼこ型って、あの板付きのやつのことか。どうでもいい知識だけは豊富だな、お前」
 大津は双眼鏡ごしの視点を固持したまま、肩をうごめかせて凝りをほぐした。何があろうと双眼鏡から目を離すことはできない。一〇秒間の油断が監視を失敗に終わらせる充分な根拠になりうる、というのは張り込み前に簡単なノウハウを伝授してくれた監査委員たちの言葉だった。
 彼らは、こうした行動に関して全く経験を持たない大津たちに簡単なシミュレーションをやらせた。得られた結果が、候鳥会の素人たちを大いに驚かさせるものであったことは言うまでもない。建物から出た人間が最初の角を曲がって姿をくらますには、本当に一〇秒で事足りることが証明されたのだ。
 あの実験を経ていなければ、大津や香月の監視活動は遥かに気の抜けたものになっていただろう。それが大きな失敗に繋がっていた可能性も否定できなかった。
「大津さん、もう九時ですよ。彼、本番前にアクション取るつもりはないんですかね?」
 幾分心配そうな声で香月が身を寄せてくる。雰囲気からそれを望んでいることが分かったので、大津は身体をどけて、双眼鏡を一時譲ることにした。
「どうだろうねえ」
 松田は空になりかけた紙コップの中を意地汚くストローで吸い尽くしながら言った。
「自宅にもちょっかい出された挙句、この前もかなり酷い暴力で脅されたんでしょ、中原少年はさ。そのときは八百長のために意図されたいじめがあったんだ……ってことが分かって腹が立ったかもしれないけどね。時間が経てばそういう感情も冷めて、また恐怖の比率の方が大きくなってくるもんなんじゃないの?」
 保健室では、頭に血が上った状態だったため大津に大見得を切ってしまったが、時間が経って冷静になれば考えも変わり得る。八百長の話に逆らった場合どのような報復を受けるかを想像し、これから三年間さらに酷くなった苛めを受け続けることになるであろうことを思う。そうした心理状態に陥れば、土壇場で怖気づくということも充分にあるだろう、というのが松田の論旨だった。

「そうですね。いかにもあり得そうな話です」双眼鏡を覗き込みながら香月が首肯する。
 確かに考えられない展開ではなかった。絶望感や圧倒的暴力によって植え付けられた恐怖感を克服する手立ては、大津の知る限り二つしかない。人並み外れた勇気で乗り越えるか、怒りに身を任せて一時的に負の感覚を麻痺させるかだ。
 経験から、前者を成立させるのが大変に難しいことは分かる。その点、後者の実現ならば比較的容易であると言えそうだった。
 だが憤怒のような感情は、長く持続しないことも多いエネルギィ消費の激しいものだ。その熱が冷めてくれば麻痺していた感覚がよみがえり、再び恐怖や絶望に身体が震えだすこともままある。状況を考えれば、現在の中原がそのような状態に至っていても何ら不思議は無かった。
 では、やはり中原は意志を曲げてしまったのか。松田や香月の言うように、暴力の恐怖と環境の圧力に屈して自らの誓いを反故にするつもりなのだろうか。大津はどうしても、そうは思えなかった。
「――もしお前たちが核ミサイルの発射コードか何かを握ってたとして、それをのっぴきならない事情で一般人の誰かに預けなきゃならなくなったとするだろ」
 唐突に切り出しすぎたせいか、松田は怪訝そうな顔で首をかしげた。
「いや、あり得ない仮定なんだけどさ。でもそういう事態に直面したとして、そんなときお前らはどんな奴を選ぶ? 誰なら機密を託しても安全だと思う」
 大津は箱に残ったピザの残りを一口齧り、二人が口を開く前に自ら先を続けた。
「俺だったら多分、中原みたいな奴を選ぶと思うんだよ」
 それが大津の出した一つの結論であると理解したのだろう、松田と香月は沈黙した。気まずいものではなかったはずである。ただ、慎重に思考してそれを的確に処理する必要があったのだ。
「前にも言ったけど、苛められっ子なのに妙にハードボイルドなところあるしね、中原少年は。約束を頑固に守りそうなタイプとは言えるかな。自分から人を裏切ったりとかは絶対しないだろうし」
 しばらくして、松田は開き直ったような口ぶりで言った。
「もともと見つけてきたのは晨ちゃんと須賀っちだしね。晨ちゃんがそう言うなら、私としてはもうコメントするようなことはないかな」
「右に同じです」
 大津に双眼鏡を返しながら、香月は薄っすらと微笑んだ。
「だったら期待して見てりゃいいさ。あいつは自分を信頼してくれた人間を後悔させるようなことはしねえよ」
 大津の言葉は、照れ隠しの少しぶっきらぼうなものになっていた。
「脅されようが殴られようが、それで崩れるようなもんなら本物の個性とはいえない。その意味で、あいつは俺なんかよりずっと強いはずだ。本物のはずなんだ」
 初めて中原均と会ったときは落胆に近いものを感じた。これは <師光> の器ではないと思った。己の殻に閉じこもり、環境の脅威に固く眼を閉じているだけの臆病者に見えた。
 だがそのような錯覚を抱かせたのは、彼が大津より温厚かつ寛容であったからに他ならない。
 かつての大津は世間の理不尽に対して絶えず牙をむき、気の荒い番犬のように吠え散らしているのが常だった。中原がそうしなかったのは、人の弱さが生み出した理不尽を黙って許し続ける懐があったからだ。
 なかなか牙を見せない中原を、大津は初見のとき見誤ったということのなのだろう。彼は戦わないのではない。戦うときを大津より慎重に見定める種の人間であっただけなのだ。
 そのような男でなければ、保健室で候鳥会幹部から手を差し伸べられたとき、これに敢えて背を向けるような決断を下すことなど出来ない。

