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解決編





   14

 自室への帰路は、汚泥に膝まで浸かって歩くようだった。それでいて、野次馬たちに取り囲まれないよう足を急がせなければならない。
 なんとか602号室に辿り着いたら着いたで、今度は別種の試練が佐伯を待っていた。
 ベッドの上の小山である。タオルケットをかぶって丸くなった高階であった。
 彼女らしく、大変に分かりやすい落ち込み方だった。
 ふて寝に入ったのか、しばらく眺めても、巨大な大福のようにも見える半球の塊は微動だにしない。
 何をそこまで落ち込んでいるのか分からなかった。
 笠置の死だけでこれほど落胆はすまい。
 しきりに「もう駄目」「全て終わり」とつぶやいていたのと何らかの関係があるのだろうが――
「あの、先生。もしかして、泣いてるんですか?」
 恐る恐る問いかけると、答えはすぐに返った。
「泣いてない」
「じゃあ、どういった状況で、そんな北極ウサギみたいなことになってるんです?」
「――分からないの?」
 布越しの少し籠もった声が問い返してくる。なんとなく非難がましい。
「分かりません。教えてくれませんか」
「私は生まれて初めてのアルバイトを引き受けて、はりきってたんだ」
 佐伯は思わず口を半開きにした。何の話かまったく理解できない。
「アルバイト?」
「沈黙を保つ事で四千万円相当の旅行券が貰える素敵な案件だ」
「ああ――」そのことか、と合点がいく。
 高階が言っているのは、船長と交わした密約のことで間違いあるまい。
 あれは元より、クルーズを不名誉な理由で中断したくない、風評被害を避けたい――という船会社や代理店の思惑があってのものだ。
 だが今回、言い逃れようのない殺人事件が発生した。もはや報告を遅らせることも、説明を曖昧にすることも無理だろう。必然、高梨の口を封じる意味も失われたことになる。普通に考えれば、アルバイトの話もお流れとなるはずであった。
「お口チャックで日給四千万が……編集者からの国外逃亡プランが……なにもかもパアだ。白紙だ。海の藻屑だ」
「まあ、そうなるんでしょうね」
「それだけじゃない」
 声を荒げて高梨が勢いよく身を起こした。タオルケットがむしり取られたマントのように放り投げられる。
「洋上の客船で人が殺されたってことは、例のあれだ。犯人はこの中にいる!≠チて状態ということになる。では、殺人犯が徘徊してる船内で、各種イヴェントが予定通り開催されることがあろうか?――いいや、されるわけがない!」
 握りしめた拳を戦慄《わなな》かせ、反語まで駆使して高階は熱弁する。
「自社の大事なタレントをそんな危険な場で活動させる事務所があるもんか。予定されてた〈マニッシュバーズ〉のイヴェントは全部……その全てがキャンセルになるに決まってる!」
「ごもっともですね」
「他人の迷惑もかえりみず殺人なんぞやらかしおって。人なんか殺してる暇があったら、私の本を読めと! 〈マニッシュバーズ〉の舞台を観ろと! 首根っこひっ捕まえて犯人のアホたれに説教してやりたい」
 何かよく分からない方向に話の筋が迷走を始めたような気がした。
 だが、佐伯に制止に入る暇《いとま》すら与えず、高階は捲し立てる。
「人の命を奪おうっていうんだ。そりゃあ、色々あるんだろう。聞けば同情できるような、相応の理由があったのかもしれない。一概に事件を起こしたことそのものまで否定する気はないんだ。しかし、なんで今やった? せめてあと一日――いや半日で良い――待てなかった? そんなに我慢がきかなかったというのか」
「それは知りませんが、先生、少し落ち着かれた方が」
「どこの誰だ、人のバイトを台無しにした上に、スペシャル公演までぶち壊しにしてくれた命知らずの冒険野郎は。これは喧嘩だろ。喧嘩売ってるんだろ。私に挑戦してるんだろ。上等じゃないか、見つけ出してアレだ。人体が漫画的表現にどこまで耐えうるかの実験教材にしたらあ」
「先生、べらんめぇ口調になってますから。興奮のしすぎです」
 佐伯はごく冷静に指摘しつつ、高階へミネラルウォーターのグラスを差し出した。
 彼女はそれを引ったくるように奪い、一気に飲み干す。押しつけるように空グラスを佐伯に突き返した。ぐいと手の甲で口元を拭う。そしてまた機関銃のようにしゃべり出した。
「で、裁判だ。民事だ。賠償請求だ。四千万のバイト台無しにされたんだから、色つけて最低五千万からの賠償金をふんだくってやる」
「そりゃあ無理ってもんでしょう」
「なぜ」猛禽のような目で睨まれる。
 思わず鼻白みながらも、言った。
「だって、日給四千万のバイトなんて非常識ですし、大体、内容とそれを引き受けるに到った経緯を法廷でどう説明するつもりです? 法外な報酬が約束されてたのは、文字どおり人に言えない種類の仕事だったからでしょう」
「お口チャックなだけにね」
「仮に請求通りの賠償額を勝ち取れたとして、実際に回収できるかはまた別ですよ」
「構わん。住居《ヤサ》に踏み込んで、たとえ金にならないと分かっていても、あらゆるものを根こそぎ差押《さしおさ》えてやるのだ。嫌がらせ目的でね。金で回収できないならイジメて気分をすっきりさせる方向にシフトすれば良い」
「でも、差押にも制限があるんでしょう? 日用品は駄目だとか、三ヶ月分の生活費は残さなきゃいけないとか」
「そんなの拡大解釈で無視して、身ぐるみは剥がせるだけ剥がすんだよ。取られた側は、必要外の物まで持っていかれたって不服を訴えることもできるけど、実際にそこまでやれる奴は少ない。嫌がらせとはそういう風に、相手の手間を増やして精神を削る方向でやるもんだ」
 佐伯は深く嘆息した。
 彼女はやると言ったら本当にやる女だ。いざとなれば、採算も体面もまったく度外視。百パーセント感情の赴くまま突っ切れる人種だ。相手に十倍の苦痛を与えられるためなら、自分の肉が抉《えぐ》れ、骨が砕けようと進み続ける。
「前から思ってましたけど、先生は絶対に敵に回しちゃいけないタイプですね」
「だが、この事件の犯人は私を敵に回したぞ。今から謝ったって絶対に許るさん!」
 怒りが収まらないのか、高階は身体のバネだけでベッドから跳ね下りると、あたりを苛立たしげに歩き回る。神経質になっている手負いの肉食獣のようだった。
「しかし、殺人となれば海保だか警察だかが捜査するわけでしょう。船上だから犯人は逃げられませんし。彼らに任せておけば、犯人なんてすぐ見つかるんじゃないですかね」
 佐伯の指摘に、高階はぴたりと脚を止めた。
「それは――その通りだ」渋々といった様子で認める。「そう。多分、敷鑑《しきかん》さえしっかりやれば、この件の犯人はすぐに割れる」
「シキカンって?」
「人間関係の捜査だよ」
「事件関係者たちの繋がりってことですか?」
「うん。そこさえきっちり押さえるなら、意外とあっさり固まると思う」
 では、なおさら当局に任せておけば良い。
 佐伯がそう言わんとするのを察してか、高階は機先を制して言った。
「でもね、TVのサスペンス劇場とかメガネの少年探偵漫画なんかと違って、現実では犯人が割れればそれで良いってもんじゃないんだよ。犯人はコイツしかあり得ないと思っても、立証できなけりゃ起訴もできないし、逮捕して検察に渡せても量刑キッチリ取れなきゃ負けと同じだ」
「つまり、今回はそうなる危険性があると?」
 高階は明確には応えず、すっと目を細めた。
「この事件の犯人は、発生した現象を相手がどう処理するか、常に計算してやってる。警察の科学捜査はデータの解析にどれだけの時間を必要とするか、それを元手にどこまでの立証が可能か……そういうことを読める奴だと思うんだよ。多分、自分が疑われるくらいはシナリオに入ってるだろう。最悪、逮捕されるところまで想定してるかもしれない。だけど、それ以上のことにはならずに逃げ切れるっていう算段が立ってるんだろうね。もしくは、逮捕されて有罪くらっても、それをダメージと認識しない特殊な立場にあるのかもしれない」
「愉快犯ってことですか?」
「そこまでは分からない。ただ、高い知能とプライドを持った、反社会的な思考のやつが中心にいるんじゃないかっていうのが私の考えだ」
 一瞬、自白・自供の類かと勘違いしかけた。
 高階のいう犯人像は、そのまま高階自身の人物像でもある。
 つまり、彼女と同種の人間を探し、相手にせねばならないということだ。
「厄介そうですね、実に」佐伯は顎の先を撫でながら、思わずこぼした。「まったくもって、極めつけに厄介そうだ」
「だろうね。笠置氏の現場を見る限り、犯人は難易度を調整しながら意図的にヒントを与えようとしている節がある。遊んでるのか、何かメッセージのつもりなのかは分からない。なんであれ、問題ってのは解くより作る方が高い知能を求められる。犯人には捜査当局より自分が上だっていう自信があるんだよ」
 これには頷ける部分もあった。
 笠置が殺されたのはどう考えても昨日の夜のうちである。
 バルコニィから遺体を海洋投棄するのに、もっとも目立たない時間帯だ。
 だが、犯人はわざわざロープで彼をベッドに固定し、時間のかかる毒殺を選んだ。殴るときに使った凶器は処分したくせ、注射器は残して現場を去った。
 始末した方が安全で、始末そのものも容易であったのに、それでも数々の物証を残しているのだ。
 これは敢えて残した、と考える方が自然だろう。
「やっぱり、今朝見たら他の死体がふたつともなくなってたのって、笠置さんを殺した何者かの仕業ですよね?」
 佐伯は訊いた。
「まあ、捨てちゃったんだろうね。海に」高階は肩をすくめるような仕草をする。「どこかに隠したとかいうパターンだったらちょっと驚きだ」
「それならどうして最初から始末しなかったんだろう」
 佐伯はコーヒーメイカーに向かいながらつぶやいた。目の前にあるのは、〈V60〉という刻印が目立つ、黒を基調にした機種だ。むかしアルバイト先の休憩室に置かれていた物と全く同じモデルであった。当然、使い方は心得ている。
「特に夫人の方は、バルコニィがすぐそこにあったわけでしょう? 殺した直後、簡単に捨てられたはずです」
 喋りながら水を注ぎ、粉末状にされた豆をふたり分セットした。開始ボタンを押す。
「両脇には客室もバルコニィもないわけだから目撃されるリスクもなかった」佐伯は考察しながら続けた。「安全に海に投げ捨てられたのに」
「捨てようとした時に、真下のバルコニィから人の声が聞こえた――とかならどう?」
 高階がすぐに言った。
「そもそも死体は捨てちゃうのがベストってのは、海面に近い甲板からの話であってね。途中に幾つもデッキを挟んだ最上階からだと、話はまた別だよ」
「ああ、そうか。しかも船のフロアって階段状に積み重なってますもんね。ピラミッドみたいなものだ。最上階からだと、海面までは水平距離がある。ただドンと突き落としたんじゃ、下の階のバルコニィにある手すりとかにぶつかるかもしれませんね」
「それもあるし、間に何階もキャビンが挟まってると、死体が落ちていく所を誰かに見られちゃう危険が高まる」
「昼間でしたしね。人体と特定されなくても、何か大きな物が落ちていった――みたいな証言をされるだけでも犯人としては脅威だ」
「そう。単に明るいってだけじゃなくて、当時はまだ出港して間もない時間帯だった。陸が近いから、落水した行方不明者が出れば、すぐに海保やら何やらを手配されて大々的な捜索が始まってしまう」
「なるほど。単に落とせば万事解決というのは短絡的過ぎるわけだ」
 佐伯は素直に関心した。
 捨てようと思っても捨てられなかった、というケースは確かに考慮すべきだ。
 しかし一方で、あの時間帯に部屋に残る乗客がいたとは考えにくい。それも事実であった。なにしろ、ウェルカムパーティ、夕食と、よほどのことがない限り欠席する理由の見当たらないイヴェントが催されていたのである。
 むしろ、閉じ籠もっていた夫人の方が例外中の例外であったのだ。
 それを指摘すると、高階は即座に言った。
「キミ、客船では船酔いが生じ得ることを忘れてる」
「あっ」
「現に、我々はその実例をひとつ見てる。具合悪くて部屋に籠もってる奴がいる危険性は、私が犯人なら当然計算に入れるね。そして、この船の客室の間取り。寝室は必ずバルコニィに通じる窓際にある。横になっている人間が一番、降ってきた死体に気付きやすいんだ」
「言われてみれば……」佐伯は思わず唸った。
「まあ、それもこれも工夫次第。海洋投棄に関しては、やろうと思えば幾らでも方法はあったってのも事実だろう」
「死体を消すっていうのは、要するに証拠の隠滅ですよね」
「そう。事件そのものや、犯人に繋がる情報を捜査当局に掴まれたくないからやる」
「でも、今度の事件の犯人は、出来たはずなのにその隠滅をやってない、と。三件目に到っては、殺しであることのアピールつきです」
「つまり、事件そのものが発覚することは恐れていなかった。むしろ、周知させたかったと考えられる。一方で、人殺しがあったことが充分に知れ渡った今日、死体は消えた。これは証拠隠滅のもう一つの目的、捜査機関に犯人の特定に繋がる情報を与えない、という部分には合う」
「乗員乗客には殺人のことを知って欲しいけど、警察には必要以上のことを知られたくないっていう特殊な事情があった、ということですか」
「その事情が具体的に何なのかは分からないけどね。でも、この考え方だと、矛楯なく状況を説明できる」
「ですね」頷きつつ、だが佐伯は腕を組んだ。「しかし、死体の処分が既に行われたものとして、犯人の目論見通り警察の捜査は難航するものですかね」
「死体のような証拠から糸を手繰って、ピンポイントで犯人に到るルート。もう一つは、消去法で容疑者をどんどん消していって、最後の一人になるまで絞り込んでいくルート。捜査法はこの二種類に大きく分類できて、死体がないとなると前者が著しくやりにくくなる。警察的にもやれることが限定的になるわけだ。だから、捜査は自然と後者中心に進められるだろう。たとえば、各人の船内での動きの把握なんかは、まっ先に手を付けると思うよ。誰がいつ、どこで、何をしていたか。これを聞き込みと監視カメラの情報から徹底的に洗う。結果、絞り込みには早い段階で成功するはずだ。で、地下にある機関部とか船員用の部屋にいたスタッフの大半が事件に関与していないことを突き止める」
 佐伯は頷いた。これにも反論すべき部分はない。
 船内を歩いていれば、船内の各所にカメラが設置されていることにはすぐ気付く。
 佐伯が発見した限りでも、エレヴェータ内はもちろん、衛星回線を利用した電話機の前にも備え付けられていた。また、機関室や船員たちが寝泊まりする下層から、客室のある上層に来るための階段にもカメラが置いてあるという。
 これは船員たちが無断、不正な手段で船内設備を利用したり、服務規程に違反して乗客達のエリアをうろつくのを抑止するためである、と聞いていた。
 特に外国人クルーは、日本人とはモラルや職業意識がかなり違うらしい。何時間も国際電話を利用し、故郷に逃げ帰って料金を踏み倒す。客室に忍び込んで小銭や電子機器を盗む。船内の備品や備蓄を無断で大量消費する。そういった話は笠置との雑談のなかでも実例を交えて聞かされていた。
 このカメラの映像を確認すれば、船員たちの誰が、いつ、地下と甲板上デッキの間を行き来したかは完全に把握できる。
 被害者たちの死亡推定時刻、犯行推定時刻に下層にいたと証明された者は、容疑者リストから外されることだろう。
「でも、それだけじゃ犯人を特定するほどまでは絞り込めないでしょう」
「うん。やっぱり、糸を手繰ってピンポイントで犯人に迫っていく科学捜査路線は外せない。でも、さっきも言ったように死体がないとかなり不利だ。しかたないからフィリピン人クルーが倒れてたトイレ、彼の自室。それに601号室と笠置氏が殺されてた現場。これらの場所を中心に科学捜査が行うことになるんだろうけど、これは困難を極めると想像されるね」
「つまり、指紋の検出とか、鑑識がドラマでやってるようなことですよね」
 言った直後、コーヒーメイカーが煮沸音をあげ始めた。
 ノイズを避けるために佐伯は機械から少し離れる。そして、続けた。
「だったら確かに難航しそうだ。ペストやら伝染病やら騒がれたから、トイレはあのあと徹底消毒つきで綺麗に掃除されたわけでしょう。もう、指紋も足跡もあったものじゃない」
 言いながら、それは601号室も同じであることに気付いた。
 あの部屋は、ドアを破って入りこんだ佐伯達が踏み荒らしている。その後も、修繕と遺品整理、笠置の部屋移動に伴う整理のため、何人ものスタッフが入りこんだのだ。
 もちろん、部屋ごとのクリーニングも徹底して行われた。佐伯自身、その様子を見たので間違いない。
「もしかして、清掃や消毒がされるってことも織込《おりこ》み済みで、ああいうロケーションを舞台に設定したんでしょうか」
「明らかに計算してのことだろうね。というか、死体を敢えて残したのはそのためなんじゃないかな。派手に出血斑を浮かばせた死体を見せ、伝染病のイメージを抱かせた上で、現場の徹底的な清掃と消毒を自然かつ確実な形で大勢の他人に行わせる。船医が同乗しているとはいえ、設備的にも解剖やら何やら、本格的な検死が行われるとは考えにくい。なら、死体を消すのは後で良い」
「まさか――」
「そう考えると、例のフィリピン人がレストランのトイレで殺されたことにも説明がつく。船長たちも言ってたけど、休憩中の|Q/M《クォーターマスター》があんなところにいたのは不自然過ぎるんだよ。用を足すにしたって、彼の部屋の近くには幾らでもトイレがあったはずなのに、わざわざ何フロア分も移動して、イヴェントで貸切になってるレストラン最寄りの個室を選ぶなんてさ。どう考えてもおかしいじゃないか。犯人に呼出されるなり、連れ込まれるなりしたと考える方が自然でしょ」
 もともと、「なぜ犯人はレストラン前のトイレを選んだのか?」という疑問はあった。普通に考えれば、利用率が低く、犯行を目撃される危険が小さな場所の方が殺人に向く。そして、この船には条件に合うトイレが幾らでもあるのだ。
「だから、逆の発想でいくべきなんだよね」高階が言った。「犯人はなるべく多くの人間に、被害者のあの症状を見て欲しかった」
「その分、殺してるところを目撃されるリスクは高まりますけど。もっと人気のない所を選んで、掃除係のスタッフに見つけさせるとかじゃ駄目だったんですか?」
「スタッフに発見されると業務命令で口止めされて、話が広がらない可能性がある。乗客を確実に巻き込みたかったんだろう。犯人はその点に相当こだわってるみたいだね」
 そこまで計算して殺人という行為に及ぶ人間――。
 それが現実に、この船の上にいるのだ。
 佐伯は背筋が冷たくなる、という感覚を味わった。
 思考が急速に鈍化していき、身体も満足に動かせなくなる。迫り来るダンプカーを前に、轢かれると知りつつ硬直してしまったような感じだった。
 実際、「ブザー鳴ったよ」という声をかけられても、佐伯は一瞬、何のことだか分からなかった。高階の指先が佐伯の後ろを示す。それでようやくコーヒーメイカーだと理解した。
「ああ、すみません。先生も飲みますよね?」
「いただこう」
 コーヒーの抽出は本当に完了していた。
 佐伯はサーバーを取りあげ、カップに中身を注ぎ分ける。
 ようやく、周囲に漂うコーヒーの芳香を楽しめるだけの精神的余裕も蘇ってきた。
「警察も、先生が今言ったように考えますか?」
 コーヒーを運んでいきながら、佐伯は訊いた。
「考えるね」
 カップを受取り、礼代わりに軽く掲げて見せながら、高階は答えた。
 一口含んで続ける。
「ただし、警察はこれ一つには絞らない。有力な仮説を幾つか出して、それぞれに担当を割り振って同時多角的に捜査を進行するんだ。まあ、路線を絞ることは事実だから、|指揮官《トップ》が無能だと見当違いな方へいっちゃうことはあるだろうけど」
「となると、警察が掴める科学的な情報は……」
「笠置氏の遺体と、残された注射器だけだね」
「そこから、毒のことくらいはハッキリしますか?」
「完全解明を一〇としたら、分析で分かるのは六くらいかな。まあ、それだけ分かれば十分なんだけど」
「六割で?」
「大事なのは成分よりも入手経路だから。そっち方面の捜査の参考になるデータが取れれば、細かいことはどうだって良いんだよ。捕まえた後、おうコラ、ありゃ何の毒だったんだ? って展開に持ち込めば済む話だくらいに警察は考える」
「言われてみれば、あんな特殊な症状が出る毒なんて一般人には入手不可能ですよね」
「そう。なら、誰なら入手ができたか。そんな風に、絞り込みに使える材料がほしいわけだからね。警察は。海戦ゲームみたいなもんなんだよ。最初は勘やセオリーにしたがって魚雷を撃ち込む。その手応えを見て、徐々に包囲網を狭めていく」
「先生は動物性の毒じゃないかって言ってましたけど、既存の医薬品を調合して、ああいう症状が出る毒薬を人工的に作ることは不可能なんですか?」
「それは、とても良い質問だ」
 高階が微笑する。
 こういう時の彼女の表情は、毎日顔を合わせていても対応しようのない動揺を佐伯に与える。こればかりは一生、どうにもならない気がしていた。
「身近な例でいうと、佐伯君、〈アスピリン〉は知ってるよね」
「――痛み止めですよね」
 少し反応が遅れたが、佐伯はなんとか不自然に思われない範囲内で応じた。
「海外ドラマとかハリウッド映画で、頭痛がしたらとりあえずザラザラ飲んどけって感じで出てくる、あれでしょ?」
「そう。学術的には、アセチルサリチル酸。キミが言ったように汎用性の高い鎮痛剤として超メジャーな薬だけど、あれは抗血小板剤としての側面も持つ。血小板っていうのは、血を固める働きを持つ成分。その働きを弱める機能があるんだ。分かりやすく言うと、怪我した時に出血が止まりにくくなる」
「そんな有害な機能、狙って使うことがあるんですか?」
「アスピリンに限らず、血を固まりにくくする能力を抗凝固作用《こうぎょうこさよう》っていうんだけど、この効能は薬としてだと、病気で血栓ができやすくなっちゃってる人とか心筋梗塞の治療に使われる。あとは、キミも見たと思うけど、血液検査の時にも必要だし、他にも人工透析の時とか、輸血用の血液の保存とか」
「ああ、なるほど」
「薬って基本的に毒なんだよ。毒を制するための毒を、便宜的に薬と定義してるだけ」
「まあ、副作用って言葉があるくらいですからね」
「で、世の中には佐伯君が名前を知ってるレヴェルの薬にさえ、血を止まらなくしたり、逆に固めてしまう機能を持ったものがあるわけだ。――結論をいうと、それらを上手く組み合わせれば、今回の毒殺と似たような反応を引き起こす毒薬を作ることは可能だろう」
「じゃあ……」
 身を乗り出しかけた佐伯を手振りで押さえ、高階はゆっくりと続けた。
「ただし、それは確率がゼロではない、というだけ。狙った症状を安定的に、再現性を持たせて引き出せる毒薬を新規に生み出すとすれば、莫大な費用と時間をかけ、専門的な設備を整えた環境下で、非常に高度な研究や実験を繰り返さなくちゃならない」
「やっぱり、そこまで難しいもんですか」
「たとえばね、〈ドルミカム〉っていう麻酔導入薬があるんだよ。いわゆる鎮静剤ね。大学病院では、これでよくセデーションする」
「セデーション?」
「病気とかで痛みや苦しみが取れない患者を、眠らせる感じで楽にしてやる鎮静行為のこと」
「ホスピスとかいう、あれですか」
「そう。まあ、ホスピスが全てではないけど。で、錠剤で飲ませるとか、座薬として使うやつとかもあるんだけど、〈ドルミカム〉の場合は点滴で投与するだけで意識レヴェルを簡単に下げられるから、使い勝手が良いんだよ。病院にはシリンジ・ポンプっていう注入レートを自動制御してくれる便利な道具もあるしね」
「そんなのがあるんですか」
「アメリカでは同じ薬が〈ミダゾラム〉という名前で、まあ色んなケースでバンバン使われてる。しまいには、在庫整理だかなんだかで死刑執行の薬殺にも使われはじめてね。〈ヒドロモルフォン〉って古い薬と組み合わせて、死刑囚に注射したりしてるわけだよ。でも、この組み合わせってのが良くなかった。上手くいかなくて、楽に死なせてやるはずが、実際は十分以上も苦しめちゃったケースがある。普通は一分もせずに眠らせて、呼吸止めて、心臓止めての順番ですんなり片付くんだけどね」
「苦しんだってことは、麻酔が効かなかった?」
「どうだろうね。なんであれ、今回の殺人でそんなことが起きたりしたら、犯人的には大誤算だよ。十分間も苦悶の叫びをあげられたら、計画が完全に破綻してしまう」
「まあ、トイレとかだと誰かに見つかっちゃう可能性大ですよね」
「人を殺す目的となると、治療薬と違って、人間にモニタリングしてもらうわけにもいかないしね。事前に試せないわけだ。組み合わせをちゃんとやるのは大変だと思うよ。ましてブレンドして一つの新しい毒薬を作り出すとなると、現実的には不可能だという専門家も多いんじゃないかな。たとえば、船医や医学方面の職に就いてる乗客のひとりが趣味で新種の毒物を研究開発して、それを使って……みたいな想像をしているなら、それはちょっと考えにくい」
「AとBを六対四の割合で混ぜれば、Aの効果が六、Bの効果が四現れるCという薬ができる――というような単純な世界ではない、と?」
「そういう計算のしやすい薬の組み合わせがないわけではないけど、全てがそう簡単にいくとは限らないね」
 たとえばトリカブトの毒とフグの毒は、まさにその典型例であるという。
 両者は同時に飲むと、一時的に効果を打ち消し合ってしまう。この相殺効果をアリバイトリックに使った殺人事件が、日本国内でも過去、現実に発生しているらしい。
「だから、オリジナルの毒物を一から合成した説≠ヘ、警察も早々に捨てると思うよ」高階が言った。「成分分析でも否定されるだろうしね」
「じゃあ、やっぱり植物やら小動物から毒物を抽出したと見るべきなんですね」
「私はそう考えてる」
「さっき言ってたフグの毒とか?」
「テトロドトキシン? いや、それはないと思う」
「えっ」佐伯は少し鼻白む。「でも、フグ毒って死亡事例ありますよね? 先生の言ってた神経系の毒でもあるわけでしょう」
「料理として食べさせるならやりやすいけど、今回は注射だよ? そりゃあ、フグはどこででも売ってるし、自分で釣ることだって可能だけど、じゃあ、そこから注射できる形でテトロドトキシンを抽出分離するってなったら、キミやれる?」
「いや……」少し考え、佐伯は首を振る。「それはちょっと分からないですね」
「でしょ? 結晶化に近い形で取り出すなんて、素人にゃ難しいよ」
「あっ」突然、閃きを得て佐伯は小さく叫んだ。「じゃあ、調理師はどうです。ある意味、専門家でしょう。この船にもコックは大勢乗ってます」
「可能性があることは認めよう。でも、料理人はあくまで毒が含まれてる部分――筋肉とか内臓とか――を分離して、専用のゴミ箱に棄てる手順を心得てるだけだよ。冷凍状態で築地の除毒所に持っていけば焼却処分してもらうこともできるみたいな、業界ルールを知ったりね。そういう方向性での専門家なわけ。毒の結晶化とかはまた畑が違う」
「そっか……。ですよね」
「テトロドトキシンは研究され尽くしてるから科学的な合成も可能だけど、専門家が環境整えてやらないと無理だ。同じく研究用として売りに出されてるテトロドトキシンもあるけど、これだって売買は許可制だし、高価だわアシがつくわで結局、現実的じゃない」
「じゃあ、毒がある部分を煎じてサプリメントだとか言って飲ませれば? それなら、純度は低くなるでしょうけど何とかなるでしょう」
「その場合、カプセルが一瞬で溶けたとしても、すぐ死ぬとか倒れて動けなくなるとかいうことはない。助けを呼ぶくらいの時間は動けるだろう。医療サイドから見ると、テトロドトキシンの中毒って、人工呼吸器なんかで早めに処置すると結構助けられるんだよね。分解されやすいから」
「ああ、ならこの船だと駄目ですね。どこであろうと船医が三分以内にかけつけて、すぐに呼吸器に繋げられますから。街中の救急車より早い」
「そう。客船の中っていう特殊なロケーション考えると使いにくくてしょうがないわけ。今回の犯行の場合、最低でも三分以内に意識失わせるか息の根止めないと、被害者に誰が犯人かを証言されてしまう。神経毒ならなんでも良いってわけじゃないんだ」
 分解されにくい。洗浄しにくい。呼吸器につなげるだけでは助からない。つまり、そういったタイプが求められるということだ。
「そもそもね、毒の作用って安定して得るのが難しいんだよ」高階が腕組みして言った。「体重にしたって、海で働く外国籍の大男と日本人の小柄な女じゃ倍近く違う。この場合、致死量も倍だ。調節が難しい。その上、投与の方法が注射に限定されているわけだよ」
「まあ、普通の薬だって効く効かないは体質で差が大きいですからねえ」
 フィリピン系の船員は、ちょっとした風邪でも抗生物質を欲するため、身体が慣れてしまっていざという時に効きにくい。船医がぼやいていたのを思い出す。
「そういうことだね。毒も薬も似たようなもんだ。素人が煎じて溶かして――とかで作ると、思ったような効果を得られない可能性が大きい。死ぬまでの時間を分単位でコントロールなんてシビアな芸当、ほとんど無理じゃないかな」
「しかし……そうか。最初から液体になってる毒を集めないと色々面倒になのか。最初は毒キノコとかもありかな、と思ってたんですけど」
「注射として使うなら、ちょっと手間かもね」
「でも毒液って、集めようとして集められるものでもないでしょう」
 佐伯は訊いた。
「そこは気合いの問題だね。|毒腺《どくせん》を持つ生物からの採取なら、難易度そのものは言うほど高くないし」
 液体の状態の毒を、専門的には〈|毒液《ヴェノム》〉という。
 これを、やはり蛇から取るのがベストではないか。高階はそう続けた。
 毒液を持つ生物は他にもいるが、入手性と毒液の保有量のバランスを考えると、自然とそういう結論になるらしい。
 蛇毒の場合、採取には瓶を使う。口の部分にラップを張る形で膜を張れば、下準備は完了。破れないのであれば薄い布、ガーゼなどで良い。あとは、この膜に蛇の牙を突き刺させるだけだ。その状態で毒腺とよばれる部分を指で押してやると、注射器から出てくるように毒液が放出されて、瓶に溜まるのだという。
 この手法は、〈ミルキング〉という名前があるほどメジャーであるらしい。字面どおり、|乳搾《ちちしぼ》りに由来する呼称だ。専用の器具も出回っており、手法もマニュアル化されている。そのため、やれる人間は大勢存在するであろう、というのが高階の見立てだ。
 話を聞くうち、佐伯はなんとなく、笛でコブラを操る南アジアの蛇つかいを想像した。
 だが、日本にも似たようなエキスパートはいるはずだった。沖縄の一部地域であったか。ハブを捕獲して担当部署に持っていけば、謝礼を貰えるといったシステムもあったと記憶している。民間にも、昔ながらのハブの扱い方が伝わっていることだろう。修学旅行でハブセンターに行った時、佐伯は日本最大のハブの模型を見た。あれのオリジナルは民間人が捕獲したものであると聞いた覚えがある。
「で、そのミルキングだと、蛇一匹あたりからどれくらいの毒を採れるんです?」
 佐伯はふと思いついて訊ねた。
「そりゃあ蛇によるよ。マムシなんかは、ひと咬《か》みで平均〇・一ccくらいしか毒を出せない。でも、クサリヘビの仲間で〈アフリカアダー〉って呼ばれてる奴の大型種は、平均で〇・三五ccくらいの出すって話だよ。人間を何人か殺せる量だ。三咬み分の合計を競う毒量コンテストでは、三cc近い記録が出ることもあったらしい」
「三ccって少なくないですか?」
 逆に、それだけでも人間殺せるのが凄い、と考えるべきなのかもしれないが――。
「そう? でも、空気ですら十ccも血管に入れば死ぬことがあるんだよ?」
 はっとさせられた。
 そう言えば、以前、執筆の参考にと読んだ漫画にもそういった描写があった。
 気泡が血管を塞いでしまい、結果、死に到る。そんな説明だったと記憶している。
「まあ、今回は何人か連続して殺すつもりだったみたいだからね。そうなると、佐伯君が言う通り、確実を期すためには少し不足があるかもしれない。その場合を考えると――そうだな〈キングコブラ〉なんか都合が良いだろうね。あれは、一咬みで六から七ccのヴェノムを出す。毒腺に溜め込んでる分の合計なら、その数倍になるだろう。黄色めで比較的トロみがある神経系の毒だ。致死性はマムシ毒の十倍以上。ゾウを殺したという記録もある。これなら、余裕で大人を何人か殺せるだろう」
 物騒な話が好きな高階は、気分がのってきたらしい。舌も滑らかに続ける。
「他にも、総合力で世界ナンバーワンの危険種と言われる〈ブラックマンバ〉。あれも量が欲しい時の有力なミキシング候補になるだろう。毒の致死性はマムシの軽く五十倍以上。重篤な中毒になった場合は二十分以内に死ぬ。毒一滴の雫《しずく》が大体〇・〇五ccくらいになるけど、これだけで成人男性を死に至らしめると言われる。物の資料によれば、毒腺にある総量だと十cc以上は普通。大型の個体だと二十cc近く取れることもあるそうな。これだけあれば、この船の乗客くらいなら皆殺しにしてもお釣りがくるかもね」
 どのあたりに生息しているのか問うと、高階はアフリカだと答えた。
「なら、駄目じゃないですか。一般人が手に入れるのは不可能でしょう」
「と思いきや、ブラックマンバを含めた多くの毒蛇は、海外だとペット感覚で普通に売られてるんだよね」高階はすぐに答えた。「お値段も数万円からと大変リーズナブル。高くても数十万でご用意できます――って感じ」
 通販番組の売り子を思わせる口調だった。
「そりゃあ値段的には、客船に乗れる層にとっては何ら負担にならないものでしょうけど……。でも海外の話なんでしょ?」
「それが、金積んで密売するアホは日本にもしっかりいるんだよ。ちょうど東日本大震災が重なって起ったから大ニュースになりそこねたけど、当時、ブラックマンバを含む二十匹以上の毒蛇を違法飼育してたって大馬鹿がいてね。逮捕されて一部で話題になった」
 知らないかと訊かれたため、佐伯は首を横に振った。
 たいして答えに期待していなかったらしく、高階はすぐに話を続けた。
「私が新人賞取る前の年にも、似たようなのが捕まってたのを覚えてる。こっちもガラガラヘビやマンバ系を複数含む五十匹くらいをコレクションしてた事件でさ。あの手の連中は何故か、数十匹単位で超危険な毒蛇を集めてるんだよね」
「本当に? 事実なら、表現の過激な漫画より、そっちを先に規制した方が良くないですか」
 青少年の健全な育成の阻害どころではない。健全な青少年を殺しかねない話だ。
「ともかく、少なくとも当時の奴等なら、今回の犯罪に必要な毒を採取できる条件を備えていたと言える。ハードルは意外に低いんだよ」
 笠置の殺害現場に残されていた注射器は小さかった。
 佐伯が覚えている限り、長さは人差し指くらい。二つに割ったあとのワリバシ程度の太さしかなかったように記憶している。
 高階に確認すると、やはり相当に小さな部類の注射器であるという。
 さすがに彼女はもっと詳しく観ていて、メーカーや何用の注射器かまでしっきりチェックしていた。それによるとシリンジと呼ばれる、溶剤を入れる部分の容量は一CC。
 ドイツの〈ビー・ブラウン社〉製。インスリン用の使い捨てタイプであったという。
「|単位《IU》が四十になってたから、かなり古いモデルだと思う。うちの爺さんみたいに、まだ〈インシュリン〉って言う医者が結構いた頃のやつかも。あれは、警察でも入手時期とルートの確定には手こずるね。私はちょっと想像がつかない」
「じゃあその注射器をベースにすると、毒蛇からは一咬みで数本分、繰り返せば一匹から十本分以上の毒を取り出すことができるわけですか」
「一日の間にって条件なら、大物からはそれくらい採れるはずだ。放っておけばまたチャージされるから、日をまたいでちょこちょこ採取していけば、かなりの量を確保できるだろう」
「なら、犯人もそんな感じで毒液《ヴェノム》を集めたんですかね?」佐伯は訊いた。「日本だと、毒が特に多いのってハブでしたっけ」
「ハブからは、一匹あたり乾燥毒量で三百ミリグラムくらい採れるって論文を見たことがあるな。でも、あれは出血毒だし、後遺症が怖いだけで毒的にはそんなに強くない。神経毒方面を含めて考えると、私はやっぱり海外ルートじゃないかと睨んでるよ」
 基本的に、毒蛇は生活を脅かす害獣だ。しかし、国によっては信仰の対象になることもある。こうした様々な事情から、捕獲を専門に請け負う業者は多い。連中に金を積めば、どこの捜査当局にばれることなく、危険な蛇毒を比較的簡単に入手できるのではないか――。高階はそう想像してるという。毒蛇が多く分布する辺りには貧しい地域も多い。金次第で何でもやる人間は見つけやすいだろう、という考え方らしい。
「海外、か」
 半信半疑ではあったが、言葉にした瞬間、佐伯の中でそれは明確なイメージとなった。
 ここは豪華客船なのだ。クルーの大半は、アジアからの出稼ぎ外国人である。
 高階の言った危険な毒蛇が生息する地域は、彼らの故郷。ホームグラウンドだ。情報もコネも得やすい。テロ対策でチェックの厳しい航空機より、客船の方が危険物の持ち込みも容易なはずだ。
「じゃあ――、先生は、犯人を乗組員の誰かだと思ってるんですか?」
「いや、本人が殺されるまでは、笠置氏が犯人だと思ってた」
「はあっ?」
 思わず、カップを握る手から力が抜けかけた。
 佐伯は慌てて支え直し、近くのソファに避難する。カップを卓上に置いた。
 冷静になるよう務めながら、高階が言ったことの意味を考え始める。
 だが、思考がまとまる前に彼女が話を再開した。
「キミが聞いた話を鵜呑みにするなら、彼は色んな客船で海外クルーズを何度も経験してた。つまり、船旅の特性を良く知る立場にあった。妻の実家ほどではないけど、自身も金持ちだ。世界各国を旅しながら、事件に繋がる着想を得ていたとして何もおかしくない。佐伯君はクルーだけを怪しんだようだけど、豪華客船の客はリピーターが多いんだ。〈飛鳥U〉っていう有名な日本の客船には、累計三年以上も宿泊してる客が何人もいて、船内に殿堂入りのネームプレートが飾れてる。今回の客にもその手の客船マニアがいるなら、彼女らも容疑者リストに入れるべきだね」
「いや、でも――」佐伯は肘掛けに手をついて、半分腰を浮かせる。「そうだ、動機がありませんよ。笠置さんには船員を殺すような動機はない」
「妻殺しの動機なら考えられるだろう。金持ちとはいえ、事業の業績がかんばしくなくて、妻の持ってる財産が気になりだしていたのかもしれない。実際、こんなとこまで来て喧嘩してたくらいだし、彼のあの生き方が妻に対して何も鬱憤を溜めないわけがない」
「なら、フィリピン人船員の方は? あちらとは会ったことすらなかったはずですよ。この船に乗るのは初めてだって言ってましたし」
「私が考えてたのは、毒の効き目を見る実験台に使った可能性だね。そうでなくても、会ったことがないってのは本人の証言でしかない。フィリピン人船員が別の船で働いていた頃に何かあったのかもしれないし、確か、この船は二世号だよね。一世号には乗ったことがあって、その時に会ってた可能性もある」
「そんな……」
「まあ、当の笠置氏が殺された以上、それも考え直さなきゃいけないわけだけど」


