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104
Opening portion
布石



10.

 連休明けの月曜日、寮内の食堂で二五〇円の朝食を平らげると、大津晨一郎は七時ちょうどに学生寮「秀成館」を出た。
 両親を早い時期になくした彼は、一〇年を超える学生生活の大半を学校の寄宿舎で過ごしてきた。やむなき事情が重なって幾つもの中学高校を渡り歩くことになり、結果的に全国各地の学生寮で日常生活を経験してきたわけであるが、多くの場合、不満や不便さを感じずにはいられない暮らしを強いられたものである。
 しかし白芳の「秀成館」は別格と言える存在であり、大津はこれに特別な愛着を抱くに至っていた。環境の整った住みやすい寮であるし、なにより全室個室というのが良い。
 寮費は月あたり二七〇〇〇円。食費はだいたい一六〇〇〇円と手ごろだ。各部屋の光熱費や電話使用料、その他管理費を含めると総額で一月に四〇〇〇〇円以上が必要となるが、大津は努力によって奨学金と特待生待遇を勝ち取り、これら負担金の全額を免除されていた。
「大津君じゃない」
 寮を出て二ブロックほど歩くと、「秀成館」そっくりの外観をした四階建てのアパートメントが見えてくる。「秀成館」の壁が淡い青色で塗装されているのに対し、こちらは薄桃色で上品に彩られているのが唯一の違いだ。女子寮「恵舟館」である。
 その軒先を通りかかったとき、壱棟長坂本雅美がタイミングよく姿を現した。
「おはようさん」
「おはよう。久しぶりだね、登校中に会うの」
 大津は同意を示すと、彼女が自分に追い付くまで待った。対抗戦関連の資料か、書類を満載していると思わしき重そうなバッグを抱えていたため、それを代わりに持ってやる。

「ありがとう。意外と紳士なのよね、貴方」
「そうでもないさ。下心があるからな」
「そうなの?」
 垂れがちの眼を少し見開くと、坂本は可笑しそうにクスリと笑った。
「大津君って凄く禁欲的なひとだと思ってたけど……何がお目当て?」
「労働力」
 もともと優れて聡い坂本は、その一言で全てを察したようだった。
「そうよね。須賀君がいないから、弐番棟の仕事を一人で背負わないといけないし」
「ま、そういうことだ。あんたも頼りになるのは日吉一人しかいないだろうから、実情はそう変わらんのだろうけど」
「そうでもないわよ」坂本は柔らかく眼を細める。大津はほんの一瞬だけ顔を洗う猫を連想した。「あの子は普通の三倍は働いてくれるもん」
「なるほどね」
 それを想像するのは容易だった。この世は不公平なものなのである。何も与えられなかったり、与えられてもそれを理不尽に奪われる者があったりする一方、神から祝福を受け、幾多の特例を認められた人間もまた存在する。日吉泪は、後者の極端な例だった。

「羨ましい限りだよ。常人の三倍使える日吉と、常人の三倍仕事を増やしてくれる須賀。同じ棟預かりの身の上だって、こうも待遇が違ってくるんだからな」
 大津のぼやきに、坂本壱棟長はくすぐったがるような笑い声をあげた。人間性から容姿に至るまで徹底的に謙虚で控えめな彼女は、笑う時にでさえその姿勢を崩さない。
「でも、手のかかる子ほどかわいいって言うじゃない?」
 彼女は悪戯っぽく横目で大津を窺う。身長差が三〇センチ近くあるため、ほとんど斜め上を見上げるような格好になっていた。
「実際、須賀君が入ってきてからの大津君、とても楽しそう。角がとれて、随分と付き合いやすくなったって壱番棟でもときどき話題になってるのよ」
 大津は返事をせず、坂本から眼を逸らした。こうした話題で形勢不利を悟ったとき、坂本に一矢報いようなどという考えを起こしてはならない。手酷くやられて、とどめを刺されるのがオチだ。

 それからの道中は、日常の他愛もない出来事を話題として選んだ。沢野井高校との対抗戦が今週末から始まることを考えると随分のんびりした態度のように思われるが、三役として多忙を極める日々の中、こうして仕事から解放される時間を作るのは必要なことだった。
 それに、対抗戦に関連する準備は年明けから始めていたことだ。沢野井側との段取りを含め、今さら慌てて何かをしようという段階にはない。あとは最終調整を行いつつ、当日を待つばかりである。
「――最近は、本当に晴天続きね。これなら土曜日も晴れてくれそう」
 春の早朝としては幾分眩し過ぎるくらいの日差しを見上げ、坂本は眼を細めた。
「週間天気予報じゃ、そう言ってたな」
 直接的な言葉にこそしないが、やはり自分が取り仕切る最後の対抗戦ということもあって、坂本も常にない緊張を経験しているようだった。
 白芳の全校生徒約一二五〇、沢野井の二一〇〇、これに生徒の保護者や家族、両校生徒会のOB、校外ボランティア・スタッフ、それに一般客を加えると、近年の対抗戦に何らかの形で関与する人間は五〇〇〇とも、場合によっては一万を超える数になるとも言われている。
 市には試合会場となる競技場や市営プールを借り受けることになるし、メインイヴェントの一つである市内ほぼ全域を舞台としたハーフマラソンのコース設定、交通整理などに関しては、地元警察署の認可や協力を得なければならない。
 つまり、文字通り街ぐるみの大祭になるこのイヴェントは、校内だけにとどまらず外部にも様々な影響をもたらすのだ。
 ――もちろんこれには、対抗戦の盛りあがりに便乗して外野が勝手に騒動を煽っているという側面もある。故に候鳥会の双肩に全責任を担わせるのは酷と言えるかもしれない。
 しかし、運営資金といった単純コストだけでなく損保や各業界への経済波及効果を考慮に入れれば、数千万という金がこの一日で確実に動くという事実は揺らがないのだった。そのため最高責任者の一人として企画を失敗させることともなれば、自らの汚名を街の歴史に刻み込むことになるし、何より対抗戦に全てをかけてきた多くの人々に申し訳がたたない。
 準備不足と予想外の悪天候、その他の不幸な要因が重なり、プログラムを七割しか消化できなかった過去の候鳥会三役が、号泣しながら関係各位に土下座して回った事実があることを、大津も坂本も良く知っていた。

「まあ、大丈夫なんじゃないのか」
「――え?」
 学校に近付くにつれ口数の減り始めた坂本は、大津の唐突な言葉に顔を上げた。
「先代三役も、その前の三役も、同じ高校生とは思えない大した人たちだった。でも、今の――六四期候鳥会だって捨てたもんじゃないだろう? 色々あったけど、おかげで歴代のどんな候鳥会と比べたって恥ずかしくないものになったと俺は思ってるよ。少なくとも、そう信じたいね」
 街路樹の瑞々しい緑に彩られた歩道をいつもよりゆっくりと歩きながら、大津は独りごちるように言った。そして肩を並べた坂本に顔を向ける。
「だから今のこの面子なら、何があってもどうにかなりそうな気がするんだよ。そりゃ、あんたも同じなんじゃないのか?」
 坂本は俄かに歩調を緩めると、少し驚いたように何度か眼を瞬いた。大津も合わせるよう足を止め、彼女の返答を待つ。
「ええ……そうね。私もそう」
 しばしの思考を挟んで呟くように言うと、彼女は大津と眼を合わせて微笑んだ。今度の声と目つきには、彼女らしい確かな自信が感じられた。
「そう、大丈夫よね。今の私たちなら、絶対に良い仕事ができる」
 力強いその言葉に大津は安堵した。
 三役などともてはやされてはいるが、 <師光> や <孤舟> はしょせん後付けの存在に過ぎない。生徒会発足当初からの長い歴史と伝統とを受け継いできた <千草> こそが、候鳥会の魂でありコアなのだ。自分や松田奈子などは、その <千草> の位を継承した坂本雅美を支える脇役でしかない。それが大津の考えであった。
 事実、六四期候鳥会の大支柱として機能しているのは、この華奢で一際小柄な女性に他ならない。能力においては日吉泪に一歩譲るようになった等と本人は謙遜するものの、多くの人々がその優れた外見ばかりに注目する中、逸早くオピニオンリーダーとしての日吉の資質に気付き、それを本人に自覚させ、開花を促し、育んできたのは坂本に他ならないのだった。
 彼女の指導がなければ、日吉泪も容姿に優れたお人形としてアイドル扱いされるのが関の山だっただろう。大津が現候鳥会に信頼感や安心感を持つ事ができるのも、坂本の存在があればこそだった。

