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第二章 「ハイ=アイテール式オルタレイヴ」


  01

 その時、恭は自分の名前を知らなかった。
 ただ、自分が子供であること――少年であることは知っていた。
 だから、その時、恭はただの少年だった。

 少年には母親がいたが、他にもよく分からない人間が家に何人かいた。
 彼らはみんな同じ種類の男たちで、同じことしかしなかった。
 腕に何かを差し込んだり、煙を吐き出す。
 そして突然笑いだし、怒り出し、泣きだす。
 少年を殴り、蹴り、あるいは存在を何日も忘れ去る。
 その日にどんな行動にでるかは、サイコロ次第も同然だった。
 だが、バリエーションの方は、賽《さい》の目ほど多くはなかったように記憶している。

 家とはいうものの、少年の住み処はゴミの山の中で、食事が与えられない時は、山をかき分けて食べられそうな物を探した。
 時には本来、口に入れる物でない何かも食べたかもしれない。
 それで飢えをしのげることもあったが、母親ではない沢山の人間の中には、少年のその行動に腹を立てる者も多かった。
 俺のピザを食ったと、彼らはよく、気を失うまで少年を殴打した。
 何度もそんなことがあったのが、恐らくいけなかったのだろう。

 ある時、何の前触れもなく、少年の左視界が真っ赤に染まった。濃い鮮血の色だった。
 凄まじい痛みが襲い、少年はゴミの山の中でのたうち回った。
 近くに誰かいたかもしれないが、そんな少年を気にかける者はいなかった。
 助けはなかったし、少年自身、そんなものが期待できないことはとっくに学習していた。
 だから、痛みを受け入れた。逃げられないものとして諦めた。
 それは家に出入りする大勢から痛みを与えられる度、少しずつ学んでいった技能だった。
 助けはない。泣いても変わらない。抵抗も許されない。どうにもできない。
 ――絶対に。

 だが幸いにも、その目の痛みは時間経過で少年を解放してくれるタイプの責め苦だった。
 去り際に、しっかりと光を奪っていきはしたが――ともかく、痛みだけは引いてくれた。
 少年は最初こそ、左目が見えなくなったことに恐怖を覚えた。
 しかしそれは本当に最初だけで、すぐにどうでも良いと考えるようになった。
 見えていようがいまいが、這い出ることのできない穴の中にいることは変わらない。
 また明日もサイコロが振られる。各面に書かれたイヴェントはいつもと同じ。
 左側が暗くなったからといって、それで何かが変わるか?
 否、変わりはしない。少年はその事実を良く知っていたのある。

 そんな日常の中で良く見るものの一つに、大人たちがいきなりぶるぶると震えだして動かなくなる――という現象があった。
 それは少年が死ぬ寸前まで殴られた後、高熱が出て動けなくなった時と少し似ていた。
 違いがあるとすれば、その現象に見舞われた大人の多くが、二度と家に現われなかったということだ。
 少年はその現象を指し示す言葉こそ知らなかったが、概念は理解していた。
 すなわち、死である。
 だから、母親が震えて倒れ、動かなくなり、しばらくして凄まじい悪臭を放ち始めた時、少年は彼女がもう二度と元に起き上がらないことをすぐに察した。

 少年が外に出たのは、その数日後だった。
 発掘できるゴミに変化がなくなり、その停滞が今後、永遠に続くであろうことを何となく悟ったからだった。
 もちろん、行くあてなど何もありはしない。
 だが、自分が違う穴に移動しなければならないことは分かっていた。
 これは解放ではない。より深い穴への強制的な転移に過ぎない。
 そんな諦観を背負って、少年は歩いた。どこをどう、等ということは覚えていない。
 移動というより、それは彷徨《ほうこう》に近かったのだろう。
 ただ、それがなんであれ少年は歩き続けた。
 そして疲れ、最後は動けなくなった。

 このまま、自分も永遠に動かなくなるのだろう。
 朦朧とした意識でそんなことを思いながら、その時、少年はようやく周囲の景色に目をやった。
 人がいそうにない方向を選んで進んだせいか、辺りには樹木の類しか見当たらなかったことを覚えている。
 輪郭の一部を闇夜に溶け込ませた、尖った木々のシルエットが自分を取り囲んでいる。
 迷い込んだ得物が動きを止めて冷たくなるのを、じっと待っている黒い森。
 そんなぼんやりとした光景が、少年として見た最後の世界だった。


 けたたましいベルの音で、鷹取恭は目覚めた。
「あろうことか」
 どこかから、びしゃもんの声が聞こえる。
「これでも起きないとは。もうこうなったら、物理的な衝撃を与えてみるしかないじゃないか」
「――いや」
 寝起きの掠れ声で恭は言った。
「もう起きたから」
 深く息を吐いてから、横たえていた上体をのろのろと起こす。
 内蔵のアラーム機能を最大出力で稼働させていたびしゃもんは、それでようやくベルを止めてくれた。

 辺りはまだ薄暗い。屋内には早朝特有の尖った静謐と、肌寒さが巣くっていた。
 後頭部についた藁を払い落としながら、恭は状況の把握に努める。
「あと五分待ってくれりゃ、じいちゃんに会えるとこだったんだけどな……」
「ん、何の話?」
 びしゃもんが不思議そうな顔で球体を時計回りに傾ける。
「俺に名前をつけてくれた人。夢の話だよ。――お前は夢を見るのか?」
「ボクは見ない。でもそれが夢を見るAIが存在するか、 <ゼ・クゥ> が夢を見るかという質問だとすれば、答えはYESだよ。 <ゼ・クゥ> は夢に近いものを見る」
「お前は」
 あくびをかみ殺しつつ、恭は訊いた。
「その <ゼ・クゥ> の一部じゃないのか」

「そうだね。都市が幾万の人間の集合体であるように、 <ゼ・クゥ> も僕らの集合体だよ。その意味では一部と言えるかな。でも、どちらかといえば、枝を沢山もった大樹を <ゼ・クゥ> とするなら、ボクらコンセラクスはその尖端に実る花や果実のような存在に近い」
「へえ」
 実際のところ、興味からというより、単なる場つなぎに過ぎない質問であった。
 言ってしまえばどうでも良い。恭は適当に相槌を打つと、ようやく立ち上がった。
「さあ、早く牛舎の掃除とフランソワの世話をし給えよ。いつまでも春休み気分でいちゃ駄目だからね。今日は記念すべき入学式なんだ。切り替えて、きびきびいこうではないの」
 後ろに回ったびしゃもんが、背中にごつごつと頭突きを入れてくる。

 恭は追い立てられるように外へ出た。井戸水で顔を洗い、歯を磨く。
 それから作業着に着替え、牛舎を掃除した。フランソワ女史に牧草を与え、今にも湯気をあげそうな温かい彼女の糞を菜園に運んだ。
 代価として女史から提供された牛乳と、それを発酵させて作ったヨーグルトが今日の朝食である。
「休み、もう終わっちまったのか……早いなあ」
「この特別寮での生活も約二週間が経ったってことだね。そろそろ慣れてきた?」
 恭が食事をする時、びしゃもんは必ず向かいの卓上に鎮座して積極的に話しかけてくる。
 今朝ももちろん、その例外ではなかった。
「そうだな。少なくとも、フランソワ女史とは有効な関係を構築できたみたいだ」

