HOW2
3.ハッタリで読者をだまくらかす方法
"THE HOW2" by Hiroki Maki
語部:広木真紀





▼はじめに

 私こと広木は、二〇〇一年の七月に『d.remix』というノヴェライゼーション専門サイトでデビューしました。今現在が二〇〇三年の六月ですので、約二年前のことになります。
 代表作である『Y'sromancersシリーズ』は五期に渡って展開され、テキスト容量で一八〇〇キロバイト、原稿用紙で三〇〇〇枚に及ぶ大作になりました。原稿用紙三〇〇枚あれば立派な文庫本になるので、もう結構な分量の物語を書き連ねてきたことになります。
 執筆歴は二年と短いものの、これだけの量を書き上げればそれなりに見えてくることもあります。今回は自分を振り返ってみるためにも、それを少しまとめてみようかと思います。私の作品がノヴェライゼーションばかりなので、必然的にその方面に偏った話になるでしょうが、もしかしたら、これを読んでいる皆さんにも参考になるようなことがあるかもしれません。――いえ、保証はなにもありませんけど。



▼ノベライゼーション【novelization】

 この二年で広木が発表してきた作品はもう結構な数になるわけですが、そのどれもがノヴェライゼーションです。これに関しては、第1回「プロとアマの業界事情」に詳しいですが、ここで改めて説明すると『映像作品やゲームなどを原作として、小説にすること』となるでしょうか。
 私がもっぱら題材としているのは、『KANON』という家庭用ゲームでして、このノヴェライゼーションは結構活発に行われているようです。同人誌やネット上で作品を公開している人間を合計すると三桁を超えるのではないでしょうか。

 ノヴェライゼーションには、大きく二通りの手法が存在します。一つは、原作を強く意識した保守的なアプローチです。原作の世界観やキャラクターをとても大切に、これを破壊することを極端に嫌う流れで、熱狂的なファンによって支えられています。一般の人から見れば、彼らの情熱やこだわりは不気味に見えたり、異常なものとして感じられたりするでしょう。ですが、ファンの心理を考えれば、まあ理解はできる存在であったりもするようです。
 これとはある意味で対極に位置するのが、ノヴェライゼーションを原作の延長だと考えるオリジナル思考の流れです。原作のキャラクターや設定をダイナミックに操って、とにかくその世界の発展や拡大に関心が持たれるのが特徴だと言えるでしょう。広木もこのタイプです。

 プロの手がける映画やTVゲームなどのノヴェライゼーションも、まずこのスタンスを明確にすることから始まります。原作を忠実に再現するか、それとも多少設定を変更してでも小説ならではのオリジナリティにこだわるか。これは著作者やメーカー側の戦略や体質にもよりますが、とても大切な点です。
 というのも、ノヴェライゼーションを好んで読む人間の見解が、これに対して真っ二つに割れる傾向にあるからです。保守派とリベラル(自由派)の相違は、本当に目立ちます。
 保守派は、あくまでも原作に固執します。オリジナリティなど不要、下手に原作の雰囲気や設定を変えてしまうなら、まだ原作の焼きまわしやデッドコピーの方がいい。そう考えるわけです。
 対してリベラルな人間は、ノヴェライゼーションにはそれ独自の魅力やオリジナリティが欲しいと考えます。多少、原作との矛盾はあっても新しい楽しみ方を体験したい。ダイナミックな解釈、大胆なアイディアが見たい。そんな風に彼らは考えているわけです。
 両者は水と油。相容れることは滅多にありません。ですから、ノヴェライゼーションを扱うとき、どちらの流れに乗るのか、どちらの読者を対象とするのかをある程度考えておいたほうが良いでしょう。

 ノヴェライゼーションに制約はありません。これを設けることができるのは、原作の著作権を持つメーカーや脚本家のみ。彼らが許す範囲でなら、どんな物語を紡ごうが作者側の勝手です。人によってノヴェライゼーションの定義や許容範囲は変わってきます。他人の考えを知った上で、自分自身の考えるノヴェライゼーションの姿を追いましょう。
 自分の創作に対してヴィジョン(独自の価値観)があるならば、外野の声は一切無視して結構です。
「キャラクターを愛する気持ちからノヴェライゼーションは始まる」
 いえ、そうとは限りません。
「多少の矛盾には目をつぶっても衝撃的な話にした方が良い」
 そうとは言いきれません。

