102
Audit commission
委員監査会
4.
いわゆる生徒会長として弐番棟 <師光館> に君臨する大津晨一郎には、ささやかな四つの特技があった。そのうちの一つが、いわゆる「早食い」である。
<候鳥会> の幹部に就任して以来、彼は日々を激務に追われることとなった。仕事は常に山積しているため、時間は幾らあっても足りない。自然、生活の合理化をいかに実現し、仕事に回せる時間をどれだけ多く捻出するかが課題となってくる。真っ先に削られることになったのは食事にかけられる時間だった。これは、必然が生んだ技術なのである。
その日も大津は、昼休みの開始を知らせるチャイムと同時に弁当の包みを広げ、五分でこれを空にしてみせた。もはや味も何もあったものではない。
その辺りは弁当を毎朝こしらえてくれる寮母も承知しているらしく、最近は随分と手抜きが目立つようになっていた。品目にせよ彩りにせよ、ここのところ妙に寂しいものがある。最終的には一面に玄米を敷き詰め、中央に巨大な梅干を埋め込むだけで済ませてしまうかもしれなかった。あり得ない話ではない。
その光景を想像してみた大津は、思わず苦笑を禁じえなかった。
「それにしても、相変わらず凄い食べっぷりだなあ」
どこかで聞いたような声に、大津は弁当を仕舞いかけた手を止めた。顔を上げると、いつの間に現れたのか、目の前で香月敏幸がにこにこと楽しそうに笑っている。人違いを疑ったが、こんな気味が悪くなるくらいの美形が二人も三人もいてもらっては困るというものだ。
「お前、なんでこんなところにいるんだ?」
一瞬の混乱から立ち直ると、大津は視線を鋭くして目の前の少年を睨み上げた。が、香月は涼しい顔でそれを受け流す。多くの人間にてきめんの効果を見せる大津の威嚇も、この男だけには何故か通用しない。
「だって弐棟長、これから例の中原君に会いに行くんでしょう? 一人だけずるいじゃないですか。僕も連れて行ってくださいよ」
「まったく……」大津は脱力して項垂れた。「お前、いつからそこにいやがった」
「ずっといましたよ」
香月は、羽が生えたばかりの天使のように笑う。だが実際は、腰から尻尾の生えた小悪魔だ。人の心を見透かし、隙を見せるとすぐに懐に入りこんでくる。
「僕は小食だから、大津さんの豪快な食事模様は見てるだけで気分が良くなるんだよなあ。なんだか力が沸いてくるような気がしてくる」
「そりゃ完璧に気のせいだよ。――で、本当について来る気か、お前」
「だって、滅多にあるイベントじゃないから」
「遊びに行くんじゃないんだぞ」
しかし、 <候鳥会> の幹部である香月を無下に追っ払えるだけの理由が大津にはない。仕方なく席を立ち、香月を連れて教室を出た。
男子生徒の絶対数が少ないため、弐番棟 <師光館> は女子棟 <千草館> と比較して小さく狭い。校舎の階数を見てもそれは歴然としており、壱番棟が四階建てであるのに対し、弐番棟は三階までしかなかった。そのため、最上階最深部にある深津のクラスからでも、下駄箱まではほとんど時間がかからない。
「外に出ちゃうんですか?」
中原均が帰属する一年生の教室は、弐番棟の一階にある。そちらに直行すると考えていたのだろう、香月は不思議そうに首を捻った。
「俺も奴がどこにいるか知らないんだ。学食に行ってるかもしれないしな」
昇降口で靴を履き替えて外に出ると、待ち伏せていたのか大津たちに駆け寄って来る人影があった。風にひるがえるスカート姿は、男子生徒しかいない弐番棟では一際目立つ。
「あれって、館長じゃないかな」
香月の言う通り、息を切らせて近づいてきたのは大津も良く見知った女子生徒だった。左胸と両肩につけられた候鳥の紋章は、彼女が <候鳥会> 幹部の一人であることを意味している。
「おっす、シンちゃんにカッキィ」
彼女は大津の直前で急制動をかけて立ち止まると、軽やかに片手を上げて見せた。慣性に踊らされて、肩の辺りで外側に大きく跳ねあがっている髪が柔らかに揺れる。
二大生徒会長の調整役として知られる <孤舟> ――その三四代目、松田奈子であった。
「おいおい、分かってるか松田。ここは女人禁制の弐番棟だぞ」
上級生の教室に平気な顔して入り込んでくる香月も問題だが、男子棟界隈にズカズカと踏みこんでくる彼女も大した度胸の持ち主である。
「もちろん分かってるよ」
松田は、ボリュームのある胸を誇示するように張って見せた。
「だから、本当は校舎の中に入っていきたいところをグッとこらえて、こうして外で待ってたんじゃない。まだ今のところは、女を廃業するつもりはないしね」
「なんだ、やっぱりお前も待ち伏せてやがったのか」
大津は深深と溜息を吐いた。現役の松田に次代の香月、いずれも <孤舟> に関連する人間であるが、その彼らとの付き合いにはいつも疲労が伴う。
「お前もってことは、カッキィもシンちゃんについていくつもりなんだ」
松田は両手を叩いて、嬉しそうに言った。
「こんな機会を逃せという方が横暴ですよ」
「だよね」松田は可愛い後輩の言葉に微笑んだ。「流石はカッキィ、私が仕込んだだけのことはある」
「付き合わされる方はたまったもんじゃないけどな」
そう言い捨てると、大津はさっさと歩き始めた。慌てた様子で松田と香月が後を追って来る。
「ねえ、やっぱり彼って教室にいないわけ? 私は学食にいる方に賭けてたんだけど」
大津に追いついた松田は、真横に肩を並べながら言った。
「いや、分からない」
一応そうは答えたものの、中原は教室で昼食をとっている可能性が高い、と大津は考えていた。委員監査会の報告書によれば、中原が受けている陰湿な苛めの中には、彼の所持品を隠したり教科書やノート類に悪戯書きをする、というようなものも含まれているらしい。
だとすれば、学食などに行って隙を作りたくないという心理が働くはずだった。嫌がらせを防ぐための監視を兼ねて、教室で弁当を突ついたほうが安全なのだ。
もちろん、これは科学的根拠を欠いた単なる勘に過ぎない。しかし大津自身の経験や体験に裏打ちされた、確信ある直感でもあった。
「――とりあえず、グラウンド入口の水道で監査委員の一人と会う約束になってる。まずはそいつから話を聞くんだ」
ここで言う水道とは、体育の授業や部活を終えた生徒が手を洗ったり、汗を水で洗い流したりするために設けられた手洗いだった。
