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天元
7.
ゴールデンウィーク後に訪れた最初の土曜日は、ちょうど五月の第二土曜に当たった。白芳は第二、第四土曜日を休学とする隔週週休二日制を敷いているため、一般生徒にとってこの日は休日となる。
中原均はせっかくの週末を有意義に過ごすため、午前中からJR東北本線を利用して盛岡市に出た。
岩手最大の都市である盛岡市は、地理的な意味あいにおいても、また政治、経済、文化、娯楽各面の意味あいにおいても、まさに県の中心地である。
唯一の趣味として囲碁をたしなむ中原は、暇ができれば足繁くこの盛岡市に出てくることにしていた。碁会所と呼ばれる碁打ちたちの社交場なら、白丘市や水沢市といった自宅の近場にも数カ所あるが、やはり盛岡市における数と規模とは比較にならないからだ。
白丘市から盛岡市までは、多くの場合、鈍行を数回乗り継ぎして一時間ほどかけなければならないのだが、これも中原にとっては些細なことであった。それだけ囲碁を楽しんでいたし、同じ趣味を通じてできた友人知人たちと出会えることが嬉しい。なにより、そこには陰険な嫌がらせをする者や無闇に暴力を振るおうとする者がいなかった。
午前十一時五分過ぎ、JR盛岡駅に到着した普通列車から降りると、中原は改札を潜って東口から駅構外に出た。そのまま東に向かい、北上川をまたぐ開運橋を渡って市の中心部へと向かう。
都心部にあたる大通や中央通には、 <岩手囲碁センター> を筆頭に <中央碁会所> 、 <囲碁サロン> 、さらに東へ足を伸ばして中ノ橋通まで行けば <日本棋院中津川支部> などが軒を連ねている。
しかし中原が贔屓にしているのは名の知れたこれらの碁会所ではなく、古い雑居ビルの二階に入った <芝原囲碁研究会> という小さな教室だった。むかし囲碁関連の記事を担当していたという元記者が設立した碁会所で、かつての人脈が未だに生きているのか、それとも彼の人柄のおかげか、まれに若いプロ棋士が指導碁に訪れてくれたりもする穴場だ。
駅から歩くこと十五分、中原はその雑居ビル正面玄関に辿りつくと、まずロビーの自動販売機に向かった。まだ五月の上旬だがこの日は日差しが思いのほか強く、駅から少し歩いただけでも喉が乾いた。この調子だと、今年の夏は猛暑となるかもしれない。些かげんなりしつつ、取りだし口に転がり出てきた烏龍茶の缶を引っ張り出す。
今日は誰に相手をしてもらおうかと思案しながら喉を潤している途中で、不意に背後から名を呼ばれた。聞き覚えのある声に振りかえってみると、ロビー奥の二階へ続く階段から小柄な少女が笑顔を覗かせている。
中原が対戦相手の候補として考えていた一人、山川万美代だった。 <芝原囲碁研究会> の常連客で、盛岡市の北、岩清水という所にある白百合学園中学校の生徒である。中原の一つ後輩だという話だから、今年の四月から三年生になったはずだった。
「こんにちは、ご無沙汰してます」
山川は笑顔で言うと、元気良く頭を下げた。中原とは対照的に快活で明るい少女であったが、同時に育ちが良く、礼儀を心得た娘でもあった。
「こんにちは」
中原は立ち上がって挨拶を返し、缶に残っていた僅かばかりのお茶を飲み干した。山川は微笑してその様を一瞬だけ眺めると、すぐに跳ねるような足取りで自動販売機の前に歩み寄った。どれにしようかな、と小声で呟きながら、小さな紅茶の缶を選ぶ。
「先輩、今から上に来るんでしょ?」
プルタブをこじ開けるのに苦戦しながら山川は言った。
「そのつもりだけど」
「じゃあ、私と対局してくれませんか。また教えて欲しいんです」
純然たるキャリアの差もあり中原の方が実力的には勝っていたが、それでも山川との棋力――即ち囲碁の腕前にそれほど大きな開きはない。 <置石> と呼ばれるハンデが、日を追うごとに小さくなっていることからもそれは確かである。妥当な申し出と言えた。
