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04−05

  04

 紙上を黒マジックが走っていく音は、どことなく体育館とシューズのゴム底が奏でるスキール音にも似ていた。
 署名作業にもどった本多ユウコは、もう手元の九割方に書き込みを済ませようとしている。
 少し丸めだが、速度と美しさをバランスよく備えた楷書のサインだった。
「――鷹取君、入学手続きはこれからって言ってたけど、順番はどれくらいなの?」
 最後の一つにネームを刻み終えたところで、彼女が思い出したように訊いた。
 竹を割ったようなカラッとした性分らしく、機嫌を損ねやすいが、怒りを忘れるのも早い。
 少し話しただけで、互いの口調はもう打ち解けたものに変わっていた。
 綺麗な顔の娘だが、性別を意識せず、ちょっとした喧嘩友達のようにすら付き合えるであろうタイプだ。
「前に三百人もいる。そっちは終わってるから良いよな。白丸は見当たらないけど」

「白丸? もしかして、コンセラクスのこと?」
 笑いながら質《ただ》すと、ユウコは机の下に向かって声を投げた。
「ミーシャ。出てきて」
 呼ばれてのっそりと姿を現したそのミーシャという物に、恭は思わず声を上げそうになった。
 当然のように想像していた、白い球体からあまりにかけ離れた姿をしていたからだ。
 まったく、フォルムからして違う。それどころか無機物ですらない。浮いてもいない。
 一言で言うなら、それはペンギンだった。
「新しいお友達ができたようですね、ユウコさん」
 ペンギンはそう言うと、物理法則を無視した跳躍を見せて、空いた椅子に飛び乗った。
「スリープモードで待機してはいましたが、お話は聞こえておりました。私、ミーシャと申しますの。はじめまして、鷹取恭さん。今後とも、ユウコさん共々どうぞよしなに」

 ゼンマイ仕掛けのようにカクつきながら、恭はユウコに顔を向けた。
「なぜ、君の白丸はペンギンなのか、説明してもらえるか」
「ペンギンじゃなくて、オオウミガラスよ。少しディフォルメして可愛くなってるけど」
「カラス?」なるべく喋る鳥の方を見ないようにしながら訊き返す。
「むかし <オリジン> に実在した動物よ。復元されたペンギンはこの星にもいるけど、オオウミガラスは時代が違うから復元対象にならなかったの。 <オリジン> で、十九世紀半ば頃に絶滅しちゃったから」
「しつこいようだが、なんで白丸じゃないの?」
「コンセラクスは <SSAポイント> で買えるスキン・プラグインで自分好みに着せ替えできるのよ。中には湯水のようにポイントを注ぎ込んで、原型が分からなくなるくらい改造しちゃう人も多いんだから。男子はすぐ美少女にしたがるし。鷹取君、知らなかった?」

「知ってたら、こんなには驚かなかっただろうな」
「あんまり学園都市のシステムに詳しくないみたいね。――ねえ、昼食はもう済ませた?」
「いや、それはまだ」
 質問の意図は掴めなかったが、恭はとりあえず答える。
「じゃあ、良かったら一緒にどうかな。色々教えてあげられると思うけど」
「そりゃ、片眉を剃り落としてでも受けたいお誘いだけどね。持ち合わせがないんだ」
「兄を助けてくれた恩人を誘ってるのよ。私のおごりに決まってるじゃない」
 ユウコは悪戯を成功させた子どものような笑みで、よく分からないことを言う。
「恩人?」

「自分のことをセバスって呼んで仲良くしてくれるお客さんがいるって、人見知りの兄が珍しく楽しそうに話してたの。強盗に襲われた時も助けてもくれたって。――本多唯一《ホンダユウイチ》は私の兄よ。改めて、その節は彼を救って下さってありがとうございました」
 そう言って、ユウコは礼儀正しく一礼した。栗色の髪がさらりと揺れる。
「え、セバス?」
 結論は出ているが、脳がそれを認めるまでしばらく時間を要した。
「じゃあなに、あいつの妹なのか? いや……なんか、そういうのがいるとは聞いてたけど」
「私もあなたのことは聞いてたけど、聞きしに勝る変な人だった」
「へえ……セバスの妹ねえ」
 恭は改めてユウコを観察した。記憶にあるセバスの容姿とも比較検証してみる。「なんか、あんま似てないな。どっちも美形なのは認めるけど」