 もっとも、その坂本雅美にもウィークポイントはある。大津は密かに苦笑いを浮かべながら、それを再確認していた。
 大柄な大津が言っても説得力はないが、坂本は本当に身体が小さい。女性らしい曲線に富んだプロポーションは認められるものの、サイズとしては中学生と大して差はないだろう。「秀成館」から学校までは大津の足なら通常一五分の距離である。しかし彼女の足に合わせたこの日、構内に辿りついたのは寮を出てから二〇分後のことだった。
「やっぱり最後の一週間にもなれば、みんな気合の入り方も違うわね」
 学園の西側に位置する正門を潜ると、坂本は周囲に眼を配りながら言った。
 時刻は七時二〇分。始業ベルがなるまでに一時間以上ある計算になるが、彼女の言う通り、校内は既に活気で満ちていた。武道場や体育館には明かりが灯っており、素足が床板を踏みつける音や、投げ飛ばされた体が受身と共に立てる鈍い音、バスケットシューズが床と擦れあって立てるキュッキュという小気味の良い音が聞こえてくる。グラウンドからも運動部選手のかけ声やボールの跳ねる甲高い音が響いてきた。
 日頃から早朝練習を行う部も確かに存在するが、それは県内屈指の実力を持った一握りの存在に過ぎない。何より部活動とは何ら関係のない一般生徒たちが、騎馬戦や綱引きの練習を行っているところを見れば、来る対抗戦を意識した自主練習であることは明白だった。
 彼らのこのような努力は、始業前だけでなく放課後にも見ることができた。しかも、それが一ヶ月以上続いている。対抗戦のために春休みを返上して合宿を行いたいという申し出をしてきた部が存在することすら、大津たちは知っていた。

「聞くところによると、沢野井の生徒たちも連日早朝練習、放課後練習を欠かしてないそうよ」
「ご苦労な話だよ」
「早朝会議、放課後会議を連日やってる私たちもね」
 今朝もその会議に参加するため、二人は真っ直ぐに <孤舟館> へ向かった。学校敷地内の東南端に構えられた <孤舟館> には、西の正門からだと学園内を横断しなくては辿り付くことができない。
 その途中、ロードワーク中の生徒一団と擦れ違った。女子部員だけで構成されているところを見ると、ナギナタか弓道の連中だろう。相手が両棟長であることを知ると、彼女たちは声を揃えて威勢の良い挨拶を投げかけてきた。
「おはようさん。何部の練習だい?」
 足を止めて大津が問うと、列の先頭に立っていた生徒が緊張の面持ちで「弓道部です」と答えた。もうかなりの時間走り続けてきたのだろう、身体中が紅潮し、白いTシャツには大きな汗の染みができている。
「弓道か。勝ち星がとれる競技ってことで計算にいれてるからな。今年もよろしく頼むぞ」
「頑張ってね。応援してるわ」
 棟長たちの激励に、弓道部員たちは揃って礼の言葉を口にした。そして再び頭を下げてからランニングを再開する。チームワークの良さを見せつけるような足並みの良さだった。
「大津君に応援されちゃったからには、あの子たちいつもの倍は凄いことしそうね」
 遠ざかっていく少女たちの後姿を見送りながら、坂本は含み笑いのような表情を見せた。
「なんで?」
「何人かカチコチに緊張してた部員がいたじゃない。彼女たちがああなってたのは、何も対抗戦が間近に迫ってるからってだけじゃないと思うわよ。そもそも、擦れ違ったのが私一人だったら、あんな風にわざわざ立ち止まってまで挨拶してくれたかしら」
「あの連中とは初めて会ったんだぞ。考え過ぎだよ」
「少しは考えてあげないと、そのうち泣かせた女の子から刺されるわよ」

 五分かけて会館に辿りつくと、大津たちはそのまま四階に上がった。
 最上階にあたるこのフロアは、館内でも最も厳しいセキュリティで守られている一帯である。立ち入ることが許されるのは候鳥会の構成員である九名に限られており、例外は法人代表としての理事と監事のみ。その彼らでさえマスターキィを管理する理事長か評議員会の同意を得なければならず、また入館後の言動に関しては記録をとられる。一種の治外法権が確立されているといえた。
 大津たちの目的地は四階中央部にある古い会議室だった。正式名称を「円卓議堂」といい、その名が示すように二〇畳ほどの広い室内の中心には、年季を感じさせる大きな円卓が置かれている。
 この円卓には等間隔に六つの椅子が並べられていて、校則と伝統にしたがって選出された生徒代表六名のみが着席することを許されていた。この六名にあたるのが、壱棟長、弐棟長、孤舟館長、そしてこれら三役の副官――すなわち各長佐たちである。新一年生たち各長補は研修扱いされ、候鳥会においては議決権を与えられない。
 ドアを開けると、円卓議堂には先客が居た。今年からの指定席に腰を落ちつけ、クッキーのようなものを齧りながら編物をしている。リリアンといったか、かつて子供の間で流行したと聞く古い織物遊びの最中らしかった。
「おはようございます。遅かったですね、お二人とも」
 香月敏幸は、大津たちの姿を認めると立ち上がってにっこりと笑顔を浮かべた。
「泪と奈子はまだ?」坂本が、香月の他に人の姿がないのを確認して問う。
「そうみたいですね。僕が一番乗りでした」
 香月は嬉しそうにそう答えると、円卓の上に広げていた菓子を大津たちの押しやった。のり巻き煎餅だった。
「家にあったものなんですけど、誰も食べないんで持ってきたんです。しっけて柔らかくなってますが、一緒に齧りながら皆がそろうまで楽しく待ちましょうよ」
「それクッキーじゃなかったのかよ」
 大津は思わず咳き込みそうになった。噛み砕く際にほとんど音がしていなかったためそう考えたのだが、真相は湿気のために煎餅が持ち前の硬度を失っただけであったらしい。
「さそってもらえるのはとても嬉しいんだけど、できればもう少し素敵なイベントの時にお願いできないかしら」
 心なしか、坂本の浮かべる笑顔は少し引きつっているように見えた。
「右に同じだ。お前が責任持って一人で全部平らげろ」
「残念だなあ。せっかく持ってきたのに」
 言葉とは裏腹に、香月は鼻歌でも歌いそうな調子で煎餅を齧った。やはり、濡れ落葉を踏んだときのような音しかしない。これを食しながらでは、とてもではないが楽しい待ち時間を過ごせるとは思えなかった。

 入院中の須賀長佐を除くスタッフ全員が集合したのは、それから約五分後、集合時刻として設定された七時半になってからだった。最後に姿を現した松田奈子が着席すると――彼女が時間ぎりぎりにやって来るのはいつものことである――、坂本の音頭で会議は開けた。既に何百回と繰り返してきたことなので、いちいち段取りを確認する必要もない。それぞれが与えられた役目を忠実にこなし着実に議事を進行させていく。
「問題は――」
 珍しく険しい表情を見せながら、坂本はゆっくりと口を開いた。
「例の不正に関する問題を、生徒総会に持ち込むべきか否かよね」
 ここでのメインテーマとなったのは、やはり土曜日に行われる対抗戦であった。準備作業の指揮や進行状況の調整、各部の練習監督、沢野井との連携の確認など候鳥会の抱えた仕事は多い。もちろん、不正行為への対処もその職務の一環だった。
「やめといた方が良いんじゃないの?」
 右手の五本指を使ってシャープペンシルを器用に連続回転させながら、松田が言った。
「生徒会役員が全部で何人いるか正確には知らないけど、何十人って数になるわけでしょ? それだけの人の口を封じるのは不可能だよ。絶対、候鳥会が対抗戦の不正について調べてる……っていう感じの噂が広まり出すね。三日もあれば、全校生徒はもちろん沢野井側にも伝わっちゃうよ」
「でしょうねえ」香月も同意を示す。「それに総会にかけて全員がかりで動くには時間がかかりますよ。土曜日が本番であることを考えると、ちょっとバタバタすることになるでしょうね」
「そこで考えなくちゃならないのは、噂にすることで不正や八百長を行っている人間を牽制できると計算するか。それとも、こうした悪い噂は生徒を動揺させたり混乱させたりするだけに過ぎないと解釈するかね」
 各人の意見が大体出揃うと、坂本がこのように論点を分かりやすく絞る。そうして再び意見を募り協議する。これが現候鳥会のスタイルだった。
「確かに不正に関して我々が調査を行っている、というような噂が広がれば多少の抑止力にはなり得るでしょうね」
 日吉が長い沈黙を破って言った。滅多に口を開かない分、彼女の一言は重く受け止められるのが常である。
「しかし逆に考えれば、相手を警戒させることにもなります。調査は非常にやりにくくなり、結果的に不正を行っている者たちを見つけ出し処罰するのは困難になるでしょう。
 それから、一般生徒や保護者会、沢野井サイドからもある程度の説明を求められることになるでしょうね。その過程で不正が行われていた事実を候鳥会として正式に認めるならば、大きなスキャンダルになるとも思われます。流石の理事会も、対抗戦の延期や中止を考え出さざるを得なくなるかもしれません」

