「涙のクィン」

彼の名はケン・スミス・クィン。
ノンフィクション作家である。


第2回「涙のクィン」

 人間が想像力を駆使して作り上げる物語や小説とは対照的に、ノンフィクションというのは実際に起こった出来事や事件などをそのまま伝えようとする作品形態である。
 事実を扱うわけだから、当然ながら執筆には細心の注意を払わなければならない。何故ならノンフィクションに描かれる人物は、誰もが現実世界に存在する――すなわち実在の人間だからだ。
 たとえば、ある警官の生涯をノンフィクションとして描く場合、その警官や彼が扱った事件、それに巻き込まれた被害者などについて触れないわけにはいかない。だが、彼等にもそれぞれの生活や体面、プライヴァシィなどがあり、ノンフィクション作家はそれを尊重すべき義務を負っている。関係者がノーと言えばその人物が関わった事件に関しては執筆することを許されないことが多いし、描写する許可をもらえたところで、実名を伏せ仮名を用いて話を進めなければならないことも珍しくない。
 ノンフィクションの執筆とは、かくも大変なものなのだ。

 ――話は変わるが、ノンフィクション作家ケン・スミス・クィンは熱い男である。
 その熱情ゆえに、やはり作品の題材としても魂を揺さぶるような愛と冒険と希望に満ちた出来事を扱うことが多い。自らの著書を通して現代社会の底に横たわる大きな問題を浮き彫りにし、一般に警鐘を鳴らそうと考えるノンフィクション作家は多いが、ケン・スミス・クィンは彼らとは異なり、社会問題の提起などにはあまり関心を示していなかった。
 クィン自ら公言したことはないが、たとえばその弟子をはじめとした熱心な読者たちは、彼という作家をこのように認識していた。
 ケン・スミス・クィンが自らの著書で育もうとしているのは、恐らく問題を見抜く眼ではなく、様々な問題に直面した際にそれと正面から向き合い、克服していけるだけの熱血的姿勢である――と。
 自分の思想や矜持を言葉で語ることを良しとしないケン・スミス・クィンはこれに関して黙秘権を行使するであろうが、恐らく読者たちのその考えは正しかった。

 現にケン・スミス・クィンが鋭意執筆中の原稿は、不屈の闘志でエヴェレスト踏破にチャレンジする登山家たちの活躍を描いた、その名も <冒険野郎! まさる君> というノンフィクション作品であった。
 まさる君とその愉快な仲間たちは、登山経験のない全くの素人集団である。 <冒険野郎! まさる君> とは、そんな彼らが最終目標を「エヴェレスト登頂」と掲げ、その夢の実現のために一から努力していく様を描いた、まさに汗と友情と熱血にまみれた感動のドキュメンタリー巨編なのであった。
 もちろん、無事に完成すればベストセラー間違いなし! と <クィーン・プロダクション> の皆さんは固く信じきって制作に打ち込んでいた。
 だが残念なことに、ケン・スミス・クィンの本が無事に完成した試しは一度もない。
 これには、あまりにも深い事情があった。



 ――そもそも、それが物語を手がける小説家であれ、事実を伝えんとするノンフィクション作家であれ、彼らは筆が乗ってくると一種のトランス状態に陥ってしまうという共通した特徴を備えているものだ。
 あまりにも執筆に集中し過ぎるがゆえ、意識から原稿以外のものを弾き出し己の世界に没入してしまうのである。その状態に更なる加速がつくと、もう自分でも何を書いているのかサッパリ理解できない……というか、自分が今なにをしているのかすら把握できない、という不可思議な境地に辿りつく。アシスタントたちの証言によると、そうした時の作家は、まさに何かが取り憑いているとしか思えないという。
 その状態から解放されハッと我に返ると、作家の前には自分でも書いた覚えがない原稿がキッチリ完成された状態で整えられている。物語は勝手に展開され、どこから出てきたのか首を捻らずにはいられない台詞をキャラクターたちが喋っていたりする。
 多くの作家は最初、これに大いに戸惑う。――なんだこれは、いつの間に俺はこんな物を書いていたのだ。しかもプロットをブッ千切りで無視したこのシナリオの展開はなんだ。更に言えば、もはや壊れているとしか思えないのに異様な情熱を原稿から感じるのは何故だ。そしてこれがまた、理不尽にも面白いのは如何なることか。こんなことが許されて良いのか。いいんです、それもまた人生。
……とまあ、こんな具合である。
 こうした現象が起こるのは得てして徹夜が続いていたときだったりするので、作者は精神的に少しハイになっていることが多い。そして無意識のうちに書き上げてしまっていた原稿の出来が思いのほか良かったりするため、自分はもしかするととんでもない潜在能力を秘めた超未完の大器――分かりやすく言えば大天才なのではないか、という大いなる勘違いに突入する。
 ノンフィクション作家ケン・スミス・クィンは、そうした例の代表的存在だった。

