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02−03

  02

 全身に衝撃を受けて、鷹取恭《たかとりきょう》は目覚めた。
 小さく苦痛の呻きをもらしたあと、うつ伏せになった身体をのろのろと起こす。
 無数の気配を感じて顔を上げた瞬間、寝ぼけた脳が一気に目覚めた。
 数千、あるいは数万という単位の人間が視界の限りを埋め尽くしていた。
 その人数と密度もさることながら、人種・民族の多様さがまた尋常ではない。
 中央アジア系のきらびやかな民族衣装をまとった少女の集団。純白の長衣をまとった中東系の少年。
 カーフ状の布――いわゆるヒジャブで頭髪を隠したムスリマらしき娘の姿も散見される。
 インド系と思わしきスーツ姿が眼前を過ぎ去っていくと、南国の花を思わせるエキゾチックな香水の匂いが恭の鼻孔をくすぐった。

 混雑は首都圏主要駅のラッシュ時並。
 人種のるつぼともいうべき眺めからすれば、むしろ――むかし街頭のTVで見た――国際空港をたとえに出すべきか。
 日本語に続いて流れる英語と中国語のアナウンスが、なおさらその印象を助長する。
 なんにせよ恭《きょう》はようやく、自分が世界的学園都市の玄関口、「JR白丘《しらおか》駅」にいることを思い出した。
 寝ていたベンチから転げ落ち、その傷みで目が覚めたらしい。

 電車賃を惜しみ、徒歩で遠野の自宅を出たのが三日前。
 昨日の夜にようやく学園都市に入り、駅舎のベンチで眠りについたところまでは記憶にある。
 だが、その時は人もまばらだった。近代的な駅の構内も、遠くまで見渡せたものである。
 それが今は、人混みのせいで三メートル先すら見通せない。
 水に浸した一つまみ分の乾燥ワカメが、一眠りしたらキッチンの壁を突き破るほど増えていた――といった感じだった。ほとんどホラーの領域である。

 恭は立ち上がり、固まった筋肉と節々をほぐした。
 それから、盗まれないよう抱き締めて寝ていたズダ袋を開き、中身を検《あらた》める。
 体調と財産に問題がないことを確認すると、トイレに行って身だしなみを整えた。
 トイレを出た時、電光掲示の時計は午前九時六分前を示していた。
 友人と約束した待ち合わせの時間は十時。
 一時間以上待たねばならない計算だが、これだけ条件がよい場所なら、時間の潰し方など幾らでもある。
 空港級の広さと設備を併せ持つこの駅は、無目的にうろつくだけでも充分に面白い。
 バラエティ豊かな利用客を眺めていても退屈をしのげる上、ちょっと探し歩くだけで、一日あっても読み切れないほどの雑誌や新聞を集めることができた。
 恭はベンチに寝転がって、それら戦利品を広げ始める。

「復元偉人格《レプリッド》のM・ジャクソンさん死去」、「特区法 与野党で議論深まる」、「レーザー核融合発電 実用化へ」、「非合法麻薬《シャング》 若年層で拡大」……
 季節の移り目ということもあり、世間は各方面、話題に事欠かないらしい。
 斜め読みした新聞には、極太フォントの派手な見出しが数多く躍っていた。
 マンガ雑誌も、春の創刊号とやらの時期だけあって分厚いものが揃っている。
「オウ、スミマセン。サムライ、ニホンジン」
 週刊誌で女体の神秘性を熱心に再確認していた時、怪しげな日本語を操る外国人が声をかけてきた。
 集中を遮られ、少し不機嫌になりながら恭は本を閉じる。

 相手は薄めの茶色い肌をした若い男で、一見して日本民族ではあり得なかった。
 間違った日本人像を参考にしたのだろう、ボウズ頭にちょんまげのカツラをのせ、大きなサングラスをしている。身にまとっているのは橙色の派手な浴衣だった。
 肩に担いだ――CD非対応の――古めかしいラジカセが、ラテン系の陽気なリズムを垂れ流している。
「アーユーニンジャ? ニホンジン? ジムキョク、ドコデスカ?」
「いかにも、私はモストフェイマス・ニンジャであり、モストスタイリッシュ・サムライとして知られる紳士・鷹取恭だが。なんだチミは。サインは女の子にしかしないぞ」
「ワタシ、ジム。ジャマイカン。ジムハ、ジムキョク、イキタイデス」
「事務局?――oh、ソンナモン、テキトウニ歩イテリャ、ソノウチ着ーク」
 恭は笑顔で親指を立てて見せた。
「一歩ゴーして、二歩バック。コレ極意。オーケー?」
「OK、OK! ニホンジン、ミンナフレンド」
「Yes、Yes。ジンルイ、ミナキョウダイ。グッドラック」