   15

 高階はコーヒーを飲み干し、キッチンに向かった。水でカップを洗浄する。
 佐伯は先程から考え事に没頭しており、まだ自分の分を半分も飲んでいない。コーヒーの存在そのものを忘れている可能性すらあった。
 蛇口のレバーをあげ締めた時だった。鋼鉄の船体に木霊する特有の響きを伴って、船内放送が始まった。
「乗船中のお客様にお知らせします」
 それは聞き慣れた香川船長の声だった。
 やや歪んだ音声で、彼はまず名乗った。自分がこの船を統括する立場にあることも説明する。それから厳《おごそ》かに続けた。
「既にご存じのお客様もおいでかと思いますが、昨夜、船内でお客様が一名、お亡くなりになりました。私は船長の責務としてこの事実をしかるべく各方面に報告し、対応について海上保安庁に判断を仰ぎました。結果、本船は当初の予定を変更し、これから速やかに東京港に入港する運びとなりましたことをご報告します」
 きっと、各船室では動揺が広がっているだろう。ある程度の覚悟をしていたはずの佐伯でさえそうだった。固唾を飲むような表情で放送に聞き入っている。
 船長は詫びの言葉を繰り返した。それから、十五分後に詳しい事情と今後の予定について説明会を行うこと、その会場を第3デッキのイヴェントホールに定めること、各自に落ち着いた対応と状況の理解を求めることなどを丁寧な表現で伝え、放送を終えた。
 回路が切断される耳障りなノイズ。一瞬、嫌な沈黙が602号室におりた。
「やっぱり、こうなったか……」
 高階は諦観混じりに小さくこぼした。
 考えられ得る限り、状況は最悪のルートを辿って展開されつつあるということだ。
 クルーズの中止。捜査当局からの取調べ。これらを回避する術は、もうない。
「今の放送だと、亡くなったのは一人のように聞こえますね」
 船内放送で我に返ったらしく、佐伯の顔からは思案の曇りが抜けていた。眉間に刻まれていた皺も消え去っている。
「昨夜って限定してたからね。あくまでフィリピン人船員と夫人は自殺か病死の路線であって、報告しなゃいけないのは殺人であることが明白な笠置氏の一件のみってスタンスなんだろう」
「説明会、十五分後らしいですけど。もう、今から行っておきますか?」
「いや、私たちにとって目新しい情報はそう出てこないだろう。時間に間に合うように、のんびり行けば良いさ」
 はあ、と佐伯は歯切れの悪い返答をよこした。そのあと、また少し考え込むような仕草を見せる。だが、すぐに顔を上げて、高階の方に視線を向けた。
「本当に……笠置さん、殺されたんですね……」
「信じられないのは分かるけど、残念ながら現実だよ」
「しかも、犯人はこの船の中にいる」
「それが非現実感を一番かもしだしてるよね。私は比較的、死体を見るのに慣れている方だと思うけど、すぐ近くに死体を生み出した奴が潜んでいるってシチュエーションは人生初だ」
「誰なんだろう」
「動機が分からないからなあ……。歴史的に、毒殺は非力な女性が好んで選択してきた殺害手段だけど、今回は現場に男子トイレとかが含まれてるし」高階は腕組みして軽く唸った。「まあ、〈マニッシュバーズ〉の隊士が逮捕とかでなけりゃ、私は別に誰が犯人でも良いよ」
「笠置さんは頭部をかなり酷く殴られてましたけど、結局、直接の死因になったのは注射器に入っていた毒液なんですよね」
「今のところ、そう考えられる」
「その注射って、素人が適当な場所にブスっとやれば成立するものなんですか?」
「一連の犯行に、静脈注射みたいな技能が必須だったか、ってことだね?」
「そうです」
 なるほど、特殊技術が必要であったなら、犯人像はかなり絞られる。
 だが、世の中そう思いどおりにいくものではない。
「残念ながら、笠置氏の場合は、身体のどこに注射しても問題なかったと思うよ。静脈注射する最大の理由は、毒の回りを早く、確実なものにして短時間で殺すためだ。でも、彼の死体は朝まで誰にも見つかる心配がなかった」
「そうか。あの人の場合、ベッドに縛り付けたまま一晩放置できる状況でしたね」
「その通り。急ぐ必要はない」
 高階は近くのソファに腰を落とし、脚を組んだ。続ける。
「でも、他の二件は別だ。犯人が想定していたであろう、毒の投与から第三者による発見までの予想時間が非常に短い。時間との勝負になる殺人だ」
「じゃあ、船員と奥さんのケースは静脈注射のようなテクニックが必要だったわけですね」
「まあ、蛇の場合と同じだよね。相手を確実に仕留めようと思ったら、単に噛みつくだけじゃだめだ。現に、日本で毒蛇に噛まれる人は毎年何千といるけど、死者は数人でしょ? あれって別に毒の強弱だけが問題じゃないんだ」
「と言うと、噛まれ方で被害が変わる、と?」
「そう。毒蛇咬傷で病院に来る患者のうち、実は二割から三割は毒が身体に注入されない単なる噛み傷で終わるんだ。医療従事者の間では、これをドライバイトと呼んでいる」
「へえ、毒が入らない噛まれ方ってそんなに多いんですか」
「残りの七、八割の場合でも、普通は血管に入りこんで広がるんじゃなくて、リンパの流れに乗ってゆっくり全身に広がっていく。場合によってはほとんど広がらないことすらある。ヤマカガシなんかまさにそうだね。あれの毒は強力だけど、〈ヒアルロニダーゼ〉みたいな浸透性を高める物質が含まれていないから、他と比べて毒が身体に染み渡りにくい。そういうケースでは、身体の浅い部分に毒が留まるから、症状が軽くて済むことがある。結果、毒の強さに見合わず一日で退院とか、あっさりした話で終わっちゃうんだよ。医者的にも非常に負担が軽くてラクなケースだ」
「しかし、今回の犯人的には大ピンチですね」
「そう。毒が効かないと、あいつにやられました、なんて証言されちゃうからね。だから私なら、早く確実に効くよう、血流に毒を乗せるための何らかの工夫をしたことだろう」
「ならやっぱり、静脈注射を上手にやれる、医療技術を持った人が怪しいって考えて良いんですね? 具体的には船医、乗客にいるかもしれない医療従事者、ナースの資格を持ったクルーなんかがその対象になると思いますけど」
「それが難しいところでね。血管に直《ちょく》で入れないと威力が落ちたり、巡りが悪かったりってのは出血毒の話なんだよ。呼吸回りや心筋を麻痺させる神経系の毒は、そこまで縛りがきつくない。極端な話、毒液を注射でっていう形にこだわる必要すらないんだ」
「えっ、でも……」
「例えばジュースに混ぜて飲ませるとか、経口からの投与でも即効性と致死性を保証できる物があるんだよ」
「出血毒だと無理なのに?」
「毒って言っても性質が全然違うからね。たとえば、佐伯君。私が山でマムシとかに噛まれちゃったとするよね。で、推奨されないことだけど、君は愛しい上司兼師匠を助けるために傷口に吸い付いて、毒を抜き取ろうとする」
「まあ実際、毒の吸い出しは考えるかもしれませんけど」
「フィクションの中では度々そういうシーンを見るからね。まあそういうわけで、必死にチューチュー頑張って吸い出しはじめたとする。ところが、佐伯君はアホだから誤って吸い出した毒をそのまま小量ながら飲み込んでしいました。――さて、ここで問題です。マムシの毒を飲み込んでしまったアホの子の佐伯君。果たしてどうなるでしょうか? 死んじゃうんでしょうか」
「毒ですからねえ……さっき先生自身、推奨されないってポロっと言いましたし。正解はなんです?」
「正解は、どうもならない。胃や腸の中で分解されて無害化する」
 佐伯が小さく口を開けた。「そうなんですか?」
「うん。普通、出血毒は飲み込んだって害はないんだよ。でも、これが神経毒となるとまた話が全然違ってくるってわけ」
「こっちは毒は飲み込んでも分解されない?」
「全部が全部ではないけど、飲み込むだけで効いちゃうやつも多い。蛇毒に限らずね」
 ぱっと思い浮かぶその代表例が農薬である、と高階は答えた。
 たとえば、特定毒物に指定されてる〈シュラーダン〉の類。また〈|1080《テン・エイティ》〉などもそうだ。これらは基本的に粉末だが、一部は水溶液としても出回っている。
 作用が異なるため神経毒と一口にまとめるのは乱暴だろうが、この犯罪では同じ役割を担う同系のアイテムとして扱うことが可能だ。
「みんなにペストだなんだと騒がせるために派手に出血斑が出る死体を量産したかったなら、確かに出血毒を使うのは言い手だ。そして、それは既存の薬品でやるより蛇毒のような生態毒性を使うのがもっとも手っ取り早いだろう。しかし、数分で回って意識を混濁させ、そのまま三十分以内に息の根を止める神経系の毒は、別に蛇やらクラゲやらから集めてくる必要はない。今言ったような農薬でも可能だ」
「でもその農薬、ドラッグストアで誰でも買えるものじゃないですよね」
「まあ、一般的な日本人にとっては入手難度高いね」高階は頷きながら答えた。「売るにも買うにも届け出がいる。それに、国内じゃ誤飲を防ぐために誰でも吐き出すような味付けがされた上、着色もされてる。飲食物に混ぜるなら、そういう処理をほどこされる前の、味や色に特徴がないやつを手に入れないと駄目だね」
「ほら。手に入れるの無理じゃないですか」
「いや、今回は海外ルートまで計算にいれないといけない。そうなると正直、ちょっと頭と金のあるやつが頑張ればどうとでもなると思うよ。特に〈1080〉は害獣駆除によく使われてるから、罠に使われてるのを盗んできても良い。オーストラリアやニュージーランドはヘリでばら撒き散布するレヴェルの管理だ。数人殺せる程度の小量をちょろまかすのなんか簡単かんたん」
 だが、一番手っ取り早いのは――矛楯するようだが――、やはり生物からの採取だ。
 蛇ではない。トリカブトである。あの恐るべき植物からは、驚くほど容易に毒を集められる。日本で狩猟やる古株の間では、抽出から使い方までが当たり前のように知られてるほどだ。
 そもそもトリカブト自体、許可も何もいらずに普通に栽培することが可能な植物だ。また、高階の故郷である岩手県では、ちょっと山にいけばそこかしこに毒性の高いトリカブトが自生していた。半日あれば、誰にも知られることなく必要量を集められたことだろう。
「研究室から毒物盗んでくる必要なんて、だから全然ないんだよね」
「さっき、神経系の毒は集めるのが難しいとか言ってたのと、真逆の話してませんか?」
「あれは、注射に直接使える液状の毒を、国内の動植物から抽出する形で得るのが困難、と言ったんだよ」
「どう違うんです」
「だから、神経系だけカプセルとかで飲ませて、ぶっ倒れたところで出血系の毒を注射でってパターンもありってことだよ。その場合、神経系の毒は別に粉末とかで良い。液体である必要はない」
「そうか。注射って行為自体、かなり難易度高いですもんね。理由がないとどう考えたって抵抗されるでしょうし。食べさせたり飲ませたりが可能なら、そっちの方が遙かに楽だ。美容に良いサプリだとか色々言って」
「そういうこと。北海道に生えてるエゾトリカブトなんか、その点において理想的な存在だ。胃ですぐ溶けるカプセルに入れて飲ませれば、小量でも短時間で人を死に至らしめることが可能だからね。ここは船の中だから、良い船酔い予防薬があるとか言えば、保険の意味で多くの人が受取って飲むだろう。万一、気分悪くなってショウを見れないと高い乗船料が無駄になってしまう」
「あの、ここで言う短時間って、具体的にどれくらいで死ぬことを言ってるんですか?」
 佐伯が訊ねてくる。
「最短だと数十秒かな。運が良ければ、ほとんど即死ってくらいすぐ死んでくれるよ」
「それはまた……」言葉を失ったように佐伯は一瞬、口をつぐむ。「トリカブトってそんなに危険なんですか」
 もちろん、あんまり早く死なれると出血斑が出ないこともあり得る。そのあたり、犯人にとっては悩ましいところだったであろうが――
「とにかく、一連の事件では現場の状況からやけに注射が目立ってるけど、全てを注射でやったとは限らない。二種類の毒を、注射と別の方法に分けて投与したとしても成立はするんだよ。この可能性を見落とすのは非常に危険だと思う。ちょっと長くなったけど、これは同時に、佐伯君の最初の質問に対する直接的な答えにもなる。――分かるよね?」
「一連の犯行に、静脈注射のような医療関係の技能が必要かどうかって話ですね。で、カプセルと注射を組み合わせとかなら、注射箇所は結局どこでも良くなる、と」
「そう。蚊に刺されたら日本脳炎やらマラリアで倒れるかもしれないけど、それとは関係なく刺された場所が膨れてかゆくなる。出血毒で出る斑点も、刺されたり噛まれたりした所を中心に局地的に出るのがセオリーだ。そしてその出現は別に全身に毒が回らなくたって成立する。そもそも蛇が噛んで毒入れる時だって皮下注射だ。出血斑が目的ならそれで十分なんだよ」
「はあ、専門的な知識があったらあったで、色々と考えなきゃいけないもんですね」
 半ば投げやりにも聞こえる口調で、佐伯は軽く首をすくませる。
「扱う情報量が増えるから仕方ない。普通なら検証や実験を重ねていくことで取捨ができるんだけど、今回はそれができないから可能性の列挙ばかりになってしまう。さっさと警察に分析して欲しいよ」
「テーマを変えましょう。仮にトリカブトの毒を使ってたとしたら、警察の分析で分かりますか?」
「分かる、分かる。死体は消えたけど、血液のサンプルは残ってるわけだから。フグ毒やトリカブトは検出も楽なんだよ。科学的に合成できるくらい研究されてるしさ」
 問題は、解明が進んでない蛇《ヘビ》毒の方だ。既に船医が指摘した事実だが、大学病院の医師でも、症状や血液検査からだけでは何に噛まれたのか断定できないことがある。
 噛み傷の付き方、生態的な分布状況、そういった間接的な証拠からの推察になることは、実際に多い。外来種となれば有名医大でも当たりをつけるのは困難だ。血清の調達を含め〈蛇族学術研〉のエキスパートに助けを借りるしかないだろう。
 これが、蛇に限らない外来生物から抽出した毒を複数混ぜ合わせた――等といったケースに到れば、警察だけではまず毒の完全な特定は不可能に近くなる。
「でも、犯人は結構絞り込めますよね」佐伯が言った。「入手経路や毒の使い方からいって、先生が言ったように高い知能と専門的な知識を持っていたことは確実です。何を使ったにせよ、三人も殺せるほどの毒を集めたとなると資金力もいる。くわえて、フィリピン人クルーをどうやってか、あのトイレに呼び出せる立場にあった」
「男子トイレに違和感なく連れ込めたということは、男なのかもね。でも、男が女子トイレに入るより、女が男子トイレに入る方が抵抗や違和感はないだろう。断定はできない」
「ですね」
 瞬間、高階の脳裏に閃くものがあった。
「トイレ、か……」
「なんです」佐伯が、何か気付いたのか、という期待を露わに顔を上げた。
「トイレと言えばさ、私の作品のアニメに声入れるっていうから、佐伯君連れて新宿のレコーディング・スタジオに行ったことがあったじゃないか」
 たちまち、佐伯の眉間に皺が寄せられた。
「行きましたね」
「佐伯君さ、あそこのトイレ、入ったことある?」
「そりゃあ、何回かは行ったと思いますけど」
「洗濯機あった?」高階はすぐに質問を重ねた。
「洗濯機? トイレに? ありませんよ、そんなの。なんの話ですか、一体」
 佐伯がますます怪訝そうな顔になって、確認してくる。
「あ、やっぱりそうなんだ。じゃあ、あれは女子トイレだけか」
「アフレコスタジオの女子トイレで、洗濯機を見たんですか?」
「うん。なぜか普通の洗濯機がデンと置いてあった」
「なんのために?」
「それが分からないから気になってるんだよ。私が見た限り、実際に回っていることは一度もなかった。仲良よしになった出演声優の娘《コ》に聞いても、存在はみんな知ってるけど用途や意図は知らないって言うし。あれはミステリだ」
「失礼ですが」佐伯が真剣な表情で言った。「それ、今回の件と何の関係が?」
「いや、関係は特にない」
 高階が答えた瞬間、佐伯は肩を落として盛大に溜め息をついた。
 彼はそのまま萎みきり、しばらく頭痛をこらえるように眉間のあたりを揉み続ける。
「――で、先生」しばらくして、疲れ切った声が高階に向けられた。「話を戻しますが、客船に乗ってる外国人のスタッフというのは、どの程度の教育を受けた層なんでしょう?」
「犯人像としてかなりの教養を持った人間が考えられるから、クルー達がそれに合致し得るかどうかを知りたいんだね?」
「そうです」
「私も聞きかじった程度だけど、一番多いフィリピンを例に取ると、出稼ぎの船乗りは結構格の高い商売なんだそうだよ。祖国に戻ればちょっとした小金持ちだろうし、高い就業競争率に見合うだけの教育を受けてもいるだろう」
「そうか……」佐伯は一瞬、考え込むような仕草を見せる。「向こう側からすれば、先進国で専門知識を必要とする職を得た人――ってことになりますもんね。人によっては英語は当然、日本語も多少話すし。母国語と含めて三カ国語以上使えることになる。ちょっとしたエリートだ」
「さて、じゃ、そろそろ説明会行こうか」
 高階は両膝に手をつき、ソファから立ち上がった。
 えっという顔をする佐伯に、高階は無言で壁掛け時計を指差す。
「あ、もうそんな時間ですか」そう言いながら、佐伯は自分の腕時計と掛け時計とを見比べた。「そうだ。メモとか持っていた方が良いですかね?」
「それは佐伯君の好きにすればいいよ」
 部屋を出ると、人気のない最上階デッキは酷く静かに感じられた。心なしか、照明が発する電球色の光も、昨日より一段階小さくなってしまったように思われる。
 これらの感想を抱いた自分に、高階は少し驚いた。実際には、廊下の明るさが一日で変化するなど考えられない。暗いと感じるのは、気分の落ち込みが生み出した錯覚だ。思っていた以上に、事件から精神的影響を受けているのである。
「まあ、無理もないか」高階は半ば自嘲的に独りごつ。「素敵イヴェントを満喫するために来たのに、待っていたのは企画の中止と妙な殺人事件だ。なんてかわいそうな私」
「何をぶつぶつ言ってるんですか」
 半歩後ろを付いてくる佐伯が面倒そうに言う。
 高階は首を捻って、背後の部下に冷ややかな視線を突き刺した。
「キミはそんなだからモテないんだ。傷ついた乙女が肩を震わせているってのに、何をぶつぶつ言ってるんだ、ときた。心の機微ってやつが分かってない」
「また、わけの分からないことを」意に介した風もなく、佐伯は素っ気なく言った。「それより先生」
「なにさ」
「そのうち警察に話を聞かれたりするんでしょう? その時、どの辺まで自分の素性を明かすつもりなんですか?」
「チケットは高階芳春名義なんだから、そっちを名乗るよ」
「本名も、漫画家だってことも言わないんですか」
「うん。職業は出版関係って説明する」
「でも、すぐにバレるでしょう。身元の確認なんて基本でしょうし」
「むしろ、調べてから来るかもしれないね。まあ、調べる分は向こうの勝手だ。それでなくても、ペンネーム出せばすぐに気付く奴もいるだろう」
「警察や自衛隊って、結構サブカルチャーに詳しいひと多いらしいですしね」
「そう。だから隠す気はないよ。自分からは言わないだけで」
 ただ、なんにせよ、早い内に衛星電話で編集部とは連絡を取るつもりだった。
 もちろん、彼らが警察に直接圧力をかけてくれるとまでは思っていない。期待すらしていない。しかし、出版社を中核とするグループは、傘下に大手の広告代理店を擁《よう》している。また、放送事業者の主要株主という側面も併せ持ってもいる。世間に出る情報をコントロールすることにかけてはお手の物だということだ。頼まなくても、自社の看板作家がワイドショーで面白可笑しくネタにされるのを防ごうとするに違いない。そういう読みはあった。
「で、俺が先生とこの場にいる理由については、警察に何て説明すれば良いですか」
「私は経理と資産運用のために法人を作ってる。一応、株式会社だ。佐伯君は、そこのバイトとして私に雇われてるって言えば良いんじゃない?」
「法人ってのは初耳ですね」
「ほとんど書類上だけの存在だから、知らなくて当然。常勤の役員だって私一人しか登録されてないし」
「常勤? でも先生、漫画以外の仕事してないでしょう」
「するわけがない。私は名義を貸してるだけで、実際に働いてるのは矢慧《やえ》一人だよ。学校の休み時間とか放課後とかにPC使ってね」
 佐伯が口を半開きにして立ち止まる。
「矢慧ちゃんに金の管理を任せてるとは聞いてましたけど……」彼は首を振り振り続けた。「じゃあ、なんですか。女子高生に印税やらライセンス料で儲けた巨額の金を預けて、投資させてると?」
「言ってなかったっけ?」高階も足を止めて言った。「今の私の資産は、漫画家として稼いだ額より、矢慧が転がして増やしてくれた額の方が遙かに割合として大きいんだよ」
「信じられない。何億って単位の金でしょう? ティーンの女の子にポンと預ける方も異常なら、引き受うける矢慧ちゃんも矢慧ちゃんだ」
「だから、ウチの女連中はそんなもので尻込みするタマじゃないんだって。一番大事なのはその度胸の部分だし、彼女は私よりもずっと頭が良い。年齢なんて関係ない。ビジネスチャンスに投資してるのは矢慧だけど、私はその彼女の嗅覚とセンスに投資した。それだけの話だよ」
「どうかしてる」
「とにかく、佐伯君は私と雇用関係にあり、秘書みたいに使われてて、今回もよく分からないままお供として連れて来られた、みたいに説明しておけば良いよ。漫画家のアシやってるなんて言うより、警察受けも良いだろう」
「でもそれ、事実をあまり正確には言ってませんよね」
「しかし、どこにも嘘はない」高階はにやりとする。
「まあ、確かに。嘘は含まないかもしれませんけど」
 高階たちが第3デッキの〈イヴェントホール〉に着いたのは開始時刻ぎりぎり、あるいは数分遅れといったタイミングであった。乗客は、既にほぼ全員が集合している。しかし、説明会はまだ開始されていなかった。
 ホール内には白い制服姿のスタッフは何人かいるのみ。ユニフォームから全員が末端クラスであることが分かる。彼らは乗客と同じくらい事情を何も知らされていないように見えた。その証拠に、客たちがフラストレーションを爆発させて自分たちに襲いかかってくる前に説明会が始まってくれるよう、時計をちらちらと気にしている。
 彼らの危惧は、高階にも理解できた。なにせ、高い金を払って参加権を競った特別なクルーズだ。それが一方的に中断されようとしている。紛糾した国会中継さながら、暴徒と化した一部乗客が手近な乗務員へ詰めより、胸ぐらをねじり上げての抗議行動に出てもおかしくはない。
 もっとも、彼らの危惧が杞憂に終わるであろうことも高階は理解していた。
 なにしろ、〈マニッシュバーズ〉のファン会員というのは、高度に訓練された人間の集いなのだ。その練度《れんど》は、時に「軍隊並」と揶揄されるほど。さすがにこういった場でも統制が取れている。
 そも、歌劇集団のファンをやっていれば不測の事態にはある程度慣らされるものだった。
 相手は歌って踊っての舞台役者。観る方も、突発的なアクシデントに対応できなければやっていけない。出演者の怪我。疾病。これらは実際、日常茶飯事的に起る。他にも交通機関のトラブルや天候の問題、会場の電気系統の故障などによる開演の遅れ、イヴェントの中断、中止、延期……
 舞台上で演者がセリフをど忘れし、進行が一瞬、止まったこともある。高階自身、幾度か目撃してきた事例だ。酷い時は、背景を彩るセットが動作不良を起こしたり、装置や小道具が破損・故障して機能しなくなって話が進まなくなることもある。
 加えて、劇団の訓練生の大半は、まだ就学年齢であるティーンの少女達だ。あたたかく見守るべき未成年者であり、体力的にも精神的にも無理を強いるべきではない。
 そういった精神が|後援会《ファンクラブ》メンバーの間では徹底されており、鉄の掟としてある。
 刑事事件が発生したとあらば、公演の中止に憤慨するのではなく、若い隊士たちをその凶刃から保護すべく、また間接的にであれ精神的衝撃を受けることのなきよう、これに腐心すべし。
 すなわち〈マニッシュバーズ〉の後援者とは――表現を選ばず言えば――動物園の里親と同じなのだ。隊士達を支援し、健やかに育まれていくのを見守る。彼女たちへの投資は、サーヴィスという見返りを得るのが目的ではない。その成長を喜ぶためのものなのである。
「――まあ、ある意味、変人の集団なんだよね」
