「炎のクィン」

彼の名はケン・スミス・クィン。
ノンフィクション作家である。


第1回「炎のクィン」

 二〇〇一年、千葉県郊外に <クィーン・プロダクション> なる零細事務所が設立された。ここでは、ケン・スミス・クィンという一人のノンフィクション作家が、気心の知れたアシスタント二名と共に日夜創作活動に打ち込んでいる。
 これはケン・スミス・クィンの実態を知る多くの人々が進んで認めることであろうが、彼は恐らく人類史上最も熱い物書きの一人であろう。
 そもそも、ノンフィクションの制作には人並みはずれた情熱が必要とされてくる。作品の出来の大部分は、題材やテーマと向き合う著者の姿勢と熱意に大きく左右されるものだからだ。――否、著者の熱情こそが作品の全てを決定付けると言って過言ではあるまい。
 こうした大前提が確固としてある以上、自然、ノンフィクション作家として成功するためには、自らの内に盛る熱情を秘めておかねばならないことになる。
 ケン・スミス・クィンがそうした熱い男だったとして、なんら不思議はないのだった。

 ――ところで、 <クィーン・プロダクション> にはトイレと接続された小さな洗面所がある。徹夜で作業するときに必要となる歯ブラシはもちろん、カミソリ、シェービングクリーム、アシスタントの一人が女性であることもあり化粧水やクレンジング・オイルなどまでもが所狭しと並べられている、かなり乱雑とした洗面所だ。
 当然ながら胸から上を映し出すことが可能な鏡も壁面に取りつけてあり、現在そこには冴えない表情の青年が映し出されていた。三ヶ月はブラッシングから遠ざかっているように見えるボサボサの黒髪、伸び放題の不精髭、眼の下にできた大きなクマなどからも分かるように、彼は何日にもおよぶ徹夜で疲れ切っていた。
 ノンフィクション作家、ケン・スミス・クィンである。
「俺は書ける! なぜなら書けるからだッ!」
 暫く無言無表情で鏡の中の自分と向き合っていた彼だが、突如としてカッと眼を見開くと、大声で意味不明なことを叫び出した。
「俺には才能がある! むしろ天才かもしれない! なぜならそう信じたいからだッ!」
 クィンが魂の絶叫を繰り返している頃、洗面所からドア一枚隔てた作業室では、資料の整理を行っていたアシスタント二人が「またか」という表情で顔を見合わせていた。

 言うまでもなく、ノンフィクション作家にも好不調の波はある。ネタも時間もありながら、どうしても気分が乗らず手が動いてくれないことなど珍しくもない。これとは反対に、有り余る情熱を抱えていながらそれをぶつける適当な題材や仕事そのものに恵まれなかったり、時間や契約上、経済上の制約でエネルギーを持て余さざるを得ないこともある。ままならない世の中だ。
 そんなとき、ケン・スミス・クィンは洗面所に駆け込み、己を鼓舞する野太い叫び声を上げるのだった。要するに自己暗示である。作家たるもの、自分のモチベーションを維持するための様々な方策を確立していなければならない。
「よっしゃぁ、やるぞお前ら!」
 洗面所へと続くドアが勢いよく開かれ、ケン・スミス・クィンが姿を現した。
 ようやく執筆再開か、とアシスタントたちが思わず喜色を浮かべる中、その期待に反してケン・スミス・クィンは部屋を真っ直ぐに横斬り、事務所の出入り口へとむかった。
「あの、先生――」アシスタントBが戸惑いながらその背に声をかける。「今、『やるぞお前ら』とおっしゃったように聞こえたんですけど」
「いかにもその通りだ、ビィちゃん」
 ドアノブに手をかけアシスタントに背を向けたまま、ケン・スミス・クィンは認めた。
「では、どうして玄関に?」
「私はここで、気分転換を敢行することとした」
 勢いよく振りかえると、ケン・スミス・クィンは素晴らしい笑顔と共に言った。
「こんなせせっこましい部屋に閉じ篭もっていても駄目なんだ。こんな環境では、書けるものも書けなくなるのは至極当然。したがって、気分転換のために私は外へ遊びにゆくべきである。これは執筆のために必要なことなのだ、間違いない。大空へ羽ばたこうとしている人間を籠に閉じ込めるのは、世界の損失である!」
 一気にそう捲くし立てると、ケン・スミス・クィンは歯を光らせながら「さらば!」の一言を残し、風のように事務所から去っていった。
 ノンフィクション作家たるもの、仕事から逃げる口実にさえもノンフィクションばりの迫力とリアリズムを追求しなければならない。
 ――五分後、適当な言い訳をつけてケン・スミス・クィンが職場放棄したのだということにようやく気付いたアシスタント二名は、慌てて逃走を図った師の後を追うこととなった。