「うむ。そうして考えると、どうもリスクの方が大きそうだね」
 松田は腕を組むと、小さく唸るような声をあげた。
「ま、教員や評議員が騒ぎ出しても、理事長閣下は二〇日間まで会議の開催を引き伸ばせるわけだから、彼女さえ丸めこんじゃえば少なくとも今年の対抗戦は強行できるわけだけど」
「それ以前に、本当に不正は行われているんですか?」
「おいおい、香月君よ」大津は呆れまじりに後輩の端整な相貌を見やった。「今さらそれを言うか」
「でも、そうでしょう。対抗戦が賭博の対象になってること、その勝敗を操作するために八百長が行われていること。これらはみんな、事実確認のとれていない噂にすぎないじゃないですか」
「それは確かに貴方の言う通りね」坂本は小さく頷いてみせた。「でも、これが根も葉もない噂だという確認もとれていない。問題は、その噂の信憑性よ」
 大津の記憶が正しければ、対抗戦の不正行為が話題になりはじめたのは、生徒会あてに郵送された一通の告発書がきっかけだった。匿名で届けられたその郵便物には、香月の言うような賭博や八百長といった行為が対抗戦の裏で横行していることを告げていたのだ。去年の冬の話である。
 これを受け、第六三期――すなわち先代の三役たちは独自の調査を行うこととした。委員監査会のスタッフから人員を割き、対抗戦関連の情報を収集を指示したのである。
 結果的にそれらしい痕跡は見つかった。外部の人間が各運動部の情報を求めていたという証言が出てきたし、出所の特定には至らなかったが、生徒の間でも対抗戦の競技を巡った賭博が行われているという噂が影ながら囁かれていることが判明したのだった。
 調査に当たった監査委員たちは、確証こそないものの「心証は限りなくクロに近い」と口を揃えた。

「いずれにせよ、そのような噂があり、疑惑があり、それを半年に及ぶ委員監査会の調査でも明らかにできなかったという事実があります。不正があったと証明することはできなかったけれど、逆に無かったと正式にアナウンスできるだけの材料も集まってない。従って私は、候鳥会に本件の調査義務があることを壱棟長として主張します」
「異議なし」
 大津は間髪入れずに言った。日吉、松田、香月が続く。
「では、全会一致をもって本件の調査続行を決議としましょう」
 坂本は満足そうに微笑んでそう宣言すると、すぐに表情を引き締め言葉を続けた。
「それで話は戻るけど、どのような調査方法を採用するかを考えないといけないわ」
「さっきも言ったけど、事を大袈裟に構えるのは問題だと思うんだよ」
「そうだな」松田の言葉に頷きながら大津は言った。「日吉の指摘通り、メリットよりデメリットの方が目立つということもある。俺たち五人と委員監査会の信用できるスタッフだけで何とかするほかないだろう」
「情報の漏洩を防ぐためには、それに触れる人間の数を極力小さくする。常道ですね」
 香月は形の良い唇を歪めると楽しそうに言った。
「だけど肝心の調査方法は?」
 松田はペンを回して遊ぶのに飽きたらしく、今度はそれをドラムステッキのようにして円卓をリズムカルに叩き始めた。本人、恐らく意識しての行為ではないのだろう。
「ぶっちゃけた話、これって雲を掴むような何とも言えない事件じゃない。先代たちの調査だって、結局収穫なしで終わったんでしょ。どこから、何を足掛かりにして犯人探しやるわけ?」

 まさに問題はそこにあった。
 候鳥会はあくまで為政者であり、そのための経験を一、二年積んだだけの集団に過ぎない。警察や税務調査官などではないのだった。彼らの仕事は学内の秩序を守り、生徒のためによりよい環境を整備していくことにある。生徒の関与した不正行為の証拠を見つけ出し、これを白日の元に晒すような仕事は――全く無関係とは言えないものの――畑違いであった。
 室内に重たい沈黙がおりた。こうしたケースを経験するのは誰もが初めてのことであり、事の大きさも相俟って慎重にならざるを得ない。姿が見えない敵を前に責めあぐむような状態だった。
「――泪、貴女には何か考えがあるんじゃないの?」
 坂本のその一言は、静まり返っていた室内にあって奇妙に大きく聞こえた。
 大津を含めた全員の視線が、俄かに日吉泪へと集められる。当の彼女は臆する様子もなく、静かにそれを受けていた。
「前にも言ったけど、自己の主張に消極的なところは貴女の大きな欠点の一つよ」
 坂本は表情を和らげると、優しく諭しかけるように続けた。
「私に気兼ねすることなく、貴女は自分の思ったことを何でもストレートにぶつけて良いの。それが私たち最上級生の出した意見を上回るものだったとしても、遠慮なんかしなくてかまわない。それで面子を潰されたなんて考える狭量な人間は、少なくともここにはいないはずだから」
 その言葉を受けて、日吉は少し逡巡するような様子を見せた。大津は全く気付かなかったが、彼女は本当に自分だけの切り札を手元に隠し持っていたらしい。その表情を見る限り、松田や香月も大津と似たり寄ったりのことを考えていたようだった。坂本だけが唯一、手塩にかけて育ててきた後輩に腹案のあることを察知したのだ。
「どうなの、泪。貴女に考えがあると思ったのは私の勘違い?」
 更なる坂本の追求を受け、日吉は観念したように小さく嘆息した。そしてゆっくりと口を開く。
「貴女には敵わないですね」
 そう言うと、日吉は珍しく口元を綻ばせた。が、それも勘違いかと思わせるような一瞬のことである。彼女はすぐに真顔に戻ると、いつもの事務的な口調で言った。
「結果の保証はできかねますが、確かに策はあります」



11.

 翌日の放課後、男女二名の監査委員が孤舟館四階 <円卓議堂> に召喚された。委員監査会に所属するスタッフは、このような緊急招集を受けることが稀にある。こうしたとき、期日までに余裕があれば書状を自宅に郵送することもあるが、急を要する場合は電話連絡が直接本人の元へいくようになっていた。監査委員には、それぞれ受信専用の携帯電話が一台ずつ配布されることになっており、これを通じて <候鳥会> は彼らを呼び集めるのだった。
 この方法であれば、 <候鳥会> は監査委員を個人単位で迅速かつ確実に招集できる。また、個人電話を利用した通信は、他人に傍受される恐れがないのも利点だった。
「急な話に応じていただいて感謝しています」
 円卓に着いた坂本壱棟長は、来客用に急遽用意されたパイプ椅子に腰掛ける二人の監査委員に微笑みかけた。親しみを感じさせる柔らかい口振りで続ける。
「早速だけど、あまり時間がないのですぐに本題にはいらせてもらうわね」
 緊張の面持ちを隠しきれない監査委員たちは、その言葉に居住まいを正す。大津は彼らが気持ちの準備を整えるまで待ってから口を開いた。
「今回も然りだが、君たちには我々の要請を拒否する権限がある。仕事の内容をきちんと理解した上で、協力してくれるかどうかを慎重に判断して欲しい。――ただし、壱棟長も言ったように時間がほとんどない。どちらを選択するにせよ、この場で迅速に決定してもらう必要がある。慎重かつ迅速に、矛盾してるようだがよろしくお願いする」
 はい、と二人の委員は声を揃えた。
 大津の見たところいずれも地味な風体の生徒で、人の印象に残りにくいという点で監査委員に向いた男女だった。しかし、彼らの能力を外見で判断するのがいかに危険なことであるかを大津は良く知っている。一見地味ではあるが、彼らは両名とも一年間の経験を積んだ二年生委員で、実直な仕事ぶりと信頼性においては委員長らに高い評価を得ている人材だった。

