「謎のクィン」

彼の名はケン・スミス・クィン。
ノンフィクション作家である。


第4回「謎のクィン」

 千葉県郊外の某所に、ロシア語のように発音の難しい <サンツャインビル> なる名を持った三階建てビルがある。全フロアを各テナントに貸し出す商用ビルで、一階には全国チェーンのコンビニエンス・ストアが、二階には火災保険の会社事務所と歯科医院が入居していることで知られていた。
 この二階部分までは、機会があるたび付近住人たちも度々足を運んだりするものなのだが、三階にまで上ってみようとする人間はほとんどいない。
 たまに慣れない者が迷い込むことがあったりもするものの、彼らが目撃するのは <クィーン・プロダクション> というプレートが吊るされたドアだけで、多くの場合、三階は無人の廃墟を思わせる静寂に満たされている。
 この <クィーン・プロダクション> は二〇〇一年のある日、突如としてこのビルに現れた。 現在はノンフィクション作家ケン・スミス・クィンと二人の弟子たちが、ここで日夜創作に精を出している。
 一部の読者から熱狂的支持を受ける、自称「炎のノンフィクション作家」ケン・スミス・クィンの作品は、つまりこの三階建てビルの一室で生み出されているのだった。

 今夜も <クィーン・プロダクション> の作業場では、ケン・スミス・クィンが眉間に皺を寄せた険しい表情でパソコンと向かい合っていた。その様子を、アシスタントAこと芦谷栄作(あしやえいさく)が傍らから固唾を飲んで見守っている。
 彼――アシスタントA(通称アッシー)の主な役割は、ケン・スミス・クィンがノンフィクションを制作する上で必要とする資料を収集し、その膨大な情報を整理することにある。また取材の代行、食事の手配や移動に際する足の確保、原稿のチェックなども彼の重要な仕事のひとつだ。
 だが彼がそうした自分の役割を果たすためには、まず師であるケン・スミス・クィンが執筆の題材とテーマを決定し、プロジェクトを企画立案、発進させる必要があった。何について、どんな作品を作るかという基本的なことを師が決めてくれない限り、アシスタントたちも動きようがないのである。

「あの、兄貴。次回作の構想はまとまりましたか?」
 ケン・スミス・クィンが真っ白なモニタと睨めっこを続けるだけで、キーボードの上に置かれた手を全く動かしていないことなど承知の上だったが、アシスタントAはそう訊かずにはいられなかった。
「うむ、全然だめだ」
 唸るように言うと、ケン・スミス・クィンは「お手上げ」と言うように両手を掲げると、そのまま椅子の背もたれに全体重を預けた。
「ここ最近、どうにも燃える題材に巡り合えない。意欲はあるのだが、なぜか手が動いてくれんのだ」
「やはりスランプというやつなのでしょうか」アシスタントAは沈んだ顔で言った。
「莫迦者、安易にそうした言葉を使うものではない」
 ケン・スミス・クィンは勢い良く身体を起こすと、姿勢を正して一喝する。その声音は穏やかで静かなものだったが、表情には些かの険しさが見うけられた。
「スランプなどという言葉は、超一流の腕を自他共に認める者だけが使っていれば良いものだよ。私のような未熟者の場合、それが本当にスランプであるのか、単にその程度の実力しかなかっただけなのか、なかなか客観的な判断がつかないものだ。そこを自覚せず安易に使い出すと、我々は自分の実力不足や努力不足さえもをスランプの一言で片付けてしまうようになる」
 スランプという言葉を自ら吐く者は、すべからく奢っていると考えて良い――クィンはそう締めくくった。
「済みません、自分が浅はかでした」
「いや、アッシーが謝ることなど何もない」
 深深と頭を下げるアシスタントに、ケン・スミス・クィンは手を閃かせた。
「今のは単なる自戒だよ。要は、書くべきを書けない私が不甲斐ないだけなのだ」

「こんな時、ビィさんがいてくれたら良いのに」
 アシスタントAは、自らの相棒でもあるアシスタントBの相貌を脳裡に思い描いた。綺麗なプラチナブロンドと輝くばかりの笑顔を持った彼女の存在は、こうして事務所の雰囲気が沈みかけたとき真価を発揮する。その花咲くような明るさで重く淀んだ空気を清浄化してくれるのだ。
「彼女、今日はどうしたんですか?」
「うん、なんでもモデル業の方が忙しいそうだよ」
 ケン・スミス・クィンはつまらなそうに言った。
「ロケっていうのかな。撮影のために、わざわざ軽井沢まで飛ぶことになったそうだ」
「時期的には少し早いですが、軽井沢と言うとやはり海ですかね」
「海だろうな、きっと」
 と、ケン・スミス・クィンは顎に手を当てて何か思案しだした。
「海と言えば水着。ビィちゃんも水着撮影などをするんだろうが、六月だけあって泳がされまではしないだろう。ならば当然、彼らの存在も必要なくなるわけだが――」
「彼らって?」
「ライフセイヴァーだよ。海難事故にあった人なんかを救助するプロの係員がいるだろう。素材としては面白いと思うだが、どうだろうか」
「ああ、ライフセイヴァーですか」
 アッシーは一つ頷くと、ライフセイヴァーを題材とした場合のノンフィクションについて思いを巡らせた。

