101
School bullying
砂塵
1.
午前七時二五分、いつものように目覚し時計が鳴った。
耳障りなベルを止めると、這い出るようにしてベッドから降り立つ。中原均はそのまま重たい足取りでクローゼットに向かい、学校指定の制服を引っ張り出した。
着替えを終えるまでに、一体どれだけの溜息を漏らしただろう。これからまた長い一日が始まるのだと思うと、気分は果てしなく憂鬱だった。
一階に下りて洗面を終えた頃、例によって頭痛がしだした。身体全体を支配する倦怠感は、三七度以上の熱があることを示している。精神が神経や肉体にまで影響を及ぼし、「登校したくない」とあらゆる手段を用いて主張しているのだった。
中原の闘いは、既にこの段階から始まっている。
――本音を言うなら、肉体の訴えを聞き入れて学校を休むことにしたかった。それも今日一日の話ではなく、もう永遠にクラスへ顔を出したくない。
実際、登校拒否や自主退学といった言葉が脳裡を掠めたことは一度や二度ではなかった。それで済むのならどれだけ楽だろう。
入学当初に抱いていた、充実感ある学園生活など今は儚い夢に過ぎなかった。近頃では、目覚めて「これから学校に行かなければならないのだ」と考えただけで発熱したり頭痛に襲われたり、吐き気をもよおしたりする。
中原にとって、高校生としての日常生活を支えていくのは今や苦痛でしかない。
ダイニングキッチンに入ると、母親が鼻唄まじりに朝食の準備をしていた。フライパンの上で油が弾ける小気味の良い音と、コーヒーの芳しい香りが漂ってくる。出張中の父親の姿は、当然ながら見えない。
中原は無理に微笑を浮かべて母と挨拶を交わし、のろのろと食卓に就いた。
「均、学校どんな感じ?」
二人分の朝食を載せたトレイを運んで来ると、母は中原と向かい合う席に腰を落とした。生活協同組合で事務のパートをしている彼女は、いつも中原と揃って朝食をとる。
「別に普通だよ」平静を装って答えた。
「――そう?」
言葉の裏に隠された真実を見極めようとでもするかのように、母親は中原の表情を窺ってくる。もちろん、そうするに充分な理由が彼女にはあった。
中原には、中学時代に同級生たちから苛めを受け、周囲に散々心配をかけたという過去がある。同じことが高校生活でも再現されてはいないかと案じてしまうのは、親として実に自然なことなのだろう。
「心配無いよ。校風守るために、ウチの生徒は厳し目の校則で縛られてるから。 <候鳥会> もいるし。問題が起きるような雰囲気はないんだ」
母はその言葉でようやく安堵したのか、口元を綻ばせた。
「なら良いんだけど。あんたは友達作るの上手くないし、お父さんも心配してたのよ」
「確かに、自信をもって友達って言える人はいないかもしれない」
食欲はまったく無かったが、不審に思われないよう中原はフォークを持った手を休まず動かし続けた。トーストと目玉焼きを口に放りこみ、熱いコーヒーで無理やり胃に流しこむ。途端に吐き気が襲ってきたが、精神力で何とか抑えこんだ。
「でも大丈夫だよ。僕はどっちかっていうと一人でいる方が好きだから。それに焦って無理に作るようなものじゃないでしょ、友達って」
「それはそうかもしれないけど……」
母はベーコンを刻む作業を中断して、不安そうに眉をひそめた。まだ完全に安心し切ったというわけではないらしい。
