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05−06


  05

 その日の司法局では、通常、ただちに開始される四八〇ヨンハチマル研修が行われなかった。
 恭も含め、まだ尻に卵の殻を付けた新人たちは、何の説明もなく幾つかのグループに分けられた。
 そして、局ビル十四階の会議室に放り込まれ、待機を命じられたのである。
 いつもの恭なら、事情の説明くらいは求めたことだろう。
 だが、アイドル戦車に精神と肉体の両方を粉砕された直後では、その気力も湧いてこない。
 恭はただ指定された席に収まって、生きた屍のごとく状況の変化を待った。
 中学時代の教室とほぼ同面積の室内には、無数のパイプ椅子が並べられていた。
 そこに卸したてのジャケットが密集しているため、辺りは真新しい繊維から漂う独特の匂いに包まれていた。
 恭が座っているのは、入る時まで一緒だった鷹一やユウコとは離れた席であった。
 IDで椅子が決められていたため、彼らと固まって陣取ることができなかったのである。

「はい、静粛に。静粛に」
 程なく、ぞろぞろと供の者を引き連れ、恰幅の良い中年の男性が入室してきた。
 彼はそのまま室内前方の壇上につき、恭たちルーキィの群れを泰然と見回した。
「諸君、入学おめでとう」
 仏像のようアルカイックな微笑を浮かべ、男が言った。
「突然の招集で戸惑っているかもしれないが、これから状況を説明するので注意して聞いて欲しい。では、始める」
 彼は宣言と共に立ち台を離れ、新人たちの真ん前に移動した。
 右手には、壇上から引っこ抜いてきたマイクをスタンドごと握っている。
「知っての通り、本年度から司法局員が大幅増員された。現在、四八〇ヨンハチマル研修を受けている、まさにキミたちのことだ。そしてキミたちは、本日より配属予定の各部署に分かれ、経験ある局員の元で実地的な訓練を受けることになる。これも知っての通り、司法局には様々な部局が存在している。事務作業を行う内務課、捜査担当の外務課をはじめ、警備課、保安課、交通課、法務課……枚挙に暇ないとはこのことだろう。ここに集まってもらったキミたちは、このうちの外務課へ配属が内定した者たちだ」

 実際のところ、その宣言によって大きなざわめきが生まれることはなかった。
 だが、男は両手で聴衆を鎮めるような仕草を取り、ゆっくりとした口調で続けた。
「私は外務課長の錦城卓男《きんじょうたくお》だ。肩書き通り、外務課を総括する立場にある。ウチの課は、局内でも非常に人員の多いセクションだからして、幾つかの係に細分化されているが、これは皆、知っているかな? ここにいるのは――」
 と、錦城課長は自分の背後に整列した、十人ほどの男女を手振りで示した。
 彼らの多くは、風貌からして明らかにティーンネイジャーには見えなかった。
 一部に到っては、もう恭の年齢より長く司法局に務めてきたのでは、と思わしき年配もいる。
「全員が、キミたち新人の直属の上司であり指導官となる、各係の主任局員たちだ。今から一人ずつ紹介し、同時に、彼らの指揮下に入る者をリストから読みあげていく。名を呼ばれた新人は起立し、担当主任の元へ迅速に集合するように。いいかな? では、まず外務一係――」
 実働部隊を標榜する外務課だけに、何をするにもテンポが良い。
 二係までの割振りは、本当にあっという間に行われた。

 流れを見る限り、どうやら課長は、約四十人の新人を八つの係に等分配するつもりはないらしかった。
 現に、一係の新人はたったの二人だが、二係には二桁の人員が割り振られている。
 三係の主任は、ジャスミン・バックマンなる妙齢の女性であった。
 見るからにクールそうなタイプだが、並んだ女性主任の中では、明らかにもっとも綺麗な容姿をしている。
 彼女が紹介された直後、その部下として本多ユウコの名がまず呼ばれた。
 その次には、何の偶然か、梨木鷹一。
 一つ外国人の名前を挟んだ直後、最後に恭までが呼ばれたことを考えると、もはや何らかの作為を感じないわけにはいかない。
「――全員揃ったな」
 三係の輪に恭が加わった瞬間、バックマン主任が日本語で言った。
 艶のある微かにハスキィヴォイス。
 氏名、容姿とも欧米系だが、その発音はネイティヴと遜色ない。
「移動しよう。ついてきて」
 返事を待たず、主任はさっさと歩き始める。
 ヒールを抜きにしても、恐らくは恭以上の長身を誇るであろう女性だ。
 歩幅は非常に広く、新人少女たちは小走りでの対応を迫られていた。

 ジャスミン・バックマンはエレヴェータに全員を誘導すると、八階のボタンを押した。
 フロアマップによれば、外務課は七階から九階までの三フロアを占有する巨大部署だ。
 実際に足を踏み入れたそこは、だだっ広いだけの空間だった。
 壁による間仕切りが一切なく、各係はシステムデスクの集団として大雑把に区分けされているに過ぎない。
 そして、デスク上の整理状態も極めて大雑把だった。
 積まれた書類の山。
 散乱した文具。
 ガラクタと見分けのつかない小物類。
 どこに何があるのが把握しているのは各デスクの主か、神だけだろう。
 ただし喧噪とは無縁で、フロア全体が放課後の教室に近い静寂の中にあった。
 もっと活気づいた場所を想像していただけに、恭にとってこれは意外でもある。

「ここが三係だ。誰かいたら係員を紹介しようと思ったが……皆、出払ってるみたいだな」
 ほとんど表情らしきものを浮かべず、バックマン主任が淡々と言った。
 白人特有の少しピンクがかった白い肌に、日本人のそれとは少し違う黒髪。
 後ろと横は男性並に短く刈られているが、前髪は目にかかるほど長く、それがまた表情の読みにくさを助長している。
 ただ、見える部分の目鼻立ちはすっきりと通っていて、本人がそのつもりなら素晴らしい美貌の主として振る舞うこともできるだろう。
 あくまで、彼女がその気になれば、だ。
 年齢は恐らく、実習上がりの新人高校教師とそう変わらないに違いなかった。
 もし恭と同じ高校生だとしたら、トナカイが実在すると知った時以来の驚きになる。
「じゃあ、どうしようか」
 言葉と裏腹に、ジャスミン・バックマンはさして困っているようには見えなかった。
「私はまだ仕事があるから、興味があるなら見てて。興味がないなら、興味あるものを見つけて適当にやって構わない」
 では、とばかりに去って行こうとする彼女を、新人の一人が慌てた様子で呼び止めた。
「あ、あの、バックマン主任」
 非常に記号的なタイプというべきか。白人。小柄な痩躯。丸く大きな碧眼。
 くせっ毛の目立つ、ふわふわしたニンジン色の頭。
 欧米人は大人びて見えるというが、彼女は例外側の代表だろう。
 百五十センチに及ぶかすら怪しい身長を含め、中学生で通用する容貌の主だった。
 三係に配属された四人の中で、恭が唯一面識を持たないのが、この少女である。