「僕もそれを考えていた」
中原は空になった烏龍茶の缶をリサイクルボックスに放りこむと、苦笑しながら山川の傍に歩み寄った。彼女に缶を寄越すように言い、代わりにプルタブを開けてやる。
「囲碁の前に、君はまず缶の開け方をマスターすべきだと思うね」
山川は恥じ入るような、照れたような笑みを浮かべ、礼を言って紅茶缶を受け取った。手のサイズと握力が揃って小さく、加えて不器用な彼女は、運に恵まれた時でないと自力で缶を開けることができない。ここで中原と出くわさなかったら、きっと二階に戻って他の誰かに手伝ってもらったに違いなかった。
「今日は誰が来てる?」
「いつものメンバーは大体揃ってますよ」
そう答えると、山川は行儀良く販売機近くのソファーに腰を落としてから紅茶を飲み始めた。
「あ、でも上村さんは来てなかったですね。小野さんも」
「そう。君自身はいつ頃から来てるの」
「三〇分くらい前です。今日は先輩も来てくれたし、夕方まで頑張るぞ」
鼻息も荒く宣言すると、山川は右手の肘を直角に曲げてポーズを作った。力こぶを誇示しているつもりなのだろうが、小柄で華奢な彼女がやると何かの冗談のようにしか見えない。
「夕方まで頑張るのはいいけど、昼食はどうする予定?」
「どこか近くのお店に食べに行くつもりですけど。よかったら、先輩も一緒にいかがですか」
「――そうだね」
何気なくそう応じた後、中原はふと、初めて彼女と一緒に食事に行った時のことを思い出した。もう二年近く前の話である。
やはり午前中に囲碁を打った後、二人で昼食を食べようという話になったのが切っ掛けだった。その時、「馴染みの所がある」との言葉で彼女に案内された蕎麦屋は、大変高級な佇まいの老舗だった。中原は最も安価なザル蕎麦を注文しただけだったが、八六〇円を支払わされた。
山川は自分の行動に全く疑問を抱いていなかった。蕎麦の対価として何枚もの紙幣を使うことに、何ら特別な意識を持たない環境で彼女は育ったのだ。
中原は少し考えさせられたが、結局、自分の感じたままのことを山川に伝えた。彼女は己の常識と一般のそれとに隔たりがあったことを即座に理解し、配慮を欠いた自分の行いを詫びた。そして礼を言った。
「言ってもらえて良かった。ありがとうございます」
その言葉と一緒に屈託のない笑顔を向けられた時、山川万美代に対する中原の評価は大方決まった。
「――今日は、三子置きで始めよう」
回想に浸っていた思考を現実に戻すと、中原は口元をほころばせながら言った。
「一局打って、君が勝ったらお昼は僕が奢る」
この提案に、山川は思いのほか素早く反応する。
「駄目です。純然たる勝負を賭けの対象にするなんて不純ですよ」
「不純?」
「そうです。不純です。よろしくないです。真剣勝負というのは、そういう金銭とか物欲とかいうものから解放された、もっと崇高なものじゃないですか」
この問題に関しては確固とした思想を持っているらしく、山川は紅茶缶を握り締めながら力説しだした。
「でも、賭博の対象になっているスポーツや勝負ごとは身の回りにも多いと思うよ。競馬もそうだし、競輪や競艇もそうだ。僕の勘違いじゃなければ、サッカーにもトトカルチョみたいなものがあった。日本の中だけに限定しても、だよ」
「まったくもって不届きな話です」拳を丸く固めると、彼女は義憤の声をあげる。
「日本なんてまだましな方じゃないかな。イギリスのブックメイカーの話だけど、彼らなんかは今度のオリンピックだって賭けの対象にするつもりらしいよ。金メダルの有力候補の中から、実際に誰が表彰台の頂点に立つかを当てるんだ。競馬みたいにオッズって言うのかな、払い戻し率が設定されてるらしい」
中原はTVニュースで聞き知った情報をそのまま伝えた。
「世界記録保持者は本命扱いで、金メダルを取っても二倍程度の払い戻ししか受けられない。大番狂わせが起こって、大穴が一着に入ったりすると賭け金が何十倍にもなって返ってくる」