 二人して固い握手を交わした。互いに分かり合えたという、確かな手応えがあった。
 問題があるとすれば、何について通じ合ったのかがよく分からない事だろう。
 ともあれ、陽気なジャマイカンは軽やかなステップを踏みながら歩み去っていく。
 少し見守っていると、何を思ったかプラットフォームにおりていくエスカレーターに乗りこむのが見えた。おい、と思って後を追ったが、距離が開きすぎている。
 恭がエスカレーターに辿り着くのと、ジャマイカンを乗せた空港行きの列車が扉を閉めるのとは、ほぼ同時だった。

「――あいつ、どこに行き着くんだ?」
 遠ざかる電車を見送り、恭はつぶやいた。
 少し気になりはしたが、あのノリならどうにか戻って来られそうな気もする。
 そろそろ約束の時間が迫っていることもあり、恭は踵を返して歩き出した。
 駅舎の巨柱には英数字の組み合わせで座標が示されており、それを目当てに目的の地点を探せるようになっている。「E8」エリアはすぐに見つけられた。約束の時間より二分ほど早い到着だったが、相手――梨木鷹一《なしきよういち》は先に来て、恭を待っていた。
 中学時代から既に一八〇センチを越えていた骨太な長身は、遠目にも良く目立つ。
 今日はアメカジ系のテイストを取り込んだシンプルないでたちだが、それも彼の着こなしをもってすれば非常に映える。
 ミディアムショートの癖毛をオールバック気味にした髪型は、後ろから見ると控えめなライオンのたてがみのようだった。

 恭がその姿が見つけたと同時に、あちらも恭の存在に気付いたらしい。
 鷹一は軽く手を上げ、合図をよこしてきた。
「よう、コンビニ強盗」
 会話ができる距離に近づくや、にやりとしながら彼が言った。
「それはよせ。悪夢が蘇る」
「お前ならいつかはやりかねないと思ってたんだ。ライフルを乱射したって?」
「そう。あのズシリと重い感触。鈍く黒光りする銃身。鼻孔を刺激する硝煙の香り」
「白昼堂々、町中での凶行とは恐れ入る。奪った札束はどうだった。やっぱ重かったか?」
「そう。あのズシリとくる万札の重み。赤銅色にきらめく十円玉。紙幣特有のインク臭」
 半ば恍惚と言って、恭ははたと我に返った。
「……だから違うと言うに。なんで俺がやったみたいになってるんだ」
 憤然としてそう返せば、鷹一はまた愉快そうに笑った。

「しかしお前、コンビニ強盗でハッスルし過ぎた上、逮捕されて、入試は最後の一教科しか受けられなかったんだろ? それでよく受かったな」
 それは恭自身、不思議に思っていたことだった。
 事情聴取で長時間拘束され、解放されたのは午後も遅く。
 最終教科の開始時間にも遅れ、三十分ほどしか受験できなかった。
「俺がハッスルしたのは強盗を鎮圧する方だけどな。まあ誤認逮捕はされたが」
「お前、目つき悪いしな。ちょうど銃持ってたっていうなら、普通は拘束するよ。そりゃ」
「だからって、あの警官ども一瞬たりとも迷わなかったんだぞ」
 鷹一の言う通り、警官が踏み込んできた時、恭は運悪く犯人から奪った銃を持っていた。
 あれがマズかったと言えばマズかったのだろう。
 潔白を証明してくれるはずの店員《セバス》が、安堵のあまり気絶してしまったのも大きい。
 あろうことか強盗どもも「おまわりさん、こいつです」などと警官に泣きつきだし、事態は一気に複雑化した。

