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「鯨と鼠と豪華客船」 槙弘樹



 洋上の豪華客船で催される、少女歌劇団〈マニッシュバーズ〉の特別公演。
 だが開演の矢先、船員の一人が怪死。
 これを皮切りに第二、第三の犠牲者が生み出されていく。
 逃げ場のない船内。恐慌状態に陥る乗員乗客。
 全身に黒い斑点を浮かび上がらせるその死は果たして疫病か、殺人か。
 特別公演を中止に追い込まれた船客のひとり、漫画家・高階芳春が半ギレ気味に事件に挑む!!




   00

 美術解剖学の小教室は無人だった。担当教官である|柏原《かしわばら》教授の時間にルーズな性格は、既に知れ渡っている。学生の多くはもう、それを見越して始業ぎりぎりにしか現れなくなった。
 では、それでも五分前行動を遵守している自分はなんなのか。
 佐伯《さいき》三千崇《みちたか》は自嘲的な気分で、いつもの席に腰を落とした。熱い外気に触れてきたせいか、座面のひやりとした感覚が心地よい。
 暇潰しに、鞄から講義のテキストを取り出した。表面解剖の指南書である。絵や写真が多用されているため、ぱらぱら捲っているだけでもそれなりに面白い。今回、適当に開いてみたページには骨と内臓、筋肉が透けて見える男女が色んな角度から描かれていた。中高の理科実験室に置かれていた、人体模型がポーズをとっているような絵だ。
 しばらくして、何気なく顔を上げた時だった。
 ――そういえば、ここだったか?
 ふと気づき、佐伯は改めて室内を見回す。そして、記憶に誤りがないことを確認した。
 約一年前、高階芳春《たかしなよしはる》との仕組まれた再会の舞台となった場所。それが、この教室だった。
 思えば、あの出来事をきっかけに佐伯の日常は激変した。
 何十年かして振り返っても、やはり人生のターニングポイントとして色褪せることなく在り続けるのだろう。
 はじまりは、滅多にないはずの学内放送だった。当時、まだ大学に入学して間もなかった佐伯は、その放送で自分が名指しして呼び出されたことに大きく動揺した。しかも外線が入っただとか、何らかの手続きで学生課に来いというのではない。「デザイン学科一年、佐伯三千崇さん。至急、美術解剖学小教室までお越し下さい」。誰による何の呼び出しかすら明らかにされず、向かうべき場所だけがただ一方的に指定されたのだ。
 そうして辿り着いたこの小教室は、今日と同様、無人だった。
 ただちに来いとの連絡だったが、五分待っても誰も現れない。
 手の込んだ悪戯か。誰かにかつがれたのか?
 だが、岩手から単身出てきたばかりの田舎者に悪戯を仕掛けて得する者などいない。まだ知人も友人もいない状態なのだ。やはり待つべきだろう。しかし誰を、いつまで――?
 途方に暮れ始めた時、ドアノブを捻る派手な音が鳴った。
 動転する佐伯を余所にきびきびとした足取り入室してきたのは、パンツスーツ姿の若い女性であった。床を叩くヒールの硬質な音が響き渡る。服装といい、学生というには大人びて見える。それでもまだ二十代半ばが精々といったところだろう。化粧気が薄いため、かえって肌の若さがはっきりと見て取れる。
 彼女は細いフレームの眼鏡をかけていたが、理知的な印象を受けるのはそんな記号的小道具のせいばかりではなかった。表情や緩みのない挙動、いわゆる立ち振る舞いにそう感じさせる部分が大きいのだ。
 その女性は、供《とも》を連れていた。
 開き放しのドアから数歩分遅れて現れた、小太りの男がそうだ。
 こちらは三十代半ばあたりか。女性のすらりとした体型とは対照的に背が低く、その上さらに申し訳なさそうに背中を丸めている。ハンカチを与えたら、途端に顔の汗を忙しく拭いだしそうなタイプに見えた。
 先を歩く女性が教壇につくと、彼はその斜め後ろに従者の如く位置どる。
「ちょっと遠いかな」
 不意に女性の方が言った。真っ直ぐに佐伯を見やり、細い指で前列を指し示す。
「もっと、この辺に」
 佐伯は慌てた。どもりながら「はい」とだけ何とか応じ、ばたばたと前列に移動する。
 着席を確認すると、女性は鷹揚《おうよう》にひとつ頷いた。
「結構。では、始めましょう。本日はよろしくお願いします」
「あ……お願い、します」佐伯は条件反射的に頭を下げ返した。
 何が始まるのか。この場はなんなのか。自分はなぜ呼ばれたのか。本当に自分が対象なのか。誰かと間違えられているのではないか。頭の中を数々の疑問が渦巻く。が、タイミング的にも心理的にも訊ねられる隙は与えられない。
「まず、氏名とこの大学に進学した動機を教えてください」女性が事務的に言った。
「は――」
 佐伯は硬直する。
 女性は言葉を繰り返さなかった。質問は聞こえていたはず。簡単に答えられるはずだ。そう言わんばかりの目で、じっと佐伯に視線を注いでいる。
「あの、佐伯|三千崇《みちたか》です」
 無言の圧力に負け、佐伯はおっかなびっくり口を開いた。
「本校に進学したのは、ええと、昔から絵を描くのが好きで、下手なりに漫画などを描いていたんですが、中高で独学には限界があると痛感するに到ったからで――現在は、同じ趣味でも、やはり土台になるものがあった方が本格的に楽しめると考えておりまして、その、将来は何かイラストやデザインなどに関連した職業に就きたいという漠然とした希望もあり、基礎を学ぶために、その、デザイン学科を志望しました」
「漫画は今でも?」
 手元で何かメモを取る素振りを見せていた女性が、ちらと顔を上げた。
「あ、はい。本当に中途半端な代物で、別に同人誌を作ったり、出版社に持ち込みや投稿をしたりとかではなく、自己完結で満足する程度の、何と言うか、たまに限られた友達何人かに見せるレヴェルのものですが」
「家族構成は?」
「はい? 家族、ですか」思いもよらぬ質問に一瞬、鼻白む。
「家族に誰がいるか。現在、その内の誰と世帯を同じくしているか、という質問です」
「それだと、家族は母と兄です。両親が離婚して親権が整理されたため、法律上の父はもういません。大学に入ってからは独り暮しをしています」
「親御さんは今、どちらに?」
「岩手県です。一応、実家もそちらにあります」
「家族と離れて孤独を感じていますか。また、これから感じると思いますか?」
 矢継ぎ早の質問は、当初感じた面接≠ニいうイメージより、尋問≠フような色を濃くしつつある。何にせよ、これには即答できた。
「孤独は感じていません。今後も感じません」
「独り暮らしとのことですが、家事の方は?」
「料理、洗濯、掃除など、技能的には及第点レヴェルであると自負しています。しかし今は、時間的に細かいところまでは行き届いていないかもしれません」
「学費、生活費、家賃などはどうされていますか」
「学費関係は入学金だけ、学資保険から一括で。授業料や教材費、それから生活費や家賃は、全てアルバイトでまかなっています」
「アルバイトというと、具体的にどのような?」
「警備員を主に、工場内作業やイヴェント会場の設営などを掛け持ちでやっています」
「仕事は大変ですか」
 その質問に、佐伯は少し迷って、はいと答えた。正直な思いであった。まだ作業に慣れていないことを加味しても、拘束時間や肉体的な負担は大きい。若さでも凌げない疲労が身体の深いところに蓄積しているのを感じている。睡眠時間は高校時代の半分以下。仕事と学業との両立という問題には、これからも常に頭を悩まされるだろう。
「では、より効率よく収入を上げられる仕事に興味はありますか?」
「もちろんありますが、なかなかそういった物は見つけにくくて」
「恋をしていますか。これまでに異性と交際した経験は?」
「えっ……」
 思わず相手を見詰め返す。当然ながら、彼女はいたって真剣そのものの顔だった。
 一方、斜め後方で無言を貫いている男は、明らかな動揺を示している。彼もまた、状況に翻弄される立場であるのかもしれない。
「あの、これって何の――何かの面接なんでしょうか?」たまらず佐伯は訊ねた。
「質問は後ほど、まとめて受け付けますので」
「あ、はい」すげない返答に、かき集めた気勢は一瞬で萎んだ。「すみません」
「疑問はあるでしょうが、まず質問に答えてください」
「いや、ええと……」
 直近の質問がなんであったかを考え、恋愛関係の問いであったことを思い出す。
「多分その、恋愛とかはしてないと思います。交際も今の所は」
「漫画を描かれていたとのことですが、主にどのような環境でどういったツールを使用していたを教えてください」
「は、ツール、ですか?」
 目まぐるしく変わっていく話題に頭がついていかない。
「たとえばペン先は?」女性が畳み掛けるように問うてくる。
「あ、それなら、はい。実は、その、私は細い線が好きらしくて、最近まで丸ペンばかり使っていました。太さの変化は線の数でつける感じで」
「最近までということは、現在は違うのですね」
「ええ。周囲の先輩方から、表現の幅を考えるとやはりGペンで経験をつんだ方が良いと強い助言をいただきまして。私程度が道具をどうこう言うのもおこがましいですが、それ以降は一応、Gペンを使わせていただいて――」
「どこの?」
「えっと、ゼブラの五本入りを〈世界堂〉の通販などで買っています。まだ下手なので、太さの調節のために使用時間ごとにペン先を何種類かに分けつつ……。でも、ペン自体に特にこだわりがあると言うわけではなく、最初に教えてもらったのがこれといった感じで」
 つけペンもそうだが、インクやホワイト、スクリーントーンなど、本格的に漫画を描こうとすればそれなりの道具が必要になる。佐伯はこれらを、仲間と一緒にまとめ買いしていた。主に経済的な事情からである。そのことも併せて伝える。
「漫画研究会のような所、仲間内、というような表現をされていますが、創作は彼らと合作することも多かったのですか?」
「いえ、私を含めた大多数はあくまで個人制作でした。ただ、下級生は技術のある上級生のアシスタントのようなことをさせて貰える機会があって、その経験は私にとって得がたいものであったと感じています。後にプロデビューされた程の方でしたので」
「あなた個人としては、自作においてトーンやベタをどの程度使っていましたか」
 トーンとは、透明なシートに|点状《ドット》、あるいは編み目状などの模様が細かくプリントされた漫画用の画材だ。正確にはスクリーントーンという。これを切り貼りすることで、モノクロ世界に濃淡がつくというものだ。
 一方ベタは、ベタ塗りのベタ。女性の黒髪のように、真っ黒に塗りつぶすことで色や雰囲気を表現する手法、作業をいう。
「トーンは覚えたての頃は多用していましたが、子どもには高価なこともあり自然と落ち着いていきました。ただ、近年はパソコンを使ったデジタル処理で時間的・金銭的負担が大幅に軽減されるようになったので、使用に躊躇わなくなった部分もあります。作業としてはどちらも好きなので、使用頻度は平均的かやや多いくらいでしょうか。もちろん、作品の性質や選択した絵柄にもよりますが」
「分かりました。では最後に、実際に絵を描いていただきます」
 事前に打ち合わせてあったのだろう。教壇を回り込み、男の方が佐伯に歩み寄ってくる。どうやら女性に助手のような扱いを受けているらしい。彼は恐縮したように何度も会釈し、佐伯の前にF6のスケッチブックと油性のマジックペンを置いた。
「題材は、実在しない架空の人物」手で鳩尾《みぞおち》の辺りを示しながら、女性が続ける。「正面からのバストアップです」
 助手の男性が定位置に戻った。女性は右手の五本指を広げながら、制限時間は五分であると告げる。
「男性でも女性でも構いません。髪型、その長さ、顔つき、その他外見的な特徴など、自由な発想で肖像画を描いてください」
 どうして俺が。何のために?
 そう思わないでもなかったが、では突っぱねて退室する度胸があるかと言えば否である。
 なにより佐伯の手は、無意識のうちにペンからキャップを外していた。既に描くべき人物のイメージも頭に浮かんできている。自我の半分は、とっくにやる気らしかった。
「五分せずに描き終えたら教えてください。では、どうぞ」
 声にひとつ頷くと、佐伯はオリーブ色をしたスケッチブックを開いた。
 螺旋を描く製本用の針金が、聞き慣れた軋み音を上げる。鼻孔をつくマジックインキの匂い。何か、自分の中でスイッチが入った気がした。
 目の前の女性が何者で、この課題をもって何を測ろうとしているのかは分からない。だが、一筆目のあたりを付けた瞬間、全ての雑念が頭から消え去った。夢中でペンを走らせた。
 五分は短くもあり、だが持ち時間としては充分でもあった。細かな調整を終え、顔を上げる。ずっと作業を見守っていたのか、ただちに女性と目があった。
「間もなく五分になりますが?」
「はい」佐伯はペンのキャップを締めながら言った。「もうできたと思います」
 女性がうなずく。
「比較用のサンプルが、そのスケッチブックの最後のページに掲載されています。ご自分が描かれた絵と、後で見比べてみてください。それから――」
 またしても助手の男性が動き、今度は佐伯にA4コピー紙を渡してきた。
「今週中に、今やっているアルバイト、およびサークルなどの学内活動を全て辞めること。その上で来週の月曜日、午後二時にその資料に書かれた住所まで来るように。――以上、本日はお疲れ様でした」
 言うだけ言うと、女性はさっさと踵を返して歩き出す。
 彼女が立ち去ろうとしていることを理解するまで、数秒かかった。
「えっ、あの……」
 その声に応えたわけではないのだろう。実際は、助手がドアを開けるまでの時間を作ったに過ぎない。だがなんであれ、女性は一瞬、出入口の前で足を止めた。
「面白みのないところは相変わらずみたいね」
 半分だけ振り返ったその顔に、初めて笑みらしきものが浮かんだように見えた。
 あるいは気のせいか。確認する間もなく、彼女はそのまま扉の向こうへ消えていった。助手の男も米つきバッタのように頭を下げ、その後を追っていく。
 佐伯は半分腰を浮かせた中途半端な姿勢のまま、呆然と立ちすくんでいた。
 さっぱり状況を把握できない。
 狐に化かされたとはこういう感覚か。だが、手元に残された〈マルマン〉の|製本画用紙《オリーブシリーズ》――そこに描かれたヒゲ面の男は、今までの出来事が夢でも幻でもなかったことを物語っている。
 程なく、女性に言われたことを思い出し、佐伯はスケッチブックの最後のページを開いた。
 思わず息を呑む。背中の産毛が一気に逆立つのを感じた。
 顎《あご》から頬の一部に及ぶ無精ヒゲ。鼻の右側にホクロ。肩にかかる黒髪をポニィテールのようにまとめた厳つい男の相貌が、そこには描《えが》かれていた。
 佐伯が五分かけて絵にしたばかりの男と、特徴を完全に一致させる人物である。
 もう一度、彼女が去っていったドアに視線を投げ、必死に思考した。
 この一致は偶然ではない。だが、仕掛けが分からない。
 そもそも何の意図があって、彼らはこんなマジックを披露してきたのか。どうやって自分が描く絵を予測できたのか。ホクロの存在や位置まで――
 加えて、彼女が残した最後の命令は、論外の要求であった。
 当然、従う謂われなどこれっぽっちもない。
 だがそれから四日間かけて、佐伯はアルバイト先に辞意を伝えて回った。


   01

 解剖学の講義が終わると、佐伯は早々に教室をあとにした。
 階段を降りて、一階のエントランスホールに出る。私大本館の玄関口だけあり、一帯は星付きホテルのロビィもかくやという瀟洒な造りだ。広さも申し分ない。だが、午前も十時を過ぎれば、朝一番の講義を忌避していた学生が集いだす。あるいは学内が最も混雑する時間帯が今だった。
 掲示板前の一際大きな人集りを迂回し、佐伯は裏手の通用口から庭に抜けた。
 六月初頭。梅雨の晴れ間にあって、今日は日差しに鋭さを感じる。佐伯は自然と木陰に追いやられ、芝と桜並木に彩られた内庭を歩いた。
 憩いの場として解放されている周囲には、屋根付きの小さな休憩所が無数に設けられている。やや奥まった所にあるその内のひとつに、待ち合わせの相手はもう来ていた。満遍なく肉と脂肪をつけた短躯は、遠目にも見紛いようがない。ラフな格好をした若者の群れにあって、そのスーツ姿も一際浮いていた。
「ああ、佐伯君。毎回、ごめんねえ」
 目が合うと、彼が片手を上げて寄越した。
 佐伯は会釈を返し、少し足を速めて距離を詰める。
「細川さんも、お疲れさまです」
「おはよう」柔和な笑顔と共に、コーヒーの紙コップが差し出された。「佐伯君。これ、よかったら飲んで。今日暑いからさ、冷たいのにしといた」
「ちょうど、のど渇いてたんでありがたいですよ」
「うん。じゃ、座ろっか」
「はい」
 丸テーブルを挟み、大樹の切り株をイメージした椅子にお互い腰を落とす。
 昼に働き、夜間部を受講する社会人学生も多い大学だ。院ともなれば、十年も大学生を続けている連中すらごろごろいる。したがって、年かさの男が敷地内をうろついていること自体にさほど不自然はない。
 だが、リクルート風でもない背広《スーツ》姿が昼間から――となれば話は別だ。
 事実、対面に座る彼は本校の学生ではなく、また教職員でもない男であった。佐伯に会いに来たというだけの、純然たる部外者である。
 自ら広めている「太いのに細川」のフレーズでお馴染みの、細川誠司《ほそかわせいじ》。
 大手出版社として知られる〈|音文舎《おんぶんしゃ》〉に勤務する三十代だ。
 週刊少年漫画誌の編集部に所属し、いまや看板作家の一人である高階芳春《たかしなよしはる》を担当している。
「――で、その後、高階先生の様子はどう?」
 座るやいなや、細川が半ば身を乗り出すように口火を切った。
「率直に言って相当な重症ですね」
 口元に寄せかけた紙コップを途中で止め、佐伯は答えた。
「完全にやる気をなくしてます。ここのところ毎日もう漫画家やめる≠チて廃人のようにつぶやいてますよ」
「ああ、やっぱりかあ」早川は両手で頭を抱える。「どうしよう。あの人、いざとなったら躊躇なく辞めるよね?」
「辞めますね。もともと、漫画家になるのが夢ってタイプじゃない」
 高階がプロになったのは、出版社に宣伝と流通を丸投げし、描くことに専念するためだ。
 少なくとも近しい周囲にはそう公言している。
 読者。知名度。資本。これら三本柱を思惑通りまんまと手中に収めた今、高階が出版社付というポジションにこだわるとは考えにくい。
「漫画家が専業で食べていくための目安って、確か固定読者が三万人って言われてるんですよね?」佐伯は言った。「あの人の場合、新刊はもう百万部《ミリオン》確実なわけだし、それ考えると分母はもう充分過ぎるくらいなわけでしょ。出版社に見切りつけて、電子書籍の個人出版にシフトしても問題ないくらいの目処《めど》は立ててますよ。きっと」
 なんと言ってもまだ黎明期だ。電子書籍は売上げは、まだ従来の紙の本の五%程度に過ぎない。大ベストセラーでも十%前後。漫画やライトノヴェルはまだ売れる部類だが、どちらにせよ流行のイメージが先行しすぎている感じだ。
 ただしその分、電子出版の印税は段違いに良い。
 出版社を通さず、通販業者のシステムを借りて作者が個人出版できるからだ。
 この場合、出版業界なら一〇%が相場とされる印税は、最大で七〇%前後にまで跳ね上がる。固定読者が五千人でも何とかやっていけるとされる所以《ゆえん》であった。
「考えてそうだ。いかにも考えてそうだよ」細川は頬の肉をぶるぶる震わせた。「高階先生の場合、今の読者の百人に一人がついてくれば余裕でクリアだもん。最悪、その半分でも良いんだ。駄目じゃん。いけちゃうじゃん」
「もともと、同人時代でも委託販売含めて相当のところまでやれてた人ですしね。デメリットが上回るなら、誰が相手であれ契約を見直すくらいはするでしょう」
「どの業界にもいるんだよねえ、そういう天才肌の人って」細川はずんぐりとした十指で髪を掻きむしった。「普通は、まずアシで経験積みつつ投稿繰り返して、何歳までに賞とって……みたいに逆算してプロになるための試行錯誤をするもんだけど、高階先生みたいなごく一部の人は違うんだ。プロの世界に移った方が合理的だから、単に環境を変えただけっていうね。プロとアマとの間にある物を壁とすら認識してなくてさ。彼らにとっちゃあ、またいで自由に行き来できる枠でしかないんだよ」
「正直、僕みたいな凡才にはまったく分からない価値感です」
「佐伯君、あんな人を参考にしちゃ駄目だよ」ちらと恨めしそうな目で見られる。「漫画家ってそんなに甘い商売じゃないから。みんな寿命削りながらポジション見つけようとしてる世界だから。あんなの業界に何人もいない例外中の例外なんだからね」
「あの人を間近で見て、絶望的な彼我の差を誰より自覚させられた人間ですよ。僕は」
 憧れて、信じて、必死の形相で努力して――。だが厳しい現実を前に敗れ去る。
 夢なんて叶わない。それがプロの壁ではないのか。
 少なくとも佐伯の認識ではそうだった。
 しかし、高階にとっては特に意識したことすらない苦労なのだろう。
 天才の目に、無駄な努力を重ねる凡夫はどう映るものなのか。笑われているのではないか。哀れまれているのではないか――。
 単なる僻《ひが》みなのは分かっている。
 それでも、圧倒的な本物を前にすると、卑屈極まりない邪推に溺れかけることもある。
「才能」という言葉が、どうしても脳裏にちらつく。離れなくなる。
「ああ。ほんと、どうしよう」
 細川は細川で本当に危機感を覚えているようだった。
「去年のアンケート順位、トップ3圏内でド安定してた作家だよ。そんなのに抜けられたら何十億って損失だ。株価にも直に影響するレヴェルだ」
「まあ、ヘソ曲げてるだけですし、本当に辞めるまではしないと思いますけど」
「そうかなあ?」十歳以上も年上の男が、泣きそうな声をあげる。
 細川も、ドル箱の一人を受け持つ男だ。編集者として相応に優秀な人物ではあるのだろう。
 だが、そんな人間でもミスを犯すことはある。なぜ、と思うような些末なミスをだ。
 事の起こりはひと月半前。今、話題にあがっている高階芳春に対して、細川が小さな連絡ミスをやらかしたことが悲劇の始まりだった。
 具体的には、|GW《ゴールデンウィーク》合併号に載せる予定のカラーイラスト二点の依頼忘れだった。キャラクター集合絵の大型ピンナップが含まれた、超速筆で知られる高階でも一日がかりの仕事である。
 ただそれは、言い換えれば作家が休みを一日潰せば済む程度の小さな話だった。
 |最終締め切り《デッドライン》前に発覚したため、結果的に迷惑が周囲へ大きく波及したわけでもない。
 まずかったのは、その潰された一日分の休日というのが、高階が一年以上前から用意していた非常に大きな意味を持つ日であったことにある。
 漫画家・高階芳春は、少女による男装歌劇集団〈|MANNISH BARDS《マニッシュバーズ》〉の知る人ぞ知る熱狂的愛好者だ。
 その〈マニッシュバーズ〉が結成記念日に行う特別公演は、団員・ファン双方にとって特別な意味を持つ年間最大の興行であるという。
 チケット販売はまず抽選に加わることすら至難。常にプラチナ扱いで、ファンクラブの幹部級会員でも年単位で待たされることもあるというから、相当な物なのであろう。
 今年、高階は念願叶ってようやくその参加券を入手し、指折り公演の日を待っていた。
 わざわざ洋服を仕立て、手渡しプレゼント用に普段の原稿より手間をかけたイラスト入りの色紙を描き――といった入れ込みようであった。
 細川の小さな連絡ミスは、運悪く、まさにピンポイントでその公演当日に干渉してしまったのだった。
「僕も、高階先生が何年も前からチケット取る準備してたこととか知ってるからさあ。ただ無駄にしちゃった代金弁償すれば良いとか、そういう話じゃないことは分かってるんだ」
 青ざめた細川が肩を落とす。再び両手で頭を抱えた。
「ああ、もう。本当、なんであんな凡ミスやらかしちゃったんだろう」
「まあ、印刷所止めたとか、三十ページだと思ってたのが実は四十五ページだったとかでもないですし」
「でも、先生、あれからもう一ヵ月以上、全然やる気出してくれないじゃないか」
「原稿のストックももう切れかけですしね」
「そう。だからさあ、そろそろ何とかならないかな、佐伯君」
 懇願口調で細川が言う。
「でも、ああなると、もう誰の話も届きませんよ。あの人」
「そこを何とかさ。唯一、可能性があるとすればキミだけなんだ。もちろん、僕も最大級のネタを用意してきたからさあ」
 言って、細川は使い古した革鞄を漁りだした。神妙な顔つきでA4サイズの茶封筒を引っ張り出す。卓上に置かれたそれが、すっと佐伯の方へ寄せられた。
「なんですか、これ」
「今度、豪華客船を丸ごと借り切って行われる〈マニッシュバーズ〉のコンサートチケットだよ」
「客船? 船でやるコンサートなんてあるんですか」
 にわかにはイメージすら沸いてこない。前例を耳にしたこともない。船上で行われるイヴェントといえば、佐伯に思い浮かぶのは精々、映画の制作発表会見くらいだった。
 過去、国民的人気マンガが劇場アニメ化される際、出版社が豪華客船を借り切ってそういったセレモニィを行った事例はある。佐伯が小学生だった頃の話だ。
「一泊二日で、アイドルって言うのかな――なんかとにかく、そういう芸能人の女の子たちと東京・名古屋間を|航海《クルーズ》するみたいなんだよ」
「はぁ……今は企画にも色々あるんですね」
「芸能人と行くバスツアーとかあるでしょ。あれの豪華客船版だよ。編集部にかけあってさ、上の人まで引っ張り出して、高階先生が要求した通りのチケットをなんとか取ってきたんだ」
「拝見します」
 手にした封筒は思いのほかズシリときた。その重量の大部分を占めていたのは、企画案内の分厚いパンフレットと、参加者用の資料だ。対照的に、肝心のチケットは添え物のような扱いに見える。他に、荷物郵送用と思わしきタグ。用途の分からないステッカーのような物もある。佐伯はそれら内容物をざっと確かめると、パンフレットの表紙をめくった。
「豪華客船〈あくえりあんえいじU〉スペシャル2DAYSツアー」「マニッシュバーズと皆様だけの貸切クルージング」「計二度の特別公演他、メンバーとの食事会、独占撮影会など各種企画あり」「デラックススイート以上限定、選ばれた三十二名様だけに許される極上のひととき」……
 庶民たる佐伯には縁遠そうな文句が、これでもかと並べられている。
 佐伯は首を振り振り冊子を閉じ、深く溜め息を吐いた。
「恐ろしい企画だ。いくら搾り取る気か知りませんけど、〈マニッシュバーズ〉とやらのファンって、こんなものについて行けるほど金持ちばかりなんですか?」
「なに言ってんの。我らが高階先生がその実例じゃない」
 そう言われれば、その通りであった。
 高階芳春が二年前から週間連載している〈|BtB《バイトザブリット》〉の単行本はつい先日、第八巻が刊行されたばかり。ここの大学生協にも平積みで置かれている。
 四月の新番としてスタートしたTVアニメの影響も大きいのだろう。第二版目で百万部《ミリオン》を達成する見込みだ。累計発行部数も、その最新刊を含まずして四百万部を突破。
 原稿料や副収入等を含めれば、高階の年収は億に届くだろう。二十一歳にして、既にサラリーマンの生涯賃金に相当する額を稼ぎ出している計算であった。
「で、これがそのチケットなんですよね?」
 佐伯はそれらしき封筒を手にとって訊く。青を基調にした飾り気のないもので、紙幣を一回り大きくしたサイズのものだった。幾らするかも分からない代物だ。恐ろしくて中を検《あらた》めてみる気にはなれない。
「うん。相当無理させられたよ」
「こういう時って出版社が代金持つんですか?」
「上はその覚悟らしいけど、先生はチケットさえ取れたら代金は自分が払うって言ってくれてたよ。最終的にどうなるのかな」
 斜め上の宙空《ちゅうくう》に視線をやった後、細川はまた佐伯の方へ身を乗り出してきた。
「でね、その取れた部屋ってのが、二部屋しかない〈ペントハウス・スイート〉っていう最上級客室の片方なんだよ。本当はシングル料金で二部屋とも取れって言われてたけど、それは流石に無理だったみたいでさ。これから高階先生に納得して貰うよう説明しないといけないんだ」
「なんで二部屋も?」
 もともと屋内《インドア》指向が強い上に、職業的制約もあって半分引き籠もりのような生活を送っている人物だ。交友関係にしても大変に狭く、他作家との交流でさえほぼ無いに等しい。慣例として連載作家は強制参加となっている毎年の新年会も、高階はすぐに逃げ帰るのが常であった。
 恋人がいるという話も聞いたことがない。そもそも出会いの場面が想像できない。
 そんな人間がチケットを二枚も取ったのは何故か。
 可能性があるとすれば……と、佐伯は少し考え込む。
「もしかするとファンクラブの知り合いの分ですかね?」
「その取れた一部屋ってのがまた凄いんだよ」佐伯の言葉を無視して、細川が熱っぽく語った。「なんてったってね、ダブルの料金で泊まってもひとり百八十万だよ。百八十万。ふたりで三百六十万円。信じられる?」
「三百六十万……!」
「超大型客船の一番安い部屋なら、世界一周できる料金らしい」
「サラリーマンの年収クラスですね。恐ろしい世界だ」
 逆に考えれば、編集部は高階にそれだけの価値を見出しているということであろう。
 確かに、単行本を一冊でも刊行させれば出版社はそれだけで億単位の利益を得る。
 高階は去年、五冊の単行本を出版した。今年も六月頭の時点で既に二冊目。
 そんな人材に気持ち良く仕事させるためなら、三百六十万円は決して高くない投資だ。
「ああ、もう行かないと」
 細川が、太く短い腕に巻き付けた時計を見て立ち上がった。八千円で買ったという、コストパフォーマンスが自慢らしい国産の電波時計だ。
「え、でも――」
「いやあ、申し訳ないんだけどさ。ダブルで一部屋しか取れなかった件含め、なんとか佐伯君の方から高階先生に説明と説得、お願いできないかな」
 頭を下げ、両手を合わせて拝まれる。
「僕がですか?」佐伯は目を見開いた。
「高階先生を説得できるのは佐伯君だけだよ。ね、この通り。どうせそのチケット、一枚はキミの分だし」
 言いながら、細川はじりじりと後退し始めていた。
「はあ?」佐伯は腰を浮かせた。卓上のチケットと細川の間で視線を往復させる。「いや、それはないでしょう。こんなイヴェントがあるとすら聞いてなかったのに。それにダブルって……これ、泊まりなんでしょ? あり得ませんよ」
「でも、仕事場じゃいつも二人きりだし、たまに泊まったりもするんでしょ」
「その時は作業場の二階を借りて寝てますよ。知ってるでしょ。同じ部屋で寝てるわけじゃない」
「まあまあ。タダで豪華客船に乗れて、美少女アイドルのコンサートとかも見れるんだからさ。ラッキィな話じゃない」
「じゃあ、かわってくださいよ」
「いやあ、残念ながら僕は仕事忙しいから。それに、高階先生が承知しないよ。うん。編集者が旅行についてくるなんて、さらにヘソ曲げるに決まってる。ね? ここは僕を含め、〈BtB〉に食べさせて貰ってる人、全員を助けると思ってさ。佐伯君だけが頼りなんだ」
「いや、そんな――」
「そういうわけで後のこと、くれぐれもよろしくね。頼んだよ」
 言うが早いか、細川は鞄を抱きかかえ、ほとんど駆けるように立ち去った。
 今度は止める暇すらない。まさに逃走である。
 よほど慌てていたのか、自分の分の紙コップを忘れていっている。
 一度も口を付けた形跡のないコーヒーが、テーブルの上で微かに揺れていた。


   02

 大地を深々と穿つ赤毛馬の蹄《ひづめ》が、豪快に砂塵を巻き上げる。それに伴う心地よい重低音が直接、肚《はら》を震わすようだった。
 |高階芳春《たかしなよしはる》は小刻みに手綱を操り、愛馬の鼻先を前方の祠《ほこら》に向けた。ちょっとした洞窟のようにも見えるそれは、実のところ、山をくり抜いた人工のトンネルだ。内部は将棋盤のような幾何学《マトリクス》構造になっていて、正方形の小部屋が規則正しく密接配置されている。
 無論、侵入者の方向感覚を狂わせるための、意図された迷宮化だ。
 敵兵にとっては大いなる障害となろう迷路だが、地図を参照できる高階にとっては何ら脅威ではない。人馬一体、景色を置き去りにして一気に突入を図る。
 内部は薄暗く不気味に静まりかえっていたが、愛馬は臆する素振りも見せなかった。
 蹄の音はくぐもった反響を伴いつつ、だが常に安定している。
 迷い込んだ者にとっては無限のラビリンスでも、実際のところ、最短距離を行くならこのトンネルはそう長いものではない。愛馬の快足も手伝って、高階は瞬く間に迷宮を半ば過ぎまで踏破した。
 そうして出口まであと五、六部屋の地点に到った時であった。
 薄闇の向こうに、かがり火と金属が放つ鈍い煌めきが無数に見えた。
 後者は、歩兵が引っ提《さ》げた青銅の矛先だ。迷宮に捕らわれた敵兵の集団である。陣の中心には、目当ての敵将らしき姿もあった。
 どうやら、まだこちらに気付いていないらしい。
 高階は迷わず標的の群れへと突進していった。集団のど真ん中に割って入り、青龍偃月刀《せいりゅうえんげつとう》を振り回して雑兵を散らす。そうして空間を確保すると、馬上から身を躍らせた。着地と同時、得物を真横に薙いで包囲網を牽制する。
 だが、結果としてこれが失敗だった。
 小部屋が連続しているという特殊な地形を甘く見過ぎていたのだ。
 すぐに、背後の部屋から敵兵が雪崩れ込んでくる。あっと思った時には、槍を構えた突撃部隊に背後からめった刺しにされていた。さしもの関聖帝君《かんせいていくん》も、こうなってはひとたまりもない。断末魔を上げて、あえなく戦場に崩れ落ちていく。
「ああ――っ」
 高階は頭上を仰ぎ、小さな叫びを上げた。
「無貌の一撃でこんなにゲージ持っていかれるのか」
 膝の上にコントローラーを放る。アーロンチェアの背もたれに思い切り体重をかけ、そのまま天井に向けて大きく息を吐き出した。
「やっぱり、初期値に近いパラメータで〈究極〉は荷が勝ちすぎる」
 軽く目を閉じて、全身から力を抜く。
 ここひと月、ずっと胸に靄《もや》がかかったような精神状態が続いていた。
 気晴らしに爽快感が売りだというTVゲームに興じてみても、逆にストレスは溜まるばかりだ。一向に気は晴れない。
 やはり、ここは身体を動かし、汗を流して健全にリフレッシュすべきなのか?
 となれば、久々に競技用自転車《ロードレーサー》をバイクハンガーから降ろすことになる。目を閉じたまま、風を切って街を疾走するイメージを脳裏に描いてみた。
「速度とはこの世に残された最後の魔法」とは誰の言葉だったか。
 今は、その魔法にすがってみるのも悪くない。
 にわかに、その気になってきた。
 と、軽い電子音が室内に木霊し、高階の思考は中断された。
 やや遅れ、「来客です」という女性の声が天井付近のスピーカーから聞こえてくる。
 録音した肉声のようにも思われるそれは、|合成音声《TTS》で自作したサウンドファイルだ。より正確には、アシスタントとして使っている|佐伯三千崇《さいきみちたか》による作品である。
「先生、やってますか――?」
 ドアが開き、その佐伯当人が姿を現した。
 黒い無地の長袖シャツに、イオンの八八〇円ジーンズ。本人の性格をそのままコンセプトに取り入れたような、地味で無難な格好はいつも通りだ。背はやや高い部類に入らないこともなく、顔の造形もひょっとすれば比較的まともな方なのかもしれない。
 だが最終的に、恐らくはどちらも何かの思い違いであろう――と誰しもに結論されてしまうような男だ。実際、彼に関する浮いた噂は一度たりとも聞いたことがなかった。
 その佐伯は、高階のディスプレイにゲーム画面が表示されていることに気付くと、腹話術の人形のように顎を落とした。
「ゲーム、してたんですか……起きてからずっと?」
 高階は答えず、椅子の上で伸びをした。
「原稿はどうなってるんです」佐伯が詰め寄ってくる。
「いや、描こうとは思ったんだけどね。どうも駄目だ。ノリが悪い」
「ノリとか言ってる場合じゃないでしょう。仕事ですよ」
「私の仕事は、読者に良い作品を提供することだよ」
 高階は室内履きにしているクロックスを脱いだ。座面の上で裸足の裏を合わせ、揺りかごのように椅子を前後させる。
「その提供を滞らせちゃ駄目でしょ」佐伯があきらめ悪く言い募る。「定期供給が週刊連載作家の義務じゃないですか。ここしばらくはストック放出で凌《しの》げましたけど、もうそれも限界ですよ。分かってますよね?」
「別にクオリティ下げてまで週刊連載にこだわらなくても良いと思うけどなあ。面白ければ多少は待つって読者は多いと思うよ。気分がのってきたら、休んでた分、増ページで取り戻すくらいのフォローはするしさ」
「でも」
「空いた枠は、新人とか連載会議で持ち越しになってた中堅の先輩方に活用してもらえば良いし。ね? 読者は結局、トータルで同じ枚数を読める。他の漫画家は代原《ダイゲン》でチャンスを得る。私は英気を養える。ほら、皆が幸せ。むしろ、週刊連載なんてしない方が良いんだよ。いや、するべきじゃないんだ。皆のためにも。皆の幸せを思って、辛いけど私は休む。本当は働きたいけど、あえて休む」
「いや、そう言われると……」
 佐伯がよく分かっていない顔で首を傾げる。
「そう、なのか?」
 彼は基本的に頭の悪い男ではない。
 しかし、聡明でいられるのは考える時間を充分に確保できた時に限られる。
 思考的な瞬発力に欠けるのは、自他共に認める佐伯の弱点だった。
「いやいやいや。やっぱり駄目ですよ。編集部が困ります。枠って言っても、連載作品一話分と新人の読み切りとじゃ枚数が違う。そしたら台割りとかにも影響するかもしれない。アンケート用のハガキだって差替えなきゃいけないでしょう。大体、高階芳春の作品が載らないとなると、雑誌の売上げ、絶対落ちますよ。そうすると担当の細川さんの責任ってことになるじゃないですか」
「私のテンションが落ちてるのは、そもそも誰のせいさ? あれ、完全に細川さんの過失だからね。それが数字に出て、責任取らされるのはある意味当然でしょ」
「まあ、それはそうなのかもしれませんけど」
「私がこれまで、ネームがまとまらないって細川さんに泣きついたことある? 落としそうだからヘルプで呼べそうなアシを緊急で集めてとか頼んだことは? 原稿取りに来たら十九ページの内、まだ半分しか終わってなかったとかさ。印刷所に迷惑かけて、頭下げさせたことだってないよ。作品造りや締め切りのことで細川さんを悩ませることなど皆無だったと断言できる。そんな超優良作家の私の貴重な休みを、だよ? 一年がかりで計画していたこの日だけはって休みを、あの人は幾らでも防ぎようのあったアホな凡ミスで潰したんだ。事情を一番良く知ってた人間のひとりなのにさ。信じられる? これはもう、一生許さなくて良いと私は思うね」
「でも、仮に細川さんが責任取らされることになって飛ばされでもしたら、担当の編集者が変わっちゃいますよ。新しい担当は、やたら自分の好みを押しつけてくる我の強いタイプかもしれません。そうしたら、今みたいに自由にできませんよ」
 それは、一考の余地ある指摘であった。
 細川は自らもアイディアを無数に用意してきて、漫画家と二人三脚で作品造りに挑む――というタイプではない。作家に気分良く描かせることを最優先し、その潜在能力を引き出そうというタイプだ。
 もちろん、作家の求めがあれば積極的な助言を与えることもあるのだろう。だが、干渉を嫌う高階に対しては、いつも放任に近いスタンスで付き合ってくれていた。
「それに、ほら。細川さんもちゃんと反省して、色々考えてくれてるんですよ」
 高階が考え込んだのを好機と見たのだろう。佐伯の声音に少し熱がこもる。
「これ、先生が行きたがってたらしい〈マニッシュバーズ〉のチケットです。なんか、豪華客船を借り切った公演があるそうじゃないですか。それを編集部が苦労して――」
 高階は椅子の上で跳ね起きた。
 最後まで聞かず、佐伯が差し出したA4の封筒を奪うようにして手に取る。
「うそ。あれを取れたの?」
 ひっくり返して、中身を作業台の上にぶち撒けた。サイズがそれだけ違ったため、チケットを見つけ出すのは容易だった。青を基調にした〈JYKクルーズ〉の刻印付きケースである。中には確かに、乗船券が二枚。編集部がどう手を回したのか、氏名欄にはタカシナ・ヨシハル様と筆名で登録されている。もう一枚はサイキ・ミチタカ名義。客室タイプは共にPHSとあり、これも注文通りだった。三文字の略字は〈ペントハウススイート〉にしか与えられない、最上級グレードの証である。
 問題があるとすれば一点――。
「なんかこれ、両方とも602号室になってるんだけど?」
「ああ、はい」佐伯が思い出したように頷いた。「流石に二部屋しかない最高グレードの部屋を両方独占ってのは無理だったそうです。二人一部屋ってことで勘弁してくれって細川さんが言ってました」
「ツインか……」
 その方が、シングルで二部屋とるより随分と安く付く。あるいは取れなかったというのは方便で、単に料金を浮かせたかっただけかもしれない。
 一方で、これが非常に入手困難なチケットだというのも、また事実であった。高階自身、取れるとは微塵も期待していなかっただけに、多少の想定外はあれ、やはり素直に喜ばしい。少なくとも多少の妥協を許せるくらいの気分にはなっていた。
「まあ、いっか。じゃあそこは目をつぶろう。しかし佐伯君さ、キミ、このチケット開けてみなかったんだね?」
「はい。先生のですから」
「いや、片方はキミのだよ」
 高階は、サイキ・ミチタカ名義の乗船券を手にとって見せる。
「細川さんからそれらしい話は聞いてましたけど、本当に俺の分だったんですか」
 チケットを手にした佐伯が、まじまじと券面を覗き込んで言った。
「だけど、なんで俺まで?」
「今回の惨劇は、キミや編集部が〈マニッシュバーズ〉の魅力と文化的価値について無理解であることから生じたものだ。で、私は考えたわけ。とりあえず、この無知蒙昧な輩どもに彼女たちのパフォーマンスを見せて、正しい認識を持たせようって」
「それはいかにも先生らしい思考ですね」
 高校時代は本名で普通に呼ばれていたはずだが、ここへ出入りするようになって以来、佐伯は先生付けのペンネームで接してくるようになった。
 だが、高階は「先生」呼ばわりされることを元から好まない。
 そのため再三やめるように命じてきたのに、佐伯は頑として従う気配を見せずにいた。
 これに関しては、担当の細川が裏で糸を引いている節がある。大方、「一社会人として、また業界の慣例として、ケジメだけはきちんとつけなければならない」等と吹き込んだのだろう。そう言われては、生真面目な佐伯に選択の余地などないはずである。
「でも、そうか。チケット取れたのか」
 高階は企画案内のブックレットを手に取り、再び背もたれに寄りかかった。ぱらぱらと捲ってスケジュールなどを確認する。普通に考えて、細川個人の力でこのチケットを取れたとはするには無理がある。まず間違いなく、出版社の上の人間がコネクションを使ったのだろう。
「やる気、出てきました?」佐伯が、まさに顔色を窺うように問うてきた。
「うん。これはテンション上がってくるね」
「開催は今月末ですよ。ストックもないし、ちゃんと仕事しないと参加できません」
「そうなるかな」
 とはいえ、そうシビアな話ではなかった。
 ストックがないと言っても、それは今すぐ印刷所に回せる完成した原稿≠フ貯金がないというだけのこと。草案《ネーム》だけなら、三月末に五十一時間ぶっ続けでペンを走らせ、約六百枚分を一気に描きあげている。
 単行本でいえば三冊相当。向こう半年間、ネームのことを一切考えずに済む量だ。
 このように、筆が走りだしたのを感じると寝食の一切を放棄し、一度に大量のストックを作るのが高階の基本スタイルだった。
 と言うより、他のやり方などできないと言った方が正しいのだろう。
 極限まで集中が高まると、高階は完全に時間の感覚を失う。
 知らないうちに半日が――下手すれば月曜の朝から水曜の夜に飛んでいた、といったことに、どうしてもなってしまうのだ。
 関係者内ではスポーツ業界から言葉を借り、これを〈ゾーン〉に入る、というように表現している。だが、どう呼ぼうが、自分では何としても制御ができない現象であることに変わりはない。はっと気付いた時には空腹と疲労で身動きできなくなっているため、佐伯がいなければ命に関わっていただろうと思うことも度々であった。
 こうした高階のやり方は、業界でもかなり異端な部類に入るだろう。
 少なくとも細川個人に限るなら、編集者として似た事例に当たった経験はないという。
 確かに、毎週ネタに苦しんでは、必死の形相でネームを通そうという漫画家の話は良く聞く。苦心して仕上げても、担当者からあえなく没《ボツ》を食らって描き直し、というパターンも珍しくないとのことだ。
 それ以前、アンケートが示す読者受け次第で、ストーリィ展開に細かい修正を入れたがるのが編集部というものだ。たとえ連載開始前から完璧なプロットを組んでいても、途中で変更の注文を付けられるのが当たり前。一話完結ものならまだしも、ストーリィ漫画では描き溜めというものがそも用をなさないことが多い。
 こうした実情を鑑《かんが》みるなら、担当から既にOKを出されているプロットが先の分まで出来ているというのは、大変な優位性《アドヴァンテージ》と言える。
「……あ、なんか本当にやる気出てきたなあ。と言うか、久々に漫画描きたい」
「本当ですか?」佐伯が目を輝かせる。
「うん。ガッと一気にやっちゃって、クルーズ用に色々買い物とかもしたい」
「やりましょう。気が変わらないうちに今すぐ取りかかりましょう」
「ええと、どっからだったっけ?」
 訊くと、少し待つように言い置いて、佐伯は壁際のキャビネットへ飛んでいった。
 原稿の整理や分類は、アシスタントである彼の仕事だ。素直に任せ、高階はペンと指サックを準備する。後者は、市販の手袋を切り抜いて作った自作の物で、汚れ防止と手への負担軽減には欠かせないものだ。いわゆるペンだこの抑制にはこれがベストの働きをする。
 高階の作業場は、親類から買い取った四部屋一棟のアパートをベースにしていた。
 一階の2DK二部屋をぶち抜いて合体。だだっ広い一部屋にリフォームしたものである。
 その大広間の半分を占めるのは、等間隔に整然と並ぶ天井サイズの書棚の群れだ。
 収められているのは、高階自身の著書をはじめ古今東西の漫画本や小説。そして背景・作画の参考、各種設定の裏付けとなる莫大な数の資料、専門書、論文の類だ。
 四万点を超える蔵書は、時に同業者から貸出しの依頼を受けるほどの充実ぶりである。
 では残るもう半分はと言えば、これは画材や事務関係の書類を収めた荷棚、キャビネットの他、業務用レーザープリンタ、スキャナ、FAX、各種デジタル機材、作業用デスクセットなどからなる実務スペースとなっている。出版社やメディアミックス関連各社から送られてくる製品見本や販売促進用グッズなどが展示されているのもこの空間である。ポスターや|キャラクター人形《フィギュア》をはじめとした小物で非常に混沌としているのはこのためだ。
 高階が気分転換用にゲーム機を持ち込んでいることもあって、仕事場という雰囲気からはどこか遠いところにある。
「――先生、これが来週の分です」
 ややあって、佐伯が駆け戻った。編集部のロゴ入り茶封筒を手にしている。中に収められているのは漫画用B4原稿用紙の束だ。一週間分の枚数と予備。高階が好んで使う、墨トンボが入っていないCタイプがメインになっている。これにもちろん、今回分と前後のネームがセットで揃えられていた。
 どこにでもあるルーズリーフに鉛筆で殴り書きされたネームは、要するに漫画の設計図だ。
 プロが出版用に漫画を描く場合、まずはこの設計図を元に原稿用紙へ下書きを入れるところから始まる。この段階までは、まだ鉛筆しか使わない。一般人が漫画家と聞いてイメージするインク付きペンの登場は、更に次のステップ――清書段階まで作業が進むのを待たねばならない。
「今回、どれくらいかかります?」
 時計を見ながら佐伯が訊いた。釣られて時刻を確認すると、もう十一時近い。
 高階はネームをざっと確認しながら、所要時間を計算した。
 同業のプロの中には、下書きの段階でほとんど完成稿に近いような精密な絵に仕上げてくる者も多い。細かいところまでやっておかないと|清書《ペン入れ》の時にデッサンが狂う。それが彼らの言い分だ。
 しかし、高階は違う。当たり[#「当たり」に傍点]を決めれば、慣れたキャラクターならいきなりペン入れしても支障が出ない速筆型だ。
 高階自身は、細川や佐伯が騒ぎ立てるほど、自分が極端に筆の速いタイプだとは思っていない。ただ、他の作家との違いがあるとすれば、恐らくその下書きからペン入れへのプロセスがそうなのだろう、とは薄々感じていた。
「そうだな、今回は二枚目から四枚目まで。それから九、十二、十三……と、あと十六もだね。この辺の背景は演出優先で消失点なかったり、パースぼかした構図だったりだから、細かいとこまで全部私が描く」
 佐伯は基礎の土台を非常に重要視する、堅実なタイプだ。パースやデッサンに神経質なほどこだわり、手を抜かない。絵からすぐにそのこだわりが見て取れる。
 それは長所だが、表現に遊びがないという意味では短所でもある。
 意図的に崩した上で、崩したなりのバランスを取る能力。その欠如。
 結局、佐伯がプロの漫画家としてやれない理由は、少なくとも作画の面ではそこにある。
 練習の成果を出し切ろう、稽古で身につけたことを全力でぶつけよう。そればかりでいっぱいになってしまう劇団の役者と同じだ。その余裕のなさは、苦労や努力の痕跡まで舞台に出してしまう。きつい稽古をしてきたことまで観客に伝えてしまう。
 それでは夢の一時は演出できない。
 トップスターとは、観客をノせ、空間を支配し、ステージをコントロールする。
 客に自分を観てもらうのではない。自分の世界に客を引き込み、自在に操るのだ。
 それを可能とするためには、稽古の成果を自在に引き出させる余裕と遊びが絶対に欠かせないのである。失敗すればもうあとがない、そんな一生に一度の場で、どれだけ遊びを自分の中に作れるか。
 プロフェッショナルとしてやっていける者と、落ちていく者を分ける部分だ。
「でもまあ、キメゴマもそんなに面倒じゃないし、三時間はかからないんじゃないかな」
 高階はそう結論した。
「じゃあ、昼食はどうしましょうか」佐伯がすぐに言う。
「良いよ。佐伯君は先に食べときな。私は下書き終わってからいただく」
「何か、メニューに注文はありますか」
「夕食にサクッとしたトンカツ食べたいから、昼はあっさり目のが良いな。和食っぽいのにしてくれる? で、夜はどっかに食べに行こう」
「それだと、ちょっと買い出しいかないと駄目ですね」
「頼むよ。キミは好きなの食べて良いから」
 了解と告げ、佐伯はキッチンへと向かっていった。
 他ではどうか知らないが、高階が「アシスタント」と言えば、それは作画の補助だけに限らない雑用全般係を示す。もちろん、そこには食事の世話も含まれていた。他に、担当編集との業務連絡。画材の管理・補充。取材。写真資料の調達なども佐伯の仕事であった。
 一般社会的には、秘書かマネージャーといった表現の方がふさわしいのかもしれない。
「――あ、佐伯君」
 ふと重要なことを思い出し、高階は顔上げた。
 画材を所定位置に並べながら、台所へ声を張り上げる。
「私の昼食、|柴漬《しばづけ》付けといてね。柴漬」


