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06−07

  06

 語尾に「ザマス」を付けて喋りそうな女性事務員が、すちゃりと銀縁眼鏡を持ち上げた。
 冷たい光を放つ双眸が、まるで犯罪者でも迎えるように恭を映し出す。
「ようこそ、白丘明芳学園へ。ご入学おめでとうございます。左右どちらでも良いので、プレート上に手のひらを乗せて下さい。それから、はっきりとした発声で氏名をどうぞ」
 恭は、言われるまま液晶パネルのような黒っぽい台座に右手を置いた。
「タカトリ・キョウ」
「結構です。これで、お渡しするコンセラクスはあなた専用機になりました。話しかけると使用言語を解析し、以降、同じ言語で会話できるようになります。設定の変更方法を含め、学園に関するあらゆる質問はコンセラクスに聞いて下さい。
 教科書などの配布物は、寮の方で揃えられています。寮までの地理案内もコンセラクスが行います。コンセラクスそのものに初期不良、故障が疑われた場合は、専用の受付がこの建物の地下にありますのでそちらへお持ちより下さい」

 教師のような口調で言うと、事務員が白い球体をずいと差し出した。
 恭は両手で丁重にそれを受け取る。冷ややかな手触りを想像していたが、実物はほんのりと温かかった。
「では、良い学園生活を。あなたの前途に幸あらんことを心より願うザマス」
 事務員は素敵な笑顔を浮かべ、キレのある動きで右手の親指を立てた。
「かたじけないザマス」
 恭は引きつった笑みで、なんとか同じ仕草で返す。
 だが、本当に「ザマス」言葉を操りだしたこの事務員に、俄な好感を抱き始めてもいた。

「あ、タカトリ・キョウさん。すみません、ちょっとお待ちを」
「なんザマしょ?」
 踵を返しかけていた恭は、コンセラクスを抱いたまま振り返った。
「私信があったのを忘れていました。ウィルキンソン司法局長が面会を求めておられます。都合の良い時、いつでも司法局にある彼女のオフィスをお尋ね下さい、とのこと」
「司法局長?」
「そうザマス。学園都市に勤務する全女性職員の憧れの存在ザマス」
「流石。やはりそのランクの女性ともなると、万単位の新入生の中からでも正確に将来有望な人材を見つけ出せるというもの。これはもう、プロポーズが待ってるとしか」
「あり得ないザマス」
 事務員がまたメガネのフレームを持ち上げる。
「――次の方どうぞ」

 恭は深く傷ついて、列を離れた。待たせていた本多夕子の元へとぼとぼと向かう。
「どうしたの、ゼリーのように震えて。コンセラクス貰えてそんなに嬉しかった?」
「酷い言葉で、我がガラスのハートはずたずたザマス」
「ザマス?」ユウコは不思議そうに首を傾げた。
 とりえず場所を変えようという彼女の提案で、建物の外に出た。
 途中、恭は司法局長から面会を求められたことだけ、簡単に説明した。
「えっ、局長に呼び出されたの?」
 ユウコが目を大きくして振り返る。
「凄いじゃない。何だろ。いいな。私もついて行って良い?」
「でも、何の用かも分からないんだぞ。俺は八・二でプロポーズだと睨んで――」
「あり得ないわね」
 断言だった。
「ね、もちろんすぐに会うんでしょ? 手続きも済んだし、早く行きましょうよ。寮に荷物を置いてから? それとも真っ直ぐ局に行っちゃう?」

「なぜ、君がはりきるんだ。それに、まだ帰らなくて良いのか。もう五時過ぎだ」
「私は単身寮だから門限は基本的にないの。寮監もいないし、かなり自由がきくのよ」
 どの道、今日は一日探検して回る気だったという。
 実際、昼食を終えてからというもの、恭はユウコに様々なところへ引っ張り出された。
 彼女は生まれたての子犬も同然、なんにでも鼻をひくつかせながら好奇心いっぱいに駆け寄っていった。
 回ったのは白芳の内部だけなので金が一切かからなかったが、その分、気力と体力は大幅に削られた気がする。
「本多さんや。寮も司法局も良いんだが、わしゃ自分の白丸を早く起動させてみたいのよ」
「あ、そっか。まだ男の子か女の子かも確かめてないしね」

「え、性別があるの? この機械の白丸に?」
「そうよ。コンセラクスにどの言語でも良いから、告白の言葉を≠チて呼びかけるの。そしたら同じ言語でアイ・ラヴ・ユー≠チて意味の言葉を返してくれるのよ。その声で性別が分かるって仕組。一度決めてしまうと、もの凄く高価なプラグインでしか再判定できないから、特に興味ないなら未設定のままにした方がいいかもね」
「本多さんの場合、ミーシャは女の子の声で愛を囁いたってわけか」
「そう。ちなみに名前はどうするつもり? 自分で決めたいなら、鷹取君が教えるのよ。もともとコンセラックスが持ってる名前で良いなら、訊けば向こうから答えてくれる。こっちは、割と簡単に変更できるからどっちを選んでも良いんじゃない?」

「ミーシャって名前は誰が決めたんだ?」
「それは、元から彼女に割り振られてた名前。私、ネーミングセンスに自信ないから」
「ちなみに、キミが付けるとしたらどんな名前になってたんだ?」
「最有力候補は、ジャン=クロード・ヴァン・バン・ビガロだったんだけど」
「……キミは正しい選択をした」
 一瞬で色々なことを理解した恭は、ユウコと近くのベンチに向かった。
 辺りはまだ本を充分読めるほどに明るいが、高層ビルが建ち並ぶだけあって、影になる部分も広範囲に及んでいる。そうした日陰では早々に街灯の明りが点り始めていた。

「コンセラクス、名前と告白の言葉を教えてくれ」
 恭はヒザの上に置いた球体に語りかけた。
 隣ではユウコが目を輝かせ、成り行きを見守っている。
「――フフン、ボクは性別などという概念を超越した存在なのだよ、鷹取恭」
 聖歌隊の少年のような、男勝りな少女のような、中性的で高い声が返った。
 同時、白丸が暴れ出し、恭のヒザから飛び退いた。
 それは前方の空間で静止すると、そのままふわふわと宙を漂い始める。
 いつの間にか底の部分にはソフトクリームのトンガリそっくりな突起が出現して、完全な球体ではなくなっていた。
 さらには、アニメ絵風に簡略化された巨大な吊目と、生意気そうな口までもが知らない間に浮き出ている。

「まあ、ボクは比較的寛容なタイプのコンセラクスだからね。仕方ないから、名前だけは教えておいてあげるよ。感涙にむせびながら聞くが良いさ。いいかい、ボクは――」
「初期不良品の持ち込み先は、どこだっけ?」恭は白丸を無視して、ユウコに訊いた。
「確か、事務棟の地下だったと思うけど」
「聞いてるのか、鷹取恭。入試の総合得点が四点だったアホのくせに生意気だぞ!」
「これは悪質な不良品だな」
 恭は目を閉じ、ゆっくりと首を振った。
「俺の総得点は四千点だったに違いないというのに」
「夢見るなーっ。とにかく、ボクの名前を聞いてよ。いや、むしろ正座して聞くべきだ」
「変わったコンセラクスね。クラス3のAIは通常、もっと事務的で理性的なはずよ?」
 ユウコはなぜか恭と出会った時と同じ表情で、白丸をしげしげと眺めている。
 実際、彼女のミーシャは年長者の余裕と落ち着きを感じさせるキャラクターだった。

「いいかい、良く聞くんだ。愚かな生物よ。ボクの名前はびしゃもん=Bびしゃもんだ。どう? この優美さと、聞けば自然と落涙してしまうような神秘性とを兼ね備えた――」
「びしゃびしゃモンスター≠フ短縮形か?」
「あろうことか!」
 突然、くわっと目を見開いて白丸が叫んだ。
「あろうことか、ボクの名前を……よくもそんなバッタモンみたいに。あんまりじゃないか、ひどいじゃないか!」
「こんなのが俺の案内役で、三年も付き合う相棒なのかよ。チェンジはきかないのか」
「それはこっちのセリフだっ」
 白丸は浮いたままぷりぷりと怒っている。
 コメカミに漫画チックな怒りマークが表示されているため、感情は非常に把握しやすい。

「まあ、いいや。じゃ、とにかく初仕事だ。俺の寮に案内してくれよ。なるべく金のかからないルート設定で頼むぞ」
「良いだろう。四点男のキミが、ポイントもお金も持っていないのは百も承知。仕方がないから、徒歩でのプランをこれ以上ないくらいエレガントに提示してあげようじゃないか。一ヘクトパスカルたりとも狂いなくねっ! さあ、伏して受け取るが良いよ」
「あの、良かったら私、タクシー呼びましょうか?」
 ユウコが優等生のように小さく挙手して言った。
「あろうことか! ボクが徒歩でルート検索するといった矢先に、あろうことか」
「そのあと、私も一緒に司法局へ連れて行ってくれるという条件で取引。どう、鷹取君?」
 ユウコは白丸のあげる騒音を完全にシャットアウトし、話を持ちかけてくる。

「こっちの提供できるものが小さ過ぎて、対等な取引とは言えなくないか? 同行は問題ないけど、本多さんをそのウィルなんたら局長に紹介できるか、俺は保証してやれない」
「ウィルキンソン司法局長よ。――良いの、機会さえ提供して貰えれば。普通なら、個人的面会なんてチャンスすら与えられない雲上人なんだから」
 ブチブチと白丸が文句を垂れていたことを除けば、話はすんなりとまとまった。
 ユウコはすぐに携帯でタクシーを呼び、二分も待たないうちに「予約」表示の車が現われる。
「なんだよ、白丸。急に黙り込んで。お前が住所教えてくれないと移動できないんだぞ」
「ふん。ボクは今、たいへん機嫌が悪いんだ」
 後部座席に乗り込んだ恭の膝上で、白丸はそっぽを向いて浮かんでいる。
「でも、すぐに謝ったら許してあげてもいいんだからね」

「めんどくさい性格のやつだな」
 小さくつぶやいたあと、恭はおざなりに言った。
「ああ、分かったよ。ゴメンな。悪かった。お前は史上最高の球体だ。輝いてる。住所教えてくれ」
「なんだ、もう。しかたのないやつだね、鷹取恭は。ボクがいないと何もできないんだ」
 一瞬で機嫌を直した白丸は、妙にくねくねしながら住所を口にした。
 黙ってやりとりを聞いていたユウコが、苦笑しながら「今の所までお願いします」と運転手に声をかける。
 了承の声が返ると同時、サイドブレーキが下ろされ、エンジンの回転音が上がった。
 アイドリングしていたタクシーは滑るように走り出し、白芳の門をくぐり抜けていく。

 土地勘の全くない恭だったが、車が都市外周部へ向かっていることはすぐに分かった。
 部外者に地理地形を説明する際、この街はよく「横たわったアーモンド」か「頭を西向きにした太った魚」にたとえられる。
 後者を例をとった場合は、尾の位置にあるのが玄関口である白丘駅。
 背骨が午前中、鷹一と歩いたメインストリートに相当する。
 先ほどまでいた白芳学園は都市西部を占めているため、概ねエラから頭部辺りになるだろう。
 タクシーを含めた一般車両が走行するのは、通常、魚の輪郭に当たる外周幹線道路だ。
 ユウコとびしゃもんの話によれば、学期中の朝夕は自動車通学の生徒たちによってサーキットと化す道らしい。制限速度はあるが、私有地のため警察の取り締まりがないのだ。

 今、恭たちが走っているのは、腹側の自動車道――すなわち南回りのバイパスであった。
 道は片側三車線と広く、車の流れは悪くない。
 タクシーは八十キロ前後で五分ほど走り、そこで唐突にウインカーを出した。
 そのまま、ともすれば見逃してしまいそうな脇道に入り込んでいく。
 フラットな市街地と違い、足下の地形は徐々に起伏を帯び始めていた。
 街灯の間隔は急速に広がり、勾配が急になると共に路面の舗装も雑になっていく。
 車がすれ違えなくなるほど道が狭くなった時、側面を流れるガードレールは完全に雑木林へと姿を変えていた。
「――何だろう。ボク、嫌な予感しかしませんよ?」
 恭は両膝をさすりながらつぶやいた。

「そうね」
 自分のことでもないのに、ユウコも窓の外を眺めて心配そうにしている。
「こんな所に学生寮があるなんて聞いたことない」
「おい、白丸よ。お前、人気がない暗がりに誘い込んで、俺たちを消す気か?」
「あろうことか!」
 球体はぶるぶると怒りに震えだした。
「高貴なるボクが、あろうことか、そんなチカンや変質者みたいな手口を使うわけないじゃないの」
 そんなやりとりをしているうちに、路面からはいつしか完全にアスファルトのコーティングが消え去っていた。
 タクシーのサスペンションが過負荷に悲鳴をあげ始める。
 殺しきれない振動が、恭たちを大きく上下に揺さぶった。

 いい加減、車酔いを本気で心配し始めた時、タクシーはようやく目的地へと辿り着いた。
 恭たちはふらつきながら、逃げるようにして車外に出る。
 高いところ来たせいか、あるいは単に日が陰りつつあるためか、夕暮れの風は肌に冷たく感じられた。
「荷物を置いたら戻ります。少し、待っていて下さいますか」
 ユウコと運転手の交渉を聞きながら、恭は本当にあるのか疑わしい寮の存在を探した。
 辺りは、丘の上に開けたちょっとした広場といったところだった。
 鬱蒼と茂る常緑樹が周囲を完全包囲しており、ここまで来た自動車には来た道を引き返す以外の選択肢が与えられていない。
 文明に帰属する存在は、十メートルほど先にぽつんとある山小屋と、その裏手に広がる荒れ果てた菜園のみ。
 山小屋の方は、平屋の屋根に設置された太陽光パネルが妙に浮いた感じの、古めかしい佇まいだった。

「えっ、寮って、まさかあれ?」
 話を済ませたユウコが、後ろから近づいてきて高い声を上げた。
 恭は何も答えず、山小屋に向かって歩き出した。
 近づいてみると、小屋本体はさほどでもないが、長細い納屋のようなものと融合した構造のせいで、全体的な規模は思いのほか大きめに見える。
 かなりの歴史が伺えるデザインであるものの、人体よりも太い丸太を惜しげもなく使っていることを含め、施工そのものは悪くない。
 真新しい太陽光パネルといい、ごく最近、補修・改修を行ったと思わしき痕跡も散見される。
 裏側には手動ポンプの井戸と、薪の保管庫、立派な飼料倉庫がひとつずつ。
 玄関の脇には、カマボコ板のような木製プレートが雑に取り付けてある。
 そこにはマジックで「特別寮」と下手くそに書き殴ってあった。

「一応、鍵もかかってるな」
 恭はドアノブを回しながら言った。
「生意気にも電子式らしい。びしゃもん、開けられるか?」
「オッケーだよ。ロックは解除した。以降は、キミの <コミュケ> でも開閉できるよ」
 その宣言に先んじ、小さな電子音とロック機構の作動音がすでに恭には聞こえていた。
 試してみると、今度はすんなりと扉が開いていく。
 外観から想像出来たように、ドアの内側に日本的エントランスの概念は存在しなかった。
 入った瞬間から、土足で上がれるだだっ広い空間が連続して続いている。
 センサーがあるのか、屋内はすでに電球色のライトで照らし出されていた。
 天井は高く、それを支える巨大な梁から幾つものシーリングファンがぶら下がっている。
 最奥部に見える小さなドアは、ユニットバスに繋がるものか。
 それ以外には暖炉が一つ。
 あとは、中央の窓よりに丸太を加工して作ったテーブルセットがあるのみ。
 家具家電の類は他に一切見られず、ベッド代わりのつもりか、隅っこに藁の山が積み上げられているだけだった。

 そして――これは中に入る前から鳴き声で気付いていたことだが――、牛がいた。
 外から納屋のように見えた部分は、人外のためのスペースであったらしい。
 恭の肩越しに屋内を見たユウコが、はっと息を呑むのが分かった。
 寮だと思って足を踏み入れた場所に巨大なモーモーさんがいれば、誰でも同じ反応を見せるだろう。
「……びしゃもん君、説明してくれるよね?」
 恭は低い声で訊いた。
「では、説明しよう。――ここがキミのハウスだ」
「肝心なとこを端折るなよ」
 語調をきつくして詰め寄る。
「この街の寮には、家具一式と朝晩の食事が付いてくるんじゃなかったのかよ。なのにここには食堂もなけりゃ……ベッドはどこだ? あの藁の山か? 俺はなあ、生まれて初めてベッドで寝られるって聞いて、ここを受験したようなもんなんだぞ」

「まあ、落ち着きなよ、鷹取恭。キミは入試で四点しかとれなかったんだよ? そんな点数での合格なんて前代未聞だし、本来ならあり得ないはずなんだ」
「学園都市が、学力じゃなくて個性の強さとか人格のユニークさで人を採るからだろ」
「それにしたって限度ってものがあるよ。そもそもそれは、一定レヴェルの学力さえ備えていれば、あとは人格や個性が優先される、という意味合いであってね。人間的な面白さが全てなら、入試は学力試験なしの面接だけで良いはずでしょ?」
「それは……まあ、そうかも知れないけど」
 恭は白丸の論理攻撃に少し鼻白む。
「キミも知っての通り、新入生は入試の獲得点数に応じた初期ポイントをもらって、そこから授業料と寮費を払う。この初期ポイント支給額には、これまで下限なんて設定されてなかった。なぜって、システム上そんなもの必要なかったからね」

「ちょっと待って。じゃあ、鷹取君が入試で四点だったって話、冗談じゃなかったの?」
「だからそう言ったじゃないか」
 ユウコの言葉に、びしゃもんは不満そうな顔で応じた。
「とにかくね、鷹取恭。キミは想定外の存在なんだ。下限設定がなかったことが災いし、ほぼ無一文の――最低ランクの寮にすら入れるだけのポイントが支給されない、超大底辺学生が誕生したってわけさ。たとえるならコンビニ弁当に入ってる緑のギザギザだ。バランだ。農奴だ。ゴミだ。チリだ。ダストだ」
 このイレギュラーを受け入れるに当たって、学園都市側は一計を案じたのだという。
 元々この一帯は、農学部が時おり野外学習のために使っていた土地であった。
 ところが、別の区域に整備された農場が作られて以降は、忘れられて久しい存在となっている。
 このうち捨てられた設備を、イレギュラーのための最も格安な寮として利用できないか?
 そんな学園都市の思惑が、玄関にぶら下げられたカマボコ板の表札を生んだのである。

「ただし、タダで貸すわけじゃないよ。家畜や施設の手入れメンテナンスと引き替えだ。水は井戸から確保できるし、電気も発電システムがあるから無料。食料は自己調達。近くの川と裏手の広い菜園を整備して活用すれば、色んな物が収穫できるはずだよ。苗は申請すれば一定範囲内で支給されるしね。奥の森にはイノシシやタヌキがいるから、タンパク源も完璧さ」
「なんてこった」
 恭は深々と嘆息すると同時、両肩を落とした。
「これじゃ、今まで住んでた爺ちゃんの家と変わらないじゃないか。念願の……憧れのベッド生活が……」
「学園側もこれで随分と便宜をはかったんだぞ。ベッドのある寮に入りたければ、精進してSSAポイントを稼ぐんだね。それで誰に恥じることなく、好きな寮に移れるんだから」
 白丸のその主張は、ある意味、文句の付けようがない正論だった。
「でも、ボクは捨てたもんじゃないと思うよ、この特別寮も。なんたって毎朝ミルクが無料で飲めるじゃないか。それも絞りたての。これ以上、フレッシュな話があるかい?」

  07

 待たせていたタクシーで行政区に着いた時、時刻はもう十八時を回っていた。
<オリジン> にあった本物の岩手県がどうであったかは不明だが、こちらの岩手県では今の時期、十八時を回ると辺りはかなり薄暗くなる。
 自分からついてきたとはいえ、恭は何となくユウコを連れ回していることに、後ろめたさのようなものを感じ始めていた。
 噂に聞く司法局は、白芳学園の高層ビル群にまったく見劣りしない威容を誇っていた。
 塔型の細長なインテリジェントビルで、エントランスの案内板を信じるなら地上三十六階建て。
 平面積の狭さを、階層を重ねることで補っているような建物であるらしい。
 ビル内には通報を受け入れる通信指令室の他、驚くべき事に「岩手県警白丘警察署」自体も設置されているとある。上階層には記者クラブ、武道場になっているフロアもあった。

「こりゃあ、確かに高校の単なる風紀委員会とは次元が違うっぽいな」
「当然さ」びしゃもんが胸を張るような口調で言った。
 「学園都市って言葉は古くからあるけど、それは常に他と比較して学校が沢山ある街£度のニュアンスで使われてきた」
「あくまで、街という入れ物の中に教育機関が多く入っている、という構図ね」
「その通り」
 ユウコの言葉に身体ごとうなずき、白丸は続ける。
「でも、白丘学園都市は根本からそれとは違う。なんたって、最初に学校が作られたからね。そこに集う万単位の学生の居住施設として住宅地が作られ、彼らの食生活を支えるために飲食店が作られ、生徒の健康管理のために病院が作られ、移動のために交通機関が整備された……」

「えっ、そうなの?」
 恭にとってはどれも初耳の話である。
「そうなの。何よりね、この街全体が学園都市の敷地内――私有地内に存在していることを忘れちゃいけない。つまり、学園という入れ物の中に街があるんだ」
「そうなのよね。私も知った時は驚いた」
 ユウコが言った。
「所轄署が司法局のビルを間借りしている事実が、学園都市の特異性と力を物語ってる。一一〇番通報が県警本部の通信指令室じゃなくて、直接ここに繋がることもそう。他には小笠原諸島くらいしか例がないんじゃない? 一種の治外法権が確立されてる証拠よ。今国会で <特区法> の改正案が成立すれば、その傾向はさらに顕著になっていくんじゃないかな」
「――なんだそりゃ。いきなり政治の話か? 苦手なんだよな、そっち方面は」

 恭は顔をしかめて会話を打ち切り、フロアマップの前を離れた。
 半円形に優雅な曲線を描く正面カウンターに向かい、受付嬢に用件を告げる。
 しばらく待つと、内線でどこかに伺いを立てていた女性が慇懃に頭を下げた。
「申し訳ございません。現在、ウィルキンソン局長は緊急の用件で席を外しております。戻り次第、お会いしたいとの事ですが――それまで、二十分ほどお時間はいただけますでしょうか」
 恭は返事を保留し、ロビィで待機しているユウコに意見を聞いた。
 構わないという返答を受け、それを受付嬢に伝える。
「では、準備が整い次第、鷹取様のコンセラクスにご連絡さしあげますので」
「そんなことができるんですか。じゃ、お願いします」
 再びロビィに戻ると、ユウコは待ち時間をどう使うか既に戦略を練って待ち受けていた。
「ね、三十階にスカイラウンジっていうのがあるんですって。行ってみない?」
「スカイときたか……いかにも、缶ジュースを地上の五割増しで売ってそうな響きだ」
「他に、どこか時間をつぶせそうなところある?」
「いいや。その五割増しラウンジに行ってみよう。入場料をとられないことを祈りつつ」

 移動の途中、恭は受付嬢の着衣が司法局の制服であったことに気付いた。
 警察同様、権威の象徴として存在するのだろう。
 エレヴェータホールに向かうまでの短い間にも、紺色をベースにした標章つきのジャケットを羽織った男女を何人も見かけた。
 どうやら下に何を履くかは自由であるようで、ジーンズ姿の青年がいれば、スカートの中年女性もありと多様だ。
 ただし、何も履かないという選択は許されないらしい。
 少なくとも実践している勇者は見当たらなかった。
「あのジャケットが、本多さんの憧れであり、目標ってわけだ」
 エレヴェータに乗り込みながら、恭はユウコに話しかけた。彼女がふと微笑む。
「ちょっと違うかな。あのジャケットは過程であり手段よ。司法局に入れば、人間の色んな側面が見られると思って」

 言った後、ユウコはすぐに自分の言葉を否定した。
「ううん、人間には本来側面なんかなくて、もっと境界が曖昧な――つまり、本質は球体に近いものなんじゃないかと私は思ってるの。観測技術の未熟と、視野スポットライトの狭さが死角だとか側面だとか、影の部分を生んでいるだけでね。でも、全方向から満遍なく光を当てれば、影も側面もできはしないでしょ。私はそういう物の見方ができるようになるために、観測技術を上げたいの。もしその技術が磨けるものなら、それはこういう司法局のような場所でこそ、効率的にやれそうだと思わない?」
「どうなんだろうな」
 恭はきらきらしたユウコの目を見つめ返した。
「まあ、本多さんが思ったより熱いタイプらしいってことは分かったよ」

 エレヴェータが軽快な電子音をあげる。
 開けた扉の向こうに広がるスカイランウジとは、三百六十度ガラス張りの展望フロアだった。
 主に個人用オフィスを持たない局員が、来客をもてなす時にでも用いるのだろう。
 大部分は飲食系のテナントで占められていて、学園都市の美しい街並みを見下ろしながら軽食を取ることが可能になっている。
 もうしばらくすれば、ムーディな夜景つきのディナーを求めて人が集まり始めるに違いない。
 片隅には、恭の予想通り自動販売機のコーナーもあり、これも予想通りに地上の五割増しの価格が表示されていたが、そのことで特別な感動や喜びが得られることはなかった。
 だが、その自販機で、見覚えのある男が珈琲を買っていたことには大いに驚かされた。

「鷹一、お前……なんだよ。こんなとこで何やってんだ?」
 呼びかけたにもかかわらず、梨木鷹一はのんびりした様子で紙製のカップを傾け続けた。
 中身を飲み干すと、ようやく恭に視線をくれる。
「恭か。そっちこそ、コンビニの次はどこに押入《おしい》って逮捕されたんだ?」
「俺は局長に呼び出されたんだよ」
「局長に?」
 鷹一は片眉をぴくりとさせたが、深くは追求してこなかった。
「ふうん。俺は、まあちょっとな。さっき、白芳の方で殺しがあったのは知ってるか?」
「コロシ? 殺人事件ってことか」

「鷹取恭、ボクが調べた限り、それと思わしき事件は臨時速報として、もう各メディアで報じられてるよ。このラウンジにある大型TVでも流れてる」
 恭の背後に隠れていたびしゃもんが、顔だか身体だか分からない球体の半分だけをのぞかせて言った。
 AIでありながら、この白丸は極端に人見知りする性格であるらしい。
「なんだ、それがお前のコンセラクスか?」
 鷹一が言うと、びしゃもんは怯えたようにまた恭の後ろに姿を隠す。
「なんか、そういうことになったみたいだ。――で、殺人事件がどうしたって?」
 訊くと鷹一は、その事件の目撃してしまったのだ、と答えた。
 それから、街中のバス停で発生した銃撃事件について簡単に語り始める。
 彼は警察に事情を聞かれ、今は一緒にいた知人の聴取が終わるのを待っているところらしい。

「犯人は? 被害者の女はどうして撃たれたんだ」
「どちらも不明だ。撃たれたのは単なる主婦で、特別な経歴もないとさ」
「物騒な話してるのね」
 離れた所にいたユウコが歩み寄ってくる。
「鷹取君のお友達?」
 紹介して、という明確な意志を含んだ視線が、恭に向けられた。
「ああ、こいつは中学時代からの腐れ縁なんだ。今年、白芳に入った梨木鷹一だよ。老けてるけど、同い年だ。鷹一、彼女はさっき偶然知り合った……」
「本多夕子さんだろう?」
 鷹一が笑顔で遮った。
「知ってるよ。学報で見た。本年度、白芳に主席入学を果たして <学長賞> を受賞した注目の新人、だよな?」
「その本多夕子で間違ってないと思うわ。初めまして。よろしくね、梨木君」
 ユウコの差し出した白く華奢な手を、鷹一のグローブのような手が掴み返した。

「ちょっと待った」
 恭は微笑みを交わし合うふたりの間で、視線を数往復させた。
「本多さんってそんなに有名だったの? 主席って、入試でトップ成績だったってことだろ?」
「問題は、恭。なんでお前みたいなチンピラが、こんなアイドルを連れて歩いてるかだ」
 そのもっともな問いに、恭は彼女がコンビニ強盗の間接的関係者であることを伝えた。
「ああ、お前の仲が良いっていう、あの店員の?」
「でも、最初はお互いそれを知らなかったのよね」
 ユウコが素敵な笑顔で補足する。
「人気のない教室にいた私を、いきなり現われた鷹取君が有無を言わさず乱暴したの。それが出会い」
「なんか、もの凄く誤解を生みそうな説明だなあ」

「恭君」
 感情を押し殺した声で鷹一が問う。
「キミ、この美人を乱暴しちゃったの?」
「ついカッとなってやった。今は反省している」
「――殺す」
 鷹一は短く言うと、冗談めかして恭の首に両手をかけた。
「まあまあ。許してあげて、梨木君。私はもう気にしてないから」
「このおぞましい獣《ケダモノ》から受けた蛮行を、もう気にしてないって?」
 恭を揺さぶりながら鷹一が言う。
「キミは天使なのか? それともストックホルム症候群?」
「うーん、外積した感じかな?」
 笑くぼを作って答えたユウコは、「それより、事件の話だけど」と、真顔にもどって続けた。
「私たち、局長に会いに来たところを、緊急の用件が入ったから少し待てって言われてるの。これって……」

「ああ」
 鷹一の拘束から脱出して、恭はうなずく。
「多分、事件のせいだろうな」
「まあ、そういうことなら、恭の言う通りだろう。司法局も所轄署の方も、それに記者クラブ関係も関連フロアは戦場みたいな騒ぎになってた。静かなのはこういう場所だけだ」
「お前はもう、取り調べ終わったんだよな?」
 恭は訊いた。
「口頭の分はな。でも、現場検証の立ち会いはこれからだ。俺、狙撃犯が残していった銃の空薬莢を拾ったんだよ。その時のことを色々確認したいらしい。解放されるのは夜だな」
 言葉の途中、鷹一の左手首から微かな電子音があがった。
  <コミュケ> と通称される、学園都市からの支給品だ。
 腕時計に似たブレスレット型の端末で、もちろん恭やユウコも既に身につけている。
 無線でコンセラクスに常時接続されており、離れている彼らと様々な情報をやり取りできる代物だ。
 コンセラクス同様、この街の中でしか存在の許されていない、実験的オーヴァ・テクノロジの一例である。

「――言ってるうちに呼び出しだ」
 鷹一は空の紙コップを握りつぶし、ダストボックスに放り込んだ。
「残念だけど、もういかないと」
「二股なんて続けてると、今度はお前が撃たれるぞ。気をつけな」
「六股だ」
 歩き出しながら、鷹一は恭を指さして笑う。
「それに俺は事実を隠してない。撃たれるのはいつも、隠そうとして失敗した奴だよ。じゃあな。本多さんも、またいずれ」
「ええ。機会があれば」
 大股で去っていく鷹一の姿は、あっという間に角の向こうへ消えていく。

「大人っぽい人ね」
 背を見送っていたユウコが、恭に振り返って言った。
「それに、なんとなくだけど、女の子にモテそう」
「今の会話聞いてたろ。実際、大モテだよあいつは。言ってたツレってのも間違いなく女の子だ。本多さんにも、そのうちお声がかかるかもな」
「それはないと思うな」
 なぜか、彼女は即答した。
「彼、凄く頭が良い人でしょ? 私とそういう関係は成立しないって、今のやり取りだけでも気付いたはず」
「そうなのか?」
 彼女が何を根拠に断言しているのか、恭には理解できない。
 だが、本人がそう言うのなら、事実そうなのだろう。

「OH、ニンジャ、サムラーイ」
 鷹一が消えていった方から、調子外れの声がして、恭は思わず振り返った。
 今朝会った、陽気なジャマイカンが陽気なステップを踏みながら近寄ってくる。
 恭は思わず目を疑った。
 ユウコも、謎の円盤から下り立った金星人を見るような顔で固まっている。
「ジムキョク、ドコデスカ? ジムハ、ジムキョク、辿リ着ケマセン」
「お前、まだ彷徨ってたのかよ。――Yo、ジム。このビル、ポリスがメニーメニー。ヤツラニ聞ケバ全部カイケツ。オマエハッピィ、オレモハッピィ。OK?」
「アイシー、アイシー。ミンナハッピィ、ジムウレシイ」
「Yeah!」
 がっちりと手を握り合い、完璧な意志疎通が成されたことを確認する。
 恭は、ラテンのリズムに乗って遠ざかっていくジャマイカンの背を笑顔で見送った。

「あなた、今日来たって言ってた割には顔が広いのね」ユウコが不思議そうな顔でいう。
「あれは、そういうのとはちょっと違う気がするけどね……」
 それからしばらくは、偶然見つけた献血スペースで時間を潰した。
 恭は四百ミリリットルの血を吸い取られながら、茜色から群青色にグラデーションする空と、斜陽を受けて黄金色に輝く学園都市を眺めた。
 現場から距離があるせいか、眼下の眺めに殺人事件が発生したことを窺わせる要素は見あたらない。
 少なくとも見渡せる範囲内に、心拍数を上げて血の吸い上げを加速させるような要素は存在しなかった。

 その間、ユウコはといえば、一時的に恭と別行動をとっていた。
 DD1で投薬治療している患者は、赤十字の規則で献血を禁じられているためである。
 恭が彼女と合流したのは、止血と水分補給を終えた十五分後のことだった。
 ユウコは展望スペースのベンチで、売店で買った野菜サンドを頬張って時間を潰していた。
「ね、良かったら、この残ったパン、貰ってくれない? シーチキンサンドも付けるから」
「ああ、炭水化物制限?」
 最初に寄ったオープンカフェでも、彼女がベジタリアンのような昼食をとっていたことを、恭は思い出した。
「よろこんで協力しよう。じゃ、このネイルアートの無料サーヴィス券と交換ってことで」
「え、嬉しい――」
 ユウコがぱっと表情を輝かせた。
「これ、どうしたの?」
「献血したら景品で貰った。俺が持っててもしょうがないから」
 薬用ハミガキ、インスタント珈琲セット、赤十字オリジナルグッズ等からの選択制であったことは言わなかった。
 元から今日一日のお礼に、彼女に提供できるものを選ぶつもりだった。

「……そう」
 チケットを胸に抱くようにしてユウコは微笑んだ。
「ありがとう」
「おーい、鷹取恭」
 背後からの声に振り返ると、びしゃもんがふわふわと飛んでくるところだった。
 献血中、探検してくると姿を消していた白丸だが、遠くまでは行っていなかったらしい。
「局長が会えるって連絡してきたよ。最上階のオフィスまで来て貰えるか、だってさ」
 返事を返せるかと問うと、びしゃもんは当然可能だ、とふん反り返った。
 正確にはX軸を中心に少し回転しただけだが――
 いずれにせよ、恭はすぐに向かう旨伝えるよう、白丸に頼む。
「局長様のオフィスは最上階か。やっぱり、一番偉いからかな」
 協議の結果、エレヴェータではなく階段を使うことになったため、恭はユウコとそちらへ足を向けた。
 彼女が患うDD1には適度な運動が求められるらしく、ユウコはなるべく身体を動かしたがる傾向にある。
 特に食後は必ず有酸素運動することにしているらしい。

「――ウィルキンソン局長って、かなりの有名人なんだろ? 実際、どんな人なの」
「有名も有名。学園都市の卒業生で、例の <カウンターストップ> 程ではないにせよ、もの凄い才女よ。イングランド系で、確かまだ二十代だったと思う」
「彼女は二十七歳だよ」
 びしゃもんが自慢のデータベースを活かして補足する。
「そんなに若いのか。求婚されるなら、その方が良いとは思ってたけど」
「それに綺麗な人よ。なのに、まだ独身なのよね。だからって求婚はありえないけど」
「さっきの <カウンターストップ> ってのは?」
「えっ――」
 一段先を上っていたユウコが足を止めた。
「彼女を知らないの?」

「本当にキミは無知だよね、鷹取恭」
 びしゃもんも、今にも嘆息しそうな顔をする。
「SSAポイントって、一点が一円の価値を持つでしょう」
 ユウコが言った。
「都市外では換金も使用もできないけど、溜めた分は卒業の時に現金化して貰える。これはOK?」
「流石にそれは知ってる」
 恭は苦笑い気味に答えた。
 では、過去三十八年間の卒業生の中で、最も多くポイントを稼いだ人物は誰か。その最終獲得額は?
 ユウコは改めて問い、これに恭は首を振った。

「システム上、稼げるポイントの上限は四二九億四九六七万二九六〇ポイントって非現実的な値なんだけどね。この上限に、入学後わずか一年九ヶ月で到達した人がいるの。ウィルキンソン局長の二、三年あとだったかな。ヒヨシ・ソウジュっていう女性。その彼女と記録が、伝説というか……今ではほとんど神格化されて <カウンターストップ> って呼ばれてるのよ」
 ちなみに、話題になっているウィルキンソン局長は、史上四位の記録保持者なのだという。
 卒業時の累計ポイントは六億七千万を超えていたというから、これも充分に驚異的な数字だ。
「で、そのカンストやらかした化物は、稼いだポイントをどうしたんだろうな?」
「それは公開されてないの。当時のSSAの予算規模から考えても、彼女が実際に受け取ったのは最大でも二十億円程度だっただろう、っていう見方が今では定説的ね」
「流石の学園都市も、五百億なんて払えなかったわけか」

「噂では、金銭とは別の何かで埋め合わせがあったらしいけど、残念ながら詳細は不明。有名な話なわりに、謎が多いのよね。貰えなかったポイントの代わりとして、彼女が情報の規制を要求したことは明らかだと思う」
「頂点に立てば、移星権に二十億円を手に入れられる高校か……」
 恭はぼんやりと視線を宙に彷徨わせた。話のスケールに想像がまるで追いついてこない。
「入試でも目を血走らせてた奴がいたわけだ。まさに学園都市ドリームだもんな」
「だからこそ、生じる社会の暗部も広くて深くなる。きっとこのビルの高さとその深度は、反比例しながら拡大していったんでしょうね」
 たった六フロア分の距離ということもあり、最上階にはすぐに辿り着いた。
 部屋数が極端に少ないこともあり、局長室というプレートを掲げたドアを見つけるのも容易だった。

 部屋の前で立ち止まると、恭はびしゃもんを引っ込め身だしなみを整えた。
 隣を見れば、ユウコも服の裾を伸ばしている。
 立場的に当然だが、ノックをしたのは恭だった。すぐに入室を促す女性の声が返る。
 それが存外、年老いて聞こえたことに首を捻りつつ、扉を潜る。
 そこは八畳ほどの細長い空間であった。右手の壁に別室へ続くドア、奥にキャビネットとシステムデスクが置かれている他は、めぼしい物は見当たらない。
 部屋の主はと目をやると、それは四十がらみと思わしき女性だった。
 椅子から立ち上がった彼女が、迎え入れるように恭たちへ歩み寄ってくる。
「お呼びだてしておきながら、お待たせして申し訳ありませんでした。鷹取恭さんと――」
 言葉を切った女性が、説明を求めるようにユウコへ視線を投げる。
「私は新入生のホンダ・ユウコです」
 一歩進み出て、ユウコが名乗った。
「司法局への入局を熱望していたところ、今回の話を友人の鷹取君から聞いて、無理を言って同行させていただきました。――あの、やはり、私の同席は認めていただけないでしょうか?」

「局長秘書の安藤です。私も事情を詳しく聞いているわけではありませんので、同席に関する判断はできません。局長に確認しますので、少々お待ち下さい」
 お願いします、と頭をさげるユウコに会釈を返し、秘書はデスクに戻っていく。
 すぐに内線を取り、恭たちには聞こえない小声で何かやりとりを始めた。
「凄いもんだな」
 恭も声量を絞って言った。
「局長クラスになると、秘書がつくのか」
「伊達じゃなくて、必要性があってでしょうね。評議員や学園理事も兼任してるから、毎日書類や連絡が何百と回ってくるはず。ひとりじゃ捌けないわよ」
「――ホンダさん」
 受話器を置いた秘書が声を張った。
「局長はあなたにもお会いになります。鷹取さんと一緒に、こちらのドアからお入り下さい」

「ありがとうございます」
 礼の言葉を同時に発し、恭とユウコは先導する秘書の後に続いた。
 彼女が奥へ続く木製の扉をノックし、代わりに局長へ断りを入れてくれる。
 許可の声が返ると、秘書はドアを少し押し開いたところで身を引いた。
 頭を下げてから、恭は足を踏み出す。
「ああ、鷹取君ね。ようやく会えた」
 ウィルキンソン司法局長は、聞いていたより若々しく、想像していたより随分と柔和そうな人当たりの女性だった。
 白人女性としては小柄な部類だろう。
 均整の取れた肢体に、一般局員と同じデザインの――それでいて明らかに装飾の多い――ジャケットと、揃いのタイトスカートをまとっている。

 瞳はライトブラウンで、マニッシュショートの頭髪はそれをかなり濃くした茶色だった。
 天然なのか、意図してそうしているのか、カールした毛先を無造作にチラしたスタイルは、肩書きから生じるお堅いイメージを自ら否定しているようでもある。
 だがそれは、彼女だからこそ「計算されたセット」だと判断されるのだろう。
 自分なら一瞬で「寝癖」判定だな、というのが恭の素直な感想だった。
「それから、あなたはホンダ・ユウコさん?」
 局長が流暢な日本語で問う。
「確か、白芳に主席入学した生徒がそのような名前だったと思うけど?」
「――はい。学長賞をいただきました」
 ユウコが少し固めの声で応じる。
「私は司法局長のエレノア・ウィルキンソンです。こちら風にはエリナー。よろしくね」
 そう言って親しみやすい微笑を浮かべる彼女は、組織の高官というより、近所の綺麗なお姉さんといった印象を抱かせた。

「ごめんなさい。知ってるかもしれないけど、さっき市街の方で大きな事件が起こったの。対応に追われて、五分しか時間を作れませんでした。――どうぞ、二人ともかけて」
 恐縮しながら応接セットに腰を落とすのと、秘書が二人分のジュースを持って入ってきたのとは同時だった。
 彼女は速やかに任務を果たすと、乱波のように無音で去っていく。
「時間がないわ」
 向かいに座った局長が言った。
 「短刀直入に言います。鷹取君に来て貰ったのはスカウトのためよ。司法局員になる気がないか、面接と勧誘を兼ねて直接会いたかったの」
「俺がですか――?」
 隣で、ユウコが息を呑んだのが分かった。
 唐突な話に、なかなか状況が掴めない。
「司法局は色々な意味で学園都市の治安維持を目的とした組織なのだけど、年々その仕事の完遂は困難になりつつあるわ。問題事が増えると同時に、質も深刻化してきているの」
 言いながら、彼女は恭の前に用意されていたクリアファイルを指した。
「本当なら、そこに揃えておいたデータを見ながら説明するつもりだったんだけれどね。同席するはずの外務課長も顔を出せなかったし……今日のところは、口頭の大雑把な説明だけになってしまうけど」
「どうせ、難しい文章は理解できませんから」
 恭は謙遜抜きで言って、微笑む。

 「もう気付いたと思うけど、学園都市には色んな国から、色んな文化の生徒たちが集まってきているわ。だから思想も倫理観も本当に様々。――鷹取君、想像してみて。つい数ヶ月前まで、合法的に銃を持って街をうろついていた子や、合法的・違法を問わず麻薬をやっていた子たちが大勢流れ込んでくるのよ。それが当たり前だという意識と一緒に」
「麻薬……」
 ほとんど意識せず、恭はその言葉を反芻していた。
 今日、ユウコとの間でドラッグを巡る事件が生じたが、それは単なる誤解で済んだ。
 今では笑い話にもできる。だが、それでは決して片付かない現実もあるということだ。
「私の言っていること、分かってもらえ始めたようですね?」
 恭の表情変化から察したのだろう。呼応するように、局長も語り口を微妙に変えていく。
「この事態に対応するため、局員の大幅な増員が去年のスクールミーティングで可決され、現在は評議員会と理事会で詰めの段階に入っています。つまり、司法局員の数と権限を大きくして、事件を処理したいということね」
 局長は正面から恭を見据えた。
「鷹取君。我々は即戦力になり得る優秀な人材を欲しています。局が所有するクラス6のAIもあなたの適正を認めました。私自身、あなたについて知ることはそう多くないけど、そのわずかな情報から判断してさえ、局員として見込みがあると考えているの」

「局員になれば、ドラッグが生徒に広がるのを防げますか?」
「そのために、もっとも効率的な行動をとれるでしょう」
 局長の返答は、質問を予測していたかのように速かった。
 否、実際、予測していたのだろう――と恭は直感した。
 ドラッグにまつわる恭の過去を事前調査し、把握した上で、薬物の話題を持ち出したのだ。
 そうすることで、YESを引き出せる可能性が高まる。そう計算して、この女性は話を進めている。
 完全実力主義の学園都市で、年配の人間たちを差し置いてトップに上り詰めた才女だ。
 それくらいは、むしろ自然にやってのけて不思議はない。

「もちろん」
 艶然とした笑みを見せながら局長が言った。
「拘束時間の長さや、職務に伴う各種リスク、コスト、その他色んな問題について考える時間は必要でしょう。今すぐ決めろと言っているわけではないの。ただ、前期始業前に意志決定して貰えれば、今年度からできた制度を使って、私はあなたを特別推薦することができるわ」
 それによって得られるメリットは、ずばり適性試験の免除。
 つまり、学科を含めた面倒ないくつかのテストなしで、仮のライセンスが与えられるという。シード権のようなものらしい。
「どうかしら、鷹取君。四月から、私たちと一緒に司法局の仕事をやってみる気はない?」



to be continued...
つづく
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