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第三章 「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」


  01

 金曜日から天候が崩れはじめ、土曜日の学園都市は重々しい曇天だった。
 だが、高速で走るリニアは、南へ進むごとに前線の影響から脱していく。
 福島に入った時、車窓から覗く野外は、陽光で別世界のように輝いていた。
 恭は、その景色を眺めながら、消えた暴走少年たちのことを考えていた。
 彼らは、事件の翌日、失踪として所轄に処理されている。
 恭に助けを求めた本人だけではない。件《くだん》の暴走事件に関与した三人が全員、同じ夜に姿を消しており――
 そして、今日に至るまで発見されていない。
 課長の話によると、一応、保護者から捜索願が出されてはいる。
 しかし、警察も司法局も、事件として深刻に取り上げるつもりはないようだった。
 本人たちの素行を鑑みれば、三人が同時に事件に巻き込まれ、拉致されたというような状況は考えにくい。
 それより、十代にありがちな家出と考えた方が自然。
 そういう判断が下されたらしい。

「なんか、気にくわないよな……」
 半分無意識に、恭はこぼした。
 すると何故か、向かいの席から慌てたような少女の声が聞こえた。
「す、すみません。やっぱり、私なんかが一緒だとご迷惑でしたよね」
 対面のシートに座る、ジュリエット・ジュリィ=Eハワードであった。
 先日、恭とユウコが東京へ出ると聞いた彼女は、やたらと羨ましがった。
 聞けば、かねてより、日本の首都に憧れと関心を持っていたという。
 マンガやアニメといったサブカルチャーを愛好していることもあり、特に秋葉原を見てみたいようだった。
 だったら、途中まで一緒にどうか。
 ユウコが誘うと、ジュリィは文字取り飛び上がって喜んだ。
 リニアに乗ったら乗ったで、その驚異的速度に恭より興奮し放しである。

「地上をこんなに速く走る物体なんて、世界的に見ても珍しいものですから。思わずはしゃいでしまって。本当にすみません」
 ジュリィは座席上で正座し、ぺこぺこと頭を下げる。
「まあ、一番この旅を満喫してはいるよな」
「うう、すみません。すみません」
「もう、鷹取君も意地悪言わないの」
 隣から恭を一睨みし、ユウコはジュリィを宥《なだ》めにかかる。
「気にしないで良いのよ。鷹取君が言ってるのは、きっと事件のことだから。ね?」
「ああ」
 視線で同調を求められ、恭は慌てて頷いた。
「まあ、そういうことだ」
「あのう、それって、失踪した暴走野郎の方々でしょうか」

「失踪かどうかは、まだ決まってない」
 窓枠に頬杖をついたまま恭は答える。
「相手が個人か組織かははっきりしないが、あの三人は誰かの下についていた。そして、その誰かにしばらくは暴れるな≠ニ命令されていた。これは本人から聞いたから確かだ」
「そこで気になるのは、今年になってから、学園都市での犯罪発生件数が明らかに減少してることなのよね」
 ユウコが言った。
 その通りで、調べてみたところ、今年に入ってからの犯罪件数は目に見えて少ない。
 前年度の同時期と比較しても、四割近く減っている。
 これまで顕著な増加傾向を見せてきたグラフが、いきなり下降に転じているのだ。
 これといった要因もなくである。

「その報告なら、私も記憶しています」ジュリィが生真面目な顔で頷いた。
 一度見た物は忘れない、という超能力的な記憶力を持つのが彼女の自慢だ。
「確かに、あれは少し変でした」
「作為が感じられるほどにね」ユウコが鋭く指摘する。
「そう。本多さんの言うとおりで、誰かが裏で働きかけて、意図的に犯罪の発生件数を抑えているようにすら見える。――もし、だぞ? 何者かが例の三人に出していた暴れるな≠チて命令と、それがどっかで通じているとしたら」
「誰か犯罪を減らそうと努力している偉い人がいて、暴走野郎の方たちは、その正義味方な方の子分だということですか?」ジュリィは不思議そうに首を傾げた。
「犯罪を減らそうとしてるからと言って、正義の味方とは限らないわ」
 ユウコが落ち着いた口ぶりで言った。
「今、国会では <特区法> っていう新しい法律を作るための話し合いをしているの。これが成立すれば、私たち司法局の権限はより強くなって、学園都市の犯罪や違反行為をもっと積極的に取り締まれるようになる」
 そうなって困るのは、いわゆる悪人たちだ。可能な限り <特区法> の成立を遅らせたい。
 できれば永遠に防ぎたい。それが、彼らの一致した見解であることは明らかだ。

「そもそも、なぜ <特区法> を作ろうって意見が出てきたかというと、学園都市で起こる少年犯罪が酷くなる一方だったからよ。なのに、ここ最近、犯罪は明らかに減って、学園都市は平和な街になっている。そうなると、こういう意見が出てきてもおかしくない。悪い子が自然に減り始めたなら、別に <特区法> を作る必要もないね――って」
「では、悪い人たちは、 <特区法> が作られるのを避けるために、一時的に悪いことを我慢しているんですか?」
「分からない」
 恭は正直に言った。実際、ここまでの話の半分は他人の請け売りだ。
「本多さんや鷹一は、そう考えると色んなことが上手く説明できるって言ってるけどな」
「ではでは、そのことを課長さんやウィルキンソン局長に教えれば……!」
 ジュリィが意気込む。
 だが、それができればなんの苦労もない話だった。