「先輩、まさかその賭けに参加するつもりですか!」
山川は勢い良く立ち上がると、謎の円盤から降り立った金星人を見るような眼で中原を見詰めた。
「女子のマラソンとレスリングの選手の中には、金メダル候補が大勢いるからね。二番手につけてる選手の優勝を信じて、少し賭けてみるのもいいかと思ってる。日本にいながら参加可能できるようなシステムだったら、の話だけど。日本でもインターネットを使ってアクセスできるって聞いたような気がするんだ」
「駄目です。そんなのスポーツマンの方々に失礼じゃないですか」
「そうかもしれない。でも、プロのスポーツ選手の中にはそう考えない人もいるはずだ。現実的に見れば、スポーツ賭博で得られる収益がその競技や業界の振興に役立てられている仕組が見えてくる」
「それはプロとしての妥協でしょう。論点が逸れてます」
「――君の言う通りだ」中原は認めた。「それに、スポーツの勝敗を賭けの対象にするのは選手じゃなくて、観戦客であることが大半みたいだからね。競技者である僕らが、自分の対局を賭けの対象にしようというのは、確かに不謹慎な行為かもしれない」
「そうです。その通りですよ。先輩、分かってきたじゃないですか」
山川は中原を説得できたと信じたらしく、手にした紅茶の缶を抱きしめるようにして満面の笑みを浮かべた。
「でも、オリンピックには賭けるよ。僕は出場選手じゃないしね」
「ええっ!?」
まるで手酷い裏切りにあったかのように、山川は眼を見開いて驚いた。
「その紅茶、もう飲み終わったのなら早く二階に行こう。少し急がないと、一局打ち終える前にお昼になるよ」
「ちょっと先輩、話が違うじゃないですか」
中原は聞こえてくる抗議の声を無視して、ロビー奥の階段へ向かった。三階建て古雑居ビルにはエレヴェータなどという気の利いたものはない。もっとも、存在したところで利用はしないだろう。部活動をしていない中原は、健康を気遣ってなるべくエレヴェータを使わないようにしていた。
「先輩、待ってくださいよ」
少し慌てた様子の山川を背に、中原は階段を二段飛ばしで上っていった。二階に辿りつくと、そのまま短い廊下を少し歩いて <芝原囲碁研究会> のプレートをぶら下げたドアを潜る。それからアルバイトで受付を任されている女子大生に五〇〇円を渡し、顔見知りと一通り挨拶を交わしてから、空いた席に荷物を置いた。
碁石に触れる前のエチケットとして手を洗っていると、ようやく追いついた山川が部屋に駆け込んできた。
「置いていくなんて酷いです、先輩」
「缶も開けてあげたし、君が飲み終わるまで話題を提供して待ってた。置いていくつもりなら、いま言ったことを放棄してもっと早くここに来てるよ」
中原はハンカチで手を拭くと、確保してあった自分の席に戻った。碁笥の蓋を開き、自分に課されたハンデとなる石を三つ、 <星> と呼ばれる定位置に置いていく。
「置石は三つの約束だったね」
言いながら、手振りで山川に向かいの席を勧める。彼女は唇を尖らせてぶつぶつ言いながらも、大人しくその椅子に座った。
「賭けはしませんからね」
「もちろん。僕だって、執着するほどギャンブルに思い入れはない」
中原は微笑むと、黒石の入った碁笥を山川に手渡した。碁石は、オセロと同じように白色と黒色の二種類が存在する。そして、棋力が上――つまり囲碁の腕により長けた方が、白石を持つのが一般的であった。
「コミは六目半。持ち時間は……」
中原は腕時計を確認した。持ち時間というのは、次にどこに石を置くのか考えるための時間だ。昼食時が迫っていることを考えると、あまり長くはとれない。
「二〇分ということにしよう。それでいいかな」
「はい。お願いします」山川は顔を引き締めて、頭を深く下げた。
「お願いします」
作法として、中原も同様の礼を返す。対局という名のゲームが始まった。
8.