「なに?」
 主任は身体半分だけ振り返る。
「私のことはジャスミンで良いよ」
「はい。そのう、三係にどんな方がいるかとか、私たちの自己紹介などは……?」
「他の局員とはそのうち会えるし、その前に知りたいなら各自で調べて構わない」
 主任は不思議そうに首を傾げた。
「自己紹介は、私がいなくても勝手にできるのでは?」
 確かにその通りかもしれない。だが、ここには研修名目で引っ張ってこられたのである。
 上官から指示、課題を出され、それをクリアしていく。誰もがそんな形を想定していたはずだ。
 恭を含めた全員の考えを読み取ったのだろう。主任が新人たちに向き直った。
「みんなもそう? 私が指揮した方がやりやすいという認識かな」
 恭たちは各々の表現で、だが揃って同じ見解を表明した。

「なるほど。だったら、そうしよう。話は移動しながらということで」
 バックマン主任は、またもや相手の返事を待たずに歩き出した。
 局内の移動ではなく、一階裏手から屋外に出るつもりらしい。
 どこに行くのかとついていけば、いきなり路面電車《トラム》に乗り込んでいく。
 事前の説明は一切無い。
 彼女の背を追いつつ、恭は――おそらく他の三人も――ようやく一つの結論に至った。
 つまり別段、機嫌が悪いだとか、急いでいるというのではないのだ。
 新人たちを嫌っているわけでもない。
 単にこれが普段のジャスミン・バックマンであり、彼女の地の性格なのである。
 実際、トラムに乗ったあとも彼女は相変わらずだった。
 何の断りもないまま二駅目でいきなり降車し、すたすたと自分のぺースで歩いていく。

「しゅ――じゃない、ジャスミン、速いですう。待って……くださ、い」
 小走りに五十メートルも進まないうち、ジュリィが音を上げ始めた。
 すでに息も絶え絶え、九十歳の老人よりも足下がおぼつかない。
「適正審査に体力の項目はなかったのか?」
 恭は苦笑しながら後ろに回り、その小さな背中を両手で押してやる。
 一方の主任はと言えば、一瞥くれただけで歩調を緩める気配もない。
 やはり司法局のジャケットが集団でいると目立つのだろう。
 既にかなりの衆目を集めつつあるが、それを気に留める様子もなかった。
 五分ほど歩いた頃だろうか、やがて彼女は小さなレンタルヴィデオ店に入っていく。
 少し遅れて入店してみると、そこは奥半分を古書用のスペースにした複合店だった。
 この手のショップには縁が無い恭からすると、非常に興味深い空間である。

 もちろん、主任はそうした感慨とは無縁の位置にいる。
 周囲には目もくれず、まっすぐカウンターへと向かっていった。
 若い女性店員に声をかけ、恭たちにはまだ支給されていない正式局員の身分証を提示した。
 店長を呼ぶよう要求しているらしい。
「どうも、ハリウッド映画の新作を借りに……ってわけじゃなさそうだな」
 主任から三歩ほど距離を置いた新人グループの中で、鷹一がつぶやいた。
「万引きした生徒でも引き取りに来たか?」
「それなら、裏口から事務所を直接訪ねるんじゃないかな」
 ユウコが指摘する。
 やけに長く待たせた末、ようやく奥から現れた店長は、どこにでもいそうな小太りの中年男だった。
 蜂のシルエットを刻印した黄色いエプロンをまとっているが、いろいろな意味でまったく似合っていない。

 彼は傍目に分かるほど顔色が悪かった。
 空調が効いているというのに酷く汗ばんでいる。
 恭たちとは違い、司法局の来訪に明らかな心当たりがあるらしい。
「とりあえず事務所へ」と言う彼に従い、恭たちは速やかに場所を移した。
 元より小さな店舗である。通された事務室は、全員が入り込むともう手狭に感じる窮屈な空間だった。
 あるのは事務デスクと、安っぽいパイプ椅子が二つのみ。
 自然、恭たち新人たちは、全員が起立したまま部屋の隅で待機することになる。
「川良さん。あなたは、李鳳順《イ・ボンスン》というアジア系アメリカ人をご存じですね?」
 勧められた椅子にかけるや、主任はずばりと切り込んだ。
「いや、ええと……」
 店長は旗色悪く口ごもる。

「 <G&T> 系の学園に通う高校生です。現在は我々、司法局の管理下にありますが」
 中年の店長は答えない。
 あるいは答えられないのか。血の気の引いた顔で、無意味に自分の指先を見詰めている。
「川良店長。我々は既にイ・ボンスンから供述を得ています。八ヶ月前から、あなたと彼との間で多額のSSAポイントと現金がやり取りされてきた事実も、立証済みです」
 主任はジャケットの内ポケットから、折り畳んだ数枚のコピィ紙を取り出した。
 相手に見えるよう、デスクに広げておく。
 店長は瞬きも忘れた様子でそれを凝視した。
「学園都市に出店する小売店は、売上げで得たポイントを現金に換える必要がありますが――この際、都市側に一定の手数料を支払う契約になっています。ご存じですね?」
 相手の返答を待たず、主任はすぐに続けた。
「換金に手数料を取られるのは、この街の学生も同じです。しかし、一般人の方と比較して格段に安く済む。こういう事実があると、小売店を営む事業主――つまり、川良さん。あなたのような立場の人は一度くらい、考えるものです。売り上げを学生に換金してもらえば、自分が手続きするより安い手数料で済む、と」
 店長は目を固く閉じ、深いしわの刻まれた眉間に右手をやった。

「しかし」と、ジャスミンが畳みかけた。
「これは契約上で禁止されている。やれば多額の違約金を請求される。だから、普通は考えるだけで実行には移さない。――川良さん、あなたが八ヶ月前からつけ始めた、もう一つの帳簿を見せていただけませんか?」
「……こんなの、小なり誰でもやってることでしょ」眉間を揉みながら、店長がぼそりと言った。その口ぶりには、どこか開き直ったような響きが感じられる。
「なんでウチなんです」
「川良さん、自主的に提出いただけないなら、この捜索同意書にサインを」
 バックマン主任は事務的に告げ、別の書類をデスクの上に重ねて広げる。
「ちょっと待って。待って下さいよ」
 叫び、店長は手のひらを書面に叩きつけた。
「勘弁してよ、局員さん。なんで、こんなチンケな店を虐めるのよ。細々とやってんですよ、ウチは。他に幾らでも、もっと悪質なことやってる店はあるでしょうが」
「その手の議論を、ここであなたとする気はありません」
「実際、あんたらに何が分かるんです? え? 社会もろくに知らない、十代二十代の子ども相手にさ。こっちはフランチャイズだってんで、上にノルマだ何だと理不尽押しつけられて、高い加盟料払って。カード会社にゃ手数料をさっ引かれ。お上にゃ、やれ所得税だ、事業税だ、住民税だって抜き取られ。その上、学園都市には高い出店料まで払わされてんだ。変なポイント制度まで押しつけられてね。挙げ句、それを換金したいなら手数料出せ? どれだけ搾り取りゃ気が済むんだって話ですよ」