 ――誰もがノヴェライゼーションを自由に定義することができます。ですが、それは「自分にとってのノヴェライゼーション」に対してのみです。他人のそれに関しては、何人も口出しする権限を持ちませんし、持たせるべきではないと思います。著作者自身が文句を言い出さない限り、たとえどんなに滅茶苦茶な解釈をしようとそれは許されるはずです。
 それを念頭に置いた上で、自分のノヴェライゼーションに挑んでください。



▼求められるもの

 私は素人の物書きです。金銭と引き換えに、サービスを提供しているわけではありません。プロとの一番の違いはそこにあるのだと思います。
 もう一つプロと違うところがあるとすれば、それはやっぱり技量の差でしょう。彼らと比較して、私の技術は稚拙です。早い話、下手なわけです。
 ですが幸いなことに、多くの読者は素人のファン活動にあまり技術的なものを求めてはいません。彼らが素人が手がけるノヴェライズを好んで読むのは、要するにそうすることで原作の雰囲気に長く関わっていられるからです。

 ファンというものは、その原作を大変好いています。物語が終わってしまうのを惜しみ、一瞬でも長くその世界に浸っていたいと願うものなのです。ノヴェライゼーションは、そんな彼らにとって格好の存在に見えることでしょう。
 彼らは二十四時の時報と共に魔法が解けて、夢の時間が終わってしまうことを恐れるシンデレラみたいなものです。二十四時の訪れをなるべく遅らせるために、必死に逃げ場を探しています。夢の終わりを回避するためなら、日付変更線を超えて時差を利用することすらいとわない。
 ノヴェライズに飛びつく彼らの心理は、そんな浅ましくも微笑ましいシンデレラのようなもの。端から見れば極めて滑稽に見えますが、ノヴェライズの書き手となる以上は、広い心で彼らの手助けをしてやるべきです。

 とにかく、ファンの多くは世界の延長、夢の続きを求めているわけであって、小説的な技術に酔いたいのではありません。少しばかり荒削りな文章であっても、ノヴェライズとしての魅力溢れる作品の方が好まれるのも、だから当然だと言えるでしょう。
 大切なのは、彼らを内容で満足させることです。技術で魅了することではありません。プロの作家を目指すのならノヴェライゼーションを書いても無駄だ――と言われる由縁は、ここにあると思います。プロも実際は売れ筋が最重要なのですが、「技術はあって当たり前」と思われる世界でもありますから。技術がなくても許されてしまうノヴェライゼーションの世界とでは、傾向が全く異なるわけです。



▼そうは言っても…

「私は内容で勝負しているんだ。技術なんてどうだっていい」

 そう嘯(うそぶ)いている素人物書きをたまに見かけます。ノヴェライゼーションの世界があまり書き手の技術に頓着しないことを逆手にとった、実に巧妙な逃げ文句です。
 心内でそう思うことは問題ないと思います。ただ、これを表立って口にする書き手はノヴェライゼーションの世界でさえ三流です。決して面白いものは書けません。私も読者として、かような書き手の作品は読まないようにしています。

 ノヴェライゼーションに技術は必要ない。乱暴に言ってしまえば、確かに真理かもしれません。ですが、書き手がその言葉で技術力の向上を捨ててしまうと、先は閉ざされたも同然です。
 小説モドキを書いていると痛感することがあります。それは、「自分の思い描く物を文字で表現することは、とても難しい」ということです。
 どんなに美しい情景、痺れるようなアクション、感動的な演出を脳内でイメージしたとしても、それを文章で完全に再現することは不可能です。一〇〇%はありえません。
 ですが、ある要素をもってそれを一〇〇%に近付けることはできます。それが、技術です。
 自分の気持ちや伝えたいこと、考えたアイディアなどをより忠実に表現しようとするならば、技術力を高めるしかありません。それが唯一の手段です。
 迫力のある物語を紡ぐために作者が追求するべきは、やはり技術なのです。だから、技術力の向上を言い訳つけて諦めてしまう人間は、つまりある一定以上面白い作品はどうしたって書けないのです。
「私は内容で勝負しているんだ。技術なんてどうだっていい」