   03

 翌朝、佐伯は八時半に自宅を出た。
 小柄な女性なら丸まって入れるであろう大型のダンボール箱を抱えていた。
 単身者用、三階建てのアパートには当然、エレヴェータなどない。そのため、居住者専用の駐輪場には階段を使う。これだけでもちょっとした労働だが、自転車の荷台にダンボールを固定するのも大変な作業であった。重量はさほどでもないのだが、なかなか手際よくとはいかない。箱に対して荷台が小さすぎるのが問題だった。
 やはり、無理をしてでも自動車学校に通うべきか――。
 こんな時にいつも考える命題も、なんとか固定が済めばまた棚上げされてしまう。
 佐伯は細心の注意を払ってスタンドを倒し、サドルにまたがった。転倒してしまうと惨事になることは目に見えているため、発進時は特に気を遣《つか》う。
 走りだしてものの五分、佐伯は早くも汗ばみ始めていた。
 関東は五月末に梅雨入りしたが、ここのところ降水のない日が続いている。荷物のある今日に限ってはありがたいが、剥き出しの太陽からふりそそぐ鋭い日差しには閉口だった。
 ラッシュアワーの混雑もあり、自転車での移動は体力ばかりでなく神経も使う。
 二駅分を走りきり、ひなびた住宅街に入った時は正直、ほっとする思いだった。
 ここまでくれば、目的地は目と鼻の先である。
 やがて、経年で色と呼べる物が抜けきった古い集合住宅の壁が見えてきた。
 家賃三万八千円の公営住宅だ。
 この辺りに来ると、佐伯はいつもはっきりとした雰囲気の変調を感じる。朝の陽光がふりそそぐ中にあってなお、日陰に踏み込んでしまったような湿り気が空気に混じり出すのだ。その得体の知れない重みは粘度をもって人にまとわりつき、精神を陰鬱にする。
 佐伯はアパートの来客スペースに自転車を停め、段ボール箱を抱え上げた。
 エレヴェータのない四階建ての階段を、苦労して最上階まで登り切る。
 いわく、「足音で分かる」らしい。玄関チャイムを押すとほとんど同時、内側からドアが開かれた。当然、佐伯はこれを計算して一歩引いた地点で待ち構えている。
「ご無沙汰、|小音子《ことこ》先輩」
 佐伯は視界の大部分を覆うダンボールを避け、脇から顔を覗かせた。かろうじて相手の肩口辺りが見える。パステル調の薄黄色のTシャツに、細い腕と白い肌。
 それだけでも相手の性別と年代を知るには充分だ。
「おはよう、みっくん。また来てくれたんだ」
 喜色がはっきりと窺える、若い声が返った。
「朝早く申し訳ない」
「今日はお休み?」
「大学は午後からだよ」
「あ、そっか。火曜日だもんね」
 狙ってそうしたわけではないが、履修科目の都合上、佐伯の火曜日は午前中に講義が入らない日になっていた。職場の方も、高階が起き出すのは昼近くであるし、仕事を始めるのは更にその後、腹を満たしてからになるはずである。
 今日よりペン入れが始まるはずだが、初日は佐伯の出番もない。
 夕方に一度顔を出して進捗《しんちょく》状況を確かめるだけで良かった。
 もっとも、恐らく高階は、佐伯が来たことにも気付かないほど集中し、原稿に向かっていることだろう。そのまま寝食を忘れて仕事を続け、いつも通りなら明け方近くに原稿のほとんどを仕上げた状態で一度ペンを置く。
 アシスタントが一部背景の仕上げやトーン貼りを手伝うのは、そこからの話だ。
「――それより、前も言ったけど、ドアを開ける時はちゃんと相手を確認してからにすべきだ。開き方にも性格が出る。慎重な人間はチェーン越しに小さく開けるけど、先輩みたいにいきなり全開にするやつは警戒心が薄い。セールスを装ってそういうのを事前チェックする空き巣もいるんだ」
「みっくんは心配しすぎだよ。入って入って。そこ、段差気をつけてね」
みっくん≠ヘやめてくれ、という数年に渡る説得と同様、彼女は防犯に関する忠言についてもまったく耳を貸すつもりはないようだった。佐伯は軽く嘆息して気分を切替える。
「この荷物、どこに置けば良い?」
「えっと、じゃあ、キッチンに」と短い声が答えた。
 まさに、勝手知ったる他人の家。足下にさえ気をつければ特に手間取ることもない。
 佐伯はさっさと台所に向かって、小さな食卓に箱を降ろした。
 ようやく視界を塞ぐ障害物から解放される。
「これ、例によって紙おむつと粉ミルクの補充ね。洗剤と無洗米五キロも入れてある」
 負担がかかっていた肘関節をストレッチの要領でほぐしつつ、佐伯は言った。
「でも――」
 もう何度目のやり取りだろうか。いつもと同様、梅原小音子《うめはらことこ》は申し訳なさそうに眼を伏せた。人生経験の表れか、ずいぶんと落ち着いた印象を受けるが、まだ二十一歳。佐伯から見ると二学年上の先輩にあたり、高階芳春とは高校時代クラスメイトであった間柄だ。すらりとしたバランスのよい長身に、小さな卵形の顔。整ったボディラインだけ見れば、とても半年前に出産を経験したばかりとは思えない。
「俺が勝手にやってることだから。小音子先輩は好きに使えば良い」
「でも、合わせたら何万円にもなる量じゃない。みっくんだって、大学で勉強しながら仕事して、学費も生活費も大変なのに」
「何度も言うけど、その歳でシングルマザーやるほどじゃない」
 佐伯は微笑んでみせ、意図して話題を変えた。
「で、千佑《ちゆ》ちゃんは? 声しないけど」
「うん。今、眠ってる」と、小音子が居間の方へ視線をやる。
「そうか。小音子先輩自身はちゃんと眠れてる?」
「――うん。平気」
 自然な返答だった。昔から、嘘が態度にはっきり出るタイプである。本当に一定の睡眠時間は確保できているのだろう。
「ならいいんだ」
 幸いにも、彼女の七ヶ月になる娘は、二時間おきに眠っては起きを繰り返し、親の心身に多大な負担をかけるタイプではなかった。夜泣きは日に多くて三度程度。大抵は、夜中に一度泣き出したあとは朝までぐっすり眠ついてくれると聞いている。
 だが、二十そこそこの若い娘が、たった独りで赤ん坊を育てているのだ。経済的にも精神的にも頼れる相手はどこにもいない。精神・肉体両面において疲労が蓄積しないわけがなかった。
 ――この先、本当にやっていけるのか。どうやって生きていくのか。生活は一向に安定しない。見込みも、見通しも立たない。仮にどうにかなったとして、子育てのことなど何も分からないことは変わらない。自分に育てられるのか。物心ついた時、父親のことをどう説明すれば良いのか。真実を知られた時、自分は母親として受け入れられるのか……。
 毎日が不安、恐怖、ストレスとの戦いだろう。休息はない。解放もない。
 ひたすら削られていくだけの、ディフェンスしかない戦いだ。
「ほんとだ。よく寝てる」
 子どもは、居間に置かれた大きなクッションの上で静かな寝息を立てていた。
 血色は非常に良い。
 佐伯は側《そば》にひざをついて、産毛を撫でるようにその柔らかな頬に触れた。
 ネット上で情報を集め、母乳と粉ミルクの最適な割合を研究したのは佐伯だ。
 差し入れの効果も相まって、栄養状態は悪くないように見えた。
「いつごろまで寝てるかな?」
 後ろからついてきた小音子に訊《たず》ねる。
「つい三十分くらい前に寝ついたの。だから、お昼くらいまでは起きないと思う」
「なら、ちょうど良い。駅前に|至福《ボヌゥル》って美容室がある。ロータリィのところだから、行けばすぐ分かるよ。そこに、先輩名義で十時から予約を入れておいた」
 佐伯は梅原|千佑《ちゆ》の小さな手をつつきながら言った。
「大学の女の子たちに評判を確かめてお墨付きを貰った店だし、そんなに酷い失敗になることはないと思うんだけど、どうかな。料金は前払いしておいたし、この子は俺が見てるから、もし良かったらその間に行って来たら良い」
 赤ん坊とは不思議なもので、手のひらに指を一本そっと当てると、自然とそれを握り返してくる。誰でもそうなのか、千佑に特有の現象なのかは分からない。前者なら、あるいは何かの本能的な習性なのかもしれなかった。
 いずれであれ、今まで佐伯の人生に全く登場機会のなかった存在である。乳児はこれ以上ないほど興味深い研究対象だ。飽きることなく寝顔を眺めていられるという点からして、まず不思議でならない。
 この無力な存在は、周囲からの庇護を得るために特化された形態をとっている。
「可愛らしい」と本能的に感じられるようデザインされているのだ。
 神の計算が宿る造形。人間はそれを取り入れ、自らの創作に応用することができる。
 興味は尽きることなどない。
 そうして、今回もつい見入ってしまうこと数分。おかげで小音子がずっと無言のままでいることに気付くのが遅れた。怪訝に思って、ようやくながら佐伯は背後の様子を窺う。
 ぎょっとした。
 背後に立つ小音子は、声もなく泣いていた。
 何事かと思わず立ち上がる。
「どうした」
 質《ただ》しても小音子はすすり泣くばかりだった。零れ出す大粒の涙を自ら拭っているが、まったく間に合っていない。どうして良いのかまるで分からなかった。
 こうなっては、赤ん坊の方がまだ扱いやすいというものだった。
 空腹、排泄、その他の不快感など、乳児は泣く原因と対処法が比較的はっきりしている。
 多方、成人の精神はずっと複雑で面倒だ。
 いかんともしがたく、途中から佐伯は思考を放棄した。
 もはや、相手が落ち着くのを辛抱強く待つしかない。
「……どうして?」
 途方に暮れてしばらく、ようやく彼女が言語を発してくれた。
 自問とも取れるような、微かな囁きだった。
「なんで、ここまでしてくれるの」
 その一言で、佐伯は肩から力を抜いた。
 今日この部屋で行った幾つかのやりとりと同様である。
 既に飽きるほど繰り返してきた問答の一つであった。
 佐伯は近くのティッシュボックスからちり紙を数枚引き抜き、彼女に渡した。
「先輩、赤ん坊を充分に観察したことがある漫画家は少ないんだ」
 小音子が「えっ」という顔をする。佐伯は微笑みかけながら続けた。
「ウチの先生なんかがまさにそうだけど、今は書き手も低年齢化しててね。独身者が多い。家族や子がいる中堅以上でも、仕事の関係で育児に深く関われるのは小数派だ。実物を知らないから、小さな子どもについての描写はイメージが先行しがちになる。昔から傾向としてそうなんだ。だから、今の状況は漫画家の助手《アシ》として良い機会なんだよ。誤解を恐れずに言うと、事実、千佑ちゃんの面倒は半分、取材のつもりで引き受けてる部分もあるんだ。いずれ仕事で役に立つこともある、と思うからこそのことだ」
「嘘。それって、私の美容室のことまで気が回る説明にはなってない」
「いや、それも応用なんだ」言葉を探しつつ、佐伯は言った。「出版業界のノウハウは、子育てにも使えるんじゃないかって最近、思い始めてね。ちょっと試してるんだよ」
 これは、まんざらでまかせでもない。
 生み育てるという意味において、作者と作品の関係は親と子のそれに極めて近い。
 これに第三者的立場から関与し、漫画家により良い作品を描かせようと苦心する編集者は、母親が良い子を育ててくれるよう願う佐伯の立場に重なる。
「もう話したかもしれないけど、世話になってる編集部に細川さんって人がいてね。彼は、良い作品を生むためには、それを描く漫画家のコンディションを整えてやるのが一番だと常々言っている」
 小音子に目でついて来るよう合図して、佐伯はキッチンに向かった。
 後ろから足音が続いてくるのを確認しつつ、続ける。
「追い詰められた極限状態から凄い物が出てくることもあるけど、基本的に創作ってのは楽しんでやった時に一番良い作品ができるものだ」
「孔子の言うように?」
 小音子が、かつて学年主席を競った実力の片鱗を窺わせる。
|子曰《しいわく》、|知之者《これを知る者》|不如好之者《これを好む者にしかず》、|好之者《これを好む者》|不如樂之者《これを楽しむ者にしかず》=B
 彼女が言わんとしたのは、これだろう。
 単に知っているだけの者は、それを好きでやる者には及ばない。好きでやる人間も、楽しんでやる人間には敵わない。そういった意味の言葉だ。
「そう。楽しんでやるのが一番ってのは、芸術だとか娯楽の区別にかかわらず創作行為に広く言えることだと思う。そして多分、子育てにも通じることだ。アメリカの家族論にもあるだろ。子がハッピィであるためには、まず親がハッピィでなければならない」
 佐伯は食器棚から勝手にグラスを拝借した。
 勝手に冷蔵庫を開けて、勝手に冷えた烏龍茶を取り出す。
 もちろん、小音子はその行動に驚かないし、佐伯も既に抵抗感を失っている。
 そもそもこの烏龍茶のボトル自体、佐伯が自分用に持ち込んだものであった。
「最初は希望とやる気に満ちていても、続けていくうちに疲弊して気力が落ちていくのは仕事も子育ても――漫画家もシングルマザーも変わらない。そういう時、相手が漫画家なら、担当編集は送られてきたファンレターを渡したり、ドラマCD化の話を持っていったりしてやる気を復活させる。可能なら、思い切って休みを与えるのも手だ。その点、母親にファンレターってのは難しいけど、休みを提供することなら俺にもできる」
「それで美容院?」
「そう」佐伯は頷いて、注いだ烏龍茶を一口飲んだ。「実は高階先生にも相談したんだ。そしたら、子どもに拘束・支配された生活からの一時的解放が効果的だろうって助言してくれてね。母親だって要するに女性なんだから、女性として満たされることもプラスだって。たとえば若い娘は、ふと自分の手先に目がいった時、ネイルアートで綺麗にしてあるとそれだけで少し気分が上がるものなんだろう? そういう小さな幸せで良いんだって」
 ただし、子どもの世話のことを忘れるためには、安心して預けられる誰かが絶対に必要だとも言われていた。
 だから佐伯は、時間をかけてその信用を勝ち取る準備をしてきた。千佑の赤ん坊としての特性を詳しく聞き出し、ミルクの作り方、寝かせ方、排泄物の処理、泣き方のバリエーションなどの把握に努めた。かかりつけの医師も聞いておいた。緊急時の対処手順も打ち合わせてある。小音子がコンビニへの買い出しに行っている間など、最初はごく短時間の預かりから始め、三十分、一時間と、独りで赤ん坊の面倒を見られる時間を徐々に長くしていったのも布石の一つだ。
「美容室を選んだのは、多分、一番優先順位が低いからだ。髪なんて、伸びたら伸びたでどうとでもなるだろうからね」
 佐伯の知る学生時代の小音子は、髪型に色々と気を遣っているように見えた。
 だが現在は、少し伸びた黒髪を無造作に後ろでまとめていることが多い。
「それだけ?」
 一瞬の間を置いて、小音子が言った。
 探るような目で、まっすぐ佐伯の双眸を覗き込んでくる。彼女があまり好ましくない話題を持ちだそうとしているのが分かった。
 その予感に違わず、再度、短い沈黙を挟んでから、小音子は切り出した。
「光一《こういち》君とのこと、気にしてるんじゃないの」
 ある程度分かっていながら、それでも佐伯は息を呑んだ。
 もう長いこと、互いに意図して避けてきた禁忌の話題だったからだ。
「……気にしないわけがないだろう」
 平静を装ったつもりであったが、完全な失敗だった。どうしても言葉が熱を帯びる。
「自分の家族がやったことだ。無関心でいられる方がどうかしてる」
「でも、私は自己責任だと思ってる。光一君から告白された時、私は断ることだってできた。でも、付き合うって決めたのは自分。避妊のことだってそう。私がちゃんとしてれば良かったの。家族の反対を押し切ったのも、子供を産むと決めたのも私自身よ。この現状が何かの失敗だとして、私にはそれを回避するためのチャンスが何度もあったんだと思う。仮に責任の一端があるとしても、それは光一君であってみっくんではないじゃない」
「じゃあ、逆の立場だったら、小音子先輩はその理屈で全部割り切れるか?」
 佐伯は首をゆっくりと左右しつつ、自ら続けた。
「仮に先輩個人がそういうタイプだったとしても、これは、自分が全責任を引っ被るから周りは心配するな、で片付けられる話じゃない。もしそう思ってるなら、その認識は甘い。責任はなくても、関係は生じる。これはそういう問題だ」
 ――光一君。
 小音子にそう呼ばれているのは、佐伯の二歳年上の兄、佐伯家の長子にあたる男である。
 小音子や高階芳春とは同郷、同学年であるため、彼らは学生時代の大部分を同じ学舎で過ごした。中学の時に一度、クラスメイトとして揃ったこともあったという。
 そんな彼ら――とりわけ光一と小音子の間に、どんな物語があったのかは佐伯も詳しくない。
 ただ事実として、ふたりは高校二年生の頃から交際を始めた。すぐに、互いの家に出入りする仲なった。佐伯と小音子の友人関係も、それがきっかけで始まったのである。
 当時の佐伯の目に、兄と小音子は仲睦まじい恋人に見えた。自分もいつか、あんな恋愛ができたら良い。そんな風にさえ感じていた。
 憧れていた。
 だが、今から一年半前、破局は突然、訪れた。
 小音子の妊娠したのである。
 とはいえ、佐伯はその時、完全に事件の蚊帳の外に置かれていた。
 光一も小音子も高校卒業と同時に地元を離れ、盛岡市の大学へ揃って進学。それに伴って、アパートで同棲生活をスタートさせていたためである。
 妊娠のことも、別れたことも、全てはずいぶんと後になって人づてに聞いた話であった。
 その話によれば、彼らの関係は光一が小音子を捨て、一方的に絶縁を言い渡すという形で終焉を迎えたという。俺には関係ない。その一言で全てなかったことにしたつもりか、光一の所行はとにかく徹底していたらしい。腹の子どもの認知どころではない。小音子とは一切連絡を絶ち、数ヶ月後には別の女と付き合いだしてさえいたと聞く。
 噂では、その新しい恋人とも間もなく別れ、今はまた別の誰かと一緒だという話だ。
 一方の小音子はと言えば、両親の猛反対を押し切り、子どもを産む道を選んだ。
 大学を辞め、勘当同然に家も出て、たった独りで上京し、この借家に移り住んだ。
 そうして約七ヶ月前に誕生したのが長女の千佑《ちゆ》だ。
 一連の出来事は――特に出産に関しては、後で聞かされた佐伯にとっても大変な衝撃であった。
 かねてより、光一とは容姿・性格ともにそっくりと評され、物心ついて以降でさえ取り違えられることもしばしばだった。本人同士も、似たもの兄弟であることに自覚的であった。二歳差はあったが、双子に近い感覚を共に抱いていた。
 そんな半身とも言える兄が起こした問題だからこそ、考えてしまわずにはいられないこともある。
 俺も、誰かと付き合ってそうと望まず子供ができてしまったら、奴のようになるのか。
 ああも簡単に恋人と我が子を捨て、何事もなかったように振る舞える人間なのか。
 その疑念は真っ先に佐伯の中に生じ、未だに振り切れていない。
 実際の所は分からない。
 それは「絶対にNOだ」と言い切ることができないということでもある。
「――いや、不毛な論争はよそう」
 無言のまま唇を噛むようにする小音子を見て、佐伯は自分が言いすぎたことを知った。
 空気を変える意味で、笑顔を見せる。
「仮定の話をしてもしかたない。今、確実なのは、美容室に入れてある予約の時間が迫ってるってことだ。行く行かないは先輩の自由にして良い。でも、すっぽかせば前払いした金が無駄になる」
「そんな言い方……なんか、ずるい」
「文句は高階先生に言ってくれ」佐伯はにやりとして言った。「俺も最近、あの人から同じ手口でやられたんだ。相手の分まで勝手にチケットを買っておいて、イヴェントに参加しなければ金が無駄になると脅す。不参加の選択肢なんて最初からないっていうね」
「師匠にやられた手を私に使うなんて」
 目はまだ少し紅い。だが、小音子はようやく笑顔を見せてくれた。
 そして、どこか昔を懐かしむようにつぶやく。
「彼女、昔から頭が凄く良かったもんね。なんか男の人みたいなペンネームで呼ばれるようになったみたいだけど、中身は今も変わってないみたい」
「成績良かったの? あの人」
 空気を変える意味も含め、佐伯は話に乗った。
「学年トップクラスだった先輩からそう言われるなら、大したもんだ」
「そういうのじゃなくて、もっと本質的な話」
「つまり、頭のキレというような?」
「うん。なんて言うのかな」しばし思料した後、小音子は「あっ」と小さく声を漏らした。「ほら、私たちが高三の時だけど、〈大谷さん閉じ込め事件〉っていうのがあったじゃない。みっくん、知らない?」
「いや」
「私、その大谷さん当人と凄く仲が良くて。だから、その事件の真相を知った数少ない人間の一人になれたんだけど……ね、うちの学校、放課後になったら教室に鍵がかけられる決まりだったのは覚えてる?」
「ああ。妙にセキュリティ厳しかったね」佐伯は当時を思い返しながら言った。「俺の年代でも、日直が鍵の管理をやらされてたよ」
 朝は一番に登校して鍵開ける。帰りは帰りで最後まで残って、鍵掛けたら職員室に返しに行く。
 誰もが嫌がる仕事だった。だが今となっては懐かしい思い出である。
「そうそう。でね、ある日の放課後、そのシステムのせいで大谷さんが閉じ込められちゃったの。朝、登校してきた日直が鍵を開けたら、大谷さんがいて驚いたっていう……」
「分かるよ」やはり、いつの時代もそういう事件はあるものらしい。自然と笑みがこみあげてくる。「居眠りしていた人間が、きちんと確認しなかった日直に鍵をかけられたりだろう。俺も色々話は知ってる」
 だが、小音子は小さく首を振った。
「大谷さんのは、そういうのは毛色が違った、本当に事件的なものだったの。状況がちょっとしたミステリだったから結構話題になったんだけど、結局、真相は闇の中って感じで有耶無耶《うやむや》になっちゃってね。少なくとも表向きにはそうだったんだけど」
「高階先生は何か気付いた?」
 うん、と小音子が頷く。そして、詳しく事の顛末を話し始めた。
 それは、タネを知ってしまえば、所詮は高校生といったレヴェルのたわいのないエピソードだった。だが、真実に到達できなかった大多数にとっては、確かにちょっとした謎であったのかもしれない。
「――あ、先生で思い出した」
 佐伯は軽く自分の腰の辺りを叩いた。
「話が変わるけど、今月の二十七日から多分、三日か四日、留守にすることになると思う。さっきも言ったけど、高階先生にまんまと嵌められて、ちょっとしたイヴェントに参加せざるを得なくなってね」
「どこに行くの?」
「名古屋。だから、その間は千佑ちゃんを預かれない。小音子先輩も、できるなら子守が必要になるような予定は入れない方が良いと思う」
「そうなんだ。うん。分かった。もともと出かける予定なんてないし、平気」
 小音子は事も無げに笑顔を見せる。
 だがそれは、決して健全な反応とは言えない。
 そもそも、彼女はもっと外に出るべきなのだった。少なくとも佐伯はそう感じる。だが、彼女を取り巻く環境がそれを許そうとしないのも事実である。
 乳児を預かってくれるヘビィシッターや託児所などは、そうそう見つかるものではない。
 結果、遊びはもちろん、できる仕事すら限られてしまうのがシングルマザーだ。
 今の所、小音子はデータの打ち込み代行やダイレクトメールの|投函《ポスティング》など、在宅や子どもを連れて行ける仕事で細々と生計を立てている。
 外出は仕事で必要な時と、買い物くらいに限られるはずであった。
 最近の彼女は、どこか諦観混じりにその現実を受け入れてしまっているようにも見える。
「ね、そのイヴェントってどんなの?」小音子が訊いた。
「ん?――それがなんというか、船の上でやるやつらしくてね。二泊するんだ」
「さっき、四日くらい留守にするって言わなかった?」
「ああ、前日のうちに名古屋に入って、そこでも一泊する可能性があるんだよ」
「今は高階さん、って呼ぶべきなのかな。あの人と二人きりで?」
「いや……まあ、メンツ的にはそうなるけど」
 その日を生きるのに精一杯な人間に、豪華客船のクルーズの話をするのは気が引けた。
 アイドルの公演に出す三百万があれば、小音子は復学できる。その上、生活の質を向上させ、千佑と余裕を持った一年間を送ることもできるだろう。
 佐伯はポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
「先輩、そろそろ出かけた方が良くないか。予約の時間に遅れる」
「うん」流石の小音子も、今度は素直に頷いた。「みっくん、あの、改めてありがとね」
「なにが」
「いつも感謝してるの。本当に」
 突然、改まった態度を取りだした彼女に、佐伯は困惑した。
 お礼などお門違いとしか思えなかった。
 複雑な心境になる――というより、苦みに近いものすら感じる。
「頼むよ。光一が先輩にした仕打ちを考えればこっちは謝るべき立場なんだから。東京に来て初めて先輩を訪ねた時、俺は正直、光一のかわりに罵倒でも平手でも食らってしかたないと思ってたよ。それでも仕方ないって」
 えっ、という表情をする小音子に、佐伯は続けた。
「だってそうだろう。先輩は認知の裁判を起こして、慰謝料や養育費を取ることだってできたはずなんだ。でも、恨み言一つ言わず、独りでツケを背負い込んでる。俺には何の責任もないことだからと笑ってくれる」
 だがそれは、謝罪の機会を与えられないことと同義であった。
 許すと言われて、はいそうですかとは思えない。自分の中に処理できないものが残る。
「俺のやってることは、実際のところ罪滅ぼしのための親切の押し売りでしかない」
「でも、それで私は助かってる。きっと、みっくんがこうして気にかけてくれなかったら、私、きっと酷いことになってたと思うから。千佑も今みたいに健やかではいられなかった。それも事実でしょう」
「たまに差し入れするくらいが、現実にはどれほどのサポートになる?」
 考えるまでもない。多少、生活費が浮く程度だ。何かの決定的要因になどなり得るものではない。
「千佑ちゃんは良い子に育つだろう。今も愛情をたっぷり注がれて、安心しきって眠ってる。それは小音子先輩の力だ。物資の力では絶対にあり得ない。俺なんかに筋違いの感謝をする前に、先輩はきちんとその事実を認めて、自信を持って、胸を張るべきだ」
「あのね、みっくん」
 ゆっくりとした声が言った。
 佐伯には読み解けない複雑な色を湛えた双眸で、小音子が続ける。
「独りきりだと思ってる時に、頑張ってるの知ってるよって、だから少し休んで良いんだよって誰かに分かって貰えることが、どれだけ救いになるものなのか……私も全然知らなかったの。自分で決めたことだから、そのための苦労なんてして当たり前なのは分かってるつもり。分かってたつもりなんだけどね。でも、嬉しいのもほんとの気持ちなんだ」
 最低限の身だしなみを整えた彼女が出かけていくのを、佐伯は玄関まで見送った。
 先月は手入れのみ。今回はカットが入るため、少し髪型を変えて帰ってくるだろう。
 居間に戻り、再び千佑の傍らにしゃがみ込んだ。
 光一は、この子の顔はもちろん、性別も名前も知らないのだろう。小音子が中絶を選ばなかったことすら聞いていないかもしれない。
 なぜ、あれほど無関心でいられるのか。改めて考えた。
 光一だけではない。分からないのは佐伯兄弟の母親も同じだった。息子が余所の娘を孕ませたと知りながら、なぜほとんど反応を示さなかったのか。親として責任の一端を担おう等といった思考が、彼女には恐ろしいほどに欠けていた。
 俺はあの連中とは違う。断じて。
 小音子には償っても償いきれない。知らぬ存ぜぬで、無関係を装うことなど到底できない。心からそう感じ、噛みしめている。
 だが、ならばどうして、自分はこうも必死なのだろう。同時にそんな思いが脳裏を過ぎった。
 光一とも母とも違うと確信を持つならば、なぜ、それを証《あかし》立てようと躍起なのか。捨てられた母子のため、絶えず何かしていなければ不安でたまらなくなる事実にどう説明をつけるのか。
 異性を無意識に遠ざけるようになったのは?
 恋愛に臆病になったのは?
 もしかしたら――という、自身への疑念を拭いきれないからではないのか。
 血は争えないのではないかという怖れがあるからではないのか。
 俺は、贖罪の名を借りた自己証明のために、小音子と千佑を利用しているだけではないのか。
 当の小音子は涙を浮かべて、ありがたいと、救われていると言ってくれた。
 なのに佐伯の心は全く晴れない。自分がそこまで思われることをしているとは到底考えられずにいる。
 どうすれば自分に確信を持てるのか。何をすれば胸を張れるのか。
 今の佐伯には、その足がかりすら見えない。


   04

 高階は署名済みチケットにメーターの金額を書き入れ、運転手に手渡した。編集部にもらったJCBのタクシー券である。「トランクの荷下ろしに手を貸すべきか」と問う運転手に「否」と答え、車を降りた。途端にまとわりつくような熱気が押し寄せてきて、高階は小さく顔をしかめる。
 六月も最終週に入ると日差しはさらに凶悪化しつつあった。
 しかも今年は全国的に空梅雨らしく、連日当たり前のように真夏日が続いている。
 名古屋も例外ではなく、午前中から早くも熱中症注意報が発令されていた。
 だが、こうした条件も受け止め方次第。これから海に出る者としては、鬱陶しい雨模様よりはまし、絶好のクルーズ日和とすら解釈することもできた。
「にしても、ちょっと早く来すぎたかねえ」
 チケットの綴りをジーンズの後部ポケットに戻し、高階は軽く伸びをする。
 文明社会に生きる女性の常識に逆らって、高階は普段からハンドバッグの類を持ち歩かない。ヒップラインがどうとかいう注意も受けるが、気に止めたことはなかった。とにかく物はポケットに押し込むことにしている。化粧直しなどといった儀式から無縁の位置にあればこその特権だ。
「――先生」
 二人分の荷物を抱えて、佐伯が歩み寄ってきた。
 高階は自分の旅行鞄を受取り、目的地側へ身体を向けた。
 信号を渡ったすぐそこには、名古屋港〈ガーデン埠頭〉の正面ゲートが見えている。幾つも赤いカラーコーンが置かれ、真ん中に誘導灯を構えたガードマンが立っていた。
「で、これからどうするんですか。乗船は夕方ですよね。まだ昼前ですよ」
 時間に関しては、わざわざ指摘されるまでもなかった。
 鉄道を利用して佐伯と名古屋に入りしたのが昨日の夕刻。そのままビジネスホテル〈リブマックス〉に直行し、シングル・ルームでそれぞれ夜を明かした。
 明くる今朝、焼きたてのパンで軽く朝食を取り、チェックアウトした時点で時刻はまだ十時であった。それからすぐにタクシーを捕まえ、寄り道もせず|名古屋港《ここ》まで来たのである。距離を考えれば、まだ十時半にもなっていないことだろう。
「佐伯君は、名古屋港に来たことある?」
「関西圏に入ったこと自体、生まれて初めてですよ」
「あ、そう。じゃあ知らないかもしれないけどさ、ここって色んな娯楽施設が固まってるから、半日くらいなら余裕でつぶせるんだよ」
「どうも……そのようですね」
 佐伯が頷く。つい二分前、巨大な観覧車が間近で回っているのを車窓越しに見てきたのだ。当然の反応である。そもそも、道を挟んだすぐ向こう側には、その観覧車を含んだ遊園地の敷地がまだ広がっており、〈ふれあいわんこハウス〉という夢のようなアトラクションの看板も見てとれる。交差点周りに掲げられた表示からは、近くに水族館があることも窺えた。
「ま、とりあえずは水族館だね」高階は横断歩道へ向かい、信号が変わるのを待つ。
「近いんですよね?」
「あの階段を上れば」と、交差点の向こうに見える歩道橋を指して言った。「ものの一分の距離だね。あそこ、コインロッカーがあるから拠点にするにはちょうど良いんだ」
 とはいえ、着替えや寄贈用の本を満載したダンボールまで持ち運んできたわけではない。それら大型の荷物は、専用のタグを付けて既に宅配便で船に送ってある。手荷物にしたところで、乗船手続きを行っているポートビルの受付に預ければ、そのまま客室へ運んで貰うことが可能だ。
 ただ、やはり貴重品は手元に留めておく必要があった。
 水族館は一部を除いて撮影が許可されている。映像系の機材は手放せない。後々、貴重な作画資料になる可能性があるからだ。
 水槽越しの撮影で物を言うのは、技術もさることながら、多様な機材の使い分けだ。
 そのため、装備品が嵩張《かさば》ってしまうのはどうしても避けられない。
 また、高階はいつネタが降って湧いても対応できるよう、画材一式を持ち歩く習慣がある。作品を知らないという子供に渡すため、常に自著を複数冊、佐伯に携帯させているのもいつものことだった。
 信号が変わる。
 道路を横断すると、海側に伸びる立体歩道の階段に向かう。これを上りきれば、そこはもう西埠頭の内側だ。階下には〈からくり広場〉と呼ばれる憩いの場が広がり、その片隅には〈浦島太郎伝説〉がどうだとかいう奇妙なオブジェも見える。
 梅雨時。平日。午前中。
 悪条件が三つも重なっているだけあり、周囲に大きな混雑はなかった。
 遠くに社会科見学か修学旅行と思われる制服姿がちらほら見える程度だ。
「あっ、もしかしてあれが〈あくえりあんえいじ〉号ですか?」
 突然、佐伯が明るい声を上げた。彼が指差しているのは広場左手、ポートブリッジを渡った対岸だった。なるほど、そこには係留《けいりゅう》された朱色の船体が見える。
「違う違う。あれは〈ふじ〉っていう、もう使われてない古い船だよ。そもそも客船じゃない」
「そうなんですか?」
「〈南極観測船〉っていって、流氷なんかをがしがし砕きながら進む船だったらしい。引退後はあそこに固定されて、博物館にされてるんだよ。私も昔、一回だけ入ったなあ。中、どんなっだったっけ。あとで観に行く?」
「面白そうですね」
「じゃ、昼ご飯食べてからね。水族館は反対側。こっちだよ」
 視線のすぐ先に見えるチケット売り場には、四、五人程度の人集りができていた。その列に自ら並び、高階は二四〇〇円のチケットを二枚買った。先程の〈ふじ〉を含め、四施設に出入りできる共通パスだ。片方を佐伯に渡し、北館の入口を潜る。
 記憶通り、コインロッカーは入ってすぐの売店そばにあった。運良く三百円の大型ボックスも空いている。高階は必要外の手荷物を全て預け入れ、身を軽くした。一方、重たい一眼カメラを首からぶら下げ、項垂《うなだ》れるのが佐伯である。
「――結局、俺は荷物から解放されないんですね」
「愛くるしいペンギンやらウミガメやらをファインダーに収めてれば、そのうち重装備で来た甲斐を感じるようになるよ」
「そんなもんですかね」
 この〈名古屋港水族館〉は本州最大の水族館として名高い。それでいて、入館料はおとな二千円、年間パスポートでも五千円と、グレードを考えれば比較的安価に設定されている。北館はフロアが二階分、南館は三階分あり、双方とも大変に広い。移動するだけでも小一時間くらいならあっという間だ。
「先生は前にも来たことあるんですよね」
「爺さん夫婦がクルーズ好きだったからね。連中につれられて、船旅には何度も出た。でもその頃は海外メインで、名古屋港には四回くらいしか寄ってないよ」
「四回も来てれば上等ですよ。詳しいわけだ」
 祖父母につれられて――とは言っても、高階が特別彼らに懐いていたわけではない。
 病院を経営しつつ、臨床医として第一線にこだわり続けた両親に、子どもの面倒を見るゆとりなどなかった。結果、高階は頻繁に祖父母に預けられた。夏休みなど、長期休暇中などは特にそれが顕著であった。ただそれだけのことである。
「でも、ここも変わったな」少し声の調子を変えて、高階は言った。「昔は再入館できなかったから、荷物をロッカーに預けて他の場所を回るなんて不可能だった。小学校に入ってすぐくらいの頃にも来たけど、その時は、そもそもこの北館自体が存在しなかった」
「そうなんですか?」
「うん。この建物ができたのは二十一世紀に入ってからだったかな。一緒に作られたメインプールの規模が世界最大級だっていうんで、竣工時は大々的に報じられたもんだよ。この水族館って、良くも悪くも色々と話題づくりしちゃう所で有名なんだよね」
「悪くもってのは何です? 普通、話題づくりって良いニュースだけ広めるもんでしょ」
「そこが生き物を扱う難しさだよ。ナミちゃんの例を見れば分かるけど、最初は良いニュースとして宣伝したものが相転移して、悪評に変わっちゃったりするわけ」
「ナミちゃん?」
「シャチの女の子。人なつっこくて、甘えん坊で、美人だった。クーちゃんとも親友でね。シャチ自体はこの水族館のマスコットだから大々的に宣伝されるわけだけど、管理体勢が悪くて、この水族館はどっちも死なせてしまったんだよ。あの時の恨みと哀しみ、私はまだ忘れてないぞ」
「ああ、なるほど」
「ま、ちゃんと面白い話としてニュースにされるネタも多いんだけどね」
「TVや新聞になるような話題って、そんなにあるもんですか?」
「いや、大概はどうでも良いような話だよ。たとえば、イワシは本来なら群れ作って泳ぐはずなんだけど、最近、平和すぎて単独行動をする奴等が出てきたらしくてさ。天敵のマグロさんを投入して喝《カツ》入れて貰うことにしました、とか。エイとエイが喧嘩して、負けた方が二十センチもある毒針を刺されたとかいう話もあった」
「そういう路線か」佐伯が笑う。「毒針なんか刺されて、喧嘩で済んだんですか?」
「それが済んだらしい。人間が刺されると最悪、アナフィラキシーショックで死ぬけど、エイ同士じゃそれも効かないみいだね」
「じゃ、今日はその毒針が刺さったエイ辺りから観に行きますか?」パンフレットの館内図に目を落としながら、佐伯が言う。「それとも天敵を投入されたイワシ?」
「いや、イワシもエイもまだ先。広いから、何も考えずに回ると移動だけでかなり時間をとられるよ。なるべく効率良く行こう。ちなみに、私のお勧めはウミガメね。十二時からシャチの公開トレーニングもあるらしいよ」
「昼食はどうするんですか」
「南館にレストランがある。シャチの公開に合わせて、少し早めに済ませとこう」
 言って、高階は順路を進み始めた。入館者を最初に迎え入れるのは、〈オーロラの海〉と名付けらたセクションだ。カナダのハドソン湾をイメージしたというこのプールでは、ベルーガたちが悠然と泳ぎ回っている。白イルカとも呼ばれる海生哺乳類だ。
 もの珍しさからか、佐伯が吸い寄せられるように水槽へ近づいていく。
「これがイルカですか? どっちかって言うとジュゴンに似てる気もしますけど」
 彼の言うように、ベルーガはずんぐりとした体型が特徴的だ。背びれもなく、魚に近いフォルムをした一般的なイルカとはシルエットが大きく異なる。
「それに、ずいぶん大きいですね」
「オスは五メートルを超えるらしい。よく水族館で飼育されてるイルカは二メートル級のもいるから、下手すりゃ倍だね」
「本当に真っ白だ。色素欠乏《アルビノ》かと思ったけど、案内信じるなら違うみたいですね。子供のころは黒っぽい灰色だって書いてある。この、和名だとシロイルカともシロクジラともいうってのは、どういう意味なんでしょう?」
 結局どっちなんだ、という顔で、佐伯は高階をうかがってくる。
「イルカと鯨《くじら》の違いなんて、蝶々《ちょうちょ》と蛾《が》の違いみたいなもんだよ。便宜上の分類法はあるけど、それじゃ区別がつけられないようなケースも多い。イルカも鯨も基本的には同じ動物で、デカめのを鯨、小さめのをイルカって言ってるだけ。この白いやつらは、そのちょうど境目にいるからどっちとも言えるんだろうね」
「そうなんですか?」佐伯が目を丸くして、ベルーガたちの姿を再確認する。「……え、じゃあ、身体の大きさで分けてるってことですか」
「人間を良く知らない宇宙人がいたとしてさ。そいつらが人種とか男女とか無視して、人類を身長一六〇センチを目安に二種類に分類しちゃうようなもんだよ。一六〇センチまでを〈ンガポコ型〉、一六〇センチオーバーを〈ンガピコ型〉とかいう感じでさ」
「ンガポコ?」
「定義付けなんてそんなもんだってこと」
 〈アスペルガー症候群〉は近年、判定基準や分類の改訂が行われた。これにより、病状は何一つ変わってないのに別の病気だと判断される患者や、「お前は今日から何の患者でもない」と判定される人々が現れた。
 シオカラトンボとムギワラトンボは別種ではなく、同じトンボのメスとオスだ。
「枠ってのはね、そのうち必ず陳腐化する」高階は軽く肩をすぼめた。「だから、変にこだわらずに適当に無視してれば良いんだよ」