 言っているうちに興奮してきたのか。
 店長は椅子を軋ませ、身振り手振りを加えて熱弁を奮う。
 血色の失われていた顔は一転、どす黒く紅潮しつつあった。
「こっちはね、大型店相手にギリギリのところでやってんだ。毎日、死にもの狂いでやってんだ。子どもの警察ごっことは違ってね。生活かかってんだよ。キミらとは違うんだ」
 こうなると、もう自分では止められないのだろう。
 店長は、まるで犯罪者を糾弾する立場に回ったかのように唾を飛ばす。
「あんたみたいな小娘にさ、レジ金誤差が夢にまで出てくる苦しみが分かるか? バイトには内引きされ、客のババアには延滞払わないとゴネられ。バカなAVメーカーが発売日重ねてくれたせいで、数社分数百本のビデオを徹夜でレンタル加工させられ……、そういう苦労がさ。
 ――この前だってそうだよ。景観保護の基準が変わるからって、看板取り替えさせられた時。あの時だって、上が出した金は微々たるもんだよ? それでも私は文句も言わず、自腹切ってきちんと新調したじゃないの。真面目にこつこつやって来たじゃないのさ」

 その時、店外から珍妙な大音響が轟いてきた。
 爆発的な排気音と、六連クラクションによって奏でられるGodfatherゴッドファザーのテーマ≠セ。
 真っ昼間だというのに、バイカーグループのお出ましとは思えない。
 この街にそんな輩が現れるという話も聞いたことがない。
 だが、違法改造マフラーに特有の爆音と、頭の悪そうなホーンの響きは、まさにそれとしか考えられなかった。
「鷹取・本多の両名は様子を見てきて。ハワードは二人のバックアップ。コンセラクスに撮影させて、現場映像を私に転送」ジャスミンが顔だけ振り返って言った。「度が過ぎるようなら足止めして、応援呼ぶように。梨木はここで待機」
 主任が自分の名前を覚えていたことに少し驚きつつ、恭は了解と返した。
 女性陣と頷き合って、事務室から駆け出る。

 表に出ると、爆音をばらまいている輩はすぐにそれと分かった。
 大通りを白丘駅側からこちらへ近づいてくる、二輪のシルエットが三つ。
 まだ百メートル程の距離がある。
 三台とも道幅をいっぱいに使い、大きく蛇行しながら走っていた。そのため進行速度は思いのほか遅い。
 だが、低スピードである最大の要因は、それがエンジンを搭載していない二輪車――すなわち自転車であるためだろう。
「イヤッホゥ、俺はバカだぜえ!」
「おらおら、道開けろや凡愚どもォ」
 直管コールとホール音の合間を縫って、彼らは実に真っ直ぐな自己主張を展開していた。
 問題は、レール上までうろちょろしているため、トラムが緊急停止を余儀なくされていることだ。
 こうなると、下手をすれば大きな交通事故に発展する恐れすらある。
 だが、暴走小僧たちは、むしろそのことから快感を得ているようでさえあった。

「っしゃあ、俺は風だぜ。捕まえられるなら、捕まえてごらんなさい」
「こらあ、総長ってば速すぎるぞう。待ぁてぇー。あはは。ウフフ」
 暴走する彼らの愛車は、近所のショッピングセンターで七九八〇円の値札を付けられていそうな、婦人用自転車がベースになっていた。
 そのハンドルを、遠目にも目立つヘラ鹿の角のような改造品に変えている。
 前カゴに増設されているのは、大型バイクから剥ぎ取ってきたと思わしきカウルやヘッドライト。
 もちろん、サドルは背もたれ付きの豪華な革張りに換装済みである。
 エンジンの空吹かしは録音。
 荷台かどこかに積んだ音楽プレイヤーで再生しているらしい。
 音質にこだわるため、巨大なスピィカーも併せて搭載されている。
 多連型ホーンを含め、一体幾ら金を注ぎ込んだのか。
 物理的重量と同様、相当にかさんでいることは想像に難くない。
「よほど抑圧されてたのね。どんな深い悩みが、彼らの脳をあそこまで蝕んで……」
 あまりの傷《いた》ましさに、ユウコは悲痛な声で口元を押さえた。

「そ、それより、止めなくて良いんでしょうか?」
 生まれたての小鹿もかくやというへっぴり腰で、ジュリィが訴える。
 大きな音、派手な外見。刺激が強い物は、彼女にとって全てが威嚇になるのだろう。
「だな」
 恭は素直に同意した。
「電車せき止めちまってるし、こりゃ明らかに犯罪だろ」
「OK。じゃあ、私が前に出て囮になります」
 ユウコが少し早口に言った。
「あの速度なら、小突いて倒しちゃっても大きな怪我には繋がらないと思うの。だから、鷹取君は後ろか側面を突いて、彼らを止めて? ドロップキックとかで、こうガツンと」
「それは良いけど、技はシャイニングウィザードでも構わんかね?」
「確実にピンフォールとれるなら、好きな技を使ってちょうだい。ただし、やり過ぎにならないようにね。ジュリィちゃんは、予定通り状況の報告と応援の手配をお願い」
「はい。お二人とも気をつけて下さい」

 ジュリィの声に恭は無言で頷き、ユウコと共に通りへ出た。
「あなたたち、止まりなさぁい!」
 まずユウコが、行く手を遮る形で正面に立ち塞がった。両手を真横に広げて、相手の注意を引く。恭はその隙を利用し、暴走小僧たちの側面をついた。
 タイミングを見計らって飛び出し、一気に彼我の距離を詰める。
「この、ばかちんがッ」
 恭は雄叫び、助走の勢いそのままに跳躍した。
 間近な自転車の荷台部分に左足から着地。それと同時、右足を運転中の少年に食らわせた。
 相手の肩口を狙い、太腿で押し出すようにして車体から蹴落とす。
 装飾で重量が倍加されていたせいか、自転車は思いのほか派手な音を上げて転倒した。
 乗っていた少年も、腕をばたばたさせながら石畳の地に転がり落ちる。
「司法局だ」
 地面に下りた恭は、それを見下ろし一喝した。
「てめえら全員、恭タンの聴覚を激しくムカつかせた罪《ざい》≠ナ謙虚だ。神妙に縛《ばく》につけい!」

「ああっ、俺の……俺の単車マシンが! マイ・ソウル、マイ・スピリッツがっ」
 特攻服の少年が悲痛な叫びをあげた。我が身よりむしろ愛車の方が心配らしい。
 確かに、車載コンポとスピーカーは衝撃で砕け、内部ユニットが剥き出しになっている。
 少年は、その一つを恋人の亡骸のように抱きかかえた。
 眦《まなじり》には、薄らと涙さえ滲んでいる。
「はいはい、あなたたち」
 ユウコが、教室を鎮める小学校教師のように声を張った。
「ウチの局員にこれ以上、自慢のソウルを破壊されたくなければ指示に従って下さい」
「その通りだ。珍走して宣伝せずとも、お前たちがバカなことは、もう皆に伝わり過ぎるほど伝わった」
 彼女の横に並びながら、恭も論調を合わせた。
「俺もバカさには一方《ひとかた》ならぬ自信を持ってるが、お前たちには負ける。お前たちは凄い。素晴らしい。良くやった。もう、それ以上は頑張らなくて良いんだ」