 ――否、言うだけなら、既に恭もユウコもやっている。
 問題は、それで上を説得できるか。動かせるか、だ。
 課長は親身に話を聞いてくれた。だが、捜査に人員を割くまでは至っていない。
 結局、全て状況証拠に過ぎないし、「では、その暴れるな≠ニ命令している人間は具体的に誰なのだ?」と上に問われれば、黙るしかないからだ。
 まして、こちらは中学を卒業したばかりの十代。
 しかも研修中の身分ときている。
 課長にしたところで、「私は部下の勘を信じます」の一言で動けるほど、軽い立場ではない。

「まあ、今後の対応については、おいおい考えていくってことで」
 恭は切り替えるように言った。
「それよりせっかくの機会なんだ。ジュリィは、今日の観光を愉しむことに集中した方が良い。聞いてるぞ。最近、ホームシック気味なんだって?」
 言った瞬間、彼女はやわらかそうな眉をハの字にした。
「うぅ、そうなんですよ……」
「その歳で、親元を離れて異国の学校に単身やってきたんだものね」
 ユウコが同情的に言う。
「故郷が恋しいです」
 座席シート上で、正座から女の子座りに移行しつつ、ジュリィは深くうなだれた。
「全寮制なんだから、お二人も条件は同じはずなのに。私だけ情けないです」
「同じじゃないよ。私なんか、こうして今から家族に会いに行こうとしてるんだもの。ジュリィちゃんの方が、百倍大変なんだと思う。情けなくなんかないよ」
「ユウコさぁん」
 ジュリィは感極まったように、ユウコの胸に飛び込んでいく。
「おお、よしよし」

 ここ最近の付き合いで気付いたことだが、ユウコはどうも女体の触り心地を大変に好むらしい。
 親友の早川公子ハムちゃんと繰り広げる濃密なスキンシップは、恭にとっても既に見慣れた光景だ。
 交流戦でアイドルと戦った時もそうであった。
 勝利者権限として彼女が求めたのは、プラグインではなく、時坂なつきを抱き締める権利だった。
 その際、どさくさに紛れて胸を触り、あの気の強いアイドルに悲鳴をあげさせていた事実を恭は知っている。
 今も彼女はジュリィに対し、ここぞとばかりに頬ずりや額にキスなどを繰り返していた。
「おいおい、本多さん。また、中年のおっさんみたいになってるぞ」
「――はっ? それはいけないわね」
 ユウコは名残惜しそうに頬ずりを中断する。
「どうも、小さくって、まぁるくて、やわらかくて、ぷくぷくしてる物に対しては理性のききが悪くなっていけないわ」
 そうは言いつつ、ユウコは捕食中の得物を解放する気まではないようだった。
 妹分を腕の中に収めたまま、あやすように髪を撫でている。
 ジュリィ本人も心地よさそうに目を細めているため、問題はないのだろう。

 ユウコが好きだと述べた物の条件は、究極的には赤ん坊を示すものなのかもしれない。
 恐らくは母性に通じる本能的な嗜好なのではないか、と恭は推測していた。
 もし、すべての女性に彼女ほど強いそれがあったなら、自分ももう少し違う人生を歩めていただろうか。
 そんな風にも思う。――考えてしまう。
「鷹取さんは、おうちが恋しくなったりはしないんですか?」不意にジュリィが訊いた。
「俺?」
 それは恭にとって不意打ちに近かった。
 地元では、多くの人間が――何となくではあれ――恭の特殊な境遇を察していた。
 そのため、ここまで無遠慮に踏み込んでくる者も少なかったのである。
「……そりゃまあ、俺も会いたい人はいるよ」
 どう答えたものか少し思案したあと、なんとかそう言った。
「だけど、ジュリィと同じで簡単には会えないな」
 実際には、彼女より遙かに困難だった。
 海を越えても、相手の元には辿り着けないのだ。

「そういう時、鷹取さんはどうするんですか」
「そうだな。まあ、会えないもんは仕方ないからな」
 恭は背中のクッションに身体を預け、ぼんやり視線を宙に彷徨わせた。
「ホームシックってのは、新しい環境に対する不安とか、そういうのからくるわけだろ? 俺の場合、あんまりそういうのはないんだ。俺は基本的に逆向きだから」
「逆向きって?」
 そう訊ね返してきたのは、ジュリィではなくユウコだった。
「いくら環境が違うって言ったって、家族といた頃の全てが通用しなくなるわけじゃない。むしろ、子供の頃から家族に叩き込まれたり鍛えられたことは、世界中のどこでだって通用するはずだと、俺は思ってる。そう思ってやってきた」
 恭は、抱き合う二人の少女を一瞥して、続けた。
「俺は爺ちゃんっ子だから、爺ちゃんから色んなことを教えて貰った。爺ちゃんは俺にとって最高の先生で、俺たちは最強の師弟だと信じてる。だから、今は新しい環境でそれをどう証明してやるかしか、考えていない」

「証明……」
 ジュリィが鸚鵡《おうむ》返しにつぶやく。
 考えたこともなかった、という顔だった。
「俺にとっての爺ちゃんみたいな存在が、ジュリィにもいるんじゃないか? ジュリィは良い子だ。それはきっと、育ちが良いからなんだろう?」
「いえいえ」
 ジュリィが両手を振る。
「私の家はそんな――」
「資産とか家柄とかのことじゃないよ。周囲の祝福を受けて生まれ、愛情ある家庭で育てられ……そういう環境で幼少の大事な時期を生きられたって意味だ」
 それは、誰もが手にできるものではない。
 もし神に選ばれ、そんな素晴らしい環境を生まれながらに与えられたなら――
 自らの幸運に感謝し、積極的にそこから力を引き出さなければ損と言うものだ。