 大津は午後一〇時まで中原家の観察を続けると、香月と監視役を交代して松田を自宅へ送った。本人の人格がどうであれ、松田奈子が一七歳の娘であり良家の令嬢であることには変わりが無い。夜遅くまで男だけの空間に放り出しておくわけにはいかなかった。
 銀行をいくつも持つ彼女の一族は旧華族の流れを汲むたいへんな富豪で、高級住宅街 <飛鹿区> に大邸宅を構えている。飛鹿は市の中心部 <セントラルアヴェニュー> を挟んで霞台と真逆の位置にあるため、バスを利用しても往復一時間が必要だった。
 活発なお嬢様が無事に自宅の門を潜るのを見届けると、大津は学生寮に戻りシャワーを浴びて洋服を着替えた。それから自室のベッドで三〇分の仮眠を取り、コンビニエンスストアで二人分の夜食を購入して <メロディー・ロード> の屋上へ帰った。
 香月に経過を訊ねたが、やはり中原は全く動く様子がないと言う。そのまま双眼鏡を受け取り、大津は中原家の鉄門を眺めながら五月一七日、日付上の対抗戦当日を迎えた。
 一方、一時的に重責から解放された香月は、大津の用意した夜食――二九〇円のうどん――を平らげると帰宅の途についた。この二日間の経験から、固いコンクリートの上では仮眠をとっても疲れを取りきれないことが分かっている。多少面倒でも半時間かけて自宅に戻り、柔らかいベッドの上で寝たほうが休息効果が高い。
 深夜一時ごろに、中原家からあらゆる光が消された。最後に照明を落としたのは中原均本人で、彼の自室の明かりが消えたのを最後に一家は完全な眠りについたものだと思われた。
 大津はこの辺りから、二日に及ぶ自分たちの観察行為が全くの徒労だったのだろうと考えだした。恐らく中原は夜明けまで眠り続け、いつもの登校時間になるまで家を出ることはないだろう。
 だが、それを実際に眼で見て確認するまでは安易に結論を出すわけにもいかない。香月が午前二時に戻ってくるまで、大津は気を抜かずに監視を続けた。
 話し相手もおらず、強力な眠気と疲労に抗い続け、それでも集中してただ一点を見守り続ける。単純ではあるが、あまりに単純でありすぎるがゆえに監視の仕事は辛かった。
 本当にこのようなことを続ける意味があるのか、自分たちはとんでもない時間の浪費をしているのではないか、寮に帰り対抗戦の激務に備えて体を休めたほうが幾らか利口なのではあるまいか、と何度も考えた。
 屋上に帰ってきた香月と交代を繰り返し、大津に三回目の順番が回ってきたとき遂に夜が明けた。腕時計を見ると四時二〇分である。このように朝日を見るのは久しぶりのことだった。
 五秒ほど仕事を放棄して陽光に眼を細め、近くでうつらうつらしている香月の様子を窺った。朝焼けの広がろうとしている蒼穹には雲がほとんど無い。対抗戦は好天に恵まれた素晴らしいものとなるだろう。
 中原は結局動かなかった。自宅に近づく不審車両のような存在も一切なく、霞台南四丁目は夜明け特有の透き通った静けさに包まれている。しばらくすると、遠くから新聞配達の原付バイクの駆動音が聞こえてきた。
「香月、もうすぐ五時だ」
 ところどころで人々が一七日の朝を迎えようと動き始めたころ、大津はうたた寝をしていた後輩を揺すり起こした。
「お前、家で制服に着替えて六時に戻ってこい」
「やっぱり、予定通り最後までやるんですか」
 寝ぼけ眼をこすり、欠伸を交えながら香月がぼやく。流石の彼も蓄積された疲労は隠しようがないようだった。
「まあな。登校途中に誰かと接触する可能性も無いわけじゃない。中原がそういう予定を立ててなくても、向こうから勝手にお出ましになることだったあり得るだろ」
「ゼロに近そうな確率ではありますけどね」
 短針が時計盤の真下を指そうとするころ、街が本格的に目覚め始めた。ほぼ同時に、制服に身を包みこざっぱりした香月が姿を現し大津から双眼鏡を受け継いだ。
 対抗戦当日は、いつもより一時間早く始業ベルが鳴る。対抗戦の長いプログラムを一日で消化しきるためだ。毎年七時半になると白芳と沢野井高校はそれぞれのグラウンドで開会式を行い、白丘市全域に散りばめられた試合会場へ赴いていくことになっている。
 通学距離を考えると、中原が支度を済ませて通学し出すのは七時前後だろう。香月はそれまで制服姿で監視を続け、対象が自宅を出たらその背中を追って学校までの道のりを追跡する手はずになっていた。
 大津は一階に下りて <メロディー・ロード> の駐輪場から自転車を引っ張り出すと、全速力で寮に戻った。寮母に話を通していたため、大津がどんな時間にも出入りできるよう勝手口は施錠されていない。非常灯の明かりを頼りに自室に戻り、弐棟長専用の制服に着替えた。こういうとき <成舟館> の完全個室性はたいへんありがたい。