「もう……もう、良いって言うのか」
 リーダー格と思わしき少年が、ぽつりと言った。
 残った毛が手のひら大の「愛」という字になるよう、他の全頭髪を剃り上げている。
「風に導かれるまま、ただ闇雲に走り抜けてきた俺たちに……ここが終着駅だと?」
「ああ」
 恭は頷き、微笑みかけた。
「お前たちは行き着くところまで行き着いた。もう、後戻りできるかすら怪しい程の領域に。その突き抜け方には謹んで哀悼の意を表したい」
「チッ」
 愛頭は、唾棄するように一瞬、顔を背けた。
 が、次に恭へ向き直った時、そこには清々しい笑みを浮かべていた。
「司法局の犬の中にも、スピードという名の最後の魔法を解する奴がいたとはな」
「お前のポエムには、なかなかついていけないけどな」
 差し出された手を、恭は握り返す。そして言った。
「まあ、とりあえずチミ、逮捕ね」



  06

 ユウコが帰宅したのは二十一時過ぎだった。
 遅くなった原因は、もちろん例のアンポンタン三人にある。
 彼らが起こした暴走事件の報告書を、恭と共同作成することになったのだ。
 問題は、自分の担当分を一発で通したユウコに対し、恭が八回のリテイクを命じられたことだ。
 最後はユウコも手伝って――というより、代わりに文章を考えて、ようやく仕上げたという感じだった。
「まったく、仕方ないですね。鷹取さんは。外務だから事務仕事はないと思っていたなど」
 実体化したミーシャが、二枚の羽を人間のように持ち上げて呆れている。
「大きな権限を持つということの意味と責任を理解していない証拠です」
 確かに、彼女の言い分にも一理あった。
 警察も、思うがままに市民を逮捕し、家宅捜索に入り、勾留できるわけではない。
 何をするにも令状や許可、そして事後には報告書の提出が求められる。

 司法局も同じなのだ。
 帰り際、主任が言っていた言葉もそれを物語っていた。
 ――ウチの新人が最初に覚えるのは書類の書き方なんだよ。
 問題を起こす人間は、往々にして不器用で口下手だ。
 自己表現が苦手だからこそ、発散やアピールの仕方を間違えるのだ。
 当然といえば当然の図式なのだろう。
 外務課の局員は、そんな彼らから、上手く気持ちを引き出さねばならない。
 時に代弁するように、彼らの背景にあるものを活字に起こしていかねばならないのだ。
 書類を作る段階からが真の仕事である、という文句もそう大げさではないということだ。

「さてと」
 ジャケットをクローゼットにしまうと、ユウコは小さな座卓についた。
「梨木君はそろそろ自宅に着いたかな。ミーシャ、彼に通信繋いでみてくれる?」
「梨木鷹一さんですね。分かりました。回線、接続します」
 ミーシャが言うと、ユウコの前に仮想モニタが表示された。
 交流戦で情報表示に使われるウィンドウと同じものだ。
「おう、お疲れ」
 すぐに鷹一が出た。入浴していたのか、髪が薄ら湿って見える。
 Tシャツ姿の首には、黄色いタオルが巻かれていた。
「珍しいな、そっちから連絡とは」
「お疲れさま。私からかけるのは、これが初めてかもね。お風呂入ってたの?」
「ああ。共用シャワーをね。で、俺に何か話?」
「うん。あのね、鷹取君を今度、自宅に招こうって話があるの。それで何かご馳走しようと思ってるんだけど、彼ってどんな食べ物が好きなのかな。知ってたら教えてくれる?」

「ほほう」
 スポーツ飲料のペットボトルを開けながら、鷹一がにやりとした。
「高校入学をきっかけに、恋愛関係も積極的にってことかい」
「そうじゃなくて、ホストは私の親と兄なの。コンビニ強盗の件で色々とお世話になったから、一度、きちんとお礼したいって。私はその仲介役《コーディネーター》ってわけ」
「なんだ」
 ボトルに直接口を付け、鷹一は一口含む。
「色気のない話だぜ」
「だから食い気の話をしてるんじゃない」
「はは」と、彼は口を開けて笑った。
「上手いこと言うな。――まあ、好物っていっても、恭の場合、出されたもんは何でも喜んで食うよ」
 だが、敢えて言うならお上品な物は駄目だろう。それが鷹一の見解だった。
 作法が必要な料理もNG。コース料理とも相性最悪い。
「前菜だスープだと順番はいいから、一気に全部持ってこいって言い出すな。あいつは」
「ああ、それはなんとなく想像できそう」
 ユウコは口元に手をやって、笑った。

「とにかく、やつは余計なことを考えずにガツガツ食いたいんだ。天丼でも食わせときゃ良いんだよ。まあ、それじゃ、家に招いてご馳走って雰囲気ではないだろうけど」
 一拍おくと、鷹一は少し口調を改めた。
「だったら、ピザとかどうだ? 手掴みで貪れるやつを中心に、B級グルメ的なものをテーブルいっぱいに並べてさ。好きな物を好きなだけ盛って食えるって感じで」
 それは妙案かもしれない、と思った。
 食堂で立食パーティのような形にするのも良い。
 バーベキューでも喜んでくれるだろう。
「それにしても、鷹取君って、いっつもお腹すかせてる感じよね」
「ああ。実際、昔からあいつは常に腹すかせてたよ。育ちの問題もあるしな」
 その言葉でふと、ユウコは二週間前のことを思い出した。
 片目の視力が無い。親がドラッグをやっていたからだ――。
 初めて会った時、彼は確かにそう言っていた。
 だが、聞いたのはそれだけだ。
 ユウコは自分の家族や出身について話したものの、彼からは何も聞かされていない。
 なんとなく、踏み込めない雰囲気を感じていた。

「鷹取君って、なんか、たまに驚くようなことを知らなかったりするよね?」
 梨木鷹一は聡い男だ。
 その言葉の裏にある、ユウコの真意を読んだのだろう。
 あごを上げて深く息を吐くと、考え込むように少し黙った。
 どれくらいそうしていたか。
 彼は、おもむろに口を開いた。
 ぽつぽつと語り始める。
 それは、恭の生い立ちにまつわる物語だった。
 もっとも、鷹一自身、細かいところまで知っているわけではないらしい。
 それでも、恭に両親が存在しないこと。そもそも父親は誰かすら分からないこと。
 親に名前を与えられなかったこと。
 今で言うゴミ屋敷のような所で、誰にも愛されず幼少期を過ごしたこと。
 麻薬をやる母親と、その恋人たちから、日常的に暴力を受けていたこと。
 それは幼児の骨を何本もへし折り、片目を潰すほどに酷いものであったこと……
 ユウコが知らずにいた、想像を絶する過去の片鱗を、鷹一は明かしてくれた。