「父親が違うの。私の茶色い髪は父譲りよ。もう亡くなってしまったけど」
「そうか。――良い親父さんだったんだろうな」
 少し寂しげに笑むユウコの表情を見て、きっとそうなのだろうと感じた。
 同じ話題を持ち出した時、表情そのものが抜け落ちる恭自身との違いは明らかだった。
「ねえ、ご馳走する件、OKよね」
 質問というより確認という口調で彼女が言った。
 実際、ユウコは返事をまたずに荷物を片付け、さっさと出口に向いだす。
「気になるお店、幾つかチェックしてあるの。一番近いオープンカフェで良い?」
「でも、助けた本人からならともかく、妹におごられるいわれは――」

「あなた、本多の一族をバカにしてる? うちの家系は、それほど恩知らずじゃないのよ」
「鷹取さん、あまりユウコさんに恥をかかせないであげてくださいまし」
 なぜか、ペンギンからも睨まれた。
 一人と一匹は踵を返すと、もう結論は出たと言わんばかりに教室を出て行く。
 恭は足下のモスキートショットを拾い上げてから、仕方なくその後を追いかけた。
 ユウコは廊下に出たところで待っていた。
 それは良いが、隣にいるはずのペンギンが、なぜか見当たらない。
 恭は手のひらを打ち鳴らして、破裂音に似た景気の良い音を廊下に響かせた。
「……やっぱり反応がないな」
 首を捻りながら飼い主に訊いた。
「ミリタンはどうした?」

「ミーシャよ。今、どうして手を叩いたの?」
「ん、いや、ちょっとね。で、ミーシャはどこいった?」
「彼女なら連れて歩くと目立つから、戻したけど」
 恭の顔に書かれたあからさまな「?」を読み取ったのだろう。ユウコがくすくすと笑う。
「本当に、基礎から何も知らないんだ……珍しいな。鷹取君、なんで学園都市に入ったの」
「決まってる。学費が安い。寮費も安い」
「じゃあ、移星権《いせいけん》が目当てじゃないのね? それで左目を治したいとかでもなく」
「なんで、入学の動機から移星権なんて言葉が出てくんの」

 拡張現実という内側への拡大に失敗した人類は、かつてSFで想像されていたよりも随分遅く、外惑星開拓に目覚めた。
 ――少なくとも、歴史の教科書はそう教えている。
 結果、人類が移住した惑星は既に百を超えているが、その文明レヴェルは各星で様々だ。
 たとえば恭の母星系は、開発時に「十九世紀の文明からはじめる」と定められ、先頃、入植二百周年を迎えた。
 同様のシステムにより二十六世紀からはじめ、二百年を経た星もある。
 現在進行形で、弓と槍を用いた原始的な戦争をやっている星も存在すると聞く。

 通常、これらの惑星間移住は認められていない。
 だが、もし奇跡的強運に恵まれて移星権を手に入れれば、好きな場所へ引っ越せる。
 高い文明の星に行けば、ここの医学では治らないとされている恭の左目や、ユウコのDD1すら治療、完治が望めるだろう。
「学園都市は実験都市でもある」
 ユウコが言った。
「ここで特に有能と認められた人材には、移星権がボーナスとして与えられるの。それ目当ての入学者も大勢いるんだから」
「え、移星権もらえんの?」
 恭は思わず足を止めた。
「成績優秀者だと?」

「学業の成績優秀者じゃなくて、 <SSAポイント> のトップランカーに、よ」
「どう違うんだよ。テストの点数に応じてポイントがたくさん貰えるなら同じことだろ」
「本当にそれだけなら、テストの点数と順位だけで指標としては充分でしょう? わざわざSSAポイントなんて評価軸《パラメータ》を用意する理由なんてないじゃない」
「分からないな。本多さんは入試で成績上位だったから、SSAポイントの初期支給額も高かったんだろ。だからそれ使って、コンセラクスをペンギンにしたり――」
「オオウミガラスよ」
「オオウミガラスに改造したり、豪華な寮に入ったりできる。逆に滑り込みの俺は、最低ランクの寮にすら入れるかどうか……。結局、試験の成績がものを言ってるじゃないか」