「大丈夫だって。一人で自分勝手に時間を使ってる方が気が楽ってだけだから」
中原は精一杯の笑顔を浮かべながら、宥めるように言った。
「大体、まだ高校に入って一ヶ月ちょっとしか経ってないよ。クラスに馴染み切れてないのは他の人だって同じだ」
「部活には入らないの?」
冗談じゃない、と思った。学園内で一呼吸する度、見えない毒素が肺に入りこんでくるような錯覚に襲われる。肉体と精神が蝕まれ崩壊に向かうのを阻止するためには、一刻も早く学校を脱出して自宅に駆け込むのが一番なのである。
だが勿論のこと、それをばか正直に言うわけにもいかない。代わりに中原は、母親を安心させるため笑顔をつくった。
「今のところ部活は考えてないよ。良いのが無くて」
「そうなの?」
「大体、僕はチームプレイだとか共同作業だとかいうのは苦手だ」
「あんたは――」彼女は呆れたような苦笑を浮かべた。「本当に協調性がないのねえ」
それは誰もが認め、そして中原本人も強く自覚していることだった。
旗色が悪くなってきたと判断した中原は、可能な限りの速度で朝食を平らげて早々に席を立った。空の皿を流し台に運び、鞄を持って母親に挨拶する。行ってらっしゃいという明るい声が返ってきた。
性格の大人しい父親に似ず、快活な母親の気質を継承していれば、今のように毎朝の苦痛を経験せずに済んだかもしれない。――だがそれは、自分をより惨めにするだけの無益な仮定である。中原は頭から雑念を振り払うよう努めつつ、玄関へ向かった。
いつもそうなのだが、靴を履き、出入り口のドアを開けるまでの時間が何より辛い。微熱と頭痛でふらふらするし、これから始まる学校での時間を思うと気が遠くなるような思いを味合わなければならないからだ。
それでも中原は学校を休むことや退学、転校などを真剣に考えたことは一度も無かった。確かに、自分が苛めを受けやすいタイプの人間であることは自覚にあったし、母から指摘されたように協調性や対人的な積極性に欠けるため、なかなか友人を作ることができない人種であることは認めている。
だがそれは他人にとやかく言われる筋合いのない、人間的な欠点の一つであるように思えた。形は違っても誰もが持っているものだ。だから、そうした特性を備えているからといって、中原均を実際に攻撃することを正当化する理由にはなり得ない。中原を迫害する者がある一方、それを決して行わない人間も存在することがその証明だった。
また、消極的な性格ではあっても逃避的な人間ではありたくない、という考えも登校を止めない大きな理由の一つだった。
苛めを苦にして学校に通うのを止めたり退学してしまうのは、問題の解決ではなく単なる逃げのような気がしていた。周囲からの攻撃にただ耐え続けるだけでは何も変わらないが、それでも逃げ出すよりかはましである。
だから中原は身体が俄かに熱を帯び、頭痛を発し、嘔吐感でそれを拒絶しようとも、自らを叱咤しながら通学路を歩かなければならなかった。それを止めたとき、自分は環境に屈したことを認めることになる。そう思えばこそ、辛く冷たい中学の三年間も学校に通い続けたのだ。
他人から嫌われ、侮蔑され、無価値と決めつけられるのは大きな苦痛である。だがそのことから逃げ、己を卑怯者だと罵るようになることは、自分で自分を殺すことと同じだった。それは中原にとって単なる苦痛より忌むべき、まさに絶望だったのである。
2.