「恭の話を総合すると、あいつの母親とすら呼べない母親は、ドラッグの禁断症状か何かで急死したみたいだ。恭は、その死体としばらく暮らしたみたいなことを言ってたな。腐乱してきたことで、自分の生活が終わったことを知ったらしい。で、自分から家を出た」
「そんな……」
 口内がからからに乾いていた。
「よく移動できたと思うよ。当時、あいつは七際か八歳くらいだったらしいけど、体重は平均の三分の二あったか怪しいそうだ。怪我の傷害のせいで、何本かの指は今でも開閉に時間がかかるし、骨折のせいで伸ばしても真っ直ぐにならない。左肩には脱臼癖がある。永久歯に生え替わってたら、歯もほとんど無くなってただろう。本当、奇跡だね」
 ドラッグで理性の吹っ飛んだ連中しか、周りにいなかったのだ。
 言語の習得も、それは困難だっただろう。彼は母親に名前で呼ばれたことすらないのである。
 抱き締められたこともないのかもしれない。添い寝してもらったことも。頭を撫でられたことも。
 優しく触れるべき手は、いつも彼を殴った。
 骨を砕き、歯が折れるまで傷つけ続けた。

「鷹取君は今までどうやって……そんな目にあってきたひとが……」
「鷹取崇一郎そういちろうってじいさんに拾われたんだ」
 鷹一は敢えて事務的に語ろうと意識しているようだった。
 顔からも表情を消している。
「あいつが自分の名前も知らない、言葉も分からないと知って、引き取ってくれたらしい。後見人として手続きして、恭って名前を付けて、あいつを人間に戻したんだ」
 言葉や世間のことを教えて、学校に通わせたのも、その老人なのだという。
 確かにユウコも、恭の口から何度か「爺ちゃん」という言葉が語られるのを聞いていた。
 ――だが、その意味までは何も知らずにいた。
「だからな、本多さん」
 そう語りかけてくる鷹一の声音はやわらかだった。
「恭は、他人と会話できることが嬉しくて仕方ないんだ。自分を殴らない奴がいる世界が新鮮で、学校や毎日が死ぬほど楽しいんだよ。汗舐めて、ダンボール囓って飢えを凌いだ記憶があるって言ってたくらいだ。そんな人間なんだ。湯気上げてるハンバーグなんて、夢にすら見なかった凄い物だって分かるだろ? 食い物だって一目で分かる物が、皿にのってるだけでありがたいのさ」

 ユウコはしばらく言葉を発しなかった。それ以前、何も考えられずにいた。
「……本多さん。本多さん、服、シワになるぞ」
「えっ?」
 何度呼びかけられたのか、ようやくユウコは我に返った。
 気付けば、右手で自分の胸の辺りを強く握りしめている。
 拳に収められたカッターシャツには、指摘通り盛大なシワが寄っていた。
「あ……そうね」
 慌てて手を開き、胸元を整えた。
「ごめんなさい」
「俺に謝ることじゃないよ」
 鷹一が苦笑した。
「ええ、そうね。――ごめんなさい。私、ちょっとどうかしてたみたい」
「ショックを受けるのは仕方ない。俺も最初はそうだった。でも、育児放棄とか家庭内暴力とか、そんなのニュースでよく報じられてることだ。子供を餓死させた親の話だって、聞かないわけじゃない。要は、実感の問題なんだろう」
「そうだよね。梨木君の言う通りかもしれない」

「これは俺が言う筋合いじゃないことかもしれないが……」
 少し言いよどむようにして、彼は切り出した。
「本多さん。あいつのこと、よろしく頼むな」
「えっ? どういう意味?」
「あいつは――なんて言うか、自分をゴミ溜めで生まれ育ったゴミの一部≠セと思ってる節《フシ》があるんだ。少なくとも、それに近い認識を持ってるのは間違いない」
 そんな……と口にしかけ、ユウコはそれを飲み込んだ。
 臨床心理学の原理に照らし合わせれば、大いに考えられることであった。
 家族に愛されず、褒められず、拒絶や痛みしか与えられなかった子供は、自分の価値や存在意義について懐疑的な人格を形成しやすい。
 鷹取恭の家庭環境は、その意味で最悪にして最低の典型だった。
「俺は友人として、鷹取恭って人間に価値を認める他人がいることを証明してみせたつもりだ。けど、今の所はそれ止まりだ。あいつは自分に価値があることを認めても、それは自分を拾って再生させた育ての親の功績だとしか考えない。
 ――そうじゃない。崇一郎氏とは切り離して、鷹取恭という個を俺たちは認めてるんだ、と言い聞かせても……駄目だった。なかなか芯から信じさせるのは難しい」

「そうね。時間がかかる問題だと思う。たぶん、言葉だけでは解決できない」
「そう。だからってわけじゃないが、最近思うんだよ。こっから先は、俺だけじゃなく本多さんみたいな存在が、どうしても必要なんじゃないかって」
「私?」
 思いがけず自分の名が出たことに驚いた。
「私が役に立てるの?」
「男って生き物は、女に承認されて一人前ってところが少なからずある気がしてね」
「承認……」
 小さく反芻し、その意味するところを考える。
 確かに、異性という要素がからむと認識の世界は広がる。
 たとえば「好き」という概念ひとつとってみてもそうだ。
 これまで家族や友達に対して使ってきた同じ言葉が、全く異なった意味合いを帯び始める。
 回路が開けるとでも言うのか。鷹取恭に、そういう広がりが必要なのは分かる気がした。
 彼は社会参加が十年も遅れたため、人間関係から得るべき経験値が圧倒的に不足している。
 異性面においては特に発達の遅れが顕著で、小学生並のレヴェルをうろうろしている。
 それは数週間の短い付き合いの中からでも、如実に感じられたことだ。

「いや、別にあいつと付き合ってやってくれ、と言ってるわけじゃないんだ」
 鷹一が、少し慌てたように付け加えた。
「ガールフレンド的な感じでいい。友達で構わないんだ。ただ、相手が異性だってことを互いに意識し合ってさえいれば」
「うん。分かる」
「よほど打算的でもなけりゃ、そういう関係は生まれも育ちも関係ない、一対一の純粋なものだろ。そういうのが、今の恭には必要なんだよ。本多さんと良い人間関係を構築していくことで、恭は刺激を受けると思うんだ」
「私で良いのかな?」
「出会って間もないが、キミの人柄は信用できると思う。だから頼む気になった」
「そっか……」
 ユウコはつぶやき、ややあって小さく頷いた。
「梨木君。色々、教えてくれてありがとう。私、ちょっと考えてみる」
「ああ。でもまあ、あまり考え過ぎてもアレだぞ。本人も変な同情は望んじゃいない」
 恐らく、その指摘は正しい。過去は過去であり、しかもユウコとは直接関係もないのだ。
 それで接し方を変えるのは、あまり好ましいことではないように思えた。