「えっ?」
 ぽつりと零した高階の言葉に、佐伯が反応した。
「いや。どっか空いてる席あった?」
「それが意外とないんですよね」
 これが大学の講義あたりであれば、席も後ろの方から埋まっていくものだろう。だが、演劇マニアが集まれば、その性《サガ》として前列から中列が優先的に選ばれていく。
 必然、高階と佐伯は最後列付近に空席を求めるしかなかった。ようやく並びの席を見つけると、そこに腰を落ち着ける。
 改めて時計を確認すると、もういい加減、誰かが出てきても良い時間だった。
「待たせるとはけしからんな」高階は脚を組みつつ、そこに腕組みも加えた。
「上の方で話がまとまらないんですかね?」
「ありそうな話だ。船長はもう腹括《はらくく》ってたみたいだから、悪あがきしてるとしたら会社サイドだろうね」
 小声でそんなやりとりしていると、高階の右隣から上品な声がかかった。
「あの、失礼ですけど、お二人は何か事情をご存じなんですか?」
 そちらを見れば、見事な丸顔をした色白の娘だった。
 地味なクリーム色のシャツに、丈長な小花柄のスカート。足下にはパンプス風のアッパーにゴム製のソールを合わせた、俗に言うパンプススニーカーを履いている。
〈マニッシュバーズ〉のファン層に、なぜか良く見られる系統のファッションであった。合わせて五万円にもならない組み合わせであることは、まず間違いない。
 一方で左腕にさり気なく巻かれている時計がかなりの逸品であることに、高階はすぐ気付いた。両親か、あるいはもっと上の世代から受け継いだものなのだろう。年代物の〈ブランパン〉である。宝石などによる装飾を排したデザインで、バンドも細く目立たない物に交換されている。実際には今回のクルーズ料金に匹敵する価値を持つはずだが、多くの人間は地味な外見に惑わされ、そんな高級品だとは夢にも思わないだろう。
 資産家であるが、その事実が自分の人間的価値に直結することはない、と考えるタイプであるのかもしれない。
 高階は第一印象として、この娘に好感を抱いた。
「客がひとり死んだことは、放送でお聞きになったと思いますが」
 確認すると、娘は「聞きました」とかすかに頷いた。
「今朝、廊下に人が集まっていたことは?」
「――ええ、はい」娘が少し強ばった表情で答える。「知ってます」
「あの騒動は死体が見つかる前後のものなんですよ。で、発見時の現場の状況というのが、明らかに殺人のそれでしてね。船で事件が起ったなら、犯人はまだ船内のどこかにいるってことになる。当然、のんびりクルーズを続けるわけにもいかなくなるでしょう」
 話が聞こえたのだろう。周囲から視線が集まってくるのが分かった。
 丸顔の娘が代表して何か問おうとしかけた時、入口の方から人影が現れた。船長率いる男女数人の集団であった。彼らは大股のきびきびした動きで、まっすぐにマイクの設置されたステージに歩み寄っていく。
「大変お待たせして申し訳ありません。船長の香川です」
 ボワついた声が大きく場に響いた。
「皆さん既にお集まりいただいているようですので、さっそく始めさせていただきたいと思います。なお、途中いろいろなご意見や疑問を持たれるお客様もおられると思いますが、そういったものは最後にまとめてお受け致します。それまでは何卒、ご静聴賜りたくお願い申し上げます」
 そこで一旦言葉を切った船長は、半ば挑みかかるような視線で乗客達を見渡した。
 異論が出てこないことを確認すると、具体的な話に入っていく。
 その内容は、高階が事前に予想していた通りのものだった。すなわち、事実の大部分が省略された、虫食いだらけの状況説明である。しかも、焦点が当てられているのは笠置の殺害のみ。前日に発生したフィリピン人船員と彼の妻の死には触れられもしない。
 また、「殺人」という直接的な言葉の使用も頑なに避けられていた。「事件性のある」「不自然な状況」などといった濁した表現に終始し、あくまで当たり障りなく片付けようとしている。
 だが、どうしたところで、殺人事件が発生した事実は曲げようがない。
 当然、聴衆にもそれは伝わった。肌で感じられることだった。高度に訓練されているはずの彼女たちの間にも、一瞬、ざわめきが生じる。
「なぜ、このような凄惨な出来事が発生してしまったのか――」
 船長は眼光で聴衆たちを黙らせながら、続けた。
「我々も原因の究明に手をつくりしております。しかし、専門的な訓練を積んでいるわけでもなく、やはり最終的には捜査当局に状況を引き渡すことになるでしょう。そのため、現在、本船は当初の予定を変更して既に最短コース、最大船足をもって東京港に向かっており、予定では遅くとも本日の夜には――」
「あーぁ、予想を上回る退屈さだな」高階は続く船長の話を聞き流しながら、人目をはばかることなく伸びをする。「もう帰ろうか、佐伯君」
「まあ、そう言わずに。まだ五分も経ってませんよ」
 佐伯は苦笑交じりにそう返すが、内容のつまらなさまでは否定してこない。
 事実、新しい情報は今の所まったく出てくる気配がなかった。ストレートに表現すれば三十秒で済む話を、ひたすら回りくどく三十分かかる話にしているだけなのだ。
 漫画と同じだった。連載終了を引き延ばされると、その多くは陳腐化する。
「殺人事件が起きたというのは、本当だったんですね」
 右隣から、例の丸顔の娘が会話に加わってくる。存外、芯の強いタイプなのか、単に現実感を持てずにいるだけなのか、彼女は冷静に事実を受け止めているように見えた。
「間違いなく殺人です」高階は脚を組みかえながら言った。「問題の他殺体は我々が発見しましたのでね。断言できる」
 せっかくだからと、高階は船長が割愛した部分を含め、既に三人の乗員乗客が死亡していることを娘に話してやった。もはや、口を噤むことで対価が得られることもない。遠慮する気にはなれなかった。
「しかし、この対応は悪手だね」
 高階は、前脚二本を浮かせる形で椅子を後ろ向きに傾かせた。安楽椅子のように全体を緩やかに揺らしつつ続ける。
「結局、港に着けば船内に勾留されて、乗客達はもれなく聴取を受ける。そうなれば警察サイドから色んな確認をとられるわけだ。フィリピン人が見つかった時のこととか、夫人を見かけなかったかとかね。結果、多く乗客は死者が他に二名出ていることを知ることになる。どうせバレるんなら、先手を打って情報はきちんと公開しておいた方が良い。誰の判断かは知らないけど、この戦術を打ったやつは無能だ」
 そうこうしているうちに、壇上では語り手の交代が行われていた。船長に代わって初老の女がマイク前に立つ。彼女は第一声で、代理店サイドの責任者を語った。
 続く話の内容は、ツアー中止に伴う補償について。
 恐らく、この場に集まった乗客たちにとって最も関心の高いテーマだ。
 彼女が主張するところによると、既にクルーズは企画の半分を終えている上、主催側に過失のない事態による中断であるため、今回の事例は料金の払戻し条件の適用外となるらしい。
 しかし――、と彼女は少し急いで続けた。
 会社は特別な計らいとして乗客全員に一律十万円の見舞金が用意する予定である。
 また、〈マニッシュビーツ〉側からも、特別公演への優先招待などの特典が渡されるであろう。
 ここでまた説明役が交代し、今度はその〈マニッシュビーツ〉の劇団関係者が登壇した。いわゆる「マネージャー」的存在、と説明すれば世間的には一番通りが良いのだろう。常日頃から隊士たちの周囲に貼り付いているため、高階たちファン会員にとっても見慣れた顔である。坂井梅夫。フルネームはともかく、苗字は名乗られる前から佐伯以外の全員が知っていた。中間管理職の性《サガ》というやつに違いない。少女達のケアと、上から押しつけられた現場監督責任の二重苦で、今朝は傍目にも目が落ちくぼんでいた。
 それでも、この日最大の爆弾は、他ならぬ彼の口から投下された。
 たった一言で、殺人事件の発生を告げた船長の言葉とは比較にならない衝撃が場に走る。
「えっ、なんです?」
 周囲の動揺ぶりに困惑した様子で、佐伯がきょろきょろしだす。
「三日……なんとかって何のことですか」
「満華茶会《みっかちゃかい》だよ」高階は静かに指摘した。「満開の華のお茶会」
「だから、それがなんでこんな騒ぎになってるんですか」
「〈マニッシュバーズ〉にとって際だって特別な催しだからです」
 間に挟んだ高階ごしに、先程の丸顔の娘が言った。なぜそれを知らない人間がこの場にいるのかという疑問符と、それ以上に、満華茶会と聞いた興奮が直接表情にあらわれている。
「満華茶会は、毎年一月三日にホテルの大ホールを借り切って行われる新年会の一種です」
 娘は佐伯と目を合わせるため、少し前に身を乗り出しながら続けた。
「現役隊士か引退した元隊士、トレーナーや講師として長年、劇団に関わっている女性しか参加できない、現場経験者だけの集いなんです」
 説明会は程なくして終わったが、引き揚げていく乗客達は明らかに浮き足立っていた。
 もはや殺人事件のことなど完全に忘却の彼方なのだろう。満華茶会に参加できるかもしれない。夢にも思っていなかった奇跡に訪れに、いまだ夢うつつといった顔をしている者が多い。彼女たちにとって、今回の船旅がご破算になったことは、もうどうでも良い過去になりつつあるようだった。
 いつの間にか十一時を回っていたため、高階と佐伯は少し早めの昼食をとることにした。部屋には戻らず、その脚で第6デッキの野外カフェに足を運ぶ。説明会で意気投合した件の丸顔娘も一緒であった。
「で、具体的に満華茶会ってのはどう凄いんですか?」
 まだイメージが掴めないらしく、各自オーダーを終えた後、佐伯が再び話題を以ち出した。
「しかも、参加できるとは確約してませんでしたよね。まだ検討中で、実現する確率は五分五分程度のこととして聞いて欲しい、とか言ってたじゃないですか。そのレヴェルの話でああまで騒然となるっていうのは……」
 言葉尻を濁しつつも、信じがたいと言うように佐伯は首を左右する。
「しょうがないんです。たとえ大口のスポンサーであっても、どんなコネがあっても、実態を伴った現場経験がない限り絶対に入れて貰えないのが満華茶会ですから」
 長瀬凛子《ながせりんこ》を名乗った娘は、弁明するように答えた。
「とても参会資格が厳しくて、あの場に入れること自体がステータスなんです。〈マニッシュバーズ〉の場合、退団したら現役時代に使っていた芸名は契約上、使うことができなくなります。女優業に転向して成功されたような方もいますけど、彼女たちも、全く別の芸名での活躍を余儀なくされています。そういう改名組すら、部外者として参会資格が剥奪されるくらい、とにかく厳格なんです。〈マニッシュバーズ〉に百パーセントを注いでいる人しか入れて貰えないところですから」
「ほう、それは確かに、なかなか厳しいですね」
「だからさ」高階は水のグラスに手を伸ばしながら言った。「そこにファン会員が入り込めるなんて機会は、これまで想定すらされてこなかったわけ。プロ野球の日本シリーズ中に、ファンが選手登録されてベンチに入れて貰えるようなもんだよ。普通に考えたらちょっとあり得ない」
「なるほど。それなら、あの反応も無理はないのか」
「ただ、〈マニッシュバーズ〉の場合、隊士と会員との距離感がとっても近いですから。もう半分、関係者化している層もいるくらいなんです。そういった方々は長年、本当に現場近くで〈マニッシュバーズ〉のために尽くしていらしたわけで。事情を知る一部隊士からは、貢献度の高い会員にも茶会参加に到る道を用意してはどうか、と言って下さる方が出てきてはいたんですよ」
「あ、そうなんだ」高階は素直に驚く。「それは知らなかったなあ」
「ええ」長瀬凛子はにこりと微笑んで続けた。「だから、茶会に会員の一部を――という動きは、水面下で以前から進んでいたのかもしれません。そういう布石があった上で、今回のような話が出てきたんだ、と考えることもできるんじゃないでしょうか」
「仮に、満華茶会の一般参加券がチャリティオークションにでもかけられたら、落札額はこのクルーズの参加費用を超えることだろうね」
「それは間違いないと思います」高階の指摘に、長瀬は笑くぼを見せながら断言した。「少なくとも私はそれくらいの額を用意しますから。でも、売りに出された時点で参加券は無効と判断されて、価値のないものになるのも間違いないと思います」
「となると、その茶会に呼んで貰えるなら、このクルーズが途中終了することに対する補償としては充分なものと言えますね」
 佐伯が言った。
「そうなるね。まったく、大胆なカードを切ってきたもんだ。これは予想できなかったな」
「じゃあ、予定を台無しにした殺人犯のことは許しますか」
「それとこれとは話が別だ」高階は即座に返した。「犯人の野郎は激しく私を苛立たせた上、いたいけな〈マニッシュバーズ〉の隊士達を現在進行形で怖がらせたり、怯えさせたりしてる。これは看過しがたい。まあ、満華茶会のポイント分を含めても、斬首刑のところを半殺しにまけてやるくらいかな」
「でも、怖いですよね。この船に殺人犯が乗ってるなんて」寒気でも感じたように、長瀬は自分の二の腕あたりをさする。「これ以上は、もう何も起らないで欲しいですね」
「動機が分からない以上、殺人計画が終わったのか、まだ途中なのかは判断がしにくいね。被害の拡大を防ぎたいなら、さっさと犯人をふん捕まえるべきだ」
「それができれば苦労はないですよ……」佐伯が苦笑する。「さすがの先生も、今度ばかりは高校時代のようにとはいかないわけでしょ?」
 意味不明なその言葉に、高階は目を瞬《しばた》いた。
「なに、それ」
「先生、学生時代に事件を解決したことがあるそうじゃないですか。なんでしたっけ。〈大谷さん閉じ込め事件〉?」
 ますます分からない。全く覚えがなかった。まず、大谷さんというのを知らない。
「私の学生時代に、身近で殺人が起ったことなんてないと思うけど」
「あれ、先生覚えてないんですか? なんか、大谷さんっていう女子生徒が放課後の教室に閉じ込められて出られなくなった事件の真相を、先生が言い当てたって話を小耳に挟んだんですけど」
「すごい、名探偵みたいじゃないですか。どんな事件だったんですか?」
 この手の話を好む質《たち》なのか、長瀬が俄然瞳を輝かせる。初めて見る玩具に鼻をひくつかせながら寄っていく子犬さながらであった。
 が、高階としては首を捻るばかりだ。
「なんかの間違いじゃないの? 大谷さんって誰よ」
「いたはずですよ」佐伯は言い切ると、娘の方に向けて詳細を説明しだした。「先生は他人の名前を覚える気がないから、その線で思い出そうとしても無駄です。エピソードで記憶を探って下さい」
「そうは言われてもなあ」
 ぼやく高階を尻目に、佐伯は長瀬に対して説明を始めた。
「私とこの高階とは同じ高校に通っていたんですが、その学校では、放課後になると当番の生徒が教室を施錠して職員室に鍵を預けにいく、というシステムがあったんです」
「ああ、じゃあ、その大谷さんっていう人は――」
「そう。教室の中に居残っているところを見落とされて、閉じ込められてしまったんです」
 鍵の開閉は外、つまり廊下側からしかできない構造であった。このため、大谷さんは自力での脱出が不可能になったのだ、と佐伯は補足した。
「窓からの出入りはできなかったんですか?」と娘。
「教室は三階でしたから、外に面した窓から出ることは最初から無理です。そして、廊下側の壁には窓そのものがありませんでした」
「いや、窓あったよ」高階は言った。「天井近くの高いところに、横に細長いやつがついてた」
 佐伯は最初きょとんとした顔をみせたが、やがて何度か頷く仕草を見せた。
「――ああ、そう言えばそんなのがあった気も。でも、あれは小さすぎて人間の身体は通らないでしょう。そもそも二メーター以上の高さにあるから、普通は届かない」
「まあね」
「そういうわけで、廊下側の壁に出入りに使える窓はありませんでした。出入口は前後にあるスライド式ドアのみ。それには小さなガラスがついてましたけど、はめ殺しのすりガラスでして。サイズ的には小柄な女性なら潜り抜けられたかもれしませんけど、事件の前後でガラスが割られたというようなことはありません」
 このような状況である。当然、閉じ込められたことに気づいた瞬間、大谷さんは声を上げて自分の存在を示した。
 が、鍵をしめた何者かは、明らかにそれを無視して逃げるように立ち去っていったという。
 去り際、すりガラス越しにその人物のシルエットが見えた。だが、一瞬の出来事であったこともあり、個人の特定はできなかった。
「あ、なんか思い出してきた。言われてみれば、そんな事件、あったような気もする」
 記憶の糸を辿りながら、高階はぼんやりとつぶやく。
「しっかりしてくださいよ、先生。まだ耄碌《もうろく》するような歳じゃないでしょ」
 佐伯は苦笑交じりに言うと、また長瀬に視線を戻した。
「この件には、幾つかのポイントがありました。まず、その日の鍵の当番です。これは、仮にA子としましょう。彼女は放課後、決められた時間に教室の鍵をかけ、その鍵は確かに職員室に戻した、と証言しています」
「それは確かなんですか?」
「少なくとも鍵をかけるまでは、友達二人が一緒でした。その際、全員が教室に誰もいなかったことを確認しています。A子と友人等はその後、一階まで一緒に下りています。そこでいったん別れ、A子は一人走って職員室まで鍵を返しに行きました。残りの友達は、先に昇降口のげた箱に向かって、そこでA子を待っていたそうです」
 距離が近かったこともあり、A子はすぐにげた箱までやってきた。友人達はそう証言しているという。
「もう一つ重要なのは、この時点で自分が教室にいなかったことを、大谷さん本人が認めていることです」
 長瀬が「えっ」と小さな声を上げる。
「大谷さんはA子たちが鍵をかけた時間から二十分ほどして、忘れ物を取りに教室に戻っています」
「でも、教室はA子さんたちが」
「はい。施錠していたはずです。しかし、大谷さんが入ろうとすると鍵はかかっていなかったとか」
「状況的には、誰も嘘をつけない条件が揃ってますね。A子さんが鍵をかけたことは二人の証人がいますし、鍵がかかっていなかったという大谷さんの証言も疑いようがありません。でないと教室には入れないわけですから」
「その通りです」佐伯が神妙な顔で首を縦に振る。「大谷さんが職員室から持ち出して自分で開けたとしたら、大谷さんを中に置いたまま廊下から鍵をかけたのは誰か、という話になってしまう。A子たちも大谷さんも嘘をついていない。わざわざ職員室から鍵を持ち出して、大谷さんを閉じ込めて立ち去った第三の人物が存在するのは確実なわけです」
 高階は、この時点で事件のあらましを完全に思い出した。
 記憶によれば、大谷さんはその日、帰宅することができず、教室で一夜を過ごした。
 携帯電話は持っていなかった。校則で禁止されていたからだ。よって、外部に助けを呼ぶという手は打てなかった。彼女が発見されたのは、翌朝、A子の次の当番である生徒が教室の鍵を開けに来た時だった。
「学校から帰らなかったのに、よく騒ぎになりませんでしたね」
 長瀬が当然と言えば当然の疑問を口にする。
「私も詳しくは知らないんですが、大谷さんは複雑な家庭の事情を抱えられた人で、母親との二人暮しだったようです」佐伯は回答の準備をしていたように、すぐ答えた。「お母さんは病院で働いておられて、夜勤だか遅出だかで自宅には帰られない日だったとか」
「ああ、それで。でも大変だったでしょうね。おなかも空いたでしょうし。それに、おトイレとかどうしたんでしょう?」
「トイレはともかく、空腹であろうことは誰でも想像できたから、みんな彼女に昼食用のパンをわけてあげたりしてたな」
 高階は横から口を挟む。
「彼女、ミネラルウォーターのペットボトルは持っててね。トイレの問題で困らない範囲でそれをチビチビやってたみたい。だから、脱水症状とかにはならずに済んだ。割と健康そうだったよ」
「先生、思い出したんですね?」
「うん」と高階は笑みで答えた。「出来事は細部まで完全に思い出した。閉じ込められた人が大谷さんって名前だったかは、もう一生確信を持てないだろうけど」
「あの」長瀬が身を乗り出すような勢いで高階に向きなおった。「これだけの情報から、高階さんは犯人を的中させたんですか?」
「いや、もう一つ、重要な情報がある。私はその日、ちょっと遅めに来て騒動の輪に加わったから、やれることなんて何一つとしてなくてね。だから、渦中の大谷さんだっけ? 彼女を何となく観察してたんだ」
「観察、ですか」佐伯が不思議そうに言う。
「するとね、その日の当番だっていう男子生徒をチラチラ見てることに気がついた。本当にさりげなくだけどね」
「当番っていうことは、教室の鍵を開けて大谷さんを解放してくれた男子ってことですよね?」
 長瀬が、質問というより自分の考えをまとめるための確認、といった様子で言う。
「で、私は移動教室の時だったかな、彼女にさり気なく近付いて、誰にも聞かれない程度の声で訊いたんだ。彼と話をするためにやったのか?――ってね」
 はっとした様子で顔あげたのは、佐伯と長瀬、ほとんど同時だった。
「じゃあ、もしかして」と佐伯が代表するように声を上げる。
「うん。自作自演ってやつだね。もう分かったようだけど、第三者なんていない。大谷さんの証言は全て嘘だった。A子が鍵をかけた時、大谷さんは教室の中にいたんだ。自分から閉じ込められたんだよ」
「ああ――」
 長瀬はぽかんと口を開け、腑に落ちたというように何度か同じ簡単の声を繰り返した。
「ああ、それで……ああ」
「そもそもさ、大谷さんは忘れ物して教室に戻ったって設定なんだよ。第三者とやらの目的が彼女の閉じ込めにあったとして、それを計画するのは不可能なんだ。彼女が忘れ物をするかどうかなんて予測できないし、仮にできたとしても、施錠されているであろう教室にそれを取りに戻るかどうかは賭けになる。鍵の出し入れの時に、職員室で教員の誰かに目撃されると途端に立場が不利になるしね。そうまでして彼女を一晩教室に閉じ込めたとして、誰に何のメリットがある?」
 元々、計画などなかったのだろう。咄嗟の思いつきだったことは間違いない。
 日を跨いだ計画であったなら、彼女はミネラルウォータだけでなく、軽くでも食料を用意していたであろうからだ。
 すなわち、彼女はその日、突然気付いたのだ。今日は、ありとあらゆる好条件が揃っている。親は帰宅しない。一日、教室に残ったしても騒ぎにはならない。そして何より、明日の朝、当番として一番にこの場所にやってくるのは――自分を救い出してくれるのは、意中の男子だ。
 密室を作るのは簡単だった。A子が鍵をかける時、掃除用具入れの中に鞄ごと身を隠しておくだけである。彼女に迷惑がかからないように、教室には放課後ずいぶんしてから戻ったことにすれば良い。磨りガラス越しに逃げていった人物をでっちあげれば、存在しない第三者が犯人になるだろう。
「大谷さんは人の印象に残りにくい、いわゆる地味なタイプ、物静かなタイプの女子だった。当番の男子とは同じクラスでも、まともに会話をしたことすらなかっただろう。でも大人しいからって何も考えたり感じないわけじゃない。むしろ普段大人しい奴こそ、いざって時には派手なことをやらかしたりするもんだ」
 そこまで考えた瞬間、高階の脳裏に閃くものがあった。
 ――では、この船で起った密室殺人の場合は?
 脳が答えを出すより早く、本能が反応した。
 背に冷たい物が走る。うなじが総毛立った。
 そうだ。なぜ、この可能性を考えなかった?
 自問する。
 いや、気付いてはいた。ただ、成立する条件がシビアすぎる。現実離れしている。
 それに証明の手段がない。
「先生?」
 異変に気付いたのか、腫れ物に触るような調子で佐伯が声をかけてきた。
 高階は答えず、立ち上がった。
「でも、これなら夫人の密室に説明はつく」
 小さく言葉にすると、何故か少し仮説に説得力が補強された気がした。
 あの時、夫人は死んでいた。他殺であることも含め、そこは間違いない。
 また、彼女以外に誰も601号室にいなかったのも事実だ。
 この条件下で、彼女は密室を自ら作り上げた。大谷さんと同じように。
 夫人はフィリピン人を殺し、自分を殺し、その後、夫をも殺した。
「問題は、そんなことをしなくちゃいけない理由が全く分からないことだ」