高校に入れば何かが変わる、と中原均は希望的に考えていた。
環境を一新させてしまえば、きっとやりなおせる。これまでのような憂鬱な日々に終止符を打ち、普通の学生としての日常を謳歌できる。そう信じていた。
だから学校を選ぶときは神経を使った。見知った人間がなるべく少ない、厳格な校則の敷かれている所が理想だ。白芳――私立白丘明芳学園は、そうした意味でうってつけの高校だった。
大正末期に設立された伝統ある女子校で、四〇年ほど前から男子生徒の受け入れを開始。共学になった。現在でも女子の力が強く、全校生徒における男女の比率は五対九。教師や運営陣の中には同校の卒業生も大勢いて、学園を経営する理事長本人もその一人であると聞く。一般卒業生や部活動・生徒会等のOB、その保護者たちによる後援会の活動も活発だ。
そのため関係者たちの愛校心といったようなものは一般的な高校の比ではなく、生徒や学園の対外的な評価を非常に重視する傾向にあるらしい。秩序と伝統とを重んじる保守的な学園なのだ。
何より <候鳥会> と呼ばれる生徒会の存在が大きかった。
彼らは生徒としての目線から物事を見て、生徒による生徒のための学園統治を行っていると聞く。豊富な財源と過去の会員たちの強力なバックアップもあり、 <候鳥会> の発言力は強大で、学園長と理事会の承認を得れば校則の制定や改正をも可能とするらしい。
実際、特別予算編成案を理事会に提出して学生食堂や購買部を造らせたのも、全教室に空調を導入するよう働きかけたのも、時代に合わせた制服のモデルチェンジを推進したり、冬季制服にオーヴァコートを追加させたりしたのも <候鳥会> の働きによるものだ。それに、彼らが生徒会幹部として学園運営に加わり始めてからは、不登校の生徒や苛めの問題なども激減したと聞く。
この <候鳥会> の存在が決め手となり、中原は白丘明芳学園への入学を決めた。
――しかし、こうした彼の思惑はことごとく裏切られた。確かに入学から数日の間、各生徒が新たな環境での生活に慣れるまでは、中原も普通の高校生として学園生活を楽しむことが出来た。だが、それは一時的な平穏に過ぎなかったのである。
変化が目に見え始めたのは、新生活に伴う特有の慌ただしさが一段落し始めた四月の中旬頃だった。この時期になると、クラスの内部に明確な勢力図が描かれだす。生徒達は自分と気の合う人間を見つけ、友人関係を構築し、グループを作り始めるのだ。
成績の良い優等生たちは、実力テストや中間考査の成績などを参考に、偏差値の高い人間をピックアップすることから始める。もちろんそれは受験戦争の強力なライバルと警戒すべき人間であるが、同時に互いを刺激し合える良き友人ともなり得るわけだ。
逆に成績など二の次、高校生活を思い切り満喫して遊び倒そうとする人間たちは、広く浅い人間付き合いを好む。彼らは同族を見極める特殊な嗅覚を有していることが多く、早い時期から仲間を見出し、街に繰り出しては遊び歩くのに夢中になった。
人付き合いが上手く要領の良い人間達は、これらのどのグループにも属さないことがある。しかし彼らは、その時々で適当な集団に飛び入り、巧みに周囲に溶け込んで自分のポジションを確保してしまえるという特殊な能力を有していた。
――問題は、中原がこれらどれにも当てはまらない生徒だったことにある。
新学期が始まって一月を経ても、親しく話ができる友達は一人も出来ず終い。人間関係に消極的な性格が災いし、彼が早くもクラスの中で孤立しつつあることは、周囲の誰もが既に気付き始めていたことだった。
そもそも、正面から向き合わずに何事も斜めに構えてみるのが彼のスタイルだった。友達も本物以外は必要ない。中原にとってクラスメイトたちが簡単に口にする「友達」とは、孤独を誤魔化すため刹那的に利用し合う馴れ合い――蔑まれてしかるべき、軽薄な人間関係でしかなかったのである。
彼が欲しがったのは、集団から弾かれる恐怖に怯えるあまり自分の本音を押し殺し、表面上だけ調子を合わせるような関係ではなかった。意見や思想は違っても、互いのそれを尊重しあって付き合っていける本当の友人関係だったのだ。