 それに、新しいルーティーンができたな、と胸の内だけで付け加えた。
 びしゃもんに起こされ、牛舎で一仕事終えた後、ミズ・フランソワのミルクで一息つく。
 セバスが淹れた <6・9> の珈琲に代わる、新しい目覚めのパターンだ。
「それは結構。――ところでさ、話題をさっきの夢のことに戻すけど」
 びしゃもんが、どこか言いにくそうに上目遣いで切り出す。
「キミ、じいちゃんって言ってたよね。それが一緒に暮らしてたっていう、例の後見人なの?」
「そうだよ。俺に名前を付けて、役所に存在を届けてくれた人だ。血のつながりはないんだけど、俺の実質的な親みたいなもんだな。じいちゃんが俺を人間にしてくれたんだよ」
「キミが畑の手入れだとか山菜について妙に詳しかったり、フランソワ女史との付き合い方に熟達していた背景には、彼の影響があるってことだね?」

 恭はまたうなずいた。
 ヨーグルトに手製の野苺ジャムを混ぜながら言葉を添える。
「俺は長いこと、山の中にあるじいちゃんの家で生活した。ここより狭いけど、環境は良く似てたな」
 恭は昔を思い出しながら言った。
「そこで、山から恵みを得る方法を教わった。じいちゃん風に言うなら、怖れ敬い、その力を借りる術≠セ。農耕、家畜との付き合い方、釣り、銃や弓や罠を使った狩りの仕方……生き方の全部だ」
「そういうのに、左目が見えないことはハンデにならないの?」
「なることもあるかもしれない。でも、補って余ることの方が多いだろう」
 不思議そうにしているびしゃもんを見るうち、恭の中にちょっとした悪戯心が生まれた。
 とっておきの手品を見せてやろう。
 恭はそう提案して、屋内のどこでも好きな所に移動するよう、びしゃもんに指示した。
 その間、恭は両目を閉じて視覚を封じる。
 一方、びしゃもんは何かの中に入ったり、物を被ったりしてはならない。それを唯一のルールとして設定する。

 恭は心の中で三十数えた後、目を閉じたまま索敵を開始した。
 まず、舌を上あごの内側に弾き当てて、短い破裂音を鳴らす。
 この時点で必要な情報は得られたが、背中の後ろで両手を一度だけ打ち鳴らし、念を入れた。
「――分かった。俺から見て左斜め後ろ。玄関入ってすぐの、天井近くに浮いてる」
 宣言したあと、恭は座ったまま身体ごと回転し、言葉にした方を向いた。目蓋を開く。
 目をまん丸く見開いたびしゃもんが、まさに指定座標上で固まっているのが見えた。
「どうして?」
 加速をつけて白丸が飛んできた。
「どうして分かったの? どうして?」
「これは、じいちゃんと作り上げていったテクニックでね」
 恭は口の端を吊り上げながらタネを明かす。
「音を鳴らして、その跳ね返り方でどこに何があるのか分かるんだよ」

「反響定位……エコーロケーションか!」
 びしゃもんが声を上げる。
「そうか、だから舌を鳴らしたり、手を叩いたり……」
 自分の近くを探る時は舌を慣らし、広い範囲を探る時は手を叩くのだ、と恭は補足した。
「慣れてきたら、物の大きさや大雑把な形とか、あと金属か木製かくらいの材質判別もできるようになった。特にお前は球体だから、かなり分かりやすいんだよ」
「コウモリと同じだ。彼らは超音波の反響をレーダー代わりにして、暗闇の中を飛び回る。じゃあ、キミは左目どころか、両目がなくても物にぶつからずに歩き回れるんだね?」
「コウモリみたいな高速移動は難しいよ。常に舌鳴らして走り回るのも大変だ」

 一方で、母親が死なず、ゴミ山の家でずっと殴られ続ける日々を送っていたなら――
 やがてそうせざるを得ない日が来ていたかもしれないな、とも思った。
 もっとも、その前に殴り殺されていた可能性の方が大きいのだろうが。
「ところで鷹取恭、お友達の梨木鷹一からメッセージが届いたよ」
 テーブルの対面、指定席にもどったびしゃもんが言った。
「鷹一か。なんだって?」
「もうすぐここに到着するって。まだ寝てるなら今すぐ起きて七秒で準備しろ、だってさ」
 その言葉とタイミングを合わせたように、外からクラクションのような音が響いてきた。
 メッセージは相当近い所から送信したらしい。

 恭は空の食器類を水桶に突っ込み、鞄を持って戸口に向かった。
 すぐ後ろを、びしゃもんが「忘れ物」と叫びながら飛んでくる。
 彼は普段は存在しない二本の腕で、紺色のジャケットを抱えていた。
「今日から、キミはこの上着の着用義務を課せられるんだよ。初日から忘れるなんて」
「おう。そうだった、そうだった」
「それから、これ。紳士の嗜み、ハンカチも忘れてるよ」
「ノン。紳士の嗜みはハンケチーフと発音したまえよ、びしゃもん君」
 上着を羽織り、ハンケチーフを胸ポケットに突っ込みながら、恭は玄関ドアを潜る。
 ポーチから十歩ほどの所に、同じ司法局のジャケットをまとった梨木鷹一が待っていた。
「おはよう、鷹取君。清々しい朝だね」
 彼は上機嫌だった。
「約束通り迎えに来たよ」

「そりゃ、ごくろうさん。――って、なんだそりゃ」
「おや、気付いちゃった?」ヘルメットを抱えた鷹一がにんまりとする。
 クラクションに似た音で気付くべきだったが、こんな場所へ迎えに来ると言った人間が徒歩を選択することはまずない。
 鷹一の傍らには、側車付きの大型二輪が停められていた。
「おいおい。どうしたんだよ、梨木クン。これ、アレじゃないの。バイクとかいう」
「チッチッ」
 鷹一が指を振る。
「単車と書いてマシンと読んでくれたまえよ、鷹取君」
「側車付いてんなら単車じゃねえだろ。サイドカーってやつか。すごいな。初めて見た」
 恭は蹲《うずくま》る肉食獣にも似た巨体に駆け寄り、様々な角度からそれを眺めた。

 どうやら国産車ではないらしく、メーカーや車名の分かるロゴは付いていなかった。
 デザインは前部にライトが一つ、カウルはなしと素っ気ない。
 色はピアノブラックで統一されていて、右側についた側車後部にはスペアのタイヤが一つ乗せられている。
 大部分は新車のような輝きを放っていたが、エンジン部分だけは使い込まれた年季のようなものが感じられた。
「買ったのか、これ? それでか、入試で点数良かったくせに金欠だとか言ってたのは」
「いやあ、その通りでね。入試で稼いだポイントは全部、頭金に消えちゃったよ」
 てへっと舌でも出しそうな口ぶりで、鷹一は自分の後頭部を撫でる。

「しかし、辺鄙なとこだな。道も途中から舗装されてすらいないし、買いたてのサイドカーには向かない道のりだったよ、鷹取君」
「で、幾らしたんだ、これ」
「これがまた掘り出し物でね。オリジナルエンジンじゃないから、九十万で買えちゃった」
「なんと驚きの九十万! お前、九十万っていったら豪邸が建つぞ?」
「建たねえよ。まあ、ともかく横に回りな。光栄に思え、隣に乗せるのはお前が初めてだ」
「うーむ。さすがのボクもこれには追いつけないな。鷹取恭、抱っこして。抱っこして」
 びしゃもんが風船ヨーヨーのように、ばよんばよん上下しながら主張する。
 恭は恐る恐る側車に乗り込み、両手を広げて白丸を呼び込んだ。
 同時、鷹一がシートにまたがり、エンジンを始動させる。
 恭にも、駆動系から心地よい振動が伝わりはじめた。

「――しかし、これって結構な排気量なんだろう? 高一でとれる免許で乗れるのかよ」
 走り出した車体が舗装道路に入り、上下の揺れが収まったのを見計らって、恭は訊いた。
 四輪と違い、風と騒音に負けぬよう、声を張り上げなければ会話が成立しにくい。
「恭、お前ここがどこか忘れてるよ」
 鷹一がにやりとして、側車の恭を一瞥した。
「学園都市は外国人が多いから、ライセンス関係は特殊ルールが適用されてる。それに、この街の道路はほぼ全てが学園私有地内を走ってんだぜ? 道交法を完全に無視できるわけじゃないが、基本、警察は取り締まりができない。事故ったら、司法局に裁かれるだけだよ」
「だからって、ローン組んでまでこんな大物を買うとはねえ」
「こういうのでの登校を夢見て、進路に学園都市を選ぶ奴も多いんだ。日本国内じゃ、他ではなかなか実現し得ないしな。まあ、おかげでしばらくは倹約生活だ。精々、司法局で仕事に励むさ」

 本人のその言葉が示すように、鷹一もまた恭と同様、既に司法局入りを決めていた。
 彼の場合は例の狙撃事件が縁となり、恭の取りなしもあって推薦枠に滑り込んだ結果だ。
 一般ルートで合格を決めたユウコに先んじ、一週間前から局員のジャケットを着ることを許された数少ない特例の一人である。
 とはいえ、恭も鷹一もまだ仮ライセンスの研修扱いに過ぎない。
 これから半年かけて、計四百八十時間の研修を受講しなければならない身の上だった。
「――司法局と言えば、例の彼女はどうしてる?」
 ふと思い出して恭は話題を変えた。

 二週間前の銃撃事件は、まだ未解決のままだった。
 事件発生時、鷹一とデートしていた娘は、被害者が撃たれた瞬間を直視したこともあり大きな心的外傷を負ったと聞く。
 それが原因で、しばらく市外の病院に入院していたという話だった。
 本人は認めていないが、鷹一が司法局入りを決意した大きなきっかけの一つなのだろう。
「葵か? あいつなら、だいぶ落ち着いてきよ。学校にも出てこれるって言ってたな」
「そうか」
 だが、殺された主婦の命は戻らない。
 逃亡中の犯人が第二の犯行に及ばないとも限らない。
 事件は何も片付いておらず、司法局ビルには県警の捜査本部がまだ設置されたままだ。

「ところで恭。お前、ニュースか新聞、見てるか?」
 否と返すと、彼は「だろうな」と苦笑した。が、すぐに一転、真顔に戻る。
「だったら知らないだろうけどな、犯人はあの後、二件事件を起こしてるんだよ」
「えっ? ほんとか? 学園都市で?」
「いや。一件は、こっちで主婦を撃った四日後、東京の五反田でやらかしてる」
 狙われたのは、やはり街を歩いていた一般人の主婦。
 ただ、これは肩をかすめただけで、殺人事件には至らなかったらしい。
 二件目は、その明後日。
 今度は名古屋に場所を移し、走行中のスクーターに風穴を開けた。
 コンビニでバイトをしている学生が被害者であったという。
「全部、同じ銃が使われてたそうだ。間違いなく、同一犯による犯行だとよ」

「はあ……統一性がねえな。犯人は何がやりたいんだか」
「それともう一つ。最初の狙撃で殺された主婦が、事件現場のバス停にいたのは偶然だった――って話は聞いてるか?」
「ああ、そっちは知ってる」
 事件直後、司法局でも噂になっていたことだ。
 彼女は友人と市外で会い、帰る途中だった。バスを使う習慣はなかったのである。
「でも、それが?」
「狙撃ってのは普通、ターゲットを決めて撃ちやすい場所を探すもんだろ。無差別殺人が目的でない限りは。なら、犯人は事前に場所を下見して、あの日、あの時間、あのバス停にいるターゲットを撃つと決めていたはずだ。ところが、撃たれた主婦があそこにいたのは偶然。前もっての予測は不可能だったし、撃たれなきゃいけないような理由もない」

 そう、夫婦仲を含め、主婦の交友関係は良好そのもの。
 資産家というわけでもなく、彼女が死んで得をする人間は、捜査線上に出てきてない。
 少し考えてから恭は言った。
「……彼女は本来の標的じゃなかったって言いたいのか?」
 鷹一は答えなかった。そうするうちにサイドカーは脇道を出て、バイパスに合流する。
 流石に入学式ということもあり、三車線ある上りルートはどれも通りが悪かった。
「主婦は正確に心臓を撃ち抜かれてる」
 鷹一はようやく口を開いたのは、緩やかな渋滞の列に加わってしばらく経ってからであった。
「状況的には、狙いが外れたとか、誰かと間違えられたとは考えにくいそうだ。彼女が標的だったことはほぼ間違いない。だったら、間違っているのは動機の探し方ってことにならないか?」

 今度は恭が沈黙する番だった。
 恨まれてもおらず、死んでも誰も得しない主婦を、敢えて殺さなければならない理由――。
 少し考えてみたが、まるで思い当たらない。
「単に誰でも良いと思って、通り魔的、無差別的にやっただけかもしれない」
 鷹一が考えを整理するように言った。
「でも、そうじゃなかったとしたらどうだ?」
「どうって、そうだな。たとえば、被害者が出れば家族とか友達が悲しむよな? あるとすれば、そういう間接的な影響が目的だったって可能性くらいじゃないか?」

「そうだ」
 硬い表情で鷹一はうなずいた。
「間接的な影響だ。だったら、ターゲットは必ずしも例の主婦である必要はなかったことになる。俺はあの時、たまたま飲み物を買いに自販機に行っていた。それがなければ、間違いなく葵の隣にいただろう」
「おいおい」
 恭は笑みを作ろうとしたが、うまくいかなかった。
「お前、なに考えてる?」
「普通にいけば、主婦がいたあの場所――葵の隣にいたのは俺であるはずだった。もし、犯人が位置関係を重視してターゲットを決めたんだとしたら? もしそうだったなら、本来撃たれるべきだったのは……」
 鷹一はそこで一度言葉を切り、一呼吸置いて続けた。
 ――俺は、それが少し気になり始めてるんだよ。
 その囁きはエンジン音と風にまぎれ散り散りになりながら、しかし確かに恭の耳へ届いた。



  02

「えー、学園都スィとは、かつて <オリジン> で栄えた日本にも無数に存在スィていた過去がありィ、実例とスィて幾つか列挙するならばァ、兵庫県神戸スィ、宮崎県宮崎スィ、ひがスィ広スィまスィなどがそうなのでありまスィて――」
 本多夕子《ホンダユウコ》は、新入生の最前列で学長の長話に耳を傾けていた。
 もっとも、「シ」を「スィ」としか発音しない彼の祝辞に、有用な情報は含まれていない。
 集中を要する内容でもないため、脳のリソースは二割程度しか割り振っていなかった。
 学園都市は外部の学校と違い、高等部以上の生徒を自立した個人として扱う。
 従って、今日、この入学式に親の参加はない。
 そもそも、白芳以外の三大学園では入学式そのものが行われないほどである。

 この街では、全員が親元を離れ、自分でカリキュラムを組み、自分で稼いだポイントを頼りに生活していく――という思想が徹底されている。
 保護者の概念は基本的に必要とされず、入学式も、親が参席するような性格の催しとは認識されないのだ。
 仮に家族が顔を出そうとしたところで、大講堂には彼らを収容できるほどの空間的余裕などありはしなかった。
 生徒すら一部しか入れないため、この場に案内されたのは入試の上位成績者のみ。
 八割方の一般入学生は、都市内の競技場でレセプションに参加している。
「スィかスィながら、本学は国策によって作られたという観点から致スィまスィても、やはり茨城県つくばスィにあった学術都スィにその性質を近スィくするものでェありまスィて――」
 学長がもはや祝辞の範疇にない無駄話を切り上げたのは、それから二分後だった。

 新入生にとっては待ちに待った入学式であったはずが、今では誰もがこの式典にうんざりし始めていた。
 司会進行役の教員もその空気を感じ取ったらしく、以降の進行は、目に見えてスピーディなものに変わっていく。
 入学生代表として壇上に上がったユウコが、予定よりかなり短く挨拶を切り上げたことも、少なからずこれに貢献したはずであった。
 入学生全員が――学長閣下から賜った疲労感とは関係なく――さっさと式を終わらせたがっているのには理由がある。
 この場から解放された瞬間から、交流戦が解禁されるためだ。

 交流戦――正式名称 <SSA・フレンドリィ・コンペティション> 。
 俗に「オルタレイヴ」とも通称されるこのゲームは、今日から卒業まで続く、プラグインの争奪戦だ。
 学園都市では、交流戦専用アイテムがプラグインとして提供されており、生徒はこれをポイントで購入し、腕を競い合う。
 勝者は、敗者が所有するプラグインの中から一つを選択し、それを自分の物のするか、一定額のポイントを奪える――というのが基本ルールだ。
 勝ち取ったプラグインは売却してポイントに換えることもできるし、実用しても良い。
 このシステムの存在こそ、学園都市が「お勉強だけでは上に行けない」「戦えない者は生き残れない」場所、と囁かれる所以《ゆえん》である。

「ユウちゃん、ユウちゃん、いよいよだねえ」
 パイプ椅子のきしむ音が聞こえた直後、ユウコの耳元にそんな声が届いた。
 振り向くと、左斜めの席から早川公子《はやかわきみこ》が身を乗り出し、人なつっこい笑顔を浮かべている。
 聖ジャンヌ女学園で九年間も学舎を共にしてきた幼馴染的存在だ。
「こら、まだ途中でしょ」
 ユウコは前を向いたまま言う。
「お話はまたあとでね、ハムちゃん」
「だって、楽しみだよ。はやく、誰かと交流したいよう」
「もう。この祝電披露が終わったら、あとは教員紹介だけなんだから。がまんしなさい」
 ひそめた声で言うと、公子は渋々といった様子で姿勢を正した。
 それでも時おり、「うー」だとか「きゅー」だとかいう微かな奇声が聞こえてくる。

 彼女のはやる気持ちは良く理解できるが、一方でユウコはむしろ、司法局の仕事に思いを馳せていた。
 もちろん、勝負事は大好きだし、交流戦も負ける気は一切ない。
 上位ランカーたちと肩を並べて、いずれはヒリつくようなギリギリの勝負を繰り広げたいとも思う。
 しかしそれは、今後の学園生活で嫌でも経験することになるであろうイヴェントだ。
 多方、司法局の仕事は誰にでもできるものではないし、いつ、何が起こるか分からない。
 ユウコには、単に勝負事では終わらない奥深さ感じられるのだった。
「ユウちゃあん」
 閉式の挨拶が終わった直後、両手を広げながら公子が抱き寄ってきた。
 おっとりしたこの手のかかる友人を、ユウコは時おり妹のようにも感じる。
 小柄だがふくよかな彼女の肢体は、腕の中に閉じ込めると非常にやわらかかった。

「終わったね。これで私たち、正真正銘、学園都市の生徒なんだね」
「そうね」
 彼女からやんわりと身体をはがし、ユウコは微笑んだ。
「それにしても、ハムちゃん。更にできるようになったね。程良いむちむち感がもう、絶品というか何というか」
「ありがとう。それでね、ユウちゃん。私がもし <同盟プラグイン> 買えるようになったら、交換してくれる?」
「もちろん。私はもう買ってあるから、先に渡しとくね」
 同盟のプラグインは、有効関係にある者たちの間でやりとりされる、共闘の証だ。
 このプラグインを使えば、誰かから挑戦を受け戦闘状態に入った時、救援を要請して一緒に戦って貰うことができる。
 逆に言えば、事前にプラグインで同盟を締結していない限り、特別な例外を除いて誰かと共闘することはできない。
 ランキング上位を目差すなら必須ともいうべき存在だが、その分だけ高額なことでも知られていた。

「どこか落ち着ける場所に移動しましょ。ミーシャを呼んでプラグインを出して貰うから」
「ほんと? 私、ミーシャちゃん抱っこしたい」
 ルールとして明文化されているわけではないが、混雑した場所や街中でコンセラクスを長期間実体化させることは、一般にマナー違反だとみなされる。
 ユウコは公子と連れ立って、白芳学園の大講堂を出た。
「――ユウコさん」
 左手首のコミュケを通し、ミーシャの声が聞こえてきた。
「鷹取恭さんが、あなたに直接的なコンタクトを求めています。位置情報を伝えますか?」
「うん、お願い」
 ユウコは腕時計で時刻を確認するように、コミュケを顔に近づけた。
「これ以降、彼からの位置情報確認には基本的にあなたが対応してくれる?」
「分かりました。鷹取恭さんを許可《ホワイト》リストに登録します」

「えっ、なになに。今の、男の人の名前だよね?」
 公子は目を輝かせて、ユウコの前に回り込む。
「もしかしてユウちゃん、ついに撃墜記録を途切らせちゃったの?」
「なによ、その撃墜記録って」
「だって、中学時代は結局、告白ぜーんぶ断っちゃったじゃない」
「そんな日常茶飯事だったみたいに言わないで。何回かあっただけでしょ」
「女子校にいたのに、男の子から何回も告白されたことがあるってだけで凄いよ。私なんて、そんなこと一回もなかったもん」
 拳を丸っこく握りしめて力説する公子に、ユウコは思わず嘆息した。

 確かに、他校の男子生徒などからそういった告白を受けたことはある。
 真剣味の感じられたものだけ抽出してみても、三年間で九件。
 その全てに断りを返したというのも事実であった。
 公子あたりからは「嫌いじゃないなら、とりあえず付き合ってみたら?」などと無責任に煽られることもあったが、ユウコからすれば、それは断じてあり得ない選択肢だった。
 とりあえず、という感覚での恋愛など考えられなかった。
 人生経験になるとはいうが、それは結果として得られるものであり、目的とする類のものではない。相手に対しても礼を失する。ユウコはそう思っていた。

 ――第一、負けた感じがして悔しいじゃない。
 世の中には、誰もが憧れるような大恋愛を実らせた人たちがいるのだ。
 多くの人々は、そうした運命的な恋愛をフィクションの中だけで成立する奇跡、あるいは自分とは違う世界の出来事として認識しているようだが――
 それでも、小学三年生の時、初老の女性教師《マスール》は教えてくれたのだ。
「私たちくらいの頃から好き合っている女子と男子が、そのまま結婚するようなことって、現実にあるんですか?」。
 ユウコのその問いに、彼女はこう答えてくれたのである。

 恋愛関係は、それほど長く続くものではない。
 しかし、教え子を持つようになってからの三十五年間で、二度だけ例外を見たことがある、と。
 幼い頃からの小さな恋を二十年以上も大事にし続けた男女が、自分の知る限り少なくとも二組は存在している。
 自分は実際に、彼らの結婚式に呼んで貰ったことがあるのだ――。

 そう言って微笑んだマスールの顔を、ユウコは今も覚えている。
 思い返せば、その話を聞いた瞬間、ユウコは幼心に恋愛観を固めてしまったのだろう。
 そんな運命みたいな恋愛があるというのなら、自分も経験したい。
 とりあえずで付き合って、いずれ別れて。泣いて。
 男なんて幾らでもいると慰められ、その通りにまた新しい恋を見つけて。
 そんな誰もがやることは、他人にやらせておけば良い。
 それは夢と同じことだった。
 野球選手。パイロット。宇宙飛行士……幼い日に見た夢とは現実性を伴わない幻であり、いずれ卒業するもの。人はもっと身の丈にあった、現実的な夢を追う生物である。
 百人いれば百人がそう信じ切っているが、子供の頃からの夢をずっと追い続け、空を飛び、宇宙へ行き、プロの世界でスポットライトを浴びるまでに至った人間も実在するのだ。
 そんな夢や理想は若いから言えること。歳を取ってくれば重圧と焦りと孤独に、きっと耐えられず妥協を選ぶのよ。
 大人たちにはきっと、そう言って冷笑されるのだろうけれど。

「ユウちゃん、ユウちゃん」
 肩をやんわりと揺すられる感覚で、ユウコは我に返った。
 目の前を、鮮やかなピンク色をした桜の花弁が舞っていく。
 講堂を出てから無意識に足を進めていたようで、ユウコはいつの間にか校門から長く続く桜並木に立っていた。
「――なに、ハムちゃん?」
「ユウちゃん、あれ、あれ」
 公子は声をひそめ、ユウコの服の裾をぐいぐい引っ張った。
 それでようやく、ユウコは自分たちが周囲の視線を集めていることに気付いた。
 正確には、小走りにユウコへ近づいてくる人影を含めた三人が、ワンセットとして人目を惹いているらしい。

 DD1の患者には合併症で視力を低下させる者も多いが、ユウコはその限りではない。
 共に二・〇を誇る視力で、接近中の相手の顔を見極めた。
 同時に、頭のデータベースに検索をかける。
「誰かな。ハムちゃんの友達?」
「えっ」
 信じられない、といった表情で公子が目を瞬《しばた》いた。
 身長が百五十センチに満たない彼女からすると、ユウコを見上げる形になる。
「ユウちゃん、知らないの?」
「うん。なあに、誰か有名な人?」
 そうこうしている間に、同じ新入生と思わしき女子生徒が距離を詰めてきた。
 途中で足を緩め、数歩分の距離を置いて立ち止まる。

 毛先が肩にかかる位置で内側にカールした、ボブカットの少女であった。
 目鼻立ちははっきりしているが、それでもアジア系であることは間違いない。
 普段からの入念な手入れがうかがえる肌に、うっすらとナチュラル指向のメイクを施している。
 あまり親しくない同性からも、使っている化粧水の探りを入れられるタイプだ。
 白芳では指定の制服が存在する一方、私服での登校も許されている。
 彼女が普段どちらを選択するかは不明だが、少なくとも入学式には制服で来ることにしたらしい。
 深緑の上品なブレザーに短いチェックのスカートという組み合わせを完璧に着こなしていた。
「あの、本多夕子さんですよね。さっき、新入生代表の挨拶をされてた――?」
 どこかで聞いたような気もする、透き通った声が訊いた。

「ええ。はい、本多です」
 再検索をかけながらユウコは応じた。
「申し訳ないですけど、はじめてお会いしますよね?」
 訊いた瞬間、公子が先ほどより力を込めてユウコの裾を引いた。
 そちらを見ると、ぶんぶんと無言で首を振っている。
 まるで、不作法な質問を咎めるかのような仕草だったが、ユウコにはわけが分からない。
「はい、あの――」
 少女が遠慮がちに言った。ユウコが再び視線を戻すのを待って、彼女は続ける。
 「お会いするのは初めてです。だから、こういうお願いをするのは、やっぱり失礼かなとはは思ったんですけど……私、本多さんに相談っていうか、どうしても聞いて貰いたい話があって。その、今、お時間良いですか?」

「どんなお話ですか?」
 問い返すと、少女は一瞬だけ周囲に目配せし、怯えるように身をすくませた。
「えっと、ちょっとここでは……」
「そういうことなら」と、公子が口を挟んだ。
「私なら大丈夫だから、ユウちゃん相談にのってあげて? どっちにしても私たち、今日はこれでお別れの予定だったし」
 一息で言うと、公子は身体を向けたまま、後ろ歩きに距離を取り始めた。
「ハムちゃん、良いの?」
「うん。司法局のお仕事終わったら連絡くれる?」
「それはもちろん」
 じゃあ、と公子は微笑んだ。手を胸の辺りで小さく振ってよこす。
 彼女はそのまま、ユウコに止める間も与えず人波に紛れていった。
 こういう時にだけに披露される、彼女一流の小動物的な素早さだ。

「あの、すみません。お友達と一緒だったのに」
 少女が、公子の消えていった方を見てから、行儀良く頭を下げた。
「それは、次に彼女と会うことがあったら、直接本人に言ってあげて」
 言いながら、ユウコは微笑みかけた。
「できれば、お礼という形で。あの子、早川公子って言うんだけど、人にお礼を言われる度に自分の幸福度が上がる、と思ってるようなタイプだから」
「はい」
「OK。じゃあ、私たちも移動しましょうか。どこかお茶でもできる場所にする?」
「あ、いえ。その、本当に誰にも聞かれたくない話なんです。だから、周りに人がいない所がよくて。私、ちょっと考えてた場所があるんですけど、そこで良いですか?」
 この名も知らぬ人物の影響なのか、そろそろ周囲の目が煩わしくなってきていたため、タイミング的には丁度良い。
 わざわざ立ち止まり、聞き耳を立てている人間まで出てきていたことを考えれば、彼女は相当な著名人なのだろう。
 構わない、と答えて、ユウコは少女と歩き始めた。
 先導する彼女は、帰宅のため校門に向かう人の群れに逆らって進んでいった。
 やがてユウコの知らない施設に入り、真っ直ぐエレヴェータホールへと足を向ける。
 最上階のボタンを押したところを見ると、屋上に向かうつもりのようだった。

 ――この段階で、ユウコは警戒レヴェルを二段階上げた。
 中学時代、似たような形で女子生徒に誘い出された経験があったからだった。
 用件をはっきり教えられぬままユウコが案内されたのは、とある喫茶店であった。
 そこまでなら問題はないが、見知らぬ男性と引き合わされた時は、本当に驚いたものである。
 男は、案内役の少女の兄で、二歳年上の高校生であった。
 交際を申し込むため、警戒させないよう妹を連絡係に使ったのである。
 もちろん、即座に断ったが、この件が貴重な学習機会となったのは事実だった。
 同性が現われたからといって、それは必ずしも安全とは限らない。
 バックに男性が存在している可能性がある。
 ――ユウコは身をもって、その真理を学んだのである。

「ごめんなさい。私、司法局に入ってて、これから同僚と一緒に局ビルに行く約束をしてたの」
 エレヴェータの中、ユウコは思い出したような口調で切り出した。
「コンセラクスで位置情報をリアルタイム送信してるから、そのうちここまで来ると思う。でも、彼が早く来すぎた時は、話が終わるまで、外で待ってて貰うつもりだから。飛び入りが来ても驚かないでね?」
「ええ、――はい」
 エレヴェータを下りたあと、少女は案の定、屋上に続く通用口へユウコを誘った。
 白芳にある施設の多くは、その優れた景観を活かすため一般開放されている。
 このビルも例外ではないようで、周囲には転落防止の防護ネットが張り巡らされ、平面上の四辺に沿って公園で見られるような、どっしりしたベンチが幾つも設けられていた。
 中央部に設置された|水飲み機《ウォータークーラー》に近い大きさの円柱は、学園内のあちこちに設置されている <スポット> のひとつだろう。

「本多さん、まず確認したいんだけど」
 少女はベンチを選ばず、ぶらぶらと右側のフェンスまで歩いていった。
「あなた、私のことを知らないみたいね?」
「ええ……そうね。申し訳ないけど」
 相手の口ぶりの変調に驚きつつ、ユウコは言った。
「普通は、私の知らない人が私を一方的に知ってる――ってパターンが多いんだけど」
「そうなんでしょうね。ここに来るまでも、あなたは大分、注目を集めてたみたいだから」
「じゃあさ、時坂なつきって名前は知ってる?」
 ユウコは肩をすくめた。
「残念だけど」
「なんなら、コンセラクスに訊いてみてくれます? 知ってると思うので」
「それがあなたの名前?」
 訊ねたが、少女は挑戦的な微笑しか返さなかった。もう三分前とは完全な別人である。

 仕方なく、ユウコはミーシャを物理的に呼び出した。
 コマンド入力からほとんどタイムラグを置かず、もう見慣れたオオウミガラスの丸っこい姿が顕現する。
「ミーシャ、トキサカ・ナツキで検索かけて」
 ユウコは、出てきたばかりの相棒に命じた。
「それなら最有力候補は、 <オリジン> で二〇二〇年代に活躍した日本のアイドルですね」
 ミーシャはユウコを見上げ、事務的な口調で即答した。
「正確には <マニッシュビーツ> という三人組歌手《ガールズトリオ》のセンター担当でした。本名、前田琴望。二〇〇四年五月七日生まれ。二〇八八年九月十日、肺炎で死去」
 名前、グループ名、いずれにも聞き覚えはない。だが、相手の素性には見当が付いた。
 ユウコはミーシャから視線を外し、フェンスに背中からもたれかかる同級生を見つめた。

「じゃあ、あなた……そのアイドルの復元偉人格レプリッドなのね?」
「正解。他のメンバーたちも復元されて、<マニッシュ・ビーツ> として現代進行形で活動中。これでもチャートの上位常連なんだから」
 レプリッドと直接会話をするのは、ユウコにとって人生初の体験だった。
 彼らは <オリジン> に実在した著名人の復元人格として、一般に認知されている。
 開発された惑星をよりオリジナルの地球に近づけるため、その時代に活躍していたカリスマたちを当該社会に復活させる――。
 レプリッドはそういった思想、そういったプロジェクトの元、<ゼ・クゥ> のオーヴァテクノロジによって生み出された存在だ。
 残された遺伝子情報をベースにした培養有機体のボディ。
 これに各種文献と膨大なデータから再現された人工人格を搭載した、ハイブリッド・レプリカが彼らの正体である。

 現存するレプリッドは、政治家タイプの個体が最も多い。
 しかし、才能や技術の再現が比較的容易なスポーツ選手や芸能人、アイドルなども積極的に復元が進められている。
「驚いたな」
 ユウコは本心から言った。
「現役アイドルが学園都市にいたのね」
「本多さんはそういうこと、あんまり興味ないみたいだね」
「単に、TVや芸能関係にあまり興味がないの。CDもほとんど買わないし」
「最近そういう人が多いらしくて、事務所の偉い人たちが愚痴ってるんだよねえ」
「でも、そんな有名なひとが、私にどんなお話? 全然、思い当たらなくて」

「そうね。お友達がここに向かってるんだっけ。じゃあ、サクッと言っちゃうけど」
 彼女はお辞儀をするように、上半身だけユウコの方へつきだした。
 しかし、その目は相手の相貌から決してそらされることはない。
「私ね、自分の後援会って言うか、ファンクラブ的な物を組織したいと思ってるの。事務所が作ってくれた公式のとは別に、この学園都市の中だけの存在としての。――でね、それを本多さんに手伝って欲しいのよ」
「私が?」
 自分が思ったより大きな声で、ユウコは聞き返していた。
「そう。あなたはもう、かなりの知名度がある。私に見劣りしないくらい可愛いしね。さっき、入学式での代表挨拶見てて思ったの。本多さん、黙ってても人の注目を集めちゃうタイプだって。でね? 私、そういう人にこそ応援団長的な存在として、時坂なつきを応援して欲しいんだ」

 ユウコは思わず笑った。
 今まで様々な人格に触れてきたが、ここまで我の強いタイプも珍しい。
 その自意識の肥大ぶりと貪欲な上昇志向は、いっそ清々しくすら感じられた。
「つまり、私に自分の下につけ≠チて言ってるのね?」
「本多さんの場合、ただのガリ勉じゃなくて、ほんとに頭良いタイプみたいだから言うけど」
 時坂なつきは艶然と笑み、そしてきっぱりと断じた。
「その通りよ」
 ユウコは今度こそ本当に笑った。
「時坂さん、あたし何にも知りません≠チて顔で清純派を演じてたさっきより、野心家としての顔のストレートに出してる今の方が、ずっと魅力的だと思うな」
「ありがと」
 アイドルは両の頬に魅力的な笑くぼを作った。
 ファンに声援を投げられた時、一瞬でこの顔を作れるよう訓練を積んでいるのだろう。
「で、答えはどうかな?」

「あなたのファンクラブを、私が音頭を取って立ち上げるのね?」
「結果として、自分の可愛さを鼻にかけず、同性を積極的に応援できる良い子的なイメージがつくし、本多さんにもメリットのある話よ。ナンバー2としての立場さえ許容できるなら、好感度は今より確実に上がる。あなたならそういう計算って分かるでしょ?」
「私には思いも付かないユニークな発想だと思うけど、それには問題が二つあると思う」
 笑顔のまま、時坂なつきは眉をぴくりとさせた。
「なにかな?」
「計算ができるタイプと、計算を実際にするタイプとはイコールじゃないこと。それが一つ。もう一つは、私が他人からの好感度や人気にあまり興味を持たない人間だってこと」
「は?」
 時坂なつきはポカンと口を開けた後、鼻を鳴らしながら顔を斜めにした。
 「興味ないって……注目される、憧れられる、誰もが自分を知っている。自分を中心に世界が回る。それに快感を覚えない人がいるとでも言うわけ?」

 その問いにユウコは答えなかった。
 ただ静かに、愛らしいレプリッドを見つめ返した。
 大衆は問題ではない。
 自分で自分を認められる――それこそを最重要とする価値観もある。
 己を誰よりも厳しい批評者として置き、その上で自信と矜恃を生き方に見出すこと。
 周囲から蔑まれる状況下にあってさえ、確固として自己を保ち続けられる意志。
 万人にではなく、人格と能力を認め合う誇り高い人たちから、同格の求道者として敬意を払われること。
 それを真に意味あるものとする思想……
 これらを、時坂なつきは認めないかもしれない。だが、それは確かにあるのだ。

「そっか……」
 しばらく睨み合いにも似た沈黙をはさみ、やがて時坂なつきは大きく嘆息した。
「良くあるもんね、音楽性の違いでグループ解散って。念のために確認しとくけど、私の下につくっていうのが納得いかないのとは、違うのよね?」
「いいえ」
 ユウコはゆっくりと首を振った。
「私がアイドル的な評価を求めてないのは本当よ。でも興味がない分野だからって、何でも良いからとりあえず負けを認めろ――というのは納得できない。あなたが学園都市一のアイドルを称するのは自由だし、私はそれを気にしません。でも、気にしないのと認めて隷属するのとは違うと思わない?」
「要するに、本多さんも相当の負けず嫌いってわけね」
「うん、それは良く言われる」
「じゃあ――」
 時坂なつきが口にしかけた言葉を飲み込むのと、ドアが開く音がしたのは、ほぼ同時だった。
 ユウコは背にしていた出入口を振り返る。
 そこには少し驚いたような顔をした鷹取恭と、梨木鷹一が並んで立っていた。

「あれ、なんかお取り込み中?」
 恭がユウコと時坂なつきを交互に見やる。
 その間にある空気に、何か不穏なものを感じ取ったのだろう。彼はすっと目を細めた。
「友達同士にしちゃ、随分と離れて談笑してらっしゃるようで」
「心配しないで。ちょっとデリケートなテーマで話し合ってただけだから」
 ユウコは安心させるように微笑んでみせる。
「もう、終わったから大丈夫」
「――ううん。まだだよ」
 被せるように時坂なつきが言った。全員が彼女の方を向く。
 現役アイドルは物怖じすることなく、三人からの視線を真っ向から受け止めてみせた。
 少なくとも恭や梨木鷹一を相手に、猫を被る必要はないと判断したらしい。

 彼女はゆっくりと空間の中心部―― <スポット> に向けて歩き始めた。
「交渉が決裂したなら、次は実力行使するだけ。本多さん、私と交流戦《オルタレイヴ》で勝負して。あなたが勝ったら、通常ルール通りに私の所有プラグインから好きな物を持っていってくれて良い。ただし、私が勝ったらさっきの話を飲む。この条件でどう?」
 確かに、交流戦では両者の合意が得られれば、特殊ルールの採用が認められる。
 彼女が提案した、勝利者の権利変更もその範疇のうちだ。
「おいおい、喧嘩はいかんよ。喧嘩は」
 恭が割って入った。
 それぞれユウコと時坂なつきを制止するように、両手を伸ばしている。
「いいのよ、鷹取君。交流戦はルールに乗っ取った競技だもん」
「いや、喧嘩だろ。それも、拳でお互いを理解しようって喧嘩じゃない。潰し合いだ」
「なによ、キミ。本多さんの彼氏ってわけ?」
 何をどう勘違いしたのか、天下御免のアイドルは冷笑混じりにそう断じた。
「良いとこ見せたいのは分かるけど、邪魔しないでね。これは私とカノジョさんの個人的な話なんだから」

「なにを訳の分からんことを。正直、俺は交流戦がどういうものかよく知らんが、キミが勝負の終わりに本多さんと笑顔で握手できるタイプじゃないことは分かる」
「ふうん。だったら?」
「いや、だから、なんと言うか――そういうのは良くなくて、だね」
 しどろもどろになった恭は、途中で考えるのを諦めたか、誤魔化すように早口になる。
「ええい。要するに、アレだ。どうしても本多さんに挑戦したいというのなら、まずは交流戦四天王の一角たるこの俺と、そこの梨木鷹一を倒してからにして貰おうか」
「俺も巻き込むのかよ」
 これには、入口近くで静観を決め込んでいた梨木鷹一も、流石に声を上げた。
「だいたいなんだ、その四天王ってのは。残りのふたりは誰だよ」
「当然、四天王最強として本多さんは確定だろ。最後のひとりは、ほら、俺かお前に生き別れの兄弟とか、そういうのがいて、そいつがしばらくしたら出てくるんだよ」

「はいはい。じゃあ、まずはあなたたちを片付ければ良いのね?」
 時坂なつきは即席四天王たちのやりとりを完全に無視して、事も無げに言った。
「私、学園都市の知名度アップに貢献する存在ってことで、入学時にポイントボーナス貰ってるんだけど。四天王のお二人さん、それ知ってて言ってる?」
「――思い出した」
 突然、梨木鷹一がはっとした顔でレプリッドを凝視した。
「どっかで見たことあると思ったら、キミは時坂なつきだな? <マニッシュビーツ> の」
「私も思い出した。あんたたち、うちの中学で暴れ回ってた二バカならぬ二鷹にたか≠フふたりでしょ。名前は忘れたけど、なんとなく顔は覚えがある」
 その指摘には、恭も驚かされるところがあった。
「へえ、同じ中学出身? 六角牛ろっこうし中にアイドルなんていたんだな」

「なにそれ、腹立つ! 私はそっちを知ってるのに、そっちは私の存在すら知らなかったってわけ?」
 時坂なつきは柳眉を吊り上げると、苛立たしげにユウコへと視線を投げた。
「分かった。まずはこの二人を叩きのめすから。あなたはその後。それで決まりね?」
「時坂さんが良いなら、私は別にその条件で構わないけど」ユウコが答える。
「あっそ。じゃ、さっさと済ませちゃいましょ。二鷹なんて、所詮は悪目立ちしてただけのお山の大将レヴェルでしょ。面倒だし、特別に二人まとめて相手してあげる」
 アイドルは余裕の笑みで言うと、自分のコンセラクスを呼び出した。
 オゾン臭にも似た微臭が漂い出すと同時、無改造の白い球体が現れた。
「コンセラクス、今の会話、聞いてたよね。条件入力と、交流戦の認証をして」
「条件入力完了しました。デッキを取って、 <スポット> で認証を行って下さい」
 性別判定もしていないのだろう。
 ジェンダーを感じさせない、さりとて合成音声としての機械っぽさもない声が、抑揚なく言った。

「やれやれ。まあ、リスクも小さいし、実戦経験積んどくのも悪くないか」
 諦観漂う嘆息を小さく挟み、梨木鷹一も自らの相棒を呼び出した。
 キットと名付けられた男性型であること以外、彼のコンセラクスもアイドルのそれと大差がなかった。
 もっともプラグインによる拡張をしていないなら、これがむしろ当然のあり方だと言える。
 無改造にもかかわらず外見を自らの意志で変える、恭のびしゃもんが異質中の異質なのだ。
 少なくともユウコは他に例を知らない。
「なんだよ。俺もあのうるさいのを召喚しないといけないのか?」
 恭は、状況が掴めない、という顔で落ち着きなくきょろきょろしている。
「あろうことか、うるさいのとは! ボクの人格に対する深刻な侮辱と認識するよっ」
 叫びと共に、主人のいうところの白丸≠ェ騒々しく出現した。
 早くもご立腹の様子で、見えない床で跳ねるゴムボールのように上下運動を繰り返している。

 呼ばれもしないのに自ら実体化するのも、このびしゃもんだけに見られる珍しい反応であった。
 ミーシャが同じ事をやりだしたら、ユウコは故障を疑って修理に出すだろう。
「実際、うるさいだろう。お前は」
 恭が仏頂面で言い返した。
「なんか交流戦ってのをやることになったんだ。白丸抜きじゃ駄目みたいだから、よく分からんが頼むぞ」
「ほほう、ボクがいないと駄目だなんて。ようやく、身の程というものが分かってきてきたようだね、鷹取恭。そうだよ。キミはもっとボクを敬うべきだ。可愛がるべきだ」
「いいから、ホラ。なんか、デッキとかいうのを出してくれ」
「ボクがいないと駄目だなんて泣かれてしまっては、仕方ない。出してあげるよ」
 勝ち誇って言うと、びしゃもんは空中で回れ右して、恭に背を向けた。
 一拍おいて、そこに有袋類のようなポケットが、浮き上がるようにして現れる。

「なにやら怪しい感じだな。四次元に通じてそうだ」
 恭が大げさに顔をしかめた。
「失敬だな、キミは。でも、あながち間違いじゃない。さあ、鷹取恭よ。キミのデッキをいざ、受け取るが良い」
 凜とした声で高らかに言った直後、びしゃもんは突然くねくねし出した。
「……でも、手を入れる時は、恥ずかしいから電気消して」
「あいかわらず無駄に面倒な性格のやつだ。真っ昼間の屋上で、電気も何もあるか」
 言うと、恭は容赦なくポケットに腕を突っ込んだ。
 瞬間、びしゃもんが「あふん」だとかいう、誰もが反応に困る声をあげた。
 身体も、皿に移したばかりのプリンよろしく、ぷるぷると震えている。
 AIとしての性格もそうだが、構造にもよく分からない部分の多いコンセラクスであった。

「――これか?」
 恭がポケットから手を引き抜くと同時、すぽんと、シャンパンボトルを開けた時そっくりの音が響いた。
 隣で恥ずかしそうに「もう、ばか」だとかつぶやいているコンセラクスには全く取り合わず、恭は手にしたデッキを物珍しそうに眺めている。
 それは表面を綺麗に仕上げられた、合成樹脂製の物体だった。
 真珠色ともいうべき灰白色を基調にして、所々に散りばめられた金属的な銀色のパーツがアクセントになっている。
 大きさはクレジットカード以上、文庫本以下といったところか。
 ほぼ両者の中間と言って良いだろう。
 だだし、厚みとなるとこれは明らかに書籍よりで、クレジットカードならかなりの枚数、収納できそうである。

「じゃ、もう条件設定は済ませてあるから。私、先に行って待ってるね」
 時坂なつきはそう言うと、アイドルらしからぬ目つきで対戦相手を一睨みした。
「――逃げないでよ、二鷹さんたち」
 低い声で釘をさす。次の瞬間、彼女の愛らしい姿は魔法のように掻き消えていた。
 コンセラクス相手に何度も見てきた現象だが、ユウコも人間の転送を見るのは初めての経験となる。
 分かってはいても、やはり少なからぬ驚きがあった。
 恭に到っては、当然のように予備知識すらなかったらしく、口をあんぐりと開いて呆然とアイドルの消失した空間を眺めていた。。
「お、おい。なんだ、これ。――えっ? 今、消えたよな?」

「何を驚いてるの、鷹取恭。ボクだっていつもリージョンに帰る時はああなるじゃないの」
 びしゃもんは、首を傾げる代わりに身体全体を斜めに倒している。
 その疑問はもっともだが、虫は躊躇なく殺せても、同族が相手となると感傷的になるのが人間という生物だ。
 一方で、同族殺しを平気でやるのもまた、人間という生物であるが――。
「いや……えっ? だって、リージョン? リージョンって……」
「落ち着け、恭」
 混乱する親友に苦笑いしつつ、梨木鷹一が穏やかに諭《さと》し始める。
「ただ移動しただけだ。俺たちもすぐだよ。転送でミスったなんて話は聞かないから安心しろ」
「転送? でも……じゃあ交流戦って」
 それでも慌てふためく恭だったが、やがて、言葉の途中で自らも姿を消した。

 直後、高層ビルに特有の強風が、彼らのいた痕跡をかき消そうかというように吹きつけた。
 ユウコは終始無言のミーシャと並び、暴れ出した自分の後ろ髪を押さえつける。
 瞬く間に通り過ぎていく一陣の風は、やはり微かなオゾンの匂いをユウコの元に届けていった。



to be continued...
つづく
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