「ジュリィ。お前が家族から受け取ったものは、とても貴重なものだ。だから思いっきり見せびらかしてやりな。みんなに自慢してやれ。自分がやっていけるのは最強の家族がバックについてるからなんだって、この街にいるやつ全員に教えてやればいい」
「わ、私のお母さんが作ってくれる、ダークチェリィのパイは世界最強です!」
 ジュリィがユウコの膝上から、恭の方へ身を乗り出した。
 丸っこい拳を握りしめて力説する。
「私も小さい頃からお手伝いをして、ひとりでも作れるようになりました。お母さんも、完璧に自分の味を受け継いでくれたって、合格だって、言ってくれました。それに……それにお父さんは、本当に優しい人の見分け方を教えてくれました!
 心が弱っている時は、人を見る目も弱っているから注意しなさから気をつけないといけないのです。つらそうにしている誰かに与える優しさは装えるもい、とお父さんは言っていました。寂しい時や不安な時は、他人を正しく見極められないのだけど、自分がつらい時、他人に優しくできる優しさは装えない。だから、それこそが本物なのです。ジュリィはそんな人を探して、自分もそうなりなさいって。お父さんはそう教えてくれました」

「そうだ。まずは、その実践から始めていけば良い」
 恭は深く頷いた。
「そしたら次は、友達たちにもお前が与えられた物を分けてやれ。家族に教わったのは、ダークチェリィパイの作り方や、人間の見分け方だけじゃないはずだ」
「はい」
 記憶力に人一倍優れた子だ。思い当たることは幾らでもあるのだろう。
「自分に自信が持てない時は、お前を育てた故郷《くに》や家族を信じればいい。立派な両親じゃないか。そんな家で育ったやつが、通用しないはずがない。絶対、上手くやっていける。世界中のどこであろうともだ」


 東京駅に着くと、ジュリィは弾む足取りで観光ルートへと向かっていった。
 羽が生えたばかりの天使さながらな笑顔を見る限り、すっかり元気を取り戻したらしい。
 放っておけば、「聖地巡礼」とやらで更なる力を得て帰途につくことだろう。
 東京にそんな場所があるなどと、恭はかつて聞いたことがなかったが――。
 なんにせよ、ジュリィは在来線に乗り換え、もうしばらくは鉄道の旅だ。
 一方の恭は、ユウコの誘《いざな》いで移動手段を車に切り替えていた。
 リニアに続き、人生初となるハイヤーである。
 だが、リニアと違い、高級車による送迎に胸は躍らなかった。
 リニアにハイヤー、隣にはアイドルも逃げ出す美少女が付ききり……。
 ここまでの厚遇を見る限り、本多家が今日のゲストを国賓か何かのように誤解していることは確実であった。
 この調子だと、本多邸の門には長い赤絨毯が敷かれ、辿り着いた玄関には横断幕とくす玉が用意されていても、なんら不思議はない。
 そんな未来が待ち構えていないことを、恭はただひたすらに祈り続けた。

「――ここが私の家なの」
 ユウコがそう告げたのは、府中市に入って五分ほど走った頃だった。
 車窓に広がる高級住宅街の眺めに、情緒ある日本建築が目立ち始めてきたのと、ほぼ同時である。
 そのまま時代劇のセットになるのではないか。
 そう思わせる瓦葺きの土倉。昔ながらの平屋。二メートルを超える分厚い漆喰の白壁……
 だが、ユウコの言葉と裏腹に、ハイヤーはなかなか停車する気配を見せない。
 怪訝に思っていると、ユウコは追加の説明が必要なことに自分で気付いてくれた。
「ええとね、この古そうな倉とか建物とかは、正方形の四辺を描くように並んでるの。その内側に庭園があってね。そこに母屋があるんだけど」
 つまり、何棟もの土蔵群を含めた全てが、本多家の所有する土地家屋であるらしい。
「正確には、私の母の実家なの」
 ハイヤーがようやく速度を落とし始めた時、ユウコがまた言った。
「彼女は十年以上前に亡くなったから、今は私が相続してるんだけど」

「前、セバスとは父親が違うって言ってたな。どういう家族構成なんだ?」
「私の母は、最初の結婚で兄を産んだの。でも、すぐに別れて、兄のことは父親側が引き取った。母はしばらくして私の父と再婚したけど、交通事故で一緒に他界してしまって」
「じゃあ、俺に紹介するっていう親は――」
「私を引き取ってくれた、兄の父親よ。両親がこの家と二歳の私を残してい亡くなってしまったあと、兄を連れて引っ越してきてくれたの」
 恭の頭脳にとっては、極めて複雑な話だった。
 まとめると、ユウコが父と呼び、これから恭に紹介しようとしている人物は、実際の所、ユウコと血の繋がりを持った人間ではないことになる。
 彼にとってユウコとは、離婚して出て行き、別の男と結婚した元妻の娘でしかないのだ。
「キミも、なかなか波瀾万丈な人生を歩んでるみたいだな」
 恭のその言葉に、ユウコは寂しそうな微笑を浮かべる。

 ハイヤーがゆっくりと停車したのは、その直後だった。
 正面の門は、大屋敷の割に小ぢんまりとした印象だった。
 もっとも、恭からすればレッドカーペットが敷かれていなかっただけで、あとはどうでも良いことである。
 車から降りている途中、門が内側から開かれ、見覚えのある顔が出迎えに現れた。
「鷹取さん、お久しぶりです」
 久しぶりに見る、セバスチャンの笑顔だった。
 ボブカットであった頭髪を、今は耳が半分見えるまでに刈り込んでいる。
 考えてみれば、私服姿を見るのは初めてかもしれない。
 眩しいほど純白のシャツに、黒いチノパンを履いている。
 彼の人間性同様、過分に飾り立てることをせず、しかし清潔感の漂う着こなしだ。
 母を同じくする兄妹は、今も頻繁に連絡を取り合う仲だという。
 そのせいか、特別、再会を喜ぶような様子はなかった。近状報告など改めてする必要すらないのだろう。