だがそうした中原の思想や姿勢は、周囲の人間からすれば単なる傲慢にしか映らなかった。一歩離れた場所から見下したように自分達を眺め、全てを鼻で笑っているような不遜な態度に見えた。
そこそこ勉強ができ、目立たず大人しい生徒だったため教師の受けは良かったが、逆にクラスメイトにはなかなか中原均の名を覚えてもらえず、仮に覚えられたとしても不愉快な人間として忌避されることが多かった。
そうして周囲に疎まれるようになった中原に、中学時代の彼を知る数少ない人間達が追い討ちをかける。
中原均は誰からも嫌われる暗い人間で、中学生の頃から皆の反感を買っていた。苛めまがいの仕打ちを受けていたのも当たり前、むしろ自業自得である。――そんな風聞が流布され始めたのだ。
中原の机や教科書、ノート類に悪戯書きがされるようになり、下駄箱から靴が消え、話しかける言葉が無視されるようになるまで、そう時間はかからなかった。
結局のところ、中原の計算は全てにおいて甘すぎたのだった。
管理の行き届いた厳しい校則があれば苛めが生まれる隙もあるまい、というように彼は考えたが、規則でがんじ搦めにされた生徒たちはその生活にストレスを感じ、中原のような弱者を攻撃することによって鬱憤を晴らす方法を思いついた。
女学校が母体となる伝統校なら和気藹々とした学園生活を満喫できる、という計算も同様の甘さから覆された。苛めはどんな社会の中でも発生し得るということを彼は知らなかったのだ。こうした問題はその環境に応じて姿形を変え、いつも中原のような人間に牙をむく。
現に、中学時代のように理由なく暴力を振るわれるケースは減ったが、学園の雰囲気に合わせて苛めの質は陰湿化して彼の元に降りかかった。
頼みの綱となるはずの <候鳥会> も救いとはならなかった。彼らは中原という個人ではなく、全校生徒を相手にして活動している。それに年度が変わって数ヶ月程度では、彼らも個々の生徒の生活実態まで把握しきれるはずもない。苛めの問題が表面化し、彼らにその報告が届くまで半年は待たなければならないと思われた。
――だが、以上のような中原の認識は正しくなかった。少なくともこの時点において彼は <候鳥会> を誤解していたし、同様に過小評価してもいた。
生徒会最高幹部連である <候鳥会> のメンバーは、既に中原均の人格を把握していた。それどころか委員監査会からの報告で彼が苛めの被害を受けている可能性がある、という事実を認識してさえいたのである。
こうした事実を知らない中原は、だから自分の名前が <候鳥会> を賑わせていようなど想像だにしていなかった。まして自分が <候鳥会> の後継者候補として須賀裕樹という男に推薦され、これが真剣に検討されていることなど考えようはずもない。
だが中原がどのように評価していようとも <候鳥会> は現実に動きだし、彼との距離を急速に縮めつつあったのである。
3.
「ちょっと来いよ」
昼休みにトイレに向かったとき、その一言で人気のない校舎の裏に連れ出された。
中原を取り巻く同級生たちは、大きく三種に分類することができる。一つは中原均という人間が最初から存在しなかったかのように振舞う、いわば無視組である。もう一つは物を隠す、黒板いっぱいに彼を誹謗中傷する文章を書く、机の中にゴミや汚物を突っ込むなどといった、陰湿な嫌がらせをしかけてくる人間たち。そして第三種が、直接的に顔を見せ暴力をふるったり、脅迫して金を巻き上げようとする輩だった。
もちろん、このとき中原を引っ張っていったのはこの三番目の連中である。最初は人数の増減やメンバーの入れ替わりがあったものの、最近は顔ぶれが固定されてきている。彼らは全部で四人おり、一人を除いて全員がクラスメイトだった。
連中の顔はいい加減覚えたが、名前に関しては曖昧な部分があった。中原にしてみれば、最初から彼らのプロフィールなどに興味などない。同様に、彼らも中原の個人的な事情にはなんら関心がないはずだった。なのにこうして絡まれるのは、中原本人に用はなくても中原の持っている財布の中身には興味があるからにほかならない。
彼らは馴れ馴れしく中原の肩に腕を回し物陰に引っ張りこむと、無言でスラックスの後部ポケットを漁ってきた。何度かの経験から、中原均がここに財布を入れておく習慣があることを知っているのだ。