   05

 佐伯は旅行鞄の握りから手を放した。身体の両脇で重たい落下音が響く。半分は意識的に。だがもう半分は、精神的衝撃が指の屈筋を弛緩させた結果であった。
 岸壁に停留された白い巨船の威容は、それほどのものだった。
 船体のスケールで言えば、昼に観た南極観測船〈ふじ〉と同等か、それ以上。
 元が、生まれも育ちも岩手の内陸部という田舎者だ。佐伯の半生は、海や港等とは全く縁のないものだった。船と言って現実的にイメージできるのは、公園の池に浮かぶボートが精々。そんな人間にとって、これほどの巨大船舶を目の当たりにするのは、生まれて初めての経験であった。
 数百人の寝泊まりを前提とした客船は、まさしく洋上に浮かぶホテルそのものだ。
 実際、船体に浮いた錆《サビ》が見える位置まで寄ると、横倒しにした高層ビルを振り仰ぐような感覚だった。
 佐伯が今立っているのは船首近く。
 目の前に〈あくえりあんえいじU〉という船名の刻印があった。
 船は右舷側を岸壁に寄せて停留されているが、駆動系は既に動きはじめているらしい。船尾側に目をやると、どこからか排気と思わしき黒煙が上がっていた。
 デッキは見える範囲でも五層以上はある。その最上層後部に据え付けられた|橙色《だいだいいろ》の流線型は、恐らく救命艇の類だろう。形状的には、ボートというよりカプセルに近い。それが片側二|艘《そう》、左舷側にも同じ物があるとすれば計四艘設置されていることになる。
 その救命艇の上には、V字型に開かれた翼のようなものが小さくせり出していた。
 気のせいか、先程から立ち上っている排気の黒煙は、その翼の先端から発せられているようにも見える。
 屋上の船尾側にはクレーン、アンテナ塔、アパートで見る貯水タンクに似た巨大な球体が設置されていた。
 当然、それぞれに相応の機能と役割があるのだろうが、佐伯には想像もつかない。
 時刻は十六時を少し回っていた。
 この港に着いたのは朝の十時過ぎだったが、待たされたという感覚はなかった。
 むしろ、もうこんな時間かという驚きの方が強い。
 午前中など、高階と水族館を一周するだけで気付けば終わっていたようなものである。
 昼食後、館外に出てからはもっと早かった。南極観測船〈ふじ〉、海洋博物館などを巡り、遊園地を冷やかして戻ると、あっという間にこの時刻である。
 乗船開始は十七時からだが、ポートビルの案内によると、既に乗船は可能であるらしい。
 それなら――と、佐伯たちはさっさと手続きを済ませていた。
 その証として、名前が刻印されたカード型乗船証も受取っている。
 船内での|身分証明《ID》を兼ねたものだ。
 船上での買い物はこのカードを提示し、サインするだけで済むという。
 下船時に請求書が届けられ、まとめて精算するというシステムだ。
 クレジットカードと紐付けている場合は更に手間が少ない。カード代金の請求時に、使った分が口座から自動で落とされるため、完全なキャッシュレスが実現される。
「――うん? もう乗船、始まってるのかな」
 不意に、背後から低い声がした。
 自分に投げられた言葉のような気がして、佐伯は振り返る。
 体格の良い男がすぐ後ろに立っていた。四十代半ばといったところだろうが、一見、それより若く映る。南国でサーフィンをやり込んできたような日焼けのせいだった。コントラストが希薄であるため、細かな皺《シワ》や陰影を見落としてしまう。
 背丈は佐伯より幾分低いものの、筋肉の量は佐伯の三割増しといったところか。広い肩幅、厚い胸板。そして、白いポロシャツの袖から覗く引き締まった二の腕。学生時代によほど鍛えたのか、現在進行形でトレーニングを続けているに違いない。スポーティに短く刈り込んだ頭髪といい、活動的な印象が非常に強かった。
 目が合うと、彼は白い歯を見せて微笑した。
「この船のクルーズに参加される方ですか?」
 今度は間違いなく佐伯への問いかけだった。
「――そうです。そちらもですか?」
「ええ。まあ、私は妻のついでのようなものですが」
「ああ、ご夫婦で」
 佐伯は大きく頷いた。〈マニッシュバーズ〉は基本的に女性向けのコンテンツだ。
「しかし、クルーズというのは一度経験してしまうと駄目ですね。クセになる。飛行機のせかせかしたツアーなどには、参加できなくなってしまいました」
「船旅をよくされるんですか?」佐伯は思わず訊ね返した。
「ええ、機会さえあればツアーに参加してしまいます。なかなか時間がとれずにこういった短期間のものが多くなりがちですが、年に一度は長期クルーズにも出ますよ」
「でしたら、この船のこともご存じで?」
 佐伯は〈あくえりあんえいじU〉の船体を見やりながら訊いた。
 釣られるように、男もそちらに視線を向ける。
「これの前の、初代〈あくえりあんえいじ〉には一度乗りましたよ。たしか、九州を一周するツアーだったかな。二世号になってからは初めてですね」
「私は客船自体が初めてで。こんなに大きな船を見て驚いてます」
「いやあ、これはかなり小型ですよ。一万トンないでしょう。クルマでたとえるなら、間違いなく軽自動車です」
 男が快活に笑う。これには素直に驚かされた。
「そうなんですか?」
「日本船籍の豪華客船でも、〈飛鳥U〉くらいになれば五万トンはありますのでね。メガシップの世界最大級ともなると、さらに凄いですよ。総トン数は二十万トンを超えてきますし、高さは十五階建て以上、船首から船尾まで三百メートルを超えます」
「三百メートルですか」
 一般的な野球場では、一四〇メートルも飛距離を出せばどの方向に飛んでもホームランになる。三百メートルならスタジアム二つ分だ。
「並べることができたなら、戦艦大和が小物に見えるはずです。三百メートル級には私も一度乗りましたが、内には大きなショッピングモールやゴルフ場があって、|公園《セントラルパーク》には本物の芝や樹木が生えてました。乗員と乗客合わせて最大八千人くらい乗り込めますからね。銀行も郵便局もある。あれはもう船型の町です」
 ――町。
 確かに、千葉や神奈川では、五千人以上の人口があれば「町」を名乗る資格が得られる。八千とはそういった世界の数字だ。
「初めて聞く話ばかりです」佐伯は驚嘆の念を隠さず言った。「豪華客船というと、私のようなド素人の知識は、せいぜいが〈タイタニック号〉止まりで」
「一般的にはそんなものかもしれませんね」男が白い歯を見せて笑った。「あれも当時は世界最大級だったようですけど、現代ではギリギリ中間クラスといったところでしょう。さっき言った〈飛鳥U〉とサイズは変わりません。造船分野でも技術は確実に進歩してますよ」
「なら、安全面の方も期待できそうですね。少なくも自分が乗る船でタイタニックのようなことは起って欲しくない」
 飛行機慣れしていない者が、空の旅を過剰に嫌がるのと同じかもしれなかった。
 タイタニックという有名すぎる実例が「豪華客船」のイメージになってしまっている。沈没という悲劇とセットで、だ。
「日本船籍の船は体制もしっかりしてますから、安心していいと思いますよ。論理的にも、客船が完全沈没することはほとんどあり得ないと聞いてますしね」
 そこで言葉を一度切った彼は、ただまあ――と、若干歯切れ悪く続けた。
「タイタニック同様、人災でなら事故もあり得ますから百パーセントとは言えませんけどね。ほら、例のイタリアの豪華客船なんかがまさにそうでしょう? 海難事故に関しては、お隣も世界的な醜態をさらしたばかりですし。まあ、あれは客船というより改造フェリーですが」
 韓国の件はともかく、イタリアの方には聞き覚えがなかった。訊ね返すと、男は意外そうな顔を見せる。だが、すぐに喜色を浮かべて詳細を語り始めた。
 それによると〈タイタニック号〉の三倍近く大きな客船が、四千人の乗員乗客と共に座礁・転覆するという大事故が近年起ったのだという。ちょうど〈タイタニック号〉の惨劇から百年目に当たる二〇一三年の出来事であった。しかも何の因果か〈タイタニック号〉の遺族も乗り合わせてのツアー中の悲劇であったらしい。
「しかも、レストランでセリーヌ・ディオンの〈マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン〉を流していたちょうどその時に事故が起ったというから、マスコミも大騒ぎでしたよ」
「キャメロン版〈タイタニック〉で流れてた――あの?」
「そう。映画の主題歌だった曲です」男が大仰に頷く。
「嘘でしょう」
 タイタニックが沈んだぴったり百年後に、タイタニックの遺族を乗せて、タイタニックのテーマ流しながら沈む――
「それは、幾らなんでもでき過ぎでは?」
「いやそれが、乗客の証言として新聞がそう報じてるんですよ。それだけじゃなく、事故が起きたのは十三日の金曜日でしてね。確かにお膳立てが過ぎた事件でした」
「なんで沈んだんですか。まさか、氷山にぶつかったとか」
「流石にそこまでは」男は豊麗線《ほうれいせん》をくっきり浮かせて笑む。「現場はイタリアでしたからね。氷山はありません。報道によれば、イタリア国籍の船長が、調子に乗って陸地に船を近づけ過ぎて座礁したらしいですよ」
 聞けばこの船長こそ、一連の転覆事故で最も有名になった人物の一人であるらしい。
 事故当時、ワイン片手に若い女性と食事をしていた彼は、船の座礁を知るや乗客乗員をほっぽり出して真っ先に逃げ出したというのだ。
 当然、救助を行わない逃走も、勤務中の飲酒も重大な海洋規則違反である。
「韓国のフェリーの事故でも、船長が先頭切って逃げ出したんですよね?」
「そう。船乗りとしても人間としても最低の人種です。結局、彼らはどちらも逮捕されて、イタリアの方は禁固二千年だか二千五百年だかを求刑されそうだって言ってましたね。まあ、それくらいの罪はあるでしょうな」
「凄い話だ」
「クルーズ業界じゃこの手の話題は尽きませんよ。〈タイタニック〉がらみで言えば、二〇一六年には〈タイタニックU〉の就航が予定されてますしね。あれも、私からすれば今から事件の匂いがしてならない」
 男は先ほどと一転して朗らかとも言える微笑を浮かべた。
「二号が出来るんですか?」
「ええ。デザインを踏襲したクローンみたいな船って話です。ただそのこと以上に、造ってるのが中国というから皆、心配してるんですよ。脱線した高速列車を埋めた件に負けず劣らず、あの国は海でも色々とゴシップを量産してますからね。新造の客船〈酒鋼号〉が進水式でいきなり沈んだ話なんかは日本のその筋でも有名です」
「お話を聞く限り、確かにちょっと不安になってきますね……」
「まあ、乗り込むのはメイド・イン・チャイナのクオリティに命を賭けることを承知した連中なんですから、万一のことも覚悟の上でしょう。仮に〈タイタニック〉の呪いやらジンクスやらがあったとしても、そういう厄《やく》は彼らが引き受けてくれるわけです。考えようによってはありがたい話ですよ。海の世界ではゲンを担ぎますからね」
 想像するだけで、自然と口元が引き攣ってくる話だった。
「――それにしても、慣れているだけあって色々お詳しいですね」
「いやあ、一方的にまくしたててしまって、お恥ずかしい」
 言葉通り、彼は照れくさそうに顎のあたりをさする。
 が、その表情が何故かいきなり凍り付いた。視線は佐伯から外され、明後日の方向に向けられている。心なしか、顔から血の気が引いたようにさえ見えた。
 何事かとそちらを見やると、船に近づいてくる人影があった。
 どうやら女性らしい。黒地に白いレース飾りが映えた日傘。長袖の上着に、巨大なサングラス。徹底した対紫外線防備で身を固めた、年齢不詳の婦人である。極彩色のグラデーションが足首まで続く超ロングスカートといい、鮮やかな真紅のルージュといい、その出で立ちは強力な個性を発し、周囲の注目を一身に集めている。時に演出や脚本にすら口を出す、大物女優の貫禄だ。
「あなた、こんな所で何してるの。さっさと手続きしてきたら」
 充分な距離まで接近すると、棘のある口調で彼女が言った。
 佐伯はハスキィな低音を想像していたが、思いのほか透明感のある声であった。一方で女優とすれば張りがなく、通る感じもない。
「ああ、すまん。つい話し込んでしまった」男がばつの悪そうな顔で応じる。「キミはもう、手続きしてきたのか?」
「私、喋ってないで動けと言ってるんだけど」
 無下に切り捨て、女は踵を返した。そのまま乗船口の方へと足早に立ち去っていく。その間、彼女は佐伯に一瞥もくれなかった。位置関係から考えて、存在が目に入らなかった可能性はない。見えてはいるが取るに足らない。そう言わんとする振る舞いであった。
 当然、男の方もそのことに気付いている。
 甲高いヒールの音が聞こえなくなると、気まずい沈黙が降りた。
「私の――妻です」
 ややあって、男が申し訳なさそうに説明の口を開いた。
「酷く気分屋でして。びっくりされたでしょう」
「そんなことないですよ」佐伯は微笑して返した。「私の上司も、恐らく奥さんに負けず劣らずの気分屋です。一度機嫌を損ねると、もう手が付けられない」
「まさに妻もそのクチです。天災と同じで、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかなくて」
「奥さん、こっち見てますよ」
「えっ」男が血相を変えて振り返る。
 客船はボートとは違う。甲板や乗り込み口が人間の背丈を超える高さにあるため、航空機のように階段を用いないと中へ入れない。彼の妻は、その搭乗用階段の途中からこちらを睥睨していた。
「本当だ……」妻の姿を認めた途端、男は身体を強ばらせた。さっと眼を逸らし、佐伯へと向き直る。「まずい。もう行かないと」
「多分、今すぐこの場を離れるべきですね。同じ船に乗るわけですから、そのうちまた御目にかかる機会もありますよ」
「ですね。では、申し訳ないですが、私はこれで」
 男が軽く会釈を寄越す。よほど慌てていたのか、佐伯の返礼にも目をくれずに走りだした。全力失踪でこそないが、大き目の又幅《ストライド》で一目散に駆け去って行く。その向かう先はもちろんのこと、白い帆船をイメージしたというポートビルだ。展望台、博物館などを兼ねた名古屋港の顔で、〈あくえりあんえいじU〉への乗船手続はこの一階窓口で受け付けられている。
 男の後ろ姿が手のひらサイズにまで小さくなった時、佐伯は、入れ替わりにこちらへ近づいてくる人物に気がついた。身体の半分は占めようかという脚の比率のおかげで、すぐに高階だと分かった。よほど機嫌が良いと見え、文字どおり弾むような足取りで歩み寄ってくる。
「あれ、佐伯君。なに、まだこんなとこにいたの」
「ええ。まあ。――お知り合いとは、もう良いんですか?」
「うん。単なる見送りだし、昨日もチャットで会話してたからね」
 彼女がポートビルからなかなか出てこなかったのは、このためだった。〈マニッシュバーズ〉ファンクラブの知り合いと展望台で待ち合わせていたのだ。
 熱狂的ファンにとって、イヴェントに直接参加できるかはもはや関係がない。贔屓のスターが来るとなれば、とにかく現地へおもむく。遠目でも良いので姿を確認する。同じ空気を吸う。そうせずにはいられない。
 佐伯には理解の及ばない境地だが、とにかくそういうものらしい。
「まあ、でも新たに有用な情報は得られたよ」
 そのわりには曇りがちの表情で、高階が言った。
「なんです?」
「豪華客船借り切ってのショウなんて〈マニッシュバーズ〉にとっても初めての企画だから、メディアの取材が入ってるってさ」
「メディアって、TVとかですか」
「うん。劇団の広報とは違う、生粋のハイエナの方ね。幸いにも出港と同時に出ていくらしいけど、それにしたって迷惑な話だ。間違ってもカメラで映されたりしないように、奴等が消えるまで部屋《キャビン》で待機してないと」
 どこに出しても恥ずかしくない容姿であるくせ、高階は被写体になることをとかく嫌がる。知人に携帯カメラを向けられても逃げだす徹底ぶりだ。
 かつて、掲載雑誌の表紙を作家陣の集合写真で飾ろうという企画に巻き込まれた時もそうだった。彼女は佐伯を替え玉に差し出し、難を逃れた。TVカメラなど論外だろう。
「じゃあ、連中が準備を整える前に客室に入った方が良いですね」佐伯は言った。「でないと、乗船口で待ち構えて乗客の姿を撮ろうとするかもしれません」
「最悪のシナリオだな、それ」高階は露骨に顔をしかめた。「さっきからなんか、うなじがちりちりするし、気をつけた方が良いと思うんだよね」
「えっ、本当ですか」
 類人猿時代からの野生でも残っているのか、高階は異様なほど凶兆に鼻が利く。
 特に、うなじに違和感を訴えはじめた時の的中率は驚異的だった。佐伯の知る限り、ほとんど百パーセントに近い確率の厄災予知に成功してきた実績がある。
「ちょっと強烈なくらい嫌な予感がするんだよね。もう、乗るの止めろレヴェルで」
「まさか、本当にタイタニックの二の舞じゃないでしょうね」
「まあ、そこまじゃないだろうけどさ。なんか、ハイエナがらみでトラブルが待ってるのかもしれない」
「その程度なら良いですけど」
「全然良くないよ。せっかくの素敵クルーズが台無しじゃないか。佐伯君、ちょっと先に行って偵察してきてよ。その荷物、置いていって良いからさ」
 いざとなればバッグを抱える風に見せかけ、顔を隠すつもりだろう。
 想像すると、なかなかに愉快そうな絵面ではある。
 だが、本人にとってはそれどころではない。
 佐伯は苦笑いしながら了承の旨を告げ、小走りに乗船口へと向かった。


   06

 階段を上り、佐伯は甲板の側部通路を歩いた。
 幅が狭く、他人とすれ違う時は体勢を変える必要がある。
 船内への入口も合わせたように小さかった。大柄な外国人だと一人ずつしか出入りできそうにない。敷居があるためバリアフリィでもなかった。車椅子はさぞかし大変だろうと場違いなことを考える。
 首だけ突っ込んで内部を伺うと、そこは受付《レセプション》であった。
 文字どおり、奥にホテルの受付を彷彿とさせるカウンターが構えられている。既に男性スタッフがチェックインに備えて待機していた。海兵が着るような白い半袖のシャツに、黒いパンツ。近くをうろつく女性スタッフも同様の格好をしているあたり、これが本船乗務員の制服なのだろう。
 彼らは皆一様に肌が浅黒く、やや骨太の骨格で、顔の彫りも深い。同じ日本人には見えなかった。
 ふと、受付の男性スタッフと目が合う。彼は、少し訛りのある日本語で歓迎の意を伝えてきた。佐伯は笑顔で応じ、乗船証を示してチェックインの意志を伝えた。
 レセプションの様子は、天井が低いことを除けば一般的なホテルのロビィと変わらなかった。エレヴェータや階段などが設置された|公共空間《パブリックスペース》であるため、辺りは相応の賑わいを見せている。
 ただ、大半は制服姿の乗務員で、報道関係《プレス》と思わしき姿はない。
 佐伯は一旦、船外に出ると、高階を連れてレセプションに戻った。
 彼女がチェックイン手続きを済ませるのを待ち、ふたりでエレヴェータに乗り込む。
 第7デッキへノンストップで上る。このフロアは船内の最も高い位置にあり、面積が最も小さく、客室も二部屋のみと最も少ない。
 チンという音と共にエレヴェータをおりる。出迎えたシックな絨毯敷の通路が、さっそくグレードの違いを主張している。廊下の先には、艶やかな光を放つオーク材の客室エリアが続いていた。
「こりゃあ豪華ですね。五つ星ホテルの最上階スイートと比較しても遜色ない」
「五つ星ホテルの最上階なんて行ったことあるの?」高階が横目で訊いてくる。
「いや、ないですけど。イメージですよ」
 佐伯と高階の602号室は、右舷側にあった。
 左舷側、すなわち通路を挟んだ対面が601号室だ。
 両方を素通りした通路の突き当たりには強化ガラスの扉があり、ジャグジィ付サンデッキへと続いている。原則〈ペントハウス・スイート〉の乗客にしか開放されない設備だ。
 佐伯はレセプションで受取ったカードキィで、602号のロックを解除した。
 ドアを開け、高階に先を譲った後、荷物を担いで自らも足を踏み入れる。
 客室の内装は、まさに圧巻であった。廊下と同じく木目も美しいオーク材が惜しげも無く使われており、その徹底ぶりは家具類にまで及んでいる。入ってすぐの部屋は独立した広い居間《リヴィング》で、各部屋を繋ぐ|集線中枢《ハブ》にもなっていた。
 高階と二人で入っても窮屈さを感じないウォーキングクロゼット。ダブルシンクの洗面所。バスタブとジャグジィ付の風呂。ハリウッドツインを分離させた巨大な寝台のましますベッドルーム。その高級感と広さは、佐伯が借りているアパートの部屋を遥かに上回っていた。
 六人掛けの高級ソファが設えられた居間のテーブルを見れば、銀の器にカナッペやフルーツが並べられていた。隣には|歓迎用の《ウェルカム》ワインまで用意してある。18-8ステンレスの氷《アイス》バケット付ボトルなど、現実で見るのはこれが初めてであった。
「――へえ、悪くないね。でも、やっぱり狭いな」
「狭いかな」佐伯は首を捻る。「昨日泊まったホテルの部屋よりよほど広いですけど」
「〈飛鳥U〉のロイヤルスイートは、たぶん軽くこの倍はあったと思うよ」
 高階は部屋を見回しながら、さっそくワインボトルを開けようとしている。
 酒を飲めるようになるまであと半年待たねばならない佐伯は、これに付き合えない。しかたなく冷蔵庫を開けた。ひやりとした空気が頬に触れる。中にはビール、清涼飲料水、お茶、ミネラルウォーターなどがずらりと並んでいた。カクテル用と思わしきジュースも幾つか見える。案内によれば、これらの料金は全て船代に含まれており、無料で飲める。また、減った分は一日一度補充されるらしい。
 佐伯はコーラ缶を一本抜いて、プルタブを起こしながら寝室に向かった。
 四畳ほどのスペースにセミダブルのベッドが二台並んでいた。
 後ろは大きな鏡張りになっている。内部を広く見せるためなのか、この船の中では良く見られる意匠だ。
「先生。ベッドルームの先に部屋専用のバルコニィまでありますよ」
 戸を開けてみると、心地よい潮風が吹き込んできた。
 左手には、ご丁寧に小さなテーブルとデッキチェアが二脚置かれていた。
 気が向けば、ルームサーヴィス――アルコールを除けばこれも基本無料だ――を取り寄せ、大海原を眺めながら食事を摂ることもできるわけだ。
「プライヴェート・バルコニィってやつだね。どの船にも、上級船室には必ずあるよ」
 高階がワイングラス片手に近寄ってくる。佐伯の後ろから覗き込むようにして続けた。
「しかし、これまた可愛らしいサイズですこと」
 肩をすくめるようにして言うと、高階は興味を失ったようにリヴィングへ引き返していく。佐伯もあとに続き、クッションのきいたソファに腰を落ち着けた。
「そう言えばさっき、このツアーに参加するっていう男性に会いましたよ」
「ふうん」
 高階はワインをやめ、コーヒーメイカーをセットし始めた。
 元々、酒は窘《たしな》む程度というタイプだ。
 これは、幾ら飲んでもほとんど酔えない体質であるためだと聞いていた。飲み会などに参加すると、ひとりだけ素面《しらふ》で取り残される。必然、酔っ払いの介抱などを押しつけられるため、全く場を楽しめないのだという。
「男の参加者か。その人も〈マニッシュバーズ〉のファンってことかねえ?」
「どうでしょう。一応、妻のお供とは言ってましたけど」
「まあ、男性ファンがいたっておかしくはない。別にどっちでも良いんじゃないの」
「〈マニッシュバーズ〉って、宝塚に方向性が似てるんですよね。俺は、女性のためのコンテンツだとばかり思ってましたけど」
 佐伯はコーラ缶片手に、銀食器からカナッペを一つ摘まみ取った。
 カマンベールと薄切りにされた洋梨が乗っており、全く味に予測が付かない。
 が、口に入れるとこれが以外に合った。小量の黒胡椒が絶妙なアクセントになっている。
「基本的に、女性による女性のための――ってスタンスは佐伯君の認識で正しいんだけど、男性を否定はしないし、男性の固定ファンも小数ながらいるよ」
「そうなんですか?」初耳だった。
「だいたい、引き合いに出してる宝塚歌劇からしてそうじゃないか。漫画家繋がりで言えば〈ゲゲケの鬼太郎〉で有名な水木しげるも宝塚ファンだし、手塚治虫に到っては熱狂的に入れ込んでた」
 一瞬、「えっ」と思った。
 だが、改めて考えると、特に手塚治虫については思い当たるところがある。
 なんといっても、彼が幼少期を兵庫県で過ごしたことは有名な話だ。
 そして兵庫といえば、言わずと知れた宝塚歌劇団の本拠地なのだ。
「手塚は宝塚市に住んでたこともあって、宝塚歌劇を『この世の最高の芸術』とすら評している」高階が言った。「対談で、初恋の女性が近所に住む宝塚の生徒であったと証言してたはずだし、母親によく公演に連れて行ってもらったことから創作にも強い影響を受けたとも言ってるんだ。〈リボンの騎士〉なんか見てごらんよ。まんま宝塚じゃないか」
「ああ、〈リボンの騎士〉。言われてみれば」
 佐伯は首肯する。読んだことこそないが、主人公のキャラクターくらいは知っていた。
 昔、何かのTVコマーシャルでヒロインのアニメーションを見た記憶もあった。
「男装した女の子≠ヘ手塚が無から生み出した奇跡的発明みたいに言う人もいるけど、タネを明かせば単に宝塚を取り入れただけでしたって、単純な話なんだよね。宝塚中毒の産物と本人も認めてる」
「先生は、手塚治虫をあまり評価してないんですか?」
「なんでさ」心外、というように高階は小さく目を見開いた。
「なんとなく批判的というか、シビアというか。彼は〈漫画の神様〉って言われてたほどの漫画家でしょう」
 現在、「漫画」と認識されているものの鋳型《テンプレート》を確立した、ある意味における開祖。漫画にストーリィ性や映画的技法を持ち込んだ最初の一人。先駆者。
 それが手塚治虫だ。
 また彼は、絵の記号化を進めた旗手でもある。
 これにより、絵画的な基礎技術がなくとも漫画を制作できる下地を造ったのだ。
 その他、今に続く技法の数々は手塚の手によって生み出された――と信じる人間は多い。
「漫画史を理解する上での予備知識として知ってはいるけど、単純にクリエイターとしての手塚治虫には特別なこだわりはないよ。好きでも嫌いでもない。どちらかというと、あまり気にならないというか、興味の湧かないタイプの作家だ」
「なぜ?」
「漫画にもってるヴィジョンが違いすぎるからね。サッカーでいうなら、サッカー選手とサッカーゲームを専門にやってるゲームの達人くらいスタンスが違う。手塚治虫は他の漫画家が気になって仕方ないタイプだったけど、私に漫画を通した競争の概念はない」
 確かに、手塚治虫の嫉妬深さや劣等感の強さは有名だ。それを裏付ける関係者の証言だけでもかなりの数に上る。なにせデビューしたての新人にすら、直接向かっていって対抗心を露わにしていたほどだ。
 高階も同じように他人の作品を良く目を通すが、それで他人の才能に嫉妬しているところは見たことがなかった。むしろ、良作に出会えた時は素直に機嫌を良くする傾向にある。
「私はね、自作が読者に与える影響を含めて作品だと認識している」
「ああ、高校時代、誰かからそんなことを聞いた気が」
「まあ、当時から方向性はまったく変わってないしね。だから、他の漫画家がどうとか、何冊売れたとかじゃないんだ。描き手、著作、受け手の三者が生み出す化学変化をもって作品であり、成果なんだ」
「それにしたって、先生の手塚評には端々に棘のようなものが感じられるんですが」
「それは多分、宗教が嫌いだからだろうね。手塚信仰は確かに目障りだ。私の読者の中にも一部、信者と化した連中がいるけど、正直、それすら迷惑に思ってるくらいだから。盲信は本質の理解からむしろ遠ざかる姿勢だ」
「表向きにはできそうにない発言ですね」
「その辺を抜きにしたって、何やっても斬新って言われた時代の評価なんて、多様化が極まった今やっても無意味だろう。それにさ、存命中の手塚治虫は神なんて――少なくとも大衆には――思われてなかったじゃないか。後期に到っては時代においていかれて、晩節を汚すロートル作家って位置づけだったよね? 手のひら返しも良いとこだよ」
「それは〈|B・J《ブラックジャック》〉で見事な復活を遂げたからでしょう」
「そう。それは事実だ。あれは本当に良かったからね。主人公の基本設定といい、ピノコの造形といい、手塚作品の中では珍しくキャラクターで勝負できる作品になった。それが勝因だ。でもその〈B・J〉にしたって、他をぶっちぎるオンリーワンの超メガヒット作ってわけじゃなかったんだよ」
「そうなんですか? なんとなく、他を圧倒してトップを独走してたんだと思ってました」
「同じ週刊少年チャンピオンの中ですら、当時は〈ドカベン〉が人気でも扱いでも頭一つ抜け出ていた。これに〈がきデカ〉が次ぐ形で二枚看板。〈B・J〉は、時期にもよるけど〈マカロニほうれん荘〉、〈魔太郎がくる!!〉、〈750ライダー〉、〈ゆうひが丘の総理大臣〉、〈エコエコアザラク〉なんかと三番手、四番手を争う位置づけだった」
「へえ。〈ドカベン〉ってそんなに強かったんですか。俺は名前を知ってるだけです。あれでしたっけ。去年だか今年だかに、四十年くらい続いた連載にようやく幕が下りたっていう日本最長連載記録の……」
「それは水島新司の〈あぶさん〉だ。同じ野球漫画ではあるけどさ」
「あ、そうでしたっけ」
「とにかく、〈ドカベン〉の地位は当時の販促グッズを見ても一目瞭然なんだよ。常に一番大きく、目立つように描かれてたのがドカベンだ。種類も群を抜いてる。それに他誌では、永井豪の〈デビルマン〉とか梶原一騎原作の〈空手バカ一代〉、小山ゆうの〈がんばれ元気〉が連載されてたしね。不定期連載になってた時期は、まだ二十代の新人だった高橋留美子の〈うる星やつら〉や〈めぞん一刻〉、あだち充の〈タッチ〉の発表期間とも被る。こういうメンツが相手なんだ。当時の読者からトップテンに数えて貰えるか、微妙なラインだったろう」
 八十年代に入ると、その〈B・J〉も終了。ここからの手塚治虫はさらに苦しんだ。
 ドタバタコメディの〈ドン・ドラキュラ〉、ロリータブームに便乗した〈プライム・ローズ〉などの新連載は、いずれも半年から一年足らずで打ち切られたという。
「長年続けてきた〈ブッダ〉も尻つぼみで完結。あとは〈アドルフに告ぐ〉と〈陽だまりの樹〉くらいしか語れるものがないけど、青年誌だったし絵柄も一般受けしなかったしで、一定の評価を受けたってレヴェルの、地味な盛り上がりだった」
 だが、これは仕方ないの話だろう。高階はそう続けた。
 一九八〇年前後といえば〈キン肉マン〉、〈Dr.スランプ〉、〈キャプテン翼〉、〈北斗の拳〉……
 ジャンプ系が、看板《キラー》タイトルを続々とリリースし始めた黄金期だからだ。
「この頃、絵の方では大友克洋も出てきた。〈非手塚的手法〉とも言われた斬新な漫画技法は、むしろ手塚治虫にとどめを刺した感すらある。今では当たり前に使われる、風景だけで状況や場面転換、雰囲気、世界観を説明する手法は、この辺から一気に一般化していった。手塚の絵を決定的に陳腐化させるに到った、鳥山明をはじめとするデザイン系のスタイリッシュな絵柄。熱血や友情に爽快感を加えて描かれるバトル、スポーツ物。どれも手塚本人が自分にない才能、弱点と認めた部分から発生してる」
「黄金期のジャンプ勢がライバルか。それは強敵だったでしょうね」
 水木しげるが〈墓場の鬼太郎〉で妖怪ブームを起こすと、衝撃で階段から転げ落ちた。
 スポ根漫画の人気を理解できず、何が面白いか教えてくれと涙ながら身内に訴えた。
 そんなエピソードを残す手塚治虫のことだ。自分が関われない場所でトップ争いをされていた時代には苦悩もあったことだろう。
「少年漫画はもう無理だと思ったかもね。これまでと違って対抗策が全くない」
「どういうことですか?」佐伯は目をしばたく。
「そもそもね、手塚はみんなが思ってるような発明家じゃなく、その本質はアレンジャーなんだ」
「はあ……つまり?」
「音楽でいうなら作曲家じゃなくて編曲家ってことだよ。無から有を生み出す天才ではなく、別ジャンルの名曲をベースに、まったくの別物に聞こえる三つの曲として聞かせてしまう天才だ。これは、一本のネームから一瞬で複数のストーリーバリエーションを考案している手法からしても明らかだ。万能型に見えて、実は特化型なんだよね。
 じゃあ、何に特化していたかというと、これは非常に乱暴にいうと観念論と人間ドラマだ。手塚はあらゆるシナリオを、自分の土俵に持ち込んでバリエーションをつける。観念と人間ドラマにはデータシートやチャートを用意した理系的な詳細設定を煮詰める必要はない。時に、矛楯すら味になる。だから凄まじい速度で物語を量産できた」
 なんとなく話の流れがどこに向かいつつあるか理解する。佐伯は頷いた。
「それって逆に言うと――」
「うん。逆に言えば、緻密な計算が必要なものには時間的な面を含め対応できない。純粋な試合展開の面白さで見せるスポーツもの、ロジカルな頭脳戦、手に汗握るバトルといった、近年の少年漫画系は無理ってこと。スポ根やラブコメを正面からはやれなかった理由はここにある。万能に見えても、実は近年一番ウケる分野で一番必要とされてる方面の才能が手塚治虫にはなかった。
 絵に関しては例によって僕にも描けるんですよ≠ニか言って――萌え絵っていうの?――今風の美少女絵とか描いてきたかもしれないけどさ。泥臭くすることでしか話作れないタイプだから、話までは造れないんだよ。対応できない。そもそも一枚絵で絵柄再現できることと、話の中でそれを世界観の中で動かせることとは別物で、手塚自身がそのことを一番良く知ってたはずなんだけどね。あのエピソード、天才の微笑ましい一面みたいに見るむきが支配的だけど、クリエイターとしては相当みっともないんだよ」
「確かに、手塚治虫が〈ドラゴンボール〉に対抗して同系統の話を描くと言われても、ちょっと作風や方向性に想像が付かないですね」
「だから週刊文春やコミックトムみたいな、最前線から外れたところを主戦場にせざるを得なかったんだろう。この年代のジャンプ系と並べればはっきりするけど、当時のトレンドを追っていた大衆にとって、手塚治虫は神とかそういう雰囲気じゃなかったんだよ。もし神なんて認識があるなら、せめて読むだろう? でも、もう手塚を追うのは昔からのファンみたいな一部の人だけだった。大人でも〈アラレちゃん〉の流行語でおどけ、子供は〈かめかめ波〉の真似をしていた。八十年代ってのは、手塚治虫がいなければ困る時代じゃなかった」
 では、なぜ――と思った瞬間、高階がまさにその部分に触れた。
「八十年代以降、手塚治虫の名前が残ったのは、偶像化されたからだ。つまり、死んだからだ。今に繋がる〈漫画の神様〉のイメージは、死後に展開されたイメージ戦略による再評価が功を奏したという部分が大きい。なんせ、開祖とか神とか言えば、愛蔵版・全集商法の売上げに拍車がかかるからね。何百冊っていう彼の著書を一番上手いこと売りさばける。芸術だってことにすれば、図書館にも置いてもらえることも既に学習済みだった。少年ジャンプと漫画のリアルタイム人気勝負で戦っても太刀打ちできっこないから、創始者や功労者としてのイメージによって、手塚治虫そのものをブランド化する戦略に出たんだ。結果は、知っての通り大成功を収めている。当時は出版社も編集者もまだ優秀なのが多かったんだ」
「文化的価値という側面で売れば、都の青少年保護条例からも除外してもらえますね」
「そう。都のあの意味不明な反応こそ、偶像としての手塚治虫の実態を如実に物語ってる。〈プライム・ローズ〉も手塚が手がけてれば芸術扱いで聖域化だ」
「俺は藤子不二雄の〈まんが道〉も印象に残ってます。小学校の図書室に置いてあったんですけど、あれだと手塚治虫は本当に神様みたいに描写されてましたよ」
「藤子不二雄は熱狂的な手塚の信奉者だからね。彼らがそう認識してたのはそれで良いけど、読者までそれに付き合う必要はない。同様に、私の手塚評を聞いたからって、佐伯君まで同じイメージを持つ必要もないんだよ? 手塚版〈ブッダ〉を読んで、仏教分かった気になるくらい危険な理解だ。正直、それだけは勘弁してほしい」
「分かってます。これ以上の話は、実際に手塚作品をきちんと読んでからにしますよ」
 高階はコーヒーの残りを飲み干し、にこりとした。
「正直な所、キミは最初からその上でこの話題を持ち出すべきだったと思うね」