コンクリート製の長細い流し台に蛇口が幾つか並んで取り付けてあるだけの簡単な造りで、誰でも自由に利用できる。昼食時は、食事前に手を洗おうとする者や、弁当箱を簡単に水洗いする女子生徒などの姿が良く見受けられた。
その手洗い場が入口となっている白芳の運動場は、学校敷地内のほぼ中心点に大きく広がっている。生徒たちの学び舎である二つの校舎は、左右からこれを挟み込むように建っているのが特徴だ。松田奈子たちの壱番棟は西側から、大津や香月のいる弐番棟は東側から、それぞれグラウンドをサンドウィッチにするように位置している。いずれの校舎からも、昇降口を出ればすぐにグラウンドへ下りることが可能だった。
事実、一向は弐番棟を出て一分も経たないうちに水道場に辿り付いた。ここからは、人目を警戒しながら慎重に行動する必要がある。
ただでさえ目立つ <候鳥会> 幹部が固まって動くのは不味いと判断し、大津は連れの二人に少し離れた所で待つよう指示した。
「まさか、この歳になってまでスパイごっこが出来るとは思ってなかったなあ」
その言葉が皮肉なのか本心によるものなのか、香月が浮かべる笑顔からでは読み取りにくい。対称的に、松田は明らかに不満そうな様子で唇を尖らせる。
「こういう面倒なの、私は苦手だな」
「俺も同感だよ」大津は肩を竦めて見せた。「――だけど、こういう茶番が必要だって事情も理解すべきだろう。これも <候鳥会> の仕事のうちだ」
委員監査会のスタッフは、一般生徒のみならず教員側に対してさえ非公開とされている。誰にも知られていない存在だからこそ入手できる情報は多い。もし監査会のメンバーが公になれば、教員の体罰や女子生徒へのセクハラ、生徒同士の校則違反などは、監査委員の眼を盗んだところで行われることになるだろう。
だが、誰が監査会の人間なのか分からない状態を維持していれば、こうした隠蔽工作が行われることを抑止できる。学園のありのままを観察するには、観察者が風景にとけ込み一体化してしまうのが一番なのだ。
そうした役柄もあり、監査委員たちは時に <密告屋> と揶揄されるほど、一般からは良い印象を持たれていない。しかも自分を殺し、絶えず表舞台の影に身を潜めていなければならない役職だ。
だが、彼らがそうした黒衣に徹してくれているからこそ、 <候鳥会> は機能していけるのだ。中原の存在を逸早く察知し、こうして大津たちが行動に移れるのも監査委員たちの働きがあればこそなのである。
そうした彼らの努力を無にするわけにはいかなかった。たとえそれが間諜の真似事にしか見えない茶番劇だと思われようと、監査委員に関する機密を保持するため、 <候鳥会> は人目を忍んだ慎重な行動を心掛ける義務がある。
「それじゃ、行って来るからな。くれぐれも大人しくしててくれ。特に松田、お前だ」
「はいはい」
念のために周囲の様子を窺ってから、大津は一人で歩き出した。今のところ付近には疎らに人影が見えるだけで、蛇口を使用している生徒は誰もいないようである。
大津は適当な水道に歩み寄ると、蛇口を捻って手を洗い始めた。そしてさり気なく周囲を窺う。しばらくすると、後ろから近づいてきた男子生徒が大津の隣に並んでハンカチを水に浸し始めた。
タイミングを考えると、彼が約束の監査委員である可能性が高かった。
「君が中原の担当か?」
大津が低く問うと、ハンカチの生徒は視線を手元に固定したまま微かに頷いて見せた。横目で一瞬だけ顔を窺ってみたが、これが意外にもあどけない。中原同様、彼も一年生なのだ。
「対抗戦の件でも忙しいだろうに、呼び出してすまないと思ってる。手短に頼めるか」
一年の監査委員は再び軽く頷いて見せると、大津にだけ辛うじて聞こえるような小声で話し始めた。事前に整理しておいたのだろう、要点だけをまとめた分かりやすい報告であった。
それによると、四月の中旬から始まった中原均への嫌がらせは、徐々にエスカレートしつつあるらしい。最初は陰口を叩いたり、グループで遊びに行くときに敢えて誘わない等といった微妙なものだったらしいが、現在では苛めだと明言できる様々な行為が行われている。物が隠されたり、壊されたりするのは日常茶飯事で、中には直接的に暴力を振るうグループもいるとのことだった。
「中原均はその暴力グループ四人に連れ出されて、今は弐番棟の校舎裏にいると思います。クラブハウスとの狭間になっている辺りです」
「――そうか。良く分かった、ありがとう」
「それからこれはまだ未確認ですが、暴力を振るう連中が中原から金を巻き上げているというような噂もあります」
「そこまで進んでるのか」
思わず眉間に皺を寄せ、大津はそこで言葉を切った。もしその情報が事実だとするなら、苛めた側に下される罰則は重い。過去の事例から見ると、恐喝による金品の略取には例外無く除籍処分が下されている。
この除籍処分は単なる退学とは異なり、白丘明芳学園に在籍したという記録ごと生徒の存在が抹消される。退学処分なら「在学証明書」や「単位認定書」をもらって他の学校に入り直すことも可能になるが、除籍の場合は記録を消去されてしまうため各種証明書の発行を受けることが出来ない。つまり、中学卒業後に高校へ進学しなかった――という事実を強制的に成立させられてしまうのだ。
除籍に処せられた者は事実上の中学浪人ということになり、年が明けるのを待って一年生から高校生活をやり直すか、時期を待って大検にチャレンジするしかなくなる。学生にとっては極刑にも等しく思えるだろう。
「 <候鳥会> で考えていたより展開が幾分早いな。大事になってきた」
大津は表情を引き締めると、蛇口を捻って水を止めた。
「なんにしても、情報はありがたく活用させてもらうよ。すまないが、君は引き続きこの件に集中してくれるか。対抗戦の件でも指示がいってると思うが、そっちの方は別に人員を割いてもらうよう、俺から会長に言っておくから」
相手が首を縦に振るのを確認すると、大津は蛇口を締めて踵を返した。濡れた手を制服で拭きながら、松田と香月の元に向かう。
背後では、監査委員が流す水の音がまだ聞こえていた。しばらく待って、時間的なズレを用意しない限り彼はその場を動かないだろう。一年だというのに、良く訓練された優秀な監査委員だった。
今の仕事が一段落したら彼の氏名を確認し、記憶に留めておこうと大津は決めた。
5.