だが、今日の彼らは空を掴まされた。
「おい、財布どこだよ」
中原が密かに <熊男> と呼んでいる巨漢の生徒が、凄みを利かせながら睨んでくる。同時に腹いせの一撃が飛んで来て、頬を叩かれた。乾いた音がしたかと思うと鋭い痛みが走り、微かに錆びた鉄のような味が口内に広がった。
「今日は持ってきてない」
中原は殴られた左頬を押さえながら、小声で答えた。
途端に胸倉を掴まれ、校舎の壁に背中から叩きつけられた。一瞬、背中だけでなく後頭部を痛打し、視界が閃光で焼かれたように白く染まる。
「じゃ、取って来いよ」
「今から家戻って持って来い」
中原を吊り上げる <熊男> の背後から、他の連中が口々に言い出した。
「無理だよ」
中原は恐怖と肉体的な苦痛に喘ぎながら、懇願するように訴えた。
「もうすぐ休みも終わるから、授業に間に合わなくなる」
だが、予想通り彼らは全く取り合わなかった。取り合わないどころか、知るか、関係ない、というような言葉で一蹴される。その相貌には複数で一人を取り囲むことや、金品を強要するといった行為に後ろめたさを感じているような様子は微塵もなかった。
彼らは、「中原均は中学時代から皆に嫌われていた人間である」だとか「中原は傲慢で人を見下した態度を取る人間だと誰もが言っている」というような風聞を根拠に、自分がこうした行為に荷担することを合理化しているのである。
だから相手が殴り返してこない人間だと知ると、彼らの要求は日に日にエスカレートしより理不尽なものになっていった。最初は <熊男> たちも、人気のない場所に連れ出して口々に罵倒するだけで満足していたのだ。
「――それに、家に帰ってもお金は無いんだ」
「嘘吐くな、オイ」
<熊男> が中原の二倍はあろうかという太い腕に力を入れ、強面を近づけてきた。首の辺りで締めつけられたシャツとネクタイが気管を圧迫し、呼吸が困難になる。
「本当に無いんだ。嘘じゃない」
中原は必死に酸素を求め、金魚のように口を開閉しながら声を絞り出した。
「この前の分で全部無くなったんだ。何も入ってないから、今日も財布を持ってこなかった」
「お前のじゃなくても、親の金があるだろうが」
<熊男> にもう一人が加わり、中原の身体を前後に激しく揺さぶった。頭を壁に幾度も叩きつけられる。衝撃で平衡感覚が失われ、自力で立っているのが困難になってきた。酸素の供給不足が続き、めまいと猛烈な吐き気が襲ってくる。口内に広がる血の味は濃くなっていく一方だった。
「通帳から金おろして来い。駄目ならバイトでもしろ」
もちろん、それがどちらも不可能であることを知っていての要求だった。彼らは中原が苛めの実態を外部――特に家族に知られないよう気を配っていることに気付いていた。だからこそ、気がね無く安心して暴力を振るい、こうして脅迫などをやっていられるのである。
またアルバイトだが、これが校則で厳しく制限されていることは周知の事実だった。特別な事情と両親の許可があり、かつそれを学校から認められない限り外で働くことはできない。これに違反する者に白芳が用意している罰則は極めて重いものだった。
「――親の通帳の在り処なんて知らないし、アルバイトは禁止されてる。どうやっても、もうお金は渡せないよ」
多少の嘘はあったが、金を作れないことと作れたとしても渡す気がないのは事実である。しかし中原が出したこの結論は、相手の男たちにとって「生意気な反抗」でしかなかったようだった。これまで状況を楽しんでいた彼らの顔色が一変する。薄笑いに代わり、今ではその表情に明確な怒気があらわになっていた。
最初に動いたのは、やはり <熊男> だった。彼は何度か中原を殴りつけると、胸倉を掴んだ腕をそのまま渾身の力でもって真横に振り払う。
その後、自分の身になにが起こったのかを把握するまで数秒かかった。気付くと中原は泥と砂に塗れて、日陰になった校舎裏の地面に仰向けになっていた。その時になって初めて、想像を絶する腕力で無造作に投げ飛ばされたのだと理解した。着地のとき受身に失敗し背中を強打したらしく、吐き気と咳が止らない。