   07

 汽笛の音《ね》が高く響き渡った。
 続くこと五秒間。鳴るというより、轟くといった力強さがあった。
 次いで銅鑼《どら》の甲高い音が聞こえ、バンドが演奏が始まる。
 通常、一泊や二泊程度のクルーズでは、見送りも無いに等しい。
 だが、今回は〈マニッシュバーズ〉のファンが多数押しかけており、マスコミの取材もある。古めかしいテープ投げの儀式なども行われているに違いなかった。
 この時、デッキで催されるのがセイラウェイ・パーティだ。
 大量のシャンパングラスが用意され、乗員乗客が総出で出港を祝う。
 偵察を命じたため、佐伯も今頃これに参加しているはずだった。
 問題は〈マニッシュバーズ〉である。彼女たちが顔を見せている可能性を考えると、高階は気が気ではなかった。かつて人間だったことがあるハイエナの影さえちらついていなければ、今すぐ甲板に向かうところだ。
 悶々としているうち、もう一度、今度は小刻みに抑揚を付けた汽笛が鳴らされた。
 その残響が尾を引きながら消えていくと、いよいよ船は動き出す。
 といっても大きな船の場合はここからが長い。
 たっぷり数分かけて回頭し、ゆるやかに離岸する。
 高階はその間、軽くシャワーを浴びた。
 すっきりすると着替えを始める。
 豪華客船は大人の社交場だ。
 海の上だからといって、水着やTシャツ姿でうろつくことは許されない。
 必ず服装指定というものが用意されていて、乗客はこれに従う義務がある。
 自分の客室以外の場所では――時間帯にもよるが――基本的に着飾った格好をしなければならない決まりだ。
 高階がこの日のために用意したのは、スカートスーツだった。
 トップスは、ボリュームのある白いフリルブラウス。
 黒いマーメイドシルエットのスカートは丈が短めだが、日本船籍における略礼装《インフォーマル》はややカジュアルよりであるため問題はない。
 これに同色のテイラージャケットを合わせ、胸元をコサージュで彩る。
 久しぶりにストッキングを履いた足下には黒のパンプス。
 アクセサリは無難に真珠のネックレスを選択した。
 最後に化粧だが、これも簡単に済ませた。
 もともと顔立ちがかなりはっきりしたタイプだ。疲労や体調が肌に影響しにくいという恵まれた体質でもある。そのため普段はほとんどノーメイクで通していた。しっかりやろうにも技術も道具も持っていない。今回も、UVカットの下地でベースをつくり、パール系ハイライトでCゾーンを申し訳程度に賑わすのみ。唇は和蜜のグロスで誤魔化した。
 これはいつだったか、何かのお返しにと佐伯から貰ったものだが、賭けてもよい。
 あの男は間違いなく、自分の贈り物が実用されていることに気付かないだろう。
「――あ、先生。着替えたんですね」
 一通り身支度が整った時、タイミング良くその佐伯が部屋に戻った。様子を撮影してこいと指示していたため、手にはヴィデオカメラ、首からはデジタル一眼をぶら下げている。
 高階を見た瞬間、少し驚いたような顔をしたのはスカート姿を見慣れないためだろう。
 秋冬はシャツにジーンズ。春夏はヨガウェアというのが高階のスタイルだ。
 考えてみれば、女性と一目で分かる格好をするのは高校の制服以来かもしれなかった。
「只今戻りました」
「どう? 私もなかなかだろう」
 高階は腰に両手を当て、軽くポーズをとってみせた。
「先生は背も高いし、引き籠もりのくせに何故かアスリートみたいな体つきしてますから、大抵のものは着こなしますよ」
「ウチの家系は本当、女なのにちょっとしたことで筋肉が付いちゃうからねえ。体重増えるし、合う服が見つからないって嫌がる人も多いんだよ」
 高階がTシャツや伸縮性に富むヨガルックを好むのは、無精もあるにせよ、大部分はこのためである。つまり首や腕、足のサイズが大きくなるため、男性物しか選択肢がないこともザラなのだ。
「その代わり、いくら食べても太らないじゃないですか。矢慧《やえ》ちゃんも完全に同じ遺伝子継いでますよね。百七十センチはあるし、やたら怪力で。引っ越しの時、あの娘《こ》が五百リットルの冷蔵庫一人で抱えてたの、まだ覚えてますよ」
 佐伯のいうヤエとは、日吉《ひよし》矢慧。高階の血縁で、正確には父方の従姉妹《いとこ》に当たる。近所に住んでいることもあり、高階の仕事場にも頻繁に出入りしている娘であった。現役の高校生だが、既に修士クラス以上の数学的才に開眼しているため、高階は彼女を会計担当として正式に雇用している。財政管理はもちろん、版権のマネジメント、資産運用などは矢慧の仕事だ。
「で、セイラウェイはどんな感じだった?」
 高階は、広げたトランクを畳みながら訊いた。
「船内放送もありましたし、ほとんど全員が第4デッキに集まってたみたいですよ。乗組員《クルー》っていうんですか? スタッフの人も結構いて、紙テープ配ったり、楽器演奏してました。先生が言ってたダンスはなかったですけど」
 客船も三万トン前後にもなれば、側面デッキにすら充分なスペースを取ることができる。これを利用して、セイラウェイパーティでは簡単なダンスが行われることも多い。〈あくえりあんえいじU〉は小さ過ぎて、そうしたオプションを用意しにくいのだろう。
「隊士はどうだった。顔見せた?」
「タイシ?」
「〈マニッシュバーズ〉のメンバーのことを、ファンの間ではそう言うんだよ」
 好んで比較の対象とされる|宝塚《たからづか》歌劇団は、現代劇から古典まで様々な演目をこなす。
 だが、〈マニッシュバーズ〉は歴史関係に特化した劇団だ。主に、戦国武将や幕末の英雄達に扮し、現代風にアレンジした鎧兜や衣装をまとって、史実を大幅に脚色、大胆に解釈してこれを演じる。
 宝塚が〈月組〉、〈星組〉、〈花組〉などにグループ分けされる一方、〈マニッシュバーズ〉はその歴史寄りの性格から、新撰組をなぞらえて〈一番隊〉から〈十番隊〉までに自らを組織化し、その構成員個々を隊士と呼ぶのも大きな特徴の一つだった。
 リーダーの芸名も世襲で、花形とされる一番から三番隊までのグループ責任者は、それぞれ「沖田」「永倉」「斎藤」の姓に自分のファーストネームを組み合わせて名乗るのが伝統となっている。
「呼び方はどうあれ、俺が見た限りそれらしい姿はなかったですよ」佐伯が言った。「もしいたらファン達が騒いだでしょうし、流石に気付いたでしょう」
「|報道関係者《ハイエナ》は?」
「話通り、船を下りたみたいです。劇団の広報くらいは残ってるかもしれませんが」
「そりゃ結構。じゃあ、そろそろキミも着替えといた方が良いね」
 そうですねと応じ、佐伯は荷物置き場にしているウォーキングクロゼットに入っていった。どうやらそこで着替えも済ませるつもりらしい。
 出てきた時、彼は何の特徴も無いダークスーツに身を包んでいた。間違いなく、大学の入学式用に購入したものだ。数度しか腕を通していないはずだが、そこは違和感なく着こなしている。元より地味な服装を好む彼には、こうしたフォーマルに近い格好の方が親和性が高いのだろう。
「先生。俺、自分がネクタイの締め方を知らないことを失念してまして……」
「仕方ないなあ。ほら、襟立てて」
 言うと、佐伯は黙って従った。高階は彼の側まで寄り、今度は「気をつけ」と命じた。
「私も他人のやったことなんてないから、上手くいく保証はないよ」
「お手を煩わせまして」
「まあ、ネクタイなんて雑菌の温床になるだけでメリットもほとんどないし、日本の気候風土にも合ってない。ナースキャップみたいに即刻、撤廃した方が良いんだよ」
 返答はない。距離を考慮してか、佐伯は直立不動で呼吸を止めているようだった。
 やってみれば意外となんとかなるもので、手が動くままに任せるとネクタイは簡単に形になった。高階は念のため、二歩ほど下がって出来映えを確認する。
「よし、オッケイ」
 呼吸を再開した佐伯が、大きく息を吸い込んだ。それから頭を下げる。
「ありがとうございます」
「じゃあ、さっそく外に繰り出そうか。佐伯君、美人上司にネクタイ締めてもらったんだから、お礼にその袋はキミが持つんだよ」
「これですか」
 言われた佐伯はソファに向かっていく。二個の大型紙袋のうち、片方に手を掛けた。
「重っ――」悲鳴めいた声と共に彼は顔をしかめた。「なんですか、これ」
「私の著書だよ。まずは第4デッキの図書室《ノーチラスクラブ》に行って、既刊の全巻を有無を言わさず寄贈する。さ、行くぞ」
「勝手に本棚に押し込むんですか。許可を取らずに?」
「寄贈の予定があることは、編集部経由でもう伝えてあるよ」
「しかし、そういう場合は窓口担当の人に渡すのが通常の手続きでしょう」
「社会に対して通常の手続きを取ろうという人間が、漫画家なんぞになるかね?」
 高階は出口に向けていた足を止め、にやりとしながら振り返った。
「それに、渡すだけじゃ、いつ本棚に並ぶか分かったもんじゃない。半年に一度とか、入れ替えの時期が決まってたらどうすんのさ。私は速く効果を出したいんだ。高い金出して豪華客船に乗り込んできた奴らを、漫画に熱中させて引き籠もりにしてやる。全員、世界遺産の観光も忘れて客室から出てこないように。『ツアー最大の思い出は高階作品との出会いでした』と言う奴を一人でも多く生み出すのが私の使命だ」
「この人、表現者にならなかったらテロリストやってたんじゃないか、と時々思いますよ」
「元はと言えば」高階は、佐伯に人差し指を突きつけながら言った。「この船で初めて私を知ったって奴が悪い。クルーズなんか来てる暇があったら私の本を読めと。それに、私がもたらす破壊は創造を前提にしたものだ」
「破壊のための創造がどうとかは、いかにもテロリストが掲げそうなお題目ですよ」
 服装に合うバッグも買ってあったが、例のように高階は手ぶらで部屋を出た。
 直しが必要なほどの化粧はしていない。そのためコスメポーチも必要性を失う。小物の類はスーツのポケットに分散させれば充分収まった。
 素晴らしいのは、乗船証であらゆる買い物が出来るため、財布も必要ないことだった。
 そもそも、金銭の使用機会そのものが客船では稀だ。
 陸路や空路の旅行より料金が割高に設定されているかわり、飲食代は全て無料というのがクルーズの常識である。別料金がかかるのはアルコールのみ。船内で催される各ショウや講座への参加、スパやエステサロンの利用にすら代金の請求は一切ない。
 オプションを満喫すれば、実はいうほど高くはないのが豪華客船の旅というものだ。
「おっと――」
 ドアを出たところで、向かいの部屋――601号のドアが開いた。
 計ったようなタイミングだった。扉自体は内開きであるため、同時に開いても干渉はしない。だが通路が狭いため、間が悪いとこういう時、事故が起きやすくなる。
 今回は衝突こそ避けられたが、高階と鉢合わせかけた男は軽く声を上げた。
 やけに日焼けした、プロゴルファーのような中年だった。
 彼はすぐに取り直し、「失礼」と顎《あご》を引くように頭を下げた。それから、ドアを押さえたまま601号室の中へ声を投げる。
「翔子、本当に行かないのか? 部屋から出ないままで、キミ、夕食はどうするんだ」
「ルームサーヴィスでもとるわよ」
 ややあって、尖った女の声が返った。
「しかし、それじゃ何のためにこのツアーに参加したのか分からないじゃないか。夕食の後は、もうすぐにメインのナイトショウなんだよ。滅多にない機会なんだ。キミも楽しみにしてたのに……」ほとんど懇願に近い調子で男が続ける。「なあ、機嫌なおして二人で行かないか? それに、ルームサーヴィスといってもメニューは軽食ばかりだし、恐らくはほとんどがレトルトだ」
「うるさいのよ」
 荒い足音がして、声の主が姿を現した。七色のペンキをぶち撒けて染めあげたような極彩色の服は、インフォーマルのドレスコードを嘲笑うかのような派手さだった。顔の半分を覆う古いデザンの巨大サングラスといい、長い黒髪を塔のように盛り上げた髪型といい、部屋から出る意志がないことは一目瞭然である。
「さっさと行きなさいよ。しばらく話をしたくないの」
 早足に近付いてきた勢いをそのままに、女は男の胸を両手で突き押した。
 男が体勢を崩したと同時、乱暴にノブを引っつかむ。
 油圧式のクローザーには任せておけないとばかり、力任せにドアが閉められた。
 その構造上、音が響きやすい船内では、こういった行為は御法度とされている。
 そんなマナーなどお構いなしの蛮行だった。
 突き放された男も、このルームメイトの対応には相応のショックを受けていた。
 言葉もなく、呆然とした表情を浮かべている。
 だが、高階の視線に気付くと、慌てて取り繕うような笑みを見せた。
「とんだお見苦しいところを。お騒がせしてすみません」
「また、奥さんとは挨拶させていただけませんでしたね」
 そう言ったのは、遅れて出てきた佐伯であった。
 やりとりから察するに、ふたりはセイラウェイ辺りで既に面識を得ていたらしい。
「申し訳ない。あの通りの気性なもので。あなたには恥ずかしいところをお見せしてばかりですね」
「改めまして、私は佐伯と言います。こちらは連れの――ええ……」
 筆名で紹介すべきか、本名を教えるべきか、編集部の計らいで来ていることもあって迷ったのだろう。佐伯が途中であからさまに口ごもる。仕方なく、高階は自ら名乗った。
「高階です」
「私は笠置光太郎《かさおきこうたろう》と申します。先ほどのは妻で、翔子《しょうこ》というんですが……驚かれたでしょう。改めて、本当に失礼しました」
「特に失礼は受けてませんが、こんなところまで来て夫婦喧嘩とはあまり感心しませんね」
 高階は真面目にそう返す。
「ちょっと、先生」
 諫めようという佐伯の声を無視して、高階は続けた。
「あとで、ご夫婦の関係改善に役立つかもしれない品を部屋までお届けしましょう。細君に渡してください。上手くいけば話し合いをしようという気を起こさせるかもしれません」
「ええと」笠置が困惑気味に言う。「どういった物で? それは……」
「本の一種です。偏見や思い込みから拒絶する可能性が考えられますが、その場合は多少無理にでも読ませてください。それくらいのリスクを冒す価値はありますよ」
「先生、――先生。本当にテロリストみたいになってますから」
 横から佐伯が割り込んだ。高階の肩を押しながら、必死に訴えかけてくる。
「我々は図書室に行く予定だったでしょう。この手の仕事は早く済ませた方が良い」
「そんなに急がずとも、書架は逃げやしない」
「俺の手が限界なんですよ。何十冊と詰め込んでるから、袋の紐が食い込んで血流が止まってる」早口に捲し立てると、佐伯は笠置に向き直った。「すみません、笠置さん。僕たちは所用を片付けてから、ウェルカムパーティに参加しますので」
「分かりました。では、私は一足先にレクチャーホールに行っています。ええと、第3デッキだったかな?」
「そう。レセプションのある階です」
 佐伯の言葉に頷き、笠置は大股にエレヴェータホールへと向かっていった。
 その後ろ姿がエレヴェータホールに消えると、隣から大袈裟な溜め息が聞こえた。
「何をそんなに疲れてるんだ、キミは」
「いえ」佐伯が首を振り振り答える。なにか諦観にも似た表情を浮かべていた。「先生には理解してもらえないことですから」
 深くは追求せず、二フロア分を階段で移動した。
〈ノーチラス・クラブ〉の通称を持つ図書室は、その実、社交場としての顔を併せ持つ多目的な空間だった。ピアノや酒瓶を並べたカウンターバーの存在が、実態を何より如実に物語っている。片隅にはPCブースもあった。公海上では、特殊な衛星回線をつかった設備がないとネット接続すらできない。そのための設備だ。
「しかし、図書室まであるとは驚きですね」
 クラブ内を見回しながら、佐伯が改めて――といった口調で言った。
「世界一周だと四ヶ月、長ければ半年くらい船で過ごすことになるしね。娯楽は色々と必要なんだよ」
 とはいえ、所詮は小型客船である。それが高階の正直な感想だった。
〈あくえりあんえいじU〉の図書室とは、大型の書棚を七つ横一列に並べただけのささやかな物に過ぎなかった。それぞれには両開きのガラス戸が付いており、意匠こそ立派ではある。しかし中には棚板が三段のみ。一段につき三、四十冊の陳列が精々だろう。その下にも収容スペースがあるにはあるが、木製の扉のせいで中を見通すことができない。あるいは閉架スペースなのか。
「これじゃあ、寄贈はむしろ大歓迎って感じだな」
 高階は手振りで荷物を寄越すよう佐伯に要求した。彼は周囲に人目がないことを確認しつつ、こそこそと紙袋を渡してくる。悪戯に無理やり荷担させられている心境らしい。
 彼には勝手に心配させておくことにした。高階は最初のガラス戸を開き、自著〈|BtB《バイト・ザ・ブリット》〉をさっさと並べていく。取り合いが起らないよう、とりあえず二セット。そう考えて準備してきたが、これだけ空きがあるなら倍は余裕で並べられる。内心、ほくそ笑む思いだった。
「先生。終わったなら、早いとこ退散しましょう」
 見えない敵と戦う佐伯が、声を潜めて急かしてくる。
「そんなに気にするほどのことかねえ」
 言いつつも、高階は彼の言葉に従うことにした。予定より多めの四セットを各棚に並べたところで作業を切り上げた。あからさまな安堵の表情の佐伯を連れて、ピアノのそばに見える階段へ向かう。
 ウェルカムパーティの会場はまさに足下だ。天井一枚分の隔たりしかないため、螺旋階段を下り始めると、途中から喧噪が届いてきた。
〈レクチャーホール〉と呼ばれるその部屋は、今は小祭場として煌々とライトアップされていた。ショウ等で使われる木製の円形ステージは小ぶりで、客席とほぼフラットに接続されている。音響や照明などの設備も申し訳程度にしか揃えられていない。
「なんか、もうお開きみたいですね」佐伯が小声で言う。
 彼の指摘通りだった。参加者の多くは席を立ち、既に移動を開始している。夕食のため、第5デッキの大レストランに向かっているのだろう。
「多分、船長とかチョッサーとか、主だったクルーが紹介されて、簡単に挨拶する程度のものだったんだろうね」
「チョッサー?」
「チーフオフィサーの略称がなまった言葉だよ。一等航海士のこと。船員が着てる制服に肩章が付いてたら見てごらん。偉いほど横線が多い。一番上の船長と機関長は四本。チョッサーは三本。クラスが下がると本数も減る」
 佐伯は納得の証に一つ頷く。それから近くの乗務員に声をかけた。振り返ったのは陽に焼けた日本人女性にも見えたが、違ったらしい。答えた日本語に少し訛りがあった。白い上着に、黒いパンツという制服姿。肩章はない。サーヴィス部門の一般スタッフなのだろう。
 佐伯が部屋番号と、遅れて来たため状況を把握できていない旨を告げると、彼女はすぐに対応した。こちらのグループに付いていくように、と部屋の隅にできた小集団へと案内してくれる。
 驚くべきか、そこで待っていたのは船長と船医だった。
 船長は痩身長躯の五十代と思わしき人物で、こういった社交の場を十分に経験してきたらしく、振る舞いが堂々としている。
 一方の船医は、体格的にも態度においても船長とは真逆だった。明らかな肥満体で、身体全体が丸みを帯びている。肉の付いた丸顔の宿命か、本当に若いのか、年齢はまだ三十そこそこに見えた。中高年、あるいは老人と相場が決まっている日本の客船では珍しい年代だ。やはり場慣れしていないのか、やや緊張の面持ちで、動作もぎこちない。
「ああ、おいでにならないので心配していました。船長の香川伸輔です」
 高階達が輪に加わると、船長が柔和な笑顔で名乗った。
 声に、命令し慣れた者に特有の張りと響きがある。
「〈あくえりあんえいじU〉にようこそ。今夜の夕餉《ゆうげ》は、船医であるこちらの兵頭《ひょうどう》先生と一緒に、私たちでおもてなしさせていただきます」
「ご丁寧にどうも。602号室の佐伯です。よろしくお願いします」
 佐伯がしゃちほこばって頭を下げる。高階もごく簡単に名乗った。
 様子を見る限り、集まった乗客は部屋割りをベースにグループ分けされたようだった。それぞれに航海士、総料理長といった責任者クラスがつき、ホストを務めているらしい。客船の初日ディナーでは良くある光景だ。
「ええと、おふたりはこちらの笠置《かさおき》さんとは――」
 船長が、先ほど会った601号室の男を紹介しながら言う。高階たちのグループは、ペントハウススイートの乗客四名と船長、船医という組み合わせのようだった。笠置の妻が欠席しているため、最終メンバーは五名ということになる。
 全員が互いに挨拶をし終えていることが確認されると、香川船長の先導に従いレストランに場所が移された。
〈コンステレーション〉とも呼ばれる第5デッキのこの場所は、船中でもっとも広大な面積を誇る空間の一つだ。全体は巨大なL字型を成しており、十人近く座れる円卓が無数に配置されている。物理的には、最大で二百人前後の人間が同時に食事できるだろう。内装や設備も非常に豪奢なもので、街のレストランとして考えるなら一万円以下の料金で入れるグレードではなさそうに見えた。
「それにしても、船長というのは操舵室《そうだしつ》を離れて問題ないものなんですか?」
 乾杯の後、佐伯が訊いた。
「お客様をもてなすのも、客船の長の重要な役割の一つですよ」
 香川船長が、前菜となる|家鴨《アヒル》胆のムースを突きながら答える。
「もちろん、湾に出入りする時は細心の注意を払わなくてはいけませんから、私自身が舵を直接操縦します。必要ですし、そういう決まりなので。しかし、広いところに出てしまえばあとは優秀なスタッフと、最新の自動操縦システムが船を安全に動かしてくれます」
「そうなんですね。なんとなく、船長は常に舵を握っているものだとばかり」
「そういうイメージを持たれている方も多いですね。しかし、実際には私室で事務仕事をしていることの方が多いかもしれません。佐伯さんは客船は初めてですか」
「ええ」
 それから小豆のスープが出てくるまでの間、船長は客船にまつわる雑学をユーモア混じりの語り口で紹介し、場の空気を解きほぐした。
「そう言えば、僕はドクターが同乗している船というのも初めてなんですが、客船では珍しくないんですか?」
 ふと思い出した、という調子で佐伯が訊いた。これには船医本人が応じる。
「極稀な例外を除いて、客船には必ず船医が乗ってますよ。今回のクルーズには付いてませんが、普通はナースも同乗しています。乗客が千人を超える大型船だとドクターも複数いて、交代制でやってたりしますね。私は経験ないですが」
「だから、クルーズには年寄りが群がるんだよ」高階は横から口を出す。「海外旅行って言えば大概は飛行機だけど、あれは医者なんて付いてないからね。その点、船には絶対乗ってるし、田舎の診療所クラスの設備や薬も揃ってる。主治医《ホームドクター》と相談して、事前に病状を連絡してもらうこともできる」
「ああ、なるほど」佐伯が納得したように頷く。「高階先生や笠置さんは何度も船旅を経験されてるようですし、じゃあ実際にドクターのお世話になったりも?」
「いや、私は頑丈なことだけが取り柄ですしね。特に船医さんのお世話になった記憶はないかなあ」と笠置。「しかし、有り難みはよく理解してますよ。昔、カリブ海のクルーズで、末期癌のご老人と知り合いましてね。余命を宣告されていた方で、船医の先生に色々とサポートしてもらっていたのを見ました。車椅子でやせ細っておられたが、いきいきされてましたよ」
「私も自分ではないね」高階が言った。「さっきの話と矛楯して聞こえるかもしれないけど、多くの場合、船医を必要してるのはどっちかというとクルーの方なんだ。常に客の数倍乗り込んでるから、比率的には当然の話でね。加えて特に外国人スタッフは、稼ぎが減るからって自覚症状隠して乗り続けたりするから問題が出やすい」
「お詳しいですね」船医が忙しく動かしていたナイフとフォークの手を止めた。「高階――先生でしたか? 先程から思ってたんですけど、もしかして私と同」
 と、そこで兵頭医師の言葉は中断された。若い女性がおぼつかない足取りで歩み寄ってきたためである。口元を手で押さえ、辛そうに目を細めた、一目で患者と分かる娘だった。
「どうかされましたか」
 声をかけられるより早く、兵頭は椅子から腰を浮かせた。
「あの、私、デラックス・スイートの――501号室に泊まってる竹中です」
 数歩の距離にあってさえ、聞き取りにくい小声だった。
「多分……酔ってしまったみたいで。お薬みたいなものがあれば、できれば……」
「あ、気分が悪いですか。小さい船ですし、女性は揺れに対して男性より敏感ですからね」言いながらナプキンを手早く畳み、本格的に立ち上がる。「薬は事前に飲んでないと駄目なので、ええと、注射は大丈夫ですか。アレルギィや先端恐怖症とかありません?」
 娘が頷くのを確認すると、船医も同様の仕草で返した。
「とにかく、診療室まで行きましょう。詳しくお話をうかがいます。歩けますか?」
「はい」というか細い声が返る。
「では、申し訳ありませんが私は少し失礼します」
 全員に断ると、兵頭医師は患者に歩調を合わせて出口に向かっていった。
「今日はちょっと波がありますのでね。他にも船酔いする方がいないといいですが」
 船長が心配そうにつぶやく。
「気の毒ですね。あの様子じゃ、今夜のショウは……」
 二人の後ろ姿を見送りつつ、佐伯がぽつりと漏らした。
「そうでもないよ」高階は言った。
「えっ、注射ってそんなに効くんですか」
「相性にもよるけどね。トラベルミンとかメイロンなら、身体に合えばたちどころに効いたりするよ。副作用で眠くなるみたいなことがなければ、ショウ観れるくらいには回復するかもしれない」言って、高階は香川に顔を向けた。「船長《キャプテン》はその辺、実情を普段からご覧になってるでしょう」
「ええ。おっしゃったような薬の種類までは知りませんが、船酔いのクルーやお客さんが酔い止めの注射してすぐに元気になる例は度々見ます。――やはり、高階先生。お医者さんだったんですね」
 高階は肩をすくめた。「単に家が代々医師の家系というだけですよ」
「――あの、佐伯さん」ちょうど対面同士の位置関係にある笠置が、遠慮がちに声をかけた。ここの所、と右手の袖口辺りを示しながら続ける。「何か付いているようですよ。ソースでも跳ねたんじゃないかな」
 言われた佐伯は、自分の右手を確認する。それから、小さく「あっ」と声を上げた。
「本当ですね。気付かなかった」
「一張羅《いっちょうら》になにやってんの。そもそもキミはナイフの扱いが怪しすぎるんだ」
「俺は先生と違って育ちが良くないんですよ。コース料理なんてそうそう食べない」
「大雑把で良いから水洗いで落としてきな。シミになると面倒だよ」
「ですね」言われるままに佐伯が立ち上がる。「ちょっと水洗いしてみます」
「こするんじゃなくて、叩くんだ」
「心得てます。では、失礼して」
 佐伯は会釈して、早足に手洗いへと向かっていった。
「まったく、落ち着きのない」
「しかし、今回のクルーズは本当にお若い人ばかりだ」香川船長はハプニングも余興のうち、というような笑みを見せる。「さっき食前のワインを未成年だと断られましたが、彼はお幾つなんですか」
「十九歳と半年です」
「随分としっかりした青年ですね」笠置が感心したように言った。
「家庭環境の複雑な子ですから、自然と早熟になったのでしょう」
 男性ふたりは、そろって何か察するような首肯の仕草を見せた。それから食事に戻る。
 だが幾らもしないうち、出ていったはずの佐伯が駆け戻った。
 席を立っていくらも経っていない上、形相が普通ではない。
 船長と笠置がぽかんとする一方、高階は違った。
 刃物を持った暴漢に襲われても大袈裟に騒ぎ立てないタイプの男だと知っている。
 ただちに何かが起ったのだと分かった。尋常ではない何かだ。
「先生! 来て下さい。人が倒れてます!」
 彼が叫ぶより早く、高階は椅子を蹴って走りだしていた。


   08

 トイレはレストランを出てすぐの所だった。表示があるので簡単に見つかる。どちらも給仕に教えられた通りだった。男女の別も万国共通の絵図《アイコン》で示されており、迷いようがない。来る時に気付かなかったのが不思議なくらいだった。
 予想していたが、男子トイレは無人だった。船客のほぼ全員が女性なのだ。そもそも使うべき人間が少なすぎるのである。レストランの喧噪もムーディなBGMも、さすがにここまでは届かない。自分の足音が室内に高く反響して聞こえた。
 おあつらえ向きに、手洗い場には大型の洗面台が並んでいたた。まるで、必要なら洗い物もしてくださいと言わんばかりだ。
 助かった。声に出さず唇だけでつぶやいた。さっそく汚した上着を脱ぎにかかる。
 その時、カタンという軽い音が足下で響いた。見ると何かカード型の物が転がっている。佐伯のパスケースだった。ポケットに入れたまま失念していた存在である。
 やれやれと腰をかがめ、カードに手を延ばした。
 刹那、佐伯の視界の端を何かがかすめた。
 気になってそちらに目をやる。位置はトイレの一番奥。床と仕切りの間から、個室に床に大きな影のようなものが見えた。
 カードをスラックスのポケットに移しつつ、まじまじと奥の個室を観察する。ドアが開放状態にある他と違い、そこだけ開き方が中途半端だった。床にある何かが開閉を妨げているらしい。
 自然と足がそちらに向いた。途中、半分無意識に脱いだ上着を羽織る。
 なぜそうしたのかは分からない。あるいは、本能的な防御であったのか。
 なんであれ、佐伯は見た。
 薄目を開けて倒れた男だった。
 赤銅色の肌と鼻梁の立ち方からして、恐らくは東南アジア系だろう。
 それがシルエットの正体だった。
 いわゆるチアノーゼというやつか。見慣れない人種でも、顔色がどす黒く染まっているのが分かる。
 口の端からは――小量だが――細かい泡を伴った血が流れ出ており、制服の白い上着を紅く染めている。右側の鼻孔にも血液らしきものが見えた。何より異様なのは、右側の首筋から頬にかけて広範囲に広がる黒い無数の斑点《はんてん》だった。
 数秒か、それとも数分の空白であったか。
 息をするのも忘れたまま、どれほど硬直していたのかは分からない。
 我に返った佐伯は、深く息を吐いて意識を切替えた。
 まず気付いたのは、呼吸の正常化に伴っていきなり鼻孔を突いてきた悪臭であった。が、周囲に発生源と思わしき汚れは見当たらない。あるいは、目の前の彼が脱ぎ忘れたズボンの中で粗相をしているのかもしれなかった。
 男の年齢はおそらく二十代後半から三十代半ば。便器からずり落ちたように、身体を左壁面に押しつける形で崩れている。
 呼びかけ、軽く頬を叩いたが反応はなかった。時折、全身に震えが走っているが、これは痙攣《けいれん》の類か。双眸は薄目がちに閉じられている。僅かに見える眼球は、酷く充血していた。
 男は完全に意識を失っているようだった。
 唯一の救いは呼吸があることだ。金魚のようにぱくぱくと口を開け、思い出したように時々息を吸い込んでいる。これがなければ死体だと誤認した可能性、大であった。
 ――これは手に負えない。
 そう断ずると、あとの行動は早かった。
 佐伯は脱兎の如く駆け出し、レストランに戻った。よほど酷い顔色しているに違いない。何事かと衆目が集まってくる。だが、それもこれも気にならなかった。恥も外聞も捨てて声を張り上げ、助けを求めた。
 間の悪いことに、船医はまだ席に戻っていない。
 しかし、佐伯には最初から彼を頼る気などなかった。高階さえいれば何とかなる。経験上、無条件にそうとしか考えていなかった。そして当然のように、誰より速く反応したのは彼女であった。
「どこ」駆けつけた彼女が訊く。「男子トイレ?」説明しなくても、既に第一級警戒時の高階に切り替わっている。この勘の良さと判断の速さこそ、非日常時に最も頼れる人物である所以なのだろう。
「そうです。来て下さい」
 やや遅れて船長、甲板員らが集まってくる。
 彼らを伴って佐伯は現場へトンボ帰りした。途中、簡単に状況を説明する。それを聞いた船長の命令で、ウェイターの一人が船医への連絡に走った。
「じゃあ、呼吸はしてるんだね?」
 高階の確認に、佐伯は頷きながら答える。無論、その間も歩調は一切緩めない。
「ゆっくりですが、息はしてました」
「脈はみた?」
「いえ、それは……素人には難しいって聞いてますし。それならその時間だけ早く先生を呼ぼうと」
「その選択は正しいけど、前にあげたスマートフォンのアプリ、覚えてる?」
「あっ」
 はたと思い出す。高階が言っているのは、スマートフォンに搭載されたカメラ用レンズに指を押し当てるだけで、誰でも簡単に心拍数を計測できるアプリケーションのことだ。
 なんでも指先の血管は、心臓が血液を送り込んでくる度、瞬間的に色を変えるのだという。それをカメラ機能を使って検知しているのではないか。高階からそんな説明と共に渡されたシステムである。
 本来は心拍数を計測するためのものだが、原理的には脈の有無の検知にも使えるはずだ。少なくとも、素人が指で触って確認しようとするよりは信頼性が高いだろう。
 百円、二百円のアプリでも使い方次第。盲点だった。
「しかし、何でしょうね。体調不良で便座から落ちて、壁に頭でもぶつけたんだろうか?」
 自発呼吸ありと聞いて警戒レヴェルを下げたらしい。香川船長の声音からは、すっかり硬さが抜けていた。
 彼の説明によれば、どういうわけかフィリピン人|乗組員《クルー》には急性虫垂炎が多いという。いわゆる盲腸《もうちょう》だ。場所がトイレというなら今回もその類ではないか。そう自分の考えを口にする。
 もちろん、彼はすぐに自らの誤りを理解することになった。
 現場に着き、現実の惨状を目の当たりにする。それで充分だった。無数に浮かんだ出血斑と、チアノーゼに染まった異様な顔色。鼻から垂れた血の筋。唇の端で泡立つ唾液。船長ばかりでない。一撃で全員を黙らせ、立ち竦《すく》ませる光景だった。
 もちろん、この場合もやはり高階は例外だった。彼女は真っ直ぐ倒れた男に歩み寄り、傍らに屈み込んだ。まったく躊躇というものがない。すべてを心得ているように見える振る舞いだった。
「この人、誰です?」と、彼女は顔だけ振り返り、集まった全員に問うた。
「チョッサー?」質問をリレーする形で、船長が隣の航海士に回答を求めた。
「はい。ええ――彼は甲板部のフィリピン人|甲板手《クルー》で、アップチャーチ|Q/M《クォーターマスター》です。現在は休憩時間中だったはずですが」
「フィリピン人クルーの副リーダーだったと記憶しているが」つぶやき、船長が高階に訊く。「高階先生、どんな状態ですか?」
「その前に、男衆で広いところに出しましょう。あと、AEDありますかね」
 集まった人の輪の中で白人のウェイトレスが頷き、弾かれたようにトイレから出て行った。その間、野次馬の船客を含めた男四人の手によって、アップチャーチ船員はトイレの外に運び出された。
「それにしても、酷い匂いだ」香川船長が顔をしかめた。
「便失禁してますね」高階が改めて、横たわった彼の側面につく。「床とか汚してたら、掃除の時は手袋二重着用の上、殺菌を徹底するよう指示しておいて下さい」
「分かりました」
「で、佐伯君。見付けた時、この人、もうこんな状態だった? 反応はなかったの」
 胸骨圧迫を始めた高階が訊いた。
「ええ」佐伯は早口に答えた。「はい。なかったと思います」
「|痙攣《けいれん》とかはしてた?」
「痙攣かは分かりませんが、時々、びくびくとなっていたような気がします」
「何にせよ、ゆっくりですが呼吸は確かにしてますな」船長が横から口を挟む。「先生、なんで心臓マッサージを?」
「必要だからですよ。泣いてる子供がしゃくりあげるみたいなやつは、ちゃんとした呼吸じゃない。死戦期《しせんき》呼吸って言って、心肺停止で死ぬ寸前の人間に起る現象です」
「えっ」船長が目を見開いた。「本当ですか」
「少なくともこの人の場合、放っておいたら十分以内に死ぬと思いますよ」
 血の気が引いた。
 だとしたら、とんでもない事実誤認に基づいた報告をしていた事になる。
「すみません」
 佐伯は慌てて頭を下げた。何かあれば自分の責任であるような気がした。
「なんで佐伯君が謝んのさ。キミが息の根とめたわけでもなし。見つけたんだから逆にお手柄だって。統計じゃ医学生だって三割が見間違うんだよ」
 言葉を切ると、高階は小声でカウントしながら心臓マッサージに集中しだした。
 心肺蘇生なら佐伯も一度、学校で講習を受けたことがある。だが、その時の模範と高階は違った。彼女のそれは圧迫間隔が相当に速い。しかも、肋骨をへし折らんとばかりの強さだった。
「先生、俺、人工呼吸した方が良いですか?」
 佐伯は思わず言った。なんとか挽回しようと必死だった。動いていないと落ち着かない。
 だが、「いや、いい」と高階はあっさり拒む。
「口内に血があるしね。佐伯君に二次被害のリスクを負わせるわけにはいかないよ。それよりAEDまだ? 船医常駐だからって、訓練は避難系ばっかやってたんじゃないの」
「面目ない」船長が申し訳なさそうに目を伏せる。「しかし、先生。二次被害というと、もしかして伝染病のような可能性があるんですか。その――黒い斑点のようなものは、素人目にも普通ではないように見えますが。随分と嫌な感じの出血もあるようだ」
「この出血は|播種性《はしゅせい》血管内凝固症候群か、定義を満たしてなくてもそれに近いものが引き起こした現象である可能性が高くて、これはガンとか白血病とか、感染症、出産関連、あと熱中症みたいなものとセットでしか出てきません。どれが原因かは、服の上から診ただけではちょっと判断は難しい。きちんとした検査が必要です」
「つまり……? 今、感染症が原因になることもあるようにおっしゃいましたが」
「私個人の見解では、その可能性は低いですね」
 同時に出ている他の症状を合わせて考えると、伝染病である確率はグンと下がるのだ、と高階は返答した。無論、念を入れての注意は必要である。しかし、客にパニックが起るような説明の仕方は避けるべきだという。
「人工呼吸で触れるなと言ったのは、あくまでマニュアル的に念を入れての話です。未成年者の佐伯君を預かる身として、私には保護責任があるので。他の救急隊員や医者が勝手にやり出したらなら、それは止めませんよ」
「そうですか。いや、船乗りは感染症にどうにも敏感にならざるを得んのです」
「ノロとか最近よく聞きますね。マラリアなんかは昔からお馴染みだし」
「そうなんです。先生もご存じの通り、客船では頻繁に流行するんですよ。時にはツアー計画が狂って会社に大損害を与えます。私も何度か痛い目をみてまして」船長は神妙な面持ちで、高階に頭を下げた。「先生、そこを含めよろしくお願いします」
「なら、ちょっとみなさんに協力してもらえますか。船長はまず、手が空いているクルーに患者の汗を拭けるものを集めるよう、呼びかけて下さい。ドクターには|意識レヴェル《JCS》が何桁とかは良いから、ただ死戦期呼吸の所見でCPR中、AEDも手配しているとだけ言えば状況は伝わります。あと、邪魔な野次馬の整理もお願いします。CPRの訓練してる人は、私と二分間交代。それでも暇な人は――何チャペル氏でしたっけ。とにかく、この甲板部員の彼に呼びかけ続けるように」
「礼拝堂《チャペル》ではなく、|教会堂《チャーチ》です、先生。アップチャーチ|Q/M《クォーターマスター》」
 |船医の《ドクター》兵頭《ひょうどう》が現場に駆けつけたのは、それから三分以上経ってからだった。
 船酔いの娘を連れ、低速で診療室に戻っている途中であったのが災いした。当然、内線では連絡が付かない。結局は呼びに行ったクルーが直接捕まえたのである。
 それだけではない。船医は一度、診療室へ戻る必要があった。往診鞄や担架を持ち出すためだ。総合すれば、三分で現れたのは行幸。むしろ賞賛すべきことなのかもしれない。
 なんであれ、その間も高階は乗務員達を顎で使いつつ、心肺蘇生法をし続けた。
 AEDが届くと速やかに電気ショックも試みた。船医により気管内挿管と呼ばれる手続きの他、輸液、ボスミンなる薬剤の投与も行われた。佐伯には、あらゆる手が尽くされたように見えた。
 それでも、容態は回復しなかった。
 もはや、死戦期呼吸だとかいう口パクも見られない。
 佐伯が航海士を発見してから、三十分近くが経過しようとしていた。
「これ以上はもう……」立ち上がった船医が、額の汗を拭った。「とりあえず、医務室《いむしつ》に搬送しましょう」
「ですね」高階が首肯する。
「高階先生、お力添えいただけますか」
 医師の要請に、高階は再度頷く。「まあ、運ぶ程度なら」
「助かります。それと、最初に見付けた時の状況を詳しくお聞きしたいので、佐伯さんも少しお付き合い下さい」
 船医と佐伯とで担架を持ち上げた。この時、患者の同僚らしきフィリピン人乗務員たちが、涙ながらに付き添えないか申し出た。しかし、兵頭は首を振った。「診察室にそれだけの空間はない」というのが諭《さと》し文句だった。それが事実なのか方便なのかは、佐伯には判断がつかなかった。いずれであれ、他に同行を許されたのは船長だけであった。
「ところで、高階先生。ご専門の方は?」
 移動を始めて間もなく、船医が思い出したように訊ねた。
「専門?」一瞬、高階は怪訝そうな表情を見せる。
 今、訊くことか、という疑問がありありと窺えた。
 気持ちは佐伯も同じだった。初めて背負う人命の重圧に、思考力が鈍っている。先程から、自分の初期対応の誤りが状況を悪くしたのでは――という自責の念で頭がいっぱいだった。
 それでも鈍い頭なりにぼんやりと考えた。高階の専門。
 だが、そもそも漫画家に専門などあるのか。
 確かに、一つの作品を二十年間続けてきたというタイプもいないわけではない。
 四コマ専業もいれば、一貫して野球を題材にし続ける作家もいる。
 だが、現代において彼らは珍種だ。
 特に週刊の少年誌では、作品の入れ替わりが激しい。多くの場合、若手や中堅は作風を確立する前に連載の打ち切りを告げられる。
 その度に手を変え品を変え、時に絵柄を、分野を変え、ひたすらに描き続ける。
 担当編集に押し切られ、望まない方向性の作品を描かされることも少なくない。
 場合によっては、アンケート結果などにより連載途中で大幅な路線変更が求められたりもする。これによって、一つの作品が時期によってまったく違った性格を持つといったこともしばしばだ。
 最初はサッカーで全国大会を目指していた。それが、後半になると超能力が飛び交う大戦争になっている――。そんなケースも決して大袈裟ではない。「どんな作品を専門に描いているのか」と問われて、一言では答えづらい所以《ゆえん》であった。
 と、そこまで考えて、気付いた。
 船医は、高階を同業者と勘違いしていた節がある。兵頭だけではない。あの場にいたほぼ全員が似た状態だったのだろう。その誤解は、まだ解かれていないのだ。
 兵藤医師は、高階がどの分野の専門医なのかを訊ねたのかもしれない。
「そうですね。あまり意識したことがなかったですけど」
 ボタンのかけ違いに気付かないまま、高階が答えはじめた。
「どの分野でも細分化による専門化が当たり前になってきてるのは事実なんですが、私自身は少し考え方が違いまして」
「はあ――」
 今度は兵頭医師が訝しげな顔を見せる。
「そもそも分類ってのは、観測手段の未熟が生むものだと思うんですよ」高階が続けた。「イルカとクジラの区別は、そうしないと研究が追いつかないから必要になるのであってね。本来、進歩とは、既存の枠組みを陳腐化させてナンボのものではないかと。細かく専業化するのは良いとして、でも最終的に――本当に大事なのは、それを統合して何ができるかじゃないかと。最近はそう思うようになってるんですよ」
「何か難しいことをおっしゃいますね」兵頭医師が苦笑いを浮かべる。「でも、言われることは、その通りだと思います。船に乗り始めてから、私も同じ事を痛感してますよ」
 結局、総合力。現実の出来事は人間の決めた枠組みを無視して発生する。
 船医は、はっきりそう言い切った。
「私自身は外科出身なんですけど、客船の上では虫歯が痛いなんて人も診療室に来ます。外国から出稼ぎに来ている船員《クルー》がホームシックの相談に来るのもしょっちゅうです。しかし、その時だって、口腔や精神科は畑違いだからと追い返すわけにはいきません。専門がどうのと言ってられないのは、もう本当にその通りなんです」
「腕一本で生きていかなきゃいけない人は、自然そうなりますね」
 理解を示しつつ、高階は再び少し考えるような仕草を見せた。
「まあ、私の場合、強いて言うならガキ専ってことになるのかな。今は」
「はい?」
「少年向け」
「ああ――なるほど」
「とはいえ、現実的には購買層に歳を食ってるのも混じっていて、それが無視できない比率を固定で誇ってるわけだから、その意味でも、もう枠なんで曖昧もいいところなんですけどね。一本を長くやることになれば、最初は小学生だった子もいつしか成人になってたりするし」
「ええ、その辺は何かと問題になってるみたいですね。心疾患もそうですが、免疫不全症や先天性奇形も、技術の進歩で予後の経過が劇的に改善されてきていますから。しかしその現状に対して、日本では|成人移行期《トランジショナル》ケアの遅れが色々言われてるそうで」
「――そうか、移行期ケアか」高階は難しい顔で顎をさすった。「確かに。ちょっと軌道に乗れば上が引き延ばしにかかってくるのは分かってるんだから、我々の業界でもそういうはっきりとした考え方を取り入れて取り組むべきなのかもしれない」
「確か九大病院が近頃、移行期ケア専門のセクションを新設して話題になりましたよね」
「そう。十八歳前後の慢性疾患を対象にするとか――」
 高階はうんうん頷きながら、なにか真剣な顔で考え事を始めた。最後は、ひとりで何かぶつぶつとつぶやきだす。
「言われてみれば、子どもと大人、男女を分けて扱うことも含め、医療業界とは共通する部分も多い。なるほど、それを念頭に小児科に見立てた上で、連載の超長期化に伴う……移行期ケアか……面白い考え方だ。今まで明確にそれを意識・考慮した上でマーケティングした人いるのかな。矢慧はなんて言うだろう?」
「で、どうしますか、ドクター」香川船長が少し張った声で言った。
 ずっと割って入るタイミングを計っていたのだろう。目の前で訳の分からない会話の応酬が続けば、彼としては当然の対応である。
「はい?」兵頭医師は話の相手を切替え、そちらを向いた。
「いや、私の立場としては、可能な限り航海を計画通りに進める義務がありますのでね。名古屋湾に戻るにしても、進路を変えて緊急寄港するにしても、急いだって一時間以内にというのは難しいですよ。ヘリはヘリで呼んだにしても――」
「ええ、リフト前提ですからね」
「そう。風が強い今は条件が厳しい。何より、騒ぎを大きくしてツアーが中止ともなれば莫大な損失が出てしまう」
「そうですね。この船の中で蘇生に成功しないと、陸に救助を求めても時間的に助からないでしょう。高階先生はどのようにお考えですか」
「大体、同意見です。それより私は原因が気になりますね」
「私もそれは気になりますね」船長が同調した。「伝染病のようなものなら、報告の仕方も変わってきます。その所、実際はどうなんですか」
「伝染病はどうですかねえ」兵頭は顔をしかめる。「私は違うと思いますけど。本人から聞き取りできないのが痛いなあ」
 AED使用時に必要だったため、アップチャーチの胸元は大きくはだけられていた。そのせいで右上半身――特に胸から肩、頬にかけての広範囲――に、どす黒い奇妙な斑点が大量に浮かんでいるのがよく見える。
 まるで黒死病《ペスト》のようだ。そう野次馬の一部をパニック状態に陥れた元凶だ。
「|中毒《トキシン》かなとも思ってるんだけど、それだと経路が分からない」
 高階が独り言のようにつぶやいた。
「船上ですからね」船医も難しい顔をする。「食べ物が悪かったというような症状でもない。乗船前に何か我々の考えもつかないような形で受けたのかもしれませんが、どうあれ急変からの経過も早すぎますよ。外的要因なら腫脹があまり目立たないのも奇妙です」
「凝固系を見たいですね。腎機能、肝機能と合わせて」
「では、私は背中側までちょっと注意して受傷がないか調べてみます。先生、血液検査の方お任せして良いですか」
「生化学系やらはともかく、凝固因子測定機は客船に積んであるもんですか?」
「ええ。廉価モデルですが」
 診療室に着くと、中には若い娘がひとりいた。見覚えがあると思えば、船酔いの患者であった。途中で船医から放り出され、そのまま忘れ去れていたのだ。
 高階の指示で、佐伯は彼女を廊下まで連れ出した。|診療室《Medical Center》のプレートがかけられたドアを閉め、娘に大体の事情を説明する。
 元より優れなかった顔色を更に悪くしつつも、彼女はすぐに状況を理解してくれた。
 待合用のスペースで順番を待つ。そう告げた彼女を残し、佐伯は診療室に戻った。
 狭いというのは、フィリピン人を説得するための方便ではなかったらしい。限られたスペースを〈検査診断室〉〈X線診断室〉〈緊急処置室〉と三分割しているため、メディカルセンターの窮屈さは本物だった。高階達がいたのは緊急処置室であったが、大人が五人も集まれば本当に身動きが取れない。
「凝固測定の見ましたけど、あれ〈シストーア〉の一番ちっこいのですね。ダブルでやると液晶には平均値が出て、個々のは詳細表示で確認するやつ」
「そうです、そうです。ランプが緑になって音がしたら試薬です」高階の声に船医が答える。彼は呼吸器に接続した患者から、注射による採血をしているようだった。「高階先生、そちらの方、お願いして構いませんか」
「良いんですかね、通りすがりの部外者がやっちゃって」
「緊急事態ですから」
 高階は肩をすくめ、兵頭の差し出す数本の採血管《さいけつかん》を受取った。
 二人の間で何か短い確認が行われる。専門用語による意味不明のやり取りだ。
 それが済むと、佐伯に付いてくるよう目で合図しつつ、高階は部屋を出ていった。ドア一枚隔てた〈検査診断室〉に入っていく。そこは普通の病院でいうところの診察室だった。医師が使うデスクセットと、そのすぐ向かいに患者が座る丸椅子。良く見るレイアウトが採用されている。面積は四畳ほどか。そのため、寝台を含めたほとんどの置物が密接配置されているのが違いといえば違いだった。
 高階が最初に行ったのは、採血管のラベル確認であった。
 メモを取ったり、バーコードリーダーを使ったデータの処理をてきぱきとこなしていく。
 彼女が扱う採血管のゴム栓は非常にカラフルで、恐らくは用途ごとに色分けされてるのだと思われた。これの識別を間違うと、検査に支障が出るのだろう。
 やがて、高階は下準備を終えた。すると今度は、血液を放置して様々な小道具の準備にかかる。採血管を一旦、大きめの機械に収めた後も、他の検査機の起動、点検、部品交換と忙しい。
 十五分近く経った頃だろうか。最初の機械が電子音をあげた。高階が待ちわびた様子で採血管を取り出す。ガラス管の血液はずいぶん様子が変わっていた。卵の白身を思わせる黄透明と、赤黒い部分とにはっきりと分離されている。
 検査のひとつではこの透明部分を使うらしく、高階はスポイトに似た道具で手際よく必要分を吸い出していく。最終的に透明液は小さなチューブ入れられ、複合プリンタとレジスターを合体させたような装置にセットされた。
 その後も高階は、すぐに別の機械の操作に取りかかっていった。
 それぞれの装置が求めてくる待ち時間を熟知しているようで、複数の検査が平行して効率良く進められていった。
 高階は病院であった実家、医師であった両親をあまり好《よ》く思っていないようだが、作業をする姿はどこか楽しげに見えた。手際を見る限り、頻繁に親の職場に出入りしていたに違いない。
 職場での高階は、資料の本を読み進めるのが異様に早く、何万冊という蔵書の内容を驚くほどよく記憶している。そうした特性が幼児の頃からあったとすれば、親もすぐ我が子の知能の高さに気付いただろう。早くから英才教育を始めたとして何の疑問もない。
 高階当人にとって、その記憶は今は苦いものなのかもしれないが――
 それでも、楽しかった思い出の全てが消えるわけではないのだ。残るものは必ずある。
 兄が恋人にした仕打ちを絶対に許せないと思う一方、彼を完全には憎みきれない佐伯と同じように。
 と、隣室――〈緊急処置室〉からドアの開く音がした。
 佐伯は首を出して様子を窺ってみる。ちょうど、難しい表情をした香川船長が出てくるところだった。重い身体を引きずるような足取りであった。
「どうか……されましたか」
 声をかけられて、はじめて佐伯の存在に気付いたらしい。はっとした様子で船長が足を止める。彼はすぐには何も答えなかった。深い嘆息が漏れる。それからようやく、重い口を開いた。
「アップチャーチ君が、今しがた亡くなりました。残念です」
 声を聞きつけた高階が出てくる。
「駄目でしたか」薄いゴム手袋を外しながら、彼女が訊いた。
「――ええ。先生にお力添えいただきながら、こういう結果になってしまって」
「今だから言いますが、担架に乗せると決めた時点でドクターはもう蘇生を諦めてました。医師にとって、あれはそういう意味あるの選択だったんです」
 患者と仲の良いクルーがいたため、配慮して決定的な宣告を控えたのだろう。どうか、お気を落とされませんよう。
 高階はそう続けた。珍しく見せる、人として正しい対応だった。
「それで、今後の処理としてはどうなるんですか?」
 ショックが残っているに違いない。船長は常よりワンテンポ遅れの反応で答えた。
「まだ四管の――つまり、第四管区海上保安本部の管轄する水域なので、名古屋海上保安部に私が船長として連絡を入れます。ドクターは病死という診断書を書くということですから、まあ、事件性のない死者が出た時の通常処理ということになるでしょう」
「というと?」
「病死のような場合は、予定通り次の寄港地まで航海を続けることが多いんですよ。今回だと明後日に東京港に入ります。遺体はその時、東京海上保安部の方で簡単に検視されますが、船医がもうやってますから、これも到って形式的なものです」
「では、ショウを含めイヴェントは予定通りに行われるわけですね」
「ああ、そうですね。すみません。それをお訊ねだったんですね。――ええ、ショウに関してはそのつもりです。こんな状況ではなかなか難しいでしょうが、高いお金を出して皆さんせっかく来られたんです。私としては是非、できるだけ楽しんで帰ってほしいですね」
 少し疲労の滲む笑顔を見せ、船長は診療室から出て行った。
 ほぼ入れ替わるタイミングで、また緊急処置室のドアが開いた。今度は船医だった。
 最初の十分間こそ高階だったが、その後は彼が絶え間なく心臓マッサージを続けていたのである。流石に憔悴した様子だった。患者の死亡もこたえたのだろう。
「お疲れさまでした。お亡くなりになったと聞きましたが」佐伯は声をかける。
「ええ。残念ですが」
「遺体はどうするんです?」と、今度は高階が訊いた。
「死後処置をして、後はクルーだけで告別式をやることになると思います。フィリピン人は敬虔なクリスチャンが多いですから、仲間内からも要望が出るでしょう。予定通りショウが行われるなら、その間に非公開で、という形になるでしょうね」
「この手の船には、大概、遺体安置用の設備がありますよね」
「ええ。まあでも、何せ小さな船ですから。安置所《モルグ》も名ばかりの、普通の客室を流用したものだけです。あとは専用の冷凍保存ボックスが一人分ありますね。今回は明後日、海保の係員に引き渡すことになると思うので、告別式が終わった後はこっちのボックスを使って冷凍しておきます。――ああ、そうだ」
 不意に、兵頭は佐伯に視線を向けてきた。
「第一発見者なので、もしかしたら佐伯さんも海保に事情を聞かれるかもしれません」
「そう、ですか……分かりました。心の準備はしておきます」
「で、遺体はその後、本国に空輸するんですか」
 高階が再び質問すると、船医はすぐ彼女に向き直った。
「普通はそうですね。ただそれは、遺体処理の専門業者が引き取っていって、私の手から離れたところで行われる作業になります。彼ら、港まで霊柩車で迎えに来るんですよ。たぶんエンバーミングして、業務用の特殊ルートでフィリピンまで運ぶんでしょうね」
「エンバーミングってなんです?」
「遺体の消毒とか防腐処理とかだよ」首を傾げる佐伯に、高階がフォローの手を出した。「損傷がある時は修復もする。遺族のために綺麗に化粧をしたり、衣装を着せたりする専門の職人がいてね。日本じゃ認知率が低いけど凄く意味のある仕事だ」
「まあ、日本人は病院で死ねる人が多いですからね」船医が言った。「だから、基本的な処置はナースがやってしまいます。それですぐ火葬しますから、あまり普及はしませんね。いつ、どんな死に方をするか分からない途上国や土葬の欧米とは少し事情が違います」
「確かに、日本は病院でほとんど完結させてしまう傾向にある。でも、あれが最低限の処置どまりであるというのも事実だ。訓練された人間が、遺体を遺体と見せないほど見事に整えてくれたとき、そこにはまるで日当たりの良い縁側でちょっと午睡でもしてるみたいな、故人の寝姿が再現されたりする。全然違うんだよ。見れば分かる。このまま安らかに天国に行くんだろうなと思わせる力がある」
 エンバーミング。そんな役割があるのか、と思った。
 だが確かに、遺体確認の際、死んだ家族が苦悶の表情を浮かべているのと、穏やかな顔で眠るように横たわっているのとでは、精神的衝撃がまるで違うだろう。
 恐らく、その瞬間の記憶が生涯にわたって残るであろうことを考えればなおさらだ。
 最後の別れの時、故人が病院で着せられた白装束ではなく、生前好んだドレス、あるいは誇りをもってついていた職の正装などを纏っていれば、きっとその姿は忘れられない特別なものになるだろう。最善の敬意と共に送り出したと胸を張れるだろう。
 今まで、佐伯には考えも及ばなかった世界の話だった。
 一方で、人の死から即座にそこまで想像する人々もいるのだ。
 きっと彼らは、死と隣り合わせた人々を知り、彼らを見送り、また自らにその時が来ることを何度も考えてきた人々なのだろう。死と寄り添った経験を持つのだろう。
 傍若無人。わがまま放題。子どもがそのまま大きくなったような女性であるのに、ふとした瞬間、なぜか到底敵わないと感じさせられる。その理由が少し分かった気がした。
「で、詳しい検視はこれからですか?」
「そうです」高階の問いに、船医が頷いた。「同僚が亡くなったと知れば、同郷のクルー仲間たちが押し寄せてくるでしょうから、急いで死後処置までしなくちゃいけません。皆が心配していたような感染症の疑いも――まあ大丈夫でしょうが――完全にゼロになったわけでもありませんし、ここからは私が独りでやるつもりです。高階先生も佐伯さんもあくまでお客様です。散々お手伝い頂いておいてなんですが、船長も予定通りのイヴェント開催許可を出すと言ってました。もうしばらくすれば、メインのショウが開演になるでしょう。お二人は是非そちらを楽しんでいらして下さい」
 高階が深く頷く。「そうだ、そもそも私たちはそのために来たんだ」
「食事の途中だったことも、すっかり忘れてましたよ」佐伯も同調する。「もう片付けられちゃいましたかね」
「食事の件でしたら、最上級のメニューを好きな時に改めて召し上がっていただけるよう、私から船長に掛け合っておきます。もちろん、会社側の奢りでね」
 兵頭船医が破顔しながら言った。
 佐伯は随分と久しぶりに、本物の笑顔を見た気がした。