「まず、この話を引き受けてもらうことになった場合、本件を最後に貴方たちには監査委員の任から降りてもらうことになります」
 坂本はその言葉を努めて事務的に発したが、それでも委員たちに少なからぬ衝撃を与えたようだった。二人は無言で話の続きを促す。
「――と言うのもね、今まで裏方で仕事をする一方だった監査委員に、今回ばかりは陣頭に出て目立ってもらう必要があるからなの。貴方たちには名前を出し、目標と直接的に接触して役目を果たしてもらう必要があります」
「あの、どういうことでしょうか?」女子の方が怪訝そうな顔で言った。
 当然の質問だという風に一つ頷いて見せると、坂本は静かに説明を加えた。
「貴方たちにやってもらいたいのは、対抗戦を賭博の対象としている者があるか否か、またそれに我が校の生徒が関連しているか、関連しているとすればどのような形であるか等を調査することです。
 そしてもし賭博や八百長が実際に行われているとするなら、それを証明すること。不正を行っている人間たちと直接的に接触し、確証を得ることです。できるなら賭博に参加して、実際にそれがあることを確認してもらいたいと考えています」
「二人とも去年から監査会にいるわけだし、そういう噂があったことは知ってるよね?」
 坂本の言葉を引き継ぎ、松田が確認するように問うた。二人の監査委員は重々しく頷く。それを見て、松田は悪戯っぽくも見える笑みを浮かべた。
「つまり、その話にいよいよケリをつけようじゃないかってわけ」
「自分たちが表に出るっていうのは?」
 男子委員が、真一文字に結んでいた口をはじめて開いた。低く、若干戸惑ったようにも聞こえる声は、彼の心情をそのまま表わしているのだろう。

「私たちが欲しいのは何らかの結論なの。候鳥会の署名を添えて、生徒たちに報告できるくらい確実性のある。――だから例の不穏な噂が真実に基くものなのか、デマなのかをハッキリさせなくちゃいけない。そのために、私たちは誘導策を講じることにしました」
 身内を疑うのは本意ではないが、本当に対抗戦の裏で不正が横行しているのなら、少なからず白芳の生徒もこれに関与していると考えるのが自然である――と坂本は続けた。
 まず、こうした人間をあぶり出すために、「対抗戦の賭博に参加したがってる人間がいる」という噂を流す必要がある。
 こちらから探し出すというやり方が過去に実績を上げなかった以上、今回は向こう側からこちらに接近してくるように策を巡らせなければならない。それには、こうした誘き寄せが一番有効なのだ、と彼女は解説した。
「貴方たちには、その賭博に参加したがっている人間を演じてもらいたいの。それぞれ男子側と女子側でいま言ったような噂を流し、向こう側がその餌に食いつくのを待つ。ギャンブルに関係している人とのコンタクトに成功すれば、あとはそこから中心にいる人物――或いは組織まで辿っていけば良い」
「お言葉ですけど、それは口で言うほど簡単じゃないと思います」
 少し躊躇するような仕草を見せてから、女子委員は遠慮がちに言った。隣の椅子に腰掛ける男子委員の方も同感らしく、彼女に賛同の意を示すため小さく頷いて見せた。
「第一、そんな噂が広がったら何も知らない生徒たちが混乱しはしませんか」
 彼は膝の上で拳を握ると、冷静に問題点を指摘した。
「それに教師側や理事会も事態を看過してはいられなくなると思います。最悪、今年の対抗戦をとりやめにするかもしれません」
 候鳥会を前にすると、その強大な権限に恐怖したり萎縮したりして自分の意見を表向きに出来なくなる者が多い。そんな中、彼のように堂々と発言してくれる者は存在としてありがたかった。
 なかなか理解してもらえないことだが、候鳥会は手下や信者を作りたいのではない。友人を求めているのだ。
「――もちろん、そのリスクは承知しているわ」
 坂本は彼らを安心させるように微笑んで見せた。
 実際のところ、いま監査委員が指摘した問題点については、大津たちも昨日の時点で既に気付いていた。それに対して日吉泪が提示した通りの策を、今度は坂本が委員たちに繰り返す。
「生徒側に関しては、もう貴方たちの技術をあてにするしかないと思っています。噂を広め過ぎても不都合だし、逆に浸透が充分でなければ効果は期待できない。適度に、周囲の反応をフィードバックしながらやってもらうしかないわね。
 もう一方の教員、評議員、役員、また沢野井サイドの反応については、私たち候鳥会が責任をもって抑えることを約束します。この話は明日から早速実行段階に移すつもりなんだけど、その前に私が理事長に直接かけあって、今回のプランを承認していただく予定です。彼女には予め全てを明かし、その上で我々の活動の自由を保障して貰おうと思っています」
 二人の監査委員は少し驚いたようだったが、最終的には納得したように首を縦に振った。坂本雅美ならば、その交渉を成功させるだろう。過去の実績から彼らがそう判断したことに、大津は気付いた。

「でも……」
 女子の監査委員は、口にしかけた言葉を慌てて飲み込んだ。それから自分の与えた印象を確かめるように、大津たちの顔色をチラチラと窺う。
 普段は決して立ち入ることの許されない領域に足を踏み入れ、生徒としては強すぎるとも思える権力を有した人間たちと対峙しているのだ。彼女の緊張は大津にも理解できた。だが、それに終始しているようでは進歩がない。
「あのね、この場では変な遠慮なんかしなくて良いんだよ。と言うより、してちゃ駄目なんじゃないかな」
 松田のその言葉は、女子委員に発破をかけるようにも、或いは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「やっぱりさ、自分が何やるのか納得した上でないと満足のいく仕事ってなかなか出来ないもんでしょ? だから言いたいことは言って、聞きたいことは聞いて、確信を得ておいた方が良いと思うんだよ」
 もちろん、納得できなくても仕事はこなしていかなければならない。むしろ、そうしたケースの方が現実では多いだろう。そう松田は指摘した。だからこそ、チャンスがあるときはそれを自分の成すべきことの本質を良く知るべきなのだ。
 彼女が口にしたその言葉は、大津にも聞き覚えのある文句だった。記憶が確かなら、それには続きがある。
 生徒会役員には普通の生徒にはない特別な権限が与えられており、本校では特にその傾向が強い。それが意味することは、大きく二つ。我々は一般生徒と比較して、その言動により大きな責任を負わねばならないということ。生徒会役員は皆が納得し、また自分でも満足できる仕事をやり遂げ、常に結果を出していかねばならない、ある種の職業的為政者であるということ。
 ゆえに会の職務に妥協は許されるものではない。何かに疑問を持ったのなら、誰に遠慮することなくあくまでそれを追及しなければならない。
 やはり場の雰囲気に馴染めず、なかなか声を表に出すことができずにいた新人時代、大津たち三人に向けられた先代の叱咤と激励である。

「そうですよ」今まで大人しくしていた香月も言葉を添えた。「こういうことに関しては、僕らなんかより専門的な経験を積んだ貴方がたの方が熟達してるんだから。何かあるならちゃんと指摘してもらわないと僕らが困ってしまう」
 そうした <孤舟> たちの言葉が随分と効いたらしく、女子委員は恐縮したように俯くと小さく謝罪の言葉をした。
「で、さっきは何を言おうとしたの?」
 松田が改めて問うと、彼女は意を決したように顔を上げて小さく息を吸いこんだ。
「私が心配なのは、本当にそれが成功するのかと、騒ぎが無駄に大きくならないかです」
「具体的にはどういうこと?」
「去年から足掛け一年続けてきた調査からすると、対抗戦の裏で何かが起こっていたことはほぼ間違ないと思います。でも、いま企画されてるような大掛かりな対策をとるほどのネタなのかは分かりません。むしろ数人だけで完結している、ごく小規模なものだという可能性もあります。過去の調べで事実をハッキリできなかったことも、規模が小さかったからだと考えれば説明はつきます」
 彼女は一旦そこで言葉を区切り、周囲の人間の反応を観察した。誰もが無言で先を促していることを感じ取ると、唇を湿らせて続ける。
「――もし、そうした限られた人間による閉鎖的なものであれば、私たちが餌になる噂を流しても彼らは食いついてこないんじゃないでしょうか。しかも対抗戦本番は今週の土曜日です。時間の関係から考えても成功率は低いと思えてなりません。
 それに、そういう小さな事件に対して私たちが大袈裟な対応を見せると、必要以上に騒動や混乱を大きくしてしまいそうで不安です。普通、コンビニの万引き犯を捕まえるために検問を設置したり、警官隊を動員して包囲網を張ったりはしませんよね」