 もちろん、最終的には目覚めたセバスの証言や、防犯カメラの映像により誤解は解かれたのだが――
 失われた時間は戻らなかった。
 後日、高校から合格通知が送られてきたことに誰より驚いたのは恭本人である。
「恐らく、三十分だけ受けられたあのテスト。満点が百点のところ百三十点をやらねばならないほどの出来だったんだろう」
 恭は胸を張って持論を展開していく。
「こんな逸材を不合格になどできるだろか? いや、できない。……みたいな流れで合格とか」
「それは絶対にないが、まあ良いじゃねえか。またしばらくは同じ教えの庭ってことで」
「まあな」
 鷹一の言葉にうなずき返し、恭は彼と一緒に駅を出た。
「――で、まずはどうするんだっけ?」
 担いだズダ袋ごと伸びをしながら訊いた。

 とりあえず足を運んだ駅の正面口は、少し高台になっていた。
 大理石に似た白い階段を下りると、大型バスが何台も入り込める巨大なロータリィが広がっている。
 そこから真っ直ぐに伸びるのが、瀟洒な石畳の駅前通りだ。
 一般車両の進入が禁止されたこの街のメインストリートで、中央部をトラムと呼ばれる路面電車が走っている。
 道幅が非常に広いのも特徴で、その気になれば中世の騎士大隊が列を成してパレードすることすら可能だろう。
 これをひたすら直進していけば都市の中枢に着くはずだ、というのが鷹一の説明だった。

「最初に行くのは事務局だな」
 鷹一が巨大な旅行鞄を床に下ろしながら言った。
「そこで入学手続きして、支給品《コンセラクス》を受け取る。それから入寮だ」
「寮、か。俺が人生初のベッドにありつける瞬間も近いな」
 学園都市の入学生には、原則的に入寮が義務づけられている。高等部だけで万単位に及ぶため、手続きの受付が開始されるのは入学式の二週間前から。今日はその初日であった。
 早めに入寮すれば、その分だけ生活費を格安に抑えられる。
 そのため、恭のように裕福とは言えない学生は、先を競うようにして手続きを済ませたがる傾向にあった。
 まだ三月も中旬だというのに、新入生の姿で学園都市が賑わっている所以である。
「俺、金がないから歩いて行くよ」
 階段を下りながら恭は言った。
「どれだけかかるか知らないけど。なんだったらお前、トラムで先行ってれば?」
「いや」
 意外なことに鷹一は首を振った。
「実は俺も金欠でね」
「なんでだよ。お前、入試で点数良かったから、ポイント結構もらえたんだろ?」
「少なくとも、お前よりは多かったろうな」
「あ、分かった。見栄張って、グレードの高い寮を選んだんだろ。個室フロ付きとか」
「そうじゃない。まあ、ちょっと色々あってな。いずれ説明するよ」

 気になる言い方だったが、この男がこういう態度を取ったなら、幾ら追求しても口を割ることはない。
 今までの付き合いで分かっている事だった。
「別に良いけどな」
 実際の話、今は他人の懐事情より、この街の物価の方が気がかりだった。
 特に食料品だ。寮で出される食事は朝夕の二回のみ。
 昼は自分で調達せねばならず、休日も同じことが言える。貧乏学生にとって、この毎日の負担は馬鹿にならない。
 ロータリィを抜け大通りに入ると、辺りには飲食系の露天が多く並んでいた。
 ちょうど、近くの屋台から、ホットドッグを受け取った若い娘が二人出てくる。
すれ違う時、フランス語らしき話し言葉がかすかに聞き取れた。
 どちらも肌が白く、片方は焦げ茶色の短髪、もう一方は天然と思わしき赤みがかったブロンドの主である。

「フランス人かね」
 二人の後ろ姿を視線で追ながら、鷹一が言った。
「たぶん、右の金髪はケルト系だろう。ブルターニュとか、そのあたりから出てきたんじゃないか?」
「フランス人なんて初めて見た。本当に、石を投げれば外国人に当たる街だな」
「俺たちの学校は、それでも少ない方だぞ」
「そうなのか?」
「この街の学校は、でっかい三つの学校法人が経営してる。俺たちが入るのは、そのうちの <白丘明芳学園> 系列だ。唯一の日本法人だから、比率的にも日本人が多い」
 完全な初耳だった。
「じゃあ、あとの二つは外資系か?」
「アメリカの <G&T> 系列と、あと名前は忘れたがフランス系だな。彼女らはお国柄からしてそのフランス系に入ってる可能性が高いんじゃないか。お前、こんなの基本だぞ?」