囲碁は四〇〇〇年前に中国大陸で生まれたと言われている、歴史ある遊戯だ。ルールが簡単である一方、極めていくほど奥行きを感じるあたりが長寿の秘訣か、現代においても世界中で愛好されている。
中原が囲碁を始めるようになったのは、祖父の影響があったからだった。両親が共働きをしている関係で、中原は幼い頃から隣町に住む祖父母の家に預けられることが良くあった。一通りのルールは、その時に祖父から教えられた。
とは言え、中原も最初から囲碁に夢中になれたわけではない。むしろその逆である。一〇歳にも満たない当時の彼にとっては、単調な石の打ち合いなど退屈なものでしかなかった。TVゲームの方が、よほど刺激的な遊びだったのである。
事情が変わったのは、十二歳のときだった。祖父が他界し、脚付の碁盤と碁石のセットを形見の品として譲り受けたのだ。何万円もする高価な碁盤と石とを遊ばせるのは流石にもったいないと思い、本屋で入門書を買って打ちこみ始めたのが運の尽きだった。結局これが切っ掛けとなり、やがて「最大の趣味」と公言するまでに、中原は囲碁にのめり込んでいったわけである。
対局の緊張感や、それがもたらす張り詰めた空気が中原は好きだった。初期は級位や段位という具体的な数字で、自分の成長を確認できるのも良かった。性別や年齢などの垣根を越えて、誰もが平等に戦えるというのも囲碁が彼を引きつけた要素の一つである。
だが何より音が良かった。碁石を碁盤に打ったときに木霊する、弾けるような小気味の良い音。これまで何千、何万回と聞いてきたその音色は、未だ中原を魅了して止まない。
中原は今また、碁笥から白石を一つ摘み上げた。盤上の模様を見れば、既に趨勢は決しつつあることが分かる。もはや勝負そのものを楽しめる段階にはなかった。しかし、それでも石を打つその心地よさは変わらない。
中原は親指と中指で挟み上げた碁石を、人差し指と中指とに持ちかえた。筋を通すように根元から指先までを真っ直ぐに張り、盤上の宙を滑らせ、そして手首を利かせて打ち下ろす。
パチンという、指を鳴らしたような破裂音が耳朶を刺激した。
「うー」
白石が盤上に放たれた瞬間、決定的一打を加えられたことを悟った山川は眉をハの字にして、小さな唸り声のようなものを発した。しばらくすると、力尽きたように項垂れる。
「……ありません。負けました」
「ありがとうございました」中原は顎を引き、静かに言った。
「ありがとうございました」
山川が蚊の鳴くような声で返礼する。中押し勝ちと呼ばれる大差での、中原の勝利であった。
「今日は潔かった。大分、大局が見えてきたらしい」
「先輩、それって誉めていただいているんでしょうか?」
山川は未だに顔を伏せたまま、気落ちした声で言った。無理もない。囲碁はデジタルゲームだ。白黒二種類の石の配列次第で、同じように白と黒――すなわち勝ちと負けがこれ以上ないというほど明確になる。
デジタル表示されるデータはいつだって正確で冷徹なものだ。敗北者はその事実を嫌というほどストレートにつきつけられるのだった。それが囲碁である。
「もちろん誉めてるよ。少し前の君は、もっと計算が甘かった。今回の局面も、打ち続ければ <ヨセ> まで何とか持っていけないこともない。でも、そうしなかった。差を縮めることは出来ても、引っくり返せはしないことを理解できるようになったんだ」
囲碁が大人のゲームと囁かれる所以は、この辺りにも窺える。
大勢が決したとき、勝敗に関わらない一手を無駄に打ち続けるのは、囲碁界において重大なマナー違反であると言える。ルール上は続行することが可能でも、負けが見えた場合は素直にその時点で敗北宣言を出し、対局を終えるというのがエチケットとされているのだ。
結果の分かった勝負に見苦しくこだわり続けるより、次の試合を経験して力を付けた方が良い。それが囲碁界全体に通じる大きな思想だ。事実、そうして早めに見切りをつけ、対局を多くこなしていく者の方が実力的にも伸びるものだと言われていた。
「中原先輩、検討はどうしますか」
「検討はどんな場合でもやった方が良い。次に活かせる要素を整理しておかないと、いつまでも力はつかない」
検討とは、終了したゲーム内容をふり返り、分析や反省を行うことだ。対局で実際に使ったものとは違う戦法を導入した場合、ゲームの行方がどのように変わっていたかを考えたり、また自分の欠点や長所などを見出し、次の対戦で活かすために必要な作業である。
「――でも、時間が時間だ。先にお昼にしたほうが良いかもしれないね」
「やっぱり先輩もそう思いますよね」
嬉しそうに言うと、山川はいそいそと後片付けを始めた。中原もそれに倣い、盤上に散りばめられた自分の石を拾い集めていく。思考を全く必要としない淡々とした作業であった。二人の手によって碁石は次々と回収されていき、碁笥に収められる。
程なくして盤面から全ての石が取り払われ、後始末は終わった。何も置かれていない真っ白な碁盤上では、いずれ新しい対局が始められるのだろう。そこではまた、今回とは違った黒白の地が造られ、違った結末を迎えることになる。