「入学まではね。でも、そのあとは委員会活動とか社会奉仕《ヴォランティア》とか、あとは部活動、学内交流戦なんかの実績評価として、SSAポイントが支払われるでしょ?」
 ユウコはいったん言葉を切り、弾む足取りで階段を下りていく。
 教室棟のビルから出たところで、自分からまた話しだした。
「テストは赤点でも、部活に打ち込んで日本一にでもなれば、高額ポイントを得てトップランカーになれる可能性はある。授業そっちのけで交流戦にかけたりね。問題はどうやって目立つか。自分に合ったポイントの稼ぎ方を見つけて、それに積極的になれるかよ」
「そう……なのか?」
「なあに、これも知らなかったの?」
 歩調をそのままに身体ごと振り返り、ユウコはまたくすくす笑い出した。
「何を知らないかより、何を知ってるかを確かめた方が早そうね」

 彼女の話そのものにも、確かに驚くべきポイントは多くあった。
 だが、今の恭が同じくらい驚かされているのは、彼女の身体的特徴についてだった。
 教室で話している時は、ゆったりとしたパーカーと姿勢のせいで気付かなかったが、こうして動いている彼女を見ると一目して分かることがある。
 その驚異的な胸部の大きさだ。
 今朝、駅で拾った週刊誌のグラビアアイドルとも、十二分に渡り合えるのではないか。
 そう思える女性を目の当たりにするのは、もしかしたら人生初のことかもしれない。
 すれ違う人々の目にもつくようで、同性異性問わずユウコはかなりの視線を集めていた。
 もっとも、当の本人はそうした周りの目を意識した様子もない。
 病人とは思えない軽やかな足取りで歩き、よく笑い、そしてよく喋った。

 彼女の案内で辿り着いたオープンカフェは、学内に構えられたワンランク上の店だった。
 今日はちょっと贅沢に――という趣向の学生が利用するのだろう。
 ユウコと二人席に座ると、恭が選ぶであろう店より倍は優雅に歩くウェイトレスが、倍額の商品ばかりを連ねたメニューを運んできた。
 ただし、一口飲んでみたお冷やは倍ほどには美味くない。
「なんてこったい、オリーブ。珈琲が四百八十円もしやがる!」
「だから、私のおごりだってば」
 ユウコが苦笑する。
「鷹取君、何にする?」

「――このお水だけで良いです。ボク」
「ちゃんとご馳走されないと、メニューの品、全部頼みますからね」
「ブルジョワってのは恐ろしい発想をするもんだな」
 心底驚きながら言った。
「本当に分からないんだ。好き嫌いは特にない。本多さんに任せるよ。できたら腹持ちの良い物で」
 了解、と告げると、ユウコはすぐにウェイトレスを呼んだ。
 恭にはまったくイメージが沸かない横文字の商品が、次々にオーダーされていく。
「――で、おたくの方はなんで学園都市に来たの? 移星権で病気を治すのか?」
 ウェイトレスが音もなく去っていくと、恭は気になっていたことを訊いた。

「そうね。移星権は欲しいかな。病気のせいで炭水化物をほとんど取れないし。麺類は全滅。パンもお米もパスタも、ほんの少ししか食べられないのよ。結構大変だし苦痛なの」
「そりゃ確かにつらそうだな。でも、本多さんは勉強はできる方なんだろ? ならポイントも稼ぎやすいんじゃないのか。トップランカーとやらになれそうだけど」
「どうかな。私、司法局に入りたいんだ」
 言ったあと、恭に首を傾げる手間をかけさせるより早く、彼女は自分から解説しはじめた。
「学園都市ではね、生徒全員に議決権があって、その一票の重さは先生を含めた大人と同じなの。 <オリジン> にあったサドベリィ・スクールがべースになってるんだけど。要するに、生徒の自主性が重んじられてるの」