   09

〈マニッシュバーズ〉の特別公演は、定刻通りに始まった。
 直前まで伏せられていた演目は「天下布武《てんかふぶ》」。
 織田信長の生涯を、少女歌劇団ならではの大胆な解釈で描いたものであった。
 信長は当然として、目立ったのは森蘭丸《もりらんまる》という小姓の扱いの大きさだった。常に信長に付き従い、戦にあっては最前線に立って剣を振る。物語は彼をもう一人の主人公においた、事実上のダブル主人公ものであったと言える。
 そんな彼らを含めた登場人物を演じるのは、当然ながら男装した少女たちだ。
 必然、「サル」「禿ネズミ」と揶揄された羽柴秀吉すら美形に描かれる。
 佐伯には理解できなかったが、この小綺麗で凜々しい戦国武将達のキャラクター像が世の女性達には受けているのだろう。当時は「衆道」と呼ばれる、男性同士の恋愛に似た関係が普通であったとも聞く。思えば信長と蘭丸との関係は、そうした要素を取り入れた、男性同士の友情のようなものでありながら恋愛にも近しい不思議なものとして描かれていた。
 彼らがまとう具足にも独特の美化があった。史実を無視して中世ヨーロッパの甲冑の要素を取り込んだスタイリッシュなものに改変されていたのだ。
 信長に到っては西洋文化に興味を持っていたという事実があるためか、完全な騎士甲冑をまとっていた。しかも〈第六天魔王〉に相応しく全身が漆黒一色に染め抜かれており、一目見れば忘れられない存在感を放っていた。
 もう一つ佐伯の印象に残っているのは、歌唱シーンが少なさだ。
 歌劇団を謳う割にミュージカル的な要素はむしろ乏しかった。
 かわりに異様に際立っていたのが、アクションシーンだった。
 十代の少女達が、軽量素材とはいえ武者鎧を身にまとい、激しい殺陣を演じきったことには正直、驚愕したと認めざるを得ない。しかも、その所作が明らかに生兵法の付け焼き刃ではないのだ。足の親指を浮かせた古法独特の足運び。重心の安定感。身体に動作を染みこませた者特有の強い説得力があった。
 彼女らの靴底は、きっと平《たいら》にすり減っていることだろう――とは高階の談だ。
 圧巻は火縄銃を得意とする雑賀孫市と、信長の一騎打ちのシーンだった。
 背後のスクリーンに影絵で弾丸を描き、雨あられと襲い来るその銃撃を、信長役の少女が剣さばきで凌いでいく。目で追うのもやっとという速度で動き回る弾の影絵を、信長が完璧なタイミングでことごとく斬り落として見せるのだ。そして白兵戦の間合いまで詰めより、最後は火縄銃で斬撃を防ごうとする孫一を斬り伏せて勝利する。
 観ている時は単純にその舞うような動きに圧倒されていたが、今思えばあれはただ事ではない。高速で動く影絵のアニメーションと演者の動きにコンマ数秒でもずれが生じれば、シーンは破綻する。編集可能な録画ではなく、一発勝負の舞台でそれをやり遂げられるようになるには、一体どれだけの練習を重ねれば良いものなのか。佐伯には想像も付かない領域の神業と言えた。
「で、どうだったよ。佐伯君」
 幕が下り、会場の照明が再点灯される。引き揚げていく観客の喧噪の中で、高階が言った。相手が余韻で起ち上がれずにいるのを分かっていて訊くのだから、意地が悪い。
「降参です。感服しました。正直、女の子のアイドルグループが企画として演劇をやってるレヴェルだと高《たか》をくくってたんですけど、甘く見ていたことを彼女たちに謝罪すべきだと思ってます」
「これで分かったでしょ。彼女たちはプロだ。括《くく》りとしてそうなんじゃなくて、意識の位がそうなんだ」
 高階は我がことのようにふんぞり返っている。だが、その気持ちは分かった。
「確かにあれは、ちょっと演劇やってみるか程度の稽古で身につくものではないですね。何年もそのためだけに特別な訓練を続けて、技術を身体に染みこませた人間にしかできないと思われるシーンが幾つかありました」
「役をもらって舞台に出てくる〈マニッシュバーズ〉本隊のメンバーはね、全員が剣道や薙刀《なぎなた》の有段者なんだよ。特に薙刀の方は全国トップクラスの実力者揃いで、一番隊には去年の高校総体で準優勝してる子がいるし、三番隊のトップは皇后杯で個人優勝して日本一になってる。今日、信長をやってた永倉って子だって、高校時代はインターハイでペアの子と演技優勝組になってる」
 聞けば、この〈マニッシュバーズ〉の活躍により、女子剣道と薙刀の競技人口は近年、爆発的に増加しているらしい。これが文化貢献と認められ、特別表彰も受けたとのことだ。
 漫画の世界でも、〈キャプテン翼〉が流行ればサッカー少年が量産され、〈スラムダンク〉が人気になればバスケ部に入る学生が増えた。同じことなのだろう。
「でも本当、驚いたな……」佐伯は全身から力を抜いた。椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げて息を吐《つ》く。「なんと言うか、感動しましたよ。凄いもんですね」
「史実を面白可笑しく弄ってたり、登場人物が全員若い美形だったり、そういうところで叩かれるのは仕方ないけど、純粋に舞台としてのクオリティは高いんだ。海外でもアート扱いで紹介されてる。でも、世の連中は偏見を先走らせて、認めなきゃいけない部分まで否定しちゃうんだよね。観もしないでイメージで批判してる」
「偏見との戦いって意味では、漫画っていう媒体も負けてませんが」
「そう。高校時代、文化系部活のインターハイとも言うべき〈全国高校総合文化祭〉ってのがあったけど、漫画は出品させて貰えなかった。文芸や写真や演芸はOKなのにね。世界最大のコミック先進国のくせに、日本じゃ漫画は文化じゃないんだ」
「この後、彼女たちと懇談会だか懇親会みたいなのがあるんですよね」
「うん。準備に三十分かかるらしいけど」
「また、えらく間隔開けますね。日付が変わっちゃいますよ」
 しかも、最初に出てくるのは裏方だった予備メンバー達だ。彼女たちとのビンゴ大会などが三十分ほど続き、そのあとにようやく、舞台に出ていた主力級が出てくる。
 つまり、懇親会の本番までは、あと一時間を待たねばならない。
「そうは言うけど、これでも早い方だよ。アクション主体の舞台って、主役は過呼吸になったり、一回で数キロ体重が落ちるくらい体力使うんだ。ドキュメンタリー番組で、しばらく自力歩行もできないくらい疲弊しきってる隊士の子を見たことがある」
「まあ、あの鎧、どう頑張ったって十キロくらいにはなるでしょうしね」
「そう。まさか汗だくで出てくるわけにもいかないし。年頃の女の子がシャワー浴びて着替えて、化粧や栄養補給するんだから、どうしたって六十分はかかるよ」
 もちろん、企画側もビンゴ大会までの間、客をただ待たせておくわけではない。オリジナルグッズの物販や、限定公開のファンムーヴィーが上映される予定らしい。
 だが、高階はこれらにあまり興味を示さなかった。
 軽く冷やかす程度で、すぐに「引きあげようか」と出口に向っていく。
「良いんですか? なんか、ここでしか手に入らないアイテムとか言ってますけど」
「ファン・ゴッホのファンだからって、絵以外に彼の顔がプリントされた限定Tシャツまで買わなきゃいけない道理はないよ。何度も言うけど、私は宗教が嫌いだ」
「まあ、それはそうかもしれないですけど――」
「それより、我々は大浴場に行くべきではないかと私は思う」
 なぜかと問うと、待っていましたとばかり高階は熱弁をふるいだした。
「〈マニッシュバーズ〉のメンバー達が入浴中である可能性が考えられるためだ。彼女たちは舞台を終えたばかりだが、大勢が一度に汗を流せる施設は大浴場を置いて他にない」
「個々の部屋にあるシャワーで済ませるのでは?」
「正直、そっちの方が現実的だ。しかし私は、たとえ僅かな可能性であっても隊士たちのお宝ショットを拝める機会を無駄にしたくない」
「中年のおっさんみたいな思考ですね」
「何と言われようが見たい」
 力説する高階に付き合い、佐伯は一度部屋へ戻ることにした。
 入浴のためには、着替えを取りに行く必要がある。
 ただ、風呂に行くつもりはなかった。混浴ではないので高階と動機は共有できない。
 仮に一緒に入れたとして、裸の少女の群に飛び込めるような度胸はなかった。
 代わりに物販コーナーで〈マニッシュバーズ〉の|Blu-ray《ブルーレイ》ディスクを買い、部屋で鑑賞することにした。懇親会までならそれで十分に潰せるはずである。
「いやあ、凄かったですね。ショウ、もちろんご覧になったでしょう?」
 レセプションでエレヴェータを待っていると、横から笠置に肩を叩かれた。
 結局、彼の細君は最後までショウに現れなかったらしく、連れの姿はない。それでも、笠置自身は心ゆくまま舞台を楽しめたようであった。やや興奮気味に、自らが受けた衝撃を語り続ける。
「――私はむしろミュージカルパートに感心しましたよ。もっと素人じみたものを想像していたんですが、あれは発声練習もさることながら、クラシックバレエを基礎からきちんとやっている人の動きですね。姉が習ってましたから、少し馴染みがあるんです。家にバレエの練習場があって、私は姉の稽古をよく見ていた」
「あれだけ動きながら声が安定していたのも凄いですよね。踊りは詳しくないですけど、そこは僕にも分かります」佐伯も同調する。「口パクって言うんですか? 録音した自分の歌に口だけ動かして合わせるような所もなかったようですし」
「口パクとは失敬な。その辺のアイドルとは違うと何度言えば分かるのか」
 自分が侮辱を受けたように、高階が眉を吊り上げる。
 彼女だけでない。エレヴェータに乗り合わせた他の女性客からも批難の目が寄せられる。
「ちゃんと舞台方面の専門家から発声の指導を受けてるし、歌唱的なヴォイストレーニングもしてるよ。女子が、男性を意識した低音を安定して出したり、何曲も歌ったりするためには特殊技術が要る。それ専門のエキスパートを呼んで日頃から徹底して基礎を固めていないと、さっき我々がの観たような演技は絶対に披露できない」
「はあ、それは申し訳ないです」
 佐伯は、高階ではなくむしろ周囲の女性達に向かって頭を下げる。
 それでも針の筵《むしろ》状態は続く。第6デッキで彼女らがエレヴェータを降りていった時は、心底、安堵した。今後、ファンに四方を囲まれた状態での迂闊な発言は絶対に控えようと心に誓う。
 再びエレヴェータが動きはじめると、「大変でしたね」笠置が小声で同情してくれた。
 佐伯は壁によりかかりながら、深く頷いた。盛大な溜め息が漏れる。
 ややあって落ち着いた電子音が鳴り、最上階・第7デッキに到着したことが報された。
 全員で通路に出る。ところが程なく、先頭に立っていた笠置が奇妙な動きを見せはじめた。何やら、全身のポケットをやたらめったらに叩いている。
「どうかされましたか」
 佐伯が声をかけると、彼は弱った様子で振り返った。
「いや、どうも鍵を忘れて出たようで。そう言えば部屋を出た時は――色々とバタバタしてたんだった」
「奥さんに押し出されてましたからね。鍵ならドアの所にホルダーがあったはずですけど」
「そこから取った覚えは……ない、ですね」笠置が肩を落とす。
 立派な紳士だが、リアクションがはっきりしていて喜怒哀楽が分かりやすい。
「なら、チャイム鳴らして奥さんに開けてもらうしかないでしょうね」
「すんなり開けてくれると良いですが」
 つぶやくと、笠置は小走りに廊下を駆けていった。
 スポーツマンらしく、年齢の割に体力を使うことに抵抗がないのだろう。万年運動不足の佐伯より明らかにフットワークが軽い。しかし、当座の問題は彼の妻がどう出るかだ。
 案の定、のんびり歩く佐伯が追いついても、笠置はまだ廊下で苦戦中だった。
 十秒ほどの間隔でインターフォンを鳴らし続けているようだが、一向に応答はない。
 最後は妻の名と共にノックで呼びかけ出したが、これでも駄目であった。
「奥さん、出ないんですか?」気の毒になって佐伯は声をかける。
「どうも、そのようで」笠置が途方に暮れた様子で振り返った。「性格からして、これだけすればうるさがって何か反応をしてきそうなものなんですが」
「留守なんじゃ?」
「どうでしょう」笠置が首を傾げる。「あの様子だと、引っ込みがつかなくてショウを覗きに来るなんて絶対にできません。そういうタイプですし、むしろ意地になって部屋に閉じこもると思うんですよ。喧嘩するといつも自室に立てこもるんです」
「なんか、先生とイメージがダブるなあ」
 ぽろりとこぼす佐伯に、高階は耳ざとく反応してくる。
「これは異《い》なことを。私の人格は慈愛、博愛、友愛の三本柱で構成されている。したがって機嫌を悪くしたり、他人と争ったりなど構造的にありえないと言うのに」
「先生の人格を支えてる三柱は破壊と混沌と我侭でしょう」
「なかなか巧いことを言う。さらに突っ込んで、人格破綻してるから、そもそも柱なんてない≠ュらいひねって皮肉れば満点だったんだけど」
 性格の悪そうな笑みを浮かべる人格破綻者を無視して、佐伯は笠置に向き直った。
「奥さん、締め出すほど腹を立てていたんですか?」
「いやあ、妻が不機嫌になったのはつまらない理由ですよ。私が旅行の準備に当日までもたついていたのが気に喰わないだとか、途中の道が思いのほか混んでいたとか、必要以上に遠い駐車スペースを選んだから余計に歩かされただとか。そういう小さな不満を蓄積させて、勝手に爆発しただけです」
「難儀な話ですね」
「大変、難儀です。しかしそういう女だからこそ、変なんですよ。些末な事で腹を立てていることには本人も自覚的で、基本的に私から謝りに来るのを待っているんです。閉じこもりこそすれ、謝罪の機会自体を奪うようなこういうやり方をするのはおかしい」
 それは分かるような気がした。佐伯自身、そんな性格の人間ばかりと接してきた。
 彼らは共通して、事態を上手く収束させる能力を持たない。
 また、自分にはまったく落ち度がないと信じきっている。
 そのため、相手から折れてこないと状況が終わらないことを誰より理解しているのだ。
 だからこそだろう。受け入れるかはともかく、謝罪や敗北宣言という行為そのものを拒否するようなことは滅多にない。
「ひょっとしたら寝ていたり、場合によっては具合を悪くしているのかもしれません。フロントに事情を説明して、合い鍵を借りた方が良いかもしれませんね」
 佐伯が何気なく提案した瞬間、笠置がさっと顔色を変えた。
「まさか、あのフィリピン人|乗組員《クルー》の伝染病が――」
「いや、まあそれは考えすぎにしても、船酔い程度なら考えられるんじゃないですか? 食事中にも、船医さんのところにそういう女性が来てましたし」
「私も鍵を借りてきた方が良いと思うな」
 だしぬけに高階が口を開いた。
「えっ、高階先生もそう思われますか」
 笠置が更にぎょっとした顔をする。
 彼女が、何か医学的見地からそう考えたと誤解したのだろう。
「話を聞く限り、沸点の低い激情家だけど、最低限の計算すらできなくなる程の馬鹿はしないってのが夫人のタイプでしょう。そんな人が、閉じ籠もりたいってのに逆に騒ぎになるようなリスクを冒しますかね?」
「このまま、ずっと外で待ってるわけにもいきませんよね」佐伯も調子を合わせる。「何か不測の事態が起ってるなら、早めに対応した方が良いかもしれませんよ」
「そう、ですね」だんだん不安になってきたのか、笠置は白い顔で認める。
「我々はここで様子を見てます」佐伯はやさしく言った。「笠置さんは鍵を手配して下さい」
「念のため、ドクターにも来ていただいた方が良いでしょうか」
 笠置は確認するような問いを、高階に向けた。
「その辺の判断はお任せしますが、ご自身が後悔しないと思える選択をすべきです」
 神妙な顔つきで頷き、笠置は小走りに廊下を戻っていった。
 その姿が完全に消え去ったところで、佐伯は小声で訊ねる。
「先生、なにか思うところがあるんですか?」
「いや、何か明確な根拠があってのことじゃないんだけどね」
 と言いつつ、後ろ髪を撫でるような仕草を見せる。
「聞かなきゃ良かった……」心底、後悔した。「乗船前に言ってたのは、もしかしてこの事だったとか?」
「私はユタでも巫女でもないんだから、具体的なことは分からないよ」
 三分ほどしてだろうか。突然、船内放送が流された。
 客船は紳士淑女の社交場というのが国際的な認識だ。その性格上、静謐を乱すこうした放送は極力行われないことになっている。だが、緊急時となれば話は別だ。
 スピーカーから聞こえてきたのは、笠置翔子《かさおきしょうこ》に対する呼びかけだった。
 ――同室のお客様がお待ちです。お手数ですが、第3デッキ・レセプションの受付カウンターまでご連絡、またはおいで下さい。
 落ち着いた女性の声による、流暢な日本語のアナウンスであった。
 それから五分もせず、笠置は戻った。大方の予想通り、妻は伴われていない。
 代わりに船医と、客室《パッセンジャー》部門と思わしき男性スタッフが一緒だった。
 船医は往診鞄を、クルーは担架を抱えての臨場である。
「お待たせしました。あの、妻は?」
 軽く息を切らせながら問う笠置に、佐伯は黙って首を振った。
 それを確認すると、彼は最後にもう一度、中にいるはずの細君に呼びかけた。
 だが、天野岩戸《あまのいわど》は相変わらずだった。何としても扉は開かれない。
「確かに、これだけ呼びかけてもまったくレスポンスがないというのは変ですね」
 兵頭医師が眉根を寄せながらつぶやく。
「奥さんは何か持病などは?」
「いえ……。コレステロール値が基準値をわずかに上回る程度で、あとは到って健康です。熟睡したら何も何があっても気付かないというタイプでもないですし」
「とすると、やはり心配ですね。どうでしょう。開けてみましょうか?」
 兵頭が最終確認、といった感じで問う。
 笠置が重々しく頷いて答えると、船医は連れてきた客室係に場所を譲った。
 やりとりを聞く限り、チーフパーサーと呼ばれている部門の責任者らしい。
「では、失礼します」
 用意されたマスターキィも、当然ながらカード型だった。だがデザインは全く異なる。というよりデザインがないに等しい。ほとんど真っ白に近い飾り気のなさだった。
 鍵が認証される。電子錠が開く硬い音が鳴った。
 チーフパーサーはまず優雅に三度ドアを叩いた。それから中の婦人に一言断ってノブに手をかけた。しかし、三分の一も開ききらないうち、ごんという固い音がして扉が動かなくなくなる。内側からチェーンがかけられているせいだった。
 否、チェーンはかけられているが、よく見れば直接の原因ではない。現に鎖が伸びきるまでもなく、ドアは拳一個分の狭い隙間を作っただけで止まっている。
 パーサーがその手鏡から手鏡を差し込む。そうしてやっと原因が知れた。
 ベッドのマットレスや椅子、旅行鞄を積み上げた物が入口を塞いでいるのだ。
 明らかに内側から築かれたバリケードである。
「なんでこんな……」
 笠置がぽかんと口を開ける。が、すぐに真顔に戻り、ドアの隙間から声を張り上げた。
「翔子、聞こえるか。キミ、大丈夫なのか? どうして入口なんか塞いでるんだ。聞こえてるなら物をどけてここを開けなさい。心配して、スタッフの方や船医の先生まで来て下さってるんだ。これ以上、ご迷惑をかけちゃいけない。翔子、聞いてるか」
 叫びながらドンドンと扉が叩かれる。それでも、婦人は姿を見せなかった。
「翔子、いい加減にしないか! それとも何かあったのか」
「笠置様、客室責任者の内藤と申します」
 処置無しと首を振り振り後退する夫に代わり、チーフパーサーが声を上げた。
「どこかお加減が悪いのでしょうか? 御主人はもちろん、従業員一同、奥様に何かあったのではとお体を案じております」
 何か起ったのか。事情があってのことだろうが、障害物を除けて入室して構わないか。
 品のある口調で呼びかけ続けるが、これにも反応はない。人の気配もしなかった。
「――ちょっと異様な感じがしますね。本当に何かあったのかもしれない」
 兵頭が本格的に表情を曇らせる。
 佐伯も同じ心境だった。バリケードがある以上、婦人が中にいることはもう疑う余地がない。なのにこの静けさだ。高階の不吉な言葉を含め、嫌な予感しかしなかった。
「仕方ない。破りましょう」兵頭が言って、チーフパーサーと顔を合わせた。「チェーンは開けられませんかね? 確か、専用のカッターがあったような」
「ごさいます。手配しましょう」
「ああ、その前に、私が試してみましょうか?」不意に小さく挙手した高階が進み出た。「上手くいけば、チェーンを切断しなくて済みますよ」
「女性の細腕なら隙間から入るとして、開けたままでは開かない構造ではないですか?」
 船医の指摘を、高階は無表情で受け入れた。
「その通りです。しかし、チェーンとノブの位置関係が私の部屋と同じなら、腕さえ入れば多分開けられますよ」
 この船のチェーンロックは、柱に固定されたチェーンを扉についたスリットに通すという、ごく一般的なタイプであった。佐伯の住む安アパートのそれとも大差がない。
 スリットは水平方向に十五センチほど。室内側から見て右手側に通し口があり、左側にスライドさせて嵌め込む仕組だ。
「でも、どうやるんです?」佐伯は訊いた。
「ただ輪ゴム引っかけるだけだよ」
 言いながら取り出されたのは、高階が常用している黒い髪ゴムであった。
 彼女はそれを、右手五指で器用に伸び縮みさせて見せる。
「これを」と、高階は右腕をドアの隙間から差し入れた。「チェーンの先端を手探りで探して、どうにか結びつけるだけ。まあこれが結構、難しいんだけど。ああ、マットレスが邪魔でやりにくいな、こりゃ」
 文句を垂れつつも一分半ほどごそごそやったあと、高階はすんなり手を引き抜いた。
「よし」
「もう、良いんですか? まだ外れてはいないですよね」
「そりゃそうだ。チェーンの先端に結びつけた輪ゴムを、びょーんと伸ばしてドアノブの先っちょに引っかけたまでだからね。あとは、ドアを閉めるだけ」
 言葉通り、高階は僅かに開いていたドアを元の位置に戻す。
 全員が無言で見守る中、カタンという金属音がはっきり聞こえた。
 まさにロックが外れる音だ。
 チェーンが振り子のように揺れているのも気配で分かった。
 高階が再びドアを開ける。家具に引っかかりまた途中で止まるが、そこにチェーンはもうかかっていなかった。壁側の所定位置にだらりとぶら下がっている。
「本当に外れてる。凄いですね、先生」兵頭が小さくに目を見開いた。
「どうやったんですか」
「だから言ったじゃないか」佐伯の問いに、高階は面倒そうな顔で言った。「ゴムをチェーンに結びつけた上で、輪の部分を|把手《とって》に引っかけたんだよ。こうるとゴムが縮もうとする力で、チェーンは取り付け口に向かって引っぱられ、スライドしていく。で、外れる」
「そんなことで?」
 説明を受けても上手くメカニズムを想像できない。
 変な緊張感で、思考がまともに働かなくなっている。
 TVで観ている時は簡単だが、出演者になると途端に簡単なクイズすら解けなくなる原理だった。芸能人がこぞって語るあの現象と同じなのだろう。
「ドアチェーンは外から開けられるものなんだよ。ゴムや紐やバーを使った何通りかの手順が確立されていて、特注品でもない限りそれらの組み合わせですぐに開けられる。酷いのだと、普通に腕を突っ込んで手で開け閉めできるしね」
「何にせよ、あとは家具のバリケードですね」
 ドクターの言葉に、笠置が頷く。
「損傷があれば弁償します。このまま押し破るわけにはいきませんか?」
「それしかないように思います」チーフパーサーも同調した。「止むを得ないかと」
 相談の上で、男性三人が体当たりを繰り返すことになった。
 ドアというのは構造上、たった十センチの洪水で相撲取りですら苦戦するほど重たくなるものだ。上等な木製チェア数脚に分厚い三つ折りのマットレス、中身満載のスーツケースなどで塞がれた場合でも、十分すぎるほどの難敵と化す。おまけに扉そのものがオーク材の特別製で、下級船室のそれより重量がある。
 合図でタイミングを揃え、肩からぶつかっていくこと実に六回。
 実際にやってみるとドラマとは大違いで、肉体にかかる負担が尋常ではない。
 しかも扉を破り切ることはできず、バリケードのバランスを少し崩すのが精々だった。
 もっとも努力がまったくの徒労で終わったわけでもなく、障害物の山が崩れた分だけドアが開くようにはなっていた。試してみると半分とはいかないまでも、細身の人間なら押し込めばなんとか入るだけのスペースが開いている。
 早速、痩せ形のチーフパーサーと佐伯が先んじて入り、扉を塞いでいたバリケードを撤去した。
 ようやくドアが半開するようになる。
 これで入れると見るや、笠置の動きは早かった。鎖から放たれた狂犬のような勢いで部屋に踏み入り、他には目もくれず奥へと飛んでいく。妻は寝室にいるものと思い込んでいるのだろう。船医も、往診鞄を片手に続いた。
 対して、あくまで冷静だったのがチーフパーサーだ。彼は廊下に置いていた担架の存在を忘れず、一旦室内から立ち去っていく。
 残された佐伯は、高階とバスルームやトイレを確認して回ることにした。
 全員で寝室に乗り込むのも愚策だ。何より、血圧の急激な変化が起る水周りの場所では、事故や怪我が起りやすい。
「内藤さん! 担架お願いします」
 船医・兵頭の声が響いたのは直後だった。
 普段はマンボウのように漂《ただよ》っているだけのくせ、こういう時の高階は別人になる。
 彼女は獣のような反応速度で、佐伯を置き去りにバスルームから飛び出していった。
 呆気にとられかけた佐伯も、チーフパーサーと合流しつつ寝室へ急ぐ。
 602号室と同じ間取りのベッドルームは、遮光カーテンが引かれた薄暗い空間だった。
 ただし、ベッドサイドに置かれたスタンドライトが場違いなほど強烈な光を放っているため、近い一帯だけは眩しいほどに明るい。その電球色の灯りがくっきりと照らし出しているのが、寝台に横たわった女性の姿であった。
 先陣切って飛び込んだはずの笠置は、妻の傍らに膝から崩れ落ちていた。口を半開きにし、茫然自失の状態だった。ともすれば、目を開けたまま気絶しているようにさえ見える。
 彼がそうなった原因については、改めて考える必要もない。
 笠置翔子が死んでいるのには、佐伯も一目で気づいた。
 人間の死体というのは、こうまで無惨な抜け殻となるものなのか――。
 恐怖にも近い衝撃とともに思い知る。
 笠置翔子は、佐伯たち入口側に足を向けてだらりと仰向けになっていた。
 最初からその体勢であったのか、笠置や船医が寝かせたのかは分からない。
 足首まで伸びていた極彩色のど派手なスカートは不格好にめくり上がり、特に右脚は大腿部あたりから剥き出しになっている。その肌からは一切の血の気が失われていた。血色を良く見せるはずの電球色を受けてなお、蝋人形を思わせる病的な白さがはっきり窺える。体表に浮き出た黒ずんだ紫の静脈は、まるで白磁に走ったひび割れのようだ。
 だが、何よりの衝撃は上半身だった。
 焦茶色のタンクトップから覗く大部分に、おぞましい黒い出血斑が広がっている。
 死んだフィリピン人船員とまったく同じ、ペストと騒がれた無数の斑点だ。
「すみません。どなたも近付かないで。チーフパーサー以外は念のため、全員退室して下さい。ちょっとこれは……部屋を消毒するまでお客様はお入れしない方が良さそうだ」
 遺体の顔面近くでペンライトを構えていた船医が、振り返って告げる。
「佐伯さん、笠置氏を連れ出してもらえますか。できるだけ早く。まさかとは思いますが、お客様に万が一でもリスクを負わせるわけにはいきませんので」
「あの、どうなってるんでしょうか」
 佐伯は上手く回らない舌を無理やり動かして訊いた。声が震えているような気がした。
「心肺停止から大分経ってます。瞳孔は開いて対光反射もありません。顎関節から硬直も始まってます」
 これは訊ねた佐伯ではなく、その半歩分前に立つ高階への説明であるようだった。
 彼女が無言で頷き返すと、兵頭医師は改めて佐伯に向けて言った。
 高階に告げた内容を、端的に一言で。
「もう亡くなってます」
 言葉の力を思い知った気分だった。
 分かっていたことなのに、頭の中が白くなる。汗が噴き出してくる。
 風邪で高熱を出したときのような悪寒を覚えながら、佐伯は必死に状況を整理するための質問を探した。
「あの、つまり……やっぱりこれは伝染病みたいなものだったと、そういうことですか」
「この状況で医学的な予備知識の裏付けを持たない方に納得していただくのは難しいかもしれません。ですが、やはり私は皆さんが心配されていたような感染症だとは考えていません。九九パーセントあり得ないと思ってますし、これは高階先生も同意してくださることでしょう」
 高階がまた頷く。
 とはいえ、百パーセントとは言えなくなった。船医はそう断った。
「はっきりしたことが分かるまで関係者だけで処置した方が良い。少なくともそれは確かです。規則上も職責の上でも、必要以上と思われるくらいの用心を私はすべきですので」
「すみません、担架、通ります」
 背後から声がかかった。佐伯と高階は声の主――チーフパーサーのために出入口のスペースを譲った。
 寝室に入ったパーサーは、空いた方のベッドに担架を設置する。
 それから船医の指示で婦人の爪先側に回った。
「ちょっと冷たくなってるから気をつけて」既に脇の下に腕を通した船医が言う。
「分かりました」
 だが、その冷たさは想定の範囲を大きく超えていたらしい。事前の注意があってなお、チーフパーサーは足首に触れた手を一度弾かれたように離した。
「大丈夫ですか、内藤さん」
「ええ、はい。すみません。今度はいけます」
 覚悟を決めた様子で、チープパーサーは力強くふくらはぎの辺りを抱え込む。
「一、二、三でいきます」と、兵頭。「一、二、三!」
 二人は完璧に息を合わせ、無事、婦人を担架に載せた。
 その後、船医の手により二つ折りにしたシーツが優しく遺体にかけられる。
「佐伯君、ぼーっとしてないで、何ちゃらさんを立たせてやりな。大人数が留まると現場が荒れる。出ろっていう船医《ドクター》の指示には従った方が良い」
「あ、――ああ、はい」高階の言葉で佐伯は我に返る。「そうですね」
 よほどの衝撃を受けたに違いない。歩み寄って声をかけても、笠置は鈍い反応しか見せなかった。立たせようと手を貸すと、一応ながら自力でふらふらと立ち上がる。だが、大丈夫かと問う言葉には、うなり声のような、あるいは掠れた感じの曖昧な返答を寄越すだけであった。
「じゃ、我々は先に廊下に出てますよ」
 笠置と出入口に向かいだした佐伯の背後で、高階が言うのが聞こえた。
「船長にも連絡した方が良いですかね?」
「ああ、いえ」兵頭の声が応じた。「ここの内線から私が報告します。多分、その方が速いでしょう。それより、ドアをストッパーで開けといてもらえますか。人目に付かないうちに搬送したいので」
「分かりました。ちなみに、その人が亡くなったのはいつ頃ですか?」
「多分、二時間前後は経過してると思います。死斑の出かたと硬直がそれほど進んでないのを見ると、それ以上ではないでしょう。あとで直腸温見ればもう少し確かなことが言えると思いますけど」
 やりとりは佐伯の耳にも届いていた。聞き耳を立てていたという方が正しい。
 ――二時間前。医師の言葉を反芻しつつ、計算した。現在の時刻が二十三時十七分。
 すなわち、誤差を前後に三十分認めたとしても、死亡時刻はショウの最中に収まることになる。ただ、ショウは二部構成で、途中に三十分の休憩が挟まれた。仮に二時間きっかり前に死亡したとすれば、タイミング的にはその休憩中の出来事だったことになる。
 佐伯はふと気になって笠置の様子を窺った。
 彼は話が聞こえていなかったのか、呆けたまま全く表情を変えていない。
 放り出しておくわけにもいかず、廊下に出ると、笠置に肩を貸したまま自室に帰った。
 彼を居間のソファに座らせ、とりあえずミネラルウォーターをグラスにあける。
 渡そうとしても俯いたまま動かないため、一言断って卓上にボトルごと置いてやった。
「いやあ、なんだかややこしいことになってきたねえ」
 遅れて戻った高階が、緊張感のない声で言った。
 彼女はちらりと笠置に視線をやるが、すぐに感心を失った様子で伸びを始めた。
「一体、何が起ってるんですか」
「さあねえ」佐伯の言葉に、彼女は軽く首を傾げた。「あ、私にもミネラルウォーター、ボトルごとくれる?」
 手振りで指示されたため、佐伯は冷蔵庫の前からペットボトルを放った。
 思いのほか軌道がずれたが、高階はごく小さな動作を加えるだけでそれを受け止めた。
 他の多くのことと同じように、彼女が行うとそれは誰にでも容易に再現可能なものに見える。――もちろん、現実にはそうではない。
「何が起ってるかはともかく、私はこの後のスケジュールがどうなるかが心配だよ」
 キャップを捻りながら高階が言った。
「流石に今回は、船長も報告のしように困るだろうしね。本当、どうするんだろ」
「数時間のうちに人が二人も、ですからね」
 笠置の手前、「亡くなった」というストレートな表現を使うのは躊躇われた。
 だが、濁した表現でも十分に伝わる話だ。
 一度、ウォーキングクローゼットに消えていった高階が、自分の小型ノートPCを持って出てきた。どうやら、佐伯が気付かなかった有線LANのジャックが別室のどこかにあるらしい。独りにしておくのは気が引けたが、彫像と化した笠置と沈黙を共有する気にもなれない。一瞬、逡巡したあと、佐伯は彼女の後を追った。
 高階のPCは、佐伯が手を入れてSSDを最新のそれに換装したものだ。UEFIの特殊ブートオプションも有効化してあるため、その起動速度はタブレット型のPCと比較しても遜色ない。電源を入れたとほぼ同時に立ち上がる。
 見ると、高階は既にボトルの水をちびちびやりながら、キーボードに指を走らせていた。
「客室からでもネット接続できるんですね」
「スイートルームの特権だね」ちらと顔を上げて高階が答える。「一般グレードだと、図書室にあった共用端末のところにいかないといけない。まあ、どっちを使うにしてもあとで料金請求されるわけだけど」
「で、金払ってまで何をしてるんです?」
「矢慧にメールで状況報告する。あと、関係者のプロフィールがSNSあたりで公開されてないかを、一応チェックしようかなと思ってね」
 SNS――ソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス。
 社会的な交流の場となる、インターネット上のコンテンツのことだ。言葉を広くとらえれば、匿名掲示板なども含めて考えることもできるだろう。だが多くの人々は、より匿名性を薄めた会員制のコミュニケーションサーヴィスこそをSNSと呼ぶものと考えている。古くは〈Twitter〉や〈ブログ〉、〈ミクシィ〉等。今回はとりわけ、基本的に実名での登録が義務づけられている〈フェイスブック〉などが調査対象になるだろう。
 近年は、企業でもこうしたSNSへの登録を、社員に半ば義務づけることがあると聞く。
 否、大学で就職活動に勤しむ学生連中を見る限り、もはや入社前からSNSのアカウント取得は必須とされているようだ。一方で、不適切な書込みを理由に不採用を食らうケースもあるともいうが。
「どうですか先生。誰かやってる人、いましたか?」しばらく待ってから、佐伯が訊ねる。
「そう急かしなさんなって。今、メール送ったとこだよ。検索はこれから」
「まずは誰を調べるんです?」
「可能性が高い順だね。とりあえず、おっちゃんかな」
 と、高階はリヴィングの方をあごでしゃくる。もちろん、壁の向こうにいる笠置のことだろう。
「会社持ってるなら、宣伝目的で何かしらのアカウント持ってるかもしれない。フルネームは何だっけ」
「笠置……ええと、小太郎とか光太郎とか、確かそんなんじゃなかったですか?」
「どっちよ。漢字も分からないし」
 ぼやきながらも、高階はカタカタと打鍵の音をさせはじめる。
 が、すぐにうなり声を発しながら顔を上げた。
「――駄目だ。ひらがなじゃどっちもヒットしない」
「試しに漢字で検索かけてみては? コタロウなんてパターンそんなにないでしょう」
「もうやった。小さな太郎のコタロウだと、出るには出るけど姓名診断しかない。仕方ないから、次はコウタロウで行ってみるか」
「それだと光る太郎か、耕す太郎がメジャーですね」
「じゃ、とりあえずは笠置、光太郎っと。で、また姓名診断が出たら嫌だから、SNSのメジャーどころもワードに添えまして……」
 タン、とエンターキィが叩かれる。
 反応はすぐに出た。色よい結果が得られたのか、今度は声のトーンが幾分高い。
「おっ、これか?」
「出ましたか」
 思わず近寄り、高階の後ろからディスプレイを覗き込んだ。ふわりと女性の匂いがして、一瞬、身を引きかける。距離を調節して、再度、モニタに目をやった。
 笠置光太郎。実業家。トップページに大きくそう表示されているのが見えた。
 求めている笠置本人のアカウントであることはすぐ分かった。間違えようもない。ご多分に漏れず、アイコンに本人の写真がそのまま使われているのだ。ただし、冬に撮ったのか日焼けは今ほどではなく、服装もきちんとスーツで固めている。
「いいね!」は、1581件。
 これは微妙な数字だが、その下の「チェックイン」の数が三桁と異様に多い。
 話題の場所、店、イヴェントなどを訪れた際、スマートフォンなどのGPS機能を介して、自分がそのポイントにいることを位置情報として通知する機能だ。一般論的には、色々な意味で活動的な人間だとこの数値が高くなる傾向にある。
 この理由はすぐに分かった。
 情報欄に「イヴェントコンサルティング〈K2コネクト〉」「各イヴェントの様子や企画日程なども掲載します」といった紹介文が並んでいる。
 カーソルが動き、詳細欄に繋がるリンクがクリックされた。
 ページが切り替わる。
 画面に現れたのは、誕生日、性別、所属などが記載されたプロフィール紹介だった。
 総合すると、〈K2コネクト〉とは笠置が経営するイヴェント関連会社であるようだった。さまざまな企画を自ら立ち上げることもあれば、持ち込まれたプランの実現を代行するといった商売であるという。設立は四年前。本社は大坂。東京にも支社を置いているというから、それなりの業績を挙げているのだろう。
 要は、仕事を通して各地を周り、その過程で数々のチェックポイントを制覇していったということだ。自分で自社企画をポイント登録した例も多いのだろう。
 もちろん、笠置自身の略歴についての記載もあった。
 いわく、出身は神奈川県の北鎌倉。高校時代は、傾斜のきつい坂の上にある学校に通っていたとあり、今のスポーツマン体型は遅刻しないためにこれを毎日駆け上がるうち自然とできあがったものである、と冗談交じりに語っている。生年月日から計算すると現在、四十二歳。趣味はずばり「クルージングによる旅行」とあった。
 次に高階は、交友関係を中心にリンクを次々と辿っていった。
 出てきた情報を並べてみると、なかなかの壮観であった。県議会議員。学校法人の理事一覧。上場企業の役員リスト。どこにも、彼本人や同じ笠置の姓を名乗る人物の名が見られる。
「会社を経営しているとか言う話は聞いてましたけど、このイヴェント会社のことだったんですね」
「みたいだね」高階が画面をスクロールされながら頷く。「しかし、だとしたら変だな」
「何がです?」
「ざっと辿った中では、〈嗣宝《しほう》海運〉の創業者ってのが、一番古い時期に成功を収めてる。笠置昭之助。起業は戦前というから、なかなか歴史ある企業だよ」
「少なくともこの人の代が一財産築いて、順調に成長してきたってことでしょう。今は不動産から商社に学校、介護施設経営と色々手広くやってるわけですし。これって、どこかおかしいですか?」
「今見てきた限り、役員リストやら議員名簿に載ってる笠置家の重鎮連中は、ほとんどが関西圏で腕を振るってるじゃないか。つまり、むかしから大坂に根を張ってのし上がってきた一族だってことだ。でも、笠置光太郎はどうよ。神奈川県出身になってる。本人の言葉遣いにも一切、なまりはなかったよ? 色々と関西人っぽくない男だ」
「言われてみれば。じゃあ、そうだな……大坂の本家筋じゃなくて、遠方の親戚筋だとか?」
「そうかもしれない。でも、私が真っ先に思い浮かべたのは婿養子の可能性だ」
「ああ――」その見解には、ピンとくるものがあった。
「元々は山田光太郎とかだったのが、笠置のお嬢さんと結婚して姓を変えたパターンだね」
「庶民世界では馴染みのない話ですけど、やっぱり金持ちの間ではあるんですかね」
「ここ十年で改善されつつ派あるけど、医局の世界でもまだ結構あるよ」
「とにかく、あの恐妻家ぶりはちょっと異常ですよ。ほとんど主従関係だ」
 仮に笠置家の令嬢と結婚し、一族の末席に加わったというのなら、話は分かりやすい。
 光太郎氏は妻のおかげで各界に強力なコネクションを手に入れたことになるからだ。名家笠置の伝手を頼れば、イヴェント業の仕事もさぞ捗《はかど》ったことだろう。
「あれだけ奥方に卑屈だってことは、おっちゃん自身の手腕で成り上がったって感じではないのかもね」マウスから手を離し、高階は椅子の背もたれに体《たい》を預ける。「笠置の人脈におんぶ抱っこだって自覚があればこその、ああいう態度なのかもしれない。設立四年のイヴェント会社なんて、いかにも一族の下っ端に任されそうなシノギだ」
 その後も色々と調べてみたが、結局、それ以上の収穫はなかった。
 故・翔子夫人の方は、夫ほど表立った活動をするタイプではなかったらしく、少なくともネット上にめぼしい情報は転がっていない。
 せめて船長クラスは――と期待したのだが、こちらも針にかかるものはなし。船の処女航海が報じられた時、その船長として小さく新聞記事に名前が出た程度の露出に留まっている。
 もちろん、芸能の世界で生きる〈マニッシュバーズ〉のメンバーに関しては、対照的に溢れかえらんばかりの関連コンテンツがあった。が、彼女たちが一連の死亡事件に直接の関係を持つとは考えられない。
 その意味で唯一、調べが付いたのは兵頭船医だった。高階は、医療従事者しか利用できないデータベースのアクセスコードを何故か知っており、これで検索をかけたのである。
 登録情報によると、彼のフルネームは兵頭享士《ひょうどうきょうじ》。年齢、四十一歳。京都大学医学部卒。博士課程終了までストレートに進み、一切経歴を汚していない。
「私が出資してるエージェンシィのデータベースでも検索かけてみよう」
 彼女のいうエージェンシィとは、医師の斡旋を専門に扱う企業だ。二〇〇四年の制度改革で、医者は医局を通さずに職場を探せるようになった。そんな医者のために、仕事を仲介するのが医師エージェントだ。
 もちろん、エージェンシィは職を求める様々な医者と会う。中には免許を持っているだけで実績がほとんどない者、金銭トラブルを抱えている者、依存症で満足に職務をこなせない者など、使えない医者も多いという。会社は、こうした医者とは呼べない医者の情報を蓄積し、ブラックリスト化している。
「まあ、当たり前だけど載ってないね」高階がモニタの前で肩をすくめた。
 記録上、兵藤は少なくとも三十八歳までは、名古屋の赤十字病院に勤めていた。赤十字病院での最後の数年間は、緊急外来の管理職に就いていたとある。
「優秀な人なんですかね」
「だろうね。京大は医学部に入るだけでも八十くらい偏差値がいる」画面を見詰めたまま高階が言う。「それに客船の船医なんて、なろうと思ってなれるもんじゃない。まして数少ない日本船籍のだよ? 向こうから声をかけてもらわないと無理だ。よほどの信頼とキャリアと人脈がないと。それを三十代の若さで成している。私はちょっと他に例を知らないな」
「そう言われると、随分と凄い人に思えてきますね」
 ころっとした丸い顔と身体つきが、色々な意味で尖った印象を打ち消しているのだろう。
「ところでさ、これどう思う?」と、高階がモニタの一点を指差した。
「なんですか」
「あのドクター、関西に出てきたのは大学からなんだよ。ほら、高校は神奈川のを出てるでしょ。生まれも向こうだ。出身は関東なんだよ。笠置氏とパターンが全く同じだ」
 言われるままに確認してみると、確かにそれを裏付ける記述がある。
「本当だ。高校、鎌倉のとこになってますね。ひょっとすると同じ学校の先輩後輩だったりするかも」
「可能性はあるかもね。でも同郷っていうなら、〈マニッシュバーズ〉の市川聖ちゃんも鎌倉出身の子だ。実家は土産物屋でね。彼女もこの船にも乗ってるよ」
「まあ、そんなもんですよね」
 佐伯は首を縮めた。「鎌倉」をキィワードに検索をかけると、この船の関係者では最低でも三人が該当するわけだ。
 だが、今のところそれに偶然以上の何かを見出すべき根拠はない。
「結局、特に収穫はなかったってことですか」佐伯は少し肩を落として言った。
「多分、今ので接続料は千円くらいになるだろうけど、それだけの費用対効果があったかは微妙かもね」
「あらためて考えると、偶然って判断が難しいもんですね」佐伯は嘆息混じりに続けた。「出身地がどうとかならまだ良いですけど、今回みたいに立て続けに出た死者が、ほとんど同じ症状だったとかだと……」
「色々気になるのは分かるけど、佐伯君もあんまり考え込まない方が良いよ。あのフィリピン人船員の件を含めね。キミの初期対応に問題はなかった。責任を感じることもない」
 高階がPCを畳みながら他人事のように言う。
「それは分かってはいるんですが」
 彼女が部屋を出ていく。佐伯も後に続いてリヴィングに戻った。
 高階の方は、そのままウォーキングクローゼットにPCをしまいに行くつもりらしい。
 居間に置き去りだった笠置はというと、こちらは最後に見た体勢のまま全く動いていないように見えた。ソファに浅く座り、両の膝頭を強く握りしめた格好のまま顔を伏せている。そのため表情はほとんどうかがえない。
「佐伯君さ、やけに彼らの症状の共通点にこだわってるみたいだけど、伝染病説をまだ気にしてんの?」
 数分後、片付けだけにしてはやけに時間をかけて、高階が戻ってきた。
 手ぶらではなく、衣類の束を抱えている。何をしていたのかと思えば、着替えを引っ張り出していたらしい。
「そりゃあ、気になりますよ。最近はエボラが世界的に広がりつつあるし、伝染病に対する漠然とした恐怖みたいなのが世間的にもちょうど高まってる時期ですからね。あの黒いシミみたいな内出血、先生も見たでしょう。明らかに同じものだったじゃないですか」
「そこが一番重要なポイントなのは、佐伯君の言う通りだね。二件の関連性を強烈に示唆してる。逆にそれさえなければ、こうまでみんながショックを受けることもなかっただろう」
「医学見地でどうとかで幾ら否定されようが、あれが無関係なものとは誰も思いませんよ。そして、関連があるとすれば、伝染性の病気でもない限り説明が付かないじゃないですか」
「――そうかな?」
「そうですよ」
「まあ、ネームがないという前提でなら、そうなるんだろうけどさ」
 手にした荷を小脇に抱え直しつつ、高階がつぶやいた。
 刹那、丸まったバスタオルのような物がちらと見えた。
 佐伯はここにきてようやく、高階が大浴場にいく計画を立てていた事を思い出した。
 本人は死体発見というアクシデントにもなんら影響を受けず、しっかりそのことを覚えていたのだ。
「じゃ、私は桃源郷を探しに行ってくるから。あとよろしくねん」
 無駄に爽やかな笑みを浮かべ、高階はさっさと部屋から消えていった。
 途端に、居心地の悪い沈黙がおりる。
 ネームがないという前提でなら、そうなる――。
 佐伯は数分かけてその言葉の意味を考え、理解した瞬間、部屋を飛び出た。