「なるほど、良い意見だ」
 大津は心から言った。確かに規模に関する彼女の指摘は論理的だったし、これから行動を起こすには時間があまりに少ないことも確かだ。だがそれらは、昨日の時点で既に検証済みのことでもあった。同じ意見が香月から出ていたのである。
「貴女は――」
 日吉泪はおもむろに口を開くと、表情の見えない顔を女子委員に向けた。
変則的なケースを除いて、八百長賭博が成立し得る最小構成人数を何人だと考えるかしら」
「えっ?」
「八百長賭博をなりたたせるために必要な、最低限の人数を訊いているの」
 日吉は繰り返したが、答えが返ることを期待していなかったのだろう、そのまますぐに続ける。
「三人よ。普通の賭博ならそれ以下でも可能だけど、八百長という要素を絡ませるのなら少なくとも三人以上の関係者が必要になってくる」
 それから日吉は、昨日の会議上で大津たちを相手に披露した論を再び語り始めた。それはAとBの二人が拳闘の試合を賭けの対象にしたとする、仮定の話である。
 この試合で対戦するのは選手Cと選手Dの二名で、AはCの勝利に、BはDの勝利にそれぞれ一万円賭けることとする。ここでBが確実に一万円を得るため、C選手に試合でわざと負けるよう交渉する展開を考える。提示されたのは、協力すればAから巻き上げた一万円を五〇〇〇円ずつ山分けする、という条件である。
 この話に選手Cがのれば、その時点で八百長賭博は成立したことになる、と日吉は語った。最小人数の三名、すなわち金を賭けるAとB、試合にわざと負けるCの三名が揃ったからだ。
「貴女が心配しているのは、こうした個人レヴェルの小さな賭け事であった場合、これを見つけ出すのが困難であろうこと、またこれに対して大々的な調査を行うのがあまりにリスキィである点でしょう」
 半ば呆然と日吉の話を聞いていた女子委員は、その質問が自分に向けられたものであることに気付くと慌てて頷いた。

「私は幾つかの根拠から、その可能性は低いと見ている。考えてみなさい、子供地味た程度の低い賭博で八百長をやろうというのがどれだけの冒険か。もしその事実が私たちに露見した場合、彼らはどうなるかしら」
 二人の監査委員は、打たれたようにハッとした表情を見せた。
 白芳には委員監査制度があるため不正の検挙率は非常に高い。それは彼ら委員監査会のスタッフが一番良く知っていることだった。つまり規律や伝統を重んじる白芳で――しかも対外的な影響力の極めて強い対抗戦で不正を働くのは大きな賭けだといえる。
 事が公になれば厳罰が下されるであろうことも想像に難くなかった。八百長を演じた者が部活動の選手なら、その人物は間違いなく追放処分を受けるだろう。
 個人の問題に収まらず、これが部全体の不祥事として解釈された場合は更なる悲劇に発展するとも思われた。チーム競技を専門とする部なら公式大会への出場が断念されるであろうことも予測できる。部自体が存亡の危機にさらされることもあり得るだろう。
 それだけで済むなら幸運だ。校則ばかりでなく国や自治体の定めた法規によっても処罰の対象となるのが賭博である。不正に直接関与した生徒には下手をすれば退学、除籍といった最悪の処分が下されることも充分に考えられた。

 自分の発した言葉が相手に充分理解されたことを確認すると、日吉は再び口を開いた。 「貴方たちは、いくらでなら部活動で続けてきた努力とチームメイトの将来を犠牲にできる? どのくらいの金額と引き換えなら、自分の経歴に高校中途退学という汚点を刻みこむ気になる?」
 高校生が賭け事のためにポンと出せる金額を口にする者は、恐らくかなり限られてくるだろう。大津は、たとえ三年分の生活費を提示されたってご免だった。良心や自尊心の問題もある。
「わかるでしょう。かなりの額を積まれたって、退学や除籍のリスクを犯そうという人間はそう出てこないものよ。全くあり得ない話でもないけど、しかし私立の白芳に通えるような家庭の子がお金に窮していると考えるのも不自然。――だとすれば、結論として対抗戦の八百長賭博では相当の額が動いていると推定されることになる。人間ひとりが、思わず理性的な判断を失ってしまうくらいの」
 そうなれば、二人や三人といった個人レヴェルの話では収まらなくなってくる。組織単位の、かなり大掛かりな賭博が行われていると考えた方が無難である。日吉はそう指摘した。

「第二の根拠は、対抗戦賭博が複数年にまたがって行われてきたと思われること。去年の調査によれば、卒業生の中にも対抗戦で不正が行われていたというような噂を聞き知っていた人間が確認されている。根拠としてはこれだけで充分だけど、他の考え方からも賭博が昨日今日始まった話じゃないことは見えてくるわ」
「たとえば?」香月が小さく首を傾げた。
「組織的な賭博を行い、これを軌道に乗せるためにはかなり準備が必要になってくると思われる。これは理解できるでしょう? 人を集めなきゃいけないし、それには信用がいる。信用を得るには実績と時間がいる。
 それだけじゃなく、賭けの対象となる種目や選手を見出す必要もある。しかし各選手の公式試合における成績や体調、モチベーションなどの細かいデータを集めないとオッズ設定ができないし、公平なレースは成立しない。しかも高校生だから年度ごとに実力が大きく変動することも考えられる。これに対応して必死に記録してきたデータも、結局は最大で三年程度しか使用できない。制約は他にも色々と考えられるわ。クリアするには組織力と充分な時間が必要になってくるでしょう」
 これは、昨日の彼女の話にはなかった指摘だった。敢えて端折り、役者を揃えた今日の席上でまとめて話そうと考えていたのだろう。大津は日吉の合理主義に苦笑しながらも、話に集中することにした。
「更に、これに八百長を絡めようとすると条件はもっとシビアになる。誰も八百長が行われている賭博になど参加したがらないでしょうからね。最初にも言ったけれど、こうしたことでは信用問題が非常に重要視されるわ。対抗戦賭博がクリーンなものであることをアピールするため、実績を重ねて人々にそれを信じさせなければならない。一年二年といった短い期間では、とても実現できた話じゃないのよ。
 一度限りで良いというのなら八百長のやり逃げということもできるけど、組織的な賭博を経営しようという連中はもっとクールに考えるでしょう。長期的に市場を育て、安定した利潤を得られるようにした方が結果的に得られるものは大きい。藁の中の針といった具合に、巧妙に八百長の事実を隠しながら上手く儲けを操作したほうが良い。私ならそういう風に計算するわね」

「しかし、日吉。お前はどれくらい前から対抗戦がギャンブルのネタにされてきたと思ってるんだ?」
 大津の問いに対する日吉の反応は早かった。恐らく、事前にそれについても考えをまとめてあったのだろう。
「私の考えでは、恐らく一〇年から一五年」
「え、そんなに前から?」
 自らの想像を大きく上回る数字だったのだろう、松田は大きな眼を更に大きく見開いて驚愕を露にする。彼女ばかりでなく誰もが似たり寄ったりの反応を見せていた。
「貴女のことだから色々考えがあるんでしょうけど、その数字の根拠はなに?」
 坂本は隣席に座る後輩に、落ちついた口調で訊いた。
「憶測の域を出ないものですし、私も自信を持って出した数字ではありません。参考程度に考えておいてください」
「……分かった。どのみち主題からも若干逸れる話だしな」
 大津が言うと、日吉は顎をかすかに引いて見せた。彼女なりの感謝の証なのだろう。
「なんにせよ、相手の力が一〇とも一〇〇とも考えられた場合、これを一〇〇だと想定して対処するのが候鳥会ひいては白芳生徒会の基本方針です。それに日吉長佐の論には相応の説得力を感じました。壱棟長として、彼女の弁の妥当性を認めたいところだけれど?」
 坂本はゆっくりと室内の論客たちを見回し、異論を展開しようという者がいないかを確認した。もちろん、口を開こうとするものはいなかった。その正誤を別にして、日吉より深い考察を成し得た者はこの場に誰一人として存在しなかったからである。

「――では、私たちの方針にご理解をいただいたようなので、貴方たちにも最終的な意志確認をとらせてもらいたいと思います」
 充分な間をおいてから、坂本は対面する二人の監査委員に顔を向けた。
「今までの話から、本件の調査が白芳にとって極めて重大な意味を持つこと、また表に出て外部の人間と接触する可能性があることなどを考え合わせると、相応の危険を伴う話であることが明らかになりました。それを踏まえた上で考えてください。貴方たちの力を、全校生徒のために貸していただけますか」
 質問の体裁をとってはいたが、大津にはそれが閉会宣言のように聞こえた。結論は既に見えているのだ。
 候鳥会にここまで喋られると、雰囲気的に監査委員は話を蹴りにくくなるだろう。しかも坂本は最初から徹底した低姿勢を貫き、あくまで自分が協力をお願いする立場にあることを印象付けてきた。
 多くの前例からも明らかなように、いま二人の監査委員は「坂本雅美を助けられるのは自分たちしかいない」といった気分になっていることだろう。溺れた子供を助けるべく使命感に燃え、既に服を脱ぎ始めている段階だ。そのあたりの心理効果を――半ば意識的に、半ば無意識に――計算した上で、坂本はこのような話の運び方を選んだのだ。そもそも人選の段階から、高確率でYESの回答をよこすであろう人間を見極めている。
 坂本はこうした交渉術の手腕を買われて、先代に棟長の座を任された人材なのだった。



12.