「先生、どこ行っちゃったのかしら」
 アシスタントBこと、ベアトリス・ブラウン(通称ビィ)は夜の通りを見回しながら眉根を寄せた。サンフランシスコはパシフィック・ハイツ地区出身の二十歳。輝くばかりのブロンドを見ても明らかなように、彼女は生粋のアメリカ人である。同時に、何を間違ったかケン・スミス・クィンの著作に惚れ込み、アシスタントとしてこの日本にまでついてきたという正気を疑われるべき奇人でもあった。
 もともと語学の才能があったのか、彼女は姿が見えない電話であれば白人であることが分からないほど流暢な日本語を操る。これは師のケン・スミス・クィンにも言えることであり、両人が密かに胸を張っていることでもあった。
「兄貴を探すには、事件を探すことですよ。ビィさん」
 ケン・スミス・クィンを「兄貴」と呼び慕うアシスタントA――芦谷栄作(通称アッシー)は、確信を込めてそう断言した。彼はビィと違って地元出身の日本男児であり、高校を出たばかりの一八歳である。やはりビィと同じく、ケン・スミス・クィンの熱狂的なファンで、作家を志す心身ともに健康な好青年であった。ただ、不幸にもケン・スミス・クィンを人生の師と仰いでいるため、最近は周囲から変人と認識されつつある。――アッシー本人は気にしていないようだが。
 日本では近年、新人のデビューは各出版社などが主催する新人賞の公募を経るルートが一般的である。かつては著名な作家に師事したり、作品を出版社へ直接持ち込むというようなやり方もあったが、現在ではこれらの古い手段は門前払いを食うことが多くなった。作家志望の人間が増え、業界の人間が対応していられなくなったからである。
 そうした業界事情の中、ケン・スミス・クィンのように門弟をとる作家は言うまでもなく珍しい。アメリカでは著名な物書きを講師に招き、作家になるための講座を開いて一生徒を募集するというシステムがあるが、間に事務所やサークルを介在させず、直に弟子をとる例は世界的に見ても異例と言えそうだった。

「とにかく、このままじゃ埒があかないわ。手分けして探しましょう」
「そうですね。十分おきに、ビィさんの携帯に経過を報告します」
 二人が頷きあって散開しようとした瞬間だった。裏路地から、「このバカチンがッ!」という野太い叱責の声が木霊してきた。その聞き覚えのある声音に、ビィとアッシーは思わず顔を見合わせる。
「これってたぶん――」
「兄貴の声だ!」
 二人は示し合わせたように同時に駆け出した。道を横切ると、街灯の光が届かない裏路地へ眼を凝らしながら侵入する。月明かりが生み出すシルエットを頼りに道を辿り、やがて林立するビルの隙間にできた小さな空き地に行きついた。
 予想していた通り、そこには地に崩れ落ちた誰かと対峙するケン・スミス・クィンの背中があった。
「先生!」
 思わずビィが声を上げると、ケン・スミス・クィンは怪訝そうな顔で振りかえった。
「あれ、どうしたお前たち。こんなところで何してるんだ?」
「それは俺たちの台詞ですよ。兄貴こそこんなところで何やってるんですか」
「何をと言われても、私は普通に放火犯を捕まえていただけだが?」
 ケン・スミス・クィンは事も無げにそう言うと、ホレ、という具合に顎で向かい合う男を示した。改めてそちらに視線をやると、確かにケン・スミス・クィンの足元には中年男性が力尽きたように腰を落としている。付近には安っぽいプラスティック製――恐らくコンビニの百円物だろう――のライターや、灯油の匂いをプンプンさせる火炎瓶のようなものが幾つか転がっていた。