   10

 いないじゃないか。
 思わず、高階は口の中でつぶやいていた。
 もちろん、過度な期待をしていたわけではない。
 隊士が揃って入浴している――。そんな情報が漏れれば、ファンが集まり浴場が混雑する可能性もあるのだ。危険であるし、集団を制御することは困難だろう。
 そんなリスクを事務所が見逃すとは思えなかった。
 だが、分かっていても、「もしかして」と期待してしまうのがファン心理というものだ。
 高階は浴場の出入口に立ったまま、大きく肩を落とした。
 これからどうしたものかと考える。
〈マニッシュバーズ〉はいませんでした。では回れ右、というのも馬鹿らしい。かと言って、ゆっくり湯につかる必要性も感じなかった。なにせ、船に来て既に一度、シャワーを浴びているのである。一般的な女性と違って温泉や浴場《スパ》が大好き、というタイプでもない。
 結局、奥に見えるサウナ室でお茶を濁すことにした。
 浴場は静まりかえっており、誰かがあげる水音もしない。ちょっとした貸切状態か。そんなことを思い始めた矢先、湯煙の向こうから女性客が姿を現した。もう上がるところのようで、出口を背にした高階の方に歩いてくる。
 年齢は恐らく二十代。油断していたのか、頓着しないタイプなのか、頭にタオルを巻いている他は、特に身体を隠す様子もない。脱衣場でもわざわざ死角となる端を選び、入る前からバスタオルで完全防備であった高階とは真逆だった。
 女性はしばらく湯に漬かっていたと見え、耳に到るまで見事に紅潮していた。おかげで、肩にある|BCG《はんこ》注射痕や、むかしの手術痕らしきものまでが綺麗に浮き上がっている。直感的に既婚者のような気がしたが、左手に指輪は見当たらなかった。
 彼女は高階に気付くと、軽く会釈を寄越した。
「船酔い、|治《おさ》まったみたいですね」
 すれ違いざま、高階の方から声をかけた。娘が「えっ」という顔で立ち止まる。
「夕食の時、船医の所に薬をもらいに来たでしょう?」
「ああ――はい」得心がいった、という表情で彼女が微笑んだ。「もしかして、お医者さんと同じテーブルにいらした方ですか? ごめんなさい。あの時は、周りに目をやる余裕がなくて」
「ショウはご覧になれましたか?」笑みを返しながら問う。
「はい。おかげさまで」
「それは良かった。〈天下布武〉はスタンダードな演目ですが、あれだけ近い所で観れることは滅多にありませんからね」
「本当、近くで見るとまた迫力が全然違うんですね。私、十二年の武道館以来でしたから、もう距離感が全然違って」
「ああ、あれをご覧になりましたか。そう、武道館の時は出演者も多かったし、今回とはアレンジが全くの別物でしたね。客席との距離を考えて、今回はメイクも薄目に変えていた。過去になかった距離感ですから、恐らく今日のために用意した新しいパターンなんでしょう。プロの仕事です」
「ですよね。あのメイク、他じゃ見たことないですし、ひょっとしてここで初披露目だったのかもって思ってました」
 フィギュアスケートの選手や宝塚もそうだが、演者が歌舞伎役者のような濃いメイクをするのには訳がある。客席から見た時に最も映えるよう最適化しているのだ。
 つまり、あれらは遠距離での見栄えを前提にしている。
 ならば至近距離に客を置く特殊環境のもとで対応を変えるのは、道理というものだった。
 だが、実際にそれをやる人間は少ない。プロとしてやっていくには、手の抜き方を覚えなくてはならない。そう嘯《うそぶ》く者もいるが、彼らの多くは「手を抜くこと」と「力を抜くこと」とを取り違えている。
「それはそうと、投薬直後の長風呂は思わぬ作用を引き起こすことがあります。もともと体調は良くなったわけだし、異変を感じたらすぐ船医に相談された方が良いですよ」
「あっ、そう――ですよね」口元を押さえながら、娘は恐縮したように頭を下げた。「ごめんなさい。気がつきませんでした」
「まあ大丈夫でしょうけどね。とにかく、お大事に」
 この様子では二人目の死者の件は知らないらしい、と思いながら彼女と別れた。
 サウナ室に入ると、予想に反してここにも先客がいた。立ち上がっても高階の胸ほどまでにしか到らないであろう、非常に小柄な娘だ。運動部を思わせる短髪に、赤ら顔の童顔。高校生か、やもすれば中学生に見られることすらあるかもしれない容貌だった。
 しかし実際のところは同年代か、やや年上か――。高階はすぐにそう結論づけた。
 予想通り彼女が乗組員のひとりなら、十代である可能性は低いからだ。
「夕食、美味しかったですよ」
 少し離れた所に腰を落とすと、高階は話しかけた。
 船酔いの娘と同様、こちらの女性も少し驚いたような顔をする。
「ディナーのスープを作ってくれた人だと思ったんだけど。違ったかな」
「いえ」大きな瞳をさらに大きく見せて、娘は首を振った。ワンテンポ遅れて返答の口が開かれる。「私です。えっ、でもどうして分かったんですか? ずっと奥にいたのに」
 夕餉《ゆうげ》の席で船医から聞いた話をヒントにすれば、簡単なことだった。
 彼によると、最も頻繁に医療室を訪れるのはコックたちであるという。
 陸と違い、客船の厨房は時に大きく波揺れするためだ。必然、手元を誤る、火傷をこしらえると、彼らには生傷が絶えない。
 そして、この小柄な娘の手には、あちこちに火傷の痕が残っていた。ごく最近ついたと思わしきものを含め、手首から先はもちろん、前腕部にも目立つものが無数に見て取れる。
 高階はそのままのことを娘にも説明した。
「客船の厨房じゃ、鍋でシチューやら味噌汁作る専門の係がいるって話です。その細長い変わった火傷なんかは、鍋の縁でやったと考えると形状がぴったりだ。だから、|貴女《あなた》がその係なんじゃないかって」
「そうです。わあ、なんか凄いですね」
 見かけに違わず、子供のような目の輝かせようだった。
「〈カンテキ〉っていうって聞いたけど、今でもそういう呼び方するのかな」
「あ、はい。言うみたいですよ。一部の人だとは思いますけど。関西弁で七輪《しちりん》をそう呼んでたとかで。私はまだまだ新米なんで、よくは知らないんですけど」
 言いながら、娘は少し恥ずかしそうに火傷の痕をさする。
「あの、もしかして、イヴェントとかで呼ばれた女優さんの方ですか?」
「うん? 私はただの乗客だよ。さっき、レストランで夕食とったって言ったじゃないか。あの場にいたのは上級船員と客だけだ」
「そう、ですよね……。なんか、ちょっとびっくりするくらいの美人だから」
「私は、キミの愛嬌の方がよほど健康的だし、意味があると思うよ。声も可愛い」
「そんな……」娘は上気した顔を更に赤らめる。「あの、明日の朝のお味噌汁も私が作るんです。楽しみにしてて下さいね」
「作り手として可愛い|娘《コ》の顔が浮かぶと、またなおさら美味しく感じられるだろうなあ」想像して、高階は少し嬉しくなった。社交辞令なしで微笑む。「うん。そういうことなら、明日の朝食は和食を選択させてもらおう」
 コックはぺこりと一礼して、元気いっぱいにサウナ室を出ていった。
 美容師は洗髪料やパーマ液で、ナースは無菌室前の手洗い殺菌で、コックは調理中の火傷で――。職業柄、手荒れ、肌荒れ、怪我の類を宿命付けられる女性は多い。漫画家にしたところでペンだこ≠ュらいはできる。
 今の女性も、年頃の娘として傷や火傷は悩みの種であろう。
 だが一方で、勲章の類とも考えているかもしれない。
 第三者の中には単に醜いと断じる人種もあろうが、高階にはむしろ好ましく感じられた。
 自らの職に励む者、矜恃を持つ者の証なのだ。
 それを刻み、どこか照れくさそうに微笑む人間と触れあうのは良い刺激になる。〈マニッシュバーズ〉関係の目論見は空振りだったが、代わりに良い出会いを得られたと思った。
 若いコックが去ると、サウナ室への出入りは完全に途絶えた。
 ひとり静けさの中で、高階は目を閉じた。
 その気はなかったが、自然と事件のことが頭に浮かんだ。
 佐伯の危惧とは裏腹に――高階にはあれが感染症の類だとは、やはり思えない。
 この点において、船医の見立てには全面的な支持を置ける。
 理由は単純だ。フィリピン人|船員《クルー》も601号の婦人も、今日、別々の場所からやってきて、船に乗り込んだ。これが何かの病気であったとして、港に入る前に個々で感染源に接触していた可能性は普通に考えてあり得ない。となれば今日、この名古屋港に来てから宿主《しゅくしゅ》に触れて感染したことになる。その後、数時間で発症し、一瞬で重症化。あっという間に死に到ったと見なくてはならない。
 こんな経過を辿る伝染病などかつて報告にない。致死率も含めてあまりに異常すぎる。
 佐伯が話題にしていた|最悪クラス《レベェル4》の伝染病であるエボラ出血熱すら、致死率は五十から九十%程度。しかも成人の場合は、発症しても死ぬまで数日かかることがほとんどだ。
 ならば〈青酸カリ〉などでお馴染みの無機化合物、〈サリン〉や〈VX〉などに代表される有毒物質の可能性はどうかといえば――、これもイメージが違った。
 何より、あれらの多くは神経系、呼吸器の働きを阻害するものである。今回の件でも、神経系に何らかの作用があった可能性自体は否定しない。むしろ高いだろう。
 が、しかし、出血傾向が二件に通じる最大の特徴でもあるのだ。
 無機系化合物や有毒ガスの類を持ち出すと、これにしっくりこない。
 やはり、条件的にマッチしない部分が多すぎるのだった。
 とすればやはり、初見で直感したように|toxin《トキシン》か――?
 自問しつつ、それについて考えた。
 生物由来の出血毒を持ち出せば、二人の病態をぐんと説明しやすくなるのは事実だ。
 船上だけに、ウミヘビやらクラゲにでもやられたか。
 馬鹿馬鹿しさはあるが、実際の話、最初にあのフィリピン人|乗組員《クルー》を見た時も、高階は生態毒性を即座に疑っている。
 ただこの場合は、腫脹が見られないというのがネックだった。
 咬まれる、刺されるなどで毒を食らった時、普通、その患部は傍目に分かるほど腫れ上がる。今回はそれがない。婦人の方は良く診ていないため断言はできないが、特に目につく異常はなさそうだった。腫れていたとして、結局はその程度であったということだ。
 もっとも、典型的症状を伴わないケースは、生物毒の場合そう珍しくない。
 たとえばマムシ咬傷を受けながら、局所の腫脹・壊死という常識的な所見をまったく伴わなかった症例を高階は知っていた。急激な血小板の減少、さらに吐血、皮下出血、血性排液が見られたが、典型的とされる基本的な症状はほぼ無し。レアケースだが、救急の現場では認知が進んでいる話だ。
「でもなあ……」
 なんとなく、すっきりしない部分が残る。
 そもそも海洋生物の毒は、クラゲもウミヘビもほとんどが神経系メインだ。出血傾向は皆無ではないにせよ、あまり強くは見られない。
 結局、どの路線で考えても不自然な要素が必ず現れるのだ。
 問題は、その不自然をどう解釈するかだが――
 何にせよ、トキシンに関しては、船医に血液検査の結果を聞けば一発で真実が判明する。
 材料不足のまま、これ以上あれこれ思料するのは時間の無駄に他ならない。
 そこまで考えて、高階はサウナをあとにした。
 水風呂に直行するも、流石にカンテキ娘の姿はもうなかった。
 代わりに何人か、別の女性客が湯船につかっているのが見えた。何か話し込んでいるらしく、時折笑い声がくぐもった反響を伴って聞こえてくる。
「あ、先生!」
 大浴場から出てすぐ、待ち構えていた佐伯に行く手を塞がれた。
「わあ、佐伯君だぁ」
 高階は表情をまったく変えないまま、合掌した両手を右頬にくっつけるポーズをとった。
「私と三十分離れただけでもう寂しくなっちゃったの?」人差し指で佐伯の胸を突く真似をする。「もう、さびしんぼ屋さんなんだからあ」
「鳥肌が立つんで、その妙なキャラクターやめてもらえませんか」
 佐伯が大仰に顔をしかめてみせる。
 逆の立場だったら、高階自身もまったく同じ表情をしたに違いなかった。
「なんで私は可愛く生まれてこなかったんだろう」思わず嘆息した。
「それだけ容姿に恵まれておきながら、なに贅沢なこと言ってるんですか。刺されますよ、世の女性たちに」
「そうは言うけどさ。綺麗とかそういうのって、人の容姿に対しては褒め言葉として機能してないと思うんだよね。ベクトルが自然現象やら風景を評するのと同じでさ。その手の美的感覚って結局、受け手の感性なんだよ。むしろ、綺麗に感じられるセンスと余裕と心の豊かさが凄いわけでさ」
 そもそも、時代によって醜美の基準は全く異なる。
 中世の日本では、細目の下ぶくれが美人と認識されていた。当時は、貴族でも飢饉に苦しむ時代だった。そのため、栄養状態が最優先であったのだ。健康の象徴こそが美であった。ふくよかな女性が月や華に喩《たと》えられ、歌に詠《よ》まれた。
 高階は、自動販売機で買ってきたカフェオレを空けながら続ける。
「でも、ぷくぷく赤ちゃんの可愛さは、平安どころか類人猿の頃から全く変わらない基準なわけだよ。どんな時代の誰が相手でも保護欲とか母性とかに訴えかけて、相手の行動を具体的に引き出す力を持ってきたわけじゃない? 要するに、愛嬌というパラメータは綺麗とか美しいとか、その手のどうでもいい評価軸より明らかに意味が重い。なんというか、強いんだ。千円札の人も言ってるじゃないか。愛嬌とは、自分より強いものを斃《たお》す柔らかな武器だと」
「千円って野口英世がですか」
「あんな無能の穀潰しにこんな台詞吐けるか。夏目漱石だよ」
「先生はブサイクだとか微妙な顔だとか言われたことがないから、そういう贅沢な領域で悩むんです。――そんなことはどうでも良いんですよ」
「どうでも良いとはあんまりな言われようだなあ」
「さっきのあれはどういうことなんですか」
「あれ?」
「ネームがどうとか言ってたでしょう」
「ああ、その話」理解した瞬間、別の意味でため息が出た。「なに、そんなこと訊くためにわざわざ追いかけてきて、ここで待ってたってわけ? 暇だねえ、キミも。あの隣室のおじさんはどうしたの? 放置?」
「あ、そう言えば」
 完全に失念していたらしい。佐伯は意味もなく、部屋がある方を振り返るような素振りを見せる。
「まったく、もう五分もしないうちにイヴェント始まっちゃうのに……とりあえず部屋に戻るよ。佐伯君が訊きたいことは、どこに他人の耳があるか分からないような場所じゃ話せないしね。変に噂になったりしたら、それこそツアー中止だ。それに部屋に残してきたあの日焼けの中年が――」
「笠置《かさおき》さんですよ。さっき調べたばっかりなのにもう忘れたんですか」
「あれは長期記憶媒体《ストレージ》じゃなくて、一時記憶媒体《メモリ》で扱う方の情報だからねえ」
「ちょうど梅雨時ですし、傘を置いておく≠ニか語呂合わせっぽく覚えられるでしょう」
「その笠置氏が、一人になったのを良いことに美人漫画家の下着を漁って、至福の表情浮かべてたりしたらどうするのさ」
「妻を亡くして傷心の人がそんな極端な真似するわけないでしょう」
「分からないよ」高階はカフェオレを飲み干し、パッケージを近くのゴミ箱に捨てた。「男ってなんでか知らないけど、ストレスこじらせたら異性の下着に走る生物じゃないか。市の職員が携帯カメラで女子高生の下着盗撮したり、教師や警官がバッグに忍ばせたヴィデオカメラを満員電車に持ち込んだり。おかしな精神状態になると、下着のために自分から人生に終止符打ち出す始末。女より一本染色体のバランスが欠けるだけで、なぜにああまでアホになれるものなのか。私は不思議でならんよ」
「確かに最近多いですけど……」
「今回の事件なんかより、よほどミステリーだ」
 しかし、最近は待ち伏せが流行なのだろうか――?
 自室のある最上階に戻った瞬間、高階は真面目にそんなことを考えかけた。
 今度は、複数の男が雁首《がんくび》揃えて高階を待ち構えていたからである。
 船長をはじめとした上級|船員《クルー》らであった。
「ああ、先生がた。探しましたよ」
 高階たちが近寄ると、香川キャプテンはあからさまにほっとした顔する。傍らには見覚えのない一等航海士を伴っていた。緊急事態ということで、非番中のクルーを動員したのだろう。
 死者の出た601号室は、もはや完全に事件現場扱いだった。エントランスの扉は撤去されており、ホテル部門のスタッフがひっきりなしに出入りを繰り返している。手にしている道具から察するに、清掃と消毒の真っ最中であるらしい。並行して、入口付近では|船大工《カーペンター》たちが作業に打ち込んでいた。こちらは、ドア破りの際に生じた破損箇所の修復に追われている。
「忙しそうですね」高階は言った。
「こんなことになりましたからね」肩越しに601号室を一瞥し、キャプテンは眉間にしわを刻む。「ドクターから、発見時に一緒におられたと聞いていますが」
 そうだと答えると、彼はひとつ頷いた。
「で、先生。当の笠置さん――御主人の方――がどちらにおいでかご存じないですか」
「彼なら、私たちの部屋にまだいるんじゃないですかね。うちの佐伯が介抱のような形で通したんです。もう601号は使用不能でしょうから、行き場もないでしょうし」
「そう、実はそのお部屋の移動のことでご相談をと、探していたんです。それと、亡くなった奥さんの遺留品のチェックもしなければいけません。できれば御主人に一言断っておきたいんですよ」
 これは〈船員法〉で定められた船長の義務なのだという。
 死者や行方不明者が出れば、遺留品の整理。犯罪が起きれば、司法警察権を行使して捜査や犯人の逮捕。緊急時に船長が負う責任と、与えられる権限は極めて大きい。
「ほら、佐伯君。早く船長《キャプテン》を部屋にご案内して。まったく、幾ら私が大好きだからって、妻を失って茫然自失の人間を放置して来るとは。衝動的に自殺でも計られたらどうする気よ。ドア明けた瞬間、天井からブラブラしてるのを見たりしたら、夜、夢にうなされるのはキミなんだよ?」
「いや、まさか……そこまではないと信じたいですけど」
 そうは言いつつも、佐伯は慌てた様子で602号の鍵を開けた。
 ドアが開かれる。
 高階の予想通り、そして佐伯の祈り通り、笠置はまだ居間にいた。
 もちろん、天井に吊したロープに首を通していた、ということもない。風呂に行く直前、高階が最後に確認した時と寸分変わらぬ姿だった。
 船長が遠慮がちに呼びかけると、彼はのろのろと顔を上げた。目はどこか虚ろだった。焦点が合っているかも怪しい。まともな思考ができる状態には見えなかった。それでも、部屋の移動や遺留品のチェックの件を持ち出されると、ぽつぽつと返答らしきものは寄越す。まさに抜け殻といった様子だった。
「それで、ええ――奥さんの、ご遺体のことなんですが」
 香川船長は、元より低めだった声のトーンをさらに下げつつ、本題を切り出した。
「船医が具体的な死因について調べています。消毒後は、別室に移してそこに安置されていただく予定です」
「翔子には……妻に、会えますでしょうか」
 笠置が蚊の鳴くような小声が問う。
「申し上げた通り、今すぐには無理です。奥さんがどうして亡くなったのか、その、接触と言いますか、近付くことに問題はないか、そういったことに船医がある程度の目処をつけるまではご辛抱下さい」
 力なく項垂れる相手に、船長は改まって言葉を続けた。
「笠置さん、本当に申し訳ありません。お気落ちの所、このようなお願いをするのは私としても非常に心苦しいのですが、もう二、三、どうしても確認させていただきたいことがあるんです。船内の保安上、必要なことですので、どうかお付き合いいただきたいのですが――まずお訊ねしたいのは、奥様と最後に会われたのはいつ頃か、その時に奥様の様子はどのような感じであったかということです。何か気付かれたことはありませんでしょうか。どんな些細なことでも構わないのですが」
 笠置がうつむいたまま答えられずにいると、我慢できなくなったか佐伯が口を開いた。
「それなら、我々も証言できると思います。なんと言うか、笠置さんが奥さんを置いて部屋を出ようとしていた時、私たちも偶然、その場に居合わせましたので」
 ほう、という顔で船長が佐伯の方を向いた。
「それは、いつのことですか」
 佐伯は、ウェルカムパーティの直前だと答えた。笠置の細君が何か定かではない原因で気分を害していたこと、そのため室外に出ることを拒否していたこと、夕食やショウにも参加する気がなく「食事はルームサーヴィスで済ませるつもりだ」と発言していた旨も伝える。
「ああ、鍵をお忘れになったというのは、その時、半ば無理やりに追い出されたからというわけですね」
 船長の確認に、佐伯が頷く。「そういうことになると思います」
「奥さんの様子はどんな感じでしたか?」
「機嫌は悪そうでしたけど、体調面では特に気付くような所はなかったですね」
 と、佐伯は同意を求めるように高階に視線を向けてくる。
「まあ、私も別段変わった印象は受けなかったかな」仕方なく、高階も証言した。「敢えて言うなら格好が少し違った。あの時はまだタンクトップの上に上着を羽織ってたけど、寝室で遺体になってた時はその上着は脱いでいて、あとサングラスも外してた。それくらいかな。まあ、クーラーついた室内に入ったんだから、上着脱いでサングラス取るのは当然だけど」
「なるほど。それで、御主人。亡くなったフィリピン人|船員《クルー》とのご関係についてはいかがでしょう。乗船前後を問わず、奥様が彼とどこかで接触したというようなことはありませんか? 道が分からず案内を受けたとか、拾った物を届けられたとか、そういったちょっとしたことでも」
 しばらく沈黙した後、笠置はうつむいたまま首をゆっくり左右した。
 その後も、彼は一貫して処理落ちが激しい廉価タブレットだった。何につけても反応がワンテンポ遅れる。時に応答がなくなることもあった。それでも船長はペースを合わせて質問を続けた。
 昨夜、今朝は何を食べたか。乗船後、細君が誰かとトラブルを起こさなかったか。思い悩むような仕草の有無。躁鬱などを含めた肉体・精神の傷病歴。
 そのほとんどが高階には関心のないことだったが、流れの中で一つ、興味のひかれる話を聞けた。
 夫婦の力関係についてである。
 笠置が訥々《とつとつ》と語ったところによると、妻・翔子は大変な資産家の娘であったらしい。結婚も、彼が妻の家――すなわち笠置家へ婿《むこ》入りする形で決まったのだという。
 笠置自身の実家も、比較的裕福な部類ではある。しかし、妻の一族は政財界にも影響力が強く、家柄としては格がはっきり違った。単に富豪という表現で同列に語れるものではなかった。
 妻とは恋愛結婚であり、幸せであったが、窮屈な思いをすることも多かったという。
 まさに、ネット検索の時に得た推論を裏付ける証言であった。
「先生、ビンゴじゃないですか」
 佐伯が、高階だけに聞こえるよう声量を絞ってつぶやく。
「ビンゴ大会だったら、商品でるんだけどな」
 やがて遺品整理に立ち会う方向で話がまとまった男達は、椅子から立ち上がった。
 質疑応答を続けるうちに落ち着いたのか、笠置も幾分、生気を取り戻したように見える。少なくとも出口に向かう足取りは比較的しっかりとしていた。
「では、佐伯さん、高階先生、長いことお邪魔して申し訳ありませんでした」
 ドアの前で振り返った船長は、折目正しく頭を下げた。
「ああ、|船長《キャプテン》」高階は言った。「行かれる前に、私からも一つ質問が」
「私にですか? 何でしょう」
「さっきの質問内容から察するに、船長はもう船医《ドクター》から大体の説明を受けてるんでしょう? だとしたら、海保にどういう報告の仕方をするかで悩まれているはずです。多分、詳しい検死の結果がまだ出ていないということで、決定的な報告はまだ保留しておられるのでは? 会社との相談もあるでしょうし」
 言葉を進めるうちに、香川船長の顔がみるみる強ばっていった。
「もし方針が確定して、真実に基づいた[#「真実に基づいた」に傍点]報告を済ませているのなら、私たち乗客にもアナウンスしなくちゃいけないことがあるはずです。今後の日程についてとかね。しかし、そんな告知はまだない。ということは……」
「先生」船長は強引に遮ると、廊下の一等航海士に笠置を任せた。自分だけ602号室に居残り、後ろ手にドアを閉める。「先生、ちょっとお話が」
 高階は手振りでソファを勧めた。香川船長はネクタイを締め直すような仕草を見せつつ、そちらに腰を落とす。それから佐伯の出した水を半分ほど一気にあおった。
「ドクターから言われた通りだ。先生はやはりお気づきだったんですね」
「血液検査の結果から導き出された考えを、船医から聞いたんですね?」
「そう」グラスの残りをあけると、彼は自分でボトルから二杯目をついだ。「聞きました。専門的な用語が多かったので細部まで正確に覚えているわけではないんですが……フィリピン人|乗組員《クルー》と笠置夫人の血液検査を実施したところ、共に血液を固める何とかというカタカナ因子が、ほとんど測定不能なくらい異常に減っていることが判明したと。色々な箇所から出血していたのはそのせいだということでした」
 因子の名前がカタカナであったというなら、フィブリノゲンだろう。
 これがほとんどゼロになる症例として、真っ先に思い浮かぶのが毒蛇のヤマカガシだ。
 マムシに噛まれた場合などは、血小板だけ下がり、フィブリノゲンを含めた凝固系に異常が出ないことがあるためだ。
「それから」と船長が続けた。「あの例の、お客様がたが|黒死病《ペスト》だと怖がっておられた斑点ですが……あれも、その何とかの減少だか低下だかが大元になって出た症状だと考えられるそうです」
「その大元の原因については何と言ってましたか」高階はすぐに訊いた。
 船長が再度、嘆息した。その肩から強張りが抜ける。
 しばらくすると、「もう観念した」といった様子で口を開いた。
「ドクターが言うには――」
 先程までと比較して、むしろ落ち着いているとすら感じさせる口ぶりだった。
「原因は恐らく、何らかの毒素が大量に体外から入ったせいだろう、と。なんでしたか、|蜂《ハチ》やら蛇《ヘビ》やらの毒には、人間の血を固めてドロドロにしてしまう作用があるとかで。血液検査の結果は、こういった毒にやられた時の数字に似ているそうです。二件、両方とも」
「うん――? あの、ちょっと良いですか」
 佐伯が遠慮がちに言った。答えに自信のない生徒のように、小さく挙手している。
「生き物の毒に血を固める能力があるとして、なんでそれが大量出血に繋がるんです? 固まるって、血がカサブタになる能力でしょう。むしろ血は止まるのでは?」
「ああ……そう言えば……」
 指摘されるまで気付かなかったことを隠す素振りもなく、船長は高階に視線を向ける。
 あからさまに「説明してくれ」という顔だった。
「血を固める効果を、専門的には凝固作用《ぎょうこさよう》と言う。で、日本にいる生物の毒には〈トロンビン様酵素〉に代表される凝固作用を持った物質が含まれてることがある」
 高階はしかたなく説明の口を開いた。
「人体がこれを受けてしまった場合に何が起るかと言えば、血液凝固の暴走だ。正確にいうと、佐伯君がカサブタを引き合いに出して指摘したような、人間が本来持つ血液を固める能力に爆発的なブーストをかけてしまう。結果、血管の中では小さな血の塊が大量に作られる。いわゆる血栓ってやつだね。|微小血栓《びしょうけっせん》。
 問題は、蜂の毒にしたって蛇の毒にしたって、凝固作用と同時に血管をズタズタにしたり、血の成分をバラバラにしたり、そういう色んな効果を持つ物質を混ぜ合わせてるのが標準だってこと。これらが一致団結して騒ぎ出すと、体中の血管が破れて、あっちこっちで出血が起り始める。同時多発テロみたいなもんだ」
 ここまで聞けば、大抵は話の結末に辿り着けるというものだ。
 現に、佐伯は小さく「あっ――」という声をあげた。
「もう分かったと思うけど、ペストとかで出る出血斑はこの内出血が大きく関係している」高階は静かに続けた。「そして、こうなると死亡率も跳ね上がる。預金残高と同じで、人体がたくわえてる凝固剤的なものには在庫に限りがあるからね。暴走して一気に使い切っちゃうと、いざって時に何もできずに泣きを見るわけ。毒のせいで凝固能力をスッカラカンにしちゃった人体がまさにそうで、血栓の生成に|資源《リソース》全部突っ込まされたもんだから、新たに全身で発生した内出血を止める手段がもうない」
「それで大量出血ですか。蛇口が開いたまま壊れた状態で」
 いずれかの遺体の状況を思い出したのかもしれない。香川が顔をしかめながらつぶやく。
「そういうことです。出血が止まらないだけじゃなくて、異常発生した血栓は腎機能を破壊。腎皮質壊死に追いやります。これは急性心不全にも連鎖する。つまり腎臓や心臓を壊してしまう。血の巡りが悪くなるから低血圧でショック症状も出る。しまいには多臓器不全という重篤な状態に到って、こうなると大病院に救急搬送しても助からないことも多い」
 一般に、血管や血液にこうしたダメージを与える毒を〈出血毒〉という。
 だが世間にはより危険な種類の毒があり、これは〈神経毒〉と呼ばれている。その名の通り、脳神経や心臓を含めた筋肉を麻痺させる機能を持つもので、危険性の高い毒のランクングの上位を独占しているのもこの種類の毒だ。
 そして、クサリヘビ科の蛇の一部などはこの〈神経系〉と〈出血系〉両方の機能をバランス良く備えた万能の毒を持つ物がいる。――高階はそう付け加えた。
「マムシなんかもクサリヘビ科だから、一応は毒に神経系の要素が含まれてるけど、弱い。九割方、出血方面に特化した形だけの混合型だ。でも、海外の極悪な奴らは違う」
「やっぱり、日本のよりヤバイのがいるわけですか」佐伯が訊いた。
「いる。強力な混合型は人間を殺しに来た上で、助かったとしても手足の切断みたいなえげつない後遺症を残していく。ただし、単に致死率だけみれば、神経系特化型の方が危険性は高い。トップクラスだと、針の先にちょんちょんと毒液を軽く付けて、それでチクっと優しくやっただけで人間殺せるクラスのがいるからね」
「それはまた、凄いですね」香川船長が眉根を寄せながら唸る。「ウミヘビには危険なのがいると言いますが、その類ですか」
「海にも陸にも針先で人間殺せる毒を持った生物はいます。それらはどれも神経系の毒持ちで、毒の効果が出るのも速い。分子量が小さいから全身に回るのが速く、何より血がドロドロとかまどろっこしいことを言わず、直接、呼吸や心臓を止めてくるからです」
「この船で亡くなった人々は割合、短時間で死に到ったんでしたね」
「そう。船長も気付かれたように、致死率の高さと進行の常識外れな速さを考えると、今回、ふたつの人命を奪った毒にも神経系のものが含まれていたと考えるべきです。全身の出血とそれによる臓器の損傷、各種ショック。加えて脳や心臓の直接的な機能麻痺・破壊。これが複合的に起ったというのが、船医の話から想像されるフィリピン人の|甲板部員《クルー》と傘立《かさたて》夫人の不幸の経緯となるでしょう」
「笠置夫人です、先生」と船長。
「と言うことは、ええと――」
 一瞬、言葉を探すような素振りを見せて、佐伯が続けた。
「この船には、そういう致死性の毒を持った生き物が入りこんでるわけですか? 蜂や蛇に限らず、タランチュラみたいな蜘蛛とかサソリとか」
「タランチュラの大部分はそんなに危険じゃないよ。私と同じで、見た目で誤解されやすいけど、実は大人しくて気が弱い地味系の子が多いから。毒気だって基本的にそれほどでもないし。死亡例があるなら、たぶんほとんど全てが蜂と同じアナフィラキシィショックだろう。まあ、船に入りこんだ何らかの生物が人間殺し回ってる可能性自体は、否定しないけど」
 そこまで語ると、高階は香川に目を向けた。
「その辺、船医からはどういうコメントを受けてるんですか?」
「サソリとはまた違うんですが、虫刺されのような傷らしきものは確かに見つかっているそうで。しかし、それが何による刺し傷なのか、噛まれた傷なのかは分からないと。蛇なんかの時もそうらしいんですが、傷跡や経過からは何にやられたのか確定できないことも多いそうです。今回は被害者からの聞き取りもできないし、特定は困難だろうと言ってました。一応、〈日本中毒情報センター〉でしたか、そういう所に問い合わせてみるそうですが……」
「先生自身はどう見てるんですか?」佐伯が訊ねる。
「私? まあ、受傷した部分を実際に見てないから想像するしかないんだけど」
 そう断りつつ、高階はごく簡潔に持論を述べた。
「状況証拠的に言うなら、私はどっちも人間の仕業だと思ってる。多分これ、両方とも殺人なんじゃないかな」
 これには流石の船長も腰を浮かせた。
「高階先生、それは……ちょっと……」
 一方の佐伯は、比較的冷静だった。
「さっき|計画性《ネーム》があるみたいなこと言ってたのは、やっぱりそういう意味ですか。根拠はなんです? 何かあるんですよね」
「今までの話と矛楯してるように聞こえるかもしれないけど、毒で人間を殺せる生物は、そもそも少ないんだ。人間って、生物の中ではサイズが相当デカイ方だからね。基本的に毒では死ににくい。もっとも多く人間の命を奪ってきた生物だって、実は蚊なんだよ」
「蚊ぁ?」
 佐伯が素っ頓狂な声をあげる。
 それも無理はないのかもしれない。
 だが、蚊は病気の感染源として極めて驚異となる存在だ。
 デング熱やウイルス性の脳炎など、蚊を媒介とする感染症は数知れず。その死者数は毎年数十万人になる。二位以下に文字どおり桁違いの差をつけて、これは圧倒的な数字だ。
「分かります」船長がうめくように言った。「船でよく流行るマラリアは奴らが原因です」
「そう。次に人間を殺しているのが毒蛇。三位は犬。毒蜘蛛やサソリはトップ5にも入らない」
 結局、純粋に毒の力だけで上位に入っているのは蛇類だけだ。
「現実には、蚊やハエみたいに病気をうつして間接的に殺すのが一番楽なんだ。まあ、この場合、潜伏期間やら何やらで死ぬまで時間がかかるのが相場だけどね」
「毒で瞬殺となるとさらに難易度があがるわけですか」佐伯が言う。
「まあ、日本にも沖縄の波布貝《ハブガイ》やらハブクラゲみたいな、えげつない猛毒持った例外もいるにはいるんだよ。でもそれにしたって、年間の死亡例は片手で数えられるくらいなんだ」
 この理由は実に単純である。
人間を殺せる毒を持つこと≠ニ、その毒で人間を殺せること≠ニが別だからだ。
 いくら毒が強くとも、身体の構造上、人間を殺せるほど一度に沢山の毒を注入できないのなら脅威は半減する。
「日本にはね、樺黄小町《カバキコマチ》っていう象徴的な毒蜘蛛がいるんだ。身体が一センチ程度の小ささだから毒の量もたかが知れてるし、牙が弱くて人間の薄い皮膚すらなかなか貫けない。でもね、量あたりの毒の強さならマムシの数千倍。地球上の全生物中でもトップ10狙えるレヴェルとして知られている」
 そのため、ふたりの人間が立て続けに襲われ、共に極めて短時間のうちに死亡――といったケースは、まず普通には起り得ない。
 大体からして、生物の毒で死ぬにしても普通は一日、速くても半日はかかるものだ。
「現実にあり得るとしたら、蜂の大群に二人揃って襲われて劇的なアナフィラキシーショックに見舞われた時くらいかな。全身症状まで十五分、心停止まで更に十五分で、最短三十分。これなら今回の条件に当てはまらないこともない。でも、これすら相当のレアケースだろうし、今回は大群に体中めった刺しにされたとかでもないわけでしょ。急激な血圧の低下や出血性のショックはあったろうけど、アレルギー性のショックがあったかは微妙だ。単純に毒の作用で死んだと見て良い」
「しかし、だからと言って、殺人事件というのは……」
 勢い込む船長に向け、高階はゆっくりと言葉を続けた。
「理由はまだある。死んだふたりは、どちらとも上半身の首近くから毒を盛られたと考えられる。何故か? 船長も出血斑が上半身に固まっているのは見たと思いますが、あれは毒が注入された場所付近に現れるのが相場なんです。しかし、蜘蛛や蛇やサソリにとって、人間の上半身は噛んだり刺したりがしにくい場所なんですよ。蜂なんかは飛んでるから良いけど、ほとんどの虫や動物は地を這ってるわけだから。当然、やりやすい人間の手足に傷を付ける。九割方、受傷は四肢末端。これが現場では常識になってると思います。それを踏まえると、ふたり揃って上半身ってのはちょっと不自然でしょう?」
「じゃあ、それこそ蜂《ハチ》は無理にしても、飛べるタイプの昆虫とか、鳥とか」
 佐伯が食い下がる。
「さっきも言ったけど、毒は単なる強さ以上に、確実に相手の体内に一定量を送り込めるかどうかが大事なんだよ。で、毒を持てる量ってのは、だいたい身体の大きさに比例する。つまり虫系は小さ過ぎて人間相手にするには少な過ぎるわけ。逆にデカイと身体が重くて飛べない。鳥ならと思うかもしれないけど、鳥に強い毒持ちはいない。一部のモズに人間を殺せるくらいの例外がいるけど、残念ながら毒があるのはクチバシとか爪とかじゃなくて、羽や皮膚の部分。体内に注入なんて無理なんだよ」
「個々の条件を満たすだけなら自然界に該当するのがいるけど、条件を全部兼ね備えるとなると難しい、ってことですね?」
「そう。一番のネックは、やっぱり両方とも凄い短時間で死んでることなんだ。フィリピン人|乗組員《クルー》の方はまた未検証だけど、婦人の方は最後の目撃例と死亡推定時刻から考えるに、症状が出始めて一時間以内で絶命してるのは確実でしょ」
「ひょっとしたら三十分未満で死に到ってる可能性すらありますよね」
「うん。どちらも助けを呼べてないことを考えると、意識の混濁や昏倒はもっと早く、ほとんど瞬間的に訪れていると思われる。これは劇的と言える効きの良さだ。これを出血斑を伴うような外因性毒素で再現するとなると、満たしておきたい条件が三つ出てくる。最も重要なのは、致死量に充分な毒の注入。もう一つは強力な出血毒と神経毒との混ぜ合わせ。そして、皮下《SC》ではなく血管内への直接的な注入。皮下への注入と比較した時、大雑把に言って静脈《IV》なら二・五倍、|腹腔内《IP》なら五倍、毒の効果は上がると言われているからね。――で、突き詰めて考えていくと、私は人間以外に条件をクリアできる存在に思い当たらないってわけ」
「つまり先生は」三日間眠っていないような顔で、船長はうめくように言った。「毒を注射器か何かで首筋から入れたようなイメージをお持ちなんですね?」
「その通りです。まあ、首かどうかは不明ですが、その場合は外頸静脈を使ったのかもしれませんね。だとしたら、なかなか苦労したことでしょう。まあ、出血毒の方はリンパに乗れば良いわけだし、フィリピン人船員でちょっと試してみたのかもしれない。で、上手くいったと」
「いや、殺人はあり得ませんよ」佐伯が強気に断じた。「少なくとも、笠置さんの奥さんのケースでは絶対ない。あの人は自分の部屋の中で亡くなってましたけど、ドアには鍵もチェーンもかかってたし、バリケードまで築かれてたんだから」
 高階は片眉を吊り上げる。「ドアが駄目なら、窓から入れば良いじゃない」
「そんなアントワネットみたいなこと言ったって無理なものは無理です」
「バルコニィのことなら、私も不可能だと思いますが」
 香川までもが佐伯と口を揃えだした。
「なぜに無理?」
「先生、ここ最上階で、客室は二つしかないんですよ」佐伯が答えた。「それも通路挟んで向き合う位置取りだから、隣の部屋からバルコニィ越しにって移動はできないんです」
「いや、客室はそうかもしれないけど、リネン室みたいな小部屋くらいならあるでしょ」
「仮にあったとして、その部屋にバルコニィはついてないし、したがって客室のバルコニィとの連絡口にはなりません。隣に空間自体がないんですよ」
「あれ、そうなの?」
 それは確認していなかったことだった。
「小さいとか馬鹿にして、ちらっと見ただけで興味なさそうにしてたから、そういう初歩的な認識ミスを犯すんです」佐伯が言った。嫁をいびる姑《しゅうとめ》の口調だ。「その傲慢な態度を反省したら、船長に謝って下さい」
 こうなると抵抗するだけ面倒なこともある。高階は素直に頭を下げた。
「バルコニィが小さいなどと一笑に付してすみませんでした」
「いやあ、小さいのは事実ですから」香川が苦笑交じりに手を振る。「私が船を所有しているというわけでもないですし」
「じゃあ、話を戻すとして」高階は言った。「佐伯君が言うように、あくまでドアが唯一の経路だとしよう。その場合でも、廊下とかで注射された後、部屋に逃げ帰って鍵締めて、中で死んだってパターンなら状況は説明されるよ? この場合は、フィリピン人が犯人だね。で、彼はトイレで自殺。論理的には逆もあり得る。夫人がフィリピン人|乗組員《クルー》を殺して、部屋に戻って自殺」
 後者の場合はバリケードを作った理由が不透明になるが、説明をつけようと思えばどうとでもなる話でもあった。麻薬の常習者で、妙な幻覚を見たのかもしれない。こちらの想像以上に子供じみた女で、夫への嫌がらせでドアを塞いだ可能性だってある。
「先生の言う通りなら密室みたいなのの説明はつきますけど、ロジック的に滅茶苦茶もいいとこですよ」佐伯が不満を隠そうともせず捲し立てた。「どちらか、もしくは両方とも自殺だったとして、現場には注射器なんて残ってなかったわけですし。そもそも例の船員にも笠置さんの奥さんにも、殺人の動機、自殺の動機、ともにないじゃないですか」
「知らないよ、そんなの。意見を求められたからパッと思いついたことを話しただけで、本腰入れて考証する気なんて私にはないもん。こっちはね、変にこじれて今後の船内イヴェントに影響しないかだけが心配なの。人の手で死人が出たなら事件になる。事件になれば海保が乗り込んでくる。あるいは、クルーズ打ち切って一日早く東京港に入るみたいなことにもなりかねない」
「高階先生、私の話というのもそのことなんですよ」
 襟元を正して、香川船長が言った。
「正直にお話しますと、会社も私も、この件は可能な限り穏便に片付けたいと思っています。特に今回のクルーズは、投じた予算もさることながら、人気絶頂のアイドルグループを使った、非常に大きな意味を持つ企画なんです」
「いわゆる社運を賭けた?」
 高階は少し皮肉めかして言ったが、船長は真顔でそれを認めた。
「そう。メディアを動員し、大々的に宣伝をうち、世間からの注目もこの手のクルーズとしては異例なほど大きな物になっている。失敗は致命的な痛手となるんです」
 そもそも豪華客船は、海運会社にとってイメージ優先の広告塔という側面が強いのだという。
 儲けは少なく、むしろ赤字すら覚悟の上。その分の利益をコンテナ船やタンカー、バラ積み船などで補う、という形なのである。これは株主総会などでも、きっちり明示されている方針らしい。
「そんな位置づけの客船がですよ? よりにもよって会社の看板に泥を塗るようなことともなれば……生臭い話ですが、目も当てられません。何としても避けたい事態です。幸いにもフィリピン人|乗組員《クルー》の時点では、レアケースの病死として騒ぎにならないような報告をしています」
 確かにあの時点では、非常に珍しい条件が偶然重なった――で片付けられないこともない状況であった。
 死んだのが、出稼ぎの外国人船員であったということも大きい。乗船前から自覚症状があったが、降ろされて稼ぎが減ることを恐れ、報告を怠った。本人が意図して健康を装った――。海運業界ではよくあるパターンだと聞くだけに、想像も容易だからだ。
 状況が一転したのは、笠置夫人が同じ条件で死んだからに他ならない。
 彼女の死により「こんな偶然の連続はあり得ない」、「これは人為の事件である」という見方が一気に強まったのだ。
 一例なら良くとも、二例立て続けとなれば話は別、という典型だ。
「悩ましいのは笠置夫人の件ですが――」香川船長が説得口調で言った。「百歩譲って、先生がおっしゃったように彼女が殺人の被害者であったり、逆に殺人を犯した立場であったとしてもです。犯人は既に死んでいるということになります。事件的にはもう終わっているわけです」
「つまり?」
「つまり、現場と証拠の保存さえ行っておけば、詳しい報告はクルーズを終えてからでも問題はないということです。お客様はサーヴィスを全て受取り、我々は企画を途中で打ち切ることなく、当局は当局で事件を無駄なく処理できる。誰も損をしません。むしろ下手に騒ぎ立てる方が、各方面に損害を生む。そうは考えられませんか」
「共感できるかは別として、考え方の一つとしては分かります」
「でしたら先生、それに佐伯さん」と、香川船長は順に視線を移しながら続けた。「このクルーズを最後まで無事に終えられるよう、是非ともご協力をお願いしたいのです」
「それは……!」
 佐伯が気色ばむ。高階は手振りで彼を制すと、言った。
「おっしゃっているのは要するに、今ここで検証したようなことはひとまず胸にしまっておいて、クルーズを楽しむことを優先して考えろ、ということですね」
「そうです。もちろん、ご協力には相応のお礼をさせていただくつもりでもおります」
「ほう。ちなみに、何です?」
「今後、当社の客船で催行される世界一周クールズの企画に、おふたりを一度だけ無料ご招待させていただきます。もちろん、いつでもお好きな時に、最上級スイートを一室貸切で」
「ノった」高階は即座に言った。
「ちょっ……」融通の利かない佐伯が、予想通り抗議の声を上げる。「先生!」
「これより高階、完全お口チャックに入ります」
「なに言ってるんですか。あっさり悪魔に魂売りすぎにも程がある!」
「魂を売るのではない。自らが悪魔になるのだ」
「滅茶苦茶ですよ。そんなの許されるはずがない。先生、良心は咎めないんですか?」
「だってキミ、世界一周だよ。プレミアム上位とかラグジュアリィクラスの最上級船室で世界一周って言ったら、幾らすると思ってんのさ」
「時期にもよりますが、大体、二千万円前後にはなるでしょうか」
 香川が助け船を出す。
「だってさ。二人で四千万だから、場所によっちゃマンション買えちゃえますぜ、旦那」
「四千万……」佐伯が目を見開く。少し遅れて、下顎もかくりと落ちた。
 クルーズが日程の半ばで中止となれば、客への補償が必要になる。緊急入港だけでも軽く数百万の費用がかかるはずだ。加えて、殺人や伝染病から生じる風評は株価にも直結する。客足も遠のきかねない。損失は最悪の場合、億単位に及ぶ。それを避けるためというのなら、販売価格で四千万クラスの事前投資は決して法外とも言えない。会社はそう考えたのだろう。
 それに、相手は二泊三日の旅に数百万円をポンと出すクラスの人間だ。
 これくらい思い切ってカードを切らなければ、交渉時のインパクトにもならないという計算もあったのかもしれない。
「世界一周の全日程を合計すると、普通は百日間を超えるもんだ。うるさい編集をぶっちぎって国外逃亡するには最強のプランではないか。素晴らしすぎるね」
「いや、しかし……」
 数字の力で思考が吹っ飛んだのだろう。佐伯の語気は急速に陰りを帯びていく。ほとんど義務感だけで反論の口を開いている状態であった。
 高階はここぞとばかりに悪魔の囁きを続けた。
「だいたいさ、考えてもごらんよ。今、ここで議論したことは全部推論によるものだよ。|検証材料《ソース》だって伝聞で間接的に入手したものばかりだ。何の裏付けもない。そこを押して独自に動いたとして、できることはと言えば衛星回線借りて海保に連絡入れてだね、船内で人が死んだ≠チて伝えるくらいだよ。その上で、船医や船長は特に何とも言ってませんが、個人的推理ではこりゃ殺人ですぜ――みたいに進言するくらいが限界。でもそんなの、探偵きどりのアホの暴走だって思われる可能性の方が大きいじゃないか」
 佐伯は遂に黙り込んだ。
「診断書や検案書を書く権限を持つのは船医だけ。警察と同じ法的権力を背景に事件を公的に裁けるのは船長を頂点にした一部上級船員だけ。少なくとも海にいる限り、一般人に彼らの決定を覆すことは不可能だ」
「それでなくとも、海保も誰しも、あれを殺人の類だとは思いませんよ」
 船長が結論を付けよう、という強めの口調で言い切った。
「実際の所、高階先生だってそうでしょう?」
「と言うと?」高階は聞き返した。
「ちょっとでも海を知っていれば、船上で人を殺すとして、あんな無駄なことをする人間なんていないことは誰でも分かります」
「どういうことですか?」
 佐伯がきょとんとした顔をする。答えを探すように、高階と船長の顔を見比べ始めた。
「佐伯さん、私がもし誰かを恨んでいたり、あるいは弾みで人を殺めてしまったとしましょう。そうしたらまずやることは、遺体を海に捨てることです」
 この場合、まず遺体が見つかることはないのだ、と香川は続けた。
 航海士たちの巡回にさえ注意すれば、かなり安全に事を運べるであろうという。
「実際ね、良くある話なんですよ。|乗組員《クルー》が航海中にいなくなるなんてのは。日本の豪華客船でも五年くらい前、わずか三ヶ月の間で三人続けて行方不明が続出した騒ぎがありました。TVや新聞でも結構大きく取り上げられてたのでご存じかもしれませんが――〈ぱいふぃっくびいなす〉、〈ふじ丸〉、〈飛鳥U〉と、業界トップ3のような|面子《メンツ》から航海士からコック長、乗客までと色んな人が姿を消してるんです。それも、三件とも九州旅行やら日本一周やらのクルーズ企画の真っ最中ですよ? 客船はスケジュール無視でUターンさせられて、落ちたと思わしき海域を朝から晩まで探し続けたそうです。もちろん、海保も巡視船やらヘリやら出してね。しかし、誰も見つかってない」
「人が落ちても、そんなに気付かないものですか?」佐伯が訊いた。
「公園の手こぎボートとはサイズが違いますからね。もちろん、航海士たちが三交代・二十四時間体勢で船内を巡回してますが、全長が何百メートルにもなる客船は広すぎます。落ちる瞬間を奇跡的に目撃でもしない限り、なかなか難しいものですよ」
 もちろん、と船長は続けた。
「いま挙げたような実例は純然たる事故だったと信じていますが、それだけに、やろうと思えば完全犯罪も可能だと私は思ってるんですよ。私だけじゃない。誰も表向きには同意せんでしょうが、船乗りの多くは本音の所じゃ認めざるを得ないことです。沖に出た船上ほど、完全犯罪に向く環境もない。特に、真冬の夜などはベストです。海水温の低さ自体が凶器になります。事前に死体にしておく必要すらない。生きている相手を、ポンと突き落とすだけで終わりです。五輪の水泳選手でも、まあ助かりません。船内には人が滅多に寄りつかない場所が沢山あって、それを知ることは素人にも簡単です。あとはタイミングを見計らうだけで良い」
 香山船長は軽く肩をすくめるような仕草を見せた。
「ごく簡単なことですよ。殺人と遺体処理のセットが二十秒で済む。沈みますから、死体も出てきません。まさに海の藻屑です。船では娯楽が限られるから、非番の夜は大概の者がアルコールを入れてます。酔っ払って落っこちて……というような想像も働きやすいんです。目撃証言か大量の血痕でも残ってない限り、事件性なんて立証しようもない。海保自体、事故や自殺で落水という事例が多いことは知ってますから、|黒《クロ》だという物証が出てこなければ無難に事故で処理してしまうんです。せざるを得ない」
 確かに、船の上では非常に完全犯罪が成立しやすいのだろう。
 悪くしても、疑わしいが罰せない≠ュらいの状況で逃げ切れる条件が整っている。
 毒薬を持ち出したり、密室を作るなどといった幼稚な工作は全く必要ないのだ。
 遺体処理という最大の懸念材料を簡単に消せるため、殺し方や落水のさせ方は好きなように選べる。雑に殴り殺しても、薬を盛って眠らせても構わない。とにかく海に落しさえすれば完了だ。子どもや女性の力でも可能であろう。
 夫人の密室の件にしても、船長の指摘通りなのだ。
 仮に殺人であるのなら、あんな密室工作などせず、バルコニィから海に遺体を投棄した方がよほど意味がある。
 なぜそれをやらなかったのか――?
 その解として、「あれが自殺か事故であるからだ」という結論を持ち出してくる船長を一概に責めることはできなかった。全てに説明が付くわけではないが、相応の説得力はある。もっとも自然な思考とすら言えた。