「三分の一しか日本の学校じゃないのか。道理で外国人が多いはずだよ」
 首を振り振り、恭は店の看板を確認した。
 他にも何店かの値札を見比べてみたが、少なくとも食料品に関しては平均的、あるいは若干安価といえそうな数字が並んでいた。
「オイ。幾ら眺めても値段は変わらねえぞ。どうせ買わねえんだろ? そろそろ行こうや。手続きにどれだけかかるか分からないんだ。遅くなると色々面倒になる」
「そうだな。――ところであの店、余ったパンの耳を無料提供してたりしないかな」
「ホットドッグ用のパンをどうしたら耳が出るんだ」


  03

 白丘明芳学園――通称 <白芳《はくほう》> は、一つの中学、六つの高校、三つの大学と、無数にあるこれらの分校から構成された、それ自体がひとつの巨大な学園群である。
 敷地は都市中心部から西端にかけて広がり、その中に百八の関連施設を有している。
 外国人生徒の割合は約三割。
 案内板の文章を信じるなら、単純な生徒数は学園都市三法人の中でも最大を誇るという。
 駅から続く巨大な大通りを歩き続けること小一時間。
 ようやく恭たちは、白芳の中枢、明芳中央高校の敷地に辿り着いていた。

 他の外資二法人がどうかは知らないが、少なくとも白芳に限っては無機的なインテリジェンスビルを好むらしい。
 校舎はどれも、触れれば切れそうなほど尖った四つ角の高層ビルで、学舎というよりは大企業の社屋として相応しく見える。
 だが、案内板がしっかりしているおかげもあり、似たようなビルの中から事務棟と呼ばれる施設を見つけ出すのに苦労はなかった。
「恭《キョウ》。お前、何番だった?」
 人波をかき分け合流を果たした鷹一が、受け取った自らの整理券をひらつかせる。
「Nカウンターの三百二十六番だった」
「俺はGの九十八番だ。えらく差が出たな」
「……成績下位は後に回されてるんだろうか」
 ボヤキながら、恭は受付前の行列へ視線を投げる。

 ロビーから壁で隔てられることなく続いている事務カウンターは、銀行の受付そっくりだった。
 各窓口の前には列が乱れないようロープが張り巡らされている。
 カウンター内の事務員とは透明なプレートで隔てられ、唯一手元にだけ接触を持てる穴が設けられていた。
 事務処理はテンポ良く行われていくが、いかんせん数が多い。
 一足先に手続きを終え、弾む足取りで去っていく新入生には、常に羨望の眼差しが向けられている。
「鷹一。あの空飛ぶ白丸《しろまる》はなんだ?」
 手続き終了者の横をぴたりと並んでついていく、球状の浮遊物が恭の目を引いた。
 大きさはボーリング球ほど。
 かなり重そうだが、シャボン玉のようにふわふわしている。

「なにって、あれがかの有名なコンセラクスだよ。全生徒にもれなく支給されるから、お前も手続き終わったら渡されるさ」
「ああ、あれが……」
「クラス3のAIを搭載してるから、多分、お前より知能は高いぞ。当然、会話もできる。プラグインやSSAポイントは、全部あれに管理してもらうんだ」
「機械の相棒ってとこか」
「それより」と鷹一は受付に視線を転じた。「見た限りじゃ、手続きは一人あたり一分近くかかってるみたいだ。整理券番号からすると、俺でも一時間半は待つ計算になる」
「――それでいくとボク、軽くその四倍はかかりそうなんですけど」
「そういうわけだ。今日はここで解散にしようぜ。手続きがはじまれば、違う寮に案内されてどっちにしてもバラバラだろ?」

「だな。俺は、教室がどんな感じかちょっと見てくるよ」
 恭が言うと同時、鷹一の携帯電話が鳴った。
「何だよ、お前はデートかい。今日はどの子が相手なんだ?」
「さてね」鷹一はにやりとしてポケットを探る。「先着順で決めるさ」
 彼は恭に手振りで別れを告げると、端末を耳元に寄せながら人混みに消えていった。
 要領の良い男である。こうなることを予測して、誰かと約束をしていたのかもしれない。
 自分には到底できない芸当だな、というのが素直な思いだった。
 仮に相手がいたところで、異性との付き合いには相応の金がかかるはずだ。
 だが、そんな余裕はどこにもない。