 それは、「これ以上、私の作品は面白くなりませんよ」という事実上の敗北宣言であることを知るべきです。



▼下手だって分かってるなら

 素人は素人なりに、読者から褒めてもらう機会に恵まれることもあります。私も最近、ちらほらですが、技術の向上を認めてもらえるようになりました。これは「昔よりもマシになったね」くらいの感覚なのでしょうが、やはり嬉しいものです。
 読者に「巧い!」と言ってもらえるのは喜ばしいことではありますが、ただ、やはりそれを額面通りに受け取ることはできません。自己評価として、自分はやはりまだ未熟な部分が目立つように思えます。
 そして、だからこそ必要なことがあります。それが、推敲です。

 推敲。難しい漢字ですが、「すいこう」と読みます。
 どういう意味かというと、文章を書くに当たって色々と表現を工夫したり吟味したりすることです。少し難しいですが、大切なことなので具体的な例を挙げて説明を試みましょう。題材として、現在私が執筆中の小説の中の一文を扱います。

 廊下側から来たのは、見覚えのない少女だった。艶やかな黒髪を肩のあたりで綺麗に切り揃えた、色白の少女だ。 (草案)

 最初、私はこのような文章を書きました。これを、後から読み返して色々と表現を変えてみることにしたのです。
 ここで表現したいのは、正体不明で不気味ではあるが神秘的な雰囲気をもった不思議な少女でした。ですが、上の文章ではその雰囲気が充分に伝えられているとは思えなかったのです。
 まず私は、冒頭に注目しました。ここでは、「廊下側から来たのは」という表現が用いられています。これを「廊下側から姿を現したのは」としたらどうだろう、と考えたわけです。
 単純に「来た」と書くよりは「姿を現す」とした方が、なんだか得体のしれない感じがして、この少女の不思議さなどが良く表現できるような気がしたからです。

 次に、文章の最後に着目しました。「色白の少女だ」という部分です。
 まず考えたのは、「少女」という単語が連発されていることでした。前の文章も、「〜少女だった。」という形で終わっています。基本的に同じ表現が連続するのは、あまり良くないことだとされているのでこれをどうにかしたくなったのです。
 そこで私は、二番目の「少女」を「娘」という言葉に置きかえることにしました。これで良くなったかは分かりませんが、気分の問題として何となく納得できます。
 それから、この女の子をより神秘的で不思議な存在に見せるように、「色白の娘だ」という文章の中に「人形のような」という表現を追加することにしました。
 人形といえば、命の通わない作り物です。つまり、そんな感じのする、綺麗ではあるけど少し不気味な感じのする子であることをアピールできると考えたわけです。
 ――結果的に、最初の文章は以下のように修正されました。

 廊下側から来た姿を現したのは、見覚えのない少女だった。艶やかな黒髪を肩のあたりで綺麗に切り揃えた、色白の人形のような少女だ。 (決定稿)

 これが、私の言う「推敲」です。
 もともとは、昔の中国の詩人が『門を推(おす)』という表現にしようか、『門を敲(たたく)』にしようかと迷ったという話から生まれた言葉だそうです。
 こうして表現や言葉の使い方を細かく考えるのは、とても良いことです。私は、これで作品の完成度が三割は違ってくると思います。
 プロの作家でさえ、一冊の本を書き終えるまでにもう一冊本にできるだけのボツ原稿を産むということもあります。私たち素人は彼らよりもっと下手なのですから、プロの数倍は推敲が必要になります。原稿用紙一〇枚の作品につき、五〇枚の失敗原稿を産むくらいのつもりで書いてもよいくらいでしょう。
 ある人より自分は下手だと思ったなら、その人の倍は推敲をするようにしましょう。でないと、いつまでも下であり続けるだけです。私は、書き上げるのに使った時間の三倍は、推敲の時として費やすようにしています。もしこれを読んでいる人が、広木より未熟な物書きだと自覚するならば、書き上げるのに使った時間の六倍を推敲の時間として裂くようにして下さい。
 それができないようなら、「うまくなりたい」という言葉に説得力は伴わないでしょう。