 ユウコは再度礼を言って、通話を終えた。
 鷹一の寮と違って、こちらの寮は各部屋にバスルームが備えられている。
 気持ちを切り替える意味で、ゆっくりとシャワーを浴びた。
 部屋着をまとい、髪を乾かし終えた頃には、気持ちも大分、落ち着いていた。
 紅茶を淹れ、お気に入りの座卓に戻る。一服してから再びミーシャに通信を依頼した。
 今度は本番。鷹取恭に接続させる。
 五秒もせず、反応があった。
 少し羨ましいと思ったことさえある藁のベッドを背景に、恭がモニタに映し出された。
「今日はお疲れさま、鷹取君。今、時間良かった?」
 なるべく普通に聞こえるよう、ユウコは細心の注意を払った。
「ああ。お疲れさん」
 言いながら、彼は後頭部についた藁くずを払う。
 顔と声はどことなく少し眠そうだった。うとうとしていたのかもしれない。
「――どうした?」

「うん。今度の土曜日ね、私も鷹取君も研修休みでしょ? 予定あるのかな、と思って」
「いや、ないな。土曜が休みだったことすら忘れてたよ」
「じゃあ、あのね、私の実家に招待したいんだけど。どうかな?」
「実家?」
 眠気の八割が消し飛んだ、というように目が見開かれる。
「ええ。例のコンビニ強盗の件で、兄と父が正式にお礼したいって」
「お礼なら、キミから食事を奢って貰っただろう」
「あれは、私個人からのお礼よ。今回のは本多家として。兄本人からもね」
 恭は少し考えるように間を置いた。
「……キミの実家ってのはどこにあるんだ?」
「東京よ。リニアで一時間半。あ、もちろんチケットはこちらで用意するから」
「なにっ」
 残っていた二割の眠気も霧散したらしい。
 恭は完全にいつもの彼に戻って、興奮気味に叫んだ。
「リニアって、あの車輪ないやつ?」

「そうよ。実際のところ、飛行機みたいに必要な部分は車輪を使って走るんだけどね」
「でも、あれだろ。浮いて走るんだろ。マッハだろ? キミはあれに乗ったことあるのか」
「何度かね。学園都市に来る時もあれで来たのよ。でも、音速は超えないかな」
「凄いな。本多さん、未来人みたいだな」
 その小学生のようなコメントがおかしくて、ユウコは笑った。
 これは恭の過去とは関係がない反応だろう。
 一般家庭に育ったとしても、彼はこうして目を輝かせたに違いない。
「大げさね。でも、OKをくれれば、あなたもの乗れるのよ」
「なんてこった。そういうことなら、お招きに預かるよ。ちなみにパスポートは――」
「いらない」
 ユウコは小さく吹き出す。
「もう。海外に行くわけじゃないんだから」

「ご歓談のところ申し訳ないけど、鷹取恭。別にもう一件、電話がきたよ」
 ユウコには見えない所からびしゃもんの声して、恭がそちらを向いた。
「なんか、頭の悪そうな感じで俺、俺とか名乗らないんだ」
 と、びしゃもんの声が続ける。
「でもこれは、キミが捕まえたチンピラ三人組のリーダーと音声パターンが一致するよ」
「あの、頭皮の中心で愛を叫んでた? なんだ。振り込め詐欺で昼間の復讐か?」
「鷹取君、出てみたら?」
 ユウコは、横から進言した。
「だな。良かったら、本多さんも横で聞いててくれるか。妙な展開になったら――」
「うん。バックアップするね」
「じゃあ、繋ぐよ?」
 話がまとまったのを見計らい、びしゃもんが宣言する。
「本多ユウコ、キミの方にも音声と映像を一方通行中継する。受け取るがいいよ」
「うん。ありがとう、びしゃもん」

 直後、恭を映したメインモニタが縮小し、右上の方に移動していった。
 モンタージュ技法としてのワイプ抜きだ。
 空いたスペースに、第二の仮想モニタが展開される。
 そこで大写しにされたのは、頭頂部に「愛」の毛文字を刻んだ、例の暴走少年だった。
 こうして改めて向き合ってみると、まだあどけなさが強く残っている。
 今日の取り調べで判明したところによると、年齢は十六歳。
 三法人の生徒ではなく、単にこの街に住んでいるだけの一般人だ。
 通っている高校も、外部の私立校だという話であった。
「おう、どうしたチンピラ。なんか、ずいぶんと顔色悪いな」恭が訊ねた。
 彼の指摘は冗談や皮肉ではなく、少年は実際、土気色の顔をしていた。
 額や頬も脂汗に塗れ、てらてらと光を放っている。呼吸の乱れ方も普通ではなかった。
「おい、アンタ。やばいことになったんだ。助けてくれよ」
 回線が通じた瞬間、少年は顔をくしゃくしゃにした。いきなり懇願口調で訴える。
「このままじゃ、マジ殺されちまうかもしれねえよ。こんなつもりじゃなかったんだよ」

「なんの話だ? 悩みがあったら電話で相談しろとは言ったけど。ずいぶん早速だな」
「全部話すからよォ。来てくれよ。あんたしか頼れそうなやつ、いねえんだよお」
 様子が普通ではない。そう判断したユウコは、ミーシャにタクシーを手配させた。
 それからテキストウインドウを出し、恭にメッセージを打ち込む。
 私、主任に報告します。車はもう手配しました≠ニ送った。
 恭は少年に悟られないよう、ユウコの方を見ずに頷いた。それから、会話に戻る。
「よく分からんが、分かった。行ってやる。だから落ち着いて、まずは居場所を言え」
「そ、倉庫街だ。俺は今、そこの <N1047号> ってちっこい箱にいる」
 ユウコはその声を、死角になる場所で着替えながら聞いた。
 平行して、音声限定で司法局に通信を入れる。つまり普通の電話だ。
 四コール目で外務課の受付が応対に出た。
 三係主任のジャスミン・バックマンを頼むと、彼女はもう帰宅したという。
「では、錦城外務課長を」
 そう依頼し、回線が切り替わるのを待つ。

「ねえ、ミーシャ。鷹取君たちのやり取り、司法局に中継できるかな?」
「残念ながら」
 ミーシャはかぶりを振って答えた。
「非合法《イリーガル》パスを使っているようで、公の場には繋げないようにされています」
「イリーガルパスか。なら、映り込みもガードされちゃうね」
「――はい。こちら錦城」と、年齢を感じさせる落ち着いた声が言った。
「お疲れさまです」
 慌てて電話に戻る。
「四八〇研修で三係に配属された本多ですが」
「おお」
 課長が鷹揚に答えた。
「今日は早速の初仕事、お疲れさん」
「恐れ入ります」
「いや、キミのような優秀な新人はありがたいよ。主席入学とは聞いていたが、局の実技講習でもトップの成績だそうじゃないか。キミはあれかな。何か嗜んでいたの?」
「ええ、幼少の頃より短剣道を少し。それで、課長。実は取り急ぎご報告したいことが」