 軽く苦笑いしながら、恭は親友とは別方向に歩き出した。
 大きな施設だけあり、事務棟には通用口が幾つもある。
 その一つから外に出て、散策路のように整備された道を歩いた。
 手入れの行き届いた中庭や、巨大で奇妙なオブジェ、つぼみが目立ちはじめた桜並木など、ただぶらつくだけでも退屈しない。
 所々に設置された育ちかけの電柱みたいな銀色の円柱は、鷹一が <ポート> と呼んでいた学園都市特有のハイテク設備だ。
 高さはちょうと恭の腹に届く程度か。
 あれが四十年近く前、学園都市の誕生と共に土から顔を出したとするなら、成長した電柱になるまであと千年はかかるに違いない。
 そんなことを考えつつ、恭は最寄りの教室棟に入った。

 万単位の生徒を抱えていると、さすがに教室の規模も違ってくるということだろう。
 とりあえず入口すぐの重たいドアを押し開けてみると、そこにはオペラホールともいうべき巨大な空間が広がっていた。
 一体、何千人を収容できるのか。座面を折りたためる椅子と机が階段状に続き、奥にはステージと演説台のような教壇が見えた。
 その背後にあるホワイトボードをどけオーケストラを呼べば、そのままちょっとしたコンサートを開演できるだろう。
 どうやら一階には、こうした大型の特殊な教室ばかりが集められているらしい。

 小中で見てきたオーソドックスなタイプの教室を見つけるには、階段を上り二階まで行く必要があった。
 長い廊下。どれも同じに見えるドア。そこにはめ込まれた、磨りガラスの窓。白いチョークと緑の黒板……。
 教室とはこうあるべき、という光景が、ここにきてようやく恭を出迎えてくれる。
 入口の高いところにプレートが立てられ、アルファベットと数字を組み合わせた番号が割り振られているのも、お馴染みの光景であった。
 なんとなく安堵に似たものを覚えながら、恭はぶらぶらとその教室の並びを見て回った。
 多くの順番待ちは、どうせ暇を潰すなら娯楽に富んだ繁華街で、と考えるらしく、辺りに人気はない。
 覗いて回る教室も開放されてはいるようだが、どこも無人であった。

 恭が全身の筋肉をこわばらせ、急停止したのは、廊下を半ばほどまで来た時だった。
 素通りしかけたドアの一つに、慌てて駆け戻る。
 何かの見間違いだろう。さすがにそれはあり得ない。そんな思いで、ヤモリさながら扉に張り付く。
 はめ込みのガラス窓から室内を覗きこんだ。
 教室の奥、外に面した窓際の席に、ぽつんと一つだけ人影があった。
 栗色のやわらかそうな髪をした少女だ。
 同年代か、やや年上か。
 日本人でも通用する容貌だが、だとすれば瞳の色が薄く、やや彫りが深いように見える。

 ――だが、問題はそこではない。
 気付くと恭は、乱暴にドアを開いていた。
 驚いた顔で凝視してくる相手を睨み返し、早足に距離を詰めていく。
 手の届く距離に到った瞬間、恭は迷わず少女の頬を叩《はた》いた。
 赤ん坊の腕ほどに力を落としたが、それでもぺちんと小さな音が響く。
 口を無音のまま「えっ」という形に開き、少女はほとんど無意識に打たれた頬に自らの手を添えた。
 恭は黙ってその左手首を掴み、時計回りに九十度ひねった。
「いた……っ」
 小さな悲鳴があがったが、無視する。
 少なくとも、肘の内側を検分するまで腕を放す気はなかった。

 少女のそこには、案の定、五百円玉サイズのシールが貼られていた。
 絆創膏のように、中心部分が大きく膨らんでいる。
 それが何であるかを、恭は良く知っていた。
 もはや、疑いの余地はなかった。恭はシールの表面に触れ、見えない針を引っ込ませた。
 力任せにシールを引っぺがす。
 露わになった皮膚には、恐れていた痕跡が刻まれていた。
 素人にはそれと判別できないほど微かな、だが経験を持つ者には一目で分かる痣。
 注射針を常習的に突き刺すことによって生じる、特有の傷だ。