   16

 午後十九時近く、船は東京湾に入った。
 状況が状況だけあり、出港時とは真逆。セイラウェイの時のようなパーティもなければ、出迎えもない。到って静かな接岸であった。
 入港に際し、乗客に対しては事前に放送があった。できるだけ出歩かず、各キャビンにて待機していて欲しい。当局の許可が無ければ下船はもちろん、帰宅はできない。スムーズに捜査が進むよう協力的に振る舞うことが、解放への一番の近道になるであろう。そういった主旨の連絡だった。
 佐伯はこれに素直に従ったが、高階は夕食後、「衛星電話をかけてくる」と言ったきり部屋に戻ってこずにいる。ベッドサイドからは彼女愛用の携帯プレイヤーが消えている。どこかで音楽でも聞きながら時間を潰しているのだろう。
 来客を告げるベルが鳴ったのは、東京港に着いてから十分ほどしてだった。
 海上保安庁の到来かと思いきや、ドアをあけるとワゴンを押した船員が入ってくる。頼みもしないルームサーヴィスの差し入れであった。軽食でもとり、取調べの順番が来るのを大人しく待っていろ、ということなのだろう。
「海上保安庁はもう来てるんですか?」
 焼き菓子のトレイをテーブルに並べていく船員に、佐伯は訊ねた。浅黒い肌をした東南アジア系の中年女だったが、言葉は通じる。
「それかは分かりません」少し訛りと拙さの残る日本語が返った。「でも、外から沢山人が入ってきたのは見ました。今、キャプテンたちとお話しています」
「お互い、大変ですね」
 女はその言葉に微笑を返し、軽くなったワゴンを押して出ていった。
 直後、ほとんど入れ替わるようにして高階が戻った。まさか菓子の匂いをかぎつけたわけでもないだろう。しかしそうとも思えてしまう絶妙のタイミングである。
「お、良い物があるじゃないか」
 彼女はさっそくミニ・エクレアを摘み、口に放り込む。
「先生、どこに行ってたんです?」
「おお、これ苺クリームだ。嬉しいなあ」相好を崩してつぶやくと、高階は答えた。「私なら、そこのサンデッキに居たよ。ジャグジィにつかって音楽聴いてた。そしたらルームサーヴィスが部屋に入ってくのが見えてさ」
「ああ、なるほど」
 彼女がこういう時に愛用するのは〈シュア社〉のカナル型イヤフォンだ。その弾丸型イヤーピースは、外見からしてもう完全に耳栓である。実際、それに準じる遮音性を誇る。したがって、彼女は汽笛はともかく船内アナウンスは聞いていないはずであった。運良く見かけなければ、ルームサーヴィスが部屋に来たことにも気付かなかったであろう。
「で、マッポはもう来たって?」高階が訊いた。
「まっぽ?」
 佐伯はおうむ返しに訊ねる。
「警察官のことだよ」
 どういうことかと視線で問うと、彼女が説明し始めた。
「昔の警察っぽい組織には、設立の経緯から薩摩藩の出身者が多くてね。だから庶民からは薩摩っ方《ぽう》と揶揄的に呼ばれていたそうな」
 それがやがてマッポウ。最終的にはマッポへと転じていった――とういうことらしい。
「決して、|イカレた警官《マッドポリス》の省略ではないので間違えないように」
「実にどうでも良い話をどうも」佐伯は温度のない声で返す。「それはともかく、ルームサーヴィスの人はほとんど何も知らないようでしたよ。それらしい姿をした連中が大勢入ってきて船長らと話しているのは見た、と言ってましたけど」
 高階はどういう意味でか、鼻だけで浅く笑った。エクレアをまた一つ摘まみ取る。話はもう終わりということだろう。口の中に放り込みながらキッチンに歩いていく。なにをする気かと見守っていると、彼女は冷蔵庫から複数の飲料を取り出し始めた。同時に開封していくあたり、カクテルにするつもりらしい。
「何を作ってるんです?」
「レモンを加えた〈サマー・デライト〉。佐伯君も飲む?」
「レモン以外には何が混ざるんです? その緑の瓶は?」
「これはライムジュース。あと炭酸水も使うよ。プラス、本来なら更に二種類のシロップを混ぜるんだけど、残念ながら今回はザクロの方がない」
「どんな味か、ちょっと興味が出てきますね」
 ジュースかと思った瓶の一つは、炭酸水であったらしい。
 いずれにせよ、ノンアルコールのカクテルだ。確かに、それなら佐伯も飲める。
「夏にはまだ早いしね」高階がにやりとした。「これくらい不完全なものでちょうど良いと思うよ。ひと呼んで〈バイウ・デライト〉」
「梅雨はレイニィ・シーズンでしょう」
「大衆的にはね。しかし、一部の知識層にはバイウでも通じる。ミカンと同じ。あれも狭義的に英訳すると、オレンジじゃなくミカンそのままになるんだ」
 高階が、カクテルグラスを両手に歩いてきた。
 無言で左手のそれを差し出される。佐伯は黙礼と共に受取った。
 グラスは、気泡を含む、緑がかった黄色の液体で満たされていた。本来、ザクロを含むのなら、完成形は全く違う赤みがかったものになるのだろう。確かに別物だ。
「梅雨の英訳はそれでいいとして、この時期に|喜び《デライト》なんてありますか?」
 訊いて、一口含んだ。柑橘系の酸味。炭酸の清涼感。なるほど真夏にぴったりの爽やかな喉ごしだった。加えられた小量のシロップが、若干の複雑さと未知の味わいを演出している。
 高階が何か答えようとしたが、内容がなんであれ、それは甲高く鳴るドアチャイムによって遮られた。何者か知らないが、よほど急ぎの要件らしい。間髪いれずノックが始まる。しかもそれが、もはや殴打と呼ぶべき勢いだった。扉を叩き破ろうしているのではないかとすら思えてくる。放っておくと本当にそうしてきそうな凄みすら感じた。
「俺が出ます」
 佐伯が言うと、高階は黙って頷いた。と同時、空いたばかりの左手を差し伸べてくる。その指にグラスを預け、佐伯は小走りにドアへ向かった。
 教育の行き届いたクルーが来訪を告げるにしては、やり方が不作法に過ぎる。ルームサーヴィスも来たばかりだ。恐らく、待っているのは船員ではない。
 実際、この予想は的中していた。
 しかし、そこまでだった。扉を押し開けた直後、佐伯は全身を硬直させた。
 何故か向こうも同じ心境であったらしく、思わず「あっ」という口の形のまま、無言で見つめ合うことになった。
 最初に沈黙を破ったのは佐伯だった。
「えっ、細川……さん? なんでここに」
 太っているのに――のフレーズでお馴染み。高階の担当編集がそこにいた。
「ああ、佐伯君!」はっとしたような顔で細川が叫ぶ。そして早口に捲し立てた。「頼むよ、もう。一体どうなってるのさ。キミ、平気なの? 何度も電話したんだよ。メールも何通送ったことやら。なのにキミも先生も全然返事くれないからさ。もう気が狂いそうだったよ」
「それは……本当にすみません。海上では電波届かないって聞いてたものですから」
 用なしとあっては携帯する必要もない。電源を切って、カバンの中に放り込んだまま忘れ去っていた。元々、携帯を握りしめていないと不安になるというタイプでもない。
「それで、ええと――」
 細川の後ろには、二名の警官が控えていた。いわゆる制服姿ではなかったが、警視庁のロゴ入りウインドブレイカーですぐにそれと分かった。
 なんと挨拶したものか考えていると、細川にぐいと押しのけられた。佐伯の肩越しに、高階の姿を捉えたのだ。彼は短い足を高回転させて、ばたばたと室内に突入していく。そのままの勢いで、自分のそれより高い位置にある高階の両肩に掴みかかった。
「高階先生っ」
「おお、良く来れたね。細川さん」
 大の男の突進を正面から受けながら、高階が両手にするグラスからは一滴もカクテルが零れることはなかった。特別な動きは一切ない。場違いにも、佐伯はそのことが不思議でならなかった。
 もちろんのこと、細川の方はそれどころではない。カクテルが零れたかどうかなど――文字どおり――眼中にすらない。マシンガンのようにわめき立てる。
「高階先生、一体どうなってるんですか。なんで何も連絡くれないんです。何かあったらかならず報告してくれるって約束だったじゃないですか。大丈夫なんですか」
「ご心配どうも。私は別になんともないから」
「本当に、大丈夫なんですね?」
「だから――」
「正直に言って下さい、先生。大丈夫なんですね?」
 まるで耳に入らない様子で細川は繰り返した。がくがくと高階を揺さぶり、必死の形相で詰め寄る。
「今ならまだ何とかなります。先生じゃないんですね? 私、信じますよ。先生は何もしてないんですね? 本当に大丈夫なんですね?」
 最後はほとんど懇願であった。
「……どうしよう」
 高階がゆっくりと佐伯に視線を向けた。
「この人、かつてない本気の顔なんだけど。殺人事件に巻込まれてこれ以上ないほどのショックを受けているであろう、そして不安と恐怖できっと震えたりしちゃってるであろう、守るべき、抱き締めてもう大丈夫と慰めてあげるべき、二十そこそこのうら若き乙女に向かって……本来、世界中を敵に回しても最後まで味方になるべき担当編集が……経験を積んだ頼るべき大人の男が……」
「いや、それは」なんとコメントすべきか、佐伯も言葉に詰まる。
「なに、私は泣けば良いの? それとも、このおっさんを殴り倒せば良いの?」
本人としては後者よりの結論に達しつつあるように見えた。カクテルグラスごと握った左の拳が、顎にしようか脇腹にしようかと行先を迷っている。
 だが、佐伯としては細川の気持ちも理解できた。痛いほど分かると言っても良い。
 殺人事件が起きた。どうやら、高階も関わっているらしい。
 ――そんな断片的情報が舞い込んできた場合、危惧の方向性は二通りしかない。

  A.高階が被害にあってしまったのか
  B.高階がついにやってしまったのか

 彼女の美貌を遠目に知るだけの者なら「A」を考えもするだろう。だが、その人格を少しでも知る者なら「B」の可能性を恐れるに違いない。そのことだけで頭がいっぱいになるはずであった。佐伯自身、先頭切ってB派に加わることとなろう。
 とはいえ、常識的には高階の言っていることも正しかった。彼女は本来、まだ大学を出るか出ないかといううら若き女性なのだ。旅先で事件に巻込まれたと聞けば、帰属する組織はその身を一番に案じ、保護に乗り出すべきではある。
 どちらも正しく、同じくらいおかしい。だから、どちら側にもつけない。
 しかし、このまま状況を静観するわけにもいかなかった。
「まあまあ、先生。落ち着いて。お気持ちは分かりますが、警察の人も来てますし今はとにかく押さえて下さい。細川さんも。ね――?」
 佐伯は両手を広げて二人の間に割り込んだ。
 女性の身体にはうかつに触れないため、とりあえず細川の方を捕まえて高階から遠ざけた。
「大事に巻込まれたって聞いて、ちょっと冷静さを欠いてしまったんですよ。でしょ、細川さん? 心配なあまりちょっと暴走というか、そういう感じになってしまっただけで」
「あ、いや――」
 警察というワードが効いたのかもしれない。
 細川は頬を叩かれたような表情で佐伯の顔を見上げた。弛緩した両の肩ががくりと落ち、眉間からも皺が消える。ようやく我に返った様子であった。
「それにしても、細川さん。本当、どうやってここに来たんです? よくこんなタイミングで船に入れましたね」
 空気を変えるため、必死に新しい話題を持ち出す。
「ああ、うん」彼はワイシャツの袖で額の汗を拭った。「状況がよく分からないから、編集部でもパニック状態みたいになってね。携帯はつながらないし、つながっても留守録ばっかりだし。仕方ないから、上の人達が方々にかけあいまくったんだ。それで、なんとか五分だけ面会できるようにねじ込んでくれたんだよ」
「そんな貴重なコネを使ったのに、細川さんなんか送り込んじゃ駄目じゃないの。せめて編集長なり局長なり、もっと使えそうなのを寄越さないと」
「先生、よけいなことを言わない」
 佐伯はきっと睨み付け、彼女の左手からカクテルグラスを奪い取った。
「細川さん、飲みさしですみませんが、とりあえずこれで気分を落ち着けて下さい。アルコールは入ってませんから」
「あ、うん。ごめん。佐伯君。いただくよ」
「先生は、エクレアでも食べてしばらく大人しくして下さい」
「えらい言われようだ。まったく、最近の男ときたら乙女の扱い方をなんだと心得てるのやら」
 ぶちぶちと文句を垂れながらも、高階は菓子の方へ歩いていく。
 一安心して佐伯は細川に向き直った。
「そういうわけで、ご覧の通り先生はぴんぴんしてます。そして、ついカッとなって人を二、三人手にかけてしまったというようなこともありません。彼女はショウを楽しむことしか考えていませんでしたし、実際、それを満喫して鼻の下を伸ばしきっていました。もちろん機嫌を悪くして暴れ回ろうとしたこともありましたが、それは人殺しがショウを中止に追いやったからです」
「うん。まあ、そのようだね。ちょっと安心したよ。いや、信じてたけどね。もちろん、大筋では。ただ、なんというか、万が一って可能性が常に付きまとうタイプの人だから」
 カクテルを一気に飲み干した細川が、弱々しく微笑む。
 安堵と同時にどっと疲労が押し寄せてきた、といった表情であった。情報収集から今後の対応に関する打ち合わせと、事件を知ってから休む間もなく動き続けていたのだろう。
「分かります」心からの同情を込めて、佐伯は言った。
「でも本当、驚いたよ。いきなり人殺しがどうこうだからね。具体的には何があったの?」
 言ってから、細川は思い出したように背後の警官二名をちらと見た。
 彼らは入口のドア付近で待機の構えを続けていた。名乗りもしないことからして、細川に与えた五分間が終わるまで、一切干渉しない約束でもあるのかもしれない。
「話せる範囲で良いから、教えてくれないかな」
「亡くなったのは三人です。その内のひとりを、たまたま立ち寄ったトイレで僕が見つけてしまいまして。関係と言ってもその程度ですよ。我々が直接何かに巻込まれたとかそういうことではありません」
「でも、じゃあ佐伯君が第一発見者ってやつってことだよね」
「まあ、そういう表現をすればそうなんですが……彼の場合は殺人と決まったわけでもないですし」
 佐伯は大雑把に、一連の出来事について語った。五分しか時間がないこともあり、密室がどうのという面倒な表現は避ける。
 しかし、改めてこの船に乗ってからの目まぐるしさに驚かされた。自分で話しておきながら、客観的に見るとちょっと信じられないような怒濤の展開である。
「嫌な感じだね」一通り聞いた細川が、露骨に顔をしかめた。「黒い斑点って、本当に変な病気とかじゃなんだよね?」
「それは大丈夫だと思いますよ。船医さんも、高階先生も、一致した見解として伝染病の類だとは考えられないと断言してますし」
「申し訳ありませんが――」
 と、ウインドブレイカーの警官が歩み寄ってきながら、声を発した。
「そろそろ約束のお時間です」
「あっ、もうですか」ちらと安物腕時計に視線をやり、細川は頷く。「すみません。じゃあ、佐伯君。それに高階先生。私はもう退散しないといけません」
「はいはい。お疲れさーん。とっても心強かったよ」
 高階が皮肉たっぷりに、軽い言葉を投げ返す。
 細川自身、何もできなかったという思いがあるのだろう。これには困ったような笑みを浮かべるしかないようだった。
「あの、もう一つだけ良いですか」細川は警官たちに一言断り、高階の方を向いた。「先生。電波が届くようになったようですから、今後は何かあったら電話の方で逐次ご連絡をいただけると――」
「それは佐伯君に一任するよ」高階が冷たく言った。「私は電話なんてかけないし、そちらからも私にはかけないように」
「いや、しかしですね」
「出版社が今後一切、非通知で私の事務所に電話かけてこないと約束するなら考えても良いけど」
「先生、まだその件、根に持ってたんですか」佐伯は半ば呆れながら言った。
「当たり前じゃないか。こっちは損失出したんだ」
 佐伯がアシスタントとして加入して間もない頃だった。高階は事務所の電話にナンバーディスプレイを導入した。非通知でかかってくる電話を一切遮断する設定により、勧誘などの迷惑電話を排除するためだ。ところが、すぐに取引先の出版社からクレームが入った。彼らは非通知で電話をかけるシステムを導入しているため、連絡が付かずに困っているというのである。もちろん、高階は大いに憤慨した。たとえナンバーディスプレイとフィルタリングにかかった費用が、彼女の収入からすれば微々たる額であったとしても関係ない。まさか、まだ執念深く覚えているとは佐伯も思っていなかったが――
「どっちみち駄目なんだよ」高階が言った。「出版社に教えてる番号の携帯、持ってきてないからね」
 細川が盛大に嘆息した。言葉もなく首を左右する。
「あの、電話の件は僕が対応させていただきますので」
 佐伯が言うと、彼は無言でぽんと肩を叩いてきた。
「そろそろ、よろしいですか」警官の一人が言った。質問ではなく確認の口調だ。「では、詳しいお話をうかがいますので、お二方ともご足労下さい」
「えっ、事情聴取はこの部屋でやらないの?」高階が意外そうな声を上げる。
「別室で準備をしています。今からご案内しますので」
 と言ったきり、彼らはドアを押さえた体勢のまま黙り込んだ。
 つまり、こういうことだろう。取調べの場所は俺たちが決める。お前たちではない。分かったらさっさと部屋を出ろ。それまで我々はここを動かない。
「やれやれ」
 高階が持っていたカクテルグラスを空にし、テーブルに置く。じゃ、行きますか。誰にともなくつぶやいて、部屋を出ていった。全員が廊下に揃う。それを見計らうと、警官の一人が先頭を切って歩き始めた。細川、高階、佐伯と続き、しんがりにもう一人の警官がつく。このフォーメーションに高階は何らかの感想を持ったようだったが、フンと鼻を鳴らすだけで言葉にはしなかった。チノパンのヒップポケットに両手を突っ込んで、ぷらぷらと歩いている。
 廊下を半ばほどの所まで来たとき、向かう先から慌ただしい足音が聞こえてきた。階段を駆け上る複数の気配だ。直後、弾かれるように客室係の外国人クルーが飛び出してくる。そのままの勢いで、佐伯立ちの方へ張り込んできた。
 あっけに取られて佐伯たちは足を止める。警官たちも例外ではない。一方のクルーたちは「ドクター」と連呼しながら、先頭の警官や佐伯を素通りし、高階の前で急停止する。チョコレートに群がる戦後の子供のような勢いだった。
 彼らは、少ないボキャブラリを総動員して日本語で何か訴えようとしていた。が、気がはやりすぎて、出てくる肉声は世界中のいかなる言語にもなり得ていない。
「イングリッシュ」高階が少し落ち着け、といった調子で命じる。
 それで、クルーは幾ばくか冷静さを取り戻したようだった。彼らはいずれも肌が浅黒く、兄弟のように似通っている。ご多分に漏れず、東南アジア系であると思われた。やはり、日本語より英語の方に馴染みがあるのは確かなのだろう。
 だが、二人が同時に喋ろうとするせいで、話はなかなか進まなかった。英語ができない佐伯でさえ、高階が要領を得ない内容に苛立ち始めているのが分かる。
「警察の人」辛抱強く耳を傾けていた彼女が、突然言った。「この連中、船医が外出しているから急患を診せられずに困ってるって言ってるけど。何かご存じで?」
「ああ、それでしたら」彼らは久しぶりに耳にした日本語に安堵の表情を見せた。「船医の先生は、遺体の搬送に付き添っていかれたため不在ですよ」
「付き添い?」高階が片眉を吊り上げる。「なんでまた」
「遺体は運び出して、検屍解剖しなくちゃいけません。本来なら亡くなった三人分全部やりたいところですが、この船の乗員たちはどういうわけか二人分がどこかに消えたと言っている」
 警官は嘲笑めいた表情で肩をすくめた。なにか幼稚な悪戯に巻込まれた大人のような心境であるらしい。
「今のところ、消失した遺体に関する情報を持っているのは船医の先生だけです。残った遺体の検屍解剖に協力してもらえば、類似やら共通点がどうとか、リアルタイムに検証できて色々都合が良いんでしょう。特殊なケースですから、直に申し送りみたいなこともしたいということでしてね。しばらくは戻りませんよ。急患なんですか?」
「どうも、客室で具合を悪くした人がいるようで」高階が答えた。「このクルーたちは、船医がいないから私を呼びに来たと言ってますね」
「なんで、あなたが……」一人が訝しげな表情を見せる一方、年配の方の警官は得心顔だった。「そういえば、作家の先生はご実家が総合病院を経営してらしたんでしたね。なんというか、手塚治虫のような感じというわけですか?」
「船医が駆けつけるまでの間、最初に亡くなった人の救急手当てを指揮していたのが高階なんです。それを見て――あと、自分が彼女を先生と呼んでいるのを聞いて、多くの人は高階が医療従事者であると未だに勘違いしているようです。多分、彼らも」
 佐伯は言いながら、外国人クルーたちを視線で指す。
「まあ、とにかく行ってみましょう。船酔いとかだったら、アドバイスくらいはできる。手に負えないようだったら、港には着いてるんだし救急車呼べば良い」
 高階はそう言うと、誰の返事も待たずさっさと歩き出した。
 はっとした表情でクルーたちが後を追う。途中で追い抜き、そのままナヴィゲーターとして階段を下り始めた。警官達も、急患が出たとなればそちらを優先せざるを得ない。不請不請《ふしょうぶしょう》を絵に描いた顔で追従していく。舌打ちが聞こえないのが不思議なほどだった。
 急患の居場所は、予想通り乗客のキャビンが集中する第6デッキであるようだった。いわゆるデラックス・スイートの並ぶ階層である。クルーたちは階段の残り数段を跳躍してパスすると、そのまま廊下に飛び出していった。佐伯にとっては、笠置の遺体を見付けた時以来、このフロアを訪れるのは二度目となる。随分と久しぶりに感じられた。あれが数時間前、今朝の出来事というのが信じられない思いだった。
 ドアがストッパーで全開されているため、急患の部屋はすぐに分かった。隣り合わせたキャビンの部屋番号から察するに、501号室と考えて間違いないだろう。踊り場から最も近い一室だ。
 船員たちは入口付近でにわかに足を止めた。そのまま、なぜか一向に中に入ろうという気配を見せない。むしろ、彼らこそが病人ではないのかと思わせるほど、顔色が悪い。加えて、ワンフロア分の階段を昇降しただけなのに、大粒の汗を顔中に散りばめている。普通の取り乱し方ではない。彼らは明らかに怯えていた。それも尋常ではない何かに、だ。許可さえ得られれば、「自分は役に立たないだろうから」と船を出ていった細川の後を今すぐでも追って行くことだろう。
「この件は、船長にもう伝えてある?」高階が彼らの背中に優しく問いかけた。
 英語だったが、さすがにこれは佐伯にも聞き取れた。意味も理解できる。
 クルーたちは示し合わせたように、同じタイミングで、同じ回数、首を左右した。
「なら、今すぐ報せるように」高階は最後に日本語でそう命じた。「その後は持ち場に戻って良いよ」
 ふたりの船員が白い歯を見せて破顔する。その言葉を待っていました、と言わんばかりの反応だった。ただちに回れ右した彼らは、そのまま先を競うように走り去っていった。
「警察の人は、この部屋の客について何か情報あります?」
 慌ただしい足跡が鳴り止まぬうちに、高階は警官に訊ねた。
「何か持病があるとか、身体が弱いとか」
「ええと」若い方が、数枚のA4紙をクリップで束ね、折り畳んだメモを取り出す。「いや、特にないですね。二十代の女性。普通にOLのようですし、重い病気の患者ということもないのでは?」
「あ、そう。OLって辺りは裏付け取りました?」
「今、そんなことが重要ですか?」
 年かさの方が突っぱねるように言う。質問する権利は常に我々の側にある。そのことを思い出せ、と言わんばかりの険が語調から感じられた。
 高階はまるで聞こえなかったように、無言で部屋に入っていった。警官達は明らかにこの行動がお気に召さないようだったが、放置・制止が得策ではないとも判断したらしい。仕方なく、自らも部屋に足を踏み入れていく。特に何も言われなかったため、佐伯も続いた。
 高階は――恐らく全員が想像していたように――真っ直ぐ寝室へと向かって行った。大の男ふたりに遮られているため、佐伯はほとんど前の様子をうかがえない。だが、寝室に入った瞬間、「POLICE」という背中のロゴがびくりと震えたのはすぐに分かった。それも二人揃って。
 直後、若手がさっと踵を返した。顔つきが変わっていた。彼は腰の無線機を手に取りながら、足早に部屋から退出していった。何か早口に喋っている。だが、内容までは聞き取れない。
 片方の壁が抜けたことで前方の視界が開け、佐伯にもようやく寝室の様子が見えた。
 ベッドに若い女性が仰向けに横たわっていた。しかし、特に苦しそうな様子はない。
 かけていた薄いタオルケットは高階によって剥ぎ取られていた。おかげで下腹部あたりまで夜着姿が露わになっている。上半身にはキャミソール。下には、レモン色をした薄手のズボンを履いているようだった。
 高階はタオルケットばかりでなく、女性の上着までたくし上げていた。下のズボンも仙骨のあたりまでズリ下がっている。当然、娘の白い腹が剥き出しだった。最初は胃腸の荒れを触診しているのかとも思った。が、様子が違う。ぐったりしているにしても、患者に動きがなさ過ぎる。タイトな下着姿なのに、呼吸に伴う胸部の上下すら確認できない。
 否、それ以前だった。見開かれた彼女の目は瞬きすら止めていた。
 露出した右肩の辺りには、目を背けたくなるような黒い出血斑。苦悶の形相のまま固まった表情筋――。
 クルーたちが、奥歯を鳴らすほど怯えていた理由がようやく分かった。
「OK。これで分かった」
 高階は遺体の着衣の乱れを直し、ベッドから一歩引いた。
 佐伯と警官の両方を一度に視界に収めて続ける。
「――いや悪かったね、お二人さん。実はクルーの連中、私には急患だなんて言わなかったんだ。恐ろしい伝染病でお客さんがまた死んだって言って、助けを求めに来たんだよ」
 一瞬、唖然とした表情を見せたが、そこはプロフェッショナルということだろう。残った方の警官はすぐに我に返った。
「もう一切、どこにも触らないように」険しい表情で命じる。「二人とも、部屋から出て下さい」
 それから、「どういうことだ」と言わんばかりに高階を睨み付けた。
「死体が出たと素直に伝えていたら、私がこの部屋に立ち入ることは許されなかったでしょ? ひとつ気になってたことさえ分かれば別に入らなくても良かったんだけど、どうせ警察からは何も教えちゃもらえない。だったら、自分で確認できる方法を選ぶしかないじゃないか」
「どういうことですか。確認って?」佐伯が訊ねる。
「良いから――」
 警官が割って入りかけたが、高階は構わず言葉を被せた。
「私の想像では、笠置氏が死んだ時点で殺人は終わるはずだった。その可能性が一番高いと思っていた。なぜなら、もう犯人の目的は達成されていたからだ。でも、さらにもうひとつ死体が出る可能性も僅かながらではあれ否定できなかった。それも事実なんだ」
「何言ってるんですか、あんたは。遊び気分で引っかき回されちゃたまらないんですよ」
 動こうとしない高階に、警官が肩をそびやかす。彼は強引に退室を促すため、掴みかからんばかりの勢いで彼女に歩み寄っていった。
 が、高階は動じない。
「佐伯君、彼女のこと知ってる?」
「えっ」その軽い口ぶりに一瞬、佐伯は言葉を失う。「いや……知ってる、と言うほどでは……でも、船酔いの人でしょう」
 警官が、高階の肘に伸ばしかけた手を止める。
「船酔い?」
「ええ。出港早々、船酔いで気分が悪くなったと言って船医に薬をもらいに来た人がいたんです」佐伯は説明した。「我々はその時、ちょうど夕食の席でレストランにいて、ドクターと一緒だったんです。同じテーブルの全員がその様子を見ていました」
「それだけじゃない。名前も知ってるはずだよ」
 高階が冷静に指摘する。
「ああ……なんかその時、部屋番号と一緒に名乗ってたような気もしますけど。すみません。よくは覚えてないですね」
「そっちの名前はどうせ借り物の偽名だ。私が言ってるのはもう一個の方だよ」
 偽名――?
 一瞬、意味が理解できない。なぜこんな話になっているのかも分からない。
 思考が止まり、佐伯はハングアップに近い状態に陥った。
 仕方ない、という仕草で高階が静かに言った。
「彼女の名前は笠置翔子だよ。私の想像が当たってれば、船内で起こった連続殺人の犯人がこの娘だ」