人と同じだった。生まれたばかりの真っ白な人間は、人生にどのような布石を打ち、どのように日々を積み上げていくかをほぼ自由に決定できる。未来は分からない。一人の人間がどのように生き、どのような人生を織り上げるかは誰にも予測することができないものなのだ。
しかし例外もある。今の中原がそれだった。変わることのない日々に埋没してしまった人間にとって、毎日は辛く、重たく、苦痛をもたらすものでしかない。明日もまた今日と同じような日が続くのだろう、と暗く沈んだ気持ちで時を過ごすしかないのだ。
「耐えるというのは、勝負が決まった対局でダラダラと打ち続けることと同じなのかな」
「え?」
何を言われたのか良く理解できなかったのだろう、山川は手を止めて怪訝そうな顔をした。
「人間は何度まで盤面をひっくり返せるんだろう。対局で言うと人生は一度限りのものなのか、それとも投了した後、何度か打ち直すチャンスを与えられるものなのか」
「先輩、学校でまた何かあったんですか?」
山川は泣きそうな顔をしながら、両の拳を胸の辺りで握り締めた。
彼女は、中原が高校で受けている仕打ちを知る唯一の人間である。元はと言えば、中学校の友人と大喧嘩をして悩んでいると山川から打ち明けられたとき、慰めるつもりで自分の身の上話をしたのだった。中原の話を聞いた彼女は、予想通り「自分の悩みなど大した問題ではなかった」と言って気勢を取り戻したものである。二人が友人として交流するようになった切っ掛けでもあった。
それから二人は、他人にはなかなか打ち明けられない話を密かに交換するようになった。中原の学園生活を心配してくれ、高校受験の時に白芳を受けるよう勧めてくれたのも、他ならぬ山川万美代である。
「そういうことを、ある人に指摘された。高校に入っても中学時代と同じようなことが繰り返されるのは、僕が自分から何かを変えようとしない人間だからだそうだよ」
中原は自嘲的に笑う。
「そのことを言われたとき、僕は頭に来て悪態をついた。それは、他人に知ったようなことを言われて腹がたったからだと思ってた。でも、こうまで気になるということは、本当の理由が別にあったということらしい」
「本当の理由って?」山川は遠慮がちに言った。
「今まで無意識に回避していた事実を目の前につきつけられて、思わず感情的になった――ということなんだろうね。頭に来たのは相手のせいじゃない。図星をつかれてカッとなってしまっただけのことなんだ」
「でも、誰とそんな話をしたんですか?」
「水曜日に <候鳥会> と会ったんだ」
そう言った瞬間、山川は悲鳴にも似た叫び声を発して勢い良く立ち上がった。その瞳が凄い勢いで輝き出す。
「その <候鳥会> って、あの <候鳥会> ですよね」
「悪いけど、何を言ってるのか良く分からない」
「誰ですか! <候鳥会> のどなたにお会いしたんです」
碁盤の置かれたテーブル越しに身を乗り出し、まるで尋問するような調子で山川が迫ってくる。こうなった時の彼女に逆らうのは、事態を更に面倒な方向に導くのと同じだった。
聞くところによると、女子ばかりの環境に飽きた盛岡白百合学園の生徒が、中学卒業後の進路として白芳を選ぶのは珍しいケースではないという。元が女子校であり、白百合のようなお嬢様学校と呼ばれていたせいで、保護者たちも白芳ならば……という気になるわけである。
それ故、盛岡の白百合と白芳との縁は深く古い。毎年、白百合出身の少女たちが大量に流れてくるし、山川のように白芳に対して強烈な憧憬の念を抱いている人間も少なくないようだった。
「理由があって休学中の二年生が一人いると聞いたけど……」
「須賀長佐ですね。弐番棟の副生徒会長。右手に大怪我をして、TUT付属病院に入院されているそうです。もうすぐ退院されるのではないかという噂もありますけど」
「ああ、そう。僕が会ったのは、その人以外の五人だよ」
「五人!」
まるで物理的な打撃を受けたかのように山川の身体が揺れ動いた。そのまま気を失って倒れてしまうのではないかと、中原は一瞬、椅子から腰を浮かしかける。
だが山川は何とか踏みとどまり、更に勢いを増して中原に迫ってきた。
「五人って、 <師光> の大津さんと <孤舟> の松田さんと壱棟長佐の日吉さんと孤舟館副長の香月さんと、それに <千草> の坂本雅美先輩の五人ですか!?」
「全員の名前は覚えていないけど、確かそういった面子だったと思う」
「中原先輩!」
山川は眼を見開くと両手で机を叩いた。が、勢い良く振り落としたせいで痛みが走ったのだろう、慌てて手のひらに息を吹きかけている。その大声と剣幕は周囲から注目を買っていたが、当の本人はそうしたことにまるで気づいていないようだった。
「先輩、今すぐご飯を食べに行きましょう。私が何だって奢ります。ステーキだろうとお寿司だろうと、なんでもお好きなものを気の済むまで召し上がってください」
まだ痛むのか、手を交互に摩りながら山川は言った。
「賭けはしないって話だったと思うけど」
「そんなものは関係ないです。とにかく、私にそのお話を詳しく聞かせて下さい」
9.