「モスキートショット……」
 それは、ここ十年で急速に流通しだした注射器の通称である。
 蚊はそれと悟られず針を刺し、唾液を入れ、標的から血を抜く。
 その針のメカニズムを参考にし、刺しても痛まない注射針が開発された。
 それがモスキートショットだ。
 一見、丸いパッチにしか見えないシールの内側には、髪の毛より細く短い無数の針が収納されている。
 分厚いのは超高圧縮された薬剤が含まれているからだ。
 本来、これは医療機関でのみ使用されるものである。
 しかし、現実には街中で白衣を着ていない者が使うことも多い。
 それがすなわち、ドラッグ中毒者たちである。

「誰が、キミにこんなもの教えたんだ。いつからやめられなくなった?」
 その言葉で、白黒させていた少女の目に理性の光がもどった。
 はっとしたように、改めて恭の顔を見つめ返してくる。
「あの、もしかして――」
 何か言いかけたが、恭は言下のもと遮った。
「俺の目を見ろ」
 冷ややかに命じて、彼女に顔を寄せた。
「右目は黒に近い焦げ茶だ。でも、左はそれより黒い。なんでか分かるか?」
 彼女を睨んだまま続けた。
「左側だけ失明してるからだ。子どもの頃、強い衝撃を受け続けて瞳孔がイカレた。網膜も剥がれた。生まれつきじゃない。親がドラッグをやっていたことが原因だ」

「え……?」
「クスリで何も分からなくなった人間は、正しい判断ができなくなる。自分で自分を切り刻んでも、誰かを殴っても気付かない。どっちかが死ぬまで。よく見ろ。これが実例だ」
 恭は掴んでいた少女の腕を解放し、寄せていた顔と身体を離した。
 指にへばりついたモスキートショットを払い落とし、踏みつけた。
「頼むからやめてくれ」
 懇願するように言った。
「俺も手伝うから。抜け出せるまで絶対に見放さないって約束するから」
「待って。――ちょっと待って下さい」
 捕まれていた左手首を痛そうにさすりながら、少女が割り込んだ。
「あなた、何か誤解してる。モスキートショットを自分で自分に使う人のほとんどが、麻薬目的に使用してるのは事実です。十中八九そうでしょう。でも、例外もあるはずです」

「――は?」
 今度は恭が口を半開きにする番だった。
「私、病気なんです。あなたの左目とは違って先天的な――遺伝性の。知りません? DD1《ディーディーワン》。末梢神経が徐々に弱ってしまう病気で、ミリオレットという薬が必要なの」
 それなら聞いたことはあった。
 メディアや健康診断などを通じ、誰もが一度は耳にするであるであろう、現代の国民病というやつだ。
 病状によっては、彼女が言うように毎日投薬しなければならないとも聞く。
 その時に使うのは、そう、注射器《モスキートショット》の類だ。
「あの……」
 身を縮こまらせ、恐る恐る訊いた。
「もしかして俺、やっちゃった?」
「私、体罰を受けたの生まれて初めて。しかも、知らない人にいきなり」

「ちょっと、タイム」
 恭は目を閉じ、眉間を軽く揉んだ。
「ええと、そう。落ち着いて整理しよう。まず、あなたは薬物依存症ではない?」
「麻薬中毒ではありません」
「病気の治療にミリオレットが必要で、そのためにモスキートショットを常用している?」
「正当な医療目的以外で、モスキートショットを使ったことは一度もありません」
 その言葉で恭は全てを理解した。
 同時に、自分に残された道が一つであることも知る。
 恭はただちに、後方へ向かって一メートルほど跳躍した。
 空中で土下座のフォームをとり、両手、額、左右の膝、つま先――これらを同時に床へ押しつける七点式着地を決める。
「誠に申し訳ありませんでしたッ!」

「ちゃんと説明しようとしたのに、俺の目を見ろ≠ニか言われて遮られました」
「お恥ずかしい限りでありますッ!」
「薬も踏みつぶされちゃったし。ミリオレットって割と高価なんですよ」
「えっ、ほんとに?」
 恭は思わず顔を上げた。
 密かに気にしていた事だった。自分が台無しにした以上、当然ながら弁償という話になってくる。
「ちなみに、お幾らほどで?」
「まあ、これは一回分だから三百円もしないけど」
「ベリィ・エクスペンシヴ! 弁償は、月々十銭の三千回払いくらいになりませんか?」