「うーむ。それは、ちょっと不味いことになってきたね」
合流した直後、監査委員から得た情報をそのまま伝えると、松田奈子は珍しく渋い表情を見せた。
もちろん、彼女も <候鳥会> の一員として事の重大性を充分に認識している。ただ能天気なだけでは、三役と数えられる <候鳥会> 幹部は務まらない。
「揺すり集りってのは、校則違反の中でも最大級のペナルティが課せられるもんね。こりゃ大変」
「だから一年ってのは嫌なんだ。どうせ自分たちのやってることがどれだけの騒ぎになり得るかなんて、何も考えずに動いてるに違いねえんだよ」
大津は視線を真っ直ぐ前方に固定したまま、憤りも露な大股で校舎裏に向かっていた。松田と香月も当然のようについてくる。監査委員の報告を信じるならば、各部室が並んでいる棟と弐番棟との間に中原と苛めグループはいるはずであった。
「しかし、僕らも迂闊だったかもしれませんね。四月末の定例議会で、中原均の周囲で苛めが起き始めているという報告は既にあがっていた――」
背後からの声だったので大津にも正確なことは分からなかったが、香月が普段と何ら表情を変えずに喋っているであろうことは口調から容易に窺い知ることができた。
「あの時、しばらく様子を見るとして静観の構えをとったりせず、もっと迅速に対処していればこうまで事態が発展するのを未然に防げたかもしれませんよ」
「そりゃ、結果論だ」
内心では香月の言い分に一理を認めつつも、大津の口から出たのはそれを一蹴する素気無い言葉だった。
「お前は知らないかもしれないけどな、苛め問題に関する <候鳥会> のスタンスは静観と決まってるんだよ。例外もあるが、基本方針はそれなんだ」
「どうして?」
「そりゃ、俺たちが退学や除籍処分をチラつかせて介入すれば、苛めは封殺できるだろうよ。実際、歴代三役がまとめてきた <候鳥記> を見る限り、そうやって問題を収めたって事例は幾つかある。だけど、そういうのは長続きしねえんだ」
それは喩えるなら、捻挫したスポーツ選手が痛み止めを打つようなものだ。薬の効果で一時的にその場を凌ぐことが出来たとしても、捻挫そのものを癒して根本的な問題解決を図っていないことに変わりはない。いずれは痛み止め効果も切れ、伸ばし伸ばしにしていた問題と向き合わねばならない時が来るだろう。
それに痛み止めを多用すると、身体が薬に慣れてしまうことになる。このような場合、痛み止めの効果が徐々に薄れ、最終的にはほとんど効果をあげられなくなるのだ。
同じことは <候鳥会> の抱える問題にも言えた。だからこそ歴代三役たちは、問題を一時的な処置で誤魔化すことではなく、根絶するための構造改革を行うことに自らの役割を見出してきたのだった。
「ま、苛めってのは乙女の柔肌みたくデリケートな問題だって相場は決まってるからね」
松田はいつもの緊張感に欠けた口調に戻って言った。
「私も <候鳥記> は何度か読んだけど、あれで紹介されている事例を見る限り、大抵の苛めは双方がそれを呼ぶ原因を持ってるみたいだったよ。
――もちろん、苛める側の人間に大きな非があるのは間違いないよ。そもそも、問題になる人格的欠点を備えてない人間なんているわけないしね。だから私は、基本的に被害者側の肩を持つことにしてるけど」
しかし常に苛める側が一〇〇パーセントの責任を負っているわけではない、と松田は続けた。たとえそれが一〇〇〇分の一に満たない割合でも、被害者側が何らかの要因や誘因を抱えている場合もある。そしてその一パーセント未満の要素を取り除くことで、綺麗さっぱり問題が片付くこともあるのだ。
「僕らが出ていったとしても、中原君に対する苛めを生んだ環境や構造は変わらないってことですか」
「そうだ」香月の言葉に大津は重々しく頷いた。「そういうやり方は火種を残す。第一、全部を俺たちがやったんじゃ問題の解決にはならないだろう。その場合、苛めを無くしたのは他人であって、中原が自分の力で克服したわけじゃない」
そこまで言うと大津は立ち止まった。同時に、右手で二人の前進を制する。彼の視線の先には、話題となっている中原均の姿が捉えられていた。
「あれがそうなんですか? 実は、苛めの現場を生で見るのはこれが初めてなんですよ」
遠目を凝らしながら、香月がぼんやりと言う。
大津たちは、入学願書に添付されていた小さな写真でしか中原の容姿を確認していない。が、本人だと思わしき背格好の一致する少年の姿は確かにあった。どうやら彼は、複数の男子生徒に取り囲まれて往生しているらしい。
「見たところ間違いないみたいですね。どうするんです、大津さん」
「実際のところを確認してみたい。しばらく様子を見よう」
大津は向こう側から発見されないよう校舎の角に身を隠し、改めて影から状況を窺う。香月と松田もそれに倣った。
「報告通りみたいだね。相手は四人」
どこから取り出したのか、松田はオペラグラスを構えながら言った。こうしたイヴェントに対する時だけは、異常な周到さを見せる女なのである。
「――うわ、シンちゃんより大きな子が一人いるよ。中原少年、大ピンチ」
「お前な、プロレス観戦に来たんじゃないんだぞ。少しは自重しろ。大体、あのゴリラは単なる肥満体だろうが。俺とは体脂肪率が違うんだよ」
「しかし、四対一とは大したハンデですよね」
香月の言うように、中原は四人の男に取り囲まれて壁に張りついていた。
運動部の部室が並ぶこの一帯は、放課後にならないと人が寄りつくこともない。弐番棟の側面とに挟まれた日陰になっていて、中原が助けを求めたにしても、それに応じてくれそうな人影は周囲に見当たらなかった。
かといって華奢で小柄な中原が、あの包囲網を自力で脱出するのは不可能に近いだろう。本人もそうした可能性を考えてみる気はないらしく、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように身体を縮こまらせているだけだった。
「一対一の対等な勝負ならともかく、大人数で一人を取り囲むというのはフェアじゃないなあ。ずるいですよ」
香月は拗ねた子供のように唇を尖らせる。
「大津さん、どうにかなりませんかね」
「ならん」
「――でも泪ちゃんなら、あれくらい簡単に跳ね除けちゃうと思うんだよね。私は」
松田は軽い口振りで言った。
日吉泪。やはり <候鳥会> 幹部の一人で、古くから刀鍛冶を続けてきたという旧家出身の娘である。一八三センチメートルの大津と変わらない上背に、陸上選手のような鍛え上げられた肉体を合わせ持った、身体能力に優れる生徒としても広く知られていた。
「あの人を持ち出すなんて卑怯ですよ、館長。彼女はこういう場合の比較対象になり得ない。それに、中原君とは骨格からして違うじゃないですか」