 ところでこの <冒険野郎! まさる君> であるが、そもそもは大手出版社である新朝社の雑誌に季刊連載していたものである。連載回数は全三回で、一回の掲載で原稿用紙約百枚分の原稿を発表していく。ケン・スミス・クィンは既に二回分の掲載を終え、最終回の原稿に取り組んでいるところだった。
 問題は、その原稿の締め切りが既に二日も過ぎていたことである。担当者に縋りつき温情で二日間の猶予を貰ったのはいいが、その二日間の期限も今日の夕刻に切れてしまう。現在の <クィーン・プロダクション> はそうした危機的状況に直面していた。
 とはいってもケン・スミス・クィンは、尻に火がつかないと真には燃えない――根っからの逆境大好き人間であったので、 <クィーン・プロダクション> は毎回このような崖っぷちギリギリの大ピンチ状態に追い詰められる。アシスタントたちにすれば迷惑な話だが、相手がケン・スミス・クィンだけに仕方がなかった。
 とにかく、こうした極限的状況に至ったときこそケン・スミス・クィンは本領を発揮する。例のトランス状態に入り、怒涛の勢いで原稿の空白を埋めていくのだ。毎度の話ではあるが、その鬼気迫る勢いと驚異的な執筆速度は、見るたびにアシスタントA&Bを驚かせるものであるという。

 さて、編集部との約束の時間を三時間後に控えた夕暮れどき――
 ケン・スミス・クィンは謎の奇声を上げて、今回のトランス状態から脱した。
 覚醒したての彼は自身を取り巻く状況を認識し切れないらしく、まず不思議そうに周囲を見まわすことから始めた。そのうち自分が執筆の追い込みをかけていたことを思い出し、慌てた様子で手元の原稿に眼を落とす。
 原稿は百枚分完璧に仕上げられており、記憶にないのだが『完』の文字も入っていた。
「おおう。出来てる。出来てたぞ、お前たち!」
 原稿にざっと眼を通したケン・スミス・クィンは、何かをやり遂げた清々しい男の笑顔で言った。そしてパソコン上のデータをフロッピーに複写し、手早くアシスタントに差し出す。
「ビィちゃん、これすぐに校正に回してくれ」
「出来たんですか、先生!」
「やりましたね、兄貴ッ」
「いや、まてまて」
 愛する高弟たちの祝福に口元を緩めながらも、ケン・スミス・クィンは必死に威厳を取り繕う。
「時計を見て気付いたんだが、編集さんが原稿を受け取りに来るまであと三時間しかない。推敲と校正のことを考えれば悠長に喜んでいる暇はないんだ。気を引き締めて協力してくれ」
 ある程度その作家が売れてくると、編集者たちは一枚でも効率よく原稿を書かせようとしてくる。悠長に書き上げた作品を見なおしている暇があったら、次回作の制作に取りかかれと催促されるわけだ。校閲は出版社が雇っているプロのスタッフに任せておけば良い、というのが彼らの主張である。
 したがって、プロの作家がアマチュアのように長々と <推敲> や <校正> に時間を割くことは難しい。少ない時間をやりくりして、いかに高いレベルで作品を見直し内容を引き締められるか……
 ノンフィクションに限らずあらゆる文字媒体作品の技術的な出来は、これ如何によって大きく変わってくる――ということは、既に多くの作家が認めるところである。幸いにもケン・スミス・クィンには信頼できる弟子が二名ほどいたので、彼等をフル活用してこれらの作業に当たらせることができた。



 約二時間後、 <クィーン・プロダクション> のオフィスには涙の洪水が発生していた。近所でも評判の美人であるアシスタントBまでもが、顔中からあらゆる体液を噴出して咽び泣いている。
「あにき……兄貴、これは大傑作ですよッ!」
「素晴らしい出来だわ。涙が止らない」
 アシスタントたちは号泣し、プリントアウトした原稿を涙でビショビショにしながら師の新作を褒め称えた。大自然に挑む男たちの熱い想いは、魂を揺さぶってやまない。青写真から思い描いていた以上の、史上稀に見る感動大巨編が完成したのだった。
「そうか、やはりお前たちもそう思うか。私もそう思う!」
 ケン・スミス・クィンは、自身も滝のような涙を流しながら満足そうに何度も頷いた。トランス状態で書き上げたため、自分でもストーリィの大筋を覚えていない。読み返すと著者であっても新鮮にそれを楽しめるものなのだ。もちろん感動して泣くことだってある。
 ノンフィクション作家たるもの、この程度のことは日常茶飯事であらねばならない。
「フッ、俺はやりとげたぞ。書き上げたのだ。さあ、新朝社の担当Cよ。いつでも原稿を取りに来るが良い!」
 調子に乗ったケン・スミス・クィンは、作業用デスクの上に飛び乗り腰に腕を当てて夕日に眼を細めた。発売した著書の売上が順調だという報告を聞くのと並び、長篇を一本書き上げた時こそがノンフィクション作家がもっとも得意絶頂になる瞬間なのである。