 毎朝のトレーニングメニューをこなしている余裕はなかった。熱いシャワーで眠気を飛ばし、寮母が特別にこしらえてくれた朝食を平らげて七時少し前に寮を出た。
 例年、この時間からすでに白芳は異様な熱気に包まれることになる。生徒だけでなく良い位置をキープしようという一般客が早朝から場所取りに乗り出すからだ。この辺りは花見の感覚に近く、警備員たちの話によれば徹夜組の姿も毎年必ず見られるという。
 大津がイヴェント用に飾り立てられた校門を潜ったのは始業一五分前であったが、予想通り校内は一般観戦客や許可を得て屋台を出す商売人たちの姿を含め、多くの人だかりでごったがえしていた。白芳指定のブレザーではなく学生服姿の生徒も見受けられるところを見ると、開会式直後の第一試合に出場する沢野井の選手団もすでに到着して準備を整えているようだった。北門脇の関係者用駐車場には選手送迎用の大型バスが三台も停められている。
 孤舟館に顔を出し、徹夜で関連資料をあたっているという千草たちの様子を確認したかったが、売れすぎた師光の名がそれを許してくれなかった。予想以上に大津の名と顔は周囲に知れ渡っているらしく、一〇歩進むごとに人から声をかけられた。単なる挨拶や握手を求めてくる程度なら軽くさばけたが、出店の主人から仕込み中の商品の味見を頼まれたり、沢野井制服を着た女子生徒との写真撮影に付き合っていれば時間もなくなる。結局、会館に行くのは断念し直接教室に向かわねばならなくなった。
 弐番棟の昇降口に入って自分のロッカーに向かいかけたとき、携帯電話が懐で振動を始めた。ディスプレイを確認すると香月の番号が表示されている。
「毎度ありがとうございます、 <ドミノピザ> です」
「弐棟長、それ気に入ったみたいですね」
 電話越しにも香月が苦笑しているのが分かった。そんな時でさえ、彼の声はどこか音楽的に聞こえる。
「おにぎりは食卓で食うより、ピクニックに行った公園で食うほうが美味いだろ」
「なるほど。ピザはパーティ会場で食べるより、双眼鏡で覗き行為に勤しみながら屋上で食べるのが一番美味しいことを発見したわけですね」
「そういうことだ」大津はロッカーを開けて上履きを引っ張り出した。「で、そっちちはどんな按配だ」
「彼は寄り道もせずに、良い子で登校してくれましたよ。後のことは専門家に引き継ぎました」
 もちろん中原のことだろう。専門家というのは監査委員を意味していると思われた。
「そうか――。じゃあ、これからどうするかだな」
「会館あたりで一度話し合いたいところですけど、今日はもう三役が一同に会する機会は瞬間的にしかないですよ。たとえ揃えたとしても、周りにこうも耳が多いと突っ込んだ話はちょっとやりにくいですね」
 香月の言う通りだった。対抗戦がはじまれば来賓の市長や所轄の責任者などに挨拶回りをする必要があるし、状況に応じて校外の試合会場に赴いたり沢野井へ飛んだりしなくてはならない。それらの仕事を役員それぞれが分担し、散開して処理していくのだ。全員がばらばらになって動くことになる。顔をつき合わせて不正の対応策を協議することはスケジュール上難しかった。