 ライフセイヴァーとは、その名の通り「命を保護」する人々のことだ。水辺での事故を未然に防ぐことを主な活動目的としていて、人が溺れたり潮に流されたりしないように浜辺から海を監視する。また、いざという時のための救助技術はもちろん、心肺蘇生法や応急手当の技術をマスターしているとも聞く。まさに人名救助の職人集団だ。
 命と正面から向かい合う仕事であるため、その活動の中からは様々な人間ドラマが生まれてくるだろう。彼らに命を救われた者の話、懸命の努力にも関わらず救えなかった命の物語。妥協なし、失敗の許されない命がけの真剣勝負なだけに、人の心を熱くさせる何かがそこには必ずあるはずだ。
「なるほど、面白いかもしれませんね。兄貴」
「そうか、やはりお前もそう思うか。実は私もそう思う」
 ケン・スミス・クィンはそう言うと勢い良く立ち上がり、腰に手を当てて高らかに笑った。何やら俄かにテンションが上がって来た模様である。
 その時、気勢をそぐようなタイミングでアシスタントAの携帯電話が鳴った。事務所にかかってくる電話のほとんどが編集部からの原稿の催促であることが多いため、ケン・スミス・クィンは電話のコール音が好きではない。これは何も彼に限った話ではなく、多くの作家に共通することである。
 それを知るアッシーは渋面の師に何度も頭を下げ、洗面所に場所を移しながら携帯電話をとった。
「はい、アッシーです」
 応対に出ると、スピーカー部分から懐かしい友人の声が聞こえてきた。高校卒業後、作家を目指すため進学の道を蹴りケン・スミス・クィンに弟子入りしてしまったアッシーだったが、高校時代の友人とは未だに連絡を取り合う仲を維持している。
 電話をくれたのは、そうした旧友の一人だった。二人は声を弾ませながら、簡単な挨拶と近状報告をし合う。

「それにしても、こんな時間にどうしたんだ?」
 アッシーは洗面所に置かれている、ケン・スミス・クィン愛用の腕時計で時間を確認した。驚くべきことに、時間は間もなく深夜二時を回ろうとしている。
 創作に没頭していると時間の感覚が完全に失われてしまうことが良くある。気が付くと日が暮れていたり、日付が変わって東の空から朝日が昇りかけていたりすることも珍しくない。どうやら今夜もそのパターンに陥ってしまったようだった。
「それなんだけどさ、アッシー。お前、プロの小説家のところに弟子入りしたから、面白いネタがあったら連絡してくれとか言ってただろう」
「プロの小説家じゃないよ」アシスタントAは丁寧に友人の誤りを訂正した。「先生はプロのノンフィクション作家だ」
「そうだったか。まあ、どっちでも良いさ」
「ぜんぜん良くないけど、それで?」
「うん、実はさ。俺の家の近所に凄い成金のオバさんが住んでる家があるんだよな。で、そのオバさんの家から凄い叫び声が聞こえて来るんだよ。泥棒だとか、宝石強盗がどうとか喚いてるみたいだから、たぶんその辺が盗まれたんだと思うけど」
「宝石強盗に押し入られたってことかい?」
「うん、たぶんな。遠くからパトカーのサイレンも聞こえてきてる。これって一応事件だろう? もしかしたら師匠の小説のネタになるかもしれないかと思ったわけよ」
「小説のネタじゃない。ノンフィクションのネタだよ」
 アシスタントAは、眠そうな声で話す友人の誤りを再び訂正した。
「でも、ありがとう。さっそく先生と急行するよ。君の家は市内だったよね」
「西の原の二丁目だ。問題の成金オバさんの名前は座間須。デカイ家だからすぐ分かるよ」
 アシスタントAは友人にもう一度お礼を言うと通話を切った。そして電話をポケットに押し入れながら、作業場へと続くドアに向かう。
「先生、事件です!」
















 ネタに困ったクィンは、近所で強盗事件が起こったと聞き現場に急行、どさくさのうちに捜査班に紛れこむ。被害者に手帳を示しながら警官が名乗る中、クィンは著書を示しつつノンフィクション作家の肩書きを明らかにする。





































つづく


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