「ただ、先生……」
 有頂天だったケン・スミス・クィンの背に、アシスタントBが戸惑いがちに声をかけた。
「ん、なんだい。ビィちゃん?」
「その、全体として見ればこれはとても素晴らしい作品だと思うのですが、多少の問題がありまして」
「ああ、終盤のことだろう。集中して書いてるときは、細かいところに気を配ってる余裕なんかないから誤字脱字のオンパレードだ。まあ、いつものことだし。そこはこれから修正していくということで」
「いえ、そういうこととは――ちょっと違うんですけど」
 アシスタントBは言いにくそうな表情で、チラチラと師の顔色を窺う。よく見れば、隣のアシスタントAも同様の仕草を見せていた。この時点で、ケン・スミス・クィンは自分の作品に重大な欠陥があったのではなかろうか、という疑惑で何やら不安になり出す。
「何かまずいところでもあったかな?」
 ケン・スミス・クィンはおどおどしながらアシスタントに訊ねた。
「率直に言うと、途中から主人公のキャラが変わってます。性格もそうなんですが、あからさまに名前から変わっちゃってるんですけど」
「えっ?」
 ケン・スミス・クィンは、慌てて原稿を手元に手繰り寄せた。確認してみると、確かにアシスタントBの言う通りである。 <冒険野郎! まさる君> の主人公は、そのタイトルからも分かるように『まさる君』であるはずなのだが、終盤――トランス状態で書いていた辺りから『ケンちゃん』に変わっている。
「それから話の筋のほうも、エヴェレスト登頂を目標にした山岳冒険もののノンフィクションだったんですが、何故か路線が変わってケンちゃんがNASAに入って宇宙飛行士を目指してたりするんですけど」
「なぬーっ!?」
 驚愕の事実が発覚した。
 当初の主人公である『まさる君』は、エヴェレスト登頂を成し遂げたあと自動車のセールスマンになって地味に暮らしている。NASAで宇宙飛行士を目指し始めたという事実は全くない。
 確認してみると確かにビィの言う通りで、途中から路線があっさり変わり、ケンちゃんが夢のアストロノーツ目指して大活躍を繰り広げるスペースオペラものになってしまっている。
「また……」ケン・スミス・クィンは真っ白に燃えつきながら呟いた。「またやってしまったのか」

 ここでノンフィクション作家ケン・スミス・クィンは、一つの決断を迫られた。
 新朝社の編集者が原稿を受け取るために事務所を訪れるまで、残された時間は二十分強。もはや話の内容を修正するだけの余裕はない。やって出来るのは、誤字脱字などの簡単なミスを修正し原稿としての体裁を整えることだけだ。これを編集者に渡せば、一応の格好はつく。
 だが、大いなる問題が一つだけあった。
 大筋の変更がきかない以上、帳尻を合わせるため主人公の名前を『ケンちゃん』で統一するほかなくなるだろう。『まさる君』で通せば話そのものが破綻するし、実在するまさる君とのギャップが生じてしまうからだ。――だが、そうなるとこの作品は既にノンフィクションとは呼べなくなる。
 エヴェレストを目指していた登山家がNASAで宇宙飛行士になろうとし始めた時点で、もうこれは事実とは程遠いのだ。つまり、単なる物語。小説なのである。
「俺はどうしたら良いんだッ!」
 ケン・スミス・クィンは頭を抱えて苦悩し始めた。当然といえば当然である。
 一方、これは <クィーン・プロダクション> 恒例の事件であったりするため、アシスタントたちはわりと冷静に動いた。どちらに転んでも良いよう、葛藤にもがき苦しむ師匠を尻目にして校正作業にとりかかったのだ。彼らは一読した際に用意しておいたメモを頼りに、数ある誤字脱字や文法上のケアレスミスを修正していった。
 こうして、冒険小説 <火の玉野郎! ケンちゃん> は脱稿されたのである。



 完成から七分後、事務所を訪れた新朝社の編集担当に、魂の抜け殻のようになったケン・スミス・クィンは <火の玉野郎! ケンちゃん> の原稿を手渡した。
 後日これは雑誌に掲載され、また連載分を一冊にまとめた単行本としても製本され、流通ルートにのって全国の主だった書店で売りに出された。内容は悪くなかったため割と早い時期に重版がかかり、商業的には一応の成功を見たと言って良いだろう。
 だが、当然のことながらこの本がノンフィクションを冠することはなかった。書店では徹底的に小説のコーナーで紹介され、読者も物語を求めてこれを手に取ったのである。
 ――ケン・スミス・クィン。あまりの熱さ故に魂を込めすぎ、ノンフィクションを知らぬうちにフィクションにしてしまう男。
 彼はあくまで自らをノンフィクション作家と名乗っているが、一度もそう紹介されたことはない。出版社の編集部も、また彼の読者たちも、ケン・スミス・クィンを小説家と認識していた。
 だが、ノンフィクション作家たるもの、これしきのことで諦めることは許されない。いつか己が意図した通りの完全なるノンフィクションを書きあげるその日まで、彼の挑戦は続く。
 彼の名はケン・スミス・クィン。ノンフィクション作家である。



 あとがき
「主人公の名前をケンちゃん修正統一した」とあるが、過去二回の連載分は既に書籍として敢行されているので統一のしようがない、という指摘があった。……あ。

初出
「炎のクィーン」後篇:2004/05/28
追記:2004/05/30
改訂:2004/05/31

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。

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