「じゃあ、ご案内します。もうお昼の準備もできてますよ」
 セバスはにっこりと笑み、広い邸内を案内し始めた。
 本多家の母屋は、昭和初期にデザインされたという小洒落た洋風の屋敷であった。
 どことなく、先ほど見た東京駅の丸の内側駅舎を彷彿とさせる佇まいである。
 シルエットは全く異なるのだが、赫煉瓦に彩られた上品な壁面がそうした印象を抱かせるのだろう。
 それでいて、周囲に広がる純然たる日本庭園とは不思議な調和をとっている。
 土足で入り込める屋内はといえば、これは廃校寸前の古い小学校のようだった。
 歴史の染みこんだ板張りの廊下は、歩を進める度に軽い軋み音をあげる。

 やがて通された居間とも客間ともしれない大部屋に、ひとりの男性が待っていた。
 恭が入室すると、彼は座っていた革張りのソファから立ち上がった。
 なるほど、セバスのほっそりとしたシャープな顎のラインは父親譲りであったらしい。
 涼しげな目元といい、現在進行形で女性の熱視線を数多く集められそうな容姿の主だった。
 年齢は四十代の半ば前後なのだろう。
 だが、豊かな頭髪とスリムな体型、こざっぱりとした服装などが相まって、十歳近くは若く見える。
「お義父とうさん」
 ユウコが一歩進み出て言った。
「彼が、鷹取恭君です」
「初めまして。この子たちの父、本多慶祐けいゆうです。その節は、息子が本当にお世話になりました」

「鷹取です」
 求められた握手に応じ、恭は短く名乗った。意外に厚みを感じる力強い手だった。
 挨拶が済むと、本多氏はすぐに食堂への移動を提案した。
 これには、腹を空かせていた全員が賛同する。
 本多一族が食堂と呼ぶ部屋は、出入口が五つもある広大な空間であった。
 中央部には長方形の巨大なテーブルが鎮座しており、既に料理をのせた何十という皿が並べられていた。
「聞けば、あの事件のせいで受験に大きな悪影響が出たとかで。本当に申し訳なかったね」
 恭と並んで自分の皿に料理を盛りながら、本多氏が言った。
「本多さんにはなんら責任のないことですよ」
「そう言っていただけると、こちらも気が楽になる。いや、実はもっと早くにお詫びしようと思ってはいたんです。ご両親にも挨拶させて頂きたかったんだが――」
「家族はいません。だから、本当にお気遣いなく」

「えっ?」
 驚いたように声を上げたのは、テーブルの向い側でトングを動かしていたユウコだった。
「梨木君から、おじいさんと暮らしてるって聞いた気がするけど」
「それは古い情報だ。爺ちゃんなら、俺が中学の頃死んだよ。まだ家は残ってるけど……学園都市で寮生活できなけりゃ、俺は施設に入れられてたかもしれない」
 ユウコは目を見開いたまま硬直した。
 近くでセバスも似たり寄ったりの顔をしている。
「俺の話なんてつまらないよ。この家みたいな語るに足る歴史もないしね」
 肩をすくめ、恭は本多氏に視線を転じた。
「外の建物は、幾つか飲食店みたいになってましたね?」
「ああ――」
 軽い咳払いを挟んで、本多氏は頷いた。
「そう、家屋が多いのでね。一部は店舗に改装している。でも、経営は専門家に任せっぱなしだよ。私自身は医師をしているんだ」

「そうなんですか?」
 これはユウコからも聞いていなかった。
「この家は、別宅というのかな。東京で学会やシンポジウムがある時に重宝するから使っているだけでね。月の三分の二は、岩手の本宅にいるんだよ。住民票もあちらにある。代々、北上市で総合病院を経営しているんだ。学園都市にも非常に近い。車で三十分だ」
「じゃあ、本多――ああっと」
 この場には本多しかいなことに気づき、恭は咄嗟に表現を変えた。
「ユウコさんのDD1の治療も?」
「うん」とも「うむ」とも聞こえる言葉で、氏は満足そうに微笑んだ。
「私の病院で診ている。まあ、主治医は専門医を別につけているけれどね」
「知ってるでしょうけど、唯一《ゆういち》兄さんも去年までは岩手にいたのよ」
 それは知っていた。なにしろ、恭の街のコンビニで彼はアルバイトをしていたのだ。
 たかだかアルバイトのために、東京のこの家から岩手まで通っていたとは考えにくい。

「学園都市にある白芳系の大学に入りたかったんです。失敗して、今年は浪人ですけど」
 セバスが恥ずかしそうに顔を伏せた。
 予備校は東京の方が充実しているため、彼はしばらくこちらで生活するつもりだという。
 岩手でやっていたコンビニバイトは辞めたらしい。
「あ、そうだ」と、彼は顔を上げた。
「鷹取さん。僕、辞める時に店長さんにお願いして、 <6→9> で使ってるコーヒーの濃縮原液を譲ってもらったんです」
「なにっ?」
「家庭でも淹れられるそうです。良かったらお土産に持って帰って下さい」
「おお、セバス」
 打ち震えながら言った。
「我が心の友よ……」
 それは恭にとって、リニアより、ハイヤーより、ビュッフェ式のご馳走より、一番嬉しい贈り物となった。



  02

 昼食後、恭はしばらく歓談したあと、本多家をあとにした。
 とは言ってもユウコが一緒であり、これは、本多氏にそう仕立て上げられた結果であった。
 自分では若い人間を退屈させるだけ。せっかく東京に来たのなら、少し街を見物してみたいであろう。
 ――それが彼の言い分だった。
 事前にユウコと打ち合わせていたのか、あの時坂なつき≠フコンサートチケットまで用意されていたのでは、断りようもない。
 わざわざ娘と二人きりにさせたのは、何かを勘違いして、余計な気を回したためか。
 なんであれ、恭はユウコにエスコートされる形で、生まれて初めてのライヴコンサートを体験することになった。
 時坂なつきは本当にアイドルで、本当にマニッシュビーツなるユニットを率いていた。
 もちろん、恭に彼女の歌唱技術やダンステクニックを批評できるほどの素地はない。
 だが、万単位の人間を熱狂させるカリスマ性は認めざるを得ないところだった。
 実際の話、恭はそのステージに、多少の感動さえ覚えたのである。

 他の会場がどうなのか恭は知らなかったが、十八時に開演したマニッシュビーツの宴は、二十時をかなり回った頃、ようやく幕となった。
 あっという間でもあったし、長い時間、周囲の人間と一体となっていたようでもある。
 痺れにも似た不可思議な感覚が、身体の芯近くにまだ残っていた。
 その余韻も抜けぬまま会場から出てみると、辺りはすっかり夜の装いだった。
 濃密な二時間であったせいか、昼から夜にいきなり飛んだような感覚が強かった。
 現金なもので、夜だと認識した途端、恭は魔法から覚めたように自分の空腹を自覚した。
 だが、その点も抜かりがないのが本多一族というものである。
 ユウコと彼女の義父は、夕食の手配も完璧に整えていた。

 空腹を訴えた恭は、コンサート会場近くの高級ホテルに引っ張っていかれた。
 その地下にある、天ぷら専門店が夕餉の場であった。
 ユウコが「本多です」と名乗っただけで店員に通用した辺り、予約を入れていたのであろうことは疑う余地がない。
 天ぷらといえば、恭も山菜のそれをよく食卓に並べる。
 だが、この店のが出してきたのは、同じ天ぷら≠ニいう名の、別の食べ物だった。
 用いる食材、味、衣の質、食感、盛りつけ、器……
 どれもが恭の知らない世界のものだった。
 そしてもちろん、一食当たりの金額も。

「――そういえば、本多さんは天ぷら、大丈夫なのか?」
 白身魚を箸でつまみながら、恭はふと気付いて訊いた。
 天ぷらそのものも大変に美味なのだが、天つゆがまた絶品である。箸に染みこんだ分を吸い取りたいほどだった。
「DD1のことなら、大丈夫よ。こういうちゃんとしたお店の天ぷらは、技術のある職人が上質な油を使って揚げるから、衣がとても薄いの。自然、炭水化物も少なくなるのよ」
 むしろ、食パンや茶碗一杯の白米の方が、自分の病には悪影響を与えるだろう。
 彼女はそう答え、にっこりとする。
「でも、正直、ギリギリかな。だから、できたら食後、少し歩きたいんだけど」
「仮に、そういった運動療法を怠った場合、どんな病状になるんだ?」
「DD1の自覚症状は本当に人それぞれなの。私の場合は、そうね。稀に飛蚊症が出るのが困るな。あと、手足に電気ショックみたいな痛みと痺れが出たりね。時々、それで夜、眠れなくなるくらい。人より疲れやすいし、怪我の治りが極端に悪いのも特徴なの」

 小さな切り傷でも、適切に処理しないと即座に化膿するのだ、と彼女は続けた。
 最終的には組織が壊死し、四肢の切断に繋がる。
 血が指先に通いにくいため、常に悴《かじか》んだような状態でいることも、DD1の辛さの一つであるらしい。
「でも私の場合は、ハムちゃんがいるから何とかなるの。彼女はいつも湯たんぽみたいにあったかくて、にこにこしながら私に体温を分けてくれる、私のため天使なのよ」
 そう語りながら、ユウコは結局、出された天ぷらを全て平らげた。
 一部、衣の分厚い部分を除去することはあったが、ネタ自体は海鮮類や野菜類だ。炭水化物は少ない。
 ただ、一緒に出た白米は、ほとんど椀ごと恭に譲ってくれた。
 彼女と食事をする時、ご飯やパンを代わりに食べるのが恭の役割になりつつある。
 食後、本当なら少しくつろいでいきたいところだったが、夜遅い上、電車の時間もある。
 箸を置いてしばらく、ユウコは「そろそろ行きましょうか」と席を立った。
 彼女は店員にも一言挨拶し、そのままレジに寄ることなく店を出ていく。

 血の気が引く思いを味わったのは恭だ。
 つまり、ここは俺の奢りということか――。
 そう判断し、ふらふらとカウンターに向かう。
 だが、財布の中身がまるで足りないことは分かりきっていた。今の恭の持ち合わせでは、学生食堂の支払いすら際どい。
 こうなったら、得意の土下座と皿洗いで凌ぐ。
 そんな覚悟を半ば決めつつあった時、思いがけず、店員が「お勘定は結構です」と屈託のない笑みを浮かべた。
 そこへ、恭が付いてこないことに気付いたユウコが店内に戻ってくる。
「もう、なにやってるのよ、鷹取君。しばらくひとりで歩いちゃったじゃない」
 腕を取られ、強制的に出口へと連行された。
 背後で、「ありがとうございました」という品の良い声が聞こえた。
「あれは <ダイニング・サーヴィス> なの」
 ホテルを出ると、彼女が歩きながら言った。
「クレジットカード会員の優待特典みたいなもので、カード会社の窓口を通してレストランに予約を入れて貰うものよ。店頭ではカードや身分証の提示も、支払いも必要なくて、料金は後日口座から落としされるの」

「よく分からないけど、ツケみたいなもんか?」
「まさにツケね」
 気が済んだのか、ユウコは全身からふと力を抜いた。
「まったく……」と、思い出し笑いのように吹き出す。「本当に、鷹取君って変な人」
「食後の運動が必要なんだろ? お説教は歩きながら聞くよ」
「うん。駅までの途中に、結構大きな公園があるの。そこを通っていくと距離的にも近道になるし、少し一緒に歩いて欲しいな」
 断る理由は何も無い。恭は歩調を合わせ、ユウコと並んで歩いた。
 彼女の言っていた公園は、本当に目と鼻の先にあった。
 構えの立派なゲートからして、かなりの規模を誇るらしいことは窺い知れる。石造りの瓦斯燈《ガスとう》が印象的だった。

 もう十時近いというのに――あるいはだからこそか、園内には男女の二人連れが散見される。
 ユウコいわく、中心部にはLEDのイルミネーションに彩られた、非常に美しい噴水があるらしい。
 ムードを求めるカップルは、それを目当てに集まっているのだという。
 夜、光に引き寄せられるのは、人間も虫も変わらないということだ。
「この公園、レストランとか、音楽堂なんかもあるのよ。とても歴史があるの」
「詳しいな。本多さんは、こんな都会で生まれ育ったわけか」
「思ってたんだけど、また呼び方、本多さんに戻っちゃったのね? 私も、セバスみたいなあだ名があれば良いんだけど」
「だったら、タコでいいじゃ――」
「それは絶対にイヤ」
 言下の元、ユウコは冷たく言い切った。
「友達のことは、ハムちゃん呼ばわりしているのに?」
 ユウコは心外、というように目を小さく見開いた。
「あれはハムスターに似てるって意味でハムちゃんなのよ。公子の公≠ハとムに分解したわけじゃなくて」

 そうなのか? と答えかけた時、恭は前方に人の集団が佇んでいることに気付いた。
 密集している上、シルエットでしか視認できないため正確な人数は分からない。
 だが、二人や三人でないことは確かだった。
 少なくとも五人。あるいはそれ以上か。
 分かるのは、体格的に全員が男性であろうということだけだ。
 恭の緊張を察知してかユウコも進行方向に目をやり、――そして立ち止まった。
 集団は、比較的ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
 なにか不穏な空気を感じた。
 動きが奇妙に整い過ぎている上、人数が揃っているのに会話の一つも無い。

 悪い予感は、彼らが街灯の下を通り過ぎた時、確信に変わった。
 先頭の一人を除き、全員が革の手袋を着用している。
 スーツ姿にはいかにも似合わない組み合わせだった。
「――鷹取恭さんと、本多夕子さんですね」
 先頭の男は老けて見える二十代か、若く見える四十代かの判別が難しいタイプだった。
 口調は慇懃だが、言葉に感情がまったく乗っていない。
 直感でしかないが、明らかに集団を従える立場にあることが分かる佇まいだった。
 後ろに控える数人の強面たちは、彼ほど感情の抑制が得意ではないらしい。
 ラウンド開始のゴングを待つボクサーさながら、猛禽のような目つきで恭とユウコを凝視している。

「こんな時間に子供が出歩くのは危険です。ちょっと、学習して帰って下さいよ」
 瞬間、集団が二つに割れた。
 四人が恭に、残りの何人かがユウコへ。
「本多さん、逃げろッ」
 夢中で叫んだ。既にユウコの姿は、向かってきた男たちの壁に阻まれ確認できない。
 彼女が何人がかりで襲われているのかも分からなかった。
 集団の規模を考えると、恐らくは一人か二人だろう。
 そうであって欲しい。――そう願うしかない。
 あとは、もう彼女の心配もさせて貰えなかった。
 取り囲もうという男たちの動きに対応し、恭は位置を小刻みに変えた。

 その動きに呼応した一人が、正面右から脇を締めた構えで間合いを詰めて来る。
 ボクシングスタイルの鋭い右ジャブが放たれた。
 まずはスウェーでそれを躱《かわ》す。
 同時、背後に回り込もうとする気配を察知し、恭は真横に身体を流した。
 もちろん、相手も簡単には逃がしてくれない。
 すぐに左側の二人が、同時に仕掛けてきた。
 今度は捌ききれない。咄嗟に判断し、片方の打撃は回避と防御を諦めた。
 ガードを潜り抜けてくる拳を、敢えて額で受ける。
 怯んだら一気に崩されることは分かっていた。歯を食いしばって、逆に前に出る。
 体当たり気味に間合いを詰め、殴ってきた相手の腹部に抉り上げるような拳を入れた。
 ぐらついた相手の顎を頭でかち上げ、右手をフック気味に振り抜いた。
 顎を狙ったが、繰り出した手のひらの付け根は頬骨の下に当たる。
 「うっ」という呻きを上げ、相手が崩れ落ちた。
 その脇を潜り抜けるようにして、恭は素早く包囲網を抜けた。

 誤算だったのは、倒した相手が想像以上にタフであったことだ。
 男は苦痛に喘ぎながらも腕を振り回し、恭のジーンズを一瞬だけその手に掴み取った。
 時間にして一秒にも満たなかったはずだが、その隙を相手が見逃すはずもない。
 わずかにバランスを崩した恭に、残りの三人が殺到した。
 先陣を切って、まずは正面から大きなモーションの拳が振り下ろされてくる。選択肢はなかった。
 やむなく片腕で防いだ瞬間、背中に大きな衝撃が走った。
 肺から大量の酸素が強制的に排出される。
 一瞬、呼吸が止まった。流れの中で、この停滞は致命的だった。
 なんとか一番近くの男に組み付いたが、許された自由はそこまでだった。
 左横から固い靴底が突き出され、恭の脇腹を穿った。さらに背中へもう一撃。
 膝が弛緩し、体重を支えきれなくなった。

 あとはもう、何が何かも分からない殴打の雨だった。
 遠い昔に、良く経験したシチュエーションだ。
 相手がその気になるまで止むことのない、一方的な暴力。
「おう、顔に当てるんじゃねえぞ。一応な」
 ひとり乱闘の外にいた、リーダー格が発した言葉だろうか。
 それは風呂場で聞く自分の鼻歌のように、籠もり、反響して聞こえた。
 不意に、殴打がぴたりと止む。
 砂利を踏みつけ、ゆっくりと歩み寄ってくる足音が聞こえた。
「鷹取さん。月並みで恐縮なんですがね。私らはお願いしに来たんですよ」
 近くでしゃがみ込んだのか、降ってきた声は思いのほか近くに聞こえた。
「首を突っ込むのをやめて下さい。何のことか分からないなら、全部忘れてしまうことをお勧めします。自分の分《ぶん》ってのを弁えて、引くとこは引くのを覚えましょうや」

 恭は何か返そうと思ったが、喉からかすれた雑音が漏れ出しただけだった。
「次は、これだけじゃ済みません」
 男が淡々と続ける。
「私らが真剣だってのを分かって貰うための資料、用意しときましたんで。これ見て、今後の身の振り方、ちょっと考えてみて下さいよ」
 ぱさりと軽い音がした。何か軽い物が、這いつくばった恭の顔に覆い被さってくる。
 ひやりとした感触と、パルプ風の質感が頬に伝わった。
 恐れていた殴る蹴るの再開はなかった。
 先ほどの警告で、やるべきことは完了したということなのか。
 恭は、自分を取り囲む気配が遠ざかり始めたのを感じた。
「鷹取くんッ」
 ほぼ同時、逆方向から悲鳴にも似たユウコの声が近づいてきた。
「あなたたち、待ちなさい!」
 凜と命じる声が響くが、去って行く複数の足音が乱れる様子はない。
 その間、恭はうつ伏せたまま、身体が動くかを慎重に確認した。
 打撃を食らった場所は、早くも熱を帯び始めている。背中には重たい鈍痛。
 左の脇腹には、食らった拳銃の弾丸が体内に残ったような、鋭く大きな痛みがあった。
 いずれも、動かそうとすると気を失いそうなほどの激痛を伝えてくる。

「鷹取君、大丈夫? お願い、しっかりして」
 傍らに駆け寄ってきたユウコが、身体を仰向けに返してくれた。
「ああ。こういうのは慣れてる。だい、じょうぶだ」
 顔にはダメージがないため、思っていた以上に舌はうまく回ってくれた。
「そっち、は」
「私は相手が二人だったから。これも持ってたし」
 と、彼女は右手に握っていた伸縮式警棒をかざして見せた。
 DD1に必要な運動量を確保するため、彼女が剣道だか短棒だかを長年やっていることは以前、聞いていた。
 柔剣道講座で教官と互角に打ち合ったという噂も、司法局員なら誰もが知るところだ。
 その教官というのが、所轄から応援指導に来た男性警官だというから、並ではない。
 剣道の全国大会常連と勝負ができるレヴェルだということだ。

「本多さん、悪い。立ち上がりたいんだ。手を貸してくれるか?」
「動いて平気そう? 救急車を呼んでも良いのよ」
「いや、状況を確認してからだ。どこか、ベンチみたいなのはないか」
 生憎、人気のない小道ということもあり、適当な場所へは少し移動する必要があった。
 恭はユウコの肩を借り、なんとか足を進める。
 動くと、呼吸に引っかかるような不自由さがあった。
 脂汗も止まらず、全身が熱っぽい。
 肋骨《ろっこつ》にヒビが入ったか、あるいは骨折している可能性がありそうだった。
「横になる?」
 ようやく空いたベンチが見つかると、ユウコが気遣うように言った。

「そうだな。でも、電車の時間は――」
「もう。そんなのどうとでもなるわよ」
 彼女は先に座り、自分の膝を叩いた。
「鷹取君。ここ、頭乗せて」
 先回りしてきっぱりと続ける。「医療上の必要性なんだから、拒否はなしよ」
「拒否する。のぼせて頭が回らなくなったら意味がない」
 ユウコは天使のような微笑を見せると、いきなり恭の胸ぐらを鷲掴みにした。
 細腕からは信じられない膂力で恭を強引に引きずり、ベンチに転がす。
 背中に走った激痛で恭がもだえている隙に、彼女はさっさと膝枕の形を完成させていた。
 そして言った。
「なにか言った、鷹取君?」

「なにも言わせて貰えないことが分かった」
「現実を知るというのは良いことね」素直に悪戯を謝った子をそうするように、彼女は恭の頭髪を軽く撫でた。腕力にものを言わされた後では、恐怖しかない。
「ところで、この封筒は?」
 ユウコの手には、暴漢たちが残していったA4サイズの茶封筒があった。
 現場に落ちていることに気付き、拾ってくれていたらしい。
「分からない」
 恭は目を閉じ、ほんの少し首を左右した。
「それよりキミは平気なのか」
「彼ら、私に対しては鷹取君と違う種類の暴行を加えようとしてたみたい。その方がダメージになると思ったんじゃないかな。茂みの中に誘導しようとしてたし」