「仕方ねえ、こうやって携帯でやりとりするしかないだろ。お前はすぐに坂本に報告を入れろ。千草たちなら何か上手いやりかたを思いつくかもしれない」
「中原君のこともそうですけど、彼とペア組む選手に関してはどうするんです? 状況から考えて、彼がこの件に絡んでるのは確実なんでしょう。試合は一四時からですけど、むこうの計画通りにことを運ばれても困るんじゃないですか」
「その点も含めて話がしたいと坂本に伝えておいてくれるか。俺には長佐がいねえから例年の三倍は忙しくなる。しばらく身体はあかないだろうから携帯でないと話は無理だ」
 大津は通話を終えると真っ直ぐ教室に向かった。間もなくHRが行われ、一般生徒たちは開会式のためにグラウンドに集められる。対抗戦執行委員会として駆り出されたスタッフやそれを指揮する生徒会役員たちは例外で、これらの関係者たちは自分の持ち場に向かってそれぞれの仕事に入る必要があった。
 HR中は上の空だった。聞く前から承知している連絡事項や注意事項に耳を傾けても仕方が無い。それよりも優先して考えなければならない問題が山のようにあった。
 今日の勝負は午後二時だ。中原と織田のペアがダブルスの決勝戦を行い、沢野井のペアと星を取り合う。勝利を確実視されている中原たちが負けることになれば大きな騒ぎが起こるだろう。そうなる前に候鳥会としては手を打っておきたい。
 テニス部の織田とは試合前に接触すべきだろうか、と大津は思案した。計画が筒抜けになっていることを知らせてやれば織田は焦り出すだろう。その上で、「八百長に加担すれば、退学や除籍処分を含めた厳しい処罰を加える」と脅しかければ――脅すまでもなく実際そうなるだろうが――彼は不正に手を貸すことを止めるかもしれない。
 八百長が行われ試合結果が出た後では、こうした取引の効果も半減すると思われる。難しいところだった。
 HRが終わるやいなや教室を飛び出した大津は、弐番棟とプールの狭間にある小さな空き地に各部署の責任者を集めた。
 本来なら弐棟長佐である須賀が傍らでサポートしてくれるはずなのだが、入院中の彼は今回の対抗戦に参加することができない。穴埋めとして執行委員の中から何人かのスタッフを借りてきてはいるが、急ごしらえのチームは連携の面で弱く、充分な戦力となり得ていなるかは微妙だった。
「過去の事例から言って――」大津は三八名からなる各部責任者たちを前に言った。「学外の各地に会場が点在している場合、現場の判断による迅速な問題処理が企画の明暗を握ることになるでしょう。場合にもよりますが、緊急の対応が求められるケースにおいては時間を要する正規の確認を省略し、経験に裏打ちされた皆さん個々の判断に結論を委ねます。迷うことはない、全責任は師光大津がとります。必要だと信じられるなら、どうか自分の正しいと思ったことをしていただきたい。それでは各員、よろしくお願いします」
 執行部の各班代表、生徒会役員、学外ボランティアスタッフ、各部活動の責任者などが揃って威勢の良い声を上げた。
 彼らは簡単な連絡事項を確認し、それぞれの持ち場に戻って行った。グラウンドには既に一般生徒が集い、選手団代表が対抗戦開幕を告げる選手宣誓を行っている。拡声器を通したその声は校内各所にとりつけられたスピーカーを通して大津の耳にも届いた。