「おい、頼むから大人しくしてくれ」大津は声量を抑えながらも一喝した。「連中の声が聞こえないだろうが」
だが、三人が揃って沈黙を守ったところで、聞こえてくるのは苛めグループの口汚い野次ばかりだった。中原も何度か言葉を発しているようだったが、蚊の泣くような小声では大津たちの元まで届いてこようはずもない。
そのうち四人の苛めグループも問答に飽きてきたのか、中原の頬を叩いたり、胸倉を掴んで何度も壁に叩きつけたりという乱暴な行動にではじめた。終いには力任せに投げ飛ばし、倒れたところを寄って集って蹴り回すといった危険度の高い暴力を振るい出す。
最初から抵抗心も闘争心も持ち合わせていなかった中原は、身体を丸め頭部を両手で庇いながら地べたにうずくまるだけだった。その無抵抗さは、蹴られるために造られたサッカーボールと大差ない。
「ちょっと、ちょっと。流石にあれは洒落にならないんじゃない? 人間ってあんなに滅茶苦茶に蹴っちゃって大丈夫な生き物なの」
見ていられなくなったか、松田はオペラグラスから眼を離すと顔を強張らせた。
「大丈夫なわけないだろう」大津は吐き捨てるような調子で即答した。「最近のガキは人の殴り方も知らねえんだよ。どっからどこまでが洒落で済むかなんて判断できやしないんだ」
「何にせよ、ここで見ているわけにはいかないでしょう。行きますか、弐棟長」
屈み込んで物陰に姿を隠していた香月は、既に腰をあげて足を踏み出そうとしている。もちろん、大津にそれを止める理由はなかった。
「 <孤舟> さんよ、お前は会館に戻っててくれ。坂本と日吉に、これから中原を連れていくからって言っておいてくれるとありがたい」
「OK。あんまり無理しないようにね」
大津の言葉を半ば予測していたのだろう、松田は笑って快諾してくれた。
「――あ、私の望遠鏡、使う?」
「なんに使えってんだよ」
大津は苦笑で答えると、一声かけて香月と共に歩き出した。数歩進んだところで、角の向こうに潜んでいた松田の気配が消える。大津は眼の前のことに集中することにして、新入生の一団に近付いていった。
無抵抗の人間を蹴り放題にできるとなると、人は相当に熱中できるものらしい。かなりの所まで接近するまで、一年生たちは大津たちの気配に気付かなかった。
それでも、砂利を踏みしめる音が直接届くまでの位置に至ると、流石にグループの一人が闖入者の存在を察知した。ハッと身を強張らせ、無意識のうちに数歩後退りする。他の三人も仲間の異変がきっかけとなり、次々に似たような反応を見せ始めた。
恐怖の入り混じった驚愕の表情から察すると、連中は大津たちが何者であるかに勘付いたようだった。幾ら日陰の中とはいえ、ある程度の距離を詰めた今となっては、二人の制服に刻みこまれた候鳥の紋章に気付かないはずはない。
同時に、自分たちの行為が <候鳥会> に露見したとき、どのような仕打ちを受けるかに思い至ったのだろう。四人の顔から見事に血の気が引いていった。新入生とはいえ、自分の学校に <候鳥会> と呼ばれる生徒会組織が存在し、その連中が生徒の悪質な校則違反に厳罰をもって対処できる権限を有していることくらいは知っているのだ。
「中原均という男子生徒を探しているんだが――」
大津は状況を細かく検分しながら、なるべく感情を排した口調に聞こえるように言った。予想外の出来事に狼狽を隠せない一年生たちは、満足な反応をよこせない。そこへ、数歩後ろをついて来ていた香月が、白々しく付け加えた。
「一年四組の中原均君です。あれ、もしかしてここにはいません?」
流石に硬直しているだけでは何の解決にもならないと考えたのか、一年生の何人かが視線で中原を示した。
近くから改めて見ると、その惨状が良く分かる。中原の背中には、無数の靴跡が焼印のように押し付けられていた。黒髪は竜巻に煽られたかのように荒れ果て、更には盛大に砂を被っているせいで半ば白く見えた。鼻から出血しているようで、地面の所々には小さな血痕が見られる。
中原本人は、胎児のように身体を丸めてうずくまった状態のまま、呆然と大津たちを見上げていた。砂埃が入ったのか、焦点の定かでないぼんやりとした目付きであった。
「お前さんが中原均か」
大津たちは、中原の傍らにゆっくりと歩み寄った。香月が名乗りながら手を差し出し、中原を立ち上がらせる。それから、全身に付着した砂と汚れとを払い落とし始めた。
されるがまま棒立ち状態の中原は、まだ何が起こっているのかを理解し切れないらしく、眼を瞬いて呆然と大津たちを眺めている。
「俺は弐番棟を預かってる大津だ。君が中原君なら、少し話を聞きたい」
その声に、中原はのろのろと大津の顔を見上げた。怪訝そう、というよりは不思議そうな顔をしている。こんなところに何だって <師光> がいて、何だって教えもしていない自分の名前を呼んでいるのか。そんな疑問が渦巻き、軽い混乱状態に陥っているように見えた。
しかし混乱を言うなら、一方の大津も中原と大差ない状態だった。初めて眼を合わせた瞬間、彼の中に落胆と安堵とが同時に芽生えていた。
事情を知る者なら――たとえば <候鳥会> の面々なら、それも無理からぬ話だと納得するだろう。
かつて大津は、今の中原と似たような境遇を経験したことがある。ただ、かつてと言ったところでそう遠い話ではない。まだ自分の支えとなる物を見出せず、日ごと増えていく傷の痛みにただ歯を食いしばることしか出来なかった影の時代は、つい数年前まで続いていたことだった。
だからこそ、大津は心のどこかで中原との出会いを警戒していた。
もしかしたら苛めを受けて苦しむ少年の姿に、昔の自分の面影が重なって見えるかもしれない――。そんな危惧があったからだ。
だが中原均は、大津とは似ても似つかない、拍子抜けするほど平凡な男だった。
何より眼に力がなかった。かつての大津は、手負いの獣のように誰彼構わず牙をむいていた。いつか自分を覆っている憂いを晴らし、今の生活から抜け出して見せる。そうした反骨精神に満ちていた。しかし、中原均にはそれがないのである。
内面がそうなら、外面も対照的である。まずブレザーの制服姿からして、一目で新入生だと知れるほど似合っていなかった。体格もまだまだ中学生のそれで、大津からすると発育不良のモヤシのほうに細く見えた。
敢えて中原の特徴的な点を挙げるとすれば、全く特徴らしきものを備えていないことに尽きるだろう。心理学者の助けを借りて「最も人の印象に残りにくい人間」像を分析し、それを参考に一個の人間を作り上げていけば中原均の出来あがりだ。強烈な個性を備えた <候鳥会> の面々と多くの時間を共有する大津にとっては、逆に彼の凡庸さが新鮮にさえ感じられた。
これが二年後、自分や須賀の跡を継いで、弐棟長 <師光> の座に就く者の姿なのだろうか。
その光景を想像することは、困難を極めそうだった。
6.