 ユウコは事情を簡潔にまとめ、伝えた。
 報告書で暴走事件を知る課長相手だと話も早い。
「ああ、あの直江兼続の兜みたいな子か」
 一通り聞き終えたあと、課長が言った。
 彼のしゃべり方には独特の抑揚があり、不思議にすっと入り込んでくる。
「暴走族の幼稚な真似事をしていた少年だろう? 勝手をしてチームの輪を乱したとか、大方その辺の理由から仲間内で私刑にされるのを恐れて、それを大袈裟に言ってるのではないのかね」
「その可能性も考えられます。しかし、本人の表情を見ていると非常に切迫した様子で」
「ふむ。まあしかし、彼は学園都市の生徒でもないしねえ」
 のんびりとした口ぶりだった。
「学園都市で発生したが、本質的にこれは市井の問題だ。まあ、ちょっと所轄とも相談してみよう。そののち、こちらでしかるべく対処しておく。キミは待機していなさい」
「はい――」
 声に他意が乗らないよう用心して、ユウコは返答した。
 いえ、私に行かせて下さい、と言える立場でもない。
 他にどうしようもなかった。
「よろしくお願いします」
「結構。では、また明日《みょうにち》。ご苦労さん。おやすみ」

 ユウコは挨拶を返し、通信を終えた。
 サウンドオンリィとだけ表示された、小さなウィンドウも同時に掻き消える。
 待機か、と思った。
 もちろん、課長が自宅待機という意味合いでそう言ったことは明白だ。
 だが、場所をはっきりと指定されなかったこともまた、事実である。
「夕子さん、呼び寄せたタクシーが寮の玄関前についたそうです」
 ミーシャが言った。
「OK、ありがと」
 司法局のジャケットを羽織り、玄関に向かう。
「夕子さん」
 子を諫める母の語調だった。
「待機の命令を拡大解釈するおつもりですか」
「うん。ゴメン。ミーシャはリージョンに戻って。鷹取君たちとの回線はこのまま維持で」
 仕方のない人ですね。そんな小言をこぼしつつも、相棒は従ってくれる。
 ユウコは表に出て、待っているタクシーに駆け乗った。

「――頼むよ。早く来てくれよォ」
 モニタの中では相変わらず、特攻服の少年が悲痛な叫びを繰り返していた。
 その懇願はタイミングもあって、他ならぬユウコに投げかけられたもののようにも感じられる。
「マジやべぇんだって」
 見えざる何かに怯え、少年の声は徐々にヒステリックなものになっていく。
「コマツとはもう連絡がつかねえ。次は絶対、俺なんだよ。助けてくれよお」
「お前がヤバイのは分かったよ。もうクルマも手配した。すぐに向かう」
 恭がなだめ口調で言う。
「で、なにがどうヤバイんだ? もう少し具体的に言ってくれ」
「だからよォ」
 少年は既に涙声だった。
「あんたらには隠し通したけどよォ、ここんとこ、上から暴れるなって言われてたんだよ。今は微妙な時期だから大人しくしてろって。でも、俺ら我慢できなくてよ。まさか、そんなマジな話だとは思わなかったんだよ。……なあ! 頼むよォ。冗談抜きで殺られちまうかもしんねえ。マジなんだよ。嘘じゃねえんだよ」
 裏返った叫び声を拾いきれず、スピーカーが割れた音をあげる。

 その時、少年を映すモニタに奇妙なブロックノイズが出現した。
 壊れたモザイクにも似たそれは、急速に勢力を拡大していく。
 気付けば、画面全体を覆い尽くさんばかりに広がっていた。
 同時に、音声の方も不自然に途切れ始めた。
 恭の声はクリアに聞こえる。
 暴走少年の叫びだけがブツ切りになっていた。もはや、言語として認識できないほどに酷い。
 なにが起こっているのか理解できなかった。
 恭もモニタに掴みかからんばかりだが、状況は好転しない。
「おい、チンピラ! どうした。おい」
 恭の呼びかけも空しく、画像と音声は直後、完全に途絶した。
「くそっ。切れた。――びしゃもん、これは何が原因なんだ」
「症状からしてソフト的ではなく、機械《ハード》的なトラブルがあちら側に発生したんだと思う。ちょっと唐突で、変な感じだったね」

「鷹取君」
 再び標準サイズに戻った恭のモニタに、声をかけた。
「今、タクシーからよ。主任はいなかったから、課長に事情を説明しておいた。所轄と協議の上、局側で対応するから私はたちは待機ですって」
「おいおい、そりゃ悠長過ぎだ。あのチンピラ、本気で怯えてたぞ」
「うん。課長は直接それを聞いてないし、あの子が昼間やらかしたことを考えると、そんなシリアスに取り合う必要もないって考えてるみたい。ニュアンス、伝わってないよ」
「本人の様子といい、今の不自然な切れ方といい、本当にやばいのかもしれないぞ?」
「うん。だから、鷹取君は山から下りた所で待ってて。倉庫街って、学園都市の一番西にある、海沿いの無人地帯なの。局ビルからは時間がかかる。私たちが今すぐ動けば、五分は早く対応できるはずよ。待機って言われたけど、それは現場でもできるもの」
「それはいい考えだ」
 恭は唇を歪めた。
「分かった。バイパス合流点で拾ってくれ」

 時間が時間だけあり、その外周バイパスは空いていた。
 ただ、恭の言う合流点は、昼間でさえ注意していなければ素通りしかねない。
 闇夜の中ではなおさらだった。ユウコは運転手にそのことを伝え、自らも目を凝らす。
 しかし、その点は恭の方も考えてくれたようだった。
 約五分後、既に路肩で待ち構えていた彼は、びしゃもんをライト機能で発光させていた。
 鬼火のように揺らめく白丸は不気味だったが、おかげで見落とすこともない。
「悪いな、色々手伝わせて」
 後部座席に滑り込んできた恭が、息を弾ませて言った。
「良いの。私も無関係じゃないし」
 答え、ユウコは少し身を乗り出した。
 運転席に向けて声を投げる。
「すみません。倉庫街に向かってもらえますか? できるだけ急ぎで」
「倉庫街? あんなとこで事件ですかい」

 たまに出くわす、喋るタイプの運転手だった。
 丸顔の中年男性で、野次馬根性を隠そうともせずに後部座席を覗いてくる。
 彼のお喋りに付き合うのは負担だったが、運転技術と土地勘には文句の付けようがなかった。
 カーナヴィにも出ない最短ルートを選び、注文通りかなりの速度で飛ばしてくれる。
 ユウコの計算より三分以上早く臨場できたのは、ひとえにこの運転手の功績だった。
「帰りもお願いしたいんです。待っていてくれますか?」
 降り際、ユウコは彼に声をかけた。
「はいはい。あたしはTVでも見てますんで。もう途中ですけど、今日のプレステージ、秋津アニメやってるんですわ。もう何回も観て、娘がDVDも持ってるんですがねえ」
「できるだけ早く戻りますので」
 ユウコはにっこりと会話を打ち切り、ドアを閉める。