 彼女の話すところによると、その議決権を持ち寄る生徒会のような組織を <スクールミーティング> と呼ぶのだという。
 学園都市に存在する唯一の校則――すなわち法律も、このスクールミーティングの場で決定される。
 司法局とは、スクールミーティングの下部組織で、都市内法律の取り締まりを主な役割とする集団らしい。
 教員と生徒が共同して作り上げる、非常に強力な治安維持機関だ。
「早い話、風紀委員会みたいなもんだろ?」
 まとめる意味で、恭は訊いた。
「方向性は近いけど、レヴェルは全然違うでしょうね。司法局員になるためには適性試験があるし。ライセンス制なのよ。それにデュープロセスに従った取り調べとか、聴聞とか、裁判とかもやるから。本格度を含めても、警察に検察と地裁を合わせたような存在よ」

「SSAポイントを稼げるのか?」
「誰でもやれるわけじゃないし、義務化された研修も頻繁にある上、放課後は毎日長期間、司法局の仕事で拘束されるのよ。帰れるのは夜。高ポイントの見返りくらいないとね」
「適性試験がある、ライセンス制か……」
「興味出てきた? 競争率は凄く高いんだけどね」
 その言葉を最後に、注文の皿が次々に運ばれてきて、会話は途切れた。
 ここ数日、まともな食事にありつけなかった恭は、この時点で、文明人としての誇りをかなぐり捨てた。
 ただ、眼の前の料理を片っ端から平らげていくことに集中する。
 こうなると、もう作法どころの話ではない。
 向かいに綺麗で胸の大きな同級生がいることすら、すぐに意識から消え去った。

  05

 週に一度は招待される部屋である。
 勝手知ったる他人の何とやら、梨木鷹一《なしきよういち》は文字通り勝手にキッチンへ入り、勝手に珈琲メイカーを作動させた。
 ここ数年で珈琲の摂取量が妙に増えてしまったのは、カフェイン中毒である親友の影響だろうか――。
 そんなことを考え、思わず苦笑いする。
 窓から外を窺うと、磨りガラス越しにも陽が傾き始めているのが分かった。
<オリジン> にあった元祖とは違い、この星に奥羽山脈は存在しない。
 学園都市の西部はそのまま日本海に通じ、茜色の斜陽も水平線に沈んでいく。

 二人分のカップを持って寝室にもどると、遠藤葵はまだ寝台の上に寝転がっていた。
 うつ伏せの状態で枕を抱き、何をするでもなく脚をぱたぱたと動かしている。
「着替えたらどうだ。そろそろ時間だぞ」
 ブラックの方のカップを渡しながら声をかける。
「ありがと」
 裸体を隠そうともせず起き上がり、彼女は女の子座りで珈琲を受け取った。
 一口含んでから、「あ、私、それ好き」と、無邪気な笑みを見せる。
「うん?」
「シャツ羽織って、止めてない前から胸板と腹筋見えるやつ」
「そうかい。じゃ、今度から葵さんに合う時はこのスタイルにするよ」

「こういうシチュの時に、計算なしで着てるのを見るのが良いの。そんなんで街中近づいてきたら、私も同じカッコで応戦するからね。ふたり揃って拘置所行きだよ」
「女はアウトかもしれないけどな。男が胸出しても捕まりはしないだろ」
「じゃあ、私の服を無理矢理はだけさせたのはあの男ですって言って、道連れにする」
 鷹一は軽く笑いながら、彼女を小突く真似をした。
「バカ言ってないで早く服着ろ。バスに遅れるぞ」
「はあい」
 と気の抜けた返事がしたあと、微かな衣擦れの音が聞こえ始めた。

 遠藤葵とは去年、共通の友人を介して出会った。
 二年前、現役で学園都市の高等部に入学を決めた彼女は、現在、中の上グレードのこの寮で一人暮しをしている。
 葵を語る上で特筆すべきは、やはり身内における著名人の比率だろう。
 彼女自身がいずれその仲間入りをしたとして、鷹一はなんら驚かない。
 それだけ、葵は元アナウンサーであった母親の美貌を色濃く受け継でいる。
 そして、恐らくその派手な生き方も。
 一方、代議士である父親の政治基盤の方は、今のところ継承する気はないようだった。