   11

「今晩は、〈マニッシュバーズ〉です」
 四人の少女達が、声を揃えた。
 高階が、超音波を発しそうな勢いで拍手を始める。
「私は二番隊で|組頭《リーダー》を勤めております、|永倉智奈《ながくらちな》です」
「同じく二番隊、|衛藤《えとう》しのです」
「|波多野絵梨《はたのえり》です」
「|市川聖《いちかわひじり》です。本日はよろしくお願い致します」
 対する高階は、最初から蕩《トロ》けきっていた。
「やあ、|高階芳春《たかしなよしはる》だよ」
「ええと――」佐伯は苗字だけ名乗り、軽く頭を下げた。
 こういった宴の席はどうにも苦手だった。
〈マニッシュバーズ〉のファンであったならば、たとえアルコールの持ち込みが一切禁じられていようが、気分的に高揚もできるのだろう。しかし、彼女たちを知ったのはごく最近。加えてコンパの類はもちろん、異性にも慣れないという佐伯の場合、どうしても興奮より先に緊張が来てしまう。
 そんな佐伯を尻目に、女性陣は早くも打ち解けた様子で歓談を楽しみ始めていた。
 高階の容姿は、歌劇女優の群の中にあってなお際立っており、〈マニッシュバーズ〉のメンバーたちは口々にその点を指摘している。
「あの、ちょっと気になってるんですけど、高階さんは〈|BtB《バイトザブリット》〉っていう漫画の作者さんと何かご関係があったりしますか?」
 永倉を名乗った、ベリィショートのメンバーが訊ねた。もうひとり、波多野という小柄なツインテール娘も、高階の名に聞き覚えがあるらしい。明らかに目の色を変えて返答を待っている。あとの二人は、流石に少年漫画には馴染みがないようだった。
「ああ、あれ描いてるの私だよ」
 あなたは日本人か? という質問に応じるかのごとく、高階はあっさり言った。
 そのやりとりでプレゼントの存在を思い出したのだろう。彼女は紙袋を出すよう佐伯に指示し、中身をごそごそとやりだす。
 メッセージ入り単行本最新刊。キャラクターのイラスト入り色紙。そして、この日のために書き下ろして製本した二十四ページの短編漫画。次々に贈答品を卓上に並べていく。
「これ、挨拶代わりに皆さんへ。私はファンクラブのプラチナ会員だけど、他の連中と違って、今までは手紙もプレゼントも渡してこなかったからね。今回はちょっと奮発して――」
 言い切る前に、悲鳴のような歓声が上がった。
 会場の全員が、何事かと視線を集めてくる。佐伯も思わず腰を浮かしかけるほど驚いた。
 それでも、舞い上がった〈マニッシュバーズ〉のメンバーたちは止まらない。互いに肩を何度もたたき合いながら、ただ黄色い声を上げ続けている。波多野に到っては目尻に涙まで溜めていた。
「うそ、うそっ」
「えっ、これって|絵梨《エリィ》がいっつも読んでるあれの絵だよね?」
「そうだよ。あれだよ」
 色紙の絵柄を見て知った作品だと気付いたのか、やがて騒動は周囲のメンバーにまで波及していった。
 話を聞く限り、永倉が漫画をよく読むタイプであり、お気に入りを貸し出すなどして仲間内で紹介してきたらしい。その中に〈BtB〉も含まれていたということだ。
 組頭として影響力を持つ人物だけに、今では〈マニッシュバーズ〉全体の三分の一近くが――熱心な読者ではなくとも――高階の作品や登場人物を何らかの形で知っているはずだ、とのことであった。
「本当に高階芳春先生なんですか!? そっちの人じゃなくて、あなたが?」
 そっちの人、の部分で佐伯に目線をくれつつ、波多野が高階に詰め寄った。
 名前から男性だと思い込んでいたのだろう。無理もない話ではある。
「ああ、彼は雑用役というか、アシスタントというか――」高階が苦笑しつつ、持ち出した単行本の最後尾を開いて見せた。「ほら、作画担当にSaeki Michitakaってあるでしょ。これが、ここにいる佐伯《さいき》君のことだよ。サエキになってるのは、まあペンネーム代わりにちょっと読みを弄ってる感じだね」
「えっ、なんでなんで? なんで、女の人なのに芳春《よしはる》なんですか?」
「それはデビューの時にね、編集部のアホなおっさんたちが美少女漫画家≠ニしてヴィジュアル込みで売り出すか、性別不詳にして中身《コンテンツ》だけで勝負するか、なんて頭悪い二択迫ってきたからだよ」
 高階は不機嫌そうに腕を組む。
「私は当然、後者だって答えた。で、その名前にしたわけ。誰の都合でそんな流れになるかはともかく、少年誌で連載する女性漫画家が男性名使うこと自体は、業界じゃ良くあることだしね。〈結界師〉の人とか〈鋼の錬金術師〉の人とか。私と同じで高校時代にデビューを決めた桜井のりお氏もそうだ。あの人たちはみんな女性だよ」
 また高階は、「芳春」がそもそも実在した女性の名に由来することも明かした。
 自身がもっとも尊敬する歴史上の人物で、ほうしゅん≠ニ読むのが正しい。よしはる≠ニ読ませているのはトリックなのだ、と解説する。
 日本史を題材にした演目を数多くこなすだけあり、その方面には明るいのだろう。市川であったか、ふんわりとした清楚な雰囲気のある娘が、途端にぱっと目を輝かせた。
「あっ、芳春院《ほうしゅんいん》? お松《まつ》様ですか? 前田利家の正室の」
「正解」高階がにこりとする。「あれほど聡明で有能だった女性もいない」
「そっかあ、高階先生って女性だったんだ」
 波多野は夢見るような口調でつぶやくと、はっとした様子で表情を戻した。
「あの、これって秘密なんですよね?」
「さっき言ったような経緯があるから、あまり言いふらす気はないな。でも、拷問されてでも黙ってろと言う気もない。絶対に隠さなきゃいけないことなら、そもそも話さない。」
 高階は眉間にうっすらと皺を寄せて続けた。
「それと、私を先生付けで呼ぶ必要はないよ。あれは、文壇の悪習のひとつだからね」
「あくしゅう、ですか?」
「私の見てきた限り、医者も代議士も教師も、先生呼ばわりされる職種のやつほど人間性が腐りやすい。私はああいうみっともない勘違いはしたくないからね。是非、スーパーのレジ打ちと同じ目線で接して欲しい。そもそも子供の頃、私はあのバーコードでピッとやる専門職になりたかったんだ。あのピッ程かっこいいものもそうそうない。子供達のヒーローだ」
「でも、お医者さんとか、命に関わる立派なお仕事じゃないですか?」
 波多野が目を白黒させる。
「大きな病気や怪我をしなきゃ医者なんて一生必要ないけど、人間は食べなきゃ確実に死ぬ。キミの理屈でいくなら、農家や食品関係の職に就いている人間は医者以上に敬うべきだね。電力会社、上下水道局、ガス会社なんかもそうだ。絶たれりゃ健康な人間でも一ヶ月で死ぬインフラに関わる仕事をしてるんだから」
 高階はご機嫌だった。頼まれもせずにここまで喋り倒す彼女も珍しい。
「現実見ればね、医者なんて薬剤と機材と設備を用意してくれる人達がいなけりゃ仕事にならないもんだ。でも、誰も医者を支えてるそういう人達には敬意を払いやしない。あれだって命に関わる非常に高度な専門知識が求められる仕事なのにね」
「じゃあ、あの、先生のことなんてお呼びしたら……?」
「それは自由にしていいよ。普通に呼んで欲しいってのは、私の個人的希望だ。強制はしない。この佐伯君からしてそうでしょ? 私が何べん言っても先生呼ばわりを止めやしない。私はね、別にあらゆる職業に敬意を払うなって言ってるわけじゃないんだ。ただ、敬意を払うべき職業が決まってると思い込むのは思考停止だ、と言ってるだけ。年寄りならまだしも、キミたちみたいな若い人が思考的に居着《いつ》くなんてもったいない話だ」
 懇親会は小さな小集団を幾つも作り、キャンプファイヤーを囲むフォークダンスよろしく、順に話相手を変えていく――というシステムを採用していた。
 永倉をリーダーとする最初の四人は十分ほどで次のテーブルに移っていき、佐伯と高階にはまた違うメンバーが回ってくる。
 そういった交代を二回繰り返した時であった。
 はじめて、高階のセットではなく佐伯個人に声をかけてくる隊士が現れた。
「あのう、佐伯さんは高階先生のアシスタントをされてるんですよね?」
 黒井ゆいと名乗った彼女は、〈天下布武〉で信長の義弟・浅井長政を演じた娘だった。ひとりだけ茶髪であったため、初見の佐伯にも強く印象に残っている。メンバーは染髪が禁じられていると聞く以上、恐らく生まれながらに色素が薄いのだろう。混血という可能性もあるが、ハーフのような彫りの深さはなかった。
「そうです。といっても、作画の手伝い以外にも色々とやらせてもらってますので、漫画家のアシスタントという言葉から一般的に想像される存在であるかは微妙ですけど。商談や打ち合わせの窓口としても動くから、私はあなた方でいうマネージャーに近い仕事もしていると思います」
「じゃあ、一般論的な意味でのアシスタントさんは、他に何人いらっしゃるんですか?」
「どのような意味合いのものであれ、アシは私だけです。高階は基本的に自分ひとりで全部やるか、私を助手に使うか、どちらかのパターンでしか仕事をしません」
「二人って、少ない方ですよね?」
 佐伯は頷く。「一般的に、少ない部類でしょうね」
 黒井が、垂れた右側部の髪を耳に引っかけるようにして整えた。
 彼女の髪型は肩のあたりで切りそろえた、いわゆるボブカットの亜流であった。首筋から側頭部にかけてはストレートだが、そこから前に向かうにつれ毛先が正面を向くタイプのカールが大きくなっている。真横から見ると、パース定規のアールスリットそっくりに見えた。
「佐伯さんは、具体的にどの部分を描いたりして知るんですか」
 会話の内容に興味を持ったか、他のメンバーたちが話に耳を傾け始めているのを感じつつ、佐伯は答えた。
「私は主に背景や効果を入れます。机や椅子が沢山ある学校の教室やビル群などはコンピュータ上の|立体《3D》モデルを使って処理することが多いんですが、そういうPC《パソコン》上の仕事も私が準備をすることが多いですね」
 このあたりは、アシスタントと呼ばれる助っ人の一般的な仕事だ。これに加え、名前のないキャラクター、映像作品でいうところのエキストラに当たる群衆の描写などもアシの担当だが、高階の場合は自分でやってしまうため、こちら方面に佐伯の出番はない。
 代わりに任されることがあるのが、マスコットキャラクターの絵だ。
 そう補足説明した瞬間、黒井ゆいが零れそうなほど目を見開いた。
「えっ、びーちゃん≠チて佐伯さんが描いてるんですか!?」
 彼女のいうびーちゃん≠ヘ球状に近いフォルムの幽霊に似たキャラクターで、正式名をびしゃもん=B高階作品の中でも別格の人気を誇る存在だ。ストラップやぬいぐるみをはじめとしたグッズ展開が最も盛んなキャラクターでもあり、何かの景品になることも多い。そのため、漫画自体を知らなくてもびーちゃん≠フデザインをどこかで見たことがある、という女性は多いはずだ。
「あれは記号化されたキャラクターだから、私でも再現がしやすいんです。もちろん、全て描いているというわけではなくて、登場十回に対して一、二回くらいの割合ですね。私のやつは」
「あれだけはもう、これってどっちが描いたんだっけ……ってなるくらいのクオリティで描けるから、佐伯君に任せることがあるんだよ。言われてる通り、記号の固まりだしね」
 横から高階が証言した。
「あの、佐伯さんはどういう経緯で高階先生のアシスタントになったんですか?」
 子どもの頃、絵を描くのが好きであったと公言するだけあり、黒井ゆいは漫画制作の現場に一方《ひとかた》ならぬ関心を持っているようであった。
「もともと、高校時代の先輩後輩だったんです」当時を回想しながら、佐伯は答えた。「同じ漫画研究部みたいなところの所属で。まあ、その頃の高階は既に完璧な幽霊部員と化していて、ほとんど部室には顔を出していませんでしたけど。というか、学校自体サボリがちだったそうで。だから、私は顔を知らなかったんですよ。――ね、先生?」
「当時は特に忙しかったからね」高階が肩をすくめる。「同人活動もしてたし、商業デビューに備えて、色々と計画練ってた時期でもあったしさ」
「やっぱり、その頃からレヴェルが違ったんですか?」
「それはもう、はっきりと違いましたね」
 佐伯は即答した。
 実際、「三年にプロ級の漫画を描く人がいる」という風聞を聞きつけ、佐伯は漫画研究部に出入りするようになったのだ。そして、現実が噂以上の水準にあるという稀有な例を知った。
「本当のこと言うとね、私は当時から、佐伯君に目を付けてたんだよ」
 高階が言った。これは、佐伯にとっても初耳の情報である。
「そう言えば、会ったこともないのに命令だけメモで伝えられて、原稿を一方的に手伝わされてましたよね。それこそアシスタントみたいに。まあ――あれは俺たち以外の先輩後輩間でも普通に行われたことですけど」
「あの、どうして佐伯さんは特別だったんですか?」黒井が不思議そうに首を傾げる。
「佐伯君の絵はね、プレーンなんだ。ヴァニラなんだよ」高階がすぐに答えた。「基本にどこまでも忠実で、何一つ外れた要素がない。料理でいうなら、砂糖少々≠チて部分についてレシピ書いた人に問い合わせて、何グラムが理想か聞き出した上でいちいちデジタルスケールでコンマ単位まで計測しつつ、盛りつけまで参考例の写真通りに仕上げようとするタイプ。機械的というかなんというかね」
 元々、高階は「一人でやれる創作」として漫画という表現を選んだと聞いている。
 それだけに、他人の色を自作に混ぜたくない、自己完結したいという欲求は他人より強いのだろう。アシスタントの必要性を周囲に説かれ、これを無視できなくなった時、彼女が語る佐伯のようなタイプを選ぶのは、ならばごく自然な流れなのかもしれなかった。
「高校時代、部員経由で佐伯君の作品が私の手元にも回ってきてね。で、こいつはまた別の意味で面白いのが出てきたな、と思ったんだ。だから編集者にね、何かあった時のために手伝ってくれるような伝手《ツテ》は用意しておいてくれ、みたいに言われた時、こりゃ佐伯君に頼むかなあって思ったんだ」
「で、この人は私の大学に乗り込んで来て、いきなり面接を始めたんです」
 佐伯は学内放送でいきなり呼び出された件を含め、当時の様子をかいつまんで話した。
 馴染みのない世界の出来事であるためか、〈マニッシュバーズ〉のメンバーたちは興味深そうに聞いている。
「じゃあ、お二人にとってはその時が本当の初対面だったんですか?」
「そうですね。私は、その時に初めて高階芳春の顔を知りました」
「私の場合、初対面っていうのは事実だけど顔は知ってたよ」高階がさらりと言った。「最初に身辺調査をしておいたから、|住所《ヤサ》も把握してたし、顔写真も入手してた」
「そう言えば――」ふと思い出して、佐伯は高階を向いた。「あの時、俺に絵を描かせましたよね。そしたら、事前に先生が用意してた絵とそっくりのが仕上がったんですけど」
「どういうことですか?」
 隣に座った隊士が顔を寄せてきたため、佐伯は鼻白んだ。
 パーソナルスペースが小さいのか、今にも膝が触れあわんばかりの距離だった。
 相手は気にした風もないため、こちらが気にしすぎなのだろう。そう自分に言い聞かせ、佐伯は平静を装って詳細を話した。
「要するに、ぱっと思い浮かんだ男の人の絵って言われたのに、何を描くか細かく予測されてたってことですか。髭《ヒゲ》の有無とかホクロの位置まで?」
「いや、男性という縛りすらありませんでしたよ。男性でも女性でも、どちらでも良かった。本当に自由だったんです」
 へえ、という声が綺麗に同調した。
 何人かのメンバーは眉根を寄せ、タネについて思考を巡らせている。
「先生、前から聞きたかったんですけど、あれってどうやったんですか?」
「じゃあ、タネを教えてあげるからさ。コーラか……そうだな、果物系のジュースのどっちかボトルごと貰ってきてくれる? そんなに何杯もの飲まないから、両方はいらない」
「あ、私、取ってきましょうか」
 高階の言葉で〈マニッシュバーズ〉の一人が席を立ちかける。
 佐伯はそれを制し、自分が行く旨を伝えた。各テーブルには軽食と一緒に飲み物のペットボトルが並べてあるが、中身が残っているのは確かに烏龍茶とスポーツ飲料のみだ。
 佐伯は念のため他に必要な物があるかを全員に問い、各々からNOが返るのを確認してから立ち上がった。壁際に控えている給仕係にオレンジジュースのボトルを貰ってテーブルに戻る。
 瞬間、メンバー達がどっと沸いた。
 ズボンのチャックでも開いているのかと思ったが、そんな様子もない。
 しかたなく何事かと訊ねると、隣の席の娘が目を輝かせながら理由を教えてくれた。
 いわく、佐伯が何を持ってくるか、高階が事前に言い当てていたのだという。
 その予言が的中したために騒ぎ出したらしい。
「まあ二分の一の確率ですけど……なんで分かったんです?」
 佐伯が訊くと、高階はあっさり答えた。
「あの似顔絵の時と同じ仕組だよ」
 えっと思い、慌てて一連のやり取りを思い起こした。
 コーラではなくオレンジジュースを選んだのは、なんとなくだ。
 では、給仕を巻き込んで、高階は事前に何か仕掛けていたのだろうか?
 そんな可能性も考えてみたが、それで結論を誘導できたとも思えない。
「分からないな」降参、というように佐伯は軽く両手を掲げた。「どんな仕掛けですか」
「結論から言うと、身振り手振りだよ」
 受取ったボトルを開け、グラスに注ぎつつ高階は続ける。
「今のは二択だったけど、私はコーラって言う時、微妙に首をかしげて目も少し細めた。逆にジュースって言う時は、微かに何度も頷いて見せた」
「そうでしたっけ?」
 思い出そうとしたが、記憶に残っていない。
 第三者である隊士たちも同様のようで、揃ってきょとんとした顔をしている。
「覚えてなくて当然だよ。印象に残るほどでもない、本当に微妙な動きだったからね。でも、佐伯君の無意識はちゃんと気付いて、本人でも知らないところでデータとして処理したんだ。人間の脳はノイズを含め受けられる情報は全部拾って、その上で取捨選別する方式を採用してるから、それが通常の処理なんだよ。
 コーラって言った時よりジュースって言った時の方がよりポジティヴな表情をしていたから、そっちにしよう。佐伯君は、自分でも気付かないうちにそういう判断をしたんだ。実際には、私がそれと気付かれないように誘導したんだけどね」
 人物画の時はこれを応用したのだ、と高階は明かした。
「これから描いてもらう絵に関しては、モデルの存在しない架空の人物であれば、女性か男性かを含め全てを勝手に決めて描いてよい」。そう説明する時は、「女性か男性か」の部分でコーラとジュースの時とまったく同じ誘導を含ませた。
 さらに「もちろん、髪型も自由に決めて構わないし――」と続けつつ、長髪を後ろでくくる仕草を見せる。「身体的な特徴なども思いつくまま加えて構わない」という主旨の言葉の最中には、ジェスチャーで髭やホクロを連想させる動きをつける。
 暗示にかかりやすいタイプは、こうした誘導に素直に従って行動する可能性が高い。
「相手にそうとは気付かせず、イメージや印象を無意識の領域にすり込む。脳の仕組や心理学を応用すれば、人間の動きをある程度はコントロールできることがあるってことだね」
 高階はそう結んだ。
「なんか、サブリミナル効果に似てません?」
 感心したようにつぶやく隊士のひとりに、高階は深く頷いて見せた。
「発想は似てるね。こういう作用は悪用もできるし、今みたいな宴会の余興に使ってみんなを喜ばせることもできる。もちろん、漫画のストーリィ作りにも使えるしね」
「なるほど」
 佐伯はつぶやきつつ、なぜあの時、高階が人物画の仕掛けをしてきたのか考えた。
 もちろん、あの出会いを強く印象づけるのが最優先事項であったのは確実だろう。アルバイトを全部辞めさせ、自分のアシスタントとして引き抜こうとしたのだ。無理を通すには相応の強引さが求められるのは道理である。
 だが、あれは佐伯が変わっていないことの確認作業であったのかもしれない。
 トリックを知った今、そんな風にも思えた。
 基礎に忠実で余計なものがない。高階は、そんな佐伯の資質にこだわっていたという。
 もし描く絵に性格や人格の表れるのであったなら、暗示のかかりやすさはそれを計る良い目安《バロメーター》になったことだろう。高階は人物画を一枚描かせることで、そういった色々な物を確かめようとしたのかもしれなかった。
 なんであれ、彼女が披露したこの小さなマジックで、場の空気は一気にあたたまった。 だがほぼ同時、四十五分と短めに設定されていた制限時間が無情にも尽きた。ようやく気兼ねなく会話に入っていける、と思った矢先のタイムアップであった。
 もともと〈マニッシュバーズ〉の構成員には未成年者が多いため、午前零時以降まで長く拘束するわけにもいかない。仕方のない処置ではあった。
「しかし、あっという間だったね。隊士とあれだけじっくり話せる機会なんて、そうそうないのに」
 部屋への帰り道、ぼやく高階の表情は、言葉と裏腹に明るかった。
 ほとんどのメンバーと連絡先を交換し、どさくさに紛れて数人を抱き締め、あげく膝に座らせるまでしたのだ。酔った中年もかくやという程のやりたい放題である。さぞやご満悦であろう。
「〈マニッシュバーズ〉のプライヴェートな打ち上げに乗客も飛び入り参加できる――ってのが建前の、非公式なイヴェントだったんでしょう? なら、色々と制約があっても文句も言えませんよ」
 佐伯が指摘すると、高階は珍しく素直に頷いた。
「だね。風俗法とか労基法とかに抵触すると色々面倒だし、隊士に変なリスクを負わせるのも可哀相だ。疲れてるだろうしね」
 やがて、エレヴェータで最上階デッキに到着する。
 電子音を上げてドアが開いた瞬間、佐伯たちは笠置とばったり鉢合《はちあ》わせた。
「あれ、笠置さん」佐伯は開く<{タンを押しながら言った。「下の階の部屋に移ったんじゃありませんでしたか?」
 彼が妻と利用していた601号室は、既に全ての荷物が運び出されて封印されている。
 したがって、今の笠置がこの階で自由に出入りできる場所と言えば、もう奥のジャグジィ付サンデッキしかない。
 だが、海水パンツ片手にそれを利用しに――という雰囲気でもなかった。
「ああ、実はおふた方に伝えたいことがあって、部屋の方にお邪魔していたんです」
 笠置は、疲労感の滲む弱々しい微笑を浮かべる。
「お留守のようなので帰ろうと思っていたんですが」
 佐伯と高階はとりあえずエレヴェータをおりた。改めて笠置と向き合う。
 彼のいう話とは、妻の検死と死後処置が終わったため、ようやく面会許可が下りたという内容であった。だが、遺体発見当時の衝撃が今を尾を引いており、一人では冷静に向き合えるか不安がある。もしよければ、一緒に妻と会ってもらえないだろうか。
 笠置は申し訳なさそうに、そんな依頼をもちかけてきた。
「もちろんです。現場に立ち会った縁もあるわけですし。ね、先生も」
 放っておくと、「じゃ、私は部屋で待ってるから」等と言い出しかねない高階に、佐伯は先手を打つ。
「ま、宗教的な儀式には参加しないけどね。花をたむけるくらいはするよ」
〈マニッシュバーズ〉との交歓でよほど機嫌を良くしているのだろう。高階は意外なほどあっさりと承諾してくれる。彼女の気が変わらないうちにと、佐伯は素早く全員をエレヴェータ内にふたりを誘《いざな》った。
「東京港に着いたあとは行政解剖に回される可能性があるとかで、もう何度も妻と面会できるチャンスはないという話です」
 下降し始めたエレヴェータの中で、笠置が言った。
 司法解剖《しほうかいぼう》というのは耳にする機会もあるが、行政解剖とはあまり聞かない。佐伯が疑問をそのまま口に出すと、すぐに高階が答えた。
「殺人事件の被害者とか、明らかに事件性がある場合が司法解剖。犯罪がからんでるかは分からないけど、死んだ状況や原因がぼやっとしてる場合が行政解剖だよ」
「では、妻はやはり事故や自殺だと思われているんでしょうか?」
 俯けていた顔を上げ、笠置が問う。
「いや、行政解剖は検疫法の十三条を根拠にする場合もあるから、一概には言えません。検疫法は、船舶などを通して病原体が持ち込まれるのを防ぐためのものです。つまり、今回の件が感染症の仕業だと考えられた場合でも行政解剖は行われ得る。この場合、恐らく遺族であるあなたに承認が求められるでしょう。もちろん、単に事故や自殺が疑われている可能性も大きい」
「妻は自殺などしません」
 何度か首を振った後、笠置は断固とした語調で言った。
「私は何かに襲われたのだと思っています。でなければ、あんな風にドアを塞いだりもしなかったでしょう。相手が猛毒を持った小生物なのか、人間なのかは分かりません。でも、どちらかに殺されたのだと私は思っています」
「おっしゃったような可能性も、完全に否定されたわけじゃありません。心配なら、自分の船室《キャビン》に閉じ籠もって誰が来ても基本的にドアは開けないことですね」
 エレヴェータが止まり、扉が開いた。流石に時間が時間だけあって、もう乗客たちは寝静まっているらしい。目的のデッキまで、他人にエレヴェータを呼ばれることもなかった。
 全員で、まず診療室の兵頭を訪ねた。
 出迎えた船医によると、笠置夫人は既に遺体安置室に移してあるという。
 とは言っても、専用の設備があるのではない。マラリアの患者などを隔離しておく時にも使う、改造された一般船室をそう呼んでいるらしい。場所も近く、二部屋先であるとのことだった。
「前にお話ししたかもしれませんけど、遺体を冷凍しておける専用のボックスは一つしかないんです。それは先に亡くなったフィリピン人の|Q/M《クォーターマスター》が使っていますので」
 話ながら先導する船医に続き、安置室に向かう。
 静かな船内に複数の足音が響いた。
 問題の部屋は、まずドアの造りからして違った。まるで蔵にかけるような閂《かんぬき》があるのだ。別にきちんとした鍵があるにも関わらず、しかも廊下側にこのようなものがある理由が佐伯には分からない。
「これはですね」
 周囲の怪訝そうな顔に気付いたらしい。鍵を開けながら船医が説明した。
 それによると、この部屋は罪人を閉じ込める牢代わりにも使われることがあるという。
 そうした特別な場合に限って、中から勝手な出入りをさせないよう閂が取り付けてあるらしい。
 何分、非常に小さな船だ。船室の数も限られている。必然、ひとつを多様な用途で使い回さねばならないこともある、ということだ。
「中、凄く寒いので気をつけて下さい」
 扉を開く直前、後ろの全員を一瞥して船医が警告した。そしてノブが捻られる。
 警告の言葉が決して大袈裟なものでなかったことは、足を踏み入れた瞬間分かった。
 室内は恐らく八畳程度。シングルベッドが二つ並べられている他は、申し訳程度の家具しか揃えられていない。なるほど、寝具が主役である構成は、客室というより病室といった印象を強めている。出入口を除くと唯一となるドアは、トイレ一体型の風呂場に続いているようであった。
 そんな簡素な部屋に、なぜだかエアコンだけは二機もある。現在、稼働しているのは片方だけらしい。だが、その片方というのが明らかに業務用と見て取れる巨大な代物であった。
「部屋の用途が用途なので、中温用エアコンが備えてあるんです」
 言って、船医は天井吊型の巨大な室内ユニットを目線で示した。
「食品工場なんかにあるやつです。これだと冷房で十度まで室温を下げられるんですよ。これでも、本当ならもう少し下げた方が良いんですが」
「真冬かというような寒さですね。上着を持ってくるべきだった」
 佐伯は二の腕をさすりながらつぶやく。さすがの笠置も身を縮めるようにしているが、なぜか高階は平然としていた。カジュアル指定の懇親会帰りであるため、佐伯と似たような軽装であるのに、何の反応も示さない。
「先生、寒さを感じないんですか?」
「いや」
「その割には全く平気そうですけど」