 倉庫街に来るのは初めてだった。
 西側に少し行けば突き当たるはずの日本海は、闇に溶け込みその威容を視認することができない。
 潮もそれほど強くは香らなかった。
 ユウコはミーシャを呼び出し、彼女のライトアップ機能を利用して光源を得た。
 走って、先行する恭に合流する。
 問題の <N1047号> 倉庫は、彼が既に見つけだしてくれていた。
 LEDの光に切り取られたその佇まいは、一般家庭の物置と大差がない。
 規模だけは二回りほど大きいが、波形《なみがた》の薄いトタン板で組み上げた簡素な造りだ。
 潮風に晒されたにしても劣化が激し過ぎる。全体浮いた赤錆は、元の色の判別すら困難にしていた。
 屋根の近くには、腐食でできた大穴まであいている。
 出入口は、ざっと見た限り一つだけ。
 正面右の、立て付けの悪そうな木製ドアがそうだ。
 窓もあるにはあるが、ベニヤ板が張られていたり、内側から木箱で塞がれたりで機能はしていない。
 車輌で乗り入るためのシャッターもあるが、今は完全に下ろされていた。

「おい、ボウズ。俺だ。鷹取だ。約束通り来たぞ」
 恭が声を上げ、ドアを叩く。
 どういう造りをしているのか、それだけの衝撃で扉全体がガタガタと揺れていた。
「妙だな。こんだけ呼んでも出てこないってのは、どういうことだ?」
「変ね」
 ユウコも不穏なものを感じ始めていた。
「あれだけ来てくれって言ってたのに」
「びしゃもん、お前、サーモグラフィとか戦闘力の計測器、搭載してないのか?」
「無茶を言わないでよ。そんなの、何のためにコンセラクスに積む必要があるのさ」
「くそう。じゃ、どうすんだよ」
 恭は悪態を吐き、苛立ち紛れにドアノブをがちゃつかせる。
 施錠されているとばかり思っていたのだろう。
 それがすんなり回ったことに、もっとも大きな驚きを見せたのは恭本人だった。
 信じられない、といった顔でユウコの方を見てくる。

「入ってみましょ」
「では、明りの問題もありますし、私とびしゃもんさんが先頭に立ちます」
 ミーシャが引率の教師のように、前へ進み出た。
 ライトのことを持ち出してはいるが、本音は人間たちの安全を慮《おもんぱか》ってのことだろう。
 二機のコンセラクスを先導に、ユウコ、恭の順で、慎重に進み入る。
 強くオイルが匂う倉庫内は、一目で若者のたまり場だと知れる空間だった。
 インスタント食品や菓子、清涼飲料水を飲み食いした痕跡が、ゴミの山として残されている。
 自転車もここで改造していたらしい。
 工具をはじめ、装飾用のパーツ、剥き出しになったフレームやスペアタイヤなどが散らばっていた。
 妙な生活感さえなければ、どこかの整備工場として通用しそうだった。
 ――しかし、肝心の少年の姿がどこにもない。
「どういうことだ? 移動したのか、あいつ」
 恭が屋内のあちこちに視線を投げ、つぶやく。

 ユウコは黙って、奥の簡易テーブルセットに歩み寄った。
 並べた箱を土台にして、木板を被せただけの大卓。
 その周囲に椅子として置かれているのは、ひっくり返されたビール瓶のケースだ。
 テーブルの上には、少し大きめのノートPC《パソコン》が乗っていた。
 すぐ近くには、電波中継用のルーター。
 触れてみると、いずれもまだ熱を持っている。
 PCに一番近いビールケースの座面にも、微かな体温が残っていた。
「ついさっきまで、ここにいたことは間違いないみたいね。それよりこれ――」
 少年の体温と同じくらい微弱ではあるが、他に残されているものが一つ。
 同じものを感じ取っている証拠に、恭もユウコ同様、鼻をひくつかせていた。

「オゾン臭だかイオン臭だか知らないが、こりゃ、覚えのある匂いだよな」
「うん。リージョンへ移動する時にする匂いと同じね」
「おい、びしゃもん。スポットなしでリージョンへ自由に行き来できるのは、お前らだけじゃなかったのか? それとも、特別な人間ならできるのかよ」
「そんな馬鹿な」
 びしゃもんが鼻で笑う。
「もしリージョンにスポットなしで出入りできるなら、特別以前に、それはもう人間じゃないね」
 ならば、スポットがここにあった可能性が出てくる。
 だが、そのスポットとは、学園都市の三法人しか所有できないオーヴァテクノロジだ。
 利用は交流戦に限られているため、校舎の周辺にのみ限定的に設置されている。
 ユウコは恭と視線を揃え、コンセラクスたちへ無言のコメント要請を送った。
「夕子さん、あなたは違法スポットの噂を聞いたことがありませんか?」
 ミーシャが応じた。

「違法スポットって……」
 言葉に詰まる。
「あんなの、ほとんど都市伝説じゃない」
「なんだ、それは」
 恭が説明を求めて、全員の顔を順に見回していく。
「文字通りです」
 またミーシャが答えた。
「非合法な技術で作られたスポットで、学園都市の生徒でない人間が、リージョンに出入りできるようにしたものだと言われています」
「そんなものがあるのか?」
 恭がすっと目を細める。
「なら、それを使って、やつはこの倉庫からリージョンに移動したってことか」
 これには、ユウコ自らが否定の言葉を返した。
「それはおかしい思う。だったら、彼が使ったスポットがここに残ってるはずよ。それにスポットは、政府とか軍とか、そういうレヴェルの組織でないと製造も保持もできない物だって言われてるし」
「じゃあ、どう考えろっていうんだ」

「そうだねえ」
 びしゃもんが短い手を二本生やし、腕組みのポーズを取る。
「まず、スポットが使われたらしいっていう状況自体が、何かの認識違いである可能性がある。一方で、やっぱりスポットは使われていて、あの暴走小僧はリージョンに移動してしまったって考え方もできる。今のところ、この二パターンのどっちかになるんじゃないかな」
 ユウコは黙って思料した。仮に後者を取った場合、スポットの出所がまず問題になる。
<ゼ・クゥ> に独自のパイプを持つ、非常に大きな組織でもない限り、独自のスポットを手に入れることなどできないだろう。
 それに、もし違法スポットが使われたなら、それを持ち込み、使用し、撤去した第三者的存在がここに居たことになる。
「あのバカは、俺が来るのを待ちきれずに、出ていったのかもしれない。――でも、もしここで違法スポットが使われたんなら、リージョンに行った可能性が出てくる」
 恭は独りごちるように言うと、ここまではあってるよな、という視線を全員に送った。
 異論が出ないのを確認すると、続ける。

「でも、違法スポットは、あんな街のチンピラが持てる物でも、使いこなせる物でもない、と。――だったら、あいつを怯えさせていた人間が、何かやらかしたとは考えられないか」
 恭はそこでまた口を噤んだ。明らかに、誰かの意見を期待する間が作られる。
 だが今度もまた、コメントの口を開こうとする者は出なかった。
 補強であれ、否定であれ、恭の見方に対し、意味のある自説を構築できた者は誰もいなかったのである。



to be continued...
第3章につづく
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