「大津君、いや格好良いじゃない」
 自分も来賓への挨拶回りに行こうと足を踏み出したとき、男子テニス部顧問の霜山が軽く手を振りながら歩み寄ってきた。そのすぐ後ろには、女子テニス部顧問の笑顔も見えた。
「去年の棟長の台詞をそのまま繰り返しただけですよ。師光は代々、ああいう聞こえだけ良い言葉で生徒を騙すんです。霜山先生も、生徒時代に似たようなハッタリを聞いたんじゃないですか?」
「いやいや、問題はその言葉の説得力だよ。全責任はこの俺、霜山が取る……なんて僕が拳を握り締めたって、生徒たちは白けるかギャグだと思って笑うだけだろうからね」
 霜山はそう言って自嘲的に笑うと、真のリーダーシップとはいかなる状況下にあろうと部下をまとめてしまえる説得力のことをいうのだ、と指摘した。そして思い出したように続ける。
「そう言えば、この前はうちの中原君が世話になったみたいで悪かったね。保健室に運ばれたって聞いたときは、急いで駆けつけようと思ったんだけどね。ちょうど職員会議があったから遅くなって」
「気にしないでください。言われるまで忘れてたくらいですよ。その後、中原君はどうですか?」
「本人は大丈夫だって言ってたよ。今日も試合には出られるみたいだしね」
 霜山と森下は、彼らのペアは確実に一勝をもたらしてくれる存在なので期待して良い、と大津に請けあった。
「中原君はテニスの経験者みたいだけど、帰宅部で普段は運動をしないみたいだからね。対抗戦の練習で少し疲れがたまったんだろう。大津君には何か言ってた?」
「――いえ」もちろん馬鹿正直に話すつもりはない。大津は迷わず首を左右に振った。「大人しいやつみたいですね。挨拶くらいが精々で、ほとんど何も喋りませんでしたよ。具合が悪かったんなら仕方ないことではありますけど」
 会話の合間を狙いすましたかのように、懐の携帯電話が鈍い振動音をあげた。それを見た顧問教諭たちは大津の多忙ぶりに同情するような言葉をかけ、笑顔を振りまきながらグラウンドへ向かっていく。彼らの姿が遠ざかったのを確認してから、大津はプールを取り囲む壁に近づいて電話を取った。
「はい、 <プレタマンジェ> 宅配サーヴィスです」
「あれえ」スピーカ部分から松田の素っ頓狂な声が聞こえてきた。「おかしいな、カッキィの話だとこの番号にかければピザの注文ができるはずだったんだけど。もう廃業しちゃったの?」
「ピザはカロリィが高いってんで、ダイエット好きの姉ちゃんたちがちっとも買ってくれねえんだ」
「それでヘルシィな自然食材がウリのサンドウィッチ屋になったわけか」
 考えてるねと呟き、松田はくすぐったがるような笑い声をあげた。
「それはそうと、愛しの雅美ちゃんから師光の旦那あてに伝言があるよん。聞きたい?」
「興味あるね。ハニィはなんて言ってた」
 香月の連絡が行われたのだ。それを受けた坂本は自分の意思をまず調整役の孤舟に伝え、弐棟側の意思確認の役割も同時に託したのだろう。孤舟を緩衝材に使った上手いやり口だと言えた。いかにも坂本雅美らしい。
「雅美と泪ちゃんたちは、タイミングを見計らって織田っちに接触することを提案したいんだってさ。できるなら試合直前に会って、後ろで糸引いてる人間の名前を教えてもらおうと思ってるみたい。ちなみに晨ちゃんさえ問題ないなら、私とカッキィも異論はないよ。ゴーサイン出すつもり」
 予想していた展開に、大津は思わず頷いてみせた。
「こちらもOKだ。と言うか、同じことを考えてた。やつに司法取引みたいなもんを試みるなら、試合開始前の方が良いだろう」
「じゃ、決まりね。でさ。専門家にお任せしてもいいんだけど、こういうのは説得力とインパクト勝負じゃない? だから交渉役は顔の怖い晨ちゃんが適役なんじゃないかっていうのが、他の役員の一致した見解なんだけど」
「はいはい、やらせていただきますとも。――それより坂本たちの方はどうだったんだ。資料漁りの成果はあったのか」
「幾つかそれらしい事例は見つかったって言ってたよ。現在の所在を確認できたら、たぶん明日あたりに押しかけて話を聞くことになるだろうってさ。決め手としてじゃなくて、証拠固めの一つとして使うつもりなんじゃないかな」
 そこで一旦言葉を区切ると、松田は弾む声で続けた。
「開会式も滞りなく進んでるみたいだしさ、そろそろ私たちの対抗戦も始め時ってことだね」
「――だな」大津は己を奮い立たせながら言った。「裏でコソコソやってる奴らに、賭博じゃ味わえない対抗戦本来の醍醐味ってやつを候鳥会が直々に教えてやるさ」


to be continued...


■履歴

脱稿2004年12月11日
初出2004年12月12日

本作は書き下ろし作品です。

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