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 第八章 「一取」


    1

 ――夢を見ていた。
 夢の中で陽祐は、今まさに一枚のドアを開こうとしていた。軽く押すと、扉はまるで自らの意思があるかのように滑り出す。部屋の内側に向かってゆっくりと開いていった。気圧差のせいか、生あたたかい風が顔に吹き付けてくる。陽祐は思わず眼を閉じた。呼吸も止める。そのまま前進して、室内に足を踏み入れた。
 空気の流れが止まった。人の吐息にも似た熱を持つ、濡れたような空気が全身を包み込む。眼を開くと、そこは半球体の巨大なホールだった。一瞬、屋外に出たのかと錯覚したほど広い。喉が裂けるほどの大声をあげても、反対の壁際まで届くかどうかは疑わしかった。辺りは薄暗く、人気は全くない。荒涼とした平地が、ただどこまでも広がっているような印象を受ける。干乾び、なかば白骨化したような死体が転がっていたとしても陽祐は驚かないだろう。それがたとえ、人の骸であってもだ。
 床、壁、そしてドーム型の高く丸い天井に至るまでの全てが、気味の悪い有機体で構成されていた。ここまで追ってきた、血管の集合体とほぼ同じ材質である。突然変異した巨大なミミズが、何千何万――否、何億という単位で絡み合っているようにも見える。その表面はぬめぬめと艶っぽく、ゼラチン質の何かで覆われているかのようだった。陽祐は、管の一本一本が独立した生命を持っている気がしてならなかった。時折それを主張するかのごとく、個々が小さく身震いし、蠢き、脈打つ。その動きが微かな熱を生み、この広大なドーム状の空間をあたためていた。巨人の体内に放り込まれたような気分がする。熱帯の密林を思わせる、肌にネバつく湿気が不快だ。
 ホールの中心部には、大樹を思わせる巨大な柱がそそり立っていた。樹齢何百年という太い木々がねじれ合い、もつれ合い、ときに融合して出来上がったようなそれは、やはり有機物のパイプが集まった血管の化け物なのだった。
 本来は似ても似つかない別物なのだろうが、陽祐は不意に、北欧に伝わる世界樹 <ユグドラシル> を思い出した。その枝は惑星を覆いつくし、天まで届く。天、地、人、三つの階層と九つの世界を貫き、あまねく全てを結びつけ、そして実らせる世界の体現。巨大なトネリコの伝説だ。
 それが果たしてどれほどの直径を誇るのか、見当すらつかなかった。大のおとなが何百人集まれば、手を繋いでこの血管の塔を囲みきれるだろう。有機体の柱は天を衝くかのごとく直上に伸び、ドーム型の屋根を貫いて姿を消している。その高さには限りなどないような気がした。全てが常軌を逸している。
 見上げているだけで首に負担がかかった。額と首筋に滲み始めた汗を拭い、視点を転じる。
 ゆるやかな弧を描いて広がっていく広間の壁には、等間隔に無数の扉がついていた。全部で幾つあるのか想像する気にもなれない。全てが、陽祐が潜ってきたドアと同じ形状をしている。やはりその下部は太い有機体の集合パイプに貫かれており、それらは皆、広間の中心部に向かって伸びていた。
 ――違う。陽祐はすぐに気付いて否定した。
 中心部に向かって伸びているのではない。その反対なのである。例の血管でできた世界樹から放射状に広がり、それが各扉にまで伸びているのだ。植物の化け物が、餌を求めて触手を張り巡らせたように。
 核は、この空間の天地を繋ぐあの巨塔に他ならない。あの血管の世界樹こそが、自分の追い求めてきた何かなのだ。そう悟った陽祐は迷わず歩きだした。そのためにここまで来たのだ。
 静脈のような青、どす黒い深紅、煤けた灰色の管などで覆い尽くされた床は、陽祐が想像していたほど柔らかくはなかった。硬く、意外にしっかりとした感触を足の裏に伝えてくる。だが、生物の皮膚の上を素足で歩いているような、生理的不快感をもよおす温かさがある。ときどき、地中の奥底で巨大な心臓が鼓動したような、気味の悪い震えを感じた。
 柱との距離が縮まると、陽祐はその根元に大きな瘤があることを知った。卵形をした巨大な宝石が埋め込まれているようにも見える。いや、柱を世界樹にたとえるなら、それは樹液だ。琥珀色をした、巨大な樹液の固まりと見るべきなのだろう。いずれにしても大きさが尋常ではない。陽祐は、昔アパートの屋上で見た球体の小さな貯水タンクを思い出した。形状と大きさは良く似ている。違うのは材質であった。こちらのそれは、半透明の薄い胚膜で表面をコーティングされている。中には何か液体のようなものが詰まっているようだった。どことなく羊膜液をイメージさせる代物である。もしかすると、そのものなのかもしれない。
 そこに青白い人間が漂っているのを、陽祐は見た。流れ出した樹液に閉じ込められ、そのまま化石になった古の昆虫のように。母親の胎内で眠る赤子のように。一糸まとわぬ青年が、黒髪を海草のように揺らめかせて眠っていた。
 若く見えるが、実際は外見ほどではないのかもしれない。眼を閉じて静かに眠る様からでさえ、この世のあらゆる物を目撃してきた者の醸し出す、ある種独特の悲哀が感じられる。
 だが、見た顔ではあった。良く似た人間を知っている。それも極身近に。陽祐は既に確信していた。いつか、彼と出会ったことがある。
 陽祐は彼に近付き、彼と羊水を包み込む胎膜に触れた。ひやりと冷たいようだが、仄かにあたたかくもある。自分の肌に触れたような感覚だった。特別なものは何一つとして伝わってこない。
 ――誰なのだろう。青年の顔を覗き込みながら熟考した。思い出さなくてはならない。それは分かっている。非常に重要なことだ。ことによっては、人の生き死にさえ左右されかねない。それだけの大事なのだと、内なる自分が唾を飛ばしながら喚き散らしている。お前はこいつを知っている。思い出せ。でないと――
 身体から水気を払おうとする犬のように、思い切り頭を左右して思考を振り切りたかった。思いとは裏腹に、記憶の海には細波すら立たない。足がかりになりそうな情報の断片すら浮かんでこなかった。なぜか、もう時間が残されていないような気がする。
 その予感は正しかった。恐れていた通り、俄かに視界がぼやけ始める。視覚的な錯覚を疑いたかったが、気のせいでないことは既に知っていた。コントラストが曖昧になり、個を隔てる色と輪郭が徐々に失われつつある。変化は突然始まり、ゆっくりと進行し、やがて唐突に終わった。全てが滲み、壊れていく。白光の中に溶け込んでいく。
 そして目覚めた。

 眼球だけ動かし断片的な視覚情報を仕入れたが、自分がどこにいるのかは判断がつかなかった。どうやら自室のベッドの上ではない。柔らかい何かに頬を埋め込むようにして、うつ伏せに眠っていたらしい。感覚的に、人様には見せられないような無様な寝姿をさらしているのが分かった。長時間にわたって不自然な格好をとっていたせいで、背中や肩の筋肉がかなり強張っている。
 身体を起こすとき、意図せず小さなうめき声が歯の隙間から漏れ出した。一瞬、めまいがしたがすぐに収まる。はっきりしたことは言えないものの、かなり長い間眠っていたような気がした。
 眼を細め、改めて辺りを窺う。寝違えたというほどではなかったが、首が極度に凝っていた。左手でうなじの辺りを揉みほぐすと、軽い電流を流したようにピリッと痛む。
 そこは自宅のリヴィングルームだった。夜は遥か昔に明けている。カーテンのかけられていないガラス戸からは、朝日にしては強すぎる陽光が注ぎ込まれていた。フローリングの床に丸い陽だまりができ、白く艶やかに輝いている。眩しいくらいであった。陽祐のすぐ傍にある脚の短い食卓には、新聞とその切れ端が所狭しと積み上げられていた。ハサミや握りつぶされた紙くずなども散らばっている。その上にほとんど空になった酒瓶と汚れたグラスが置いてあった。
 ようやく昨夜――と思われる夜――のことを思い出す。幸いなことに現実感は薄れていた。あの日そのものが、丸ごと幻だったような気もする。恐らく、あと数時間はその感覚を保てるだろう。
 時計を見た。正午を二〇分ほど過ぎていた。三日間ぶっ通しで寝続けていたのでもなければ、今日は平日であるはずだ。とっくに高校の授業ははじまっている。午前のプログラムを終え、昼休みに入っているころであった。
 なにを優先してすべきか、まだ半分眠っている頭で考えた。シャワーを浴びるべきか。今日の日付を一応確認しておくべきか。コーヒーをいれる必要もある。記憶に残っている出来事のうち、どこまでが夢だったのかも明確にしておかなければならない。あの電話も眠っている間に経験したことなのか。それとも、ミミズが何億とうねっていた、例の薄気味悪いホールの場面だけに限定されるのか。
 結局、脱衣所に向かった。もう何日も着ているような気のするシャツとジーンズを脱ぎ捨て、洗濯かごに放り込む。下着は汗でびっしょりと濡れていた。
 浴室に入ると、最初に火傷しそうなほど熱い湯を全身に浴びた。次にコックを冷水に切り替える。酒を教えてくれた華僑が、同時に伝授してくれた方法だった。
 要はサウナの原理なのよ。わかる? 彼女は言った。もちろん全く分からなかったが、その言葉は記憶に残った。
 髪を拭いた後、バスタオルを腰に巻いた。そのままキッチンに入り、薬缶に水を入れてコンロにかける。客間に干していた洗濯物の中から下着とTシャツ、洗いたてのジーンズを取って身につけた。まともな学徒なら、部屋着ではなく制服をまとうべきだったのだろう。だが秋山陽祐は、既にまともな人間ですらない。気分は随分とすっきりしていたが、学校に行くかはまだ決めきれていなかった。
 仮に今日が四月一四日の木曜日であるなら、学校を休んでいる生徒は大勢いるはずだ。突然、そのことに気付いた。山下が襲われてから一日を経て、恐らく大多数の生徒が事件に関する大体の事情を知ることになっただろう。犯人がまだ逮捕されておらず、第二、第三の獲物を求めて学校界隈を徘徊している可能性があると考えれば、ある種の親は子供が学校に行くのを控えるべきだと判断するかもしれない。結果として、欠席を申し出る生徒は結構な数になりそうな気がした。もしそうなら、このまま陽祐がサボタージュを決め込んでも、特別な関心を払われることはなさそうである。
 湯が沸いた。キッチンでコーヒーをいれながら、大作のことを考えた。彼は何をしているだろう。昨夜は何の理由で、どこに出かけたのか。何時ごろに戻ったのか。今朝は学校に行ったのか。隣人でありながら、何も分からない。何年もの空白期間を挟んで彼と再会したのは、たった一〇日前のことでしかない。いま確かなのは、今朝、食事のために井上家へ行くことができなかったという事実だけだった。大作が、姿を現さない陽祐のことを心配しなかったとは考えにくい。もしかすると彼はこの家まで様子を見に来て、揺すっても怒鳴っても眼を覚まさない従兄に根負けしたのかもしれない。彼には空手部の朝練がある。諦めて一足先に登校した可能性は充分に考えられた。井上家に行ってみれは、案外、大作の用意した冷めた食事がテーブルに置いてあるかもしれない。
 コーヒーを一口飲んだ瞬間、居間の固定電話で今日の日付を確認できることに思い至った。FAXの受信日時を記録するため、秋山家の電話には電子カレンダーとデジタル時計が内蔵されている。液晶画面を覗くと、やはり四月一四日であった。昨夜酒を飲んでから、半日眠りこけていたということなのだろう。三日以上眠っていた感じがするのは、それだけ眠りが深かった証拠だ。アルコールの力を借りたおかげだった。
 突然、電話が鳴った。まるで、陽祐が日時を確認するために近付いてくるのを待ち構えていたかのようなタイミングである。左手にもったカップが揺れ、コーヒーがこぼれそうなほど波うった。胸のうちで悪態をつきながら、空いた利き腕を受話器へ伸ばす。またメモの送り主からではないか――という恐怖もあったが、直感が違うと告げていた。
「はい、秋山ですが」
「あ、やっと出た」
 聞こえてきたのは、持田明子の明るい声だった。そのたった一言で部屋の空気が変わったような気がする。首を捻って、庭に通じるガラス戸を見た。相変わらず春の日差しが燦燦と降りそそぎ、部屋を淡く柔らかい光で包み込んでいた。気分が俄かに、その眺めにマッチングしつつある。驚くべきことだった。
「こら陽之介、なにしてた。何回電話したと思ってんの?」
 陽祐の胸のうちも知らず、明子は好き勝手に喋り出す。自然と口元が綻んできた。引き締めようと試みたが無駄に終わる。
「もしかしたらお前、度数五〇パーセントを超える逸材かもな」
「――はい?」怪訝そうな声が返った。
「いや。それよりお前、本当に何度も電話したの」
「したよ。こっちに二回、携帯に二回。今度で五回目」明子はうんざりした様子で言った。「で、なんで学校来なかったの? 他の人は分かるけど、陽ちゃんは絶対来ると思って期待してたのに。裏切り者。陽ちゃんがこんな根性なしだとは思わなかったよ」
「やっぱり欠席は多かったのか。大作は来てたか?」
「井上君は来てたよ。陽ちゃんはなんで休んだの」
 なんと答えるべきか悩んだ。通り魔が怖くて自宅で震えていた、というような軽口が通用するとは思えなかった。いかなる場合でも、持田明子の追及をかわすのは難しい。ひょっとすれば、昨日の警察より手ごわい相手となるだろう。仕方なく、「昨日の夜、酒をかっ食らい過ぎて寝過ごした」と正直に告白した。
「寝過ごしたぁ?」彼女は素っ頓狂な叫びをあげた。「昨日からずっと寝てたってこと? 何時まで寝てたの」
「さっき。きれぎれにだけど、一四、五時間は寝てたみたいだ。おかげで今朝は気分も体調も悪くない」
 溜息が聞こえてきた。「赤ちゃんより寝てるよ、それ」
「そういうわけで、そっちの様子が知りたい。どんな感じよ? やっぱ、騒ぎになってるわけ」
「学校ならもう終わったよ。陽ちゃん、私が学校の公衆電話からかけてると思ってるかもしれないけど、いま自宅だよ。今日は色々あったから午前中でおしまいになったの」
 授業を午前中のみとし、午後の時点で放課。なぜ考えつかなかったのか自分でも分からないが、確かにあり得そうなパターンだった。恐らく昨日と同様に大勢の教師が通学路に出て、生徒たちの帰宅を見守ったに違いない。
「しかし、大作来てたのか。なんか言ってたか、あいつ」
「別に。今日は話してないよ。でも、なんか静かだったね」
 もっとも今朝のクラスは、事件を大げさに騒ぎ立てる者と、固い表情で黙り込む者に大きく二分されたらしい。大作はその後者に属していただけである。無理もない話だった。知り合いが大きな事件に巻き込まれた場合、人間が示せる反応など二種類あれば上等な方だろう。
「ねえ、それより昨日はなんで電話くれなかったの」
「電話?」
 また、受話器の向こうで嘆息する様子が伝わってきた。
「山下君のこと。情報仕入れて状況を理解したら電話するって、そっちが言ったんじゃない。陽ちゃんが病院いるとき話したでしょ」
 言われて、そのようなやり取りがあったことを思い出す。警察関係のごたごたや大作の姿が見あたらなかった件もあり、すっかり失念していたのだった。
 陽祐は大人しく謝罪し、事情をかいつまんで説明した。署で死体の身元確認に協力したことと、その女がかつて遭遇した通り魔であったこと、彼女の死体に不審な点が見つかったことなどは伏せる。情報を漏らさないよう警察に言われたこともあるが、不必要に明子を混乱させたくないという気持ちもあった。
「まあ、そういうわけで散々な一日だったんだ。大目に見てくれ」
「――そっか。陽ちゃん、本物の刑事と会ったんだ。いいな。殺人事件の捜査で刑事が家まで来るなんて、そうそうない経験だよ」
「全くなくて結構だ。そんなに羨ましいなら、連中からもらった名刺、今度くれてやるよ」
「ホント? ちょうだい、ちょうだい」冗談のつもりだったが、彼女は予想外の喜色を示した。「ちゃんと警察って書いてある?」
「書いてある。県警の刑事がくれた。階級は、確か警部補だったかな。白丘署の下っ端っぽい方はくれなかったけど」
「あの桜っぽいマークは? 透かしとかで入ってないの」
「そこまではねえよ。でも、わりと良い紙使ってた」
「うわ、早く見たい。今から貰いに行ってもいい?」
 陽祐は狼狽した。昨夜の電話で、紙片の送り主が囁いてきた挑発的な宣言を思い出す。なにを安心している、秋山陽祐。その嗄《しわが》れた老婆のような声が、まだ鼓膜に残っているような気がした。
「駄目だ。お前、学校から帰って家にいるんなら、今日はもう外に出るな。家族と一緒にいてくれ。絶対に一人にならないこと」
「なんで陽ちゃんにそんなことまで指示されるわけ?」
「指示じゃない。頼んでるんだ。そっから見えるんなら、頭でもなんでも下げるよ」
 その影響力を頭の片隅で計算してから、昨夜遅くに電話があったことを話した。VIPを無事に守りきるには、自分がどれだけ危険な状況下にいるかを彼ら自身に正しく認識させる必要がある。守られる側の協力なくして護衛は成功しない。なにかのTV特番で、要人護衛のスペシャリストが喋っていたのを聞いたことがある。経験を積んだ専門家の勧めには従っておくものだ。
 予想通り、効果はてきめんだった。うそ、という驚愕の声が返ったきり、無言の時がしばし流れる。自分がそうだったように、彼女にも考えを整理する時間が必要だろう。陽祐は左手にコーヒーを持っていたことを思い出し、一口啜った。
「――びっくりした。そういうこともあり得るかな、とは思ってたんだけどね」しばらくしてから彼女が言った。「具体的にはどんな感じだった?」
「ウイスキィで泥酔してたからな、ちょっと現実感ないんだ。夢だったような気もするし。一番印象に残ってるのは、二階の廊下に紙を置いたのは自分だって台詞だな」
「そう言ったの?」やはり彼女も衝撃を受けたようだった。「二階の廊下で見つかったのって、喫茶店で見せてもらった二番目の紙のだよね。夜中に起きたとき見つけたっていう」
「ああ。やっぱ、誰かが俺の家に忍び込んだってことなんだろうな。で、隙を見て廊下にメモを置いて、さっさと逃げた」
「それは、ちょっと。どうかな?」
 明子は陽祐の短絡的な思考に疑問を持ったようだった。恐らく秋山家に犯人が近付いたのは確実だろう。この点については彼女も認めた。だが、屋内に侵入したかどうかまでは分からない。窓からメモを投げ込んだだけのことを、大げさに「二階の廊下に置いた」と表現した可能性もある。さも、その気になれば出入りなど自由にでき、自分の望む限りの仕掛けを設置することが可能であるかのように思わせるためだ。
「自分の力を大きく見せる演出で相手を脅かす。恐喝の常套手段じゃない。物を大げさに吹いて回る人って、ホントに多いんだよ」
「それはそうかもしなれいが、じゃあ、電話番号の件はどう説明する? なんで奴はウチの番号を知ってたんだ。引っ越して変わったばっかの新しいやつだし、電話帳にも載せてねえぞ」
「住所と住人の簡単なプロフィールが分かってるなら、電話番号の調べようなんて幾らでもあるよ。引越しの直後なら特に簡単。連絡の行き違いで古い番号しか知らない。良かったら、秋山さんの新しい番号を教えてくれませんか?……って風に、秋山家の友人知人に片っ端から連絡とりまくれば、誰かが引っかかって漏らしちゃうかもしれない。ガーボロジィとか郵便物のインターセプトまでやるなら、もっと簡単だろうし。興信所に頼むとしても、どんなに高くたって一〇万円も払えば突きとめてくれると思うな」
「――聞かなきゃ良かったよ」
 現代社会においては、情報の秘匿ほど難しいことはないのかもしれない。持田明子のように少し機転のきく人間なら、他人の個人情報など簡単に手に入れてしまえるのだろう。
「でさ、その電話って、やっぱり女の人からだった?」
 明子の問いに、自分はそういう印象を受けた、と陽祐は答えた。老婆を思わせる囁くような声であったことを、表現に苦労しながら補足的に伝える。喋り方を実際に真似てみせもしたが、忠実に再現できたとは言いがたい出来だった。
「そいつが言うに、 <選択肢> が示してるのは全て人名らしい。だとすんなら、第一の選択肢っては恐らくお前で確定だろう。で、第二はたぶん山下。第三は井上の叔母さんになる」
 小さく鼻を鳴らす音が返った。明子なりの唸り声だったのだろう。再び思考的な沈黙を挟んで、彼女は口を開いた。
「分かんないな。結局、その選択肢って何を意味してるわけ?」
「さあな。それに関しちゃ、相手のコメントはなかった。ただ、今日中に全部揃うとは言ってたな。また何かやらかす気かも」
「ね、そろそろ警察に届けても良いんじゃないかな」
「それはどんなもんかね。実害はほとんどないからな。物的証拠としてメモは何枚か残ってるけど、これだけじゃ相手を特定することもできんだろ。怪文書と悪戯もどきの電話がかかってくる程度じゃ、向こうも動きようがないでしょ」
「そうじゃなくて、布石っていうのかな。ジャブ入れとくんだよ。相手からのアプローチは、手紙から電話にシフトしてきたよね。これからも確実にエスカレートしていくに決まってる。それを想定した上で、実害が出る前に一度、警察にストーカーの存在を知らせとくの。で、段階が上がってくるたびに経過を報告する」
「そんなことして、どんなメリットがある」
「そうして初期段階からこの事案《ケース》を認識させておけば、いざって時に当局もアクションを起こしやすくなるよ。現場の人間に予備知識とある程度の感情移入度を植えつけられるからね。向こうは手続きを踏んだ上でしか動けない組織だからさ。準備だけはさせとくわけ」
 少し考えてみた。手間はかかるが、悪くない提案である。彼女が言うほど上手くはいかないかもしれないが、何もしないよりマシだ。
「ま、アイディアは受け取っとく。――けど、話がそれてるよ。いま問題にしてるのは、お前の身の安全の確保だろ。今日は外に出ない。一人にならない。今日に限らず、この件に決着がつくまでは、常に周囲に人を置いておく。約束してくれ」
「しないって言ったら?」
「俺の家に拉致監禁。空き部屋に放り込んで、おはようからお休みまで二四時間体制で監視する。俺自らがね」
 陽祐は腕を伸ばして、ダイニングのテーブルにコーヒーカップを置いた。自分より立場の強い人間を説得するのは難しい。
「明子、どうしたら俺の言うこと聞いてくれる。なんて頼んだら良い? この件は本当にヤバいんだ。あいつは、近いうち俺に会いに来るって言ってた。実際、来るだろう。俺の周りは危険になる」
 背中に汗が浮き出てくるのを感じた。アルコールと、それがもたらした睡眠の恩恵が失われかけている。ドラッグが切れるのと同じだ。束の間の安息が終わり、本来あるべき恐怖感が蘇ろうとしている。陽祐は舌で唇を湿らせ、相手が何か言う前に急いで続けた。
「本音言えばな、俺は自分につきまとってる奴と、山下を殺しかけた奴とに関係があると思ってる。相手は、ストーカーなんて流行の言葉でくくれるようなタマじゃないと思いはじめてる。電話で声聞いて分かったんだよ。あの女、本気で壊れてる。実際に聞いた人間じゃないとあれは分からない」
 明子は黙り込んだ。その沈黙から、陽祐の訴えを受けて考え方を変え始めているのがわかる。物事を楽観的に、ポジティヴにとらえるのは様々な局面においてプラスに作用するものだ。しかし、どんな時にでも――というわけではない。いまの明子はそれを真剣に考える必要があるはずだった。
 通り魔の女を殺したのが誰だかは、依然として分かっていない。彼女が死んだ以上、山下に重傷を負わせた人間も不明だ。しかし、警察は両者を関連付けて考えている。もし犯人が、陽祐に手紙や電話をよこした者と同一人物であるなら、そいつは既に一人の人間を殺していることになる。極めて危険な人間なのだ。
「陽ちゃん、だからお酒飲んだの?」彼女は落ち着いた口調で問うた。「ウイスキィって、相当強いお酒だよね。それ飲まなきゃ、眠れなかったから?」
 そうだ、と答えた。どうしても飲まなければならないと判断したとき力を借りることにしている。それが、昨夜だった。滅多に使わない手段だった。そう素直に伝えた。
「そっか」また長い沈黙があった。「――分かった。陽ちゃんの忠告には従うことにするよ。今日はずっと自宅で、家族と一緒にいる。一人には極力ならない。それでいい?」
「すまんが、是非そうしてくれ」
「陽ちゃんも気をつけてね。山下君も心配だけど」
「あいつには忠告しておいたんだ。渡瀬にも注意して観察するように頼んでおいた。それであれだ。警察は手術自体は成功して、あとは意識の回復を待つのみだって言ってたけどな。どうなるかは正直、誰にも分からねえんだろう」
「お見舞にいけるかな?」
「無理だ。今はどうか知らないが、俺が警察に聞いたときは集中治療室にいるって言ってた。どの道、通り魔の件もあるから警官が張り付いてる。一般人の面会はお断りだとさ」
「啓ちゃんも会わせてもらえないのかな」
 一瞬、啓ちゃんというのが誰なのか分からなかった。考えて、渡瀬啓子のことだと気付く。彼女は身元確認のために、山下の父親と一緒に警察へ引っ張っていかれたという。そのときに、顔を見るくらいはできただろう。その後のことは保障の限りにない。
「いずれにせよ、山下に意識はない。会っても同じだ」
「警察とかから、また新しい情報が入ったら教えてくれる?」
「教える」陽祐は即答した。「ただし、向こうが許す範囲でね。なんにしても、夕方か夜にこっちから連絡はいれるよ。お前が約束破って夜遊びに出てないか確認しないといけないからな」
 明子は苦笑した。「なんでそう疑り深いかな」
「それじゃ、もう切るぞ。約束、忘れないでくれ」
「陽ちゃんもね。あと、明日ちゃんと学校に名刺もってきてね」
「分かった。持っていく」
「それからね」一瞬言いよどんだが、彼女は続けた。「今度からはお酒飲まないで、私に電話しなよ。真夜中でも良いから」
 一瞬、返答を迷った。結局、検討しておくと応じ、陽祐は電話をフックに戻した。
 紙片の送り主がいう <選択肢> とはなんなのか、未だにわからない。今日中に全てが揃うという意味もだ。白丘市に全員が終結するという意味なら、井上の叔母が東京にいる以上あり得ないだろう。山下のように全員を病院送りにするというのも、やはり叔母の所在を考えると地理的、時間的に難しい。現実味がない。こちらの心理をかき乱すための、ハッタリや脅しなのかもしれなかった。
 一つ言えるのは、陽祐にできることはもう何も残っていないということだ。あるとしても、先日とりやめにした自宅セキュリティの強化を再検討するくらいである。そうして守りを固めて待っていれば、いずれ向こうから再び接触をはかってくるだろう。勝負はそのときかければ良い。
 テーブルに置いていたコーヒーカップを持ち上げ、残っていた中身を飲み干した。酷い味だった。冷めたコーヒーほど不味いものもない。
 唐突に、昨夜から何も食べていなかったことを思い出す。時計を確認した。一三時になろうとしている。朝食を、と言うには時間が遅すぎる。明子が戻っているなら、大作も帰宅して昼食の準備をしているころかもしれない、と思った。或いは、もう食べただろうか。まだなら、自分が面倒を見るべきだろう。陽祐は玄関で靴を履き、井上家に向かった。大作は留守だった。


    2

 渡瀬啓子は、モニタの右端に表示された時計を確認した。作業を始めてから、もう四〇分が経過している。春休みに買ってもらったばかりのパソコンは、自室に置くことを許されたかわり、一日の使用時間を六〇分間に制限されていた。両親との決めごとである。パソコンそのものも、彼らとの約束の結果、苦労して手に入れたものだった。高校二年生次の年間成績が学年一五位以内なら、褒賞としてパソコンを買ってもらう。その両親との賭けに、啓子は九位という結果をもって勝利した。そうして得たのは、二五万円もする今春新型モデルの水冷式ハイエンド機種。念願の啓子専用端末――まさしくパーソナル・コンピュータであった。
 再度、時計に眼をやる。時間がない。啓子は少し考えたあと、検索文字列に「刺し傷」というキィワードを加えた。リターンキィを叩く。予想に反して、条件に合致するサイトは二〇件強もヒットした。数十億単位のウェブサイトの中から、自分が求める情報を効率よく探し出すにはコツがいる。検索サイトと呼ばれる、いわばインターネット上の索引ページを上手に利用しなければならない。
 啓子は、検索結果一覧に表示されたサイトを片っ端から閲覧していった。背中を刺されて死傷した人たちの事件記事が六件。整形外科の診療案内に類するものが四件。見当はずれな個人の日記やウェブログ、エッセイ等多数。どれもが啓子の求めるものではなかった。背中に大きな傷を負ったスポーツ選手が、その負傷と向き合いながらどのように競技復帰していけば良いか。その術やヒントを与えてくれそうなコンテンツは全く見あたらない。
 溜息を吐きながらブラウザを閉じ、終了作業を行ってパソコンの電源を落とした。探し方が悪かったのかもしれない。次回は検索キィワードに変更を加えて試してみるべきだろう。だが、それは今ではない。無理をしても時間の浪費にしかならないことは分かっていた。昨日からそうなのである。集中力が全く持続しない。熱意をもって仕事をすることができない。理由は明白だった。山下が刺され、重傷を負い、あまつさえ意識を失ったまま病院のベッドに横たわっている事実に、まるで現実感を持てないのだ。
 まさか、あの山下が――という気持ちがどうしても頭から消えない。普段から、彼ほど挙動に隙のない人間も珍しかろう。捜査当局の言葉を信じるなら、被害者は背中をナイフで突かれ、更に全身を鈍器で殴打されている。山下剛が素人相手にそのような失態を演じるだろうか。啓子には想像がつかなかった。
 もちろん、警察に要請されて本人確認には協力した。随分と昔のことに思えるが、実際には昨日の朝のことでしかない。啓子はそのとき、救命救急センターのガラス越しに、間違いなく山下を見たはずである。――いや、あれは本当に山下だったのか。記憶にはほとんど残っていない。ほとんど夢の中にいたような感覚だった。彼は一〇時間に及ぶ手術を受け、なお昏睡状態にあった。そうした非日常的な条件下の相手と対面させられたのである。全身に管を繋がれ死んだようにベッドに横たわるあの青年を、啓子はついに山下だと認められなかった。頭部の上半分は包帯でぐるぐる巻きにされていた。口元には呼吸器のようなものもが接続されていた。確認しろと言われても、地肌がほとんど見えていないありさまだったのだ。
 とはいえ、一緒にいた山下の父親は、彼を自分の息子だと認めている。新聞でも、TVニュースでも山下剛の名前が出た。彼の自宅周辺には、マスコミややじうまたちが大勢集まって騒いでいる。
 恐らく自分も、本当は事実を理解しているのだろう。啓子はそう自己分析していた。だから今日、学校を休んだのだ。確かに両親――特に母親――からも、登校を控えるよう助言はされた。だが彼らの勧めがなくとも、啓子は通学路に出るのを拒んだに違いない。教室に顔を出し、山下剛の席が無人であることを確認するのが怖かったからだ。
 啓子は天井を仰ぎ、肺の中が空になりかけるまで息を深く吐き出した。何でこうなんだろうね、と小さくつぶやく。通り魔が出たときもそうだった。自分の対処できる範囲を逸脱した事件が起こるたび、啓子はそのときの記憶を曖昧にすることで難を逃れてきた。周囲に山下や秋山陽祐のような頼りになる人間がいたからだ。きっと彼らが何とかしてくれると無意識に考えたからだ。
 やっぱり、逃げてるのかな。再び、声に出して言ってみる。そうなのだろう。依存などしていない。山下に強さを分けてもらい、自分も彼に何かを提供している。二人はそんな関係なのだ、と声高に主張してみても現実は結局これなのだ。
 山下の後を追っていれば、新しい世界に行けると思っていた。自分は自分と胸を張って生きられる世界。渡瀬啓子の存在が人々に認められ、必要とされる世界。
 その世界では、全てが違って見えるのだ。何度も同じことを繰り返し、その度に変われない自分を嫌悪することもない。違う自分になれる。本当の自分を見つけられる。自分に対する肯定――YESを得られる。
 だが、そんな世界などどこにもないのかもしれない。そのことに、渡瀬啓子は薄々と勘付きはじめているのだろう。だから山下剛につきまとう。彼の側にいて、同じものを見ている気になっていれば、ずっと夢の続きでいられる。常に上を目指す彼と一緒に醒めない夢を見ていられる。そうでないと言えるだろうか?
 悪い方向に流れ始めた思考を、啓子は慌てて振り払った。そういう部分も確かにあった。きっと、今もある。しかし、それが全てではない。そのはずだ。自分に言い聞かせる。
 もし自分がそんな人間なら、山下は傍らにいることを決して許さなかっただろう。彼は、渡瀬啓子を部分的にであれ認めてくれたではないか。好きだとさえ言ってくれた。もう二度と聞かせてもらえないかもしれない言葉だ。大切に胸に刻まれている。
 それに、山下との出会いで自分の生き方やものの考え方に変化が生じたのは事実なのだった。少しだけ積極的になった。性格が明るくなったと言ってもらうこともある。全部、山下のおかけだ。
 だから、今度は自分が彼の力になりたい。本当にそう思う。山下が本当に重傷を負ったなら、それを認めた上で何をしてやれるか考える必要がある。逃げてばかりではいられない。彼は強い人間だが、それでも身体の重要箇所を傷めたことに少なからずショックを受けるはずだ。もし可能なら、そのとき彼の精神的な支えになりたい。色々な資料をあたり、同じような怪我を負いながら復帰したアスリートが他にもいたことを証明するのが良いような気がしていた。彼らがどのようなリハビリや鍛錬を行ったのか、ノウハウを学んで提供する。山下はきっと、前向きに自分の逆境に立ち向かえるはずだった。今回のアクシデントすら、自己の研磨には都合の良い出来事だったと言い出すかもしれない。
 それもこれも、まずは山下に会ってからの話だ。今度は、きちんと眼を開いた状態で彼を訪れなければならない。誰にも頼らず、自分で確かめるのだ。そうでないと何も始まらない。
 決心を固めると、啓子はパソコン用19インチ・モニタの横で充電中の携帯電話を手に取った。話が刑事事件に発展しているため、身内でない啓子が山下との単独面会を果たすのは難しい。彼の身内に手を打ってもらう必要があった。
 山下の父親とは、前回会ったときに番号を交換し合っていた。連絡をとるのは難しくない。既に山下の容態確認のため二、三度やりとりもしていた。
 部屋の壁掛け時計を見ると、時刻は一五時を少し過ぎていた。本人から、しばらくは仕事を休んで家族をケアするつもりだ、という話を聞いている。この時間なら問題はないだろう。メモリから山下隼人のプライヴェート・ナンバーを呼び出し、コールした。
 驚いたことに、かけたと同時に彼に繋がった。
「啓子さんですか」
 低く丁寧な声が聞こえてきた。自らが認めた相手なら、たとえ我が子と同年代の若者にすら相応の敬意をもって接する。まさしく山下隼人の喋り方だった。
「はい。こんにちは、渡瀬です」
「驚いたな。いま、君に電話しようと思って携帯を手に持っていたところだった」
「そうなんですか?」
「実は、病院から電話があってね。まだ意識は戻っていないが、術後の剛の状態は医者が驚くほど良好だそうだ」
「本当ですか」
 思わず小さな叫びとなったが、山下は冷静だった。そこに警察の介入があったのだ、と伝えてくる。被害者が何者かの襲撃を複数回受けていること、その犯人がまだ捕まっていないことなどを考え、安全のために個室に入るよう捜査当局は提案してきたらしい。
「実際には捜査上の都合もあるのかもしれない。とにかく、救命センターの集中治療用病床から後方病棟の――まあ、ここも設備的には集中治療室みたいなところらしいが――とにかく、特別な個室に移すことになったそうです」
「安全って、誰かが病院にまで乗り込んで来て山下君を襲うかもしれないってことですか?」
「私はそのような心配はしていないがね」
 彼は苦笑する。だが警察はあらゆるパターンを想定する連中だし、もし息子が本当に三度襲われるようなことがあれば、彼らは面子を潰すことになるだろう。そう指摘すると、彼は話を本題に戻した。
「依然、剛の周囲には警官が張り付いている。面会謝絶状態だ。しかし、病室を変えたのをきっかけに家族の者に限っては自由に部屋へ出入りできるようになった。私はこれから妻と行ってみるつもりでいる。良かったら君も一緒にどうだろうか、と思ってね」
「良いんですか?」
 驚いて問い返すと、彼は「もちろんだ」と答えた。あれも年頃の男だから、親よりかわいい恋人の付き添いを望むだろう。
「それより、啓子さんの用件は何だったのかな?」
「どうしたら山下君に会えるか、相談にのってもらいたくて」
「だったら、問題は解決したことになるかな」
 電話越しに伝わる呼吸の変化で、彼が微笑んだのが分かった。
「車を出すつもりでいる。直接、うちに来るかね?」
 少し考えて、啓子は自宅から一ブロックほど離れた児童公園で待ち合わせたいと伝えた。歩いて数分の距離だ。
「別にそれでも構わないが――」山下氏は怪訝そうに言った。「公園になにかあるのかな?」
 一昨日の夜、制止を振り切って山下を探しに行ってからというもの、母親との険悪なムードが続いている。そのことを説明した。彼女は啓子周辺のガードを固め、山下家の者や警察はもちろん、人の形をした全ての生物を娘に近づけさせまいと躍起だ。女友達からの電話すら取り次いでもらえない。もちろん、啓子が山下家を訪問するのも許さないだろう。
「そうでしたか。今度のことで、お宅の家庭に不和を招いてしまったのならお詫びのしようもない」
「そんな、良いんです」啓子は慌てて言った。「母が分からず屋なだけです。私、ずっと過保護にされて来て。本当は良くないことだってわかってたけど、私もそれについ甘えちゃって。いつかは話し合わなきゃいけないことだったんです」
 彼は何も言わなかった。
「じゃあ、あの――私、これからすぐに準備して公園に行きます」
「分かった。我々も用意をしておきましょう」
 電話を切ると、啓子は急いで着替えた。本当はシャワーも浴びたかったが、そこまでの時間的余裕はない。それより、どんな理由をつけて外出許可をとりつけるかが問題だった。父親は仕事に出ているが、母親は自宅にいる。出かけるとなれば、彼女に一声かけないわけにはいかない。
 結局、一階に下りた啓子は、「買い物に行ってきます」という無難な言葉を母親に投げかけた。予想していた通り、こんなときに敢えて出かける必要があるのか、という至極もっともな反応が返る。
「大丈夫。通学路みたいに人通りのないところは歩かないから。せっかく時間ができたんだし、有効に使わないと」
「何を買うの?」可奈子は冷たく言った。
「参考書。大きな本屋さんじゃないと買えないのがあるから」
 そうした参考書が存在するのは事実だった。食材の買出しにショッピングセンターへ出かけた可奈子に、あれば買ってくるよう頼んだこともある。彼女の記憶にも残っているはずだ。
「盛岡まで行かないとないかもしれないけど、遅くなるといけないし。とりあえず水沢で探してみる」
「とめても無駄なんでしょう」可奈子は感情を全く顔に出さない。突き放すような口ぶりだった。「もう、私の言うことを聞いてもらえるとは思ってませんから。好きにしなさい」
 何か言葉を返したかったが、どんなことを言えば良いのか分からなかった。混乱した頭で、行ってきますとだけ告げて廊下に出る。後ろ手にドアをしめた。身体が重い。歩き出すこともできずに、しばらくその場に佇んだ。
 正直なところ、母親の冷たい態度はショックだった。これまで、あんな口のきかれ方をされたことは一度もはない。わざわざ良心を刺激するような言葉を選ばなくても良いではないか、と思いもする。だが、彼女が自分と同じように傷ついていることも理解できた。渡瀬可奈子は、母親として娘に対して押し付けてきた己の価値観に疑いというものを持っていない。純粋に、それが啓子のためになると信じきっているのだ。我が子を思えばこそ、古く保守的な女性像に啓子を縛りつけたがる。
 啓子がそれを疎み、反発することが彼女には信じられないのだろう。女の幸せは一つ、と教えられてきた人間であるがゆえ、他の価値観に思いが及ばないのだ。だから、自分に従おうとしない娘の言動に裏切られたような感覚さえ受ける。
 やり方がまずかったのだ。
 突然、気付いた。攻撃的な言葉を捲くし立て打ちのめすのではなく、ゆっくりと時間をかけて話し合うべきであった。臆病者を自認する啓子には、それが良く理解できる。
 新しい思想や文化を受け入れるのには、勇気がいるものだ。性格の大人しい人間は、いつも未知のものに不安や恐怖を抱く。結局、自分と母親は似たもの同士に過ぎない。遅れて生を受けた分、また山下に触れた分、啓子の方がほんの少し柔軟なだけなのだ。より長くその生き方に親しんできた可奈子は、別の生き方をなかなか認めることができないのだろう。受け入れたら受け入れたで、自分の過去を否定されるような思いを味合わされるのかもしれない。
 帰ったら謝ろう、と思った。生意気なことを言い過ぎた。言っても仕方のないことを口にして、わざと母親を傷つけた。自分の考え方そのものは、今でも間違っていないと思う。しかし、それの表現の仕方には誤りがあったのだ。
 山下隼人とのやり取りのなかにもヒントはあった。彼は自分と違う考え方をする警察に理解を示した。彼らの面子を考えた。あれこそが自分の理想とする大人のやり方なのだろう。
 啓子は自分の出した結論に満足した。生き方の手本を示してくれる人間が身近にいるのは、大変に恵まれたことだと思う。落ち込んでいた気分が少し晴れたような気がした。
 玄関で靴を履き、行ってきますともう一度繰り返してから家を出た。お気に入りのポーチを肩からぶらさげて、春の日差しの中を歩く。空は青く澄み渡っており、気候は穏やかだった。風が少し強い。この陽気が続くなら、もう一週間も待てば白丘市でも桜の開花が確認され始めるに違いなかった。岩手が花見盛りを迎えるのは例年四月下旬と決まっている。
 待ち合わせの場所にはすぐに着いた。数分待つと、どこかで自動車のエンジンが唸り始めた。音で山下家の車だと分かる。すぐに見慣れた乗用車が近付いてきた。いつ見ても、啓子にはそれが獰猛な顔つきをしているように見える。肉厚で骨太。車高が少し高く、銀色を混ぜたような濃紺のメタリックボディが特徴だった。車の大きさを示す言葉はミニ、普通車、ワゴンの三種くらいしか知らないが、山下家のそれは普通車とワゴンの中間に位置するような気がする。車名やメーカーはまったく知らない。知る意味もないだろう。
 車は公園の入り口に付けて停められた。運転席のドアが開き、山下隼人の長身が降り立つ。彼は車の前を回って啓子の側に歩み寄った。
「お待たせして申し訳ない。良かったらすぐに行きましょう」
 啓子が頷くのを確認すると、山下氏は助手席のドアを開けてくれた。一部の男性が、女性に対する礼儀として同じことをするのは知っていた。が、実際に受けたのは初めてである。ほとんど海外でしか通用しない文化だと思っていた。
 助手席は広かった。渡瀬家の普通車とは、窓越しに見える景色がかなり違う。何か、車とは別の物に乗り込んだような感じがした。
「あの、おばさんは?」
 後部座席に眼をやってから、運転席の山下に訊いた。彼は電話で、妻と一緒に行くと言っていたはずだ。あるべき細君の姿がない。
 隼人は左手で座席横のレバーを下ろした。同じ手でギアを弄り、アクセルを踏む。車が動き出した。
「妻は土壇場でキャンセルしたよ。今回は私と君だけで行く」
 理由を聞いていいものか迷った。家庭の問題でもある。話しにくいことかもしれない。何も言えずにいるうち、山下が自ら口を開いた。
「病院で実際に息子の顔を見ると、現実感がでるのだろう。今回の事件が現実の出来事だと認めざるを得ない。彼女はそれを恐れているんです」
 だが、芯の強い人間ではあるのだ、と弁解するように彼は続けた。
「私たちは一人目の子供を産後すぐに亡くしてね。それでも二人目が欲しいと言い出したのは彼女だった。私はもう子供は諦めようと思っていたんだが」
 彼はそこまで言ってから、思い出したように啓子の方を窺った。剛が次男であったことは知っていたか、と問うてくる。いつか、その次男本人から聞かされたことがある、と啓子は答えた。
「芯は私などよりずっと強いのだ。妻は。ただ、それを発揮するまで時間がかかる。小さなことで人より多く悩んで、遠回りをする」
「私も一緒です。いっつも、くだらないことで悩んで。みんながすぐ決めちゃえることでも、時間をかけないと決められないし」
 啓子は急いで言葉を継ぎ足した。
「でも、私は小母さんみたいにしっかりしてもないから。結局、一番情けないタイプなんです」
 隼人は小さく微笑むだけで何も言わなかった。自らを卑下する啓子の言葉を、やんわりと否定するような沈黙だった。そんなことはない、自分を必要以上に貶める必要などない。そんな風に言ってくれているように思えるのは、少し自惚れが過ぎるからだろうか。
 さり気ない気配りや時折みせる笑顔。隼人は普段となんら変わらないように見えた。少なくとも丸一晩をかけた大手術を受け、それでも意識の戻らない息子を持つ父親には見えない。だが、その息子の話題を、彼は可能な限り避けようとしている。それが自らの心痛ゆえなのか、それとも啓子を慮ってのものなのかは分からなかった。

 慣れない助手席のクッションに身体が慣れ始めたころ、車は病院の正面ゲートを潜って敷地内に入った。二〇分かからなかったはずである。山下隼人は、迷うことなく院内の有料駐車場に車を向かわせた。速やかに空きスペースを見つけると、手際よく後ろ向きに駐車する。車体は白線の内側に、一度のアプローチでピタリと納まった。真に熟練した者は、何気ない動作しか見せない。
 キィを抜いた山下は、啓子にお疲れさまと一声かけ、先に降車した。礼を言ってから彼に倣う。今度は自分でドアを開閉した。
 外気に触れた途端、自分が何をしに病院を訪れたかを思い出した。唇を真一文字に結んで、肩にかけたポーチの紐を握り締める。隼人が無言で歩き出した。啓子の数歩先に立ち、敷地の奥へ迷わず向かっていく。どこに行くべきか良く知っている者の足取りだった。
 天気が良いせいか、各病棟を繋ぐ中庭には人の姿が多かった。芝は日の光を照り返し、緑というよりは白くきらめいている。医学部の学生だろうか、輪を作った数人の若者がバレーボールに興じていた。割合としては入院患者も多いのだろう。夜着姿の者が幾人か見えた。何かの間違いで山下剛の姿もあれば、と一瞬考える。だが、真剣に探す気にはなれなかった。都合の良い幻想に逃げるのではなく、ここには現実を受け入れにきたのだ。
 隼人との間にも会話がなくなった。啓子は彼の背に続いて、どこに続くともしれない勝手口のようなドアを潜った。肌色と朱色を混ぜたような、筆舌しがたい壁色の病棟であった。外から見た限りでは地上何階建てなのか見当もつかない。屋上から飛び降りれば、どんな奇跡でもその人間の命を救うことはできまい――。確実なのは、そういうレヴェルの高さである、ということだけだった。
 二人してエレヴェータに乗り込むと、隼人は八階のボタンを押した。音も振動もほとんど生じさせず、箱は緩やかに動き出す。患者をベッドに横たえさせたまま乗せられるほど、広いエレヴェータであった。それでも、どこか息苦しさを感じずにはいられない。動悸がする。身体は山下に会いたがっていないのだった。そのときに精神が受ける衝撃を既に承知しているのだろう。
 気付くとエレヴェータの上昇は止まっていた。ドアが開く。今度も隼人が先に箱から出た。後に続かなければならないことは分かっていた。しかし、何故か足が動こうとしなかった。一歩を踏み出せない。ドアが閉まりかけたとき、ようやく硬直がとけた。狭まっていく扉の間に身体を滑り込ませるようにして外に出る。
 隼人の長身を探すと、彼は真っ直ぐナースステーションに向かっていた。さすが大学病院といったところか、近代的で開放感のある空間が演出されていた。どっしりとした立派なカウンター越しには、白衣をまとった数人の女性と何台もの電子端末が見える。奥の壁にはキャビネットのようなものがずらりと並んでいた。近くの壁に表示されたフロア案内によると、関係者の詰所であると同時に、この階の事務を総括する総合インフォメーションでもあるらしい。カウンターの前は開かれた小さな広間になっていて、幾つかのソファと鉢植えの観葉植物がきちんと整列していた。患者らしい人の姿が何人か見られる。彼らのちょっとした憩いの場としても機能しているのかもしれない。
 山下は受付のすぐ手前で振り返り、追いついて来た啓子に少し待つよう告げた。頷き返すと、彼は受付カウンターに座る看護婦に歩み寄って何か話しかけた。診察券と思われるカードを手渡しているのが窺える。身内の者であることを証明しないと、簡単には会わせてもらえないのだろう。基本的に面会謝絶、身の安全を守るために一時は警官が護衛についていたのだ。無理もなかった。
「――そごのあんね」
 最初、それが自分に向けられたものだとは思わなかった。極めて強い岩手なまりの声である。白丘市は外部からの移住者によって切り開かれた新興住宅街であるため、純粋な岩手言葉を話す者は珍しい。少なくとも啓子の知り合いには、一人もいなかった。
 そごのあんね。あんねは「姉」が変じたものだが、転じて若い娘という意味でも用いられることがある。声は啓子の背後で、そごのあんねと何度か繰り返した。もしや、と思って振り返る。
 女性が立っていた。身長は啓子とほとんど変わるまいが、肉付きを見る限り体重は一〇キロ以上重そうだった。高齢者と呼んでいい年齢だろう。僅かに腰が曲がっている。露出している肌のあらゆる部分は皺と染みに覆われていた。死人のように青白く、所々に黒い静脈が浮きでている。
「あんだ、渡瀬啓子さん」
 眼が合った瞬間、彼女は口ごもるように言った。北国特有の、あまり口を開かない喋り方だ。
 老婆は啓子が答える前に、手にしていた白い封筒を突き出した。身体が勝手に反応し、気付くとそれを受け取っていた。何の変哲もない、無地の白い封筒である。一瞥してすぐに老婆に眼を戻したが、宛名に渡瀬啓子様とあったのは確認できた。
「あの、これ――?」
 その質問を予測していたに違いない。老婆は「あんこ」という言葉を使って、啓子くらいの若い男に頼まれたと告げた。その青年は啓子の身体的特徴を伝え、いずれここに来るであろうから、と老婆に手紙を託したという。
 彼女は言いたいことだけ言うと、さっさと踵を返して去っていった。年齢もあるせいか、どことなくぎこちない歩き方であった。引き止めて詳しい話を聞こうとも思ったが、何と声をかけて良いのか分からない。礼を言うのも忘れ、結局は無言のまま後ろ姿を見送る。
 受付の方に振り向くと、山下隼人はまだナースステーションで面会手続き行っていた。啓子が老人と接触したことに気付いた様子はない。ペンを取り、書類になにか記入しているようであった。受付の看護婦がそれを静かに見守っている。
 啓子は渡された封筒に視線を落とした。ミミズの這ったような、お世辞にも美しいとはいえない字で啓子の名が綴られている。アルコール中毒の人間が、手を震わせながら書いたようにも見えた。
 筆跡に見覚えはない。だが、手紙を預けた同年代の青年には心当たりがあった。まず、秋山陽祐と考えて間違いないだろう。それ以外に心当たりは全くない。
 思えば彼は、例の通り魔の一件以来、山下のことを頓に気にかけてくれていた。その山下が重傷を負ったと聞けば、見舞に来ようともするはずだ。ところが面会謝絶で目的は果たせず。門前払いをくった秋山は、仕方なく一筆認めて啓子に渡すよう適当な人間に預けた。――全く考えられない線ではない。
 物を届けるなら、看護師など病院関係者に仲介を頼んだ方が確実かもしれない。しかし、当局が山下周辺の警戒を強めている事情などを考慮すれば、啓子に渡るまでに内容をチェックされる心配も出てくる。頭の良さそうな男だ。その程度は計算してくるだろう。
 啓子は受付前のソファに腰かけ、封筒を開けた。糊付けのような封はされておらず、中には四つ折にされた一枚の便箋が収まっている。折り目を伸ばした瞬間、啓子は自分の推測に裏づけを得た。
 山下に関連する重要な用件あり。一六日土曜日、一四時、当院第二入院病棟地上一五階、第二会議室で会いたい。なお、本件については他言無用。当日まで事前の接触は控えられたい。
 要約すれば、そのような内容の文章が手書きで簡潔に記されていた。末筆には署名がある。崩れかけた文字は、秋山陽祐と読めた。
「お待たせ。今から会えるようだよ」
 頭上から降ってきた言葉に、啓子は驚いて顔を上げた。いつの間にか戻ってきていた山下隼人が、懐にカードをしまいながら眼を細めている。
「啓子さん、大丈夫かな。少し顔色が良くないように見える」
「大丈夫です」手紙を折りたたみながら答えた。
「無理に会わなくても良いんだよ。ここで待っていても良い」
 啓子はもう一度、大丈夫だと繰り返した。
「――そう。なら行こうか。スタッフの方が案内してくれる」
 その言葉に応じるように、ナースステーションから年配の看護婦が出てきた。手に銀色の大きな鍵を持っている。啓子と眼が合うと、彼女は小さく頭を下げた。反射的に会釈を返す。
 こちらです、という彼女に従って、啓子は再びリノリウムの長い廊下を歩きだした。



    3

 座ってから、井上友子は、それが以前に利用したベンチであることに気付いた。無意識に知っている場所を選んだのだろう。背が足りずに自動販売機のボタンを押せずにいる娘と、その母親に出会ったときの椅子だった。同じ場所に座り、あのときは三人で中庭の景色を眺めた。
 あんな娘が欲しかった。また、そう思った。諸岡梓。名刺をあげると、とても喜んでくれた。天使のように愛らしく、素直な少女だった。リンゴのジュースを宝物のように抱きしめていた姿は、いま思い出しても微笑ましい。
「どうしたの。思い出し笑い?」
 涼やかな少年の声が聞こえた。面を上げると、大作が緑茶のペットボトルを差し出しながら薄っすらと微笑んでいる。
「母さん、こんなところにいたんだ。ちょっと探したよ」
「そうね、分かりにくかったね。ごめんなさい」
 謝罪すると、友子はお茶のボトルを受け取り小さく礼を言った。
 大作は静かに頷き、友子の横に腰を落とす。左手にぶら下げていたディスカウント・ストアの大きなビニール袋を傍らに置いた。彼があまり行かない店のものだった。
「これ、頼まれてたやつ。予算より安く集まったから、ちょっと余計に買っといたよ。生理用品なんて、あまりちょくちょくは買いにくいしね」
「ごめん。恥ずかしかったでしょ」友子は素直に頭を下げた。「病院の中にもコンビにはあるんだけどね。覗いてみたら、値段がみんな高いのよ。――あ、このお茶のお金、払わないとね」
「いいよ、そんなの。俺のおごり」
 父親を失ったとき、大作は幾らかの現金を遺産として受け継いだ。そのうち五〇万円を郵便局の口座に移し、残りは二つの銀行に預けている。いずれの通帳も現在は友子が管理しているが、郵貯の五〇万は自由に引き出して使えるよう、キャッシュカードを本人に渡していた。だからか、友子が申し出ても大作は小遣いを受け取ろうとしないのだった。部活動に必要な費用も、自分の口座から全額出している。携帯電話の使用料もそうだ。彼が遊び目的に使った最高金額は一〇万円。高校の入学祝にパソコンを買ったときの話である。友子は、親が全額出さないと入学祝いにならないと主張したが、彼はそれを認めなかった。いまでも郵便局の口座には、当初の半分近い金が残っている。
「本当に悪かったね、大作」
「なにが?」彼は自分のために買ってきたスポーツドリンクの封を切りながら、怪訝そうに小さく首を傾けた。
「なにって……色々。何も話さなかったし。結果的には余計に迷惑かけるようなことになったじゃない」
「ほんとに驚いたよ」
 大作は手を止め、正面を向いたまま芝の中庭にぼんやりとした視線を向けた。昼食後しばらく経ち、そろそろお茶のために小休止でも――といった時間帯だ。天気が良いこともあって、広場は多くの人でにぎわっている。レジャーシートを敷いて日光浴する入院患者らしき人影もあった。どこかに諸岡梓の姿もあるかもしれない。
「なんか、もう滅茶苦茶って感じ」
 苦笑いを浮かべながら、大作は小さく肩をすぼめた。
「色々ありすぎて、ちょっとワケが分からなくなってきたよ」
「学校は、どうしたの。午前で終わったって言ってたけど」
 携帯電話に大作からの連絡が入ったのは、間もなく昼になろうかという頃だった。学校が早く終わるから、会って話がしたいと伝えてきたのである。昨夜のこともあり、応じないわけにはいかなかった。せめて同室の患者たちに迷惑がかからぬよう、という配慮のもとでこの場を指定したのは友子だ。
「山下君、知ってるよね。空手部の」しばらくして大作は言った。
「あの一番強い子でしょ? ちょっと怖い感じの」
 息子の晴れ舞台だ。大きな試合には、友子もなるべく観戦に行くようにしている。おかげで空手の基本ルールも覚えたし、部内外を問わず有力選手の顔と名前くらいは把握できるまでになっていた。
 中でも山下剛は別格の存在である。地方クラスを超え、全国でも三指に入る選手として良く知られた子だ。競技人気がもたらす差があるため、高校野球のスター等には流石に及ばない部分もある。それでも彼の活躍は、新聞に写真いりで載る。地元の英雄であることに違いはなかった。
「その山下君がね、ちょっと事故にあったんだ。で、学校が騒ぎになってね。勉強って雰囲気じゃないから、午前で解散になった」
「本当に――事故って、大丈夫なの? 怪我したの」
「なに言ってんの」大作は弱弱しく苦笑した。「母さんは人の心配できる立場じゃないだろ」
「それは、そうだけど。でも、気になるじゃない」
「結構、大きな怪我をしたみたいだよ。山下君」
 大作は顎を引き、手に持ったペットボトルを見詰めた。
 続く話によると、山下の事故はTVニュースや新聞でも取り上げられる大きな騒動になっているという。このTUTに入院しており、友子との待ち合わせ前に見舞に行ったが、面会謝絶ということで門前払いを受けたらしかった。
「――で、母さんの方はどんな具合なの」
 詳しく話してくれるんでしょ、と大作は友子を見詰める。
 そうせざるを得ないことは分かっていた。大作に入院のことを知られた時点で、当初の計画は御破算である。隠し事を続ければ問題は複雑化し、場合によっては深刻化することになるだろう。事情はきちんと打ち明けるべきだ。昨夜、病院で大作と出くわしたときに理解した結論である。
 だが、何から話して良いのか分からなかった。どんな言葉を使えば良いのかまるで思いつかない。思いつくはずがない。
 話したとして、大作はそれをどのように受け止めるだろう。何を思うだろう。悲しむだろうか。苦しむだろうか。強いショックを与えてしまうのは避けようがなかった。激情にかられ、友子を憎むかもしれない。怒り狂うかもしれない。それなら良い。だが、静かに虚ろな顔をされたら――自らの衝撃をおし隠し、微笑んでこちらを慰めようとしてくれたりしたら。自分がどう反応してしまうか予想もつかなかった。或いは、息子を支える母親という立場にありながら、彼に縋ってしまうのではあるまいか。
「俺って、意外と図太いタイプっていうかさ――」
 不意に沈黙を破った大作の言葉に、友子は思考を中断させた。いつの間にか伏せ気味にしていた顔を上げて、息子の横顔を窺う。
「よくマイペースって言われるじゃない。なんか大きなことがあっても、なんとなく流しちゃうっていうか。他の人みたいに、あんまり悩みこんだりしない性格でさ。色んな人に言われることだし、自分でもそういうところってあるのかな、って思ってた」
 でも、昨夜はさすがに、ちょっと眠れなかった。
 彼は自嘲的な微笑を友子に向けた。一緒に笑ってやってくれ。そう言っているような表情だった。
「昨日、入院して検査受けてるって言ってたよね。母さん」
「――そうね」
 昨夜、そのような言葉で大作を宥めすかし、後日きちんと説明するからと強引に帰宅させたのは他でもない友子本人であった。
 嘘を言ったわけではない。だが、真実を全て語ったとも決して言えないやり方だった。
 もちろん、入院の目的は検査ではなく、癌の根治である。とはいえ、まだ本格的な治療は始まっていないのだった。それを始める前により詳しい検査を行い、友子の体内に存在する癌細胞の性質をはっきりさせる必要があるからだ。そうした精密検査にはまだ二、三日必要だと聞いている。
「きのう会ったときも意外と元気そうだったし、今だってそんなに気分悪そうにも見えないよね。ちょっと病人ってイメージとは違うじゃない? だから、あまり大変な病気ってわけじゃないのかなって思いかけたんだけどね」
 大きな両手の中で、スポーツドリンクのペットボトルを弄びながら大作は呟いた。
「でもさ、大したことないんなら隠す必要なんてないんだよね。逆で、知らせると大騒ぎになるから母さんは俺に黙ってた」
 そうだよね、と大作が眼で問いかけてくる。だが、返事は必要なかった。彼は既に答えを知っている。
「母さん、なんて病気なの?」
「そう――ね。なんだか、少し難しい病名」
「医学の言葉ってややこしいからね」
「そう。だから、詳しいことは説明されても良く分からなかった」
 友子は静かに息を吐いた。声も音も漏らさず、紫煙を吹き出すようにゆっくりと深呼吸する。そのまま頭の中を空にして言った。「簡単に言うと、癌なんですって。ノドの」
 思っていた通り、沈黙が返った。ただ、思いのほか短かくはあった。やがて大作は、「そっか」と小さく呟いて、友子から視線を外した。少し垂れ気味の両目を、ゆっくりと正面に向け直す。それから手元のスポーツドリンクを一口含み、中庭の風景を黙して眺めだした。
 拍子抜けするほど平然としている。無理をしているのではない。それは確かだった。感情を押し殺しているのでもない。全く予想にない反応であった。
「あんまり驚いてないみたい」
 気付くと、友子は正直に思いを口から出していた。
「――そうだね。まったく驚いてないわけじゃないんだけど」
 大作が笑う。友子を一瞥し、また虚空に視線をさ迷わせる。その横顔は酷く大人びて見えた。老いと共に人の胸の中で色を濃くしていく黄昏。友子の中にもそろそろ広がりはじめた、どことない無常感。あり得ることではないが、彼もまたそれを感じはじめているかのようだった。
「でも、なんかさ。そんなんじゃないかって、なんとなく分かってたっていうかね。陽祐が越してきた日くらいから、疲れてるのかなって思いはしてた。忙しくて少し無理してるんだろうなって」
 友子は軽い驚愕を覚え、思わず眼を見開いた。同時に、大作ならそうかもしれない、と奇妙に納得する。昔から人の変調に良く気の付く、へんに聡いところのある子だった。こちらが賢明に隠そうとしてもあっさり演技を見破ってしまう。理屈を超えたところで、直感的に悟ってしまうのだろう。
「まったく。気を使いすぎる子ってのも大変よね」
 友子と同じような苦い笑みを浮かべ、大作は「ごめん」と謝った。
「それで、どうなの。治るのかな、母さんの病気」
「治すつもりではいるんだけどね。こればっかりは運次第」
 混乱した頭で言った。思考を挟まない、ほとんど無意識の受け答えだった。大作が全く想定外の反応を見せたことに、まだ頭と現実感がついてきていない。何もかも、想像さえしなかった方にばかり事態は発展していく。
 多分、それが一番、自然な推移であるに違いない。そう思った。癌になるということ、命をかけた闘病とは、本来そういうものなのだろう。意思の強さや努力とは無縁の世界で勝負は決まる。事態の悪化はむしろ当然の成り行きなのだった。時と共に道は狭まり、できることは少しずつ無くなっていく。最後には祈りしか残らない。
「なんか、大変なことになっちゃったね」
「そうね――。本当」息子の一言に、友子は時間をかけて頷いた。「知らないうちに、大変なことになっちゃった」
「これから、どうなっちゃうんだろ。なんで悪いことっていっぺんに起こるのかな。頭がぜんぜん駄目だ。家の中はこうだし、山下君のことで学校も滅茶苦茶だし。空手部もどうなるか。もう完全に受験って雰囲気じゃないし。これから俺、どうしたら良いのかな」
 困惑する自分を、端から見ているような表情で大作は言った。友子に問うているのではない。抱えるにしても大きすぎる荷を前に、ただ途方に暮れているだけだった。自分が喋っていることすら、彼は夢心地にしか認識していないのかもしれなかった。
「すぐにどうこうっていう問題でもないから」友子は言った。「良くても悪くても、結果が出るのは何年もあと。ひょっとすると一〇年、二〇年っていう話になるかもしれない。普通に暮らしてたって、その間に交通事故で死ぬことだってあり得るでしょ。病気の名前は大げさだけど、だからって大げさに構えなきゃいけないわけじゃないのよ。保険金が沢山おりるからお金の心配は全然ないし、病室にパソコンを持ち込んだから仕事も続けられる。家にいられる時間が減るだけ」
「そう、なのかな」
 大作は、困ったような疲れたような顔を友子に向けた。
「家のこと、ほとんど出来なくなっちゃうからアレだけどね。でも、週に一度は外出なり外泊許可もらって帰って、掃除とか色々メンテはするから。食事も作れたら作りたいしね。それでも大作には迷惑かけることになると思う。本当にすまないけど」
「それは全然いいんだよ。俺って家のこと、なにもやってなかったんだよね。だから、これからでも始めなきゃとは思ってた。ほんと、妙なくらいタイミング良いんだけど。本当にそう思ってたとこ」
 それから大作は、昨日の朝食を陽祐と二人で自作したことを話してくれた。台所を舞台に従兄の披露して見せた手際の良さは、大作を大変に感心させたらしい。あらゆる家事をこなせる陽祐の自立性と生活力の高さを、まるで自分の美点のように褒め称える。
「あの歳で完全に一人暮らしに対応してる。陽祐は凄いよ。なんでも凄い手馴れてるし、経験則で色んなことを分かっちゃうしさ。洗濯も何でも自分でできる。引っ越してきて一週間ちょっとなのに、俺よりスーパーに詳しいんだ。食料品はどこが安くて、雑貨はどっちが安いとか知ってる。面倒くさがるけど、やる気になればなんでも出来るんだよ。俺は食事のとき皿を並べるのが精々なのに」
「それは、家族の中での役割分担の違いじゃないかな。私は大作にあまり家事とかしてほしくないから、あえて独り占めしてたし」
「うん。まあ、似たようなことは陽祐も言ってた」
「それに、陽ちゃんは、ちょっとそういうのとは違うと思うな」
 言葉の意味をはかりかねたらしく、大作は怪訝そうな顔をした。
 以前から薄々感じていたことだが、陽祐はスタンドアローンを理想としている節がある。社会的ネットワークから切り離された、孤独な場所に自分を置きたがっているように見えるのだ。何故かは分からない。だが、自己完結性を高めようとしているのは、自立心の芽生えとはまた別の理由があるからなのだろう。
「あの子は、なん言うのかしらね。他人と関わりたくないから、一人で何でもできるようになりたいって思ってるんじゃないかな。友達とか大事な人とかを敢えて作りたがってないような気が、私はするけど」
「ああ――」大作は首肯した。「うん。そういうところ、あるかもしれない」
「で、陽ちゃんはどうしてる?」
「変わらないよ。陽祐はいつもしっかりしてる」言ったあと、大作は何かに気付いたように、すいと顔を上げた。「そういえば、どうするの。陽祐にも秘密なんだよね、入院のこと」
「そうね」その通りだった。大作が打ち明けていないのなら、陽祐はまだ友子が研修で東京にいると思っているはずである。その嘘はまだ有効だということだ。
 問題は、彼にどこまで事を伝えるかだった。何も知らず普段通りの生活を続けてもらうのが理想的ではある。しかし、大作にこうも早く事実が露見してしまったことを考えると、長期的な欺瞞は通用しそうにもない。そうした自信は今回の件で完全に失われていた。
 友子は諦め混じりに嘆息した。「しょうがないかもね。大作に嘘を吐いてもらうわけにもいかないし。タイミングを見計らって、つれてきてもらえる? 母さんから直接話すから」
 いいの、と大作は遠慮がちに友子の顔色を窺ってくる。
「隠しごとって、結構エネルギィ使うからね。正直、もうそんな余裕なくなってきちゃった」冗談めかして言うと、友子は微笑んでみせた。「ただ、やっぱり、英文兄さんには知らせないようにしてもらわないと。私が癌だって聞いたら、あの人、仕事辞めてでも絶対に日本に帰ってくるだろうから。それだけはさせられない」
「うん。まあ、究極的には俺と母さんの問題だしね」
 巻き込む人間は少ないほうが良い。大作は小さく首を縦に振った。
「じゃあ、陽祐の方は俺が上手くやっとく。――でも、その前にこっちからも条件があるよ」
 少し驚いて息子の顔を覗き込んだ。なにかを引き受けるときに交換条件を提示してくるなど、かつての大作にはなかったことだ。
「条件っていうか、お願いかな」
 慣れない言葉を使ったせいか、大作は短く刈り込んだ頭を掻きながら照れたように微笑む。だがそれも一瞬だった。すぐに表情を引き締め、続ける。
「俺、これから毎日ここに顔を出すつもりだから。部活の帰りにちょっと寄って、五分でも良いから母さんの様子を見て帰る。まず、これを受け入れてもらわないといけない。あと一番大事なのは、もう情報を伏せたりしないことだよ。やっぱり」
 最後の部分はいささか語気を鋭くし、念を押すような口調で発された。稀に見る真剣な眼差しを真っ直ぐに向けてくる。
「今後は、俺も医者から直接話を聞くようにするからね。ここに来る前、担当の先生に会ってちょっと話してきたから。江藤っていうわりと若い人だよね? あの先生に、ちゃんと学生証とか見せて、家族の者ですって言っといた。看護婦さんにも何人か、あと病室の人にも挨拶してきたから」
 ゆえに抵抗は無意味だ。そう牽制するような口ぶりだった。その相貌には、悪戯を成功させた子供のような、だが粗相をしでかした幼子を叱るような表情が浮かんでいる。
「やってくれるわ」思わず天を仰いだ。多少、恨めしげな声になったかもしれない。顎を上に向けたまま横目で大作を一瞥した。
「母さん、そんなに信用ないのね」
「信用されてると思ってるの?」大作は片眉をつり上げた。「まったく、会社の人まで使って裏工作してさ。この件に関しては、母さんからのアナウンスをそのまま受け入れる気、もうないよ」
「そのことは、本当にごめん。心配かけるの嫌だったから」
「分かってる。母さんがそうしたかったのも、何となく分かる」
 大作は手元のペットボトルを指でへこませ、別の方向から力を加えては元に戻す、といったことを無意識に繰り返していた。ボトルの形状が変わるたびに、空気が小さく爆ぜるような小気味の良い音が響く。
 会話が途切れた。当初、恐れていたような剣呑な雰囲気はない。しかし、居心地の良い沈黙でもなかった。
 現象ばかりが先行しすぎたせいで、恐らくお互いに何から話し合って良いのか分かっていないのだった。それが無言の時を生み出している。コミュニケーションをとる必要性については双方が理解しているものの、相手にかけるべき肝心の言葉そのものが見つからない。問題が命に関わる大病ともなると、人は後手に回ることを余儀なくされる。特に発症直後はその傾向が顕著なのだろう。だから今は、誰もが現実を受け入れるだけで精一杯なのだ。特に大作はまだ若い。落ち着いて状況を認識し、冷静に今後についての話をするためにはまだ時間がいる。
「本当、大変なことになったなあ」
 自分の直面した問題に現実感が伴わない。そんな人間が見せる特有の表情で大作は呟いた。こんなことって本当にあるんだね、と他人事のように続ける。気持ちは良く理解できた。初めて医者から病名を聞かされたとき、入院が必要だと事務所に報告したとき、友子も同じような顔と喋り方をしていたに違いない。四〇は己の限界と衰えとを認識し始めるに充分な年齢だが、死を意識するにはまだ若すぎる。
「そう言えば――」
 不意に、昨夜から胸の中にあった疑問を思い出した。何ごとか、というように大作が首を回して友子を見る。
「どうして、私がここにいるって分かったの?」
 大作の言うとおり、ちょっとした予備工作までして研修や出張の存在が現実的に見えるよう演出したのだ。長期的には無理だったかもしれないが、三ヶ月程度なら騙し通す自信もあった。何故、それがいとも簡単に破れたのか。
「ああ。それ、俺も不思議だったんだよね」大作は訝しげに眉をひそめる。「竹之下っていう病院の人から電話があってさ。それで母さんが入院してるって聞いたんだけど、ここに来て確認してみたらそんな名前のスタッフいないって。電話も事務上の問題が出てこない限り滅多なことじゃしないって言ってたし」
 それから彼は、竹之下という名前に心当たりがないか問うてきた。
「空手部の部長って、竹之下君っていうんじゃなかった?」
「そうだけど、その電話の人は女の声だったよ。ちょっと歳取った感じで、竹之下君とは全然違った。大体、部長がなんでそんな電話かけてくるのさ」
「それもそうか」
 奇妙な話だった。友子の病名と入院の事実を知っているのは、事務所の人間か病院関係者に限られる。誰がリークしたにしても、経路は二つに限定されるわけだ。しかし、彼らのいずれにもそうするメリットがほとんど無い。お節介な看護婦が偽名を使って大作に知らせたと考えることもできるが、高校生の少年に母親の病名を教えてどうなるというのか。
「誰だったんだろうね、その人」
 特に返答を求めた言葉ではなかったが、大作は大げさに反応した。曲げていた背筋を伸ばし、何かを思い出したように「あっ」と小さな声をあげる。
 どうしたのと尋ねる前に、大作はベンチから腰を浮かせた。広場を挟んで群立する、病棟や研究施設の方に眼をやっている。その視線の先を辿ると、どこかで見たような男女の二人組が遠くに見えた。友子の視力では、顔をはっきりと判別することはできない。ただ彼らの間に、子供と大人のような身長差があることは分かった。よく観察すると、男の背丈が標準より随分と高いためにそう映るらしい。
「渡瀬さん?」大作は自分に問いかけるように言った後、二度目は声を張り上げて同じ名前を繰り返した。その呼びかけに応じ、女性の方が俯き加減だった面をあげる。すぐに大作に気付いた。二人連れは立ち止まり、一度顔を見合わせてから再び歩き出した。こちらに近付いてくる。
「誰、もしかして彼女?」
「山下君のね」大作は友子の方に首を捻り、眼を細めた。「渡瀬さんっていって、俺のクラスメイト」
 山下の名が出たことで、男の方の心当たりを思い出した。見覚えがあると思ったのは気のせいではない。もう一度、彼に眼をやった。遠目にも、長身と鍛えられた骨太の体躯が目立つ。山下剛の父親だと確信した。大作の応援に行った際、空手大会の試合会場で何度か会ったことがある。顔を会わせれば挨拶する程度の関係にはなっていた。
 二人は、顔を視認できる距離まで来ていた。山下が友子の姿を認め、静かに会釈してくる。立ち上がってそれに応じた。
 彼とは対照的に、隣に寄り添うように立つ少女は、何か打ちひしがれたように頭を垂れていた。恐らく、友子の姿に気付いてさえいないのだろう。当たり前の反応だった。ようやく分かりかけてきたことだが、ここは自分のことで精一杯という人間こそが集まる場所なのだ。
 大作は山下の父親に一言挨拶すると、娘の方に駆け寄った。彼女が唇を動かして何か言う。友子の眼に、井上君――と結ばれたように見えたが定かではない。
「渡瀬さん、もしかして山下君のお見舞?」
 大作の言葉に、少し遅れて彼女は頷いた。明らかに平時の精神状態ではなさそうだった。大作は病院側に面会を断られたらしいが、患者の父親に同伴した彼女なら、山下剛の顔くらいは見られたのかもしれない。恐らく、重傷を負った恋人の姿を目の当たりにして衝撃を受けたのだろう。表に出にくい時期の癌とは異なり、外傷は端から見るだけでその深刻さの度合いを測れる。
「もしかして、山下君に会えた?」
 大作が遠慮がちに問いかけるのを、友子はどこか遠く眺めていた。
 知らぬ間に、無数に存在する可能世界のどれかに迷い込んでしまったのではあるまいか。そんな気がしていた。眼の前の光景は現実か。あそこで女の子と喋っているのは本当に自分の息子で、ここは現実に病院の中庭なのだろうか。
 酔ったように、気分が浮ついている。地に足が着いていない。
 知り合いが事故にあって新聞に載るのも、癌で死ぬかもしれないと医者に宣告されることも、現実に起こり得る出来事ではあった。ただ、そう認める一方で、友子はある信仰を捨てきれずにいたのだった。非日常的な事件は他人が巻き込まれるものであり、自分の身辺で真には発生し得ない――という、根拠にかけた確信がそうだ。
 可能性としては充分にあり得たかもしれないが、結果的には現実に否定され、消えていった「もしも」の世界。それを可能世界だとするならば、自分は何かの間違いでそこに放り出されてしまったのではないか。およそ荒唐無稽な話ではあったが、現実からリアリティが失われた今となっては、何を信じていいのか分からなくなる。
 その時、「母さん」と呼ばれた気がして友子は我に返った。何度か瞬きすると、焦点の曖昧になっていた視界が晴れる。周囲の情景が途端にクリアになった。
「大丈夫?」
 すぐ傍に、友子の顔を覗き込むようにして大作が立っていた。
「もしかして、具合悪い?」
「大丈夫」友子は急いで答えた。「何の話だっけ」
「いや。俺、そろそろ帰ろうかなって。母さんも戻って休んだ方が良いんじゃない」
「ああ、そう。――そうね」
「本当に大丈夫かな」疑わしそうに呟き、大作はベンチに置きっ放しにしてあるビニール袋に視線を投げた。「荷物、運ぶの手伝おうか?」
「良いの。貴方は帰りなさい」
 力を込め、言下に告げた。職場の雰囲気を思い出す。雑然とした雰囲気に威力を減退させられないよう、スタッフへの指示は芯のある強めの声で飛ばさねばならない。
「ちょっと出来物があるってだけで、あとは普通なんだから。病人扱いされると、本当に悪くなった気がするわよ」
「そっか。じゃあ、今日はほんとに帰るね。明日、また来るから」
「別に毎日来なくたっていいよ。恥ずかしいし、何が変わるってわけでもないし」
 大作は笑顔だけ返して、身体を反転させた。会釈をよこして踵を返した山下たちに並び寄る。方向から察するに、三人は院内の有料駐車場に向かっているようだった。車で来た山下が、子供たちを送ることになったのだろう。
 大作がまた振り返り、小さく手を上げた。腕を振って返す。
 ――いずれにせよ、彼らは正面ゲートを潜って塀の向こう側に消えていくことになる。今は開け放たれている黒く重たそうな鉄門も、定時になれば詰所の守衛たちの手によって閉められるに違いない。それで病院の敷地と外界との繋がりは完全に断たれる。日常と非日常の境界だ。
 物理的な意味合いで、あの門を潜るのは容易いだろう。山下たちのように車に乗る必要すらなく、徒歩で充分に、しかも短時間のうちになせることであった。それにも関わらず、友子はめまいにも似た感覚に襲われた。それは、気の遠くなるような絶望的観測から来たものか。或いは悪性腫瘍がもたらした本物のそれなのか。どうしても分からなかった。



    4

 なに惚けてんの、という声が聞こえてきた瞬間、持田明子の両頬は真横に引っ張られた。驚いて我に返ると、眼の前に母親の顔がある。吐息が感じられるほど距離が近い。明子は慌てて一歩引き、彼女の拘束から逃れた。
「いつまでやってるのかね、この子は」
 母――理子は伸ばしていた手を腰にあて、呆れ顔で嘆息する。
「あんた、さっきから同じ場所ばっかり拭いてるよ」
 言われて食卓に眼を落とすと、湿った布巾の上に右手が置かれていた。今までこれを、無意識のまま機械的に動かしていたらしい。指摘された通り、同じ箇所を何度も往復させた痕跡があった。
「あ、ごめん」反射的に謝った。
「しっかりしてよ、若いもんがボーっとして」
「でもさあ、しかたないじゃん」つい、責任を求めるような目つきで理子を睨んでしまう。「クラスの人が殺されかけたんだよ? むしろ、お母さんが能天気過ぎるんだよ」 
「もう昨日の話じゃないの。大体、あの子の怪我なら大丈夫だよ」
 理子は全く意に介さず、アカシックレコードを覗き読んだ人間のようにきっぱりと断言した。この話題はこれで完結だ、と言わんばかりに背を向けてキッチンの奥に消えていく。明子は布巾を手に、慌ててその後に続いた。
「山下君だっけかね。あの子も若いんだから。背中刺されたくらいなら、すぐに元気になるよ」
 煮込んだシチューをかき混ぜながら、理子は言った。夕食の準備はほぼ完了している。彼女は食器に各自の分を注ぎ分けはじめた。
「また、お母さんの <若いんだから理論> が出たよ」
 今度は明子が嘆息する番だった。どうも理子という人間は、若さに不可能はないと本気で考えている節がある。場合によっては、若くさえあれば死体さえ蘇ると主張しかねない。自身が大変に奔放な人間で、思春期や青年期のうちにあらゆる無茶をし、あらゆる笑い方をしてきた実績があるからだろう。だが明子に言わせれば、彼女は特殊な人間なのだった。誰もが持田理子のように、生まれながらに人生の楽しみ方を心得ているわけではない。生きているだけで丸儲けと、何事も能天気に笑い飛ばせる陽気さを備えているわけではない。
「あんたはねえ、人体の神秘を甘く見てるよ。明子」
 陶器のスープカップにシチューを入れると、理子はそのままそれを娘によこした。
「人間は意外と頑丈にできてるんだよ。背中なんか見てごらん、硬くて分厚い筋肉があるでしょう。ナイフが刺さったって、ここが受け止めてくれるんだから。しかも、山下君って子は柔道で鍛えてるって、全国的にも有名だったらしいじゃない。問題ないよ」
「空手だよ、山下君がやってるのは」明子は言いながら三人分のシチューを盆に載せ、食卓に運んだ。「それに重傷なんだよ?」
 理子は、鳴神《なるがみ》の祖父を思い出せ、と鼻で笑った。一関市鳴神に住む明子の祖父は、六〇のころアパートの四階から転落するという事故を起こした。それから二日間生死の境をさ迷い、生還し、九〇になる今も健在である。持田一族が誇る強運の持ち主だった。
「大体ね、病は気からっていうでしょうが。あんたみたいに外野がウジウジお通夜みたいな顔でいると、雰囲気悪くなって良くなるものも良くならないんだよ」理子が言った。
「そんなもんかなあ」
 懐疑的な言葉を発しながらも、明子は己の中の憂いが急速に晴れていくのを感じていた。山下のことはそこまで心配せずとも良いのではないか、という錯覚に襲われさえする。母と話していると、なにごとも取るに足りない些事であるかのように思えてくるのだ。
「そんなもんなんだよ。ベンチが絶望ムードで黙り込んでたら、選手も活躍できないでしょう。気分ってのは伝染するからね」
 実業団と一般参加者からなる女性綱引きチームに所属し、現役選手として活躍する理子は胸を張った。三年前に地区優勝を果たしたこともあり、彼女は自分の実績を大変に誇っている。
「でもなあ。背中を大怪我したなら選手生命にも関わるんだよ。全国でもトップクラスの人が、空手できなくなるかもしれない。家族の人だって心配してるだろうし、これから学校がどうなるのかも分からないし」
 明子は食器棚の引出しからスープ用のスプーンを三つ取り出した。トイレに行っている父親が揃えば、いつでも食事を始められるよう整える。
「それに陽ちゃんも、山下君のことはわりと気にかけててさ。帰ってきたとき電話かけたけど、やっぱりショック受けてた」
「陽ちゃんは、前から心配性なとこがある子だったからねえ」
 理子は炊飯器に向かい、杓文字で中身をかき混ぜ始めた。昔を懐かしむように、珍しく遠い声を出す。
 もともと理子は男の子が欲しかったらしい。相手が父子家庭で苦労しているということもあり、かつて静岡のマンションで隣室同士だったときは好んで陽祐の面倒を見ていた。当時、回数だけなら、陽祐は自宅より持田家で食事をとることの方が多かったのではあるまいか。
 明子は薄く微笑んでいる自分に気付いた。陽祐のことを考えていると、山下剛の身に起こった凄惨な事件のことを一時であれ忘れることができる。
「そう言えば、陽ちゃんは今頃なにしてんのかね?」白米を盛った茶碗を次々と娘に手渡しながら、理子は言った。「あの子、やっぱり一人でご飯食べてるんだろうか」
「そうだと思うよ。小父さん、シンガポールに単身赴任しちゃったみたいだから。お弁当も昨日は自分で作ってきてたし」
「子供が一人で食事するなんて良くないよ」母は大げさに顔をしかめた。「皆でご飯食べるのが楽しいことだって知らないで育つからね。あんた、陽ちゃんをうちに連れてくるって話はどうなってんの」
「それが陽ちゃんのやつ、なんか恥ずかしがってるみたいでさ」
「あんたと違って大人しくて繊細だからね。あの子は」
 そう言うと、それが何か面白いジョークでもあったかのように理子は声をあげて笑った。自分の言葉で大笑いできるのは彼女の特殊な才能である。大口を開けて腹を抱えながら、周囲の人々に品を欠いた女性であると認識されないのも同様に特別なことだろう。澄んだ、耳に心地よい声の持ち主であることが大いに幸いしている。
「あんたとは正反対の性格だったけど、昔から妙に気があってたねえ、そういえば。相性が良いんだろうね」
「そうなんだろうね」
 お茶の準備をしながら、明子は素直に頷く。価値観や思想が全く異にしながら、不思議と上手くいく人間関係もある。珍しいケースではあるが、古くから良く知られている事実でもあった。
「偶然で何年かぶりにまた会えたわけだし、あんたたちには何か繋がりがあるんだろうね。いいもんだよ、若いってのは」
 そう言うと、理子はニヤリと笑って続けた。
「――で、陽ちゃんとはもうしたの?」
「したって?」思わず小首をかしげる。
「だから、運命付けられた男女として、やることはやっちゃったのかいって訊いてるんだよ」
 すぐには意味が分からなかった。しばらく考えて、ようやく理子の言わんとしていることを理解する。標準的な母親なら、話題にすることをなるべく避けるようなことだ。それをこれほどまでストレートに突きつけられるとは思いもしていなかった。
「なに言ってんのよ」手にした急須を慌てて握り直す。何か言い足さなければと思うが、上手い言葉が出てこない。
「まったく、この母親は。とんでもないこと訊かないでよ」
 ようやくそれだけ言えた。
「何がとんでもないことよ。当たり前のことでしょうが。あたしがあんたくらいの時はね、そりゃあもう凄かったもんだよ」
 男は基本的に莫迦な生き物だ。故に、とにかく数を集め、その中から厳選しなければならない。彼女はいつもの持論を展開した。
「もう、お母さんと一緒にしないでよ」
 恐ろしい親だと痛感した。我が母ながら、何を考えているのか全く理解できない。理子の名が聞いて呆れる思いであった。頭の中身が、理詰めで考える父親に似たことを明子は改めて感謝する。
「大体、陽ちゃんはそういうのと違うし」
「じゃあ、どういうのよ」
「陽ちゃんとは気が合うけど、性別は関係ないよ。相手が男でも女でも、私がどっちでも、きっと変わんなかったと思う。方向性が同じって言うのかな。テニスの混合ダブルスのさ、パートナーみたいなもんだよ。友達というか仲間というか」
「小学生みたいなこと言ってんじゃないの。男と女は綺麗事じゃないんだよ」一笑のもとに切り捨てられた。
「あんた、もう一八でしょうが。昔だったら嫁に行って子供の一人も産んでる歳なんだって分かってるかね」
 大体、陽ちゃんじゃなかったら他に誰がいるの、と彼女の追及の手は緩まない。ちゃんと相手はいるの?
「私には、まだそんな相手いなくていいんです」
 叫ぶように返すと、母親は頬を打たれたように呆然とし、次いで天井を仰いだ。顔を戻すと、心底心配そうな眼を明子に向ける。
「あんた、そんなので大丈夫なのかねえ。いつまでもそうやって怖がってるとね、心が曲がっていくんだよ。異常犯罪者のほとんどは、異性とまともな付き合いができない人間なんだって知ってるの」
 どうせTVで聞き齧っただけの知識だろう、と反論しかけたときドアが外側から開いた。半時間以上も長々とトイレに篭っていた父、誠一郎がのっそりと姿を現す。彼はトイレの中に小さな書棚をつくり、自分の本を持ち込んでいた。その小さな空間に入り浸って活字を追うのが趣味で、没頭すると時に何時間も出てこないことがある。誰かと騒ぐより、一人でいたがる種の人間だった。
「ご飯、できた?」
 妻とは対照的な静かで落ち着いた口ぶりで、誠一郎は言った。
「ちょっとお父さん、このとんでもない母親をなんとかしてよ」
 明子がすがりつくと、彼は不思議そうな顔をした。が、場の雰囲気から大した問題ではないと判断したらしい。やんわりと娘を引き剥がすと、もう九時半だと呟き、食卓の所定の位置に就く。
 夕餉は家族全員で行う、というのが持田家のルールだった。具体的には二一時前後に帰宅する誠一郎を待つ。その後、彼がトイレで一服し終えてから皆で食卓を囲む。時には食事の開始が二二時を回ってから、ということもあったが、不思議と文句を言い出す者はいなかった。

 夕食が終わると、簡単に後片付けを手伝ってから二階の自室に戻るのが、明子のパターンだった。今日は誠一郎の帰りが早かったため、珍しく二三時を回っていない。
 部屋に入り次第、本来なら、真っ直ぐ学習机に向かって二時間ほど受験勉強に勤しむべきだった。それが日課でもある。しかし、今夜はそのような気になれなかった。参考書を広げても、集中できないことは分かっている。
 ベッドに寝転がりながら時計を見あげた。姪は小学三年生で成長を止めるものだ、と信じきっている母方の叔父が、高校の入学祝にプレゼントしてくれた幼稚な壁掛け時計だった。文字盤全体がリボンをした白猫の顔を模したものになっている。六時の位置には、数字ではなくピンク色の肉球が配置されていた。生意気にも電波を受信し、自動的に時刻を調整してくれる機能を有する。デザインはとかく、実用性が高いため今でも使用していた。
 二二時四〇分。標準的な高校生――とりわけ徹夜も珍しくない受験生にとっては、また宵の口といった感覚の時間帯だろう。
 立ち上がって机の上から携帯電話を取り、またベッドに戻った。少し迷いもしたが、結局、陽祐にかけてみることにする。山下の件ならば許されるだろう。約束もあった。
 彼の番号を呼び出した。コール音がなる。辛抱強く三〇秒間待ったが、応答はなかった。更に三〇秒間待ち、一度切ってからリダイヤルする。今度も繋がらなかった。
「何やってんだ、陽之助」
 呟きながら、電話を握ったままベッドで大の字になった。意図せず溜息が漏れる。山下があんなことになった以上、考えなければならないことが幾つもあった。
 陽祐が転校してきてからというもの、身辺で大きな事件が頻発するようになった気がする。偶然なのだろうが、そうとは信じられないようなことも起こり始めていた。
 眼を閉じ、明子は頭の中を整理しはじめた。PCのデフラグをイメージする。脳のあちこちに散らばり断片化された情報を、整頓してひとまとめにするのだ。冷静に、論理的に考えなければならない。でなければ、複雑な状況に対処できなくなってしまうだろう。
「――ほんと、いっつも厄介ごとばっか持ってくるんだから」
 ぼやいてみるが、自分が微笑みかけていることを明子は知っていた。友達が刑事事件に巻き込まれたというのに不謹慎だ、と己を叱る。だが気持ちは変わらなかった。そんなにまた会えたことが嬉しいの、と眼を閉じたまま胸に問いかけてみる。
 嬉しかった。彼は、むかし聞いた音楽のような存在だった。
 古い映画を通してだっただろうか。小学生のころ聴いて以来、記憶の片隅に残り続けた曲があった。一昨年の夏、明子はその調べとまた出会った。休日、家族揃っての外食に向かう車の中である。BGM代わりにつけられたラジオから、それは聴こえてきた。初めて曲名を知った。 <ワルツ・フォー・デビィ> 。ジャズのスタンダードナンバーとして知られる、半世紀も前に生まれた繊細なピアノ曲だった。
 いつも胸にあったわけではない。だがふとした弾みで思い出し、懐かしんできた。一〇年ぶりに聞いたそれは、やはり記憶にあった通りの綺麗で叙情的な曲であった。長年抱かれ続けてきたイメージとしての美化もあったはずだが、それに適応し、遜色をみせないほどの何かがあった。陽祐と共有した時間とにも通じる感覚である。
「そういえば、陽之助のやつ、今度は出るかな」
 目蓋を開くと、上体を起こして二つ折の携帯電話を開いた。液晶ディスプレイの表示時刻は、間もなく二三時になろうとしている。メモリの中から再び秋山陽祐の番号を呼び出した。呼び出し音が鳴り始め、しばらく待つ。座り方をあぐらに変えた。右手の人差し指で膝を忙しなく叩く。――出ない。たっぷり一分間頑張ったが、今度も一向に繋がらなかった。
「秋山アホ祐。うそつき」
 スピーカー部分に罵倒を浴びせると、急いで電子メールを打ち始めた。打ち込み速度には自信がある。ここのところ陽祐が悩まされていた意味不明な手紙より、もっと迫力のある呪詛の言葉を送ってやるつもりだった。美少女と電話の約束をしたのである。健康な男子なら、携帯電話片手に連絡のタイミングをはかっているくらいでなければならない。しかも彼は、無事を確認するため俺から連絡を入れる、と自発的に言い出したのだ。その上での契約不履行だ。乙女心を傷つけた罪は果てしなく重いはずだった。
 書面になっていないとはいえ、約束の重さは変わらない。裏切り者。人でなし。このメールを読み次第、可及的速やかに連絡すべし。――大体そのような内容の文章を入力し終えた。送信前に、念のため読み返して内容を確認する。
 そのとき、突如として部屋の照明が消えた。ロウソクの火が吹き消されたかのような、あっという間の出来事だった。慌てて部屋の中に視線を巡らせるが、光を放つものは、もはや手元にある携帯電話の液晶画面しかなかった。停電の目安にすることにしている、DVDコンポのデジタル表示も消えていた。
 窓際に寄って、ロールスクリーンの隙間から外の様子を窺った。隣家には明りが煌々と灯り、通りのアスファルトは街灯に照らし出されていた。周囲一帯が停電したのではない。
 ――今日は厄日だ。
 ぼやきながら暗闇の中を歩き、ドアを開けて廊下に出た。


    5

 最後の防犯ブザーを取り付け終わると、時刻は二三時近くになっていた。作業開始と同時にスイッチを入れたコンポは、既に沈黙してしまっている。総演奏時間七〇分強のCDをかけていたのだが、いつの間にか最後まで再生され終えていたようだった。
 陽祐は肩の凝りをほぐしながら、近くにあるティッシュペーパーを何枚か抜き取った。丸めて、額に薄っすら滲む汗を拭う。
 深く息を吐き出し、自室南側の出窓に眼をやった。隣家の二階――大作の部屋に明りが灯っているのが見える。一緒に食べた夕食の後片付けをとっくに終え、恐らく今は、生真面目に受験勉強でもしているのだろう。丸一日ぶりに顔をあわせた従弟には、特に変わった様子もなかった。早く寝ろよ、と唇だけ動かして囁きかける。それが届こうと届くまいと、彼が深夜まで勉学に励むであろうことは分かっていた。
 ふと、他人の世話を焼いている余裕などないことを思い出した。雨戸を閉め、窓の鍵をロックし、防犯ブザーのスイッチを入れた上でカーテンを閉めた。室内に視線を戻す。
 ホームセンターで手に入れた防犯探知ブザーは、ありがたいことに一個あたり四九八円と安価だった。自室の窓を中心に、これを家中の計九箇所に仕掛けた。何者かが無理に窓をこじ開けようと不自然な振動を生み出せば、たちまち八〇デシベルの警報が鳴る。
 玄関と勝手口のドアを除けば、外部からの侵入経路はベランダ等のガラス戸か窓に限定されてくる。これらさえしっかり抑えておけば、防犯効果はかなり高まるはずだ。帰宅後は速やかに全箇所の雨戸を閉めるようにもしたから、構えは万全に近い。少なくとも相手が素人なら、陽祐に気取られず屋内に忍び込むのはかなり難しくなったはずであった。
 それでも念には念を入れておくべきだろう。相手は常軌を逸した異常者なのだ。どうやってか陽祐の個人情報を得て、近いうちに姿を現すとまで宣言している。また本人の弁を信じるなら、この家に一度侵入を果たした実績もあるのだった。万一、二度目のそれを許したときのことも想定しておかなければならない。
 陽祐は考えた末、寝室のドアに鍵を取り付けることを決めていた。危急の際に篭城し、警察を呼ぶまで時間を稼げるような空間を確保しておきたい、という思惑からである。
 作業は簡単に済むはずだった。やはりホームセンターで買ってきた、取り付けの容易な鍵をドアの上部に仕掛けるだけだ。ドアと壁に金属製の筒を一つずつ設置し、それらの穴に同じ素材でできた短棒を通す、というシンプルな錠だった。
 用意しておいたプラスドライヴァーを取り、椅子を踏み台にして作業を開始した。木製のドアは思いのほか硬く、金属の筒を固定するネジを固定するのに手間取った。予想以上に、握力と持久力を求められる仕事である。ネジの個数は、鍵一つにつき半ダース。同じ錠を二つ並べて設置することにしていたため、計一二回も同じ作業を繰り返さねばならない。六個を留め終えた時点で、全てを放棄したくなった。
 電話の呼び出し音に作業を中断させられたときは、正直なところ救われたような気がした。欲求が生み出した幻聴ではなく、備え付けの固定電話が間違いなく鳴っている。ここのところ電話には良い思いをさせられていないが、単調な肉体労働のもたらす疲労はそれを半ば忘れさせてくれていた。喜んで工具を放り出し、子機を取り上げる。スピーカー部分を耳に当てるとき、持田明子かもしれない、と思いついた。彼女とは電話する約束をしていた。こちらが忘れていたので、痺れを切らしてかけてきたのだろう。
 淡い期待であった。受話器の向こうから放たれた相手の第一声を聞いた瞬間、陽祐は電話に出たことを心底、後悔した。
 作業は進んでいるか。嗄れた老婆の声は、確かにそう言った。
 相手が誰なのかは一瞬で分かった。その言葉が何を意味しているかも即座に理解する。その時には、もう昨夜と全く同じ反応が全身を襲っていた。死後硬直のように身体が固まり、正しい呼吸法を忘れる。心臓は狂ったように高鳴り、噴火のような勢いで血液を体内に撒き散らしはじめていた。
 一方で、昨夜とは明らかな違いもあった。自分なりに万全の体勢を整えた――という自負がもたらす、幾ばくかの精神的な余裕がそうだ。一言も発せなかった前回のようには終わらない。
「お前、何なんだ」
 凄みをきかせたつもりだったが、声が少し裏返った。
「つれないな」会話を楽しむような、軽い苦笑の声が返る。「他人のふりか? 知らない仲でもないだろう」
「知るかよ。お前なんざ知るか。誰なんだ、お前。言え、誰だ。何がしたいんだよ。何が目的なんだ」
 言葉を継ぐうち、感情が高ぶっていった。自分でも不思議なくらいの憤りが噴出してくる。気付くと陽祐は、激情に任せて怒鳴り声を上げていた。
「そんなに俺が怖いか。コソコソ隠れてねえで姿見せろや。何の恨みがあるか知らねえけど、サシで相手してやるよ。きっちりケリつけてやる。だからその面出せ。他人を巻き込むな」
 一気に捲くし立ててから、改めて考えた。――知らない仲でもない。その言葉は真実を告げているのだろうか。ふと、明子の言葉を思い出す。陽ちゃんのことをかなり深く研究してて、しかもあまり良い感情を持ってない人の仕業だよ。彼女はそんな風に指摘していたはずだ。あれは正しかったのか。
「良い子だな、持田明子は」
 その声で、陽祐の思考は途絶えた。はっと顔をあげる。
「短所も目立つが、美点も多い。なにより、何年も音信不通が続いたのに――しかも一〇代後半の微妙な時期にいきなり再会したのに、何のわだかまりもない笑顔を向けてくれた。お前はそう思ってる」
 問うような沈黙が投げかけられた。違うか? いや、違わないはずだ。無言ではあるものの、相手がそう言っているのが分かる。
「お前はこうも考えている。その点、明子は大作と同じだ。彼女があんな性格だからこそ、今でもこんな風に、信じられないほど自然に付き合っていられる。あいつのおかけだ。最近、そのことに随分と救われている。そう、思ってるはずだな?」
 鏡を覗きこまなくても、自分が驚愕に眼を見開いていることは分かった。表情は凍てつき、顔色は恐らく真っ青なのだろう。受話器越しにも、それが相手に伝わっているのは間違いなかった。含み笑いが如実に窺える口調で続けてくる。
「確かに彼女は、お前より現実的な仮説を立てるのが上手いな。とは言え、頭の回転の速いやつが常に正しい仮説に辿り着くとは限らない。現に今回は、お前の方が正しかった」
「どういう、意味だ」
 なんとかそれだけ喉から搾り出した。早め早めに言葉を返さなければ、麻痺していく思考と共に口を開くきっかけを逸してしまいそうだった。
「昨夜、言ったな。選択肢が出揃う。次は持田明子だよ」
 装置を仕掛ける場所が違ったな。喉を振るわせるような笑い声が聞こえてきた。整えようと必死だった呼吸が喉で詰まる。
「これから行く。しっかり守れ。大事なら」
 その言葉と共に、会話を終わらせようという気配が感じられた。
「待て、おい!」
 受話器へ齧り付くように叫び返す。しかし、返ってきたのは通話が切れたことを示す無機的な発信音だけだった。
 冷たい予感が背中を走り抜けた。氷水を浴びせられたように身体がぶるりと大きく震える。思考が一瞬止まった。
「冗談だろ……おい、冗談だろ」
 これから行く、と言っていた。次は明子だと言っていた。その意味は――。意味は、多分、分かりすぎるほど分かっている。
 認めたとき、襲ってきたのは気も狂いそうなほどの焦燥感だった。山下をやったのが電話の相手なら。そいつが次は明子だと言うのなら。相手がやろうとしていることは一つしかない。
 慌てて受話器を構えなおした。液晶ディスプレイを見詰め、親指をナンバーボタンにかける。だが、持田家の番号は知らなかった。明子の携帯電話のそれも暗誦できるほどではない。子機を文字通り放り捨て、携帯電話に飛びついた。握力を制御できない。関節が白く浮き出るほど力が篭り、アル中のように震えている。普段なら片手間に流せる操作を、何度も誤った。苦労しながら登録された番号を呼び出し、明子にかける。
 祈るように受話口分を耳に押し当てた。実際、祈っていた。出ろよ、出てくれ。繋がってくれ。ほとんど無意識のうちに呪文のごとく繰り返していた。
「――おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……」
 最後まで聞かず、通話を切る。
 次の瞬間には、部屋のドアへ向かってもう走り出していた。


    6

 持田明子は、こうした状況に慣れていた。そこが自宅の中でさえあるなら、暗がりは恐るるに足りない。多分、眼をつぶってでも歩けるだろう。
 自室から廊下に出ると、明子は壁に手を這わせて照明のスイッチを探った。勘が頼りだが、すぐに手ごたえを得た。こういうケースではいつも繰り返していることだ。
 持田家は滅多に停電を経験しないが、ブレーカーが飛ぶのはしょっちゅうだった。ハロゲンヒーターを複数同時に稼動させ、それから電子レンジのスイッチでも入れたら即座にアウトだ。
 このような場合、母親のくせに理子はまるで役に立たない。キャーキャー言って騒ぐのが精々で、父親はそのなだめ役に回る。自然、回路の復旧作業はいつも明子に任されるのだった。
 探り出したスイッチを何度か押し、明子は嘆息した。想像していた通り、照明器具からはくしゃみ程度の光さえ生まれてこない。やはりブレーカーが落ちたのだろう。面倒な話であった。回路を元に戻すのは簡単だが、初期化された電子機器の再設定や時計合わせには手間がかかる。誠一郎も手伝ってくれるだろうが、夜中にやりたい作業ではない。
 壁に手を添えながら慎重に足を進めた。周囲はかなり密度の濃い闇に包まれているが、一階に続く階段だけは例外的に明るかった。その光源に向かって歩く。
 光を放っているのは充電式の小型ライトであった。この家の階段には幾つかのコンセントがあり、そこには非常用の電灯が嵌め込まれている。これは充電型のバッテリィを搭載しており、差し込まれたコンセントから電気の供給が切れた際には、自動でスイッチが入る仕組みになっていた。今のような状況下では、大変に役立つ代物なのだった。
 階段に辿り着き、ほっと一息吐く。それが部分的に限定されたものであれ、やはり暗がりの中に見慣れた眺めを発見すると安心した。少し気を緩めながら、最初の一歩を踏み下ろす。その時、階下でガラスが割れるような音がした。心臓が跳ね上がる。動きを止め、しばらく深呼吸に努めた。口をつきかけた悪態をこらえるのには、多少の努力が必要だった。動きに落ち着きのない母親が、テーブルから湯飲みでも落としたのに違いない。
「おーい、どうなってんの。ブレーカー?」
 少し大きめの声でリヴィングに問いかける。耳を澄ますが、返答はなかった。代わりに、また何かの破壊音が聞こえてきた。今度のは湯飲みが割れた程度ではない。テーブルをひっくり返し、何セットもの食器を一度に叩き落としたような轟音だった。
「ねえ、どうしたの。大丈夫?」
 言った瞬間、辛みにも似た痛みが喉を走った。知らず知らず、声帯に負担をかけるような大声を出していたらしい。
 そんなに怖がることはないと言い聞かせ、足を速めて階段をおりきる。一階の廊下はやはり真っ暗で、無駄に長い通路の先は闇に溶け込んでなにも見えなかった。先ほどの破壊音を最後に、辺りは不自然なほど静まり返っている。自分の呼吸音さえ耳障りに思えてきそうだった。
 どうして母親の声が聞こえてこないか、幾ら考えても納得できるような理由が思い浮かばない。不測の事態に陥るたび、真っ先に大騒ぎをはじめるのが彼女の常なのである。騒ぎながら、だがどこかで小さな非日常を楽しんでいる。歳も考えず、ジェットコースターで大喜びするタイプだ。
 不意に、右手の中で何かが軋むような音を立てた。見ると、まだ携帯電話を握っていた。過剰な圧力を加えられ、プラスティック製のボディが悲鳴にも似た抗議の声をあげている。手の力を緩め、口内に溜まった唾液を飲み込んだ。慎重に歩を進める。とにかく、居間にいるはずの両親と合流したい。理子の沈黙の意図を知りたい。
 眼が暗がりに慣れたせいか、向かう先にぼんやりとドアが見え始めた。はめ込んであるガラスに携帯電話の発する蛍光が映りこむ。ドアの真正面まで近付いても、居間にいるはずの両親たちの声は聞こえてこなかった。やはり照明も消えている。電気の供給と共に、彼らの存在までもがこの家から消え去ってしまったかのような気さえした。耳が痛くなるような静寂。嫌な予感がする。
 逡巡してみたところで、選択の余地がないのは分かっていた。それでもドアノブに手を伸ばすのが躊躇われる。かつて扉一枚開くのにこれだけ勇気を試されたことはない。胸に手をやり、動悸を抑えようと試みた。呼吸を整え、意を決する。とってに手をかけた。瞬間、力を込める前にそれが勝手に回転しだした。皮膚を擦って回り切る。自分が目の当たりにしている現象が何を意味するかを悟りきる前に、向こう側から勢いよくドアが開かれた。驚愕のあまり身体が跳ね上がる。
 顔を上げると、眼の前で空気が揺れたのが分かった。人の気配。荒い息遣い。誰かが至近距離にいた。灰色の輪郭がぼやけて見える。明子が誰何の声をあげるより早く、闇の向こうから伸びてきた手に左右の側頭部を掴まれた。ほとんど同時に、生臭いものが口に押し付けられる。抵抗する間もなかった。右手から携帯電話が抜け落ち、床で硬い音を立てた。反射的に両手で相手を押し返すが、万力のような力で頭部をホールドされている。唇は塞がれたままだった。体中が酸欠に騒ぎ出す。
 もう一度、両手を渾身の力をもって突き出した。更にもう一度。鈍い手ごたえと共にようやく拘束が解け、明子は勢い余って後ろに体勢を崩した。廊下に尻餅をつくように倒れこむ。
 居間から出てきたのが何者なのかは分からない。だが、父親でも母親でもないことは確実だった。では何者なのか。なぜ、うちのリヴィングに他人がいるのか。両親はどうなったのか。自分をどうするつもりなのか。様々な可能性が脳内を弾丸のように飛び回り、兆弾して思考の混乱を深めていく。全身の産毛が逆立った。心臓が一拍するたび、体温が四〇度と三五度の間で急上下を繰り返しているような感覚に襲われた。
 危険を逸早く認識したのは、思考ではなく本能と肉体だった。逃げなければならない。この場を離れなければならない。気がつくと、ひっくり返った亀のように手足をばたつかせて後退しはじめていた。左足からスリッパが抜け飛んだ。掌が汗で滑る。思うように進まない。まったく距離を開けられない。焦りばかりが募る。
 ふと、頭上から忍ぶような笑い声が聞こえてきた。鼻から空気の抜ける微かな音に過ぎなかったが、それが嘲笑なのだと何故かはっきり分かった。身体が強張り、明子は無意識に動きを止めた。侵入者は、状況を楽しんでいる。相手の無様な狼狽ぶりを見て喜んでいる。
 その思惑を理解した瞬間、激しい憤りの念が俄かに沸き起こってきた。何の権利があって、他人の家の土足で踏み荒らしているのか。無法者の暴挙に、どうして自分がこれほど怯えなければならないのか。何もかもが理不尽に思える。――が、それでも恐怖の方が勝っていた。侵入者が自分の身体に覆いかぶさってくるのを察知し、明子は必死に手足の回転をあげた。と、振り回していた左手が何か硬いものに触れる。掴んだ瞬間、先ほど落とした携帯電話だということが分かった。侵入者の顔が近付いてくる。生暖かい吐息が首筋にかかる。捕まれば何をされるかは、何となく想像ができた。ただ女だからという理由で、このようなリスクを宿命的に背負わなければならないことが頭にくる。
 左手の電話を握り直し、タイミングをはかった。怒りに任せ、思い切り相手の横面に叩きつける。強い手ごたえが伝わり、衝撃で携帯電話が軋んだ。身体の上から相手の気配が消える。
 これが最初で最後の好機だと判断した。身体能力には自信がある。全身のバネを利用して、明子は素早く身体を回転させた。尻餅をついた状態から、陸上のクラウチングスタートに近い体勢までもっていく。この体さばきをイメージ通り完璧に遂行できたことで、明子は一気に冷静さを取り戻した。勝算が見え、思考が晴れる。フィジカル面はホットに、メンタル面はクールに。信条を思い出す。次の瞬間、スタートを切り階段に向かった。後ろは振り向かない。両手両足を総動員した、獣のような四足走法で一気に階段を駆け上っていく。途中、片方だけ残った右のスリッパを蹴り捨てた。二階に辿りつくまでの数秒間でプランを立てた。
 二階廊下に出ると、自室のドアは記憶どおり半開きになっていた。その隙間へ身体を投げ入れる前に、手前にあるトイレのドアを開いた。内側のノブについたキィロックