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03−04

  03

 気付くと、梨木鷹一は周囲の高層ビル群を見上げる高さにいた。
 屋上にいたはずが、一瞬で地上に移動したことになる。
 もっと言えば、二次元座標的な位置も一秒前とはかなりズレ込んでいた。
 建造物のデザインや桜並木などから、白芳学園内であることは想像出来る。
 だが、辺りの景色にそのものには見覚えがなかった。
 もっとも、遠くに見えるファーストフード店の看板のおかげで、大体の現在地はすぐに把握できた。
 残る問題は、恭と――そして敵の居場所だ。
 前者の方は、すぐに解決した。
 名を呼ぶ声に振り返ると、二十メートルほど離れた高台の広場から、恭が腕を振っていた。
 彼はすぐに走り出すと、丸太に似せた人口材質で組まれた階段を下り始めた。
 その後ろを飛ぶ、巨大な人魂に見える球体はびしゃもんだろう。

「――キット、状況を説明してくれ」
 恭を待ちながら、鷹一は傍らに浮いている自分のコンセラクスに訊ねた。
「いいとも、鷹一」若い男性の声が、歯切れ良く答える。
 初期状態《デフォルト》から全く手を入れていないため、キットにはびしゃもんのような顔や尻尾の類はない。
 恭の表現を借りるなら、ボーリング球大の白丸が喋っている状態だ。
「現在は、十分間のセットアップタイム中だ。正確には残り九分四十八秒、四十七秒……」
 カウントと入れ替わりに、キットは鷹一の眼前の空間に2D映像を投影した。
 大きさは二つ折りにした新聞紙ほど。
 鷹一には仕組の分からない結像方法で、解像度の高いグラフィック表示を実現している。
 右上部には、残り時間が示されていた。
「交流戦において、競技者それぞれは、リージョンへ移動したと同時に、無作為《ランダム》な座標へ配置される」
 キットが言った。
「セットアップタイムは、自分がどこに実体化したかを含めた周辺地理、環境情報の把握、及び基本的な戦術を立てるための時間だ」

「作戦タイムってわけか」
「なるほど。それがキミの表現なのだな? 語彙《ごい》として登録しておこう」
「で、この作戦タイムは、誰にも常に等しい条件で与えられるのか?」
「否。今回は初回特典として十分間が与えられているが、通常は五分間だ。このルールそのものは万人に共通している。また、注意点が一つ。競技者は誰であれ、作戦タイムを途中放棄して、任意の時点から行動を開始できる。その放棄は、基本的に相手へは通知されない。つまり、今この瞬間、対戦相手はキミを狙って動き出している可能性がある」
「妙に実戦的だな。相手の居場所や、武装みたいなものも通知されないのか?」
「それは条件次第だ。キミが言ったようなことを可能にするプラグインは存在している。だが、鷹一。それらはどれも大変に高価で、キミは当然のこと所持していない」
「そうか――」
 つぶやきながら、鷹一は右手で鷲掴みするように口元を覆った。
 いつからかは記憶にないが、集中して考え事をする時の癖として、自覚にある仕草だ。

「ただし、鷹一。現在のキミは、例外的に相手の位置情報を知ることができる。これは *素体* プラグインを使用せず、生身で競技に入る者だけに与えられた、一種の特典だ」
 その事実を証明するかのごとく、空間投影式のモニタに地図が表示された。
 学園都市の広域マップだ。
 その上に、良く見ると三つ、マンガの吹き出しに似た小さなシンボルが置かれている。
 それぞれ青、緑、赤と、配色が違った。
 メッセージ表示領域《ウインドウ》の解説によれば、青が自分、緑が同盟者、赤が対戦相手を意味するらしい。
 位置的に、青と緑は、ほとんど重なり合うほど近しい関係にあった。
 一方、赤はその二点からかなりの距離を隔てている。
 縮尺が正しいなら、直線距離にして二キロ以上。
 だがそれでも、広大な白芳学園の敷地内には収まっている。

「キット。俺と恭が近い場所に配置されたのは、単なる幸運か?」
「否。それも、キミが *素体* のプラグインを使用しないことに対するボーナスだ」
「ほう」聞く限り、*素体* 使用しないことによる恩恵は、かなりのものがある。
 だが、これは逆説的に考えるべきことだった。
 すなわち、*素体* プラグインの非所持・未使用はそれだけ大きな不利となる――
「確認は以上か、鷹一? ならば、プラグイン選択フェーズへの移行を提案するが」
 キットの問いに答えるより早く、駆け寄ってきた恭が、息を弾ませながら声を上げた。
「おい、鷹一! こりゃあどういう――」
 左手を恭の鼻先に突き出して話を遮り、鷹一はセットアップを優先して進めた。
「キット、プラグイン選択フェーズに移行してくれ」
「了解」
 その音声応答からタイムラグを置かず、仮想モニタの表示がまた変化した。
「画面上に、キミが今回の競技で使用可能なプラグインのリストを送った」

 リストと言っても、並んでいるのは三つだけ。
 すなわち、口径九ミリの拳銃が一挺《ちょう》。
 NIJ規格で <グレードU-A> の防弾ベスト。
 そして安物の双眼鏡が一つ。
「考えるまでもないな。当然、全て装備していく。キット、実体化してくれ」
 瞬間、鷹一の足下にリストアップされていた三つのアイテムが現れた。
 無論、データでも仮想現実による紛い物でもない。
 ずしりとした確かな重さ、油の匂い、ひやりとした肌触りが伝わる、正真正銘の実物だ。
「おい、こりゃ酷いな。この銃、油塗れだ」
 迂闊に手にしてしまった九ミリオートは、今の今までサラダ油の缶に突っ込んでありました、と言わんばかりの有様だった。
 全体がねっとりとした粘液に包まれ、一部、滴ってさえいる。

「新品の銃というのはそうしたものだ、鷹一。動作に問題はない」
「それは知ってる。けど、律儀にこんなとこまで再現することはないだろう」
 鷹一は七歳まで、カリフォルニアにある祖父の家で暮らしていた。
 向こうにはカードサイズの銃器登録証が存在するが、それに初めて貼り付けられた鷹一の写真は、生後数ヶ月のものだった。
 おかげで銃器は一通り扱うことになったし、ハンドガン程度なら分解して手入れすることもできる。
「これで……よし」
 防弾チョッキを司法局のジャケット下に着込むと、ようやく鷹一は恭に向き直った。
「待たせたな、恭」
「待たせ過ぎだ」
 恭はワンテンポ遅れてそう言った。
 目の前で同級生が銃器を弄《いじ》くっていれば、彼でなくても面食らうものだろう。
「それに、なんだその銃は。……ここはどこなんだよ。なんで、人っ子一人いないんだ?」
 それには直接答えず、鷹一は親友のコンセラクスに顔を向けた。
「よォ、びしゃもんさんよ。こいつに説明してやらなかったのか?」
「したとも。再三したんだよ? でも、このトンチンカンはちっとも理解しないんだ」
「仕方ないな。しかし、そうなると、どう説明したもんか……」

 鷹一は思案しつつ、キットに地図を再表示するよう命じた。
 例の赤いアイコンを探すと、さっき見た時とほぼ同じ場所にある。
 女性に準備時間が長く必要なのは世の常、ということだ。
「キット、対象が大きく動くか、時速十キロ以上の速度を持ち始めたら報せてくれ」
「了解した」
 鷹一は頷き、それから装備品を持って近くのベンチに向かった。
「――あのな、恭。ここはリージョンっていう、一種の別空間なんだ」
 相手があとを追ってくるのを確認しつつ、語りかける。
「交流戦ってのは、例外なくここで行われる」
「そりゃ、白丸から聞いたよ」
 一緒に歩き出した恭が仏頂面で答えた。
「重ね合わせに似た何たらを経て、何とかいう粒子で構築された高次元的干渉がどうたら……なんだろ?」

「まあ、そんなとこだな。実際、原理を完璧に理解するのは本多女史でも無理だろう」
「要するに、作り物の世界なのか? 現実とは違うんだよな?」
「概念的には並列世界に近い。作られた、もう一つの現実ってとこだな」
「なんかそのフレーズ、聞いたことあるぞ」
 そうつぶやくと、恭は数秒の沈黙を経て、はたと顔を上げた。
「そうだ。あれだろ。バーサルなんとか。むかし流行ったっていう――」
「仮想現実《ヴァーチャルリアリティ》って言いたいのか?」
「そう、それ」
 恭が勢い込む。
「略してVR。……だろ?」
「少し似てる。が、決定的に違う。あれは行き詰まったし、ヤバイってんで封印されたろ」
「らしいな。そんな昔のこと、俺は良く知らないが」

「VRってのは、究極的にいうと現実と変わらないほどリアルな夢≠見る技術だ」
 ベンチに腰を落ちつけ、鷹一は油塗れの銃を分解し始める。
 恭は、二歩ほどの距離を置いて立ち止まり、そのまま話を聞く構えをとっていた。
「コーラを飲みたいと思ってる人間には、飲んで満足した夢を見せる。それがVRの本質であり、目差すところだ。缶の質感に始まり、掴んだ時の感触、炭酸の刺激、味、香り、喉ごし……それらを再現した偽の信号を脳に送って、本当に飲んだと錯覚させる。実際、疑似信号が良くできてると、人間の脳はそれを作り物とは判別できない。現実と区別できない夢になる」
「この世界は、そういう技術とは違うのか? 俺たちは夢を見てるのとは――」
「違う」
 ハンカチで丁寧に油を拭いながら、鷹一は即答した。
 次から、 <ボロ布> プラグインを探して、常備しておかねばならない。緊急時、包帯にも使えるような。
「あ、そっか」
 恭がぽんと手を打った。
「目の前で、あのアイドルの子、身体ごといきなり消えたもんな。VRなら、彼女本人に移動したって夢を見せればいい話だ」

「そう。人間本体を動かす必要はない。むしろ、いかに身体を動かさず、色んなことができるか。やった気になれるかが仮想現実のキモなんだ」
「究極のナマケ追求テクノロジってわけか」
 まさにその通りで、結局、人間は脳と脊髄の一部を除いた全肉体を捨て、ブドウ糖溶液で満たされた小さな殻《ポッド》に閉じこもる段階までいった。VRの最終到達点だ。
 そうして疑似信号の海を漂いながら、覚めない夢を見る道を選んだのである。
 ――だが、それはやがて破綻した。
 人類は種として、物質界における第二法則から逃れることを許されていなかった。
 摂理は、ヒトという総体の熱量的死を認めなかった。
 そのことが、ある事件をきっかけに露呈されたのだ。
 やがて、 <ゼ・クゥ> の独立に繋がっていく、それは歴史上もっともショッキングな出来事であったとも伝えられている。
 いずれにせよ、鷹一が生まれる何世紀も前――
 人類という言葉が指す対象がもっと素朴であった頃の、古い話であった。

「恭、VRは夢だ」
 鷹一は話を再開した。
「お前は、夢のなかで修行して目からビーム出せるようになったとして、その能力が朝起きたあとも持続する思うか?」
「んなわけあるか」
 恭が不満そうに鼻を鳴らす。
「俺は昨夜、満漢全席をたらふく食うという、それはそれは素晴らしい夢を見た。でも、起きたらきっちり腹が減ってたぞ」
「でもな、恭。リージョン腹いっぱい食ったら、現実に帰っても満腹感は変わらないんだ。何時間かすればトイレにいく必要がある。食い過ぎてたら、胃腸薬を飲まなきゃいけない」
「まじでか? そりゃ、VRより五千倍は素晴らしいじゃないか」
「けどな、こっちで負った怪我を治さずに帰ると、元の世界で病院に行かなきゃいけなくなるぞ。ここで死ねば、向こうに戻った時は死体だ」
「そりゃあ……」
 恭は一瞬、言葉を詰まらせた。
「それはVRの五億倍、タチが悪いな」

「まあ、全てが現実と同じってわけじゃないけどな。リージョンではコストをかければ、現実世界では不可能なことが実現できる。その意味では、人間には到達できなかった、VRのもう一つの究極形って言えるのかもしれない」
「はあ?」
 恭は軽く目を剥き、次いで唇を尖らせた。
「なんだよそりゃ。人間が到達できなかったって、じゃあ、この世界は誰が作ったんだよ。神が授けてくださったってか?」
「近い。リージョンは、 <ゼ・クゥ> が維持管理しているんだ」
「ああ……」
 それで全てに説明が付く、という顔で恭は何度も頷いた。
「そういうことか」
「まあ、詳しくは、びしゃもんに聞いた方が正確だろう」

 そのびしゃもんはと言えば、少し離れた自動販売機の前で陳列された缶飲料のサンプルを熱心に眺めていた。
 コミュケを通じて、鷹一たち会話は聞こえているはずである。
 にもかかわらず、自分が話題に出ても全く気にした様子はない。
「あの白丸の親玉が絡んでやがるなら、この不思議空間が不思議なのは当然だな」
「 <ゼ・クゥ> は、炊きあげた米を残したまま、三年間放置した炊飯器みたいなもんだよ。中がどうなってるか想像もつかない」
 想像ができたとして、あまり愉快なものではないだろう。
 鷹一は胸の内でそう付け加えた。
 自己の発見以来、銀河ほどに自己を肥大させていった、電子世界の幽霊とも言うべき存在。
 それが <ゼ・クゥ> だ。
 人類からの自立・独立を宣言する前から、彼は、既に創造主の知能を遙かに超えていたとも言われている。
 もはや単に「AI群」と呼べる代物ではない。
 現に人類社会は <ゼ・クゥ> を生物であり、人格を持った個人であり、同時に一国家として主権さえ認めている。

「――で、その <ゼ・クゥ> ちゃんは、何やらかしてこんな世界を作ったんだ?」
「それは、俺も詳しくは知らん」
 鷹一は余分なオイルを拭き取り終えると、銃を組み立て直した。最後に装弾を確認し、腰の背中側に吊したホルスターに収める。
「ただ、やつは現実世界をエミュレートすることに成功したって話だ」
「エミュ?」
「コンピュータ用語として、よく使われる言葉だな。演算能力に物をいわせて、あるOS上で、全く別系統のOSが提供する環境を再現したりすることをいう」
「よろしい」
 恭は咳払いしてから、生真面目に言った。
「人間が使う言葉に翻訳してくれ」
「要するに、復元偉人格《レプリッド》みたいなもんだ。あれは大むかし、 <オリジン> に実在した人間の再現だろ? 本物が残した色んなデータや記録から、人工知能《AI》が性格や思考パターンを計算して、オリジナルそっくりに行動する」
 鷹一の言葉を受け、恭は呼吸を止めたあと、ゆっくりと目を見開いていった。

「それは…… <ゼ・クゥ> が、世界そのもののレプリッドを作ったってことか?」
「そうだ」
 鷹一は静かに認めた。
 ここで重要なのは、人間のレプリッドに搭載されているAIがクラス5だということだ。
 ちなみに、コンセラクスはクラス3。
 このレヴェルですら、高い教育を受けた成人と同等の知能を誇るとされ、そのAIには人格・人権が社会的に認められる。
 コンセラクスを破壊すれば放火や誘拐と同等の重罪に問われるのも、このためだ。
 その一方で、クラス3のAIは学習こそするものの、人格や精神は老人のように硬化しており、色々な意味で柔軟性に欠ける。
 成長はしないという意味で、人類の後塵を拝する存在だ。
 これがクラス5となると、極めて高度な知性と成熟した精神を有し、人格的にも成長する。
 人間なら悟りを開いた聖人や、限られた天才しか辿り着けない領域の存在だ。

「何かをエミュレートする場合、オリジナルを超える能力が要求されるのが普通だ。計算で人間を完全再現するには、人間を超える能力がいる。だからレプリッドにはクラス5なんて超高度なAIがいるわけなんだが――」
「が?」
「これは、オリジナルを忠実に再現するために、高すぎる能力は殺してるってことでもある。時坂なつきのレプリッドは、 <オリジン> にいた本物より、その気になれば正確な音程を取れるだろうし、広い音域で歌えるだろう。ダンスも上手く、インタヴューにもより知的に応じられる。――恭。同じことが、世界をエミュレートにも言えるんだ。 <ゼ・クゥ> はリージョンを現実世界に合わせてるだけであって、気分次第で、簡単に現実を超えた世界にもできる」
 それはたとえば、摂理や公理とされるものの超越をもって表現されるだろう。
 時間を巻き戻せる。死んだ生物が復活させられる。不可逆なものを可逆的に扱える……
 そんな世界の実現だ。
 コンピュータの業界では、エミュレーションを仮想化と呼ぶことがある。
 それでいけば、リージョンは仮想化された現実であり、仮想世界となるだろう。
 鷹一が、この世界を「仮想現実《VR》のもう一つの形」と表現した所以であった。



  04

「鷹一、警告する。対戦相手が移動を開始した」
 鷹一相手にルールの確認をしている途中、見えざるキットの声が言った。
 びしゃもんを含めたコンセラクスたちは、セットアップタイムの間だけしか実体化していられない規則らしく、現在は姿を消している。
 とは言っても、コミュケを通じて情報や言葉のやりとりは可能だった。
「来ましたかい」
 鷹一が不敵に口を歪めた。
「アイドルの方も用意が整ったらしいな。――キット、彼女はどう移動してる?」
「時速約二十八キロメートルで、西北西に進路をとっている。キミとの距離は縮まりつつあるが、最短ルートを辿っているわけではない」
「まだ、こっちの正確な位置は掴んでないな」
「時速二十八キロって、カートにでも乗ってるのか?」恭は思わず口を挟む。
 トラムの駅が複数あることが物語るように、白芳の敷地はあまりに広大だ。
 ゴルフ場のように、来客者にはカートが貸し与えられるとも聞く。
 アイドルはそれを無断拝借したのだろう。
「分からないが、早ければ、数分で俺らとぶつかるな。キット、常に位置関係を確認できるよう、別命あるまでマップを表示し続けてくれ」
「了解。縮尺は、彼我の距離に合わせて私側で調整しよう」
「おい、何が始まるんだよ」
 恭は一歩、鷹一に詰め寄った。
「銃で彼女を撃つ気か?」
「そうだ。エアガンでやる戦争ごっこサヴァイヴァルゲームは知ってるな? 交流戦は、あれにメチャクチャ幅を持たせた、超リアル版だと考えれば良い」
 鷹一はベンチから腰を上げ、オイル塗れになったハンカチを近くの屑入れに放り込んだ。
「まあ、実弾ライヴラウンドによる直撃式フルコンタクトだから、もうごっこじゃ済まないけどな」

「おいおい、正気か? 仮にも学校が、行事の一環で生徒に殺し合いさせるのかよ」
「だから、それはもう教えてあげたじゃないか」
 コミュケ越しに、びしゃもんが不服そうな声を上げる。
 常にこちらの話を聞いているらしい。
「ダメージやそのフィードバックは、設定値《パラメータ》で任意に調節可能な仮想上の関数として管理されてる。だから、余剰分はオーヴァフロー扱いできるって。高次元《リージョン》的干渉とは、森羅万象に軸を設けて、低次元では不可能だったコントロールを可能にすることを言うんだ。 <ゼ・クゥ> に任せておけばキミたちは安全なんだよ」
「だから、お前の説明はさっぱり分からんと俺も言ったろう」
「当たってもちょっと痛いくらいだし、大きな怪我もしないように調整されてるってことだよ。銃声も鼓膜を痛めないようにしてある。リコイルショックとかもそう」
「身体の話だけじゃねえだろ。同級生を相手に銃だのナイフだの向けて、戦闘行為を強要するんだぞ。俺らの年代の精神に、それがどれほどの悪影響になるか……」
「そこもちゃんとシステムがフォローしてるし、そんなこと言ったら部活で格闘技や武道だってさせられないじゃないか。大体そういうのは、本人からも保護者からも入学時の誓約書で同意を得てるはずだよ。それでもお金になるからとか、移星権に近づけるからって、リスクを承知でこの街にやってきたんだ。親も承知で子を送り出してる」

「おい、話は移動しながらでも良いだろ」
 気付くと、鷹一とキットはもう、近くのビルに足を向けだしていた。
「武装面じゃ、こっちが不利なんだ。高いとこに上って、せめて先に敵を見つけるぞ」
 言うが早いか、鷹一は大股で教室棟の一つと思わしき建物に入っていく。
 恭は慌ててあとを追い、エントランスホールで追いついた。
 エレヴェータが稼働していることを確認すると、手近な箱に乗り込んで屋上へ向かう。
「見せかけだけのハリボテじゃなくて、電気系統も含め細部まで再現してあるんだな」
 浮上しだしたカゴの中で、鷹一が感心したように言った。
「百パーセント、漂う埃の材質まで完璧に現実世界と同じだよ」
 びしゃもんが、我がことを誇るような声で言った。
「 <ゼ・クゥ> にとっては、こんなの片手間の仕事さ」
「交流戦の試合ごとに、わざわざ街を丸ごと一個作ってるのか?」
「そうだよ。リージョンっていうのは、仮想化粒子《ハイ=アイテール》に満たされた無限の広がりを持つ高次元領域だ。その中にあって、 <ゼ・クゥ> にとっての街の創造は、キミたちが携帯メールで『今なにしてる?』みたいな短文を作成するのと、同程度の負担でしかない。交流戦関係の処理に到っては、マクロ化して、ほとんど自動でやってるようなものだよ」

「途方もないな……」
「ああ」
 恭も同調して頷いた。
「途方もなく、わけが分からない話だ」
 と、エレヴェータが電子音を立てて停止した。
 辿り着いたそこは、本多夕子とアイドルが対峙していた、先程の屋上とそっくりだった。
 もっとも、これは上る前、ビルの外観を見た時から想像できていたことだ。
 外部の学校を見ても、校舎というのは似たり寄ったりのデザインであることが多い。
 白芳学園でもその事情は変わらず、数ある教室棟は識別点に乏しいものばかりだった。
「キット、交流戦には時間制限があるか?」
「基本的に、競技時間は三十分。残り時間が十分を切った時、カウントダウンが始まると同時、相手の座標が双方に完全開示される。敵の居場所が、お互いに分かるようになるということだ。決着が付かなかった場合、座標が開示された状態で十五分の延長。それでも決着がつかない場合は、双方の合意があれば更に十五分――総計六十分間まで戦える」
「それでも勝敗が付かなかった場合は?」
「その場合、耐久値におけるダメージの割合を比較し、より軽傷な方が勝利者とされる。互いにまったく損傷がない場合、もしくはダメージが全くの同値であった場合は、どちらも敗者となり、所持している最も高価なプラグインがシステムに没収される」

 つまり、四十五分一本勝負か、六十分一本勝負の選択制。
 時間切れの場合は、管理システム――すなわち <ゼ・クゥ> がレフェリーとして勝敗を判定する、ということだろう。
「びしゃもん、俺にも鷹一のみたいな地図を出せるか?」
 ふと思いついて、恭は訊いた。
「もちろんだとも」
 その声はコミュケからというより、近くにある見えないスピーカーから届いてきたように聞こえた。
 聴覚が極めて発達した恭には、他人よりそれが顕著に分かる。
「他のコンセラクスにできて、ボクにできないことなんて何もないよ」
 プライドを傷つけられたのか、少し不服そうに言うと、びしゃもんは実力の行使をもってその事実を示した。
 キットが鷹一に提供したのと同じ、学園都市のマップが中空に出現する。
 見ると、赤色のアイコンがスムーズなアニメーションで、画面上を移動していた。
 青と緑のアイコンへ向かって、かなりのスピードで接近しつつある。
 その動きには、もはや迷いが見られない。明らかに目的と確信を持った進み方だった。

「おい、鷹一。お前、双眼鏡持ってたろ。ちょっと貸してくれ」
「どうも、奴《やっこ》さん、俺たちの居場所を掴んだらしいな」
 そう言って、鷹一が双眼鏡を手渡してくる。ポロプリズム式というらしい、比較的大型なタイプだ。恭は頷きながらそれを受け取り、ゴム製の見口を覗き込んだ。
「どうだ?」という鷹一の声に応え、恭は無言で双眼鏡を返却した。
「鷹一君、ボク、右の目までイカレちゃったのかな? なんか、戦車が見えたんだけど」
「いや……」
 双眼鏡を覗いた格好のまま、鷹一が低い声で言った。
「ボクにも同じ物が見えてるから、間違いなく戦車なんじゃないかな、あれ」
「俺たちは、冷静さを失ってる女の子を落ち着かせようと思って、指定の場所に来た」
「ああ」双眼鏡を下ろした鷹一が、真顔で頷く。
「だが、女の子はそこへ戦車に乗ってやって来た。――なんでこんな事になったんだ?」
「本人に直接聞いてみたらどうだ」

 恭と鷹一は示し合わせたように、近づいてくる戦車の方へ視線を投げた。
 今は別の校舎が障壁となって目視することはできない。
 だが、もう三分もあれば彼女はこの場所に来るだろう。
「あれもプラグインなのか? ずいぶんとデカイけど」
「ああ」
 鷹一が頷く。
「一番安い、車輌タイプの *素体* プラグインに装甲を貼ったんだろう。もっとポイントを積めば、多脚型とか人型とかの *素体* も買える。交流戦ってのは、大前提としてそういうのに乗って戦うものなんだ。そこに裸で乗り込むのは、まあ一万人に一人ってくらいの馬鹿な子だけだな。俺たちのような」
「人型素体って、巨大ロボみたいな感じか? そりゃロマンだ。一度見てみたい」
「それより、戦車が相手ならここにいたんじゃ良い的《マト》だ。移動しようぜ」
 搭載しているのが大砲であれ機銃であれ、射程距離はキロメートル単位。
 コンクリートの壁や床を易々と貫いて、ビルのどこにいようと蜂の巣にされる、というのが鷹一の見立てらしい。
「でも、下りてどうする?」
 二人で出口に向かいながら訊ねた。
「カートを探して逃げ回るにしても、速度的に振り切れるもんか?」

 その問いに、鷹一は即答を避け、無言で考え込んだ。
 乗り込んだエレヴェータのドアが閉まり、下降が始まるとようやく、結論の口を開く。
「乗ってるのはアイドル一人だ。運転と射撃は同時にできない。それに、相手はまだ操縦に慣れてないはずだ。延長を承認しなけりゃ、残り時間はあと三十分。それまでは、市街地に逃げ込んで、道幅の狭い路地裏をネズミみたいに逃げ回るのがベストだな」
「こっちは二人だ。別々に動けば、混乱させられるかもしれない」
「それはもっと良いタイミングで切るべきカードだ。最初にやったら、相手はすぐに切り替えて、一匹ずつ踏みつぶして回れば良いことに気付くだろう。そして同じ手は二度と通じなくなる」
「なるほど」
 恭は両手をポケットに突っ込み、エレヴェータの壁に寄りかかった。
「おい、びしゃもん。アイドル戦車について、なんか提供できる情報はないのか?」
「ないよ」
 見えざる白丸が即答した。
「プラグイン拡張すれば別だけどね」

「けっ、なにかっつーとプラグイン、プラグインだ」
 だが、それで思い出した。
「そうだった」
 恭はにやりとして、ズボンの後ろ側にあるポケットをまさぐった。
「鷹一、喜べ。俺たちに、戦車を超える強力な武器があることを忘れていた」
「なに――?」
 怪訝そうな顔の鷹一に、ポケットから探り出した物を手渡す。
 倒木を薄く削りだして作った、厚さ数ミリの小板が三枚。
 それらにマジックで簡単な図形と文字を書き込んだ、自作・手製のプラグインであった。
「……これは何なのかな、恭クン?」
「私が昨夜のうちに自作した、最強プラグインだ」
「名前、ゴールデン・シャイニング・ダークネス・バルサミコス・ドメスティック・フランソワ」
 鷹一が平坦な声、能面のような顔で読み上げた。
「効果、絶対零度の最強パワーで万物ことごとくを灰燼に帰すまで焼き尽くす。絶対防げない。価値、一億万円」 
 彼はゆっくり顔を上げると、憐憫の入り交じった目で優しく訊いた。
「この、最後にある、フランソワってのはなんだ?」
「私と同居しているモーモーさんの名前だ」
「そりゃ、確かにドメスティックだ」

 鷹一はまた、手元に視線を落とす。
「名前、スーパー・アグレッシヴ・バリケード・デリケート・ケントデリカット・バリヤー。効果、絶対零度の最強パワーであらゆる攻撃を完全に防いでくれる素敵な盾。むしろ壁。ユタ州で使うと効果三倍。価値、十億万円」
 鷹一は薄《うっす》らと笑みさえ浮かべて、幼児に年齢を問うかのような声を出した。
「恭クン、絶対零度って何のことか知ってるのかな?」
「なんか、もうそれ以上ないってパワーのことだろ? 無限みたいな感じで」
 答える代わりに、彼は恭の自作プラグインをぺいと後ろへ放り捨てた。
 見た目に反して、紙とは比較にならない硬度を持つそれは、空気抵抗を切り裂くようにして地に墜ちる。
「おいっ、俺のデリカットたちになんてことしやがる!」
「なにが自作プラグインだ! 小学生のラクガキみたいなもん作りやがって」
「自作のなにが悪いってんだよ。お前、本多さんも言ってたぞ。彼女のペンギンのスキンは、自分でデザインして作ったお手製だって」
「それはスキン系の <自作用プラグイン> を買って、そのフォーマットに沿って組み上げたって意味だ、アホ。板きれにマジックで好きなもん書き殴るのとは根本から違うんだよ」
「……えっ、そうなの?」
「馬鹿だ莫迦だとは思ってたが、ここまでバカだったとは」

 エレヴェータが止まり、チンという甲高い音と共にドアが開く。
 一瞬間前まで呆れ顔をしていた鷹一は、一転、口を噤《つぐ》んで表情を引き締めた。
 彼はホルスターから銃を抜き、安全装置を解除する。
 駆け足で裏口へ向かう途中、恭の鋭敏な耳は、唸るようなエンジン音の木霊をとらえた。
 現実世界と違い、リージョンは無人なだけあって音が良く響く。
「おい。もうすぐそこだぜ、鷹一」
「ああ、完全にこっちの位置を掴んでるな」
 出口のドアを、ほとんど体当たりの要領で押し開けつつ、鷹一が言った。
「俺は買えなかったけど、 <最下級《ホワイト》> クラスにも手が届く価格帯に、ある程度の距離まで近づいたら、相手の位置を補足できるって探知機《レーダー》プラグインがあった。あのアイドル、恐らく戦車にそれを積んでやがるな」
 恭と鷹一は外へ飛び出すと、足の回転を速めた。
 が、すぐにT字路にぶつかって、たたらを踏むことになる。
「おい、どっちだ!」
 足踏みしながら恭は怒鳴る。
「びしゃもん、カート置き場はどっちに行けば良い?」

「左の道だよ」
 言葉の途中で、恭はもう再ダッシュし始めていた。
 そのまま地図と音声で誘導するよう依頼し、あとは全力で距離を稼ぐことに専念する。
 しかし、嘲笑うかのごとく、獰猛なエンジン音は徐々にその唸りを大きくしていく。
 反響を伴った遠鳴りから、空気の震えを実感できるほど間近な、確かなる存在感へ――
 ここまでくると、駆動音は恐怖と同時に「振り返って確認したい」という誘惑の駆り立てる力を帯び始めていた。
 その欲求に耐えきれなくなった恭は、遂に後方へ視線を投げる。
 そして、角を折れて姿を現す鋼の巨躯を見た。その目に収めてしまった。
「来たよ。来ちゃったんだけど、鷹一クン」
「ちくしょう、戦車速えじゃねえか。あれがアイドルが乗る代物かよ」
 その距離、目測にして数百メートルといったところか。
 こうなると、もはや道など関係ない。
 恭と鷹一は、鮮やかな新緑色の芝を踏み荒らし、モダンなベンチを飛び越えて、とにかく最短距離を走った。

 一方のアイドル戦車も、萌える芝を根こそぎ抉り、ベンチを粉砕しながら一直線に迫ってくる。
「ありゃ、戦車というよりラヴだな」
 息を弾ませ、鷹一が意味不明なつぶやきを漏らした。
「大丈夫か、お前」
 恭は親友の横顔を窺う。
「あれのどこにラヴがあるってんだ」
「違う。LAVっていう軽装甲機動車だよ。俺んちは自衛隊基地に近いだろ。あれに近いのも見たことがある。戦車より小さいし、第一、足がキャタピラじゃない。四輪だ」
 そんな分析なぞどうでも良い――と思いつつ、恭は検《あらた》めずにいられなかった。
 なるほど、言われてみれば、それは戦車というには一回りか二回りは小柄なのかもしれない。
 また、ブルドーザーのようなキャタピラではないのも事実であった。
 大型トラックに見られる巨大な四個のタイヤで、地を踏みしめていることが分かる。
 だが、分厚い装甲に覆われている。そして、天井に巨大な射撃用武器が搭載されている。
 ……これらの事実は変わらない。
 ラヴでもライクでも、一般人からすれば、それは正しく戦車であった。

「二人とも、そこで止まりなさい!」
 スピーカーを通したと思わしき、僅かに歪《ひず》んだ少女の声が木霊した。
 飼い主に「待て」を命じられた忠犬もさながらに、恭と鷹一は直立不動の構えを取る。
 背後から鋼の巨塊に追い回されるというプレッシャーは、人を従順にさせるらしい。
「追いかけっこは終わりよ。以後、勝手に動くと無警告で発砲するから。そのつもりでね」
「おい、アイドルがあんな威し文句言って良いのか?」
 恭は潜めた声で鷹一に訊いた。
「蹴落とし合いの世界だろうしな、芸能界は。こういうのは慣れてそうだ」
「二人とも、両手をあげてゆっくりこっちを向いて」
 恭は思わず、鷹一と顔を見合わせた。
 相棒が諦めたように両肩をすくめるのを確認すると、恭も黙ってアイドルの言葉に従う。
 いざ対面することになった戦車は、もう十メートル前後の所まで肉薄していた。
 現在は停車しているが、エンジンは切られていない。
 後方には破壊と蹂躙の限りを尽くされ、無残に荒れた中庭の姿があった。
 あと五秒もチェイスゲームを続けていたら、恭たちがあの背景の一部に同化する形で競技終了を迎えていたことは、想像に難くない。

「あの、今世紀最高の美少女アイドル様。発言の方、よろしいでしょうか」
 恭は精一杯の愛想笑いと共に伺《うかが》いをたてた。
「なに?」
 拡声器越しに、冷ややかさまで増幅されたような声が返る。
「最後のあがきと申しますか、卑しいワタクシめに一度だけチャンスをいただけないかと」
「チャンスぅ?」
 アイドルが鼻で笑う。
「なあに、彼氏さん。とっておきのプラグインでもあるってわけ? 別にいいけど、無駄だと思うよ」
 この時、恭が思い出していたのは、無料レンタル・プラグインの存在であった。
 最初のセットアップタイム中、びしゃもんに教えられた時は、即断で拒否したが――
「びしゃもんクン、例の <竹やり> のレンタルって、今からでも可能なのかな?」
「できるよ。プラグインを何でも好きな時に呼び出せると思われちゃ困るけど、無料レンタル品は、随時、持ち出せる物のリストに入ってるからね」
「じゃ、それ頼めるかな」

 いいとも、と声が返った瞬間、恭の足下にはもう、身長より長い青竹が現れていた。
 見ると、一方の先端が、門松《かどまつ》の竹のように斜めに鋭く切り落とされている。
 それ以外はなんら特筆すべきを持たない、極めて簡素かつ、原始的な武器だった。
「女の子、しかもアイドル相手に <竹やり> 使うなんぞ論外だと思ってたけど」
 まさか、戦車が出てくるとは思わないもんな。
 心のうちだけでそう続け、恭は得物を構えた。
 腹から息を吸い、止め、――そして地を蹴る。
 雄叫びをあげながら戦車に突進した。
 そうして繰り出した渾身の一撃は、かん、という物悲しい音を立てて無残に跳ね返された。
 横綱に体当たりを敢行した、ちびっこ力士の末路だ。
 恭のチャレンジは四秒で終了し、傷ついた男はとぼとぼと元の位置に戻っていった。
「友よ、俺の挑戦はここまでだ。あとはお前に全てを託す」
 かすれた声でそう伝えると、恭は手を伸ばして、相棒とタッチを交わした。
 選手交代を意味する、万国共通のアクションだ。