 目下のところ葵が夢中になっているのは、ガールズバンドの活動である。
 今日も十九時から、いつものように盛岡市の箱《ハコ》に集まる予定だと聞いていた。
 出かける彼女を自宅からバス停まで見送るのは、いつしか決まった鷹一の習慣であった。
「あ、そうだ――」
 不意に、着替え中の葵が声をあげた。
「入学おめでとう、タカ君」
「今頃かよ」鷹一は鼻を鳴らす。
「だって、いつもとやること変わらなかったし。外でお祝いでもした方が良かった?」
「いや、今日はどこも混み過ぎだ。この部屋の方がゆっくりできて良いよ」
「落ち着いたら、タカ君の部屋にも呼んでね。今日はちょっとしか見れなかったし」
「良いけど、そのちょっとで見て回れる広さだったろ。壁も薄そうだった」

 恭あたりは「なぜあんな美人とばかり何人も」と驚くが、鷹一に言わせれば逆だった。
 葵のような女性は、己の美しさに自覚的である。
 その価値と使い方を良く知っているのだ。
 幼いうちは美貌を遊びに活《い》かし、適齢期がきたら安定を得る道具として方向性を切り替える。
 既にそういった大まかな人生設計を立て、コントロールしながら、その時々に得るべきものを貪欲に追求している。
 十代現在の彼女が求めているのは、ずばり刺激だ。
 だが、危険すぎてはならない。将来に負の影響を及ぼすようなリスクは冒せない。
 遊園地のジェットコースターのように、安心して身を委ねられる都合の良いスリルを、葵のような人種は欲している。

 鷹一はそういったニーズを理解し、供給する側に立っているだけだった。
 計算し、割り切り、距離を調整できる能力。適度な演出のセンス。情報とリスクの管理……
 容姿も重要だが、恭たちが信じるほどその重要性《プライオリティ》は高くない。
 大切なのはシーソーのように揺れつつ、だがどちらにも偏りすぎないバランス感覚なのだろう。
「――お待たせ。じゃ、行こっか」
 手早くメイクまで変えた葵は、先ほどまでとは別人だった。
 黒く光沢のあるスキニィジーンズに紫のジャンパーという比較的地味な出で立ちで、頭には大きな金属プレートがついたキャップ。
 肩には愛用のベースを担いでいる。
 買い物の時は男に荷物を持たせる彼女だが、楽器は決して他人に預けない。
 その矜恃ともいうべき意識は、鷹一の好むところでもあった。

 先に2DKの部屋を出た鷹一は、施錠した葵が追いつくのをエレヴェータ前で待つ。
 もうすぐ四月だが、陽が落ち始めると外気は少し冷たい。
 学園都市における公共交通手段は、路面電車《トラム》とバスが主だ。
 一般車両の通行が禁止されている通りが多いため、自家用車を足にする人間は少ない。
 その分、交通料金は非常に安価で、トラムなら片道八十円でかなりの距離を移動できる。
 都市外に出る場合は通常、JR白丘駅が利用され、葵もバンドの集いがある時は電車を使うのが常だ。
 彼女の寮からはトラム駅よりバス停の方が近く、徒歩でそちらに向かう。
 几帳面な性格の葵は、いつも決まった時間のバスに乗り、決まった席に座りたがった。

「ねえ、タカ君も学園都市に引っ越してきたなら、前よりずっと会いやすくなるね」
 路地を並んで歩きながら、葵が自然を装って言った。
「そうだな」
「あ、今、女の子たちとのデートスケジュール、作り直さなきゃと思ったでしょう?」
「それは後だ。それより、履修届の作成が先だな」
「クールね。――でも、そう。あれって面倒なんだよね。私もどうしよっかな」
 外の一般的な高校とは違い、学園都市では生徒が自由に時間割を組む。
 学期は前後期制で、授業料を前納していれば、あとは好きな時に好きな授業を受けて良い。
 ただし、計画表は事前に提出しておく必要がある。
 そのシステムは、高等学校よりむしろ大学に近しいと聞いていた。