   17

 第4デッキは完全に警察組織の拠点と化していた。
 このフロアは最も客室数が多いが、今回ツアーでは全く使われていない。そのため、臨時の取調べ室などとして使うことができ、その意味で都合が良かったのだろう。また、ひとつ階段を降りれば外に通じるレセプション、ひとつ上がれば最初の現場となったレストランのトイレに行ける。このアクセスの良さも利点のひとつとして考えられたに違いない。
 高階が佐伯と一緒に放り込まれたのも、第4デッキの客室のひとつであった。
 本来は二人一緒ではなく、別々に聞き取りを行う予定であったはずだ。だがそれも、新しい死体が出てきたことで有耶無耶になっている。警察自体、どう対応すべきか決めかねているようだった。
「どういうことなんですか、先生」
「ん――?」
 高階はベッドに横たわり、半分眠りつつあった。現在、この部屋にいる他人は佐伯だけだ。ここまで引っぱってきた警官は、部屋に参考人を放り込んだ後、一睨みきかせてどこかへ消えていった。こうなると、いつ聴取が始まるのかすら分からない。そんな状態で気を揉んでいるのは労力の無駄というものだった。
「事件の説明なら、あとでまとめてするよ。どうせマッポにも根掘り葉掘り訊かれるんだ。今ここで佐伯君に話しちゃったら二度手間になる」
「その手間を惜しむくらいなら、あんな思わせぶりなこと言わないで下さいよ。気になって仕方ないじゃないですか」
「じゃあ、矢慧に電話して聞けば」高階はあくび混じりに突き放す。
「なんでそこで矢慧ちゃんが出てくるんです」
「この事件、私に解けたのは結局、六割から七割くらいのところだった。あとのピースを埋めてくれたのが矢慧だからだよ」
「えっ、連絡取れたんですか? いつです」
「陸地が近付いて電波が届くようになってから、自分の携帯で電話したんだ」
「ああ……」納得したようなつぶやきの後、佐伯はあっという小さな叫びを発した。
 部屋を出る前、彼は自分のスマートフォンを持ち出さなかった。このままでは逐次連絡を入れるという細川との約束を守れない。電話という言葉から、そのことを思い出したのだろう。
「しまった。スマフォ部屋に忘れてきた」佐伯がズボンのポケットをあちこち叩きながら言った。「今から取りに行ったら……やっぱりまずいですよね」
「さあね」
 長い溜め息が聞こえる。ややあって、すぐ近くでマットレスのスプリングがたわむ軋み音がした。佐伯がとなりのベッドに腰掛けたらしい。
「――で、先生。なんで、あの船酔いの人が犯人だと分かったんですか」
 佐伯が切替えた声で訊いた。
「彼女のことを……その、笠置夫人だとか言ってましたけど。あれはどういうことですか」
「私にも、彼女が犯人であることは最後まで分かってなかった」目を閉じたまま答える。
「じゃあ、それも矢慧ちゃんが?」
「そう。と言っても、あの娘《コ》も確定だと言ったわけじゃない。もし私が出会った人間の中から犯人役を押しつける人物を強引に選び出すとしたら、船酔いしてたっていう女が一番条件に近いだろう、といった程度の話だった。矢慧でそれだからね。私に分かってたのは、犯人が女だってことくらいだよ」
「なぜ性別を特定できるんです?」
「もちろん、夫人が密室で殺されていたからだ」
 沈黙が返る。
 見なくても、佐伯が顔中にクエスチョンマークを浮かべて考え込んでいるのが分かった。
 それがおかしくて、高階は小さく吹き出す。そして目を開けた。イメージの中の佐伯と、現実との彼はほとんどズレなく重なった。
「佐伯君。船長がいつか言ってたように、完全犯罪を目指すなら死体はさっさと消した方が良かったんだ。なのに、犯人はわざわざ密室トリックまで作った死体を残した。私にはなぜそんな必要があったのかは分からなかったけど――」
「けど?」と、痺れを切らしたように佐伯が促す。
「どうやってそれを現実にしたかは、想像ができた」
「つまり、密室トリックみたいなものがあって、それが分かったってことですか」
 佐伯が両膝に手を突き、ぐいと身を乗り出す。
 だが、高階が答えるより速く、ドアの開く音がした。
「お邪魔しますよ」
 素っ頓狂ともいうべき陽気な声があがった。酔っ払った中年男性が、帰るべき家を間違って余所のドアを開けてしまった、といった感じだった。
 複数の足音が寝室に近付いてくる。
「おっ――おお、高階先生? あなたがあの高名な高階芳春先生ですか」
 例のウインドブレイカーの二人組を従え、見覚えのない小男が現れた。恐らく細川よりも背が低い。一六〇を切るだろう。キャリアでもなければ、よくぞこの背丈で採用試験をパスできたと驚くところだ。年齢は四十代半ばから五十代。きちんとスーツを着込み、ワイシャツには糊まできいているが、それでもどこかくたびれた印象が拭えない。左手のずんぐりとした指には、黒みがかった鈍い金色の指輪が輝いているのが見えた。
 もとより、シャツの糊から既婚者であることは想像がつく。それより警官が指輪をして勤務できることに高階は興味を持った。
 もっとも、捕り物の現状にロレックスの時計をしていき、壊されたからと犯人を訴える警官が出てくる時代だ。結婚指輪程度、別段驚くべきことではないのかもしれない。
「――誰だか知んないけど、ようやく話の分かるのが来たみたいだ」
 高階はにやりとしつつ、身体のバネを使って寝台から起き上がった。
「BtB、愛読させていただいてますよ。いやあ、このような形というのは不本意ですが、お会いできて光栄です。心から」
 指輪の小男は距離を素早く縮めると、高階の両手を握りしめて大きく上下に振った。
 それから慌てた様子で背広の内ポケットを探る。やがて出てきたのは分厚い名刺であった。
「お初にお目に掛かります。私、警視庁の奥田と申します」
 奥田昭造。所属は警視庁刑事部。階級は警視。あしらわれた「桜の代紋」はエンボス加工され、ホログラム金が箔押しされていた。一般用とは使い分けている、特殊仕様に違いなかった。
 警官も名刺くらい持つものだが、自分から差し出してくることは稀なはずだった。単なる聴取に管理官クラスが出張ってきたことを含め、高階たちが何かしらの異常な優待を受けていることに間違いはない。戦場で武田の騎馬隊と対峙してみたら、先陣切って飛び込んできたのが信玄だった、というのも同然である。
 矢慧が何か手を回したのかもしれないな、と思った。日吉の血族は全国に散らばり、様々な権力機関に入りこんでいる。現役世代に警察官僚はいなかったはずだが、そのOBは数名が存命であったはずだ。矢慧が本家筋にかけあい、そのコネクションに頼ったのなら――可能性はある。
 が、矢慧がそこまでやるものか? それは疑問だった。彼女にとって自分はそれほど肩入れするに足る存在なのか? 家族のように思われているだろうか? はっきり言って全く読めなかった。よく言えば底知れない、悪く言えば得体の知れない部分が本家筋の日吉には共通してある。まだ高校生とは言え矢慧もその例外ではない。
「しかしまた、大物が出てきましたね」
 高階は名刺をサイドテーブルに置いて、奥田警視に向き直った。
「確かに大きな事件だけど、いきなり警視クラスがご臨場とは。随分と大仰ですね」
「まあ、警察も色々あるんですよ」察して下さい、というように警視は頬を掻いた。「なんでも、お二人は長瀬さんと懇意にされておられるとか。でしたらもうご存じでしょうし、変に隠すと逆に滑稽にお感じになるでしょうね――」
 長瀬? と一瞬考えかけたが、流石の高階もすぐに思い出した。
 今日の説明会で隣席になり、その後、しばらく行動を共にした高級時計の娘だ。
 彼女が確か、長瀬凛子《ながせりんこ》を名乗っていたはずである。
「ご存じの通り、今回は警備局長のご令嬢が乗船というわけです。一般企業で言うなら、創業一族のお姫様が――というのも同然のところでしてね。我々としてもはりきらざるを得ないと申しますか。少し、大っぴらに過ぎる表現かもしれませんが」
「警備局長?」小声のつぶやきと共に、佐伯が小首を捻っている。
「警察庁警備局のトップに君臨する役人で、全国の警察の警備部門を総括する大ボスだよ」彼の方を向いて、高階は微笑する。「もっと分かりやすく言えば、次の人事異動で警視総監になるかもしれない人物だ」
「えっ? 警視総監って、全警察官で一番偉い人ですよね」
「そう。警察庁内だと警備局長、官房長が、直近十代では警視総監候補のツートップだ」
「長瀬さんが、その人の娘さん?」
 口を半開きにして、佐伯が警官達を見やる。
「あらあ、もしかしてご存じなかったですか。こりゃあちょっと喋りすぎでしたかね」
 さして深刻そうに見えない顔で奥田が言った。ぺろと舌でも出しそうな調子だ。
「まあしかし、高階先生ご自身がVIPのお一人ですし、今更といったところでしょう。高いクルーズに参加されているだけあって、どこのお嬢さんもちょっとした方ばかりですよ」
「被害者も、関西ではちょっとした顔になってる一族だしねえ」
「そこで、です。よく事件のあらましをご存じでらっしゃる先生に、私から是非お願いしたいことが二つあります。どうでしょう。お力添えいただけませんか」
「具体的には?」
「ひとつは、えー……つまり、先生の目から見てこの船で何が起こったのかを、できるかぎり詳細にお話いただくことです。それと、部下の方から、先生が非常に興味深いことを口にされたと聞いております。これについても、是非お聞きしたいわけです」
「まあ、警察的には当然の要求ですね。で、もうひとつは?」
 高階の問いに、奥田警視はにやりとした。
「全部終わったらで構わないんですが、ワタクシめにですね、ひとつサインなどいただけないかと。個人的なことで、ええ――大変恐縮なんですが。あー、できれば息子と、私用に二枚ほど」
「求められてのサインはしない主義でしてね。でも、イラスト入りの色紙なら考えますよ」
「おお」奥田は興奮した様子でパンと膝を打つ。「イラスト色紙なんてサインより上等じゃないですか! いや、ありがとうございます。でしたらもう早速始めて、一刻も早く片付けちゃいましょう。先生が本当に犯人までご存じなら、捜査の方も実にスムーズに運ぶでしょうから」
「警察お得意の、同じ話を何度もさせるってアレに付き合う気はないけど、まあ協力はしますよ。私もさっさと家に帰りたいので」
「はいはい」手をすり合わせながら岡田が頷く。「では、ええと、書類を作らなくちゃいけないので、まずは形式的な所から入らせていただいてもよろしいですか。氏名とか生年月日とか、その辺の退屈なことを確認させてもらわないといけないんですが」
 考えるだけで面倒な話だった。向こうは身分照会で既にその手のデータは確認済みなのだ。もはやこれは、本当に形式的な意味しかない。全くの時間の無駄に思えた。しかし、抵抗すれば余計に時間がかかる。
「仕方ない」嘆息して言った。ベッドの縁に腰を落とす。「始めて下さい」
 岡田が後ろに向かって顎で合図する。ウインドブレイカーの若い方が、脇に挟んでいた書類を片手に、小さな丸テーブルに就いた。卓上に書類を広げ、ペンを構える。ひとつ頷き準備が整ったことを告げた。それを受け、奥田が質問を始めた。
 氏名、生年月日、住所、職業。この辺りは当然として、しまいには両親の年齢や誕生日まで訊かれた。しかし、もちろんそんなものなど記憶しているはずがない。高階は訊かれたことの三分の一に、ただ肩をすくめて答えた。
「で、ええと、まずこのクルーズに参加された経緯ですが」
「経緯と言っても、今回の話は私が知らないところで決まったようなものでしてね」
「ほう、それはどういったわけで?」
「粉骨砕身って言うんですかね、出版社のために我が身を削ってまで尽くしてきたその献身と勤労が認められて、彼らからプレゼントされたんですよ。キミは働き過ぎだから、少し休んだ方が良いと。もちろん私は固辞しましたよ? 読者が待っている、ペンを手放すのは引退する時だと抵抗したんです。しかし、最後は泣いて懇願する担当編集の細川に押される形で――まあ、仕方なく? 編集部の顔を立てるために? まあ、そんな感じで参加することになったわけです」
 佐伯が両の眼を丸くして硬直しているが、もちろん無視した。
「ははあ、素晴らしいプロ精神ですね。やはりそういうストイックな姿勢からしか、名作たる条件を備えた創作物は生まれない物なんでしょうねえ」奥田が分かったよなうことを言って何度も首肯を繰り返す。「まったく、ウチの若い連中にも見習わせたいですよ」
「よく言われます」高階は艶然と笑んで言った。
 それから笠置夫妻との出会いについて訊かれたため、佐伯を交えながら――こちらは真面目に――回答した。
「その、なんですか。部屋から出る出ないという口論は、結局どういったことが原因だったんでしょうかね?」と奥田。
「夫の荷造りが当日までかかったとか、駐車場に乗り入れたタクシーの停車位置が悪かったから余計に歩かされたとか、そういった細かい不満を募らせて一気に爆発したのではないか、というのが笠置氏の言い分だったようですが」
「で、結局、奥さんは部屋から出てこなかったと。その時、彼女の様子はお二人ともご覧になったんですよね。報告から総合すると、奥さんはそう長いこと置かないうちに室内で亡くなってしまわれるわけですが、この時の翔子夫人が、特に具合が悪そうだったということは――?」
 そのような様子はなかった。顔色が悪かったようにも見えなかった。死に繋がるようないかなる徴候も見受けられなかった。高階と佐伯は、それぞれ表現こそ違え同じように証言した。
「しかし土壇場で欠席となると、レストランでは笠置さんの奥さんの分、席は空いたままだったということになりますよね?」
 岡田警視は度々、こうした意図の分からない質問をした。|細かい所《ディテール》を突っ込むことで、証言に虚実が混じっていないかを見極める腹づもりなのかもしれなかった。
「席は空《あ》いてましたね」いささかうんざりしながら高階は答えた。「船長を十二時とすると、時計回りに佐伯君、私。空席を挟んで笠置氏、船医といった感じだったかな」
「食事中、どんなお話をされましたか」
「客船初心者だった佐伯君が質問役になって、それに全員が答えていくってのがもっぱらのパターンでした。ね?」と、高階は佐伯に振る。
 はい、と応じた彼はよく自分の投げた質問内容を記憶していた。自分がなぜそれを訊ねたか、誰が何とそれに答えたか。丁寧に語っていく。
「それで問題の女性、ええと――」奥田は自身が手にする捜査資料をペラペラと捲る。「竹中ですね。竹中|夏梨《かりん》。二十六歳、女性。この方が、船酔いだと言ってテーブルに来た、と」
「そう。既に話した通り、それで船医が彼女を診療室まで連れて行った」
「高階先生は、この竹中さんを、なんですか。一連の事件の犯人だといったような発言をなさったとか。これは、どういったことでしょう」
「それも、言葉通り。私は彼女がこの船で人間を殺し回ったと考えてるんですよ」
 すっと奥田の目が細まった。一瞬で元のやや垂れ目がちな丸目に戻ったが、垣間見えた眼光鋭いその目つきこそが、彼本来のものなのだろう。
「詳しくお聞きしたいですね?」
「多くの人が、この事件の最大の難所は夫人の密室だと考えていたと思う。しかし、あれは最大のヒントでもあった。だってそうでしょう? 誰がどう考えても、扉の前に内側からバリケード築いてある部屋に出入りして人を殺すなんて無理なんだから」
「それは、601号室で亡くなった笠置翔子さんの件ですね」
「そう。この時点で、私は女が犯人だと思った。あれが殺人だとすれば、他に可能性はない」
「分かりませんねえ」
「警視、この事件で一番最初に死んだのは誰だと考えてますか?」
 高階がはじめて質問する側に回る。
「それは、なにかこの話の流れ上、重要なことなんですか」
「でなければ訊きませんよ」
「最初というなら、フィリピン人の男性船員でしょう」仕方ない、という顔で奥田が言った。「アップチャーチ三等航海士でしたか、彼ですね。あの航海士の場合、瀕死の状態で見つかって、船医や船長の見守る中で亡くなってます。その意味で、死亡時刻が一番ハッキリしているケースです」
 言って、彼は律儀に死亡時刻を読み上げた。人間の死亡は医師しか確定できない。この場合、兵藤が死亡確認した時刻が、そのまま公式のデータとなる。
「問題は、同じ日に亡くなった笠置翔子さんですが、こちらも船医の先生が直腸温度から死亡推定時刻を出してますね。それによるとタイミング的には、アップチャーチ氏が亡くなった後ですね。こっちは前後一時間の幅がありますが、間違いなく後です」
「私の考えだと、そこが違うんですよ。最初に死んだのは笠置翔子だ」
 岡田がえっという顔をする。無言で続きを促す彼に、高階は応えた。
「彼女は出航前に殺害された。ぶっちぎりで早い。当然、最初の犠牲者ということになる。そして、この前提でいけば密室なんてものは全く意味がなくなる。この殺人に女が噛んでることも分かる」
「待って下さい。それはおかしい。あなた方は船が港を出た後、笠置翔子さんと会ってますよね? 夕食に行かれる前に。旦那さんと口論されているところをその目で見た、と今さっき証言されたばかりじゃないですか。つまり――」奥田はすぐに言葉を継いだ。「その女は、笠置翔子ではなかったとでも?」
 黙って聞いていた佐伯が、目を見開くのが見えた。
 笠置家と一番親しげにしていたのが彼だ。衝撃が大きいのは理解できた。
「その通り」高階は言った。「彼女は、笠置翔子ではなかった。乗船前に佐伯君の前で夫に色々命じていた彼女も、船室の前で口論していた彼女も、笠置翔子を演じていた別人だ。つまり本物とそれになりすましたもう一人、笠置翔子はこの船に同時に二人いた」
「なんでそんなことが言えるんです」奥田が低い声で問う。
「そう考える意外に、バリケードの部屋で人は殺せないからですよ」
 また質問で返される前に、高階は素早く続けた。
「全体としての経緯はこうです。まず、本物の笠置翔子。彼女は乗船手続が始まった時、いち早くチェックインを済ませた。ただし、本名は使わなかった。持っていた501号室のチケットの名義、竹中夏梨を名乗って、台帳にもその名前でサインした」
 もちろんこの時、笠置祥子は目立たない格好をしていた。佐伯に大物女優を思わせた例の大きな帽子も、サングラスも、極彩色の派手なロングスカートも履いていなかった。初めて船に乗り込んだ彼女は、誰の印象に残らない地味な女だった。
「チェックインを済ませた本物の笠置翔子は、そのまま501号の部屋に籠もったんじゃないかな。そういう打ち合わせというか、指示が事前にあったものだと考えられます」
「いや、ちょっと……」
 岡田が混乱した様子で言った。待ったを求めるように軽く左手を前に突き出して、高階の話を止める。
「じゃあ、バリケードがあった601号室で発見された笠置翔子は誰なんです? さっき死体で見つかった竹中夏梨は? 笠置翔子が二人いたという部分は仮定ということなら百歩譲って認めましょう。しかし、出航前に殺害されたという女、バリケードの最上スイートで見つかった女、そして501号室でさっき見つかった女、先生の仮定だと死体は三体出てるんです。なんですか、笠置翔子は三人いたと?」
「全然違う。岡田さん、それわざと言ってる?」
「いや――そんなことは……」
「この事件には確かに三人の女が関係している。A、本物の笠置翔子。B、犯人。C、本物の竹中夏梨。この内、重要なのはAとBだけ。Cの本物の竹中夏梨というのは、多分、名前だけ使われたほとんど関係ない第三者だ。架空の人物の可能性もあると思ったけど、だったら事前に乗客のプロフィールを簡単に調べてきた警察が、そのことに気付いたはず。しかし、そういう名前のOLは実在するらしい。なら、存在自体はしているんでしょう」
「ええ、してますよ。もちろん、実在の人物です。時間の関係でチケットを購入時に申告された住所・氏名に合致する人物を、住民票のデータと照合した程度ですが。前科も何もないごく真っ当な一般市民ですよ」
「まあ、準備は面倒だけど、実在の人物から名前を借りた方が安全ではある。私も同じ立場なら架空の人名は使わなかっただろうな」高階はこくりと一つ頷いた。「所轄の、交番勤務とかで良いから、彼女の家なり職場なりに向かわせるといいですよ。多分、竹中夏梨に会えるでしょう。生きている、本物のね。その娘《コ》はこの船に乗ってさえいない。事件中は普通に自宅で寝起きして、普通に会社で働いてたはずです。ああ、休日だったなら家で寝てたか、遊びにでも行ってたか。まあ、どっちでも良いけど」
「逢坂警部」
 岡田が振り返り、背後の部下に冷えた声で言った。
 その一言で通じたらしい。ウインドブレイカーの片割れが「分かりました」と部屋を飛び出していく。至急、竹中夏梨の裏を取れという命令に、部下が動いた形であると思われた。
 岡田警視は顔を高階に戻して、言った。「先生、続けて下さい」
「本物の笠置翔子が竹中夏梨の偽名でチェックインした少し後、私に命じられた佐伯君がマスコミの様子を偵察するために船に向かいました。彼が付近でうろついている笠置のおっさんと会ったのが、この時だ。犯人の女――つまり偽の笠置翔子は、このチャンスを見逃さなかった。彼女は佐伯君たちに歩み寄っていって、笠置氏に乗船手続きが済んだかを詰問した。まだだという答えが返ると、さっさとやるように厳しく命じた。最後に、唖然とする佐伯君を横目に船の中に入っていった」
「あれは……決められていたことなんですか」
 ついこらえきれず、といった様子で佐伯の口から言葉がこぼれた。
「まあ、そうだと思うよ。とは言っても、別に相手は佐伯君でなくても良かったんだけどね。派手な格好した年齢不詳の女が、夫を尻に敷いて顎で使いまくってる。そんな一幕を見せて、誰かの印象に残す。それが目的だったんだ」
 女はシナリオ通り、佐伯の頭に強烈なキャラクターを刻み込むと、そのままチェックイン。「笠置翔子」名義のチケットを提示し、手続きを済ませた。
「もちろん、向かった先も最上階ペントハウス・スイートの601号室だ。そこで彼女は、既に配達サーヴィスで運び込まれていた手荷物を開いた。取り出したのは当然ながら、着替えの洋服だ。着ていた茶色のタンクトップ、白いコットンの上着、極彩色のロングスカートは脱いだ。サングラスも、帽子も、その下に付けていたウイッグも取った。真っ赤なルージュに白粉《おしろい》のような厚塗りのファンデ。コンシーラ。極太のアイラインに、盛りまくった付け睫毛。これらのメイクも落とした。そして地味な服、普通の化粧をした、大人しい黒髪の娘になって部屋を出た。その姿は、竹中夏梨の偽名で先にチェックインした、本物の笠置翔子にかなり近いものだっただろう。正確に言うと、意図して彼女に似せた姿であったはずだ」
 岡田はついに黙り込んだ。陽気で乗りの良い警官の仮面はもう完全に剥ぎ取られていた。眉間には深い皺が刻まれ、本来の姿と思わしき寡黙な男の素顔で何か考え込んでいる。
「服とメイクを変えた犯人が向かったのは、一つ下の階。501号室。偽名でチェックインした本物の笠置翔子がいる部屋です」
「じゃあ……まさか……」佐伯が青い顔でうめく。
「この時に最初の殺人が行われたのではないか、というのが私の取る説だね。もちろん殺されたのは、竹中夏梨としてその部屋にいた本物の笠置翔子だ。で、殺害方法だけど、これは全く分からない。例の出血斑が出る毒を使ったかすら定かじゃない。ひとつだけ確かなのは、死体が用意されていた大きなトランクなりに詰められ、船尾に運ばれたであろうことだ」
「遺体を冷凍保存できる例のボックスですか」岡田が喉の奥から絞り出すように言う。
「正解」高階は警視を指差して言った。「彼女はその存在を知っていた。客船は定期的に見学会とか色々なイヴェントで一般開放してるから、それに参加して事前に調べていたのかもしれない。まあ、他にも有力な情報の入手経路は幾つもある。私はこっちの方に可能性を見てるけど――とにかく、彼女は知っていた。最初から冷凍ボックスを隠し場所にする計画だった。これは、まず間違いないと思う」
「スタッフは出航前の準備があるから持ち場で忙しくしている。マスコミが興味を持つフロアでもない。客室もない。自分の部屋を探して迷い込んだ不案内な客を装えば、結構、船内を自由かつ自然な形で動けたでしょうね。ボックスの周辺はそもそも人が寄りつかないと聞きますし……」
「そう」高階は首を縦に振る。「人がバンバン来るような場所に死体入れなんて置けない。だからああいうのは、誰もいない場所に設置されるのがセオリーだ。もちろん、そのことも犯人の計算にあった。枯れ葉は森に、死体は死体入れに。合理的かつ形としても非常によろしい」
 もちろん、笠置氏と夫婦喧嘩を演じたのも、犯人の女だった。
 彼女は本物の笠置翔子を殺害した後、再び601号室に戻り、メイクを戻し、ウイッグをかぶり、派手な服を着直して、佐伯が信じる架空の笠置翔子に戻った。夕食のため隣室の客が部屋から出てくるのに合わせ、笠置に喧嘩をふっかけた。
「犯人の女は、そんなに変装を繰り返したんですか」岡田が言う。
「いや、これは私の想像。501号室まで本物の笠置翔子を殺しに行った時は、ウイッグ取ってちょっと服を変えたくらいで、メイクはそのままだったかもしれない。派手な服の女がウロチョロしてたみたいな証人を作りたくないから、イメージを変えた上で出回っていた可能性が高いってだけでね」
「なるほど」
「まあでも、ここからの犯人が大忙しだったのは事実だと思いますね。私たちを追い払った後、彼女はまたメイクを落として、着替えて、今度は501号室の竹中夏梨にならなくちゃいけなかった。パーティで衆目にさらされるから、ここは手抜きできない。で、準備を整えると各種イヴェントおよび夕食に何食わぬ顔で参加。頃合いを見計らって、船酔いを装って自分のグループから離脱した。あとはご存じの通り。船医に近寄ってクスリがないかを相談。彼と一緒に診療室に向かった。フィリピン人船員が発見された後は、どさくさに紛れて601号室に戻って、また派手な服に着替えた」
「そう言えば」佐伯がはっと顔を上げた。「フィリピン人船員の治療が終わるまで待合室で待つって言ってたけど、俺たちが部屋に引き揚げる頃にはもう、彼女、いなくなってましたね」
「まあ、それは不自然でもないよ。みんな救急救命で忙しいのに、船酔いがどうだとかで迷惑かけらんない――みたいに空気読んで帰っちゃったとか、どうとでも解釈できる状況だった。みんな忙しすぎて正直、彼女のことなんか忘れてたし」
「で、601号に戻ったあとの行動というのは?」岡田が訊いた。
「もちろん」と高階は肩をすくめながら続ける。「ドアの前に家具や荷物を集め、バリケードを造った。いわゆる密室作りです」
 実際、一番大変だったのはここだろう。
 単純な力仕事もそうだが、直後、全身に血の気を失ったような青白いメイクを施す必要があったからだ。首筋には出血斑の模様も入れなければならない。どちらも事前にかなり訓練していたはずだが、慣れない特殊メイクであることに変わりはない。
 そられがなんかとか済むと、今度は冷凍庫《フリーザ》の氷や保冷剤を利用した冷水で脚を冷し続けた。
 これも相当の難行であったはずだ。
「しばらく体温が戻らないくらい、ギンギンに冷す必要があったからねえ。まあ、辛かったと思うよ。私たちが戻ってきて、バリケードで塞がれた扉をドンドンやり出すのを聞いて、彼女はようやく冷水から脚を引き抜くことができた。正直、助かったとすら思ったかもね。本当に寒いから唇なんかはもう、化粧いらずで真紫だ。脚からも血の気が引いてる。感覚も残ってなかっただろう。それでも手は動くからタオルなんかで肌の水滴を拭って、氷水の洗面器はベッド下あたりに隠して――横たわり死体発見のロールプレイが始まるのを待った。死体役としてね」
 当初の予定では、全員を寝室の中まで招き入れるはずだったのではないか――。
 高階はそう踏んでいる。
 しかし、とある事情でそれができなくなった。
「先生の存在ですね」佐伯がいち早く気付いて指摘した。
「その通り」
 あの時点では、多くの人間が高階を医療従事者だと誤解していた。
 これは計画上の大きな誤算であったはずである。医者の類に至近距離から観察されたら、それがメイクであることが露見してしまうかもしれない。
 だから土壇場でシナリオは微調整されたのではないか。感染症の可能性を完全には否定できなくなった。そんな理由で、部屋の入口から眺めさせるだけにしたのではないか。
 真っ先に駆け込んだ夫が、それを長年連れ添った妻だと認め、崩れ落ちているのだ。
 だれも、彼女が偽物だとは思わない。考えもしない。
 多少の修正はあったが、犯人の演出は完璧だった。
「ちょっと待って下さい」岡田が事務的な口調で止めた。「お話をうかがっている限り、先生のおっしゃる犯行はその女一人では行えないのではないですか?」
「そうです。泣き崩れる夫、偽の死亡確認を行って、私たちを部屋に入らないよう遠ざけた船医。こいつらは全部グルだ」
「全部? 彼らがですか? では、あのチーフパーサーの老人も?」
 あんぐりと口を開けていた佐伯が、消えそうな声で訊く。
「いや、彼だけは全くの無関係。ただ、犯人に勝手に押しつけられた役割はあった。担架に乗せるとき、夫人の脚を掴んで冷たい感触を味わってもらうっていうね」
「ああ、氷水というのはそのために」岡田が小さく唸る。
「あの演出は、私たちにそれが本物の死体であることを印象づける強烈な効果の他、後に死体の実在を証言させるためのネタとしての機能も持たされていた。目撃者の口から、梅雨の蒸し暑い中でもチーフパーサーが冷たさに驚いていた、なんて発言が複数揃って出れば捜査機関も疑わない。となれば、後で安心して海洋投棄で処分できる。考えたのは多分、船医でしょう」
 死体役を担架に乗せる時、船医は上半身に回った。これは専門分野の人間から見ても自然であるし、マニュアル通りの模範的判断だった。素人に手伝わせるなら、持ち上げるのが難しい上半身より、掴みやすい脚を持たせた方が良い。だから彼は、死体役の何処を冷しておくべきか熟知していた。チーフパーサーが脚を持つことは最初から決まっていたのだ。
「現場の常識を完璧に利用した、プロの発想だ」高階は潔く認めた。「あれはもしかすると、乗客に医者かそれに類する人間が乗っていた時用に用意していた緊急の特殊オプションだったのかもしれない。私には、医療従事者の観察眼を意識した演出であったように思える。素人相手ならあそこまでする必要はないからね。実際、あの小細工で私もしばらくは死体が本物だと思い込んだ。素人が、ちょっと冷たく感じたからって大騒ぎするのは現場の多くの人間が知ってる」
「船医が……」岡田が険しい表情でつぶやいた。「なら、死体ボックスの情報源や、女を死体に見せかける斑点の化粧の指導なども……」
「多分、兵藤の仕込みだ。毒もあの男が調達したんじゃないかな。最初の殺人、笠置翔子の殺害も彼が実行したか、共謀した可能性がある。フィリピン人船医をトイレに呼出したのも、殺害したのも恐らく兵藤だろう。笠置と偽翔子を含めたメンツの中で、場所を指定して何の疑いも持たせずクルーを呼び出せるのは、あの男だけだ」
「船医がそこまで噛んでいたというのは、何か証拠があっておっしゃってるんですか?」
 流石に警察官ということだろう。何か仮説をぶち上げる度、彼はこの質問を幾度でも繰り返してくる。
 高階はまた肩をすくめた。
「少年探偵の漫画じゃないんだから、そうそう決め手になる物的証拠なんて転がっちゃいませんよ。何せ遺体すら残ってない事件です。しかし、あなたがたもご存じの通り、状況証拠で合理的な説明が疑いの余地なくたつならば起訴はできるし、裁判で有罪も取れる」
「で、その合理的な説明になる状況証拠というのは?」
 もはや、岡田の口調は尋問時のそれに変わっていた。
「毒の入手経路、その効果的な使い方、笠置氏の殺害に用いられたと思われるスタンガンの持込み……どれも一般客より船員の方がやりやすい。毒殺に用いた注射器なんかは、破損などの可能性を考えると多めに必要だったはず。そんな物を揃えていてもしもの時に誰にも疑われず切り抜けられるのは? 諸々の条件を考え合わせると、船医がベストだ」
 しかし、と高階はすぐに続けた。
「これらは論拠というにはあまりに弱いし、状況証拠の域にも達していない」
 その通りだというように岡田が頷く。
「岡田警視。私と佐伯君は、昨夜、モルグに入りました。笠置氏からついてきて欲しいと請われて同行したんです。他には、鍵の管理をしていた船医が一緒でした」
 途端に奥田が眉間にしわを刻む。
「なぜ、彼はそんなことを言い出したんです? あなたが主張するように、笠置光太郎や船医の兵藤が殺人に関与していて、かつ先生を警戒しているのなら、それは逆に危険な行為に思えますが」
 もちろん、同じことは高階も考えた。
「恐らくですが、私を警戒すればこそだったんでしょう。彼らは、笠置翔子の死亡偽装に完璧な自信を持てずにいたんじゃないかと思います。どうやら医療関係者というのは誤解だったようだが、もしかしたら遺体のメイクを見破ってしまうかもしれない危険性を持った奴を目撃者役に据えてしまった。そう考えて、疑心暗鬼になったのかもしれない。
 あの女の目を完全に欺けただろうか、とりあえずは信じたにしても一部、疑惑を持たれたのではないか……。そういった不安を帳消しにするために、カッチンコッチンの百パーセント完璧な遺体を見せ、これが笠置翔子です――と見せることで念押しするつもりだったのではないかと」
「なるほど。先生の存在は、ある意味、連中にとって最大の計算違いだったと言うわけですね」
「いや、こういう特殊なツアーに参加するんだから、客は相応の社会的地位にある可能性が高い。士業や女医の類が混じる可能性はシミュレートされていたと思いますよ。これは、脚を冷す小細工が事前にオプションとして用意されていたのではないか、というところでも説明したことですが。むしろ、彼らにとっての不幸は私が漫画家だったことにあるでしょうね」
「と言うと?」
「遺体安置所は第2デッキ、診療室の並びにある小部屋を改造したものでしてね。業務用の空調で十度以下まで室温が下げられたそこに、彼らのいう笠置翔子の遺体は安置されていました。で、当然、私はそれを見たわけです。間近で――バリケードを破って入った601号室の時と違い、至近距離から様々な角度で観察できたんです」
「いや、おっしゃる意味がいまいち掴めないのですが? 私がお訊きしているのは、船医が犯罪に関与していた根拠と、先生が漫画家として彼らのリスクになったという話の根拠です」
「だから、それが根拠なんですよ」高階はすぐにそう言った。「私の場合、生来そういう質《たち》だということもあるけど、それを抜きにしても絵描きですから、人間を見たらまず骨格で造形を理解します。解剖学的に分析しながら見る。そういった裏付けのない観察では、描く絵にちょっと動きや大胆なアングルを取り入れたようとした時、デッサンが崩壊してしまう。まあ、職業病のようなものだと認識して下さい。警察にもあるでしょう?」
「まあ、そういう癖は分かりますね」警視は指摘に苦笑いで応えた。「休日でも、挙動がおかしなクルマの運転を見ると、無意識に車種とナンバーを確認している自分に気付いたりしますよ」
「そう。あるシチュエーションが発生すると、自動的にモードが切り替わって観点やアクションやレスポンスが固定されてしまう。私もそうだった。笠置翔子と初めて会った時、まず骨格で彼女を見て、自分の作品に出すキャラクターのモデルにするとしたらどういう描き方をするかを考えた。どうディフォルメするか、どこを記号化するか……。安置室で彼女だとされる遺体と対面した時も、やはり同様の観点からそれを眺めた。だから、驚いたんですよ。なぜって、私が知る生前の笠置翔子と死体になった笠置翔子が、同じ眉の形、同じ髪型をした、しかし明らかな別人だったからです」
 スプリングの鳴る音が一際大きく響いた。
 見ると、佐伯がずり落ちんばかりに隣のベッドの上で体勢を崩している。
「別人……!」
「キミはマンボウみたいにぼーっとしてたから気付かなかったようだけどね。まあ、男はそういう刹那的な視覚情報の処理能力には劣る部分があるからしょうがない」
 初対面の異性と対面した時、男が見るのは顔、胸、腰、脚。それに大雑把な服装を加えたくらいが精々だと言われている。が、女性は違う。靴の汚れ具合から爪の手入れ、服のグレード、細かな所作まで無数のチェックポイントを設けていることも珍しくない。それも初見の一瞬で、である。これは単に意識の問題もあるが、それだけの情報処理を無理なく行える能力を生来持っているから、という部分も大きい。
 瞬間視による間違い探しにおいて、女性が好成績を収める傾向にあるのも同様の理由からだ。彼女らの多くは、ぱっと目に映しただけで自分でも意識しないほど多くの情報を脳に取り込んでいる。そして、その記憶のイメージと、次に見た時の僅かな変化によるズレとに敏感に反応する。いわゆる「オンナの勘」と呼ばれる女性たちの目ざとさは、科学的にはこうした部分に支えられていると考えられている。
 これと、色の識別能力はとにかく圧倒的に女性優位だ。同じ赤系でも口紅《ルージュ》には無数のバリエーションがあるが、男性が識別できるのは精々が数色。だから、アニメーション制作の色指定も多くの場合は女性が専門的にやっている。
「男連中は化粧についてまるで無理解だから、メイクの仕方から逆算してすっぴんをイメージすることすらできやしないもんね。想像で服を脱がせて裸にするのは得意な癖にさ。こいつ化粧とったら人相変わるぞって娘でも、メイク補正を真に受けて可愛いなんて言っちゃう」
「経験値がないんだから、そこは勘弁してくださいよ」佐伯が苦虫を噛みつぶした顔で言う。「それで痛い目を見るのも我々の側なんだから、それで良いじゃないですか」
「私も別に責めてるわけじゃない。特に今回、偽の笠置翔子――すなわち犯人は、本物との識別点をなるべく無くすために、眉の形なんかを意図的に合わせていた。事前に写真を入手するなりして、自分なりに似せてたんだろうね」
 これに厚化粧、顔の半分を覆い隠す巨大なサングラス、同じ髪色、髪型のウィッグを加えれば、ちらと見ただけなら判別がつかなくなる。これは仕方がないことだ。
「ちなみに――」と言って、高階は立ち上がった。メモ係の警官に近付き、白紙と油性ペンを借り受けて戻る。作業は二分もかからなかった。
「これが、二人のジオメトリだ」
 クイズの回答をフリップ表示するように、コピー紙を立てた。佐伯と奥田、両方に見えるように角度を調整してやる。これで彼らには、人間の顔が左右に二つ並んでいる画が見えているはずだ。それぞれ右が笠置翔子の偽物、左が遺体として見た本物である。似顔絵というよりは、極端に少ない線で各パーツの配置やサイズを表わしたものだ。コンピュータグラフィクスでいうところのフレーム。テクスチャを貼り付ける前のハリボテのようなものである。
「こうして見ると、二人とも結構違うでしょう。顔のサイズが、まず本物の方が少し大きくて顎のカーヴが緩い。楕円型だ。一方、偽物の方は顎が細くて、尖り気味。鼻の形状も気をつけてみれば別物だと分かったはずです。目と眉の近さもかなり違う。ここはメイクで上手く細工されていたから、種明かしをされた今見ても男性陣は上手く認識できないかもしれない」
「ほう、これは――」軽く腰を浮かせ、奥田が身体ごと大きく前に乗り出す。「確かに骨組みにしてみると違いが分かりやすいですな。しかし、耳がないのは?」
「髪の毛で隠れていたせいです。素人にとって違いとして認識しやすい部分でもあるんですが、計算なのか偶然なのか、とにかく笠置翔子はそういう髪型をしてたんですよ」
「先生はこれだけの情報を、完璧に記憶しておられたんですか。こんな画にできるほどに?」
「慣れていれば、そんなにもの凄い芸当でもないですよ。囲碁や将棋のゲームでも、慣れた者なら指し手を一から全部記憶している。対局後、棋譜にできる。素人は凄い記憶力だと驚きますが、ある程度になれば誰でも普通にできることです」
「――一つ、確認しなければならない点が」一度、居住まいを正した岡田が、肩の高さで挙手した。「先生は骨格で人相を見るため、化粧や付け毛に左右されない個人の識別が可能であり、これによって笠置翔子を名乗って船内をうろついていた女と、笠置翔子とされる遺体の女とが別人であると看過された。そうですね?」
「その通りです」
「では、夕食の時でしたか、船酔いを装った犯人がテーブルに近付いてきた瞬間、彼女の骨格的特徴が部屋に閉じ籠もっているはずの偽の笠置翔子と完全に一致する、ということに気付かなかったのは何故ですか? 私はどうしてもそこが腑に落ちなくてですね」
「それは簡単。船酔いが装われていたからですよ」高階はすぐに答えた。
「はい?」
「警視なら風邪をひいたことをアピールする時、どういう演技をつけますか。口に拳をあてながら咳の真似をするなり、額に手をやって熱があるように見せるのでは?」
「はあ。まあ、そうかもしれませんね」
「犯人も同じです。あの時、彼女は船酔いの苦悶を表現するために目を細め、さも吐き気をこらえていますと言うように口元をずっと手で覆っていました。身体を屈め気味に、顔も半ば伏せてね。診療室の待合所でも再会してますが、その時も椅子に座って同じようなポーズだった」
「なるほど――物理的に隠されていたなら骨格もくそもない」
「他に疑問は?」
「いえいえ、私の疑問はこれで完全に氷解です」降参、というように警視は両手を上げる。「話の腰を折って大変失礼しました。あ、もしよろしかったらその参考図の紙、いただけませんでしょうか? 場合によっては非常に有用な証拠品となりますので」
 構わない、と身振りで表わし、高階は紙を渡した。ペンも合わせて返却する。
「お預かりした物は、あとでリスト化して正式に書面で処理させていただきますので」
「それで結構。では、話を戻そう」脚を組みかえて、言った。
「その前に、三分だけ休憩時間をいただけますか? まだ、飲み物も用意させていただけてませんし。お借りしたこれを、ちょっと早めに情報として上げたいもので」
「良いでしょう。しかし、多分もう遅いですよ」
 その言葉の意味を、奥田は正しく理解したはずだった。だからこそ一瞬、レスポンスが遅れる。
「……では、少し失礼します」
 彼は結局そう言って、部屋を出ていった。
 目的は画がどうのではなく、船医・兵藤の監視強化だろう。彼は笠置の遺体と一緒に、既に船を出ている。司法解剖に付きそうという名目だが、彼にその気などない。医師という立場を利用して、船を取り巻く警察の厳重な包囲網を突破が狙いであったのだ。そして、それはとうの昔に達成している。元々、この展開も想定していたのだ。
 待っている間、メモ係の警官が室内の冷蔵庫からコーラを持ってきた。静かな室内に、プルタブを空ける音が連続して響く。
「高階先生――」
 奥田は、三分の予定を五分以上オーヴァーして戻った。そこにはもう、飄々とした人好きのする警官の顔はない。最初に部屋に入ってきた時とは完全な別人だった。
「やられましたよ。あなたの仰る通りです。遅かった」