「あら、いらっしゃい」
第三会議室のドアを開けると、中で談笑していた三人の女子生徒が立ち上がった。そのうち最も小柄な人物――すなわち、白丘明芳学園 <壱棟長> 坂本雅美が代表して歓迎の言葉を口にする。その口元には自然な微笑が浮かんでいた。
「貴方が中原均君ね。怪我してるみたいだけど、大丈夫?」
中原が鼻から血を流しているのを見て、坂本壱棟長は眉をひそめた。
「おーっす、二人ともお帰り」
パタパタと手を振って寄越すのは、一足先に帰していた松田奈子である。
彼女とは対照的に、三人目の日吉泪だけは無言で中原を観察していた。
「遠慮しなくていい、入ってくれ」
入口に突っ立ったまま呆然としている中原の背を軽く押し、大津は彼を中に招き入れた。
「簡単な救急用具なら、四階にあるけど」
坂本は心配そうな顔をしながら、スカートのポケットから白いハンカチを取り出した。確かにそうしてやりたくなるほど、殴打の雨中にあった中原は酷いなりをしている。黒髪にはまだ砂と泥がこびり付いている箇所があるし、顔の下半分は鼻血と粉塵とが入り混じった汚れで斑模様が描かれている有様だ。
「どうだ、中原。消毒くらいしておくか?」
大津がそう問いかけてから、中原が反応を示すまで数秒のタイムラグがあった。
「――いえ」
初めて聞いた中原の肉声は、暴力を受けた影響か少しかすれ気味だった。
「血は、もう止ってますから」
「そうか、じゃあ適当に座ってくれ」
大津が言うと、香月が機敏に動いて手近にあった椅子を引いた。中原が会釈しながらそこに腰掛けるのを確認すると、にっこりと笑って自らも隣の椅子に座る。
自分も適当な席に腰を落ちつけようとした大津だったが、そうする前に壱棟長に押し止められた。
「大津君、あなた大丈夫なの?」
他人に聞かせるつもりがないらしく、坂本は小声で囁くように言った。
「なにが。俺は怪我なんかしちゃいないぞ」
「そうじゃなくて。私が言いたいのは、もしあの子を見ていて以前の自分を思い出さずにいられないなら――」
「よしてくれ」
大津は一瞬だけ声を荒げたが、自分の失態に気付き即座に声量を絞った。
「たとえ仲間だって認めている人間だろうと、内心をズケズケと見透かされるってのは気分の良いもんじゃない」
「ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃなかったのよ」
そんなことは百も承知だった。坂本雅美というのは魔術師のように人の心理を読み、そこに曇りや憂いを見出せば純然たる親切心から相手を気遣おうとする。今の大津のように、その配慮に対して思わず逆上してしまったとしても、それは一時のことに過ぎない。後で冷静になってみると、結局は彼女の思いやりに深く感謝することになるのだ。いつもそうなのである。
坂本に非はなかった。あるとすれば、無駄に気を昂ぶらせている己にこそある。大津自身、そのことは認めていた。
「俺はもう長佐じゃない、弐棟長だ。 <師光> になったんだよ。やりたくないことでも、やらなきゃいけない。痛みが伴うからって、仕事を投げ出すわけにはいかないんだ。あんたなら分かるだろ」
同じ棟長の重責を担うものとして、坂本は柔らかな微笑でそれに答えた。
身長一八四センチの大津に対し、坂本は一五七センチ。体格だけ見れば大人と子供の差である。だがそれでも大津は思わされるのだった。彼女には一生敵いそうにない。
「とにかく、これは俺自身に関わる問題でもある。最後までやらせてくれ」
「分かった。頼りにしてるわよ、相棒」
坂本は大津の肩を軽く叩くと、踵を返して自分の席に戻った。大津も空いていた椅子に座り、これで全員が着席したことになる。
「そうだ、ジュースでも出す? 給湯室の冷蔵庫に買い置きあったはずだけど」
松田がとっておきの提案、というような表情で声をあげた。確かに <孤舟館> には、会議中に生徒会役員たちが水分補給できるようお茶やジュースのストックがある。これとは別に、一階には自動販売機も設置してあった。
「たぶん、 <孤舟> は殴られた経験がないんですね」
そう静かに指摘したのは、今まで頑なに沈黙を守っていた日吉泪だった。
「口の中を切ったときは、飲み物が沁みて痛むものです」
「ああ、なるほど。それは気がつかなかった」
松田は感心したように言うと、大袈裟に何度も頷いて見せた。それから「さすがは道場の娘」と呟き、日吉に向かって親指を立てて見せる。何が嬉しいのか、その顔には満面の笑みが広がっていた。
「まあ、飲み物なんざこの際どうでも良いさ。あまり本人を待たせるのもなんだ、話に入ろう」
大津はしきり直すように言うと、会議室の長テーブル越しに中原均を見やった。
校舎裏からこの会館に来るまでも、この会議室に立ち入ってからの間も、中原は決して自分から言葉を発しようとはしなかった。胸の内では、 <候鳥会> が自分に何の用があるのか、会館に連れ込んで何をするつもりなのか、といった疑問が渦巻いていたはずである。少なからず混乱や狼狽もあっただろう。
だが、そうした内心の声を大津たちに向けてみようとは考えなかったらしい。自分からは決して行動を起こさず、ただ状況に身を任せて流されるまま。自分から近付きもしないが、かといって逃げ出しもしない。――それが中原均という男の基本スタンスらしかった。
問題は、そうした生き方を彼が自ら望んで選んでいるのか、それとも様々な理由から選ばざるをえなかったのかである。
大津たち <候鳥会> は、いずれ弐番棟を担って立つ男として中原均が相応しい器を持っているか、それを確認しなければならないのだった。
「まず確認させてもらうが、君は一年四組の中原均だな?」
大津の問いに、中原は小声で「はい」と答えた。
「そうか。じゃあ、遅くなったが改めて俺たちも自己紹介させてもらう」
大津は立ち上がって続けた。
「さっきも名乗ったが、俺は三年の大津晨一郎だ。弐番棟の首長として、全校の男子生徒を代表させてもらってる。いわゆる <師光> ってやつだ」
大津は腰を落とすと、隣に座る坂本に目配せした。それに応じて彼女はゆっくりと腰をあげる。
「はじめまして、私は三年の坂本雅美です」
「壱棟長、せっかくだから <候鳥会> のシステムを簡単に説明してやってくれ。どっちにしても確認しとかなきゃいけないことだ」
大津の言葉に、坂本は頷いて見せた。