「放火って、この人がここに火をつけようとしていたんですか?」
「どうやらそのようだ」
 アッシーの言葉に、ケン・スミス・クィンは重々しく頷いた。そして倒れこんだ男へ静かに視線を戻す。
「深夜映画でも見ようと外に出た途端、あからさまに怪しげな男が路地裏に入っていくのを見てな。これは何かネタになることが起こるかもしれないと思ってついていったのだが、流石に放火とは思わなかった」
「ほっといてくださいよ……」
 放火犯が掠れた声で、弱々しく呟いた。
「最後の肉親だった父は亡くなるし、失業するし、おかげで婚約者には捨てられるしで私の人生は既に終わったんですから。死ぬまで刑務所に入っていたほうが気が楽で良い。その前に、最後の憂さ晴らしをしておきたかったんですよ」
「それで、放火なんぞやらかそうとしたわけか。なるほど、炎が広がって豪快に燃え盛れば気分も晴れるかもしれないからな」
 作家のその言葉に、放火犯は無言で答えた。アシスタント二人の眼に、男はもう口を開く気力すら失われているようにも見えた。
「このバカチンがッ!」
 突如として烈火の如く吼えると、ケン・スミス・クィンは男の胸倉を掴み上げて豪快な平手打ちをお見舞いした。乾いた音が周囲に反響し夜空に木霊する。男は再び力なく地に崩れ落ちた。
「火は建物にではなく、胸の内に燻る己が情熱にこそ灯せッ」
 その男を見下ろし、ケン・スミス・クィンは空間そのものを震わすかのような大声量を張り上げる。
「男が燃やすのは物ではなく、魂である!!」

 瞬間、放火犯の身体が感電したかのように大きく跳ね上がった。無気力だった表情にはこれ以上ないというほどの驚愕が走り、たちまち全身が小刻みに震え出す。
 放火犯、なにやら相当の衝撃を受けた模様。
「天涯孤独がなんだ。失業がなんだ。失恋がなんだ。本物の感動を知らないから、そう無気力になれるのだ。確かにこの世は辛いところだが、たった一つの感動が生涯の救いとなることもある」
 そう言って子を諭す父親のような穏やかな笑みを浮かべると、ケン・スミス・クィンは懐に手を入れて一冊の書籍を取り出した。
「とりあえず、俺の本(サイン入り)を読め。放火より燃えるものがここにはあるかもしれない」
 男はそれを受け取り、呆然とした表情で目の前に仁王立ちする作家を見上げた。
「それでは、私はこれで失礼する。新作の発表を待たせている多くの読者がいるのでね。……たぶん」
 ケン・スミス・クィンは歯を光らせながらそう言うと、放火犯から本の料金として一五七五円(税込み)をしっかり徴収し、足取りも軽やかに歩み去っていった。
 ノンフィクション作家たる者、常に熱き魂を燃やしていなければならない。そしてノンフィクション作家たる者、いつ何時も営業努力を怠ってはならない。
 後に残されたアシスタント二人と、放火犯たちは何か大切な物をケン・スミス・クィンの背中に学んだという。同時に失った物の方が大きかったという噂もあるが、その真偽は定かではない。



 あとがき
 ケン・スミス・クィンと著者・槙弘樹とを混同する読者が非常に多い。だが私こと槙弘樹はこれを強く否定する。それはたしかに、ケン・スミス・クィンの抱える苦悩や葛藤、心意気や情熱などはプロアマ問わず広く物書きに共通する部分を備えるため、私と彼とにも幾つかの類似点が見受けられることは確かである。
 だが、違う。違うのである。必死に違うといってるのに、でも誰も信じてはくれない。

初出
「炎のクィーン」前篇:2004/05/28
追記:2004/05/30
改訂:2004/05/31

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。

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