   18

 佐伯は思わず腰を浮かせた。口が半開きになっているのは自覚しているが、言葉が出てこない。メモ係の警官も似たり寄ったりの顔で驚愕を露わにしていた。
「どのタイミングでいかれましたか」
 いつもそうだが、ここでも高階だけが違った。非常に落ち着いた口ぶりだった。
「笠置光太郎の遺体は、文京区の施設に運ばれて解剖される予定だったんですが……」
 奥田も取り乱してこそいないが、額に薄く汗を浮かせている。
「付き添いで行ったはずの兵藤は事前準備の最中に断って離席して、そのまま戻っていないそうです。なんでも、医療機器メーカーにネット回線を通じて送ったデータを取り寄せるとか言って、連絡のために一時的にひとりになったとか。あちらでも、今しがた消えていることに気付いたようで」
「最近の医療用測定機は、採取したデータをネット回線でメーカーの専用サーバに送信できるんです。そういうサポートシステム込みで売り込んでるんですよ。兵藤はそのデータの存在をダシにして、離席の理由にしたってことでしょう」高階が冷静に分析する。そして訊ねた。「緊配《きんぱい》はかけましたか?」
「緊急配備は全域で手配しました」奥田は声のトーンを下げる。「見込みはあると思いますか?」
「まあ引っかからないでしょうね。彼は事前に用意をしていたはずだ。非常に頭の良い男です。検問の位置も全て予測されていると考えるべきでしょう。警察は時々、訓練でやりますからね。頭の良い奴はそこからデータを取る。もう、都内にはいないかもしれませんね」
「まさか、こんな形で被疑者に包囲網を破られるとは――」
 ここまでの話を総合する限り、兵藤のシナリオは最悪の方向へ展開していったように思える。船に高階が乗っていたこと。彼女が矢慧と連携して、寄港前にほぼ事件の全容を解明していたこと。警察が大挙して乗り込んでくる最悪の事態に陥ったこと。プラスの要素は何もない。だが、兵藤はそうなっても逃げられる準備をしていたということだ。
「もっと早くに……」奥田が喉から絞り出すように唸った。「最優先で先生にお話しをうかがうべきだった……このまま逃がしたら、私は今夜眠れませんよ」
「現場の人間だって不眠不休で追うでしょう。ならトップも寝るべきじゃない」
「高階先生」奥田は眉間を揉みながら、座っていた椅子に戻った。「あまり虐めんでください」
 彼は深く嘆息する。ポーズを変えず、双眸を固く閉じたまま言った。
「先生はいつ頃からお気づきだったんですか」
「確信を持ったのは、さっき話した霊安室で死体を見た時です。キャビンの前で夫と口論していた笠置翔子、死体としてモルグで冷されていた笠置翔子。この二人が別人だとすれば、幾つかの事実が明白になる。ひとつは、笠置翔子が二人いること。そのどちらか、あるいは両方が偽物であること。そして、そのことを知らずにはいられない立場にありながら、船医が矛楯を指摘しなかった事実。合わせて考えると、船医が偽の笠置翔子サイド、すなわち犯人に協力する立場にあることが分かる。これは推論ではなく、論理学的な帰結。裁判で合理的な根拠として認められ得る強力な状況証拠だ」
「確かに……。そして、兵藤の逃亡が条件に加わった今、それはもう疑う余地のないものになったわけだ」
「あの、先生」
 佐伯がおずおずと口を開いた。
「笠置氏が犯行に関わっていたというのは未だに信じられないんですが、仮に事実だとして、彼はそもそも何のためにこんなことをしたんです? それに船医やよく分からない女性がどう関係しているのかもまるで理解できないんですけど」
「つまり、動機ですね」
 奥田が合いの手を入れる。自分も訊こうとしていたことだ、という口調だった。
「はっきり言っておこう。動機と人間関係のことは、私にも矢慧にも全く分かっていない。裏付けに使える情報がゼロだからだ。よって、これからの話はほとんど妄想に近い、根拠なしの物語だ。そう理解して聞いて欲しい」
 高階はそう宣言し、相手が了解したのを確認してから続けた。
「この事件の目的は、敢えて一つ挙げるなら金《カネ》だと思う」
「それは、どういった――?」分かっているくせに奥田が訊いてくる。
「笠置翔子の財産です」真っ直ぐ視線を受け止めて、高階は問い返す。「警視。もう、彼女が死んだ時に動く資産に関しては大枠で掴んでるはずです。私に先の話をさせたかったら、そっちも少しは情報を出さないとフェアじゃない」
「先生、ちょっとは手加減して下さいよ」
 また、軽い中年オヤジの仮面をかぶり直した奥田が苦笑を見せる。
「警察は情報を吸い上げはするが、その逆はしないっていうのがメンツなんですよ」
「この手の話はどうせ週刊誌に載るでしょう。私としては情報源はどこでも良いから、そっちを当たっても良い。まあ、向こうも商売ですから情報の等価交換を要求されるでしょうが……幸いにも、私は彼らが喜びそうな情報を関係者として持っている」
「お願いしますよ、高梨先生。私をあまり困らせんで下さい」
 口調こそ懇願するようだが、目の奥には媚びなど一切ない。奥田は自分が思っているほど韜晦《とうかい》に長けるタイプではないのだろう。
「今回の事件は色々と注目を集めやすい要素が多いんです。先生のような方から週刊誌なんぞに情報を売られたら余計、大事《おおごと》になるじゃないですか」
「笠置翔子の遺産とその行方は?」高階は冷たく繰り返した。
 奥田は口を真一文字に結び、葛藤に満ちた沈黙の時を作った。
 やがてその首から力が失われる。がくりと項垂れて、彼は嘆息した。
「先生、これはここだけの話にすると約束していただけますか」
「約束しましょう」
「週刊誌に情報を売るようなことも?」
「私はハイエナが嫌いなんです。憎んでるて言っても良い。正義漢を気取るわけじゃありませんが、私は悪魔的な取引というやつを許せない質《たち》なんですよ。金品と引き替えに口を噤んだり、逆にぺらぺら喋ったり、そんなことはこれまでも、そしてこれからも一切あり得ないですね」
 佐伯が、異性と思って寝室に招いた相手が服を脱ぐと同性であった――というような戦慄の表情をしていた。
 もちろん、無視する。
「で、実際のところどうなんです?」高階は畳みかけた。
「――笠置家の資産は莫大です」諦観めいた声で奥田が語り始めた。「各地に財が散らばっていて、試算は容易じゃありません。資料を総ざらいするだけでも大変な労力なんですよ。まあ、そういった前提があっての話なんですが、現時点ではっきりと笠置翔子の個人資産として計算できるものは、だいたい二十億円かそれ以上にるだろう、と。そう言われています」
「相続関係は? 彼ら夫妻に子供はいたんですか」
「子供はいません。養子もいません」奥田は自分用のメモを捲りながら言った。「なので、翔子夫人が本当に亡くなっているとすれば、その時点で遺産は全て夫の光太郎氏に相続されます」
「聞いた話では、相続の手続きが完了していなくても遺産は移動したことになり、その時点で夫の物になるそうですが?」
「私も弁護士ではないので明言は勘弁していただきたいところですが、まあ、なんだかそのようなルールのようですね。ところが、今回はその彼もしばらくして殺害されている。となると、財産は光太郎氏の直系尊属である両親にいくんじゃないかと思いますね。私の認識ではそんなところです」
「で、その両親は健在なんですか」
「いえ、それがどちらも既に他界されているんですよ。彼の血縁は実姉のみです。夫人のご両親はどちらも健在のようですが――」
「では、最終的には二十億から相続性を除いた分はその姉に?」配偶者も子もいないなら、相続順位は両親。その次が兄弟姉妹となる。「遺言の類は?」
「遺言は現状、見つかってませんね。当然、あのご夫妻はそれぞれ立場のある方でしたから顧問の弁護士がついているわけで――夫人の方には一族専属の管財人も別についていたようですが――、とにかくそれらの誰も作成の依頼は受けていないと言っています。私は、今後も出てくる可能性は低いんじゃないかと思ってますね」
「フム――」
 これは、高梨の想像を補強する新事実と言えた。矢慧が指摘していた可能性がより現実味を帯びてきた、とも言える。うなじの辺りがチリチリし始めた。
「あの、高梨先生?」
 急に黙り込んだのを不審に思ったか、奥田が控えめに声をかけてくる。
「先生は、その翔子婦人の遺産が今回の事件の動機になっている、とおっしゃったように記憶してますが。では、相続人であるところの、光太郎氏の実姉も何か関係が?」
「いえ。その人は何も知らないでしょう」
「ほう。では、先程の動機のお話はどう解釈すべきなんでしょう」
 慇懃に聞こえるが、その実、奥田は挑戦的なモードに切り替わっている。話はとっくに核心部分に到っている。ここで心証が決まれば、彼は高梨の線で捜査を展開していく覚悟だろう。
「その前にもう一つだけ。殺された笠置と船医の兵藤についてですが。これは私が調べた限りだと、高校時代を同じ神奈川県の鎌倉界隈で過ごしています」
「ええ、そうです」いささか虚を突かれたような顔で奥田は頷いた。「よくご存じですね。二人に直接、訊かれたんですか」
「いや、ネットで経歴を調べただけですよ。しかし、少なくとも高校は別だ。距離的には一番近い、隣り合わせの公立高校だったようですが……それ以前、中学や小学校で彼らが一緒だったなどということは?」
「いや、私どもが入手している資料では就学年齢に達して以降、彼らが同じ学校に通ったという記録はないですね。しかし、当時の現住所は互いに二キロも離れてません。習い事――たとえば塾やスイミングスクールかなんかで同じだった、部活動の地区大会でライバル同士だった等といった接点までは捨てきれません。既に人員割り振って調べさせてますし、、今日中には何かしらはっきりした結論が出せると思いますが」
「多分、接点自体は見つかるでしょう」高階は言った。「しかし、彼らは顔と名前が一致する程度の薄い関係であったと思いますね」
「なぜ、そのように思われるんですか?」
「材料が揃ったので、まとめて全部お話ししましょう」
 まず、前提としてこの事件は予め周到な準備がされていた計画的な連続殺人である。毒など船内で偶然入手できる物ではないし、注射器やスタンガンにしても同じ事が言える。
 高階がそう告げて岡田を見ると、彼は深く頷いて異存がないことを示した。
「では、その計画はそもそもどこから誰によって始まったか。私はその端緒《たんしょ》が、笠置と兵藤の偶然の再会に求められるのではないかと想像しているんですよ。つまり、イヴェント会社の仕事で全国を回る途中に、笠置が偶然、後輩の兵藤を見つけた。あるいは趣味の船旅を通して、客船で船医をしていた兵藤とどこかの国のどこかの港で思いがけず再会した――」
「まあ、シチュエーションとしてはあり得そうな話ですね。聞けば、客船はサイズが大きいせいで立ち寄れる港や運河が決まっていて、これに保安上やコスト上の事情が加わるとクルーズのルートは数パターンに絞られるそうじゃないですか。実際、違う客船同士がどこかの寄港地で出会うことはよくあることだと聞いています」
 既にその可能性は考えて裏も取っていた、という口ぶりであった。
 緊急帰港が決まってから数時間、警察もただ指をくわえて船が戻ってくるのを待っていたというわけではない。当然と言えば当然の話である。
「二人は前述したように、顔と名前くらいは何とか思い出せる程度、文字通りの知人レヴェルの関係だったと考えられる」高階は話を続けた。「だからこそ、旅の恥はかき捨てというような心理で愚痴も安心して吐けたんだと思います。相手が近すぎると、変なフィードバックが生じて自分の陰口が当の本人まで届いてしまう怖れがある。しかし、他人に近い知り合いならそういう心配もない」
 高階の考えはこうだ。
 どこかで数年、あるいは十何年ぶりという再会を果たした二人は、当初、その偶然を無邪気に喜んだ。どうだ、せっかくだから一杯やらないか。今日は楽しかった。また飲まないか。今度、仕事の都合でそちらに行く予定があるんだ――。そのような感じで、一つ学年が上の笠置あたりから誘いをかけたのかもしれない。詳しいことは想像するしかない。
 だが、世話係はむしろ兵藤の方だったのではないか?
 妻の強権に敷かれ、息苦しい生活を強いられていた笠置は心身供に疲弊していた。気が抜けると、つい愚痴に走ることもあっただろう。初対面の高階や佐伯に対してさえ、その傾向があったのだ。無論、あれは殺人計画に基づく演じられた人格であったのかもしれないが――その全てが演技だとも思えない。
「最初は、冗談混じりに出てきた馬鹿話の一つだったんだと思います。笠置本人が言い出したのか、兵藤が茶化し半分で漏らしたのか……」
 高階は少し声のトーンを下げ、台詞調で続けた。
「最近、日本の客船でも続けてあったけど、航海中って結構、落水が多いもんだな。あれって、まず行方不明のまま終わるんだろう?」
 両人とも大のおとなだ。クルーズ中での社交は飲みが前提という常識もある。寄港地での再会であれ、普通の出会いであれ、この手の席で彼らがアルコールが入れなかったとは考えにくい。ならば、ほろ酔い気分で箍《たが》が外れることもあったはずである。気付けば心の奥底にあるものがこぼれ落ちていた、ということも。
「何度かそういう冗談とも本気とも付かない応酬が続くうち、笠置はだんだん口数を減らして、最後は何か考え込むような様子を見せ始めたんじゃないかな。それでなくとも、兵藤は相手の様子から気付いたはずだ。コイツ、もう一押しすれば本当にやるんじゃないか。完全犯罪の機会を提供すれば、その気になって乗ってくるんじゃないか?……ってね」
「それですと……いや、しかし……」
 奥田が言い淀み、首を小刻みに左右する。
「先生は先程、これは翔子夫人の遺産を目的とした事件だとおっしゃいましたが? 今の想像のお話しだと、金がそれほど大きな要素を占めていたようにはちょっと聞こえませんな」
「自己申告の設定を信じるならば、笠置自身も貧乏人ではない。切実に金を欲してはいなかったと思われる。だから、彼はそれだけが目的なら妻殺しを考えはしなかっただろう。それは、警視のおっしゃるとおりです。しかし、二十億という金に小揺るぎもしないほど彼に余裕があったとも思えない。彼の生家は、少なくとも彼が幼少期にはそれなりの資産を持っていたようだけど――姉が自宅に専用のバレエ練習室を持ってたくらいだ――、没落したんじゃないかな? 両親が死んだなら遺産を受け継いだはずなのに、彼が手がけている事業は支社がようやく一個って程度のちんけなイヴェント会社ときてる。話が合わない」
「笠置光太郎の旧姓は紺野《こんの》です」
 奥田が資料に目を落としながら、明日の予報を伝える気象予報士のように告げる。もう保秘も何もあったものではない。彼らのいう保秘とは、情報公開を突っぱねる時に使うツールであって、情報を流したい時には「適切な判断」の元、都合良く忘れ去られるということだ。
「紺野家は古くから土産物屋や飲食店を複数経営していたんですが、業績悪化で確かに多くの資財を失っています」彼が続けた。「母親は子宮癌で早逝。父親の方は事業の失敗による自殺ですね。光太郎氏が若いうちに両親を亡くしたのはこのせいです」
「そんなところだろうと思ってましたよ」
 資産家の出でしかも長男というなら、普通は後継者扱いだろう。姉が先に嫁いでいるのだ。彼が笠置家に婿として入れば、一族の系譜が途絶えてしまう。
 だが、家族が崩壊寸前であったというなら、光太郎の進んだ道も理解できた。
「一つ。笠置光太郎は妻の翔子に嫌気がさし、夫婦仲は冷え切っていた。二つ。彼にとって妻の持つ二十億という個人財産は魅力的だった。三つ。私はこれが最大の動機になったんじゃないかと思ってるんですが、彼には愛人がいた」
「愛人ですか」奥田にさして驚いた風はない。これまで嫌というほど見てきたパターンなのだろう。医者が冬のインフルエンザ患者を見る目と同じだ。
「彼はこの若い不貞の恋人を熱愛していて、可能なら翔子夫人と別れて再婚したいくらいに思っていたんじゃないかと想像します。で、なんやかんやのやり取りがあった後に、こういう話になったんだと思いますよ。もしかしたら、翔子を安全に始末して二十億前後の財産を手に入れられるかもしれない。そうしたらキミ、私についてきてくれるか――?」
 最後の一語を聞いた瞬間、奥田の頬筋が引き攣った。一瞬にして、この先の展開が読めたのだろう。
「愛人の女にとっても、二十億の遺産を手に入れた笠置との結婚は魅力的な話だった」高階は続けた。「本当に翔子を安全かつ確実に始末できるプランがあるなら、協力しても良い。そう思うくらいには気を惹かれる話だった」
「なるほど。愛人が出てくると、一気に説得力と分かりやすさが出ますね」
 奥田が感心したような声で顎をさする。警察官はこうした即物的な話にリテリティを感じる生物なのだろう。これは、世の多くが即物的な原理で動いている、という左証でもある。
「俯瞰的に事件の成り行きを見てみると、この愛人の女は、笠置ほど熱心に相手を想っていたとは考えられません。ならば、笠置は――本人が喜んで貢いでいたにせよ――金の力で彼女をつなぎ止めていたのではないかと想像できる。今の笠置にそんな余裕があったかは微妙なところですね」
 小さなイヴェント会社とは言え、一応の実績をあげていたなら女の一人くらいは囲えた可能性もある。だが、場合によっては妻の資産を彼女に秘密で使い込み、愛人に流していた可能性もある。
「もし、翔子の金を愛人に流していたなら、妻がそれに薄々勘づき始めたようだ――とかいうのも殺害に走った動機の一つに数えられるかもしれない。この辺は、警視。そちらの裏付け次第です」
「肝に銘じておきましょう」
「結論から言うと、愛人は計画に乗った。何故なら、笠置が持ち込んだ計画が完璧過ぎるほど完璧だったからだ。完全犯罪がこの世で最も簡単に成立する洋上の船舶。加えて、死亡診断書をこっちの言い分通りに作成してくれる医者まで抱き込んでいる。翔子の死は事件にすらならない。捜査がそもそも始まらない。百パーセント確実に事故、あるいは病死で片付けられる。船が港に着く頃には、もう全てが完結している」
 彼ら三人が共有していた範囲だと、当初の計画はこうだった。
 まず、何も知らない翔子を〈あくえりあんえいじ〉号におびき寄せる。
 この役割を担ったのは、船医の兵藤だった可能性が高い。彼が笠置――旧姓・紺野の古い知人を名乗り、翔子に接触を図ったのではないか、というのが高梨の読みだ。
 お宅の旦那さんですが、どうやら浮気をしているようですよ。知人として、道義に反する行いは許せない。彼には目を覚まして欲しい。だからお知らせしました。とでも言って、翔子の関心を引いたのだろう。
 各証言から見えてくる翔子の実像は、やはりプライドの高い高慢な女だ。
 はらわたの煮えくり返る思いで、夫の不倫話に食いついたことだろう。
 そこで兵藤がこう言えば、彼女は高い確率で船に来る。
「実は私は客船でドクターをしてまして。その経緯で偶然知ったのですが、どうやら光太郎君は愛人と、私の勤める船で旅行に出るようです。どうでしょう。奥さん、偽名を使ってその船に乗り込んで、現場を押さえてみては。船の上は閉鎖されているから逃げようがありません。確実に仕留められますよ。もしその気でしたら、私の方で偽名とお部屋を、それと分からないように手配することもできます」
 これに翔子が乗った時点で、計画はほぼ成功だった。
 あとは既に高階が語った通りである。翔子は、船医が手配した「竹中夏梨」名義のチケットを持って一番にチェックイン。「頃合いを見て合図するまで501号で待機」と船医に指示されていたため、大人しく船室《キャビン》に籠もった。
 ここに、愛人と彼女を妻だと紹介して回る笠置光太郎が登場する。愛人の方は、派手なメイクと衣装にサングラス、笠置翔子の髪型を真似たウイッグ、日傘の完全装備で周囲の注目を引きつけ、イメージを作った。そして601号にチェックイン。
「直後、最初の殺人|事件《イヴェント》が発生するわけだけど、その経緯は本当に分からない。愛人が単独で501号に乗り込んで、光太郎と不倫してる者だ、話がある――とでも言ってドアを開けさせたか。船医が今後の計画について相談がある――と部屋を訪れたふりして殺《や》ったのでも話は通る。二人で協力して犯行に及んだとしても驚きはない。光太郎が加わった可能性もある。誰が、どういう組み合わせと役割で、どうやって殺したかはさっぱり分からない。殺害後、冷凍ボックスに死体を隠したことは間違いないんだろうけど」
「型の決まった変数みたいな感じですね」佐伯が横から言った。
 彼がいう変数とは、コンピュータプログラム上で扱われる概念だ。サイコロの目のように、何が出るか決まっていないものを示す。型というのはこの場合、出目の範囲のようなもので、一般的な六面サイコロの場合は一から六までが型になる。
 すなわち、どの数字が出るかは分からない。だが、出る数字の範囲は限定できる――
「まあ、そういう捉え方で良いと思うよ」高階は微笑で応じた。「値の範囲さえ絞り込めれば、あとはどうでも良い。実際、誰がやったのであれ大差はないからね」
「いや、我々警察としては大問題ですよ」奥田が真顔で言う。
「じゃあ、そこの解明は専門家《ケイサツ》の皆さんにお任せしましょう」
「そのつもりです」警視は力強く頷いたが、直後、一転して困惑にも似た表情を浮かべた。眉根を寄せて言う。「しかし、夫人の遺産が目当てなら、どうしてバリケードやら死体の演技やらの小細工などをしたのでしょう? 夜を待って、人知れず遺体を海洋投棄すればそれで航海中の行方不明ということで、より安全かつ無難に同じ効果を得られたでしょうに」
「それは私も考えました。もちろん、実際の所は本人達に聞いてみないと分からないことですが、まあ、仮説としては二つ」
「行方不明にすると、死亡が認定されるまでに時間がかかります。確か、船が沈没した時に救助もされず、死体も出ずということになった場合で、一年でしたか」奥田が淡々とした口調で言った。「その一年が何らかの事情で待ちきれなかった、といったようなことですか」
「そう。それが一つ。もう一つは、笠置本家との兼ね合いですね。笠置本人の立場や与えられていた仕事の内容から考えると、彼は妻方の実家からあまり良い扱いは受けていなかったようだ。軽く見られていた、と言い換えても良い。笠置家にとって重要だったのは翔子という一人娘の存在だけで、その夫は単なるオプションに過ぎなかったのではないか」
「はあ――」いまいちピンとこない、といった顔で警視はそれだけ相づちを打つ。
「つまりですね。客船で翔子が忽然と消えた、なんて話になった時、笠置は本家から何かしらの疑惑をかけられる立場にあったのではないか。実家との関係に亀裂を入れしてしまうことになるような、微妙なポジションにあったのではないか――ってことです。溺愛する翔子《ムスメ》の死を受け入れずにゴネてなかなか失踪宣言を許さないとか、何かそういう、笠置や愛人にとっての障害として立ちはだかるような動きを見せる可能性があったのかもしれない」
「なるほど……」奥田が眉間に皺を寄せたまま、アゴを一撫でする。「行方不明者を死亡として扱うには、失踪宣言という民事上の手続が必要です。これは七年だとか一年だとか認定期間が経過すれば自動的に確定されるものではない。利害関係人が申し出て、請求手続きをするのが基本です」
「震災の時に、似た話がありましたね」佐伯が遠慮がちに口を挟む。「津波で遺体が見つからない場合でも、家族が申し出れば、特例で確かとても短い期間で死亡認定がおりるというような――」
「まさにそれですな」奥田は生真面目な表情で頷くと、続けた。「しかし、今回のケースでは逆の可能性が考えられるわけですね? 本家が娘の死を認めたがらないだとか、笠置が遺産目当てに何かやらかしたのではないかという疑いから、失踪宣言の請求を妨害するような可能性が想定される、と。政財界に顔が利く本家が本気になれば、笠置光太郎は容易に行動を制限されてしまうし、強大な影響力で民事上の決定すら操作されかねない、と」
「そうです」
 実際、笠置家にそれだけの力があるかは分からない。本当に彼らがそこまで翔子を猫かわいがりしていたかも、笠置との折り合いが悪かったかも、確かなことは何もない。
 だが現実、笠置と愛人は翔子が密室で死亡した、という状況を作り出した。それを第三者に確認させ、医師に死亡診断書を書かせる道を選んだのだ。
「まあ、船から忽然と消えたってタイプの行方不明が、民事的に何年で死亡と認定されるかは知りませんが、七年にせよ警視がおっしゃるように一年にせよ、目の前に二十億って金が積まれているのに、長いことお預けくらうのはなかなかの苦痛ですよ」
「でしょうなあ。まあ光太郎の方はそれほど金にこだわってはいなかったのかもしれませんが、問題は愛人の方です。こちらは、ほとんど百パーセント金目当てでこの計画に荷担したような形なんでしょうから、その辺の事情に関しては敏感だったに違いありません」
「意見が合うようになってきましたね」高階は微笑んだ。「私も、実際に金が入ってくるまで最低で一年以上という部分に難色を示した愛人の主張で、笠置は計画を修正したんだと考えています。つまり、すぐに遺産整理を行って、多額の金と一緒に再婚できるようなシナリオに」
「しかし、現実はそのシナリオ通りにはいってませんね?」
「そう。当初のシナリオでは、フィリピン人と笠置夫人が出血斑を浮かべる怪死をとげ、医師が病死としてこれを処理する。それで終わるはずだった」
「遺体は光太郎の物以外、何者かが海洋投棄したと思われますが、これも当初の計画にはなかったことなんでしょうか?」
「そこはオプションだったと思います。多分、決定権を持っていたのは船医の兵藤ですね」
 死体を取って置いた場合、港に着いた時点で業者に引渡さねばならない。この際、彼らによる簡単な検屍を受ける。これを無難にパスできると計算していたなら、そのまま通した方が事はスムーズに運ぶ。
 これとは逆に、海洋投棄を選んだ場合はどうか。これは検屍でボロがでるリスクを完全に回避することが可能だ。しかし、代償として死体消失が事件となって、帰港時に捜査機関の立入り捜査を受けることになってしまう。最終的には、信心深い外国人クルーの誰かが、伝染病を呪いや祟りの結果と恐れ、人知れず遺体を海に投げ捨てた――といったような路線で片付けられはするだろう。犯人不明で迷宮入り。これが兵藤のシナリオになる。
 彼らの故郷の一部では、精霊信仰などがまだ生きており、迷信に従って行動する者もいないわけではない。そんなことを船医として口にすれば、捜査機関も一応は考慮するに違いない。
「ただ、この立入り捜査は少し面倒なことになります。兵藤はどうとでも逃げられますが、偽名を使って船に乗り込んでいた愛人なんかは、身元の照会などが入るとちょっと危険な立場になる」
「確かに」
「ただ、その場合のシナリオも兵藤は用意していたでしょうね。あの男が最終的に、包囲網から脱出した方法を思い出して下さい。奴は、笠置の司法解剖に協力するといって監察医務院までの同行許可をまんまと引き出した。これにちょっと手を加えれば、乗客を一人オマケにつけるバリエーションくらいはすぐにできあがりますよ。それこそ急性虫垂炎だとかいって、救急搬送を装って運び出すとかね。近くの総合病院に同期の友人が勤めているから、その伝手を辿ると早い。もう話は通してある――とかなんとか言えば、自分も連れ添いという形で、共犯の愛人と船から安全に離脱できるわけです」
 この際、監視役として警官が何人か付けられるかもしれないが、自分の用意したフィールドに状況を引っ張り込めるのだ。書類上の手続きを押しつけてる間に逃げるなど、逃走手段は無数に用意されていたことだろう。
 実際、兵藤は監察医務院から上手いこと抜け出している。事前に手はずは整えられていたということだ。場合によっては協力者も何人か確保していたのかもしれない。
「どうです、警視。船医から緊急搬送の必要があると強く言われれば、警察側も通さざるを得ないでしょう。もちろん、最低限の確認はするでしょうが、病気なんてぱっと見で嘘か本当かなんて見分けられるもんでもないし」
「ええ――」苦虫を噛みつぶすような顔で奥田は認めた。「確かに、そういう事情を持ち出されたら、緊急ということで出さざるを得ませんね。まさか、船医が共犯だなんて誰も思いません。我々は……」悄然とした声が続ける。「最初から、後手に回らざるを得ないゲームに巻き込まれていたんですね……」