「なに、対等だと思ってベラベラ語ってんだ、お前」
恐怖と痛みとで身動きの取れない中原に、四個の靴底が雨のように降りかかった。抵抗しない相手に一方的な暴力を行使することしか経験してこなかった彼らは、手加減の仕方など知らなかった。頭に血が上ると、相手のダメージや心痛などを想像する余裕すら失ってしまうのだろう。
全く容赦の無い攻撃に、中原の本能はそのことを逸早く悟った。この男たちは、力加減をしなければ人を死に至らしめてしまうこともあり得る、といったことさえ忘却してしまっているのだ。
――殺される。
そう思った瞬間、中原の全身を抗いようのない恐怖が襲った。それは、中学時代に受けてきた苛めからは決して生まれてこなかった思いだった。
そもそも、中学生と高校生とでは肉体的な成熟度が根本的に異なる。未だ成長過程である一〇代前半から半ばの子供と違い、一〇代も後半に差し掛かった人間の体格はもはや大人のそれに近い完成度を誇るのだ。暴力の質も危険性も比較にはならなかった。
こうなれば恥も外聞もない。声をあげて助けを請うことにした。これまでの三年間のように、ただ耐え続けるだけのやり方では命を落とすことにもなりかねない。
貫いてきた姿勢を崩すのは辛かったが、適度に妥協し、時に自分を殺してでも屈辱的な態度をとらなければ、これからも続くであろうこの仕打ちを乗りきっていけそうもなかった。
いよいよ限界を感じ始め、慈悲を請う言葉を懸命に探していると、不意に連中の攻撃が途切れた。真夏の通り雨のように、一瞬でピタリと止んでしまった感じだった。
固く眼を閉じ、頭を抱え込んで亀のように屈みこんでいた中原には全く状況が掴めない。恐る恐る腕を解き、節々の痛みに歯を食いしばりながら顔を上げた。舞いあがった砂煙越しに目を凝らす。
中原を取り囲んでいた四人は何かに気を取られたように、揃って明後日の方向を見詰めていた。その視線を辿って、同じ方向に眼を向ける。
中原にとって、それは思いがけない幸運だった。どうやら偶然、誰かが近くを通りかかったようだった。砂と涙に塗れて良く確認できないが、 <熊男> たち四人とは関係のない人影が二つほど近くに立っているのが見えた。
「中原均という男子生徒を探しているんだが――」
少し低目の、だが良く通る張りのある声が聞こえた。二人のうち、背が高くがっちりとした体つきの方が口を開いたようだった。
<熊男> たちは後退りするように中原から数歩離れ、奇妙な緊張をもってこの闖入者を迎え入れていた。驚愕、畏怖、狼狽、萎縮、そして不安。様々な感情が入り乱れているように感じる。
「一年六組の中原均君です。あれ、もしかしてここにはいません?」
先ほどとは打って変わって、音楽的で涼やかな声が再び中原の名を呼んだ。どうやら背の低い方――平均以上の背丈なのだが、隣に立つ男が大き過ぎてそう見えるのだ――が口を開いたようだった。
同時に、幾つかの視線が自分に集まってくるのを感じる。 <熊男> たち四人は満足に口を開くことも出来ず、地べたに伏している男こそがお探しの中原均であると、ただ眼だけで告げているのだ。
中原は、なぜ四人が借りてきた猫のように大人しくなってしまったのか不審に思った。苛めの現場を第三者に目撃されることを恐れる気持ちは分からないでもないが、相手が教師でもない限りそこまで神経質になる必要は無いはずである。
中原が知る限り、一般的な生徒というものは、苛めが発生していても見て見ないふりをすることが多い。自分が面倒に巻き込まれるのを恐れるからだ。
中学で初めて苛めを受け始めたときのことだ。昨日まで仲良くしていたはずの友達たちが、急によそよそしい態度をとり、自分と距離を取り出したことは今でも覚えている。彼らは中原に味方して理不尽な苛めと戦うのではなく、巻き添えを食うのを恐れて友人をスケープゴートにし、その隙に逃げ出すことを選択したのだ。
だから、たとえ苛めがあることを知ったとしても、放っておけば問題ない。彼らは勝手に眼を閉ざし、耳を塞ぎ、口を噤んでしまうからだ。
「お前さんが中原均か」
その声と供に、二人の闖入者が近づいてきた。