「助けにいけなくて悪かった」
 恭は、目を見て言った。
「あなたが四人も引き受けてくれたおかげよ。こちらは二人で済んだ。だから勝てた」
「身体が無事なら良い問題じゃない。キミは怖かったはずだし、傷ついてるはずだ」
 ユウコは黙って恭を見詰め、それからハンカチで額の脂汗を拭ってくれた。
「……怖かった」
 彼女が手を止めて囁いた。ハンカチを持つ腕が恭の視界に被さり、その表情を窺い知ることはできない。
 本人も知られたくないはずだった。
「負けた時、自分がどうなるか考えて怖かった。勝つために、人に暴力をふるうことも怖かった。とても」
「確かめに行った時、キミが倒した二人はもういなかったろ」
 恭は手を伸ばして、ハンカチを持つ彼女の腕に触れた。
「逃げられる程度には余裕があったんだ。大した怪我はしてないよ」
「ありがとう」

 ユウコはしばらくの間、恭の手を握り返し、やがて、そっと腕を引いていった。
 再び露わになった彼女の顔は、もういつもと変わらない様子だった。
「きっと、これがジュリィの言ってたものなのね」
「うん?」
「いえ。良いの。それより、鷹取君。あの人たち何者なのかな?」
「分からない。ただ、命令したやつは別にいそうだな」
「私たちの名前を知ってたってことは、この襲撃は前もって計画されていたってことよね。ずって尾行してて、襲うチャンスをうかがってたの?」
「多分な。今日、俺たちが学園都市を離れることを知ってたんだ」
「そうね。あの街で同じことをすれば、コンセラクスに全部録画されてしまう」
「ああ。でも、今日の東京旅行を知っていた人間は限られてる。具体的には誰だ?」

 恭の投げた問いに、ユウコは黙り込んだ。
 その意味の重さを理解したからだろう。
 プライヴェートな話だ。他人に吹聴して回るようなことでもないため、この件を知る人間は少ない。
 すなわち、親しい友人。そして、ジュリィをはじめとした司法局のスタッフ。
 それだけだった。
「司法局から……情報が漏れてる?」
 ユウコが半信半疑、といった声でつぶやいた。
「少なくとも俺は、真っ先にそれを考えた。さっきの奴ら、俺に詮索をやめろって言ってたんだよ。それで思い当たることといえば――」
「例の倉庫街の件を含めた、三人組の失踪事件ね」

「そうだ。それしかない。でも、守秘義務の関係で俺たちはあの件を口外できないし、してない。なら、俺たちと事件との関係性を知っているのは、直接的な関係者に限られる」
「失踪した三人。彼らを消した可能性がある第三者。そして司法局……。三人組本人の可能性はないから、考えられるのは残りの二つね」
「あるいは両方だ」
「私たちを襲うためだけに、簡単にあれだけの人数を揃えられる上、司法局にも情報源や影響力を持つ誰かがいるってこと?」
「そいつは、違法スポットの入手ルートすら持っている可能性がある。見せしめに、不良少年三人を消しちまうことになんら躊躇いのない、力を持った狂人だ」
 救急車を呼ばなかったのは、そのためだった。
 怪我に事件性が見出されれば、医師は警察に通報する。
 警察が事件を認知すれば、学園都市にも連絡がいくだろう。
 学園都市に入った情報は資料化され、即座に司法局にも回覧される。

「脅し入れてきた奴には、俺たちがびびって泣き寝入りしたと思わせておいた方が良い。救急車呼んで、警察に情報がいく可能性を作るのは悪手だ」
「東京にも、義父が関係してる病院が幾つかあるの」
 ユウコが思い出したように言った。
「そこでなら内密に、治療費も気にせず怪我を診て貰えるわ」
「そうか。――ところで、奴らが置いていった封筒はなんだった?」
「ああ、これ」
 ユウコは傍らに置いていたそれを手に取り、開封する。
 中身は、何枚かの分厚い紙だった。
 相当、上等な素材を使っているのだろう。十枚足らずだというのにちょっとしたノート程の厚みがある。
「なにこれ。引き延ばした写真みたいだけど……火事現場かな」
 言いながら、ユウコが一通り眺めたそれを手渡してくる。

 確かに、それは火事現場を撮影した写真であった。
 夜、シャッターを切ったようだが、煌々と燃えさかる炎が光源となり非常に鮮明な画《え》となっていた。
 住居用に改造したトレーラーと、寄り添うようにして立つ小さな納屋が被写体だ。
 ガソリンでも大量にまき散らしたのだろう。
 全体が完全に紅蓮の炎に包まれ、消火が行われても、既に手遅れであることは明白だった。
 現に最後の一枚には、鎮火後、ただの炭クズと化した被写体の無残な姿が収められていた。
 恭は息を吐くと、無言で目を閉じた。
 写真を持った右手を、だらりと垂らす。
 指先から零れ落ちた写真の束が、ベンチの足下に滑りながら散らばっていった。

「鷹取君? どうしたの。大丈夫?」
 恭は答えなかった。
 声はもちろん聞こえていたが、頭には何も届いていなかった。
 完全に思考が停止していた。
 あれが何の写真であったのか、ユウコが理解できなかったのもしかたがない。
 彼女は知らないのである。だから、あれは恭に渡されたのだ。
 意味と必然性を理解し、彼らは恭を選んだのである。
 写真にあったのは、つい先月まで恭が暮らしていた場所であり、帰るべき場所だった。
 これまでの人生全てが染みつき、詰め込まれた、鷹取恭にとっての唯一の家だった。


to be continued...
つづく
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