   12

「笠置さん、こちらです」左側にある寝台の傍らで船医が言った。「どうぞ」
 呼ばれた笠置が動くのを待ち、高階もあとに続いた。
 偉そうなことを言って引っぱってきたくせ、佐伯は遠巻きに眺める位置から動こうとせずにいる。臆した様子ではない。どうして良いのか分からずにいるようであった。
 夫人は運搬用の遺体袋に収められていた。海外のサスペンスドラマで、よく死体を現場から運び出すときに使われている寝袋のような収納だ。
 この選択には頷けた。梅雨時なら、どうしても防腐処置が必要になる。船に棺桶の類が備えられていないのなら、中にドライアイスを詰めるためにはこれを使うのがベストだろう。
 それに限らず、夫人の死後処置《エンバーミング》は全般的に上手くなされているように見えた。間近に見ると左頬の一部にまで出血斑が広がっているのが分かるが、化粧で限界まで目立たないようにされている。
 メイキャップは、同時に血色を良く見せる効果も上げていた。ただ、耳の後ろ側などのりきらない部分からは、本来の青白い肌が覗いていた。摂氏十度という室温、ドライアイスの冷気。いずれに触れても、もう鳥肌さえたたなくなった死者の肌だ。
 落ち着いて観察した夫人は、年相応の老け方をした女性であった。大量のドライアイスで袋ごと膨れているため、生前より身体自体はやや大きく見える。一方で、顔は一回り萎んだような印象であった。怒気にせよ苛立ちにせよ、一種のエネルギィの放出には違いない。それらが完全に抜け落ち、表情の一切が失われたのだ。当然と言えば当然の話だった。
 元々、人間は死体になるとイメージががらりと変わるのが普通だ。特に、普段が活発であった人物ならその傾向が強まる。それはきっと、久しぶりに会った親がやけに小さく見えるのと、同種の感覚なのだろう。
 高階は船医に検死結果の詳細を訊ねようとしたが、思いとどまった。
 妻の側に跪《ひざまづ》き、すすり泣いている笠置を配慮した結果だった。無用に刺激すると、彼が泣き止むまでの時間が延びそうな気がする。付き合わされて、自分まで余計にこの場所に留め置かれることになるのはご免だった。
「しかし、あまり長くいると健康な人間まで風邪を引きそうですね」
 佐伯が独り言のようにつぶやくと、船医は「そうですね」と頷いた。
「笠置さん。名残惜しいのは分かりますが、そろそろ」
 肩に手を置かれた笠置は、妻の顔を名残惜しそうに眺めながらも立ち上がる。
「これで最後というわけではありません」船医が慰めの言葉を重ねた。「ご遺体が一時的にどこかへ預けられることはあっても、最終的には御主人の元に戻ります」
「はい――」
 笠置はゆっくりと頷いた。
 全員が廊下に出る。この部屋のロックシステムは電子式ではなく、鍵穴のある物理的なタイプであった。オートロック機能が付いているため、施錠はドアを閉めるだけで完了する。今回は霊安室として使っているため、閂は使わない。最後に出た高階は、一度ドアを引っぱってロックがかかったことを確認した。管理者である船医が、それを見届けた証として一つ頷く。
「東京に着くまで、ご遺体はあのままで安置しておくんですか」
 半袖から露出した腕をさすりつつ、佐伯が訊いた。
「そうです」と船医。「まあ、状態の保存と言う意味では凍らせた方が良いですから、食品冷凍室なんかを借りられるとベストではあるんですけどね。でも、食べ物と一緒というのは――」
「抵抗感を持つ客もいそうですね」
「そう。それに食品衛生上、法律でも禁止されてるんですよ。まあ、当たり前ですね」
 閉鎖された空間である客船では、食中毒やノロなどの被害がそれだけ広がりやすい。そのため、衛生基準は通常の施設より高く設定される。食品冷凍庫ともなると、まず出入りできる人間から規則で厳しく制限されているとのことだった。
「感染症については船長も非常に神経質《ナーヴァス》になってましたよね」
「ええ。あれは管理者として、当然とも仕方ないとも言える反応なんです」
 一日で二人もの死者を処置したのだ。船医は流石に疲弊した様子で、今日はもう休むつもりだ、と告げた。全員に挨拶し、そのまま診療室との並びにある自室へと引き揚げていく。
 それをきっかけに、場は解散の流れとなった。残った三人で無言のままエレヴェータに乗り込む。
「私は、高階先生のおっしゃるようにしようと思っています」
 箱が上昇し始めてしばらく、笠置が唐突に言った。
 高階は思わず佐伯と顔を見合わせた。それから黙って話の続きを待った。
「不安なら、部屋に閉じ籠もって誰にも会わないようにするのが良いと言われたでしょう。考えてみたら、やはりそれが一番なのではないかと」
 笠置は独り念じるように続けた。操作パネルあたりをぼんやり眺めたままの言葉だった。
「なので、そうするつもりです。どうあっても、この船には何か危険なものが徘徊しているような気がしてならない」
 佐伯が何か言いかけようとしたが、結局、黙ったまま口を閉ざした。
 ややあってエレヴェータが止まった。部屋が移動になった笠置はそこで降りていく。
 遺体発見当初と比べればマシになった、というのも一面の事実ではあるだろう。しかし、去り際に見せた後ろ姿からは、思い余って何をしでかすか分からない危うさが感じられた。
「大丈夫ですかね、笠置さん」
 同じ印象を抱いたのか、佐伯がぽつりとこぼす。
「さあねえ。でもまあ、伴侶を失ったその日のうちに大丈夫な状態に戻るってのも、かえってアレなんじゃないの?」
「それはそうかもしれませんけど」
 ドアが閉まる。すぐにエレヴェータは再上昇を開始した。
「にしてもあのおっちゃん、どうも自分の父親を見てるようですっきりしないんだよね」
 高階が言うと、佐伯は少し驚いた顔をした。
「――珍しいですね。先生が自分から家族の話持ち出すなんて」
「そうかもね」
 短い沈黙が訪れた。エレヴェータが止まったため、二人して扉を潜る。
 これからしばらく佐伯と貸切状態になる最上階は、真夜中の静謐に包まれていた。
 通路は絨毯が敷かれているため、足音も響かない。
「そんなに似てるんですか、笠置さんと先生の親御さん」
「顔とかは全然似てないんだけどね」
 ただ、劣等感を抱えて生きるその姿はイメージが重なる。妻との力関係もそうだ。
「私の父方の家系はね、何百年って歴史がある刀匠の家なんだ」
「トウショウっていうと、刀鍛冶《かたなかじ》ですね?」
「そう。まあ、今となっては本業の鍛冶は文化の保存程度の扱いで、地場のグループ企業経営が本業みたいになってるわけだけど」
「そこも笠置家と似てるわけですか」
「ただね、その一族が――日吉《ひよし》家っていうんだけどね――、典型的な女系なんだ。昔から日吉の家には傑物が多いんだけど、その天稟《てんびん》はなぜか、統計的にあからさまなほど有意に女子へ偏るんだよ。ほんと不思議なくらいね。だから男は自然と日陰に回されちゃってさ」
 佐伯は少しの間、考える素振りを見せたが、結局は答えらしい答えを得なかったらしい。
 腑に落ちない、という顔で首を傾げた。
「どういうことですか?」
「表現を選ばずに言っちゃうと、秀でた子は女児に固まり、男児は凡才ばかりってこと。サッカー界みたいなもんだね。分母の問題はあれ、女子はW杯もバロンドールも取ったけど、男子はW杯に出場するかどうかレヴェル。年間最優秀選手《バロンドール》なんて考えたことすらないだろう」
「はあ……。そりゃまあ、矢慧《やえ》ちゃんや先生見てると、世の中、選ばれた人間ってのがいるんだな、とは痛感させられますけど」
「いや、矢慧と私を一緒にしちゃ駄目だよ。あの子は女系純血だけど、私は父親が日吉の出《で》だって言ったじゃないか。女に生まれれば何でも良いってわけじゃない。男が間に挟まっちゃうと劣化するんだ」
「そんなことあり得るんですか?」
「もちろん、何にでも例外はある。有能な日吉の男性ってのもいないわけではない。でも、遺伝の話なんだから偏りが出るのはむしろ自然とも言える。子供は必ず両親から半分ずつ特性を譲られるわけじゃないからね。どちらかだけに極端に似ることも多い」
「だからって、自分を劣等種みたいに……。先生は充分、多才に恵まれてるじゃないですか」
「でも、遺伝子信仰とか選民思考とかじゃなくて、単純に事実の話なんだよ。これ」
 現にこれは、科学的見地からもはっきりと裏付けられていることだった。
 現当主がまだ十代であった頃、女子体操競技の世界選手権で|個人総合優勝《ゴールドメダル》を獲得したことがある。この時、連盟や大学の解剖学教室と連携して、その肉体を詳しく検査する計画が持ち上がった。身体能力が他国の五輪代表や歴代メダリストと比較しても、異様なほど飛び抜けていたからだ。あけすけに言えば、薬物の使用などの不正が疑われたのである。
 だが日吉の当主は、せっかくの機会だと、これを好意的に受け入れた。一族総出での協力を申し出る入れ込みようだった。すぐに、サンプルとして各年代から血筋の男女がかき集められた。幼い日の高階もその末席に加わることになった。
 調査は半年がかりで行われた。結果は予想通りでもあり、驚愕をもたらすものでもあった。日吉の男女間には、まず肉体の根本的な造りからして大きな隔たりがあることが判明したのである。
「――たとえば上腕二頭筋《じょうわんにとうきん》は、通常、名前の通り〈短頭〉〈長頭〉の二つの筋肉から構成されてるもんだ。力こぶって呼ばれてる部分だね。でも、統計では総人口に対して一割から二割、上腕二頭筋が三つの筋肉から成り立っている人がいることが解剖学的事実として判明しているんだ。さらに四つある人もいて、これは全体の四%以下の珍しさだと言われている」
「普通の人の倍の個数じゃないですか」
「そう。もちろん、数が多いほどパワーが出やすい傾向にある。で、五輪代表クラスとかのフィジカルエリートを見ると、やっぱり三つ四つの人が多いんだけど、日吉の女性は調査に協力した十四人のうち十二人が三つ以上、矢慧を含めた純血は全員が四つ以上の筋肉を持っていた。男性は統計通りの比率だったのにね」
「だからって――」
「それだけじゃない」高階は被せるように言った。「ハムストリングスの長さや位置にも有意な違いがあったし、アキレス腱の筋組織だって、女性の場合は踵骨にまで及んで非常に高い身体能力を引き出せる構造になっていた。骨密度も赤血球の数も、基本レヴェルがまったく違うんだ。軽く天然の血液ドーピングみたいなことになっててね。なのに長期的にみても過負荷や障害のようなものは全く出ていない。違いが出ることは予測されていたけど、その内容は、検査に携わった学者たちを騒然とさせるものだった。五輪で記録を出すための肉体というのが実在することを、まざまざと思い知らせたんだ」
「俺が言ってるのはそういうことじゃないですよ」佐伯が不服そうに言う。「そんなんじゃないんです。だって先生は、芸能界で色んな人間を見てきたはずの〈マニッシュバーズ〉たちからさえ、かつて見たことのない美貌だと言われてたでしょ。漫画でも大成功してるし。それで小物なら俺たちは何だってことです」
 高階は嘆息した。
「矢慧を見て分からないなら、もう言葉で説明しても無意味だろうけど……。本当に凄い人ってのは異質なんだ。真似しようとか、競おうとかいう気にすらならない。サヴァン症や大食い・早食いの選手を見たら思うでしょ。これは努力とか経験とかそういう話にすれば自分も参加できるってレヴェルの世界じゃないってさ」
 佐伯と違い、高階の父親は少なくともそこを見極めれるだけの「目」はあった。
 だからこそ、植え付けられたそのコンプレックスも深刻なものとなった。
 絶対にどうにもならない。自分ではどんなに努力しても、一生かけても、勝負の舞台にすら立てない。周囲の誰もがそれを承知していて、だから期待すら最初からされていない。
「まあとにかく、人間、歪み過ぎると考えもおかしくなるみたいでね。非凡な自分を少しでも大きく見せようと私の父が選んだのは、何を思ったか大病院の娘と結婚することだった。長男だったけど日吉の姓を捨てて婿入りして、そうやって別の強い血脈に加わることで自分の価値を上げられると勘違いしちゃったんだね」
 若かった母は、結婚した男の卑屈を献身と取り違えた。
 だが年を重ねれば事情も変わる。伴侶の真の人間性にもやがて辿り着く。
 体面上、ふたりはまだ夫婦という形だけは留めている。しかし、その関係は冷え切って久しい。
「婿入りした立場だから、義父――私の祖父なんかにはもう頭が全然上がらなくてさ。あの腰巾着っぷりたるや、翻ってもう芸術的に見えるくらいだったよ。幼心にさえ、ああはなるまいと思ったね」
「それは分かります。笠置さんも、奥さんの家の力が強すぎて色々と肩身の狭い思いをされてたみたいですから」
「だから、なんか思い出しちゃうんだよなあ」
「自分に自信を持てない、か……」
「そんなことより佐伯君、お腹すかない?」
 部屋に着くと、高階はまっ先に電気ポットに向かった。
 充分な量の湯が沸いているのを確認して、ウォーキングクロゼットに入る。
 お目当てはビッグサイズの即席カップ麺だった。ふたり分持ちだし、居間に戻る。
「佐伯君も食べるよね」
 答えを聞く前に片方を放って寄こした。両手でキャッチした佐伯が、まじまじとラベルを見詰める。その口元に苦笑が浮かんだ。
「豪華客船にまで来てカップ麺ですか」
「素人はそう考える。でも、そのギャップが良いんだ」
 高階はポットからお湯を注ぎ入れ、蓋を閉じた。
「試してみると、なかなか|乙《おつ》なもんだよ。バルコニィで食べよう」
「|潮風の中《シィブリーズ》でシィフード風味のヌードルか。洒落のきいた話だ」
 共に夕食を食いっ逸《ばぐ》れている事実は変わらない。夜食をとること自体に異存はないらしく、佐伯はすぐに高階のあとを追ってきた。
 狭いバルコニィには木製のビーチチェアがペアで揃えてあった。狭間には直径三十センチほどの小テーブルが配置されている。
 外は風が強かった。波の音も高い。それでいて天候自体は決して悪くなかった。天穹には素晴らしい星空が広がっている。地元でもなかなか見られることのない星の数だ。
 高階は持ってきた割り箸の片方を、佐伯に渡した。
 月がいつもよりやけに大きく見える。
 頃合いを見計らって、二人で麺をすすった。波と風だけの夜に、ただその音だけが響いた。
 二人ともしばらく無言だった。
「とても、贅沢な時間ですね」
 スープを一口含んで喉を鳴らした後、深く息を吐いて佐伯が言った。
「おにぎりの原理だね」高階は微笑んだ。「安い料理のはずなのに、苦労して山の上まで行って食べると、何か特別な美味しさがある」
「なんとなく、分かる気がする」
 そう言ったきり、佐伯は海原に視線を投げたまま黙り込んだ。
 沈黙がおりるが、居心地の悪さはない。
 もう午前二時は回っただろうか。目まぐるしい一日であったが、不思議と落ち着いた気分だった。高階は背もたれに体《たい》を預け、軽く目を閉じた。
 波の音に耳を傾ける。
 どれくらいしてか、沈黙を破ったのは佐伯だった。
「そういえば、言ってなかった」
「ん――?」
 高階は体勢をそのままに、薄目だけ開けてそちらを見る。
「|早尾《はやお》先輩、ありがとう。連れてきてもらって感謝してます」
 高階はすぐには何も答えず、顔を戻してまた目蓋を閉じた。
「今日は、訳分からないことが色々あったね」
「本当に、色々と」佐伯の声が応えた。
「まあでも、はっきりしたことも一つある」
「そうですか? 何かありましたっけ」
 高階は上体を起こし、にやりとして言った。
「キミに先生呼ばわりを止めさせるためには、事件つきの豪華客船に連れ出すくらいのことをしないと駄目らしい」


   13

 翌朝、八時過ぎ。
 佐伯|三千崇《みちたか》は満面の笑みで味噌汁をすする上司を、不気味な思いで観察していた。
 もともと高階は、食事を栄養補給、娯楽の二パターンにはっきりと切り分ける。
 今朝の場合は典型的な後者のケースなのだろうが――
 なぜ、味噌汁を目の前にした瞬間、いきなり世にも幸せそうな顔をしだしたのかが全く理解できない。見たところ、別段変わったところのない普通の味噌汁なのだ。今のところ、中からダイヤの指輪が出てきたといった様子もない。理由を聞こうとも思ったが、正直なところ声をかけることすら憚《はばか》られた。
 高階がもたらすこの不穏な一点さえ除けば、クルーズ二日目の朝はおおむね爽やかに明けた。風と波浪も随分と穏やかになり、蒼穹は鮮やかに晴れ渡っている。陸にいれば恨めしくなる日差しも、潮風を浴びながらだと不思議に不快さが感じられなかった。逆に、絶好のクルーズ日和とすら思えるのは、いささか現金に過ぎるか。
「今日は、何があるんでしたっけ」
 ビュッフェで洋食を選択した佐伯は、コッペパンを千切りながら訊いた。
「昨夜遅くまで色々やったから、イヴェントは昼からだね。サンデッキで〈マニッシュバーズ〉の隊士たちとキャッキャウフフのお食事会。そして撮影会」
 素晴らしい……と独りごち、高階は大黒天のように目尻を下げる。
 かえすがえすも不気味であった。
 何も知らない人間ならば、麗人の微笑と見惚れる過ちを犯しもするだろう。
 しかし、佐伯は普段の高階を知っている。もはや、恐怖しかない。
「撮影会、参加するんですか? 先生、写真撮られるの嫌いでしょう」
「私が嫌いなのは、私の知らないところで好き勝手されそうな撮られ方だよ」
「左様で」
 食堂が慌ただしくなり始めたのは、あらかたの皿を空にし、そろそろ部屋へ引き揚げようかという頃だった。何人かのスタッフが、緊迫した様子で厨房の中に入っていく。中には肩章持ちの上級船員も含まれていた。
 席を立つのを忘れ、成り行きを見守る。すると、今度は見慣れた顔の男が現れた。こちらは真っ直ぐに佐伯たちのテーブルへ歩み寄ってくる。笠置夫人を発見した時、担架を持っていたチーフパーサーだ。
 なんだ? と、佐伯は思わず身構える。
「高階様、佐伯様、おはようございます」
 パーサーは恭《うやうや》しく頭を垂れ、|闖入《ちんにゅう》の非礼を詫びた。
「実は、笠置様を探しております。どちらにおいでかご存じないでしょうか」
「笠置氏ですか?」
 佐伯は、手にしていたフォークを置く。
 一瞬、高階の顔をうかがい、それからチーフパーサーに問い返した。
「いえ、今朝はまだお会いしてませんけど。何かあったんですか?」
「ええ、それが……」
 チーフパーサは難しい顔で言いよどんだ。近くに他の耳がないことを確認しつつ、一歩テーブルとの間を詰める。その上で、声まで潜めながら言った。
「お客様方は、昨夜、船医《ドクター》と一緒に笠置様の奥様をお見送りになられたとお聞きしておりますが――?」
「はあ。まあ、あれがお見送りと言うほどのものだったかは分かりませんが」
 質問の意図はまるで掴めない。だが、佐伯はとりあえず答えた。
「でしたら、安置室に使っていた部屋で、ご夫人を、その、お預かりしていたことはご存じのことと思います。ですが先程、巡回の者が確認したところ、それが――」
「なくなりましたか?」高階が心底嫌そうな顔で言った。
「はい。今現在、総出で船内を確認中ですので、まだ確かなことは言えないのですが……」
 と、もどかしそうに言葉を切り、チーフパーサーは顔を輝かせた。
「高階様、何かご存じでいらっしゃいますか?」
「ああ、いやいや」高階は蠅でも追い払うように手を振る。「そういうのじゃなくて、単に状況からそんな感じがしただけです。当てずっぽうですよ」
 その答えに、チーフパーサーは落胆を露わにする。
 が、長年鍛錬を重ねてきたと思わしき精神力をして、すぐに取り直した。
「奥様のことですし、もしかしたら御主人の笠置様が何かご存じかと探しているのですが」
 それはどうだろう。佐伯は思わず口にしかけた。
 例の安置室は施錠されていた。船医が使っていた鍵がなければ入室は不可能である。
 仮に笠置が夫人との無断面会を目論んだとして、強行は無理だということだ。
 第一、保存を考えると、あの部屋から遺体を運び出すのは笠置にとっても得策ではない。
 妻を側に置きたいというのなら、方法論が逆だ。服を着込んであの部屋に自分が留まろうとする可能性の方が高い。そのように思える。
「自分の船室《キャビン》には?」高階が訊ねた。
「それが、まだお休み中なのか、お留守にされていらっしゃるのか――」
「呼べども出てこない、と」
 チーフパーサーは神妙な面持ちで、はいと頷く。
 ほぼ同時、高階が盛大に溜め息をついた。
「まったく、次から次へと……」
「お騒がせ致しまして、本当に申し訳ありません」パーサーが深々と頭を垂れた。
「笠置さんは、亡くなった船員《クルー》や奥さんが、毒を持った生物に襲われたんじゃないかと考えていたようです」
 佐伯は言いながら、素早くエレヴェータ内でのやり取りを思い返した。
「昨日の夜中、最後に別れた時も、部屋に閉じ籠もって誰とも顔を合わせないようにするつもりだ、というようなことを言ってましたし」
「ああ、そうでしたか。でしたら、やはりまだお部屋にいらっしゃるのかもしれません」
 合点がいった、という表情でチーフパーサーは何度か首を縦に振った。
「その時の態度から察するに、彼は我々には例外的に一定の信頼を置いてくれているようでした」佐伯は続ける。「もしかしたら、私たちが呼びかければ応じるかもしれません」
「では――」パーサーは雲間に曙光を見た、というように顔を上げた。
「どこまでお役に立てるか分かりませんが、私が使えるようであれば言って下さい」
「まぁた、佐伯君はそうやって安請け合いして」高階が半ば呆れたような声を出す。
「もちろん、先生も協力しますよね?」
「なくったのは、夫人の遺体だけですか?」佐伯の声を無視して、高階が訊いた。
「いえ、それなんですが、まだ未確認ながらどうも、|Q/M《クォーターマスター》の方も見当たらなくなっているようでして。誠にお恥ずかしい限りです」
 チーフパーサーが再び頭を下げようとする前に、高階が椅子から立ち上がった。
 もうお辞儀は見飽きた、といわんばかりのタイミングだ。
「じゃ、行きますか。何が起っているのであれ、昼のイヴェントまでには片付けないと」
「しかし、両方なくなるなんて」
 グラスに残っていたオレンジジュースを飲み干し、佐伯も席を立つ。
 チーフパーサーは恐縮した様子で盛んに礼の言葉を述べると、先に立って歩き始めた。
「例の安置室の鍵は、どう管理されてるんです」
 エレヴェータホールに向かう途中、高階がパーサーの背に問いかけた。
「はい。鍵は三つ御座いまして、常用されている物は甲板部で時間帯の責任者をされている船員が管理しています」
 佐伯が詳しく聞くと、時間帯責任者とは航海士たちのことであるらしい。
 彼らはローテーションを組み、二十四時間体勢で船内を巡回しているのだという。船長が休憩中の時は、一等航海士が船長代理の権限を持ち、鍵の管理者にもなる。
「あとの二つは予備で、その片方は私の管理下にあります。最後の一つは、船長《キャプテン》がマスターキィとしてお持ちです」
「じゃあ、航海士の方が時間ごとに部屋のチェックをして、その時にその……消失に気がついたわけですか」
「そのように聞いております」
「あれ?」高階が小さく声を上げた。「私たちが最後に見た時、鍵持ってたの船医《ドクター》だったよね。あの人、安置室出たあと、もう寝るとかいってそのまま自室に帰っていかなかった? 一等航海士《チョッサー》に鍵返さなかったんじゃないの?」
「あ、そう言えば」
「いえ、しばらくして巡視点検の二等航海士が船医の部屋を訪れまして、鍵を回収したと証言しております。直後、彼は念のため例の部屋をチェックしておりまして、その時は確かに笠置様の奥様はおられたと報告されております」
 甲板部の当直は通常、四時間交代で行われる。
 これに従い午前四時にもチームの入れ替わりがあり、また別の航海士によって二度目の確認がされている。この時もまた遺体は確かに存在していた。
 遺体が消えていると騒ぎ出したのは、さらにその次。朝八時からの当直についたグループであった。彼らは交代後、すぐに巡視点検に入り、その過程で遺体安置所を覗いた。
 そして、異変に気付いた。
 時間的に、つい先程の出来事である。
「袋に入ってたはずですけど、彼女。それごとなくなりましたか?」
 エレヴェータ待ちの間、高階が質問した。
「はい。そのようです」
「鍵は? 所在が確かじゃない時間帯があったとか、誰もが持ち出せる状態だったとか」
「船長《キャプテン》はもちろん、自分の鍵を持ち出すことなどなかったと申しております。金庫を開けられるのは彼だけですし、確認したところマスターキィはきちんと入っていたそうです。逆に私が管理している方の鍵なのですが、これは確かに幾つかの手順を踏めば、多数の人間が持ち出すことができます」
 なんでも、鍵の類は事務局にあるキィボックスの中にまとめて保管されているという。
 ボックスには鍵がかかっているが、これを開ける方法は事務方の多くが知っている。
 無断で持ち出すだけなら簡単にできるだろう、とチーフパーサーは語った。
「ですが、キィボックスは監視カメラで常に見張られています。現在、私の部下が記録された映像を確認中ですが、今の所、誰かが無断借用しようとしたような所は見つかっておりません」
 そうなると、もう消去法の世界だ。証拠を残さずに鍵を持ち出せたのはふたり。
 船長と、当直の航海士だけである。
 死体が自分で歩き出したのでなければ、他の可能性はほとんどない。
 笠置の部屋に辿り着くまでの間に、遺体捜索班と思わしき船員たち数人とすれ違った。
 それと分からない濁した表現で確認し合うが、まだ遺体はどちらも見つかっていないらしい。笠置を捕まえたという報告もなかった。
 笠置が移ったデラックス・スイートは、エレヴェータから最も遠い場所にある、第6デッキの船首にあった。
 このデッキには左右に七部屋ずつ、計十四部屋が固まって配置されている。
 そのうち二部屋が第二位グレードのデラックス・スイート。他が第三位のバルコニィ・スイートという配分らしい。
 今回のクルーズ参加者の大半がこのバルコニィ・スイートの宿泊客である、というのはチーフパーサーの談であった。
 やはり客室が多く、また朝食の時間帯だけあって、第6デッキは人の姿が絶えなかった。
 なるべく目立たないようにしたかったようだが、しかたがない。チーフパーサーは人目のある中、ドアをノックし始める。
 このグレードの客室にも|呼出し鈴《チャイム》が付けられているが、ペントハウス級と違ってインターフォンタイプではなかった。単に小さなボタンが設置してあるのみ。音を鳴らす機能しかない。したがって、室内に笠置がいるなら、応対のためにはドアを開けて直接顔を出す必要があった。
 が、中からは何の反応も返らなかった。
「おはようございます。笠置様、朝早く失礼致します。チーフパーサーの内藤と申します」
 遂に、チーフパーサーは控えめな声をあげざるを得なくなった。
 途中、幾分強めの力を込めたノックを挟む。そんな呼びかけが幾度か繰り返された。
「なんだかこのパターン、もの凄い既視感があるんだけど」
 高階が油虫でも見たように顔をしかめた。気持ちは佐伯も同じだった。
 その通り。このやりとりは、601号室のドアを破ろうとした時のそっくり焼き直しだ。
 そして前回、最後に佐伯達を待っていたのは――笠置夫人の死体だった。
「注目を浴び始めてるね」
 高階が指摘する。他人事のような調子だが、事実だった。チーフパーサーの度重なる呼びかけは、行き交う船客達の関心を確実に引きつつある。
 中には通路に留まり、野次馬を決め込んだ連中の姿も見られた。
「今回は、マスターキィは用意してきてないんですか?」
 佐伯が聞くと、チーフパーサーはノックの手を止めて振り返った。
「いえ、用意は御座います」
 そう言うと、渋い顔で制服の懐を探りカード型の電子キィを取り出す。
 彼は手元のそれを、何か忌まわしい物のように見詰めた。
「ただこれは、最後の手段と思っておりまして……」
「気持ちは分かりますが、これ以上は周囲の宿泊客にも迷惑になるのでは」
「仰る通りです」
 言葉と裏腹に彼はなおも逡巡の素振りを見せる。しかし、一瞬あとには、覚悟を決めた顔でマスターキィを読取り機に通していた。
 すぐに、昨日と同じ電子ロックの解除音が硬く周囲に木霊した。
「嫌な予感しかしないけど、今度はせめてバリケードがないことを祈ろう」
 そんな高階の祈りが通じたのかは定かでない。
 パーサーがノブを捻ると、ドアはすんなりと開いていった。なんとなく、佐伯はそれだけで安堵を覚える。
 一緒に踏み込んで良いものか? 入口で少し悩む。だが、チーフパーサーから止められなかったこともあり、佐伯は素早く戸口を潜り抜けた。野次馬の視線を遮る意味も含め、さっさと扉を閉める。
 たった一つとはいえ、この船ではグレードの差が大きくものをいうらしく、デラックス・スイートは間取りも床面積も、ペントハウス・スイートのそれとは随分と違った。
 まず、入ってすぐのリヴィングからして、広さが半分程度。ソファも革張りの応接用ではなかった。ベッド兼用のグレード落ちだ。
 だが、佐伯の意識を最も強く引きつけたのは、それら視覚的要素ではない。布が風を孕んで暴れる、ばさばさという騒音だった。
 音の方――正面奥を見やると、バルコニィへ続くガラス戸がある。スライド式になったその右側が大きく開け放たれており、入り込んでくる海風がカーテンをひっきりなしに煽っていた。
 ベッドはそのすぐ手前、やや奥まった死角の部分に配置されているらしかった。入口からはバスルームの出っ張りが生む死角によって、上手く見通せないようになっている。
 その角の向こう側へチーフパーサーが姿を消した、その瞬間だった。
「うっ」という呻きにも似た叫び声が聞こえた。
 思わず、隣の高階と目配せを交わし合う。
 彼女がすぐに急行しようとする一方、佐伯の動き出しは酷く鈍かった。
 自分がどうしたいのか分からない。
 真実は知るべきだ。しかし、肉体はそれを拒絶しているようにも感じられた。
 なんであれ、寝室までの距離は数歩程度。|牛歩《ぎゅうほ》戦術をとったところで大きな意味をなさない。
 頭の整理が付かないまま、佐伯は寝室に広がる光景を目に収める事になった。
 呆然と立ち竦むチーフパーサーの肩越し、寝台の上で大の字になった人物の姿が飛び込んでくる。
 シーツには半乾きになった大きな血溜まりが広がっていた。その中心部に、見覚えのあるクリーム色のチノパンと、水色のシャツの男が横たわっている。
 やや顎を上げ気味にしているため、こちらに足下を向けた状態では顔をはっきりと確認することはできない。
 だが、体格と肌の日焼け、そして服装からそれが笠置であることはすぐに分かった。
 自分が死体を発見したのだということも、分かった。
 しかも普通の死に方ではない。手足を紐状の何かで縛られ、ベッドを支える四方の支柱にそれぞれ繋がれている。出血しているのは頭部のどこからからしく、バケツ一杯の鮮血をひっかぶったように胸から上の大部分が血に染まっていた。
 叫び声をあげずに済んだのは、高階に先を越されたからだった。
「ああ……」という嘆きの声と共に、彼女がよろめくのが見えた。右手で目元を覆い、そのまま後ろ向きにふらふらと壁際まで後退していく。それ以上進めなくなると、がっくりと項垂れ小さく震え始めた。
 正直な所、それは佐伯にとって笠置が死体になっていたこと以上の衝撃であった。
 あの高階が、だ。これほど弱々しい姿を見せたことなどかつてない。しかも、他人の死を悼んで取り乱すなど、人格破綻者の彼女にあってはならないことである。
 確かに凄惨な現場だが、それで乙女のような怯え方をする女性などでは決してない。
 ――そのはずだった。
「先、生……?」
 流石に心配になった。佐伯は高階に歩み寄る。
 思えば朝食の時から、彼女は様子がおかしかった。もちろん、彼女はある意味で常に様子がおかしい。しかし、味噌汁相手にいきなり満面の笑みを見せるなど、今朝は特に常軌を逸していた感があった。
「先生、しっかりしてください」
 肩に手をかけようと腕を伸ばしかける。
 途中、彼女がぶつぶつと何かつぶやいていることに気付いた。
「殺人過ぎる……」
 えっとなって佐伯は動きを止める。
「こんなの幾ら何でも、誰が見ても……あまりに殺人過ぎる。殺人過ぎるにも程がある」
「あの、先生? 大丈夫ですか」
 言った瞬間、彼女の震えがぴたりと止まった。
「これで大丈夫なわけがあるか」
 顔を覆っていた手がどかされ、恨めしげな声音で返される。
 別に泣いていたわけではないらしい。
「遺体を軽く調べてみたけど、死んでからかなり時間が経ってる。多分、部屋に帰ってそれほどしないうちに誰かを部屋に招き入れて、そいつに殺《や》られたんだ。血塗れだから素人だと分からないだろうけど、右の頸部に、吸血鬼の牙にやられたみたいな二つ点の火傷《ヤケド》があるのを見つけた」
 恐らくスタンガンによるものだろう、というのが高階の見解であった。
 続く所見によれば、前後して後頭部を殴られているらしい。大量出血の原因がこれだ。
 スタンガンとどちらが先だったかは分からないが、頭の傷は頭上、高い所から振り下ろした位置についている。高階はこのことから、スタンガンのダメージで膝をつかせたところを背後から打ち下ろす形で殴打したのではないか、と語った。
 凶器は角材。あるいはそれに類する比較的もろい木製の何か。受傷部の具合と、周辺の頭皮にオガクズのような細かい木片が幾つか付着していることが根拠だという。
 また彼女は、居間の方を見やりながら「探せば血痕や微細な木片が見つかり、部屋のどの辺でやられたのかが判明するはずだ」とも告げた。
「じゃあそれが――」
 佐伯にみなまで言わせず、高階は首を振った。
「死因はそれじゃない。眼球粘膜に溢血《いっけつ》点が見られる。頭部を致命傷になるくらいの勢いでぶっ叩かれると生じることもあるけど、実際に診たら傷はそれほど酷くなかった。表面が切れただけで、頭蓋骨に陥没や骨折はないっぽい」
「ああ、頭はちょっと切っただけで凄く血が出るって言いますよね」
「まあね。全体的な出血量を見ても、即死じゃなくて血を流しながらしばらく生きていたことは明白だ。だとすれば、眼の溢血点は毛細血管壁の透過性亢進によるものである可能性の方が高い。溢血点の原因と死因は他にあるということだ。身体の内側からの破壊とかね。犯人は恐らく、脳震盪でぐらっとする程度に頭を殴った。その前に食らったスタンガンの痛みもある。彼は動けない。その間にベッドに縛り付け、そして――多分、注射器で毒を注入した」
 と、高階が遺体の方を指差した。
 言われて初めて気付いたが、枕元に使用済みと思わしき注射器が置かれていた。
「フィリピン人やあの派手なおばさんと同じ、毒殺だと思う。死斑を見る限り、死んだあとに遺体を動かした形跡はない。まあ、これはひっくり返してよく調べないとアレだけどね。ただ、寝かされる前に毒を注射されたのか、縛り付けられてから打たれたのかは分からないけど、彼がベッドの上で死んだことはほぼ間違いないと思う」
「なんでこんなことを……」
 スタンガンで不意を突き、頭を殴る。そこまでは良い。だがその後、ベッドまで運ぶ気になったのなら、もう数メートルがんばってバルコニィから海洋投棄すれば良い。
 なぜ、手足をベッドに縛り付け、わざわざ毒を打ったのか?
 しかも、これ見よがしに注射器を残していっている。意味が分からなかった。
「佐伯君も気付いたと思うけど、これは明らかに殺人ですっていうアピールが含まれてる。事故か自殺か殺人か、ボカそうと思えば幾らでも曖昧にできるところを、敢えて絞ろうって意志がある」
「――ええ。そう、感じます。俺も」
 この惨状を見て、自殺や事故、病死の可能性を考える者はいないだろう。
 誰がどう見ても殺人と直感可能な、これ以上ないほどに分かりやすい現場だ。
「もう……駄目だ……」
 両肩を落としてぼやくと、高階はとぼとぼと出口に向かい始めた。
「えっ、ちょっと先生。どこ行くんですか」
「お|部屋《うち》帰る」
「おうちって、船室《キャビン》ですか? この場をどうする気です」
「どうでも良いよ、そんなの」
「いや、どうでもって」
「まるで三文ライトノヴェルのタイトルだ。豪華客船で見つけた死体が殺人過ぎる=Bこれで、何もかも終わったんだ。神様は私が嫌いなんだ。きっとAKBとかが好きなんだ」
 取り付く島もない。高階はそのまま幽鬼のような足取りで本当に出ていった。
「あっ、では私は――とりあえず、そう、船長《キャプテン》に報せます」
 一緒になって高階の検死報告を聞いていたチーフパーサーは、我に返ったように言った。
「私はどうしたら良いですか?」
 判断を求めてというより、途方に暮れて佐伯は訊ねる。
 内線の受話器を取り上げた格好のままで、チーフパーサーは固まった。
「ええ――と、そうですね。そのう、つまり、ここは一応殺人の現場ということになりますですので――」
 初老の域に達しかけた彼にとっても、こういった場に立ち会うのは初めての経験であるに違いない。努めて冷静に振る舞おうとしているのが分かるが、今の所、その努力は半分も報われていないように見えた。
「とにかく、この場を保存することが第一ではないでしょうか。あまり、周囲の物にお手を触れられることのないようお願い致しまして……あとは、そうですね……」
「なら、部屋から出た方が良いですかね。自室で待機したほうが?」
「ええ、はい。所在が確かであれば、そうですね。その方がよろしいかもしれません。後ほど船長から事情の説明について協力を求められることがあるやもしれませんが」
 受話器を抱くような格好のまま、パーサーはしきりにお辞儀を繰り返す。
「分かりました。では、そのように同室の者にも伝えます」
「はい。――あ、佐伯様」
 踵を返しかけた佐伯は、顔だけ振り返った。
「この件につきましては、なるべく」
「分かってます。こちらから吹聴して回ることはしません。ただ、嘘を吐くこともできませんので」
「はい、それで結構ございます。本当に、ご迷惑をおかけてして申し訳ありませんが」
「いえ。では、あとのことよろしくお願いします」
 去り際、自分でもなんの気まぐれか分からず、佐伯はベッドルームにもう一度だけ視線を向けた。
 何の脈略もなく、むかし観たTV番組を思い出した。自分の爪を瓶詰めにして保存し続けている人間のレポートだ。あの手の不気味な悪趣味を見せつけられた時のような、えも言われぬ不快感が襲ってきた。
 何も映さない笠置の瞳を見てしまう。
 振り返るべきではなかったと後悔した。



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