「通販みたいに言わないで下さい。そもそも、お金の問題ではないし、余分に用意してますから薬のことは別に良いんです。私が問題にしているのは、自分が麻薬中毒者に勘違いされたことと、殴られた挙げ句、乱暴に扱われたことです」
「ごもっともであります」
 再び額を床に押しつけた。ごんと固い音が室内に響く。
 思えば、女性を殴ったのは生涯初めてのことだ。
 限界まで力をセーブしたつもりだったが、異性からすればそれでも十分ではなかったのかもしれない。
「もう、頭を上げてもらって結構ですよ」
 しばらくして、幾分、穏やかさを取り戻した声が降ってきた。
「あなたに悪気がなかったことは分かっていることですし」

「それは、もう怒ってないってこと?」
「もう怒ってません。謝罪は受け入れます。お互い、もう忘れましょう」
 差し出された少女の手を取り、恭はおっかなびっくり立ち上がった。
「寛大な処置をありがとう。ええと――」
 相手をどう呼ぶべきか知らないことを思い出し、恭は口ごもった。
 ここにきて、周りに目を向ける冷静さがようやく戻ってくる。
 彼女の座っていた席には、真新しい教科書やノートの類が広がっていた。
 その傍らには黒の油性マジックが無造作に転がっている。
 人気のない教室で投薬しつつ、片手間で私物に名前を書き込んでいたといったところだろう。
 署名済みの書籍を見てみると、「本多夕子」と書かれていた。

「あ、私――」
 視線の動きから察したか、少女が名乗ろうと口を開く。
「いや、結構」
 恭はにやりとしながら制した。
「二度もそのトラップにはかからない」
 本多といえば、真っ先に思い起こされるのが例のコンビニ店員セバスだ。
 彼の本名が、本多ユウイチ≠セかコウイチ≠セかであるのを知ったのは、いつの事だったか。
 恭は最初、その字を間違って読むという失態を演じた。
 「誤って洗濯してしまった」とかで、セバスが制服のネームプレートに手描きの紙を入れていたのが原因である。
 その手描きの文字というのが、また女の子さながらの丸文字だった。
 おかげで、恭の目にはそれが本タタ≠ニ書かれているように見えたのだ。

「セバスの件で学んだ俺に死角はない。それは片仮名が二つ並んでいると見せかけつつ、実はワンセットの漢字という巧妙な罠なんだ。即ちホンタタではなく、ホンダと読む」
「まあ、そうですけど」
「やはりな」
 ひとつうなずき、恭は自らも名乗った。
「俺は、新入生の鷹取恭ってもんです。さっきは勘違いして本当に悪かった。――そっちも一年なんだよな?」
「ええ。さっき手続きを終えて」
「俺はこれからなんだ」
 と、右手をさしのべる。
「よろしく、ホンダ・タコさん」

 愛想良く握手に応じかけていた彼女が、いきなり凍り付いた。
 不思議に思って見ていると、笑顔を強ばらせたままうつむき加減になっていく。
「どうした? そんなゼリーのように震えて。やっぱりヤバいクスリをやってたとか?」
「……私の名前を、タコと読んだ人はあなたがはじめてです」
「すなわち、罠を破った最初の男というわけだな」
 くすぐったさを感じながら、恭は笑顔で後頭部に手をやった。
「片仮名のタが三つ並んで見えるため、誰もがホンタタタコだと錯覚する。だが、前半の二つを重ね、セットにするというコロンブスの卵的発想により、この罠は回避できる。そうです、俺は鷹取恭。一度犯したミスは繰り返さない男」
 きりっと表情を引き締め、サムズアップで決めた。

「本気で言ってるのね……」
 底冷えする声が言った。
「私はいつでも本気だが」
「ユウコよ」
「えっ?」
「カタカナのタ≠ノ似てるけど、これは夕方の夕≠ニいう漢字なの。そう読むの」
「ああ」
 頭の中で文字を思い浮かべつつ、納得した。
「あー、なるほど。なるほどねえ」
 感心して何度もうなずく。
「確かにそうも読めますな。いやあ、紙一重紙一重。おしかった」
「おしくないです」
 尖った声がぴしゃりと断じた。



to be continued...
つづく
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