「その認識は正しいと思いますね」高階は少し声に同情の色を混ぜた。「兵藤の目的は遊びだ。自分で状況を設定し、バランスを調整し、ギリギリのスリルを楽しんでる。いわばトリックスターだ。妻との確執。愛人関係。金。笠置やその愛人の分かりやすい動機とは毛色があまりに違う、明らかに異質な存在です」
「あの、先生」佐伯が口を開いた。「そうなると、笠置光太郎氏を殺したのは誰ですか?」
「ん――?」
「彼を殺す動機は誰も持ってませんよね。愛人は、翔子夫人の遺産を継いだ彼と結婚することではじめて二十億という金に手が届くわけで。その前に笠置氏に死なれては、計画が破綻します。さっきも話にありましたけど、この場合、笠置さんの実の姉に相続権がいくわけですよね? なら、金目当てであった彼女が彼を殺すわけがない」
「確かにその通りだ」と奥田。「となると、自殺か兵藤かということになりますね」
 警視だけでなく、そして後ろにいるメモ係までもがこのテーマには関心をもったようであった。全員がはかったように高階に視線を集めてくる。
「残念ながら、笠置を殺したのは愛人だと思うよ」
「えっ」佐伯が目を見開いた。
「もちろん、兵藤がそそのかした可能性も高いけどね。でも、実行犯は愛人であると考えた方が収まりが良いんだ」
「どういうことですか」佐伯が訊ねる。
「これは、私も矢慧も最後まで悩んだ部分なんだけど」前置きし、高階は続けた。「船酔いの女=笠置の愛人の図式に当てはめると都合が良いってのは、そもそもここの辻褄《つじつま》合わせから来てるんだ。佐伯君、私が一度だけ大浴場に行ったことは覚えてるよね?」
「もちろん」彼はすぐに答えた。
「いつ頃だったとか、状況は記憶してる?」
「夫人の死体を発見して、笠置さんを我々の部屋まで運び込んで……その後でしたっけ。〈マニッシュバーズ〉のメンバー達が汗を流しに大浴場に集まってるかもしれないから、ちょっと覗いてくるとか言ってさっさと飛び出していきましたよね」
「そう。残念ながら一糸まとわぬ隊士のキャッキャウフフな入浴シーンは拝めなかったわけだが」
「実にどうでも良い話のように思えるんですけど」
「いやいや、あの時に風呂に行ってないと、私たちは真相には辿り着けなかったんだよ?」
「どういうことですか、先生」奥田が痺れを切らしたように言った。
「その浴場でですね、私は船酔いの娘とすれ違ったんです。彼女はしばらく湯に浸かった後のようで、もう出口に向かおうとしていました」
「つまり、例の笠置の愛人ですね?」警視が念を押す。
「そう。今思えば、あれは死体の演技のために冷し続けてた身体をあたため直しに来てたのかもしれない。でも、その時はそんなこと思いもしなかった。ただ、服を脱いだ彼女の姿を見てこう思ったんですよ。この人、どこに子供を預けて来たんだろう?――ってね」
「子ど、も……」
 呻くように言った後、奥田の目がみるみる見開かれていった。
 その事実から導き出される結論に辿り着いたのだ。
「さすがに初対面で訊くことじゃないから、単に船酔いの経過を軽く確認するだけのやりとりで別れましたけどね」高梨は続けた。「でも、彼女に出産の経験があることは分かった。それも、結構最近だ。帝王切開の手術痕があったのでね。湯上がりの上気した条件もあって、素人でも分かるくらいクッキリしてた」
 彼女の遺体は既に警察が回収したはずだ。司法解剖に回されるだろう。そこで、出産経験の有無は確認されるはずであった。
「子供というと、まさか、つまり」奥田警視が動揺も露わに口を開く。
「状況を考えると、笠置との子なのだと想定すべきでしょう」
「じゃあ、笠置さんが亡くなった場合は……」
 遅ればせながら、ここに到ってようやく佐伯も解答に辿り着いたらしい。
 その言葉尻が微かに震える。
「そう。法律上は、その子が笠置祥子の遺産相続人になるはずだ」
「……いや、ちょっと待って下さい。それ、おかしくないですか?」
 佐伯は目眩でも振り払おうかというように、かぶりを振り振り言う。
「なにがおかしいのさ」
「笠置氏はその子の存在を知ってたんですか? 仮に知ってたとして、認知なんてできなかったですよね? そんなことしたら一発で不義が発覚して、笠置家からどんな目に遭わされるか。離縁放逐は当然として、それ以上の報復を受けるかもしれません。そんなことになれば、今回の計画だってパァですよ。離婚が成立すれば翔子夫人とは赤の他人。当然、遺産の相続権なんてなくなるわけで。逆に多額の慰謝料を請求されて……そうしたら愛人を囲うどころじゃない。若い恋人にも逃げられて、全てを失うじゃないですか」
「うん。だから認知はしてなかっただろうね。まあ、これは後で役所の記録見ればはっきりすることだ。佐伯君が示唆するように、子供の存在自体を愛人から知らされていなかった可能性もある」
 これは、愛人がどこで暮らしていたかにもよるだろう。笠置とはいわゆる遠距離の付き合いで、彼が出張か何かで近くに来たときだけ会っていた――などというスタイルであったなら、半年くらいのご無沙汰が続いてもおかしくはない。それだけの空白があれば、女は気付かれずに出産を終えることができる。
「じゃあ、やっぱり無理でしょう。認知してないのに笠置氏が死んだんじゃ、父親なしってことで記録が確定してしまいますよ。翔子夫人の遺産相続権なんて主張すらできない」
「いや、できるはずです」
 奥田が険しい表情で言った。
「死後認知というシステムがあるんです。結婚していないカップルの間に子が生まれて、その父親が認知する前に死亡してしまった場合……三年以内だっかな? とにかく、一定の期間内なら子と実父との法的な親子関係を認めて貰える仕組です。今はDNA検査がありますから、キッチリ白黒つくんですよ」
 一瞬、佐伯は声を詰まらせた。
 喉をさするような、あるいは痞《つか》えた言葉を指で押し出そうかというような仕草を見せたあと、ようやく言った。
「じゃあ……その死後認知を使って、愛人の女は我が子に笠置夫人の遺産二十億を丸々継がせるつもりで……そういうことですか」
「そう。多分、それが愛人のシナリオであったと思われる」高階は脚を組みかえ、続ける。「笠置が妻を殺して二十億ゲットっていう計画を企てたとき、愛人と兵藤はそれぞれプラスアルファの要素を持たせた別のシナリオを用意して相乗りした。基本路線だけ共有して、三人は別々のプランを持ち寄っていた。そして他の二人を上手く利用して自分だけが利益を独占する腹づもりだった。これが、この事件の大まかな相関図だ」
「愛人は最初から光太郎を切り捨てる気だったんですか」血の通わないその思考には、さしもの奥田も衝撃を受けたようだった。「結婚など端から真剣に考えていなかった? 子供を使って、二十億を丸々自分だけで独占しようと?」
「そういう風に考えてみた上で、共犯の女ポジションに船酔いの娘を押し込むと、一応のところ理屈に合った画《え》にはなるなぁ……程度に考えてたんですけどね。どうやら本当にその通りになりつつある」
「しかし、その愛人すら死体で見つかっているわけですが」
 そう問う奥田の額には汗が滲んでいた。
「それが、兵藤が持ち込んだシナリオですね。言葉巧みに色んな人間を誘い込み、ロケーションを整え、完璧にお膳立てした上で殺人パーティを開催。最後は参加者のことごとくを死体にして、自分だけ逃げ切る。笠置を利用して巨額の遺産を手に入れようとした愛人を更に利用して自分の娯楽に使ったのが、あの船医ってことです」
「そんな動機があるんですか……? 単なる劇場型犯罪とは少し違う気もしますが」
「奴の場合、一般でいうところの倫理観が破綻してる。その本性を明らかにしたとき、多くの人間の目には、何らかの精神障害に見えるだろう。それくらいブッ飛んだ行動原理の持ち主だと認識しておいた方が良い」
 命綱なして岸壁をよじ登るパフォーマンスをする者。ビルとビルの間で行う綱渡りの芸を動画で公開する者。そうした連中と似たようなものだ。
「奴らはネジが一本飛んじゃってるんだ。イカレてる。まともじゃない。顔をしかめて皆からそう言われるサイドの人間だね。なんであんなことをするんだ、なんて考えるだけ無駄ですよ」
 警視は右手ですっかり目元を覆ってしまった。顔面を鷲掴みにし、自らを苛んでいるようにも見える。そのままの体勢で、彼は深く息を吐いた。
「結局、今回の事件の経緯というのはどういったものだったんでしょうか」
「まとめが済んだら、我々を解放すると約束するなら総括しましょう」
 奥田がまた嘆息した。しばらく黙考した後、疲労の滲む声で言った。
「明日、改めてお話しをうかがうことができるなら……今日のところはお帰りいただいて構いません。なんでしたら、都内にホテルを用意します。そちらで一泊してもらっても」
「そういうことなら」
 高階は唇の端を吊り上げるように笑んだ。
「――今回の事件の経緯はこうです」帰宅のためにさっさと始めた。「まず、端緒の端緒。これは笠置光太郎と兵藤の再会でしょう。偶然の再会です。これをきっかけにふたりは親交を温め直し、互いの近況を報告し合ううちに、やがて笠置祥子の殺害を思い至るようになった。二十億という金に目がくらんだ笠置の愛人も、この犯罪に共犯者として加わることになった。
 舞台となる客船に翔子をおびき寄せる仕事は、兵藤が受け持った。笠置の不倫をダシにしたのではないかと私は想像しましたが、本当のところは分かりません。とにかく、翔子は来た。この時点で三人は計画の成功をほとんど確信したでしょう。実際、もっとも難しかったのはこの部分だった。翔子が話に乗ってこなかったら、計画自体がそこで御破算《ごわさん》ですからね」
「逆に言うと、船に来てしまったばかりに翔子は殺されてしまったということですね。しかも、出航前に」奥田が複雑そうな表情でつぶやく。「結局、先生は誰がやったとお考えなんですか?」
「本当に分からないんですよ」高階は文字どおりお手上げのポーズをとった。「ただ、兵藤がからんだ可能性は高いと思いますね。奴は協力者として名乗りを上げ、積極的に計画の立案にからみ、お膳立てを整えたわけですが、それでも部外者だ。笠置や愛人からすれば、なんでコイツ他人の殺人計画にこうまでノリノリで首ツッコンでくるんだ? 信用して良いのか? って話になりますからね」
「確かに……彼には、少なくとも客観的に納得できるような共謀の動機が何もない」
「だから、実際の殺人にもある程度関与してですね、さっさと共犯者として罪を被って見せることで他ふたりの信頼を勝ち取ろうとした可能性が考えられるわけです」
「本当にそう考えて実行犯役を買って出たのだとしたら……奴は正気ではないですな」
「そう言ったでしょう? 奴はマトモじゃない」高階は薄く微笑み返す。「ただ、兵藤にはこの後、フィリピン人船員を呼出して毒殺するという仕事もあった。既に説明しましたが、船員を自然な形で呼び出せる立場にあるのは船医の兵藤のみ。やはり、これは奴が受け持ったとするのが無難だ。となれば、実行犯として手を汚すのはこのタイミングでも悪くはない。だから、翔子の殺人にどれだけ手を出したかは本当に未知数です」
 もちろん、最大の精神的ハードルは誰にとっても最初の殺人だったはずだ。この「翔子殺し」でたたらを踏まぬよう、兵藤は早い時期から笠置たちからの信用を欲していた――と考えることもできる。「俺はあとでフィリピン人船員を殺《や》るって約束するからさ、お前ら先に翔子の方を片付けちゃってよ」では、笠置たちも納得しなかったかもしれない。ならば、やはり最初の殺人でも実行犯に名を連ねたかもしれない。
「先生のお話しをうかがっていると、フィリピン人は結局、兵藤が殺人仲間たちの信用を得るために行ったデモンストレーションの犠牲者というようにも受け取れますが。本当にそんなことのためだけに殺されたと?」
「いや、あれには色んな意味があったと思います。警視が今言ったように、『俺も本気でこの計画に乗ってるんだ』という意思表示の意味合いもあったでしょう。ただ他にも、船内で謎の伝染病が発生したことを船客たちにアピールする重要な役割もあったはずです。と言うか、むしろこっちがメインでしょうね」
 フィリピン人船員の死後、今度は愛人扮する偽翔子が同じ病気で死んだことになるわけだが――
 状況的に、その発見者や目撃者は数人に絞らざるを得ない上、感染例がこの一つしかないとなると、どうにもインパクトに欠けてしまう。伝染病の流行を船内全体に印象づけるためには、より多くの症例を、より多くの人間に見せつける必要があったのだ。
「昔、サイコパスとかいう概念が流行りましたけど、連中の多くは人間を殺す前に動物の虐待を経ていたことが分かっています。それがなくとも、兵藤の性格からして、奴は事前に動物を使って毒の効き目を実験したと私は考えているんですが――一方で、人間で試した経験まではさすがになかったと思うんですよ」
「心からそう願いますよ」奥田が真顔で言う。
「だから、フィリピン人で効き目を確認したかった、というのもあるでしょうね。そもそも奴が一連の殺人に進んで協力したのは、自分が作った毒の効き目を人間を使って試したいという子供じみた欲求によるところも大きかったはずです」
「力を持てば、それを試したくなる……」
「警察組織でも数年に一度くらいの頻度で排出してますよね」高階はにやりとして岡田の方を見やった。「撃ってみたかった――とか言って、支給品の回転式拳銃《リボルバー》ぶっ放してニュースになっちゃう制服の坊や」
「警察官の制服に腕を通す以上、あってはならないことですが……確かに人は力の誘惑に屈することのある生き物です」
「その誘惑に抵抗なしで乗っちゃう人間が兵藤ってことです。その反面、奴は計算高く行動できる人間でもある」
 奥田が首肯する。
「反社会性の強い犯罪者には、そういった二面性が良く見られるものです」
「その冷徹な部分で、兵藤はこう考えました。フィリピン人船員の毒殺は上手くいった。出血斑も計算通り出たし、それを乗客達にばっちり見せつけることもできた。問題があるとすれば、なにやら医療関係者らしい人間が出てきた件だろう。しかもそいつは、死んだ船員を診て感染症ではなく中毒を疑っていた。こりゃあ、愛人にやらせる予定の死んだ演技は相当気合い入れないとマズイかもしれない」
 その結果、彼は対医療関係者用の特殊オプションの適用を決心した。
 愛人に足を冷すよう指示し、乗務員にそれを触らせた。結果、それが間違いなく死体であることを印象づけた。その一方、感染症のリスクを否定できないと宣言し、ベッドに横たわる偽死体に近寄ることを許さなかった。状況だけ提示しつつ、情報は与えない。そんな演出を選んだ。
「兵藤は、応援のチーフパーサーと一緒に、担架に乗せた偽死体を診療室に運び込みました。そして死後処置をするからと、チーフパーサーを追い出してひとりになった。いや、これは正確じゃないかな? 死体役が一緒だし、この時点で、診療室には出航前に殺しておいた笠置祥子の死体が運び込まれていたはずだから」
「ここで、入れ替えが起こったわけですね?」
 奥田の言葉に、高階はうなずく。
「そう。そして偽の死体役を演じていた愛人は、メイキャップを落として501号質の竹中夏梨になった」
 竹中夏梨を名乗り501号室にチェックインした笠置祥子。
 笠置祥子を名乗り601号質にチェックインした愛人。
 この関係が、部屋と名前を交換することで「601号にチェックインした笠置祥子本人」と、「501号室にチェックインした竹中夏梨こと愛人」という関係になったのだ。翔子に関しては、これで完全に名前と立場が本来のものに戻ったことになる。死体になって、という注釈付だが。
「翔子の変装を解き、何食わぬ顔で診療室から出た愛人は、冷えた身体を温めるために大浴場に行った。彼女は胸を張って堂々としてたでしょうね。船酔いっていう設定があるから、仮に診療室から出てきた所を誰かに見られても不審に思われる心配はない。客として大浴場を利用することにも何ら不自然がない。身体を温めるなら、501号室に帰ってシャワーを浴びても良かった。でも、広い湯船につかってみたかったんでしょう。せっかく豪華客船に乗ったんだしってことでね」
「精神的に余裕があったからこそ、いけしゃあしゃあと大浴場に顔を出せた、と」
 岡田が歯ぎしりしそうな調子で唸る。
「びくついてる犯罪者はコソコソ隠れて人目を避けるもんでしょ。でも、彼女は死体役を見事にやり遂げて、むしろ達成感に近いものすらあったかも。まだ笠置の始末が残っているとはいえ、最大の難関は切り抜けたと言えるし。頭は早くも二十億の使い道でいっぱいだったとも考えられる」
 その後、笠置と兵藤は霊安室に、高階と佐伯を呼び寄せ翔子の死体を披露した。
 この時、高階が確認した遺体には、出血斑らしきものが微かに見て取れた。
 だが、死後処置のメイクにより薄らとしたものになっており、それが本物の斑点を目立たなくしたものなのか、目立たない斑点にしか見えないメイクなのかは判別できていない。
「その後ですね」高階は続けた。「部屋に戻った笠置を愛人が訪れた。あるいは船医も一緒だったか、時間差を置いて合流したのか――。とにかく、部屋の中で三人揃ったと私は考えています。笠置は当然のようにドアを開けて、彼らを招き入れたことでしょう。今後の予定について少し話し合っておきたい。そんなセリフで訪ねて来られたら普通に受け入れてしまうでしょう」
「と言うことは、愛人が子供の死後認知を使った遺産独占を企てていることを、兵藤は最初から知っていたわけですね?」
「多分ね。だって、愛人は笠置の殺害にスタンガンや例の毒を使ってるでしょう。目を盗んで失敬したとも考えられますが、それに気付かないほど兵藤は間抜けですかね? 奴の用心深さと知能を考えると――まあ、ちょっとあり得ない。だとしたら、兵藤が計画を知った上で供与したと考えるべきでしょう。いや、もっと突っ込んで、愛人に遺産独占をそそのかしたのも兵藤くらいに見ておくべきかもしれませんよ。私は、愛人に死後認知のことを教えたのも兵藤だと思ってるくらいですよ」
 奥田が黙り込む。まさに絶句という様子であった。
 高階は言葉をついだ。
「笠置殺害については、一番に現場検証できたから私にも状況のシミュレートがしやすい。まず、無警戒の笠置の背後からスタンガンで一撃。ドラマや映画の描写と違って、スタンガンは強力な奴でも気絶することは稀です。普通は痛くて動けなくなるだけ。笠置も同様で、何が起こったのか理解が付かないままその場に膝をついた。瞬間、その後頭部を木材で一撃。傷を負って夥《おびただ》しい出血に見舞われます。――しかし、これは致命傷じゃない。まあ、昏倒するには十分だったでしょうが」
「俺たちが見つけた時、笠置さんはベッドに縛り付けられてましたよね」
 その時の光景を思い出したのか、顔をしかめながら佐伯が指摘する。
「そう。これは女の細腕じゃちょっと難しい」
「冷蔵庫ひとりで持ち上げちゃう矢慧ちゃんみたいな存在が、女性はおろか人類の小数派であることは分かります」
「意識失った人体ってのは、それでなくても重いんだよ。単に寝てるだけなら脳のオートバランサー機能が生きてるから無意識に協力してくれるけどね。昏倒してるとその機能が働かないから、とにかくバランスが散《バラ》けて大変なんだ。救急救助用のマニュアルでも人間ひとりを運ぶのに男手が四人から六人いる計算になってる」
「しかし、船医が絡んでいたなら担架を用意していたかも知れませんよ」と奥田。
 確かにその可能性はある。だが、そんな物を持ち込もうとしたら、今度は笠置に警戒されてしまうリスクが生じる。スタンガンくらいなら懐に隠せるが、担架はそうもいかないのだ。
「まあなんにせよ、倒れた笠置をベッドに運ぶのには兵藤の手助けが必要だったでしょう。彼が愛人と一緒に笠置の部屋を訪れていたのでは、という根拠はここです。それに、奴は笠置が自分の毒で死んでいくのならその様子を観察したかったはず。やはり現場にいたと考えた方がしっくりくるんです」
「笠置光太郎は死体となって見つかった時、四肢をそれぞれベッド四隅の脚にロープで固定されていたと聞いていますが?」と奥田。
「あれはなんででしょうね?」高階は首を傾げて応じた。「目を覚まして暴れられるのを避けたかったのか、何か演出的な意味合いがあったのか。その両方を兼ねていたのかも。正確なところは私にも分かりませんね。ただ、分からないなりに放置しておいても、大筋に影響はしない部分ですよ」
 肝心なのはその次だ。
 愛人と兵藤は、ベッドに縛り付けた笠置に毒を注入。殺害した。
「この時点で、兵藤は愛人を部屋から出したんじゃないかと想像します。夜中のうちに自分の船室《キャビン》に戻った方が良い。時間が経って朝が近付くと、部屋から出ようとしたところを誰かに目撃されるリスクが増大する。そんな感じの理由を持ち出して説得したのかもしれない。後始末は自分がやっておく。船医の自分なら、誰かに見られても、妻が殺されたショックで眠れないという笠置に睡眠導入剤を処方したとか、そういう言い訳で逃げられる。安心して任せろ――みたいに言えば、まあ愛人を納得させることはできるでしょう。愛人自身、あんまり指紋とか足跡とかうかつに残したくないから、長居自体はしたくなかったはずです」
 死体と凶器は海洋投棄する予定であるため、証拠は一切残らない。
 事前の予定通り、笠置は「部屋に籠もって誰にも会わない」と複数の人間に宣言して回ったはずだ。そんな人間が忽然と消えるのである。最終的には、妻を亡くした心痛に耐えきれず海に身を投げたと判断されるだろう。君は完全犯罪で二十億を手に入れることになる。
 船医は、そんな嘘で愛人を安心させたことだろう。
「そうか」佐伯が自分の膝をぱんと打つ。「その場合、感染症で死んだとかじゃないから、他の二例の現場と違って、室内の徹底消毒とかは行われませんからね。指紋なんかは残ってしまう」
「そう。基本的にあり得ないけど、もし海保なんかが踏み込んできて徹底捜査とかいうことになった場合、その指紋が検出されて面倒なことになるかもしれない。だから愛人は、ちょっとは慎重になってたと思うんだよ。部屋を訪れてから、ほとんど何にも触らないようにしてたんじゃないかな」
「ところが、後の処理を任せたはずの兵藤は、話と違って遺体も凶器も捨てなかった」
 奥田がやや俯き加減で独り言のようにつぶやく。
 顔を上げて高階を見た。「何故です?」
「まあ、面白くするためでしょうね」高階は肩をすくめた。「笠置の死体や諸々の証拠品まで処分してしまうと、あまりにも簡単に完全犯罪のルートに入り込めてしまうので盛り上がらない。相手側には事件の真実に到達できるだけの材料を残しておかないと、ゲームとしてフェアではない。勝敗の見えない際どい勝負を楽しめない。そう思ったのかもしれない。繰り返すようですが、やつはトリックスターを気取ってゲームをやっていたんです」
 かくして、高階が佐伯と発見したあの殺害現場はできあがった。
 明らかに殺害されたのだと知れる血塗《ちぬ》られた遺体。これ見よがしに散乱する凶器。それらを始末できたはずの犯人が、敢えて証拠を残していったという謎。
「兵藤はわくわくしながら朝を待ったんじゃないかな」
「それを信じるなら、奴は掛け値なしの怪物《モンスター》ですよ」
 人喰い熊の話題を口にする狩人《マタギ》の顔で、奥田がつぶやく。
「そのモンスターの手によって、朝を待つことを許されなかったのが愛人だ。彼女は、殺害現場の後始末は完璧に済んだ、という報告をしにきた兵藤を笑顔で部屋に招き入れ、結果、毒殺された。兵藤が最初から計画していた通りに」
「当初の計画通りというのは、今回の逃亡パターンも含めですか?」低い声で奥田が訊いた。「つまり、検死解剖に立ち会いたい等という理由をつけて、搬出される遺体と一緒に船を離脱。そのまま行方をくらますというのも」
「幾つか用意してあったシナリオの一つであったと思いますね」
 それを聞き終えるや、奥田はにわかに全身を弛緩させた。椅子に深くもたれかかる。隣の部屋まで届きそうな、盛大な溜め息が漏れた。随分、長いこと続いた。それが途切れた時、彼は抜け殻のように悄然《しょうぜん》とした姿になっていた。一週間で四時間しか寝ていない締め切り前の同業者を見るようだった。――見たことはないが。
「いっそ、全て先生の勘違いであればとすら思いますよ」
 視線を誰からも外したまま、警視は言った。
「それはそれで手間が増えると思いますけどね」
 高梨は新しいコーラの缶を開けた。一口含んで続ける。
「まあ、今言ったことは幾つか裏を取れば事実関係がはっきりすることです。501号室に置いてある荷物から指紋を採って、本物の笠置祥子の指紋と照合してみるとか。合致すれば、501号室に竹中夏梨名義で乗船していたのが彼女であると証明される。それから、さっき死体で見つかった女の身元照会。そもそも彼女は誰なのか。501号室で見つかったんだから普通に考えれば竹中夏梨のはずですが――」
「先生の想像が正しければ、竹中夏梨は名前だけ使われた全く無関係の――」奥田警視が顔を上げて言った。「この船に乗ってすらいない単なるOLなんでしたね」
「それはさっき、部下を確認に走らせてたから、そう時間をおかずに明らかになるでしょう。もし、竹中夏梨が本当にピンピンした姿で自宅あたりにいたとしたら、じゃあ見つかった死体は誰なんだって話になる。この辺を辿っていけば、私の話がどこまで真実に近いものだったかは大体分かってくるはずです。警察、そういうのは得意でしょ?」
「地道な捜査というのは、今も昔も変わらず力を入れている部分です」
「なら、私から助言できることはもう幾らもないですね。ひとつ言っておくとすると――」
「なにかありますか」両膝に手を置き、奥田はぐいと身を乗り出す。
「兵藤のことなんですが、奴は答え合わせ用の模範解答を何かしらの形で残している可能性があると思います。職場のロッカー的な物があるならそこや自宅を捜索するなり、この船の診療室ややつの私室なんかを漁ってみることをお勧めしたいですね。私なら優先的にそれをやります」
「答え合わせ用というと、犯行計画をまとめたメモのような?」
「さあ、形式《フォーマット》までは分かりませんけど。なんか日記的なものをコンピュータ上に残していたり、おっしゃったような計画書が分かりやすく置いてある可能性もあります。もしかすると警視庁やメディアに自分名義で声明文を送っているかもしれない。日付指定してね。それか、宛先不明で自宅にわざと戻ってくるように取りはからった宅配便とかかも。まだ、そういうのが存在すると決まったわけじゃないですけどね。兵藤の性格と劇場型っぽい事件の展開のさせ方なんかを併せて考えると、そういう茶目っ気を見せてくることは充分に考えられると思うなあ」
 聞くうち、弛緩気味であった奥田の身体にみるみる芯が入っていった。
 目つきにも鋭さが蘇っている。
「高階先生」彼は立ち上がり、素早く――だがそれなりに慇懃に――頭を下げた。「この度は貴重なお話しとご意見をお聞かせいただき誠にありがとうございました。お約束通り、今日の所は佐伯さん共々これでお帰りいただいて構いません。その前に、幾つかの書類に署名捺印をしてもらわなくてはいけませんが――」
「了解、了解」高階も笑顔で立ち上がる。
「先程、ご指摘いただいた点については明日までに大部分が明らかになっていると思います。つきましては予めお約束いただいていた通り、改めてお話しをうかがいたいのですが」
「情報が出そろった上で、今の話を再検証したいってことでしょ。午後で良ければ、協力はしますよ。なんだったら本庁に出向いても良い」
 高階が言うと、奥田はそれで構わないとにこやかに答えた。それから当局側の規則にのっとった事務手続きを経て、晴れて高階と佐伯は放免となる。
「そんじゃ、部屋に帰ってチェックアウトして良いんですね?」
 高階は伸びをしながら訊いた。
「はい。お疲れさまでした」
 奥田とそろって、メモ係に終始していた刑事も頭を下げてくる。
 さっさと出口に向かう高階とは裏腹に、
「では、我々はこれで」
 と、背後では佐伯が馬鹿丁寧な挨拶を交わしている。
「あ、いかん」
 ノブに手をかけた時、背後で奥田が小さく叫ぶのが聞こえた。ばたばたと足音が近付いてくる。何事かと佐伯とそろって振り返った。
「高階先生! あの、息子のためにお願いしていたイラスト入り色紙の件ですが――」
「ああ……そのことなら、まず家に電話されるべきですね」高階はにやりとして言った。「どのキャラクターを描くべきか本人に希望を聞いたら、私の事務所に電話を。留守電になってますからメッセージとして入れておいてもらえれば、オーダーに沿うよう都合しますよ」
 次の瞬間、礼の言葉と一緒に奥田が見せた今日一番のお辞儀を横目に、高階は今度こそ部屋をあとにした。