 ――しかし、今回の計画は上手くいくのだろうか。
 放課後の定例会議を終えた後、大津はグラウンド近くの自動販売機に向かいながら首を捻っていた。
 昨日の会合で監査委員を説得したまでは良い。彼らはさっそく、手筈通りに事を進めているはずだ。賭博に関わりたがっている人間がいるという噂は、もうそれなりの広がりを見せ始めているかもしれない。
 だが、今日はもう水曜日なのだ。土曜日に対抗戦が本番を迎えることを考えると、どうしたって時間的な厳しさを指摘せざるを得なかった。あと二日しか猶予がないのでは、せっかく流し始めた噂もなかなか浸潤してはくれないだろう。
 ただ、この計画の発案者が、あの日吉泪であることを忘れてはならない。大津はスラックスのポケットから財布を抜き出しつつ、そのことを強く意識した。日吉は典型的な「攻め」の人間だ。防御すらも、彼女にとっては反撃に繋げるための伏線でしかない。しかも相手の打撃を防ぐためのシールドには、触れれば大怪我をする無数の刺が埋めこまれている。攻性防御というやつだ。あの娘なら、単純きわまりない計画の中にも複雑な計算性を静かに潜ませ、最後には誰もが考えもしなかった結果を引き出すに違いない。
 昔から言われていることらしいが、 <師光> は凡人の系譜を描き <千草> は天才のそれを作るという。――確かにその通りだ、と苦笑しながらコインを投入口に押し込んだ。
 空手道部に在籍していたころの名残か、大津は自動販売機の前に立つと必ずスポーツドリンクを選択してしまう。普通の飲み物と違い、胃を通過する速度に優れるため当時から愛飲していたのだ。
 大津は取り出し口からアルミ缶を掴み出すと、一度頬に当ててからプルタブを起こした。
 これも空手をやっていたころの癖だった。練習で火照った身体に、冷たい缶の感触が心地よかったのだ。改めて、染みついた習慣とは恐ろしいものだと実感する。空手はやめたはずではあったが、大津は今でも現役時代に行っていたのと同じ柔軟体操を毎日のようにこなし、時間が許す限りランニングや簡単なウェイトトレーニングを行っていた。そうして身体を動かしていないと、どうにも気持ちが落ち着かないことが良くあるのだ。
「――お前、まだそれやってたのか?」
 缶を傾けスポーツ飲料の甘さを味わっていると、苦笑まじりの涼やかな声が背後から聞こえた。懐かしさを感じながら振り向けば、予想通りの男が予想通りの表情で立っている。右手で、缶を頬に当てる仕草を真似ていた。
 体格は大津とほとんど変わらなかった。ただ、制服ではなく空手道着を身につけている。腰には糸がほつれ縁の部分が白っぽく見える、使いこまれた黒帯が締められていた。
「自分でも呆れてたところだ」
 大津がそう返すと、空手道部主将、武田信彦はもう一度笑った。大津は自動販売機の前から身体をどかし、彼に場所を譲る。
「部活やってない人間が、なんでこんな時間まで残ってるんだ」
 武田は販売機の前に進み出ると、大津の顔を見ずに言う。
「会議さ。いまも重要案件をまとめてきたとこだよ。棟長ってのは忙しいんだ。だから部も辞めたんだろ」
「ああ、そうだった。ご苦労なこって」
「で――」大津は缶から口を離すと背中に問いかけた。「そっちの調子はどうなんだ、部長。対抗戦は期待していいのかい?」
「悪くねえっスよ、棟長」
 武田は販売機と向き合ったまま顔だけ大津に向け、ニヤリと笑う。お互い、春から背負うようになった肩書きを持て余していることは承知し合っていた。

「ただなあ……」
 正面に視線を戻すと、武田は握っていたコインを投入口にスロットする。硬貨が落下していく引っ掻くような音が聞こえてきた。
「今年は勝たせてやりたい。俺は良いから、一年二年には何とか」
 少し考えた後、大津にはその理由に思い至った。
「――山下か」
「あいつが同じ市内にいると、やっぱり奴らが可愛そうでな」
 武田の言葉には重たい実感が篭っていた。空手をやる人間には、それだけ大きなことなのだ。
 天才、山下剛。白丘第一高等学校に在籍する高校空手界の新星だった。武田や大津の一年後輩だが、全国でも三指に入るその実力とは比較できるものではない。一生努力しても敵わない、と大津が初めて認めた存在でもあった。
 候鳥会入りして多忙になったことが空手部を退いた一番の理由だったが、山下剛という存在を知ったこともまた一因としてある。彼がいる限り、個人種目では区内でさえ頂点に立つことはできないのだ。
「第一は山下だけじゃなくて団体でも強いからな。今年も確実に全国までいくだろう。白芳に可能性はないわけだ」
 重たい音をたてて缶が現れると、武田はそれを手にして体ごと大津と向き合った。
 似たような事情は多くの部が抱えている。どちからというと伝統、格式、進学率といった文化的側面に力を入れる白芳において、部活動はそれほど活発ではない。体育会系はなおさらである。区内、県内には大きく水を開けられた常勝校が必ず存在し、公式大会などでの活躍はもっぱら彼らに任せきりというのが現状だった。

「結局、対抗戦くらいでしか満足な試合はさせてやれないからな」
 武田は自嘲的な笑みを浮かべ、大津と同じスポーツドリンクを一口含んだ。
「お前も知ってるだろうけど、公式の大会じゃ話にならないって分かってるから、あいつらも普段はあまり練習しねえんだ」
「ああ、その点に関しちゃ俺たちも人のことは言えなかった」
「そうそう。でも、対抗戦が近いってなるとやっぱり違うわけよ。あいつら滅茶苦茶ハリキリ出してさ。どうやって楽するかばっかり考えてたような駄目部員たちが、俺をつかまえて稽古つけてくれとか言い出すんだ。それがなんか、えらく嬉しくてな」
 その光景を想像するのは簡単だった。大津自身、似たようなものだったからだ。
 空手部にいたころは、対抗戦だけがほとんど唯一の慰めだった。実力の拮抗した沢野井となら、惨めな負け方をせずとも済む。見たこともない数の観客に取り囲まれ、スポットライトを浴び、誰かの期待を背負いながら勝負の緊張感を満喫できる。
 だから、大津が部を去ったのも対抗戦の直後だった。辞めるにしても対抗戦だけは経験しておきたかった。対抗戦の三ヶ月間は、この武田を相手に三年分の練習をした。胃液を吐き出すようなきつい練習だったが、それでも充実感があった。鍛錬した分だけ対抗戦を盛り上げることができると信じられたからだ。

「今年の新人はさ、才能ある奴が多いんだ」
 武田はまるで我がことを語るように顔を輝かせた。だがすぐに声のトーンは落ち、表情は曇る。
「だけど俺みたいなのが部長やってて、あげく山下みたいなのが近くにいられたんじゃな……。大会だって、いつもボロ負けで試合らしいこともさせてもらえないで終わる。環境さえ整ってりゃ、あいつら絶対強くなれるはずなのに。俺の力じゃ、あいつらの力を活かしてやれなくてさ」
 それでも後輩たちは自分を慕ってくれる、と武田は辛そうに語った。
「せめて対抗戦でくらい、良い目みさせてやりたいよな。空手やってて良かったって思わせてやりてえだろ。俺も一応は部長だしさ。一度で良いから、あいつらに勝ち試合をやらせてやりたいよ」
 彼は何度も、勝たせてやりたいと繰り返した。
 結局、多くの部がこうした切実な事情を抱えているのだった。それは沢野井側も同様だろう。だからこそ対抗戦は盛りあがるのだ。
 誰からも期待されず、見向きもされず、他校から力の差を見せつけられるばかりで自分の成長を伺うことすらできない。そんな部活動を続けてきた選手たちが、年に一度だけ輝ける瞬間。それが対抗戦なのである。
「――そういやさ、山下の野郎に専属マネージャーがいるって話、聞いたことあるか?」
 しんみりした雰囲気を払拭したかったのだろう、武田は努めて明るい声を装いながら話題を変えた。棟長として多忙を極める大津に、よけいな心配をかけたくなかったに違いない。無骨そうななりはしているが、武田には常にこうした気遣いがあった。
「マネージャーってなんだよ。空手にそんなのが必要なのか」
「俺もそう思うんだけどな。でも、いるらしいんだよ。空手部とは関係なくて、山下のためだけに存在してるらしい。ケイコちゃんだとか、そんな名前なんだと」
「と言うことは、女体か?」
「うむ。聞くところによると女体の持ち主らしい。しかも相当かわいいとか」
「許せんな」大津は眼を鋭く細めた。「あいつの理不尽な強さより、むしろそっちが許せん」
「むしろな」
 大津は武田に八百長賭博に関することを聞こうかとも考えたが、結局は笑顔のまま別れることにした。部と後輩たちのことを案じ、懸命になっている人間に差し向ける話題ではない。

 何者が対抗戦に金を賭けようが、それは勝手である。だが節度と程度の問題はあった。誰もが楽しめるのなら良いものの、結果的に選手たちに迷惑が及ぶようであるなら、大津は候鳥会の一員として、また武田たち選手の友人としてこれを見逃すわけにはいかない。
 年に一度しかない催しを汚されたり、理不尽に奪われることが彼らの気持ちをどれだけ傷つけるか、それに思いを巡らせるだけで胸苦しさを覚えるものだ。
 もしそれが現実となれば、武田は男泣きに泣くだろう。自分のためではない。同輩や育ててきた下級生部員の無念を思って、彼は涙を見せるはずだった。そうしたものと引き換えに手に入れなければならないものなど、大津には思いつかなかない。何もないはずだった。少なくとも金は違う。
 空になった缶を一気に握りつぶし、屑入れに放り込んだ。
 他人から評価される機会の少ない人間が、その中で懸命に培ったプライドはかけがえのないものだ。白芳、沢野井という弱小校の選手たちは、そのささやかなプライドのために対抗戦を迎える。かつて同じものを掲げた人間として、大津はそれを理解しているつもりだった。
 彼らを守ることは己を守ることなのだ。それが不可分なものであることを知ったから、大津は棟長の座を継ぐことを決めた。

 少しだけ冷たい風が校舎の谷間を吹き抜けていった。武田が戻って行った道場には、まだ明かりが煌煌と灯っている。グラウンドからも選手たちの威勢の良いかけごえが木霊してきていた。太陽は既に奥羽の山並みに没しかけているが、辺りが夜の装いに変わってもこの喧騒は続くのだろう。
 気持ちを切り替えるように小さく嘆息すると、大津はグラウンドに向かった。候鳥会での会議が終わると、最近は毎日こうして校内を見回っている。
 三役としての仕事に追われるため、大津たちは競技に選手として参加することはできない。だから、せめて彼らの練習風景を眺めて雰囲気だけでも共有しておきたかった。また、モチベーションを維持する意味もあった。現場の人間がどのような努力を積み重ね、どんな意気込みでいるかを肌で直に感じ取れば、彼らのためにも対抗戦を失敗させるわけにはいかないという気が高まる。候鳥会での仕事にも力が入るのだった。
 しかし何事にもマイナスの効用というものがある。
「――まだ残っていたのかね」
 その声の主を視界に捉えた瞬間、大津は無意識に顔を顰めそうになった。放課後に辺りを歩きまわっていれば、生徒の監督を名目にして同じように校内を巡回している教員と鉢合わせることがある。三年の学年主任、高嶋晋一もそうした人間のひとりだった。
「はい。さっきまで会館で仕事があったんで」
「それはご苦労だったね」
 労うような言葉ではあったが、そこには全く温かみが感じられなかった。
 高嶋は四〇代後半のベテラン教師で、現代社会や公民を担当している男だった。教職員を代表する者の一人として評議員の立場にもある。身長は日本人として平均的な水準にあったが、大きく突き出した腹から察するに体重は平均値を大きく上回っていそうだった。卵型をした頭部には申し訳程度しか頭髪が残っていない。
 学年主任を務めるような教師が生徒に慕われたためしなどなく、それは高嶋の場合も同じである。彼の価値観は、教師が聖職だともてはやされていた時代から変わっていないのだ。教師である己はつねに生徒から敬意を払われる存在であり、現状ではそれが満足に果たされていない――。彼がそう信じ込んでいることは言動の端々から容易に窺える。
「用が済んだのなら、そろそろ帰りなさい。対抗戦のために特例として夜間の練習を認めてはいるが、本来なら生徒は遅くまで校内に居残るべきじゃない。監督は顧問の先生方に任せておけば良いよ。それとも君は、我々に生徒の指導を任せる気にはなれんか?」
「いや、そんなことはない。学校側の理解にはいつも感謝してますよ」
 大津は務めて平静を装いながら言った。敢えて浮かべてみせた微笑が引きつっていないことを祈る。
「それじゃ、確かに時間も遅いんで、自分はこれで帰らせてもらうことにします。先生、後のことは――」
「ああ、心配しないで早く帰りなさい」

 大津は小さく会釈すると、踵を返してそそくさとその場を後にした。
 高嶋のように候鳥会に対して良い印象を抱いていない教員は多く、これまでも様々な摩擦を経験してきたものだが、未だに彼らの対応には悩まされる。恐らくこれからも、そして卒業してからもそれは変わらないのだろう。
 候鳥会と教員の対立問題はそれだけ根が深い。そもそも候鳥会は、学内で教員たちがあまりに強大な力を持ち過ぎた昭和初期、パワーバランスの均衡を図るために組織された存在である。対立の図式は、既にこの時から決定付けられていたのだった。
 大津は、候鳥会に入って最初に与えられた仕事が「学園の歴史を学べ」というものだったことを思い出した。その過程で特に印象に残ったのは、やはり候鳥会設立のきっかけとなった昭和初期の事件である。それは、一人の男の寛容が生んだ騒動だった。
 白芳の創始者であり、また当時の理事長であった故千草崇文氏は、決して校内運営に口を出そうとしない人物であったと聞く。学校法人の事業といえど商売には変わりなく、理事長の主な任務は学園の経営であり、あけすけに言えば金勘定に他ならない。それ故に、彼が理事長として校内の出来事に口を出せば、それは経営者としての介入ということになる――。
 当時、学舎とは生徒が自己を研磨する神聖な領域だと考えられていた。そうした環境を思うため、千草理事長は学園の内部事情に不干渉の姿勢を貫き、自分はあくまで経営にのみ集中することとしたのだという。ソロバンを弾くのに終始する自分の手で生徒たちの世界を壊したくない。経営論や金勘定といった裏側を意識させず、のびのびとした学園生活を送らせてやりたい。そうした考えがあったのだろう。
 しかし、それが裏目に出た。県知事とのパイプを持つ相馬という男が学長の座についてから、白芳は急速に腐敗していったのだ。相馬は評議員や監事、教員たちを買収し、寄付金による生徒の差別化を推進し始めた。保護者に多額の寄付金を要求し、その額に応じて生徒たちを格付けするようになったのである。
 そうして集められた金は、大半が相馬一派の懐に流れこんでいったという。校内では公正な教育が失われ、特待処置という名の贔屓や差別が横行した。
 こうした腐敗退廃は、六五年前に理事長の孫娘である千草冴子が入学するまで続いたらしい。
 彼女の報告によってようやく白芳の現状に気付いた千草崇文は、生徒による自治組織 <校友会> の設立を認可、現在の候鳥会に繋がる強大な権限を与えてパワーバランスの調整と、校内事情の浄化を図った。
 県知事と繋がる相馬を早急に排除するのは難しかったし、彼が作り上げたシステムは白芳の有する旧来の自浄能力ではもはや如何ともし難い状態にあったのだ。