「そうね、じゃあ簡単に少しだけ。――これは周知のことだと思うけど、ウチの学校は伝統的に男子と女子が違う校舎に分かれて生活しています。それで女子の校舎が <壱番棟> 、男子の校舎が <弐番棟> と呼ばれるようになった、という事情はご存知よね?」
彼女は、中原均が自分の話についてきていることを確認すると、静かに続けた。
「同じ学園の生徒だけど互いの交流が乏しく、校舎が違えば授業内容、校則、カリキュラムなんかも微妙に違うせいで、女子と男子との間には意識的、文化的な差異が少なからずあります。男子は女子棟である <壱番棟> の内情を詳しくは知らないし、それは逆の場合にも言えること。
だから一般校のように生徒会長が一人しか選出されないと、ウチの学校では問題が出てきます。この理屈はわかるでしょう? つまり、異性側の内部事情に精通していないことが原因で、知識や理解度に偏りが生じるからです。
そこで、共学になってからの白芳は、男子と女子からそれぞれ一名ずつの生徒会長を選出し、これに調整役の一名を加えて、合計三人の代表による運営を行ってきました。だから、この学校には会長が事実上三人いるの。さっき自己紹介した大津君もその一人。彼は男子側の生徒会長である <弐棟長> ね。そして私は、女子側の生徒会長である <壱棟長> ――というわけです」
「で、私がその調整役を任されてるっていう、三人目の会長ね」
坂本の言葉尻を奪うようにして喋り出したのは、やはりというべきか松田奈子だった。
「三年一組、松田奈子。この生徒会館には <孤舟館> って名前があるんだけど、一応そのボスってことになってるらしいから、代々 <館長> とか <孤舟> とか呼ばれてるみたい。君も好きに呼んでいいよ」
それから松田は、 <孤舟> が選挙管理委員会から無作為に選ばれる存在であること、故に自分が選出されたのは器や人格が認められたからではなく、単にクジに当たったからであることなどを簡単に説明した。
「それから、隣に座ってるこれはカッキィ。私の舎弟」
松田は香月の背中をバシバシ叩きながら上機嫌に続けた。
「二大会長の <千草> と <師光> 、それに生徒会館長の <孤舟> のことをまとめて三役って呼ぶんだけど、この三役には原則として舎弟が二人ずつ付くんだよね。私の場合は、このカッキィがそう。あとのもう一人は、今月の第四月曜から始まる生徒会役員選挙週間で、選管のコンピュータが適当にパパッと選んでくれる予定。ね、カッキィ君?」
「まあ、大方は問題のない説明なんでしょうけど……自分が館長の舎弟だったなんて、初めて知りましたよ。道理で色々と扱き使われるわけだ」
香月は苦笑いしながら立ち上がり、中原と向かい合った。
「はじめまして。僕は香月敏幸、当学の二年生です。今年の四月から、この <孤舟館> の長佐をやらせてもらってます。よろしく」
少し戸惑ったような様子を見せたが、中原は律儀に小さな会釈で返した。香月はそれに微笑んでみせると、穏やかな口調で続けた。
「ちなみに <長佐> というのは、三役の下についてその執務をサポートする僕ら副会長のことで、この学園での伝統的な呼称なんだそうです。松田館長が言うところの舎弟ってことになるかな。
この長佐というのは全部で三人いて、そこに座っている日吉さんもその一人だったりします。彼女は、坂本壱棟長を補佐する <壱棟長佐> ですね」
紹介を受けて立ちあがった日吉泪は、中原を一瞥し「よろしく」とだけ言って再び腰を下ろした。何とも素っ気無いものであるが、彼女が誰にでも似たり寄ったりの態度を示すことは大津も良く知っていた。
「あとの一人は、俺の補佐役をやってる須賀って二年生なんだが……こいつは今、事情があって休学中だ。詳しい紹介は割愛させてもらう」
そう言いながら、大津は何となく空席となっている椅子を見詰めた。が、すぐに中原に視線を戻す。
「――ところで、今日は満足に説明もできないままご足労願うことになったわけだが、その理由に関して君は何か思い当たるところがあるか?」
「いえ、ありません」
しばらく考えるような仕草を見せてから、中原は力無く首を左右に振った。
「僕には何も分かりません」
その声は表情に乏しく、録音された合成音声のように無機的だった。外部からの刺激に対して、なるべく無反応になるよう心掛けている結果なのだろう、と大津は判断した。
そうすることで、人は必要以上に傷つくことを避けられるのだ。
だが、さすがの中原も大津の次の一言には無感動ではいられなかった。
「君は、二年後の <師光> 候補として、ある人物から推薦を受けている」
中原は驚いたように顔を上げた。大津たちの真意をはかろうとするように、 <候鳥会> 幹部の面々に視線を巡らせていく。
だがしばらくすると元の無表情に戻り、項垂れるようにして顔を伏せた。
「今、これも苛めの一環だと思ったな?」
大津は自らの経験から、中原の心理が手に取るように分かった。
彼のように環境や周囲を取り巻く人々に虐げられてきた人間は、自分に向けられるあらゆる感情に必ず悪意が秘められているものと疑って止まない。他人に痛めつけられるだけの毎日は、人に強力な警戒心を抱かせるのだ。
「――そうじゃない。新手の嫌がらせってわけじゃないんだ。君を <弐棟長補> に推薦した人間は、真剣にこのことを考えている。俺たちもそうだ。でなければ、わざわざ会館まで引っ張ってくるような真似はしない。 <候鳥会> ってのは、他人を苛めて喜んでるほど暇じゃないからな」
「弐棟長の言っていることは本当よ」
坂本が優しく言った。その声は、泣いている弟をなだめようとしているようにも聞こえる。
「私たちが貴方をここに招いたのは、将来の <師光> 候補として推薦された生徒の人柄が知りたかったからなの」
「――分かりません。全然分かりません。どうして僕なんですか」
中原は何度も激しく頭を振った。
「いつもそうだ。僕は何もしていないのに」
「そうね、良くも悪くも貴方は何もしていない。何の行動も起こしてこなかった」
日吉の冷たくすら聞こえるその声に、中原はハッと顔を上げた。それでも、日吉の容赦の無い言葉は続けられる。
「だから何も変わらない。高校に入っても、中学時代と同じことが繰り返される。違うかしら?」
「貴女に何が分かるんですか」