   19

 速度計の時刻表示は、十九時を少し過ぎたところだった。
 見上げると、公営住宅の最上階はどの部屋の住人も在宅らしい。カーテン越しに、あるいは窓から直接、照明の光が漏れ出している。煮物の類だろうか。地上近くの部屋から醤油ベースの香ばしい匂いが漂いだしていた。今日一日の運動強度は、おそらく二千キロカロリーを超えている。高階はにわかに空腹を覚えはじめた。
 前後のライトを切る。脱いだヘルメットは内寄りに付けたエンドバーにぶら下げた。グローブもはずし、ポケットに入れた。最後に車体を担ぎ上げ、サドル先端を右肩に引っかけた。こうするとほとんど手を使わず楽に自転車を運搬できる。安定性もなんら問題ない。
 人がいないのを確認して、一気に四階まであがった。
「お帰りなさい。本当に自転車で行ったのね」
 チャイムを押してすぐ、梅原|小音子《ことこ》がドアを開けて言った。
 その腕には、母親に良く似た大きな瞳を持つ天使が抱かれている。
 彼女は高階の顔を覚えていたらしく、意味不明な声をあげながら手足をばたつかせた。
 その声と仕草の愛らしさたるや到底、筆舌に尽くせるものではなかった。試みようとすること自体が冒涜的ですらある。問答無用で人を満面の笑み変える奇跡だった。
「千佑《ちゆ》たん! あいかわらず可愛いなあ。ああ、今すぐ抱っこしないと。ちょっと待っててね。今すぐ、この邪魔な自転車投げ捨てるから」
「ちょっと、ちょっと。落ち着いて」
 小音子が泡食って片手を伸ばしてくる。
「高価な物なんでしょ。それに四階から投げたりしたら危ないじゃない」
「千佑たんの愛らしさと比べたらこんな物ゴミだ。塵だ。ダストだ」
「良いから、まずそれを中に入れて。千佑の教育上良くありませんから、幾ら恩人でも物を粗末にする人はうちにはあげられません」
「……確かに。千佑たんに悪いことを教えてはいけない」
 高階は深く納得して、大人しく愛用のフラットバーロードを降ろした。もともと家族用の間取りなので、安い公営住宅でも玄関はそこそこ広い。場所には困らなかった。
「本当に一時間半もかからないのね。東京まで行ったんでしょ。どのくらい距離があるものなの?」
「そうだねえ」高階はサイクルコンピュータ等と称される速度計を操作した。走行に関する様々なデータが記録されているため、これを見れば全て分かる。「今日は、往復で大体百キロちょいだね」
「そんな距離を自転車で行けるものなの?」
「片道五十キロはそう長い距離ではないね。ただ、都心はちょっとストレスだった。なにせ信号が多い」高階は渡された天使を抱き締めながら言う。「船の中にいた間、全然身体動かしてなかったから今日は自転車使ったけど、まあ普通に考えれば片道五十キロの移動に三時間もかけるのは馬鹿げてるね。電車や自度二輪を使うべきだ」
「お話しの方はどんな感じだったの?」
 彼女が先に立って居間に入っていく。高階も千佑を抱いたまま後に続いた。
 いつもならソファに直行するところだが、今日は背中が汗で濡れている。
「うーん。長くなるから、それはシャワー浴びたあと話すよ」
「そう。お腹はすているよね。当然?」
「千佑たんを丸呑みできるくらいはね」
「じゃ、あがったらすぐに夕食にする?」
「可能ならそれが良いな」
 小音子は笑顔で了承の旨を告げ、客のために着替えを持ってきた。時に泊まり込むこともあるため、高階は来る度に様々な私物をこの家に持ち込んでいる。下着の類も、既に一週間分にはなっているはずだった。
 千佑を一緒に入れるべきか訊ねたが、彼女は既に入浴を済ませたらしい。
 後ろ髪引かれる思いで天使を手放し、高階はひとりでバスルームに向かった。
 高階がかつての級友であるところの梅原小音子と再会したのは、やはり佐伯の話が切っかけであった。妊娠を境に佐伯の兄に捨てられた――という例の顛末だ。
 正直、その物語自体には何ら関心を引かれてはいない。が、赤ん坊は見てみたかった。なにせ、これまでほとんど接点を持たずにきた生物である。そう思うと行動は早かった。佐伯からそれとなく現住所の手がかりを聞き出し、居所をつきとめたのである。
「――じゃあ、大筋であなたの予測は的中してたんじゃない」
 サラダボウルから高階の分を盛り分けつつ、小音子が言った。
「まあ、人物の配置部分はね。はい、千佑たん。ミルクだよん」
 高階は腕に抱いた千佑に、ほ乳瓶を近づける。
 天使はひな鳥のように大きく口を開いてそれを受け入れた。
 それから、驚くべき吸引力でミルクを吸い上げていく。
「ほ乳瓶もあと一年くらいの命かね?」
 うっとりと目を細めながら高階はつぶやいた。
「そうね。一歳から一歳半くらいになると、離乳食になるみたい」
「その頃になると、もう動き回って言語によるコミュニケーションも可能になるんだっけ」
「うん。話せるようになるのは本当に楽しみ。でも、動き回るようになると危険も増えるから、本当に全く違う新しいステージに突入ね」
「喋るようになったら、私のことをなんて呼ばせるか考えとかないと」
 くすくすとひとしきり笑ったあと、小音子は思い出したように言った。
「子どもと言えば、あなたの考えが当たってたなら愛人の女性も実在したのよね?」
「ああ、うん。警察が思いのほか優秀でね。もう身元が割れたんだよ」
 錦織《にしこおり》柚《ゆず》。それが彼女の名前であった。
 名古屋に住まう――驚くべきか――県庁勤務の公務員。二十四歳。
 今のところ、笠置光太郎との付き合いは少なくとも二年前には始まっていたとの見方が濃厚だ。あがってきた様々な状況証拠がそれを示唆しているらしい。
 錦織柚の存在は、その笠置経由で白日の下にさらされることになった。光太郎のクレジットカードの履歴から、プリペイド式携帯電話の利用実態がつきとめられたのだ。通話履歴を調べたところ、これがビンゴ。笠置は名古屋の何者かと頻繁に連絡を取っていた。連絡先はその一件のみ。すなわち、愛人である錦織柚との専用端末として使われていたのである。そこまで分かれば、錦織の元へ到達するまで時間は必要なかった。
「錦織の子供はまだ保護されてないけど、どうもネット経由でベビィシッターを斡旋するサーヴィスを利用してたらしくてね」
「そんなのあるんだ」
「なんと言ってもネットだから、なかなか信頼できる預け先を見極めるのは難しいらしいけどね。とにかく、他人に旅行中の赤ん坊の世話を任せていたらしいことは分かってる。今日中に見つけられるだろうって話だったから、もう出てきたかもしれないな」
「やっぱり赤ちゃん産んでたんだ」
 自分と境遇に共通点があるためか、小音子の声のトーンが微妙に変化する。
「それは確実っぽいね」高階は、千佑のよだれを拭いてやりながら答えた。「資料漁ったら、名古屋市内の病院で入院出産した記録が出てきたってさ。まあ、帝王切開の手術痕があったわけだから、そういう経緯があったことは最初から確実視はされてたんだけどさ」
「あなたが大浴場で見たって言う、あれね」
「加えて錦織の自宅から検出された指紋と、501号室で見つかった死体の指紋も一致した。アルバムから出てきたっていう写真も見せて貰ったけど、確かに同一人物だったね。もう、竹中夏梨=愛人=錦織柚ってのは捜査本部じゃ確定事項になってるよ」
「でも、どうしてその人、恋人を殺してまでお金が必要だったんだろう」
 小音子にとっては単に素朴な疑問なのだろう。演技抜きで不思議そうな顔をしている。
 佐伯を通した――事実上は高階による――援助があるとは言え、小音子も決して経済的に楽な生活とは言えない。子が育つにつれその傾向はより顕著になっていくだろう。蓄えなどどれほどあるものか。将来に不安を抱くこともあるはずだ。
「金では幸せにはなれない――?」高階は微笑んで訊いた。
「不幸にならないためには絶対に必要なものだと思う。でも、幸福そのものの保証ではない気がするんだけど。違うかなあ? だって、二十億円積まれたって殺すのなんて絶対嫌だっていう人がいた方が境遇的には幸せじゃない」
「なるほど」
 囁き、高階はうつらうつらしだした千佑の柔らかな髪を撫でた。
 確かに小音子は、二十億手に入るとしてもこの子を手放したりはしないだろう。
 もし、二十億のために人を殺めることがあるとすれば、そうしなければこの子を守れない時だけだろう。
「錦織はどうも金遣いが荒いタイプだったみたいだ。ちょっとした買物依存症らしくてね。県職員なんだからそれなりに稼いでたはずだけど、借金することもあったようだよ」
「それで付き合ってた人を殺して二十億?」
「キミが言ったように、不幸にならないために金は絶対に必要だ。なければちょっとしたケガや病気すら治せず、救える命も救えなくなるからね。最低限の生活を維持するためにはないと困る。問題はその最低限≠ニか不幸にならないため≠チて部分のとらえ方が人によって全然違うことなんだ。錦織は、幸せになるために――そして不幸にならないために、自分にとって二十億の金は必要不可欠だと信じたんだろう」
「実際、二十億円ってお金を目の前にしたら、誰か殺しちゃうって人多いのかな」
「とても多いと思うよ。でも、今この場では小数派だ」
「そうね」
「まあ、これで事件も一段落ってとこだよ」
「どうして? 犯人はまだ捕まってないんでしょう」
「それについては、もう警察の力じゃ無理だと思うんだよね。兵藤は犯罪者として日陰でこそこそってタイプじゃない。最初から、別人としてやっていくための準備をしてた可能性だって高い。今頃は違う名前でどうどうと街中歩いてても私は驚かないね」
 肥満《メタボリック》体型であったのも、いずれ平均体型に戻してイメージを変えるための布石であったとも考えられる。医療従事者としての知識も豊富だ。簡単な細工で、人相を大きく変える手法を熟知している。新しい戸籍を手に入れるためなら、次の殺人を起こして入れ替わりをはかることすら辞さない性格だ。当局は苦戦するだろう。
 小音子には伏せたが、兵藤は診療室に手記を残していた。
 警察に提供するために残した、事件の一部始終を記録した日誌である。
 それは大胆にも、診察室の机の上にページを開いた状態のまま置かれていたという。
 内容に関しては現在、奥田警視たちが目の色を変えて裏付け捜査を進めているが、事実と矛楯するような記述は出てきていない。犯罪計画についてかなり正確に叙述されたものであるようだ、というのが今のところ大筋で認められている。
「野放しとなると、色々怖いね」小音子が顔をしかめて言った。
「まあ、そのうちまた派手なことやらかしてニュースに出るかもね」
「あなた、その人殺しの船医にちょっと目を付けられてたんでしょう。危険はないの?」
「さあねえ……」
 だが、警察に幾つか情報を提供したことには勘づくかもしれない。
 高階が兵藤の立場なら、フィリピン人船員あたりに金を掴ませ、捜査の進捗状況を秘密裏に報せるよう命じるくらいのことはやる。もちろん、その船員が裏切って警察に情報を売ることも計算に入れなければならない。扱いとしては、いつでも切れる予備回線といったところだろう。
「まあ、考えても仕方ないことだよ。それに兵藤がこれまで手をかけてきた人間たちほど、私を殺すのは楽な仕事じゃない」
「そうね」軽く吹き出すように小音子が笑った。「殺しても死なないって、あなたみたいなタイプのことを言うんだと思う」
 それでしばらく会話が途切れた。もちろん、居心地の悪さなど微塵もなかった。
 大人ふたりで、小さな生物を眺めた。彼女は自分のランチプレートの中身を食べるか散乱させるかして空にしてからは、スプーンを握りしめたまま謎の旋律を口ずさんでいる。上機嫌であった。
「錦織さんだっけ。亡くなった女性の赤ちゃんが心配ね」
 同じ母親としてやはりそこは感情移入してしまうのだろう。小音子が眉根を寄せて言った。
「心配と言えば心配だけど、まあ何とかなるんじゃないかな」
「そう言えば、笠置夫人の遺産は結局どこにいくの?」
「今出てきた、錦織の赤ん坊に行く可能性が高いみたいだ。両親をいっぺんになくしたかわり、赤ん坊にして二十億円の資産を手にするってわけだ」
「その子はどうなっちゃうの? 施設に入れられたりするのかな」
「仮に施設に送られたとして、二十億とセットなら里親になりたいって奴らが行列作りそうだね。悪い大人に利用されなきゃ良いけど」
「ほら、やっぱりお金は幸せそのものじゃない。真理だったでしょ」
 したり顔で小音子が胸を反らす。
「まあ、笠置翔子も二十億なんて資産持ってなければ、普通に離婚するだけで済んだだろうしね。その意味で、彼女は金持ちだったけど幸せとは言いがたかった」
「黒幕だった船医の人は、殺人事件のせいで天涯孤独になっちゃった赤ちゃんにせめて遺産がいくようにって計算したんだと思う?」
 思わず高階は動きを止めた。
 笠置夫人、笠置、そして錦織。死んだ順序と遺産の流れを考えると、深読みのしようによってはそうした考え方もできる。
「確かに……その可能性は否定できないな」少し考えてから言った。「冷徹である一方、そういう変な演出を好みそうなやつだからね。実際、そういうオチの付け方をすると、計画を俯瞰した時、デザイン的に映えて見える。あり得るかもしれない」
 食後、泊まっていくよう勧められたが、高梨は固辞した。
 しばらくサボっていたこともあり、仕事が溜まっている。今日も結局、警察に一日くれてやったようなものだ。陸に戻ってきたからには、そうゆっくりともしていられなかった。
 起きているうちに帰ろうとすると、別れを惜しんで千佑が泣き叫ぶため、帰宅は彼女が寝付くのを待ってからにした。結局、自転車を担いで一階に降りた時には二十三時近くになっていた。
「遅くまで悪かったね」高階はヘルメットの顎紐を固定しながら言った。
「良いのよ。楽しかった」
「――佐伯君、次はいつ来るんだろう?」
「近いうちに寄るって言ってたから、数日中に一度顔を出してくれるんじゃないかな」
「分かってると思うけど、私がここに出入りしてることはしばらく内緒だよ」
「それは構わないけど……」
「佐伯君、なんだかんだ言ってまだ微妙な時期だからね」
 瞬間、小音子の顔から笑顔が消えた。
「恋愛なんて一対一の単純な話だと思ってだけど、私たちのしたことは色んな人に色んな迷惑をかけたんだね」
「キミは子どもを産んだだけだ。本当の悪者は妊娠した女を捨てるような男だよ。まあ、そんなのを選んで子まで作っちゃったキミにも責任がないわけじゃないけど」
「みっくんには本当に申し訳なくて」俯いた小音子が拳を握りしめる。「高校卒業するかしないかみたいな十代の男の子が、こんな話聞いたらショック受けるの当たり前だもん。何の関係もないのに、私は彼を傷つけてしまった。なのに、いつも私や千佑の心配してくれて」
「彼も彼なりに、自分の兄弟がしでかしちゃったことの影響と闘ってる。彼にとって、兄は自分の影みたいなものなんだ。それに引っぱられて自分まで影と同じような存在にならないか恐れてる。自分なりの受け止め方に到るまで、まだもう少し時間がかかるだろう。それまでは、やりたいようにやらせてやれば良い」
「うん――」少し湿り気を帯びた声が答えた。
「私が関わるとまたごちゃごちゃするからね。今は雑音に等しい情報は伏せておいた方が良い」
「そうね。分かった。色々、気を遣ってくれてありがとう」
「また、近々その天使を抱っこしにくるよ」
「うん。待ってる。お休みなさい」
 挨拶を返し、高階はハーフトゥクリップに爪先を入れた。
 ゆっくりとペダルを漕ぎだす。公営団地付近は入り組んでいる上、通学路でもあるため三十キロ規制だ。常にブレーキに手をかけて走る。
 幹線道路に入り、立て続けに二つの信号をパスした。
 ここからは約一キロ以上ノンストップの平地だ。途中、滅多に変わらない信号に捕まらなければ、さらにその距離は一キロ伸びる。自然と回転《ケイデンス》が上がっていった。ギアを11速――トップに入れる。速度計の数字はもう五十キロ近い。
 しばらく無心で走った。
 自宅兼事務所が見えてきた時、一階の照明が灯されていることに驚いた。
 ドアを開けると、お礼参りに来た兵藤が待っている――などという展開なら面白いのだが。そんなことを夢想しつつ事務所に入る。
 事実はなかなかドラマティックには展開しない。中にいたのは佐伯だった。
 とは言え、この時間に作業抜きで彼の姿があること自体は、かなりの異例だ。
「なにしてんの、佐伯君」
 彼は図書スペースで資料を読みふけっていた。
「ああ、先生。夜分すみません。お邪魔してます」
「いや、関係者用なら自由に使って良い空間だから、別に良いけどさ。そのために合い鍵だって渡してるわけだし。そうじゃなくて、珍しいこともあるもんだねって意味で言ったんだよ」
「ええ、まあ」と、佐伯はどこか歯切れ悪い。
「キミも今日は警察連中に時間取られたんでしょ? 何かあったの」
「いえ。要望が通って大学まで向こうから来てくれましたし。もともと俺は先生のオマケ程度の扱いでしたから。簡単な再確認をして終わりです。特に何というほどのことはなかったですよ」
「ふうん。じゃ、一体どうしたのさ」
 訊くと、また佐伯は黙り込んだ。
 確かに、こういった妙な様子は今日になって突然始まったわけではない。思えば、まだ客船の上にいた時、奥田警視たちの聴取を受けた時からそうだった。
「俺に必要なのは、ルールだと思ってたんですよ」
 突然、彼が言った。
 高階の質問に回答したというよりは独白に近い響きだった。
「何か問題に直面した時、一切合財を投げ捨てて自分だけ逃げ出してしまうような――そんな無様をさらす弱さのようなものが、俺にはあるのかもしれない」
「梅原小音子と自分の兄の話から、そう思うようになったんだね?」
 高階は静かに問う。
 否定も肯定もせず、しばらくして佐伯が続けた。
「臆病で卑怯な最低のクズにならないためには、プライドを持つしかない。自制の精神はそこからしか生まれてこない。最近、なんとなくそう思うようになったんです。悪くない考え方のように思えました。ひとつの正解に近付いたような」
 高階は佐伯から適度な距離を取って、図書スペースに設置してある椅子の一つに腰を落とした。無言で話の続きをうながす。
「気付いてるかもしれませんが、先生の存在は大きな参考になりました。あなたはわがまま放題、好き放題に行動しているようでいて、しかし自分の中に設けた一定のラインは絶対に超えようとしない。たとえば、自分の仕事と認めたことには一切の妥協がない。どんな状況でもクオリティを落とすことを頑なに認めない。社会的規範や倫理とは明らかに違った、独自のルールが明確に決められていて、それに対しては驚くほど厳格だ」
 そこで言葉を切ると、ようやく佐伯は顔を上げた。
 直線的に視線がぶつかる。
「この人みたいにやれば良いんじゃないか、と思いました。この人は何より、自分で自分にかける期待を裏切らない。自己嫌悪や後悔に繋がる選択はしない。俺の兄のようなことはしない。だから、この人を目標にしていればいつか、俺は自分の抱えた問題になんらかの決着を付けられると思ったんです。克服できる気がした」
 ――兵藤か、と思った。
 高階は、ようやく佐伯の苦悩を理解した。
「でも、分からなくなったんです。あの船に乗って、事件にあって……」
「佐伯君」
 遮って、高階は言った。
 立ち上がって続ける。
「〈バイトザブリット〉だ」蔵書の方を指差す。「私の本を読め。それだけじゃない。書籍化されていない昔の作品も含めて、全部読むんだ。キミが悩んでることは、私が一貫して自作のテーマとして掲げてきた物の一つでもある」
 否、これは言うまでもなかった。
 佐伯はもうそのことに気付いている。
 だからこそ、こんな時間に資料室にこもっているのだ。
「佐伯君。ルールってのは境界線だ。でも、それは物ごとの是非、善悪を分かつためのものではない。キミが悩んでるのはそこを勘違いしたからだ」
「…………」
 その言葉で、佐伯は半開き担っていた口を結びなおした。
 もう考え始めている。
「ルールは何と何を分かつものなのか、キミはまずそれを知るべきだ」



  エピローグ

 その著作を改めて読み通すことで、はっきりしたことが幾つかある。
 たとえば、高階を支える情熱はそんなに多様なものではない。
 彼女は恐らく、幾つかの限られたテーマを色んな角度から扱っているに過ぎない。
 それは主人公の造形を見ても明らかだ。
 彼女がスポットライトを当てるのは、ほとんど一貫してどこかしら欠いた物がある人間たちだ。
 彼らは自分が何かを失っていること、あるいはまだ得ていないことに自覚的である。
 だから得る。取り戻す。
 再起、復権。自尊心の獲得。
 確かにそれは、佐伯が取り組んでいる人生的な命題と重なるものであった。
 気付くと朝になっていた。
 ふとページに影が重なり、それで窓から陽光が差し込んでいることに気付いた。
 最初は確かに椅子に腰掛けていたはずだが、いつの間にか佐伯は地ベタに座り込んでいた。半径三メートル圏内には、自分が持ち出したとは思えない量の書籍が散乱しており、足の踏み場もない。おまけに正座を崩したような奇妙な格好を続けていたため、左足が痺れきっていた。
 這いずるように椅子に戻る。目を閉じて、深く息を吐いた。
 ふと思いついて、TVのスイッチを入れた。もう朝のニュース番組は始まっている。キャスターが伝えているのは中東の紛争地域でもたれた首脳会談の話題であった。時間帯からしてトップニュースに近い扱いであるはずだ。もし、兵藤が確保されたのなら、話題はそれ一色で染められているだろう。つまり、彼はまだ見つかっていないのである。
 ――兵藤|享士《きょうじ》。
 一連の殺人が彼の犯行であると判明する前から、佐伯は揺れていた。
 高階の語る犯人像が、他ならぬ高階自身の人物像とあまりにも多くの共通点を持ちすぎていたからだ。
 高い知能、明確な目的意識。大胆な行動力。
 時に自分を不利にすることすらいとわず、引いた一線を頑なに守り通すスタイル。
 兵藤もまた、方向性は違えど高階と同じなのだ。社会的な法規ではなく、自分の中のルールに従って物ごとをはかる。他人の評価ではなく、自分が自分をどう評価するかに重きを置く価値観。一度確信を得れば、時にリスク度外視で我が道を突き進む。彼らはそんな人間たちだ。高階が犯罪者として突っ切った姿こそ、兵藤享士なのである。
 ならば、自分の中に自分だけの法律を作ったところで、高階ではなく兵藤になってしまう危険性があるのではないか。もしそうならルールを持つことは正解でもなんでもない。自らを正しく律する拠り所としては機能しないことになる。
 足場を大きく揺さぶられた気分だった。
 そして遂に、高階自身の口からもそれが認められたのだ。
 いわく、「ルールは物ごとの是非、善悪を分かつためのものではない」。
「――しかし、境界線ではある」
 口の中だけで小さくつぶやいてみる。
 確かに、ルールを境界線ととらえると分かりやすくはなる気がした。
 たとえば、肉体は他者と自分とを分ける物理的な境界だ。アイデンティティ、自我は他者と自分とを分ける精神的な境界だ。それは「個」の存在を確立するために必要な概念でしかない。決して、物ごとの正邪や善悪の分かれ目ではないのだ。
 高階の著作をもう一度、思い出す。
 彼女の作品群で主人公を演じるキャラクターたちは、結局の所、自分の中にルールを見つけることを一つの目的としている。彼らがそれを欲するのは――
「欲するのは……」
 何かが分かりかけた気がして、佐伯は思わず立ち上がった。
 がたんと思いのほか大きな音を立てて椅子が揺れる。
 共通して、何かしらの逆境の中で生きる高階作品の登場人物たち。彼らはその理不尽な世界で、無情な都会の中で、己を立てて生きていくことを欲しているのだ。
 自分を見失わないよう強くあるべく必要なもの。不可欠な武器。それこそが、彼らの求めるもの。自尊心と呼ばれ、紀綱《コード》と称され、時に自分に課す掟とも表現されるもの――。
 そうかなのか、と思った。
 漠然と頭の中を漂っていた何かの断片が、急速に輪郭を帯びていく。
 形になっていく。
 まさに、境界線を得ていく。
 人を取り巻く厳しい世界の中で生きていくためには、世界と対等に接していくためには――、自らも世界とならねばならない。己の中に一つの小さな世界を構築するほかない。
「ルールは境界線。境界線が分かつのは、世界」
 領土と領土。世界と世界。戦いとは、双方が同じ土壌に立ってこそはじめて成り立つ。
 己という世界の支配者として、自らの領域を深く理解し、隣り合わせる世界と交わり、争い、時に結ぶ。
 高階や矢慧といった日吉の女性たち、そして兵藤が特別な力を帯びて見える理由が分かった気がした。彼らが人を惹きつけてやまないのは、その生き方や言動から背後に広がる世界が明確に見えるからだろう。彼ら自身に確たる世界観があり、それが輝かしく映るからなのだろう。
 ならば、高階と兵藤の差はその世界観の違いでしかない。
 自分という世界の収め方。支配の方法。法規――。同じくらい広大で、同じくらい活力に富む世界を内包していながら、両者はそれに対する向き合い方が異なる。主としての性格に違いがある。ただ、それだけのことなのだ。
 たった、それだけのことなのだった。
 徹夜明けであるというのに、不思議と眠気は感じられなかった。
 むしろ、なにか達成感に近いものがある。それは睡眠不足がもたらす奇妙な高揚感とは少し質が違った。もっと穏やかな、胸の内からじわりと滲み出てくるような熱さであった。
 陽は更に高まり、窓から差し込む日差しもまばゆさを増している。
 しばらく目を細めていた佐伯は、ゆっくりと振り返った。背後には濃い影が伸びている。
 床に散らばったままの書籍の山から、見慣れた一冊を拾い上げた。
 ――〈バイトザブリット〉。
 佐伯は薄く笑みながら、開かれたままのページを閉じる。
 ぱんと小気味の良い音が室内に鳴り響いた。



                                      了





あとがき

 遅れに遅れた上に超やっつけではありながらも、一応の完結です。
 完全なフェアとはいかないですが、なんとなく本格に近い条件で書いた初のミステリになると思います。
 慣れないジャンルであったため、なかなか手際よくとはいかずかなり効率の悪い執筆になってしまった気がします。
 今後に活かせれば良いんですが、正直、本格物は疲れるしネタないしで次いつやる気になるかは不明。
 新作に関しては幾つか構想があるのですが、連載中断中のやつの続きも書かねばと思ってます。


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