 現在、相馬校長は既に退任して久しく、 <校友会> の大掃除によって彼の息がかかった関係者たちも粗方片付けられている。しかし教員対生徒会の対立の図式は今なお残ったままだ。それでなくても、場合によっては自分たちよりも強い権限を行使できる生徒を、教師たちが快く思わないのは当然のことだった。
 このように、候鳥会の存在に異を唱える者は決して少なくない。教師の間ばかりでなく、保護者や一部生徒の間でも根強い「候鳥不要論」が燻り続けている。
 大津たちは完全な存在などではないのだ。候鳥会の持つ力が高校の生徒会としてはあまりに過ぎたものであることは確かだし、存在そのものが不自然という考え方にも充分に頷ける。しかしそうした候鳥会だからこそ提供できるサーヴィスがあり、実現できる企画があった。
 いま候鳥会が崩壊し、委員監査制度が撤廃されれば、白芳はどちらに向かうか知れたものではない。たとえば対抗戦のような、確固たる求心力を必要とする大プロジェクトの進行も今ほどスムーズにはいかなくなるだろう。候鳥会に代わる新たなシステムを作り出すのには多大な時間と労力が必要とされるはずだった。
 結局、候鳥会の存続が許されているのは、そうしたリスク・マネジメント的な観点からの妥協があるからこそなのかもしれない。

 ――学年主任に帰ると言ったものの、大津はその後も校内を回り、あらゆる部活動、あらゆる一般選手たちの練習を見て回った。顧問教諭や補欠としてレギュラーを支援する生徒たちに話を聞き、仕上がり具合や精神状態を確認していく。ただ、高嶋と再遭遇しないよう細心の注意を払う必要があった。
 結局、彼とは顔を合わせずに済んだが、最後に向かった学外テニスコートで松田と香月に遭遇することになった。やはり候鳥会のメンバーとして、彼らも大津と同じようなことを考えたのだろう。初めてのことではなかったため、驚きはしなかった。
 ただし二人の場合は、どちらかというと選手たちの邪魔になっているケースが多い。今日も、好奇心の旺盛な松田が女子テニス部員のラケットを奪い取り、強引に練習に参加していた。香月が止めに入ればいいのだが、彼はいつものごとく楽しそうに先輩の活躍を見守っている。
「何やってんだお前は」
 女子だけのコートに入っていくのには幾分の勇気が必要だったが、香月が機能しないとなると松田を諌められるのは大津しかいない。いつもなら坂本がその役を買ってくれるのだが、彼女は対抗戦賭博の調査に協力を仰ぐため、理事長宅に向かっているはずだった。
「支援する立場にあるやつが、練習妨害してどうする」
 大津は真っ直ぐに松田の元へ向かうと、彼女の手からラケットを奪い取った。
「何すんのよ。練習に飛び入り参加することでテニス部員の緊張をほぐし、かつ彼女たちとの親睦を深めようというアタクシの素晴らしいプランに何の問題があるっていうわけ?」
「やかましい」
 大津はラケットの硬いフレーム部分で彼女の頭を軽く小突くと、困惑した表情で事の成り行きを見詰める一年生部員に商売道具を返却した。それから頭を抑えて文句と呪詛の言葉を並べている松田の襟首を掴み、顧問兼監督の元へ向かう。

 女子テニス部の顧問は、森下という女性教師である。現代国語の担当教員らしいが、主に女子棟で教鞭をとっているため大津も詳しいことは知らなかった。
 見たところ年齢は三〇前後とまだ若く、生徒たちとも比較的年齢が近しいため、女子たちの良き相談相手として人気があると聞く。特に美人であるようには見えなかったが、清潔感のある雰囲気には好感が持てた。
「うちの馬鹿がご迷惑をおかけしまして」
 大津は松田の頭を抑えつけながら、森下顧問に謝罪した。
「いいのよ」彼女は両手を振りながら苦笑した。「本番間近で、みんなガチガチになってたのは本当だから。良い気分転換になったみたいよ」
「それ見たことか」
 擁護を得て勢い付いたか、松田は大津の手を払いのけると勝ち誇るように唇の端を吊り上げる。
「人のフォローを真に受けるな」
「そんなこと言って、実は自分も仲間に入りたかったんじゃないの?」
 まともに相手をしていてはペースを乱されると判断し、大津はその言葉を無視した。代わりにもう一度、森下女史に頭を下げる。気にしないで、という慈悲に満ちた言葉が返ってきた。

「――いや、相変わらず君たちは見ていて刺激になるね」
 大津たちの姿を見かけて興味を持ったのだろう、男子テニス部が使用している隣のコートからジャージにTシャツ姿の若い男が近寄ってきた。右手に握ったラケットで自分の肩を軽く叩きながら、人好きのする笑顔を浮かべている。高嶋学年主任のそれと違い、心からの親しみを感じさせる微笑だった。
 霜山という男子テニス部の顧問教諭で、通常は生物を教えている若い男だ。
「森下先生、ちょっとお邪魔します」
 彼はそう言って小さく会釈した。森下から愛想の良い返礼を受ると、改めて大津たちに向き直る。
「君たち、生徒会の見回りだろう?」
「そんなところです」
「候鳥会ってのは本当に感心だねえ。本当に高校生なのか、たまに疑いたくなるよ」
 高校時代の自分はバンドと試験と異性のことしか考えていなかった、と己を茶化す。
 大津の記憶が確かなら、彼はこの白芳の卒業生だったはずである。候鳥会に友好的な立場にあるのも、そうした背景が関係しているのは間違いなかった。三〇前後の若い教員の中には、森下女子部顧問然り、過去の因縁や確執にとらわれない教師も稀にだがあるということだ。
「あまり誉めないでやらないで下さいよ、先生。またコイツが真に受けて図にのる」
「うわ、感じ悪いこと言うなあ」
 松田は大袈裟に顔をしかめて見せた。それから腕まくりをしつつ、大津の顔を睨み上げる。
「シンちゃんとは一度、きっちり決着をつけておかないと駄目みたいだね」
「いいですね。勝負の方法はなんです」
 いつの間に輪に加わっていたのか、香月が楽しそうに首を突っ込んでくる。
「カッキィ、いま私たちが立ってるのはどこ?」
「なるほど――」松田の思惑を察したらしく、香月は眼を細めて微笑んだ。
「そういうわけでシンちゃん、私とテニスで勝負だ」

 これ以上はテニス部に迷惑をかけられない。そう言って断ろうとした矢先、懐で支給品の携帯電話が鈍く振動しだしたことに大津は気付いた。生徒会活動に関連する業務目的に限り、特例として校内での使用が許可されているものだった。
 岩手内陸に位置する白丘市は豪雪地帯であり、冬場は数メートルに達する積雪を記録することがある。こうした場合、逸早く関係者と連絡をとり通常の授業を行うのか、臨時休校とするのかを確認したりする必要があるのだった。土地柄、緊急連絡網を活用する機会が多いのが白芳の特徴の一つである。
 同じものは松田も所持しており、遠くから聞こえてくる小さなコール音がそれを証明していた。
「あれ、私の携帯が鳴ってるのかな」
 松田は小首を傾げると、コートの端に置いていた学生鞄に向かって駆けて行く。大津はそれを横目にしながら森下と霜山に非礼を詫び、彼らに背を向けて携帯電話を取り出した。
 通話は一〇秒足らずで終わった。連絡係に礼を述べ、端末をブレザーの内ポケットに戻す。
「何かあったんですか」
 香月が周囲に漏れないよう、声のトーンを落として耳元に問いかけてきた。三役でないと携帯電話の所持は認められないのである。
「シンちゃん、いまの話聞いた?」
 同じく通話を終えて駆け戻ってきた松田が、息を弾ませながら言う。大津は頷き返すと、急用が出来たことを両顧問教諭に告げた。こちら側の事情を察してくれているのだろう、何が起こったかは問い返されなかった。高嶋学年主任が相手であれば、こうはいかなかったかもしれない。
「どうする?」松田は腕組すると小声で指摘した。「あまり大人数で行くと目立つよ」
 確かにその通りだった。この程度のことで候鳥会幹部が複数動くのは不自然だ。中原と候鳥会との関係を下手に勘繰られる危険性も出てくる。
「俺に行かせてくれ。病院じゃないってことは、そう大きな話じゃないのかもしれない。お前らは帰宅待機してくれ。状況が分かり次第、自宅の回線に報告の電話を入れる。――あと、壱棟の連中にもそのことを伝えといてくれるか」
「分かった。まあ、彼が男子生徒である以上、出張るとしたら弐棟長が適当なのは確かだしね」
「何があったのか、僕にも教えてくださいよ」
 大津と松田の間で視線を往復させながら、香月が再び問う。大津は歩き出しながら、彼だけに聞こえるよう言った。
「中原均が保健室に担ぎこまれたらしい」


to be continued...


■履歴

脱稿2004年09月03日
初出[phase.10]2004年10月24日
初出[phase.11]2004年10月27日
初出[phase.12]2004年10月30日
一部改訂2004年11月11日

本作は書き下ろし作品です。

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