 葵が無言で距離をつめ、肩と肩を触れあわせてくる。
 何か言え、という催促だ。
「葵さんといるのは楽しい」
 微笑んで、本心からの声をかけた。
「どきっとさせられることもあれば、落ち着けもする。調整がんばるからさ。少し俺との時間、増やしてくれるか」
「本当?」
「入学したら、新しい子の尻追いかけるとでも思ってたのか?」
「ううん。ただ、もうちょっと一緒にいられたらなって思ってただけ」
 その一言を最後に、穏やかな沈黙の時が流れた。

 この一帯には、典型的な単身者用のアパートメントが数多く建ち並んでいる。
 その多くが、比較的裕福な学生のための寮だ。
 高いポイントを支払えば、鉄仮面の寮母が絶えず巡回する相部屋の寮ではなく、こういったアパート型の一室を借りられる。
 異性を白昼堂々連れ込めるのも、高位ランカーの特権ということだ。
 二ブロックほど歩き、最初の角を折れて、ふたりは表通りに入った。
 葵に歩調を合わせても、ものの数分。往来に出てしまえば、バス停はもう目と鼻の先である。

「うわあ、人多いねえ」
 立ち止まって葵が声を上げた。
「いつもは二、三人なのに」
 驚くほどの行列ではないが、確かにバス停には十人超の若者が集団を作っていた。
「いつもの席、座れるかな?」
「席が空いてるかも怪しいな。――俺、なんか冷たいもん買ってくるよ」
 鷹一は近くの自動販売機を視線で指しながら言った。
「珈琲一杯じゃちょっと足りなかったみたいだ」
「暖かくなってきたもんね。私、ペットボトルのお茶がいいな。今日、コーラスやるから」
「了解」
 軽く彼女の頬に撫でてから、鷹一は踵を返す。

 こうして見渡しても、学園都市の町並みは欧州風の色合いが濃い。
 だが、あちこちに設置された自動販売機を見ると、この街が紛れもなく日本にあるのだと実感できる。
 ポイントではなく硬貨を投入し、鷹一はスポーツドリンクとお茶のボタンを押した。
 バス停の方を窺うと、葵は時間でも聞かれているのか、中年の女と並んで何か話していた。
 重たい音がして、ボトルが取出し口に落ちてくる。
 手を伸ばそうと身をかがめようとした時、どこからか銃声に似たバックファイアの轟音が聞こえてきた。
 その木霊とどちらが早かったか――
 強化プラスティックで作られたバス停の雨覆いが、爆発するように砕け散った。
 半透明の壁に凄まじい数の亀裂が入り、全体が一瞬で真っ白く変色する。
 砕け散った無数の破片が、突風に吹かれた粉雪のように周囲にばらまかれるのが見えた。

 バス待ちの乗客たちが一斉に悲鳴をあげた時、鷹一は既にそちらへ走り出していた。
 逃げ惑う人の波に逆らいながら、葵の姿を探す。
 ようやくバス停の中に辿り着くと、彼女は時刻表の近くで泣きながら屈み込んでいた。
 葵以外にも数人が、輪を作るようにしてその場に留まっている。
「葵ッ、大丈夫か」
 喧噪にかき消されぬよう、大声で呼びかけた。
「何があった」
「タカ君、おばさんが……急に」
 呼ばれて振り向いた葵が、目を真っ赤にしながら胸に飛び込んできた。

 抱きとめながら彼女がいた場所に目をやった。夥しい、致命的な量の血溜まりが見えた。
 その中心部に、先ほどまで葵が話していた中年の女が仰向けに倒れている。
 弾丸は胸部のど真ん中に命中したらしい。
 クリーム色の春物コートが、広く鮮血色に染まっていた。
 必死でハンドタオルを押し当ててやっている男がいるが、もはやその行為は無駄だった。
 脈を取るまでもなく、即死なのは明白であった。
「もう死んでる」
 葵の手を引き、移動しながら言った。
 自動販売機の裏側に連れ込み、両肩を掴んで自分と向き合わせる。
「司法局か警察が来るまでここにいろ。それから親父さんに電話だ。それで、取り調べでもVIP待遇を受けられる。バンド仲間にも連絡しろ」
「まって、タカ君は? どこ行く気? 側にいて」
「すぐ戻る」
 それ以上、葵に喋らせる暇《いとま》を与えず、鷹一は駆けだした。