▼模倣は積極的に

 世の中には洒落た文を書く人、格好良い表現ができる人、センスに満ちた文章を紡げる人、様々な達人達が存在します。そんな彼らの書き方や表現、作品に漂う雰囲気などを真似してみるのは、私個人としては悪くないことだと思います。
 良いと感じたものは、どんどん盗み、どんどん取り入れてしまって良いのではないでしょうか。
 最初は模倣から。そうして書き続けるうち、上辺だけのコピーにしかならないものは自然に使わなくなっていきますし、自分の一部として吸収できたものは意識しなくても自然に顔を見せてくれるようになります。
 真似し始めた当初は、表現の盗用だ、デッドコピーだと言われることもあるでしょうが、別に気にすることはありません。自分に取り入れられるか試しているところだ、練習中なんだと思って無視してもいいと思います。
 ただ、悪い癖までも自分のものにしてしまわないように、模倣の対象はキチンと基礎を抑えた作家から選んだ方が良いでしょう。選別するのも技術の内です。



▼続・模倣は積極的に

 上記したことの延長に位置することですが、見慣れない表現、知らなかった言葉などを本で見かけたときは必ずチェックして、覚えておきましょう。そして、チャンスをうかがって自分の文章で使ってみてください。もう、絶えず目を光らせてスキあらば使いまくってやろう! くらいの心意気でいいと思います。その結果、乱用になって作品が滅茶苦茶になってしまうこともあるでしょうが、それは先に繋がる失敗です。何度か繰り返す内に、意識しなくても必要なときにポッと出てくるようになります。

 私は中学生の頃、「客観的」という言葉を知りませんでした。これって大人が良く使ってるような気がするけど、どういう意味なんだろう……と思いまして、辞書でコッソリと意味を調べてみたのです。
『特定の個人的主観の考えや評価から独立して、普遍性をもっていること。』
 ……ワケが分からねえ!
 辞書ってやつは、コイツ嫌がらせか? と思わせるほど、たまに酷く分かりにくい説明をしてくれます。仕方ないので、誰かが「客観的」という言葉を使うのをじっと待ち、その状況や話の前後から言葉の意味を自分なりに考えてみることにしました。
 結論として、「観客になったつもりで物を見ることか?」という推測を立てるに至りました。なんだか漢字もそれっぽいし、そういうことにしておこう。

 そして私は、自分の推測が間違っていないか人前で「客観的」という言葉を乱発してみることにしたのです。特に大人の前で。彼らが変な顔しなければ、自分はもう「客観的」という表現をマスターしたことになる。しかも独力で。
 これは広木としては、とてつもなく偉大で格好良いことでした。
 ――まあ、そういう部分は必要だと言うことです。未知なるものを見たとき、それを自分のものにしてやろう! という意思は己の向上に繋がります。
 喜び勇んで無駄に連発するのも愛嬌の内。そういう体験を経て、自分の力にしていけば良いのです。



▼如何?

 基本的な心構えみたいなものは、こんなものでしょうか。
 次があれば、もう少し具体的な技術――たとえば視点に関することだとか、構成についてだとかをまとめてみたいと思っていますが、それはやっぱり基本をおさえた上での話だと思います。
 ここまで書き連ねてきたことは、全てが私の経験から得られたものです。自分に言い聞かせている教訓とでも申しますか。私が勝手に思ってることなので、他人には何の役にも立たないかもしれません。絶対の真理だとも思っていませんし。その辺りのことを前提として、「まあ、こんな考え方もあるかな」程度の参考にしてもらえれば幸いです。



収録:2003/06/23


○語部紹介

広木真紀(ひろき・まき)

 一九八二年、石垣島の川平に生まれる。白百合学園熊本校卒業。二〇〇一年、家庭用ゲーム『KANON』のノベライゼーションであるY'sromancersシリーズ『Dの微熱』でデビュー。得意のハッタリで読者を上手いことだまくらかし、割と好評を得る。超長編となった同シリーズを二〇〇三年三月に完結させるも、その時に貰った大量のメールにまだ返事を書き終えていないうつけ者。
 現在、一歳半になるジャジャ馬娘の面倒に追われながら執筆活動を続けている。
 主な著作に、『ロマンシング・ソリッド・カノン(〇二年)』『壊れゆく世界の片隅で恋を歌った少女(同年)』『三千世界(同年)』『みしおさん、暗黒物質を拾う(○三年)』(いずれもノベライゼーション)など。