中原は、日吉がそれを計算して意図的に挑発するような言葉を投げかけたことに気付かない。初めて彼の声に感情らしきものが篭った。
「貴女は全校生徒が憧れる <候鳥会> の要人だ。容姿も頭もある。皆から必要とされて、尊敬される。だから貴女は、無価値な人間だと決め付けられることなんてない。クズ呼ばわれすることもあり得ない。割れた牛乳パックを机の中に押し込まれることも、教科書がなくなったり、ズタズタに破り捨てられていることもない。教室で誰かの財布がなくなったとき、無条件に犯人扱いされることも経験することがない」
「貴方、そんな仕打ちを日常的に受けていたの?」
壱棟長は眉根を寄せた。思いは大津も同じである。中原の言葉が事実を語っているのなら、それは委員監査会からの報告より遥かに凄惨な苛めだといえた。
「貴方がたには関係のないことです。何もしていないのは僕だけじゃない。まして行動を起こす以前に、何が起こっているか知りさえもしない人間に言われる筋合いはない」
「ちょっと、ちょっと」
流石に癇に障ったのだろう、松田の口元から笑みが消えた。
「あのねえ、私たちだって何もしてこなかったわけじゃないんだけど?」
「もういい。よせ、松田」
大津はうんざりした様子で双方を諌めた。結局、会議室で結論を出せるような問題ではないのだ。互いに情報と状況を整理する時間が必要だった。
「中原の言い分にも理はある。俺たちにも非があることは確かだしな。いずれにせよ、もう昼休みも終わりだ。今回のところはこれで解散にしよう」
その言葉を待っていたのだろう、中原は即座に椅子を蹴って立ち上がった。大津たちに一礼すると、そそくさと踵を返す。
「――中原、ちょっと言わせてもらっていいか」
大津のその声に、彼は出入り口に向かって踏み出しかけた足を止めた。
「お前さんが俺たちをどう思っているのかは知らんが、こうして接触してしまったのは確かだ。だから、これからの学園生活の中で、嫌でも <候鳥会> の力と限界を知ることになると思う。それまで時間はしばらくあるだろう。少し、今日のことを考えてみてくれないか」
「それだけですか」
中原は俯いていた顔を上げ、一瞬だけ大津に視線を向けた。眼が合う。彼は再び、能面を被ったような無表情に戻っていた。
「それだけだ」
大津が言うと、中原は無言で顔を戻し、失礼しますと一言残して歩き出した。 <候鳥会> の面々は静かにそれを見送る。
「時間を取らせてすまなかったな」
大津は背中に一声かけたが、ドアが締まり姿が向こう側に消えてしまうまで中原は何の反応も寄越さなかった。
重たい沈黙が広い会議室におりる。中原均の印象を自分なりに整理しようとしているのか、誰も口を開こうとしない。奇妙な静けさが、しばし場を支配し続けた。
「――中原均ねえ」
最初に均衡を破ったのは、意外にも松田菜子だった。椅子の前部二脚を宙に浮かせ、後部の二脚で微妙なバランスゲームをとりながらニヤリと笑う。
「なかなか面白そうじゃない。最初は無気力で暗そうな子だとばかり思ってたけど、一旦口を開けばちゃんと自己を主張するし、長台詞も喋る。私は結構気に入ったね」
「本当にそう思うか?」少し驚きながら大津は言った。
「苛められっ子のくせに、妙にハードボイルドなところなんか珍しくて良いよ。流石は <師光> の後継ぎ候補って感じかな。シンちゃんに少し似てるんじゃない、彼」
彼女は、椅子ごとブラブラと身体を揺すりながら軽い口調で指摘した。
「はあ?」
思いもしなかった言葉に、大津は顔を歪めながら素っ頓狂な声をあげた。その表情がよほど面白かったのか、壱棟長が口元に手を当ててクスクスと笑う。
「実を言うと、私も菜子に賛成なのよ。確かに大津君や須賀君と共通する部分が垣間見えたと思うわ」
「その点に関しては同感ですね」日吉までもが同調する。「なかなか口を開かないタイプですが、そういう人間も内心では憤ったり傷ついたりと、色々忙しいんでしょう」
「――そう。思ってたより、強い自尊心を持った子に見えたわ」
微笑を絶やさないまま、坂本壱棟長は日吉の言葉を補足するように言った。
「彼は自分の中に掟みたいなものを作って、それを律儀に守る人なんだと思うのよ。きっと彼の中では、周囲の迫害に耐え続けることこそが戦いなんじゃない? だから、そこのところを泪に突つかれた時、侮辱されたような気がして腹を立てたのよ」
「或いは、心のどこかでは指摘されたことを気にしていたのかもしれませんね」
頬杖をつき、そこに線の細い顎を乗せると香月は言った。
「耐え続けることが自分の戦いなんだ、と信じつつ――でもどこかで、それを行動しないことに対する言い訳にしてはいないか、と悩んでもいた。その部分を日吉さんに見透かされたから、つい過剰に反応してしまった、と」
「そういう部分もあったでしょうね」坂本は首肯した。
確かに、彼らの言う通りなのだろう。中原に実際会う以前から、大津もそのことには薄々気付いていた。彼の生活記録を見ればそれは良く分かる。
中原の場合、中学時代から既に苛めを受けていたらしいという噂があるが、彼はその中学三年間を無遅刻無欠席の皆勤賞で通している。白芳に入学してからも、そうした生活態度は変わっていない。
苛めを受け、それに悩み続けてきた人間なら、一度くらいは学校を休んだり遅刻してみたりするものではあるまいか。しかし、中原はそれをしていないのだ。恐らく、体調を崩して休むに足る理由があったときにでも、無理をして通い続けたのだろう。
そうした事実を刻んだ記録は、戦いの軌跡と見えなくもなかった。
「中学時代の内申書や彼に関する色んな資料を見てみると、『どんな苛めを受けたって、絶対にそれから逃げないぞ』っていう姿勢が見えてくるでしょう? 本人の言葉を借りれば、無価値だと決めつけられても、クズ呼ばわれされても学校に通い続ける。彼にとっては、そうすることが何かの証明になっていたのかもしれないと思う」
淡々と語る坂本の眼には、一種の敬意にも似た何かが湛えられているような気がした。
「泪の言うように、苛めを無くそうという積極的な行動は見られないけど、でも今の彼のやり方だって充分に凄いことだと私は思うの。強い子だわ」
「ま、そうかもね。自分に厳しいってのは、私も良いことだと思うよ。そういう人って信用できるし」
バランスゲームを止めて椅子を元に戻すと、松田は少しだけ表情を引き締めた。ここからは生徒会館長 <孤舟> としての発言、というわけなのだろう。