 さっき聞いた轟音は、銃声に似たバックファイアではない。銃声そのものだったのだ。
 大勢はそのことに気付いていない。
 何が起こったのかすら正確に把握できず、パニックに身を委ねている。
 もちろん、速やかな通報を選択した冷静な人間も、小数ながら存在しないわけではなかった。
 だが、この惨劇を引き起こした人間――それを現行犯で押さえられるのが今しかない、ということまで考えられる頭脳の主は見当たらない。
 まして、それを行動に反映させられる人間となると、確実にゼロだ。
 ならば、今自分がすべきは葵の側にいることではない。

 鷹一は通り向かいの雑居ビル群に視線を走らせつつ、思考を巡らせた。
 銃声は一度。
 つまり一発で人間の肉体と、その背後にあった雨覆いの二つが破壊されたことになる。
 ならば凶弾は、この二点を結ぶ直線の延長線上から放たれたということだ。
 途中、遺体を撮影している野次馬の白人青年を殴り飛ばし、鷹一は信号を無視して通りを渡りはじめた。
 片手では数え切れないほどクラクションの抗議を受けたが、全て聞き流して横断しきる。
 路地に飛び込み、当たりを付けたビルの裏側に回り込んだ。
 女性と、後ろの雨覆いの破壊箇所からして、弾丸は右斜め前から飛んできた可能性が高い。
 さらに言うなら、雨覆いは地面に近い部分が破壊されていた。
 体内で起こった倒弾で軌道が変わったのかもしれないが、単純に、弾道が水平射撃で考えられる放物線以上の角度を持っていたとも考えられる。

 鷹一は鉄製の非常階段を見つけ、一度深呼吸した。
 覚悟を決め、全速力で上り始める。
 犯人の追跡は自分の役割ではない上、非常に危険な選択だった。それは強く自覚できる。
 結局、俺も葵さんとは違った種類のスリルを求める愚か者だったということか――
 そんなことを頭の片隅で思いつつ、次の瞬間には忘れてひたすら脚を動かした。
 十階近い高さを一気に踏破し、最上部に辿り着く。
 その間、誰ともすれ違うことはなかった。
 非常口であるためか、ドアには鍵が掛かっていなかった。
 ノブを掴むと、すんなり回って開きはじめる。

 足を踏み入れたそこは、小さな踊り場だった。屋上へ続く短い上り階段がすぐ眼の前にある。
 周囲は静まりかえっていた。
 探してみたが、監視カメラの類は見当たらない。
 陽介は階段を上り詰め、屋上のドア前に立った。
 この金属製の簡素な扉にも、なぜか鍵はかかっていない。
 爆発しそうな鼓動をなだめすかしてドアを押し開く。
 隙間から向こう側を確認し、安全を確認すると、素早く外に出た。
 屋上は四方をフェンスに囲まれた、コンクリートの寒々しい空間だった。
 小さな貯水タンクと、あちこちを這う無数のパイプ類。電気系統のボックス。これらを除き、めぼしいものは何もない。
 もちろん、人の気配も皆無だった。

 鷹一は通りを見下ろせる場所まで歩いた。
 片側二車線の車道をまたぎ、やや右手側に現場のバス停を見下ろせる。
 直線距離で三百メートルあるだろうか。
 予想していたとおり、狙撃には完璧なロケーションだった。
 だが、ここに来るまで犯人らしき人影は一切見ていない。
 気配すら感じなかった。

 ――別の場所だったのか? それとも、内階段から別ルートで逃げたのか。

 周囲には似たような雑居ビルが建並んでいる。
 ここが条件を備えた唯一のポイントでないことは認めざるを得ない。
 そう思いながら周囲を見回した時、少し離れた屋上の床に細長い金属質の輝きが見えた。
 歩み寄り、ティッシュで包み上げる。
 手のひらの上で転がすと、心なしか、まだ微熱を持っているように感じられた。
 それは映画で見たことのある、ライフルの空薬莢に酷似していた。



to be continued...
つづく
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