「正直に言うと、僕は <候鳥会> を君ほど評価はしていなかった」
中原はナイフとフォークをハの字にして皿に置くと、ナプキンで口元を拭ってから一口水を飲んだ。
「彼等が僕のために何かしてくれるとしても、もっと先のことだろうと思ってたんだ。それが妥当なところだ。まだ五月になったばかりだしね。僕が白芳に入ってから一月半も経ってない勘定だ。いくら強い力をもった生徒会でも、そんな短期間のうちに末端で起こっている小さな苛めまで察知できるとは思えない」
「でも――」向かいに座った山川が瞳を輝かせた。
「うん。でも、彼等は名乗る前から僕の名前を知っていた。僕は別に有名人じゃない。だとすれば、彼等が全校生徒の顔と名前を全て記憶しているか、あらかじめ僕の個人情報を調査していたことになる。人気がない校舎裏にタイミング良く現れたことを考え合わせると、後者だったと考えるのが自然だ」
碁会所近くのファミリィ・レストランに連れ込まれた中原は、山川の催促に応じ、差し障りのない範囲のことをありのままに語って聞かせた。
三日前の昼休み、学校で暴力的な連中に絡まれて校舎裏に連れて行かれたこと。そこで殴る蹴るの暴行を受けたこと。途中、大津弐棟長と香月副館長に出会い、結果として救われたこと。その後、彼等に連れられ <孤舟館> に赴き、そこで奇妙な時間を過ごしたこと。
――ただ、自分が弐番棟の <長補> として推薦を受けた事実は伏せた。そこまで話すと、山川は間違いなく自宅まで中原を連行し、根掘り葉掘り話の詳細を聞き出そうとするに違いない。彼女は貴重な友人であったが、流石にそこまで付き合って折角の週末を潰すつもりはなかった。
「それで、それから <候鳥会> の方たちとはどうなったんですか?」
山川は食事などそっちのけで、次から次へと矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。それに対し中原は、切り分けたハンバーグステーキにフォークを突き刺しながら、素っ気無い口調で言った。
「別にどうもなってないよ」
「そんなあ」
「だけど、彼等の影響力は思い知らされた。そういう意味でも <候鳥会> の再評価を余儀なくされたのは確かだね」
「どういう意味ですか?」山川は怪訝そうな表情で小首を傾げた。
中原は、 <候鳥会> と出会ってからの二日間、一切の嫌がらせを受けなかったことを話した。毎日のように中原を呼び出していた <熊男> たちも、最近は奇妙に大人しい。クラスメイトたちも何かを畏怖するかのように中原を遠巻きにしている感があった。
「あ、もしかして中原先輩のクラスの皆さんは、苛め対策に <候鳥会> が乗り出したと考えてるんじゃないですか?」
「うん。僕もそう思ってる」
中原は串刺しにしたフライドポテトを口の中に放りこむと続けた。
「というより、そうとしか考えられない。恐らく <熊男> たちのグループが校舎裏でのことを誰かに話して、それが噂になって広まったんだ。だから皆、処罰されるのを恐れて僕にちょっかいを出さないようになったんだと思う。大津弐棟長たちが僕を連れていったのを見て、 <候鳥会> が動き出したと勘違いしたんだろうね」
「勘違いなんですか?」
「良く分からない。 <候鳥会> の考えが全く読めないんだ。会館で話をした限り、彼等が僕の周囲の問題にある程度通じているのは確かだと思う。だけど、それに関する質問は一切受けなかったんだよ。どうして呼び出されたか理由が分かるか……って大津弐棟長に質問されたくらいだ」
いずれにしても、クラスメイトたちが目立った行動を起こさなくなったことは事実だ。 <候鳥会> との一件からまだ二日しかたっていないが、それでも自分を取り巻く周囲の空気が変わったことだけは如実に感じられる。勘違いなどではなかった。
「別に何かをしたというわけじゃないんだ。確かに大津弐棟長は釘を刺すような一言を残しはしたけど、あれはあくまで口頭での注意であって、 <候鳥会> としての正式な戒告とはいえない。彼等がしたことと言えば、僕の前に一瞬だけ姿を見せただけだ」
「なのに効果はてきめんだったわけですね」
山川は感極まったように両手を組み合わせ、恍惚とした表情を見せた。彼女がカトリック系ミッション・スクールの女学生だからか、その様はどことなく聖母に祈りを捧げているようにも見える。
「言動を抑止力にできれば二流、動かなくてもそこにいるだけで抑止力とできれば一流というけど――学内での影響力だけで言えば、 <候鳥会> は既にその域にあるのかもしれない」