まばたきを繰り返して視力を回復させ、彼らの姿をその眼で確認した時、中原はようやく自分を攻撃していた連中が急に黙りこんだ理由を知った。
あらわれた二人は、少し変わったデザインの制服を着用していた。一般生徒のそれを基調にしていることは変わらないが、上着の丈は標準より長く、ブレザーというよりはハーフコートに近い形になっている。左胸のポケットと、左右上腕部に鳥を象った紋章のようなワッペンが飾られているのも独特だった。
この特殊な制服の着用を認められている生徒は、広い学園内に六名しか存在しない。
白丘明芳学園生徒会幹部 <候鳥会> のコアメンバーである。
四人が鼻白むのも無理からぬ話であった。彼ら <候鳥会> が学園理事長から認められた権限は、ある意味で一般的な雇われ教員のそれを凌駕している。風紀を乱し、重大な校則違反を働いたものを懲罰委員会にかけて処分する資格を持つ彼らは、女子生徒を個人的につけ回した教師や、悪質な苛めを行った生徒などを幾人も校内から放りだし、その度に学園の秩序を強固なものにしてきた。
彼らはつまり、それらの実績を以って存在そのものを一種の抑止力にまで高めてきた組織なのであった。
「僕は <孤舟館> 副長の香月です」
そう言って白い手を差し伸べてきたのは、線の細い綺麗な顔をした男だった。女顔と言うのだろうか、顎が細くふっくらとした柔らかそうな唇が印象的だった。
中原は彼の手を借り、時間をかけはしたが何とか立ち上がることに成功した。
「うわ、埃塗れですよ。シマウマみたいだ」
香月と名乗った彼は、大袈裟に驚いて見せると中原のブレザーを叩いて砂や泥を払ってくれた。
「俺は弐番棟を預かってる大津だ。君が中原君なら、少し話を聞きたい」
恐らく一八〇センチを超えているだろう、大津と名乗った男はスポーツでもやっているのか、鍛えこまれた屈強な体つきをしていた。黒い短髪は針金のように固そうで、ハリネズミの針のように逆立っている。整髪料を使って意図的に似たようなヘアスタイルにしようとする男を良くみかけるが、彼には人工的なセットは必要なさそうだった。
「そういうわけなので、少し彼を借りたいんですけど……」
香月は <熊男> たちに顔を向けると、にっこりと微笑んで「構いませんよね」と続けた。四人は気圧されたように、慌てた様子で首を縦に振って見せた。
「それじゃあ、お友達も良いと言ってるみたいだし。行きましょうよ、大津さん。昼休み終わっちゃいますよ」
「そうだな。悪いが、中原君。ちょっと顔貸してくれるか」
そう言って一瞬だけ笑いかけると、大津弐棟長は中原の背をポンと叩き歩くよう促した。この思いもよらない事態を <熊男> たちがどう解釈し、後にどのようなアクションを起こすかに不安はあったが、天下の <候鳥会> 直々の指名とあらば逆らうわけにもいかない。また、そうする理由もなかった。
足元がおぼつかなかったため、踵を返してすぐに大津と香月が肩を貸してくれた。
「――それから、お前たち」
数歩足を進め日陰から出たとき、大津が後ろを振り向いて <熊男> たちを一睨みした。
「次があるなら、相応の支払いをしてもらうことになるからな」
「大津さん、そんな言い方したら脅迫ですよ。ただでさえ怖い顔なんだから」
香月がいかにも可笑しそうに口元をほころばせる。だが <熊男> たち四人に向かって口にした言葉は、大津と同様厳しいものだった。
「学園生活に不満があるなら、それをぶつける相手は中原君じゃない。僕ら <候鳥会> に
向けるのが筋でしょう。意見書の投函口は学内の至る所に設置してありますから、それを利用するなりしてね。でしょう、弐棟長?」
大津はそれに応えず、かわりに中原向かって「歩けるか」と優しく問いかけてきた。小さく頷いて見せると、香月と三人揃って再び歩き出す。
この時に至ってようやく、中原は <候鳥会> のスタッフが自己紹介すらしていない自分の名前を知っていたことに気付いた。
to be continued...
■履歴
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脱稿 | 2004年08月31日 |
初出 | 2004年09月24日 |
本作は書き下ろし作品です。 |