「――でも、今のままじゃあ <候鳥会> 入りは不可だよね。少なくとも私は承認できない。自分の環境を変えられない人が、学校の環境を変えていく仕事なんてやれるわけないしね」
その思いは、全員が同じくするところであった。反論は出ない。
苛めを「生き地獄」と表現する者があることを大津は知っていた。的確な表現だ。その生き地獄の中にあっては、中原のように責め苦に耐え続けることで精一杯、という人間も少なくない。
そうした事情も知らず、彼らに向かって「耐えるばかりでなく自分で地獄を楽園に変えてみろ」と要求するのは些か酷すぎる話である。
だが、 <候鳥会> とはその酷なことを実現していかなければならない存在なのだった。大正末期から受け継がれる伝統と戦い、無謀と囁かれる難題にも取り組んでいく必要がある。たとえ自分の手に余る現実であったとしても、それを変えられると信じ、行動していかなければならない。そしてその姿勢を継承し続けていかねばならない。
<候鳥会> はどのように努力したかではなく、何を結果として残したかで評価される集団――即ち、プロフェッショナルなのだ。
「いずれにしても、ここで焦って結論を出すことはないんじゃないかしら。まだゴールデンウィークが明けたばかりだもん。来週の土曜日からは、沢野井との対抗戦もある。正直、新人さん問題に関してはそれが片付くまで手出ししている余裕はないと思うの」
坂本雅美から出てくるのは、いつも教本通りの正論である。本来なら人に感銘を与えるだけの力を持つものではない。だが、然るべき人間がタイミングを見ながら発すれば、使い古された陳腐な正論も強力な説得力と影響力とを備えた至言になり得る。
そして坂本という人物は、その然るべき人間であり、心憎いばかりに発言のタイミングを心得た論客なのであった。彼女の声は特に大きくも美しくもなかったが、何故だか人の注目を集め、その心に深く浸透していく。
「対抗戦か。娯楽に乏しい田舎町にとっては、久しくない大きなイベントですからね。今年も、きっと白丘市あげてのお祭り騒ぎになるんじゃないかな」
その賑やかな光景が既に鮮明に思い描かれているのだろう、香月は楽しそうに笑った。
「そうだ、対抗戦だよ。まったく忙しい話だな」
なにも <候鳥会> の仕事は苛め対策ばかりではない。弁当を五分で食い切る技術を身につけたのは、決してなくなることのない仕事を一つでも多く消化できるようにするためだった。そのことを思い出した大津は、顔をしかめながら低い唸り声をあげる。眉間にはいつもより深めの皺が刻まれていた。
いま話題となっている対抗戦とは、「芳心祭」、「球技大会」と並ぶ白芳三大イヴェントのひとつで、その実態は私立沢野井高等学校とのスポーツ交流だ。
沢野井は白丘市の隣に位置する水沢市の高校であり、白芳とは姉妹校として長く友好関係を温めてきた。対抗戦はその親交を象徴する伝統的催しとされていて、両校の運動部が互いの威信をかけて激突し、勝利を奪い合うという苛烈なものであった。
どちらの学校も体育会系の部活動は中堅どころの実力しか持っておらず、全国規模の大会では目立った成績を上げることも、歴史に名を刻むこともできない。それ故に、対抗戦で相手方の学校に勝利することだけを唯一の誇り、また最終目的として掲げていることが多く、争われる技術水準はさておくとしても、その勝負は毎回熾烈を極めるため大きな盛り上がりを見せる。
「問題は、最近噂されてる対抗戦関連の不祥事が本当に行われているか……だね」
松田館長は胸の前で両腕を組むと、珍しく難しい顔で指摘した。
「対抗戦の勝敗が賭博の対象となっていることと、それでかなり大きな額のお金が動いていることは、この際目を瞑ってもいいと思うの。所詮、学園外の一般人がやってることだしね」
管轄外の話でもあるし、と坂本は肩を竦める。が、その表情は仕草とは裏腹に厳しいものがあった。
「ただし、この賭博にウチの学生が一枚噛んでいて、勝敗を操作するために八百長が横行しているとまで実しやかに囁かれだしたんじゃ、 <候鳥会> としては断じて看過できるものではないわ」
「下手をすれば警察沙汰ですからねえ」
一人、香月だけは緊張感の欠片もない陽気な微笑を浮かべている。決して重圧に屈しない強心臓と、事が大きくなると逆に状況を楽しむ方向に向かう度胸は彼の大きな武器であった。
「流石に噂に尾鰭がついたものだと信じたいですが、その八百長賭博で動く巨額の金が地元非行グループの資金源になっているなんて話もありますね」
日吉長佐が指摘する噂は、ここ数年で随分と耳にする機会の増えた話であった。根拠とリアリティに著しく欠ける話であるため、愉快犯が悪戯目的で流した噂であろうというのが大方の見方である。だが、こうしたデマが広まること自体が、既に対抗戦の腐敗を示す一つの証となっているのは事実だった。
「でもさ、対抗戦ばっかりに集中するわけにもいかないんじゃない?」
松田はポケットから取り出したオペラグラスを弄びなから言った。
「現場を見せてもらって分かったけど、中原問題もこのまま放置しておけるレべルの話じゃなかったよ。かなり酷い暴力を受けてたしね。今後、大怪我させられることがあるかもしれないし、最悪、生死にも関わってくる恐れがある」
「そんなに酷いの?」坂本は毛虫でも見たかのように眉をひそめた。
「その件に関しては、たぶん大丈夫だ」
「なに? シンちゃんってば、いやに自信たっぷりじゃん」
大津の自身ありげな言葉に、松田は眼を細めた。
「まあ、見てろって。中原の問題は、逆に少し間を取った方が良いと俺は思ってる。こっちの計算通りなら、対抗戦が終わるまでは中原も平和な一時を過ごせるよ」
大津はそう断言すると、納得のいかない顔をしている松田に向けて不敵に笑って見せた。
to be continued...
■履歴
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脱稿 | | 2004年09月03日 |
初出 | [phase.04] | 2004年09月28日 |
初出 | [phase.05] | 2004年10月01日 |
初出 | [phase.06] | 2004年10月04日 |
本作は書き下ろし作品です。 |