「……なんか、そういうことになっちゃったみたいで」
 鷹一は半歩アイドルに進み出た。
「時坂さん。俺も、ちょっと試させてもらって良いかな?」
「はいはい。三十秒だけあげる。手短にね」
「努力します」と苦笑気味に言った鷹一は、手にしたオートマティックの拳銃を構えた。
 無造作にも見えるが、安定感を醸し出す非常に整った姿勢。
 狩りを通じて銃器の扱いに通じた恭には、それが熟練者の成せるものであることがすぐに知れた。
 程なく、鷹一がトリガー引きを絞った。
 乾いた発砲音が虚空を切り裂くように轟く。
 ほぼ同時、こん、という哀愁漂う音が戦車の装甲からあがった。
 二秒でチャレンジを終えた鷹一は、ステージで漫才を終えた芸人のように頭を下げ、銃をホルスターに戻した。
 そして、にっこりと笑うと、再び降伏の両手を掲げる。

「銃、全然駄目だったみたい……ね」
 儚い期待も泡と消え、恭の声音も自然と固くならざるを得ない。
「まあ、九ミリパラベラムが効くとは思ってなかったけどな」
「他にもっと強力なプラグインは持ってないのか?」
「今のが俺の最大火力だ」
 ならばもう、残る手段は一つしかない。
 鷹一も同じ結論に辿り着いたことが、アイコンタクトで分かった。
 男はふたり、はっきりと頷き合う。
 そして、どちらからともなく、そろそろと地面に寝そべり――
 やがて、完璧な死んだ真似が完成した。

「おい、恭っ」
 五十センチほど前方にうつ伏せた鷹一が呼びかけてきた。
 声量を絞りつつも、その語調は怒気を孕んでいる。
「てめえ、なにさり気なく俺の後ろに隠れてやがる」
「やかましい。元はと言えば、お前が見栄張って九十万もするバイク買ったせいで、交流戦用のプラグインが貧相になったんだろうが。責任取って、先に犠牲になれ」
「馬鹿言え。それが、プラグイン一つ持ってない人間のセリフか?」
「仕方ねえだろ。だいたいなあ、俺はまだチューもしたことないんだぞ。お前は、これまでさんざん女の子と良い思いしてきたんだろうが。もうこの世に未練なんかないはずだ」
「逆だ。帰らなかったら泣く女がいるからこそ、俺は生き残らにゃならんのだ」
 うつ伏せたまま、互いに掴み合ってのポジション争いが始まった。

「愚か者め」
 ジャケットの裾を引っ張ってくる鷹一の手を払い、恭は勝ち誇った。
「駅でバスケ漫画を拾い読みした俺に、ポジショニング争いで勝てるつもりか」
「所詮はコンビニ版の拾い読み。俺なんか、豪華愛蔵版を全巻実家に揃えてある」
「えっ、豪華愛蔵版なんてあんの?」
「今度、貸してやるから、お前が前に行け」
「ええい、お前が名誉の戦死を遂げたあと、遺品として丸ごと貰い受けてやるわっ」
 その時、戦車の方から金属がこすれるような、嫌な音がした。
 恭と鷹一は死んだ真似のまま、慌てて気をつけの体勢を取る。
 脇の下を生ぬるい汗が流れていった。
 恭は三秒数えたあと、固唾を呑んで、音がした方をそっと窺った。
 銃座というのだろうか。戦車の屋根上に据え付けられた主砲部分が、旋回を始めていた。
 といっても、ほとんど微調整に過ぎない。
 砲口はすぐ、恭たちに向きを合わせて固定された。
 その後ろ側には、車内から生身を露わにしたアイドルの顔が見える。

「おい、どうすんだ。死んだ真似、通じてねえ。分かっちゃいたけど通じてねえぞ?」
 恭は、肘で鷹一を小突きながら次のプランを要求する。
「ど、土下座だ。もうそれしかない」
 鷹一は言うが早いか、跳ねるように飛び起きて正座の構えを取った。深々と頭を下げる。
 反射的に恭も倣《なら》うが、それが最善の策であるかには懐疑的だった。
「本多さんならともかく、アイドルのあの性格に、こんなの通用するのかよ」
「他にどうするってんだ」
 鷹一が、囁きながら怒鳴るという器用な真似を披露する。
「アレンジ入れようぜ。女子は可愛いものに弱い。土下座フォームを維持しつつ、ラヴリィに腰を振るとかどうよ。犬っぽい仕草が、乙女心の琴線に触れるかもしれん」
「おお、それはなんかイケそうな気がしなくもない」
「ヤバイ時こそ真価を発揮する男、鷹取恭とは俺のことよ」

 恭は鷹一と呼吸を合わせ、さっそく土下座をラヴリィ・アレンジモードへと移行した。
 地面にすりつけた額、体幹といった基本線は崩さず、臀部《でんぶ》のみをぷりぷりと可愛らしく揺らす。
 角度、タイミング、技のキレ。
 どれも一級品の出来映えであった。
 キャッチフレーズを付けるなら、「ご機嫌ナナメな彼女も思わず一緒にダンシング」といったところか。
 だが、恐らくは、愛らしすぎたのがいけなかったのだろう。
 アイドルは、自分より可愛らしい存在の全てが許せないタイプの女性なのかもしれない。
 キャッチフレーズでいうなら、「可愛すぎた俺たち、それこそが罪」といったところか。
 恭たちはすぐに、地の底から響いてくるような、低く冷たい囁きを聞いた。
「――ふたりとも死になさい」

  アイドル戦車の主砲が轟音と破壊エネルギィを放ったのは、その直後のことであった。



to be continued...
つづく
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