「やっぱり <候鳥会> は凄いんですね。ますます尊敬しちゃいます」
無邪気な笑みを見せる山川だったが、中原はそう素直に喜ぶ気になれなかった。真正面に座る以上、彼女もその浮かない表情に気付かざるを得ない。
「どうしたんですか、先輩。嫌がらせがなくなったのに、全然嬉しそうじゃないですね」
「今のところ、大津弐棟長の予見通りの展開になってるのがね。あの人は、 <候鳥会> と不本意にせよ関わってしまったのなら、その力と限界とを嫌でも見ることになる……というようなことを言ってた。それが少し気になる」
「――もう。中原先輩は、そういう風にいつも悪いほう悪いほうに考えていくから駄目なんですよ」
呆れたようにも怒ったようにも見える表情で、山川はそう断言した。
「たまには頭を空っぽにして楽観的にいくべきです。案ずるより産むがやすしっていうじゃないですか。そういうのも大事なんですよ」
「それは、たぶん正しい」中原は半ば苦笑しながら言った。「そのことを実践してるから、僕はたまに君の性格がうらやましくなるんだ」
「とにかく、先輩は一度しかない高校生活を謳歌すべきなんですよ。私は <候鳥会> のある白芳でならそれができるって、今でも信じてます。だから受験のとき白芳をお勧めしたんです」
「その通りだね。ありがとう」
結局、山川に紹介された白丘明芳学園でも、中原は再び嫌がらせの被害を受けることになった。その事実を、彼女は彼女なりに気に病んでいたのだろう。これ以上の心配をかけないためにも、環境の改善を早急に図る必要があった。今回の出来事がその足掛かりになる可能性は多分にある。
「先輩、待っててくださいね。私、猛勉強して来年は絶対に白芳に合格してみせますから」
山川はフォークを持ったまま、右手の拳を丸く握り固めた。何かを力説しようとするとき、彼女はいつもこの仕草を見せる。
「だけど、どうしてそこまでウチの学校に執着するの?」
「私、ずっと坂本先輩に憧れてたんです」
――坂本。話の流れからすると、現壱棟長として知られる坂本雅美のことだろう。
「彼女と知り合いか何か?」
「だから、先輩なんですよ。あの方は、私と同じで幼稚園からずっと白百合学園なんです」
「ああ、それで」
「うちの学園には学校案内というようなものがあって、進学するときに上の学部の見学に行けるんですよ。余所の学校はそうでもないらしいんですけど、白百合ではこういうとき、生徒が前面に出て企画を支えます。パンフレットを配ったり、順路通りにお客様を案内したり、制服のモデルをしたり。あ、もちろん、保護者を対象にした説明会なんかではマ・スールたちが出てくるんですけどね」
その光景を思い起こしているのか、山川は宙に泳がせた目を少し細めた。
「マスウルって?」
「ああ、修道女のことです。英語でいうとシスターですね。フランス語で私の姉妹っていう意味です。白百合はフランスの <シャルトル聖パウロ修道女会> が設立母体ですから、こういうところではフランス語を使うんです」
彼女が続けたところによると、白百合学園には灰色の修道服を身にまとったマ・スールが多数存在しており、生徒たちの素行に眼を光らせているという。
「シスターがうろついてる学校か。ちょっと想像がつかないな」
そもそも日曜日に教会に行くような習慣を持ち合わせない中原は、修道女やシスターというものを生で見たことが一度も無かった。
「とにかくですね、その学校案内のときに坂本先輩をお見かけしたんですよ。まだ中学生だったのに、なんて言うんでしょう――その人の特性を見抜いて最も適した場所に配置する力だとか、指揮者としての能力だとかに非凡なものをお持ちのようでした」
山川が坂本雅美を見かけたのはほとんど一瞬のことだったが、それでも一際目立って見えたという。
緊張に顔を強張らせた多くの生徒が、彼女に絶大な信頼を寄せていることが雰囲気でわかった。時には教員らしき大人やマ・スールたちからさえも声をかけられる。誰もがそれとなく彼女の意見や指示を求め、期待した物を得ると安心したような顔で配置に戻っていくのだった。まだ小学生だった山川は、そうした光景を幼い心に焼き付けたのだという。
勇気を出して制服姿の見知らぬ先輩を捕まえると、生徒たちの中心に立ち、司令塔として指示を飛ばす女性の名を聞き出した。以来、坂本雅美は、山川にとって忘れられない名になったという。
「本当に格好良かったです。坂本先輩みたいになりたくて、私は中学生になってからずっと生徒会に関わって仕事をしてきたんです。あの人は私の目標なんです」
なるほど、山川の言い分をそのまま信じるならば確かに大した人物だと言えるだろう。が、数日前に出会った坂本雅美は、中原の記憶にほとんど残ってはいなかった。
小柄な上、これといった特徴を持たない平凡な女性だったという以上の印象はない。あえていうなら、優しく温厚そうに見えただけだ。
「それはいいとして、です」
山川はキッと眉を吊り上げると、威勢良くテーブルを叩いた。もともと非力であるために大した音にはならなかったが、本人はまた手を痛めたらしく泣きそうな顔で患部に息を吹きかけ出した。
「大丈夫?」
「大丈夫です。――それより先輩、なんとかもう少し待っててくださいね」
なにを、と問う前に彼女が再び口を開いた。
「来年は私が白芳に入学して、それでどうにかして <候鳥会> に入れてもらって、苛めや嫌がらせを学内から一掃してみせますから」
「え……」
鼓動が一瞬、弾けるように高鳴った。
山川が自らの野望として語った目標は、中原にとっても非常に身近な位置にある。彼女にはまだ告げていないが、 <候鳥会> の幹部たちは確かに、中原の名が新規会員候補の一人として挙がっていると言っていた。
もし中原がその話に積極的な姿勢を見せれば、話は更に加速していくだろう。山川より先にその目標の半分を達成してしまうことも大いにあり得た。
だがなにより衝撃的だったのは、彼女の発想そのものである。
自らが <候鳥会> に入り学校を変える。苛めや嫌がらせを一掃し、それらが発生しないような環境を整備する。
そうした発想は、いかにして苦境を凌ぐか、どのように痛みに耐えていくかといった方向にばかり向かっていた中原の思考からは、全く出てこなかったものである。
「君は、そんなことを考えてたのか」
「もちろんです」なにを今さら、といった顔で山川は頷く。「私はあんまり頭良くないしオッチョコチョイだし、マ・スールにも落ちつきがないってすぐに注意されちゃうような人間ですけど、でも自分の言ったことにはちゃんと責任持ちます。口だけって言われないように、一生懸命がんばるようにしてます」
小さく丸い握り拳を握り締めた山川の顔は、これ以上ないというほど真剣なものだった。
その真摯な主張に改めて考えさせられる。結局、自分に欠けていたのではこれなのではあるまいか。彼女のような考え方ができ、またそれを現実に反映させることができる人間であったなら、今のような嫌がらせを受けることもなかったのではないだろうか。
中学を出て、今までの自分を知る者の少ない環境に移ってからも、やはり陰湿な苛めは始まった。問題は周囲の人間ばかりではなく、中原均という被害者側にもあったことは明白である。それを認めるからこそ、今まで必死になって様々な苦痛や恥辱に耐えてきた。決して逃げまいと誓った。環境に背を向けたことがないという事実を唯一の誇りに、なんとか自分を支えてきた。
しかし、耐え続けることは本当に戦いなのだろうか。解釈によっては、それは酷く後ろ向きな姿勢なのではあるまいか。真に戦う者の眼から見たとき、逃避に映ってしまうことはなかろうか。
ここに来てそうした疑念に苛まされてしまうのは、既に自分の中の一部が、己の非を認めつつあるからなのかもしれなかった。心のどこかで、既に中原均は理解しているのだ。本当に戦う者は、同じところに立ち続けることをしない。
――なぜ、自分は山川万美代のように考えることができないのだろう。
何が最もよい選択なのかは既に見えている。だが人は、いつもベストと思われる決断を下し、ベストと思われる行動をとれるわけではない。ときに逃げ、ときに妥協し、ベストではなくベターに留まる道を選ぶ。大きなリスクを負わずに済むからだ。
「先輩?」
気が付くと、山川の顔が間近に迫っていた。いつの間に席を立ったのか、テーブルを回りこみ通路側から覗きこむような格好で中原の顔を窺っている。怪訝そうな表情をしていた。
「もうお料理もなくなっちゃいましたし、そろそろ碁会所に戻りませんか」
「ああ、ごめん」我に返った中原は取り繕うように言うと立ちあがる。「そうだね、そろそろ行こう」
――その日の午後の対局は、一勝二敗に終わった。
to be continued...
■履歴
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脱稿 | | 2004年09月20日 |
初出 | [phase.07] | 2004年10月11日 |
初出 | [phase.08] | 2004年10月14日 |
初出 | [phase.09] | 2004年10月17日 |
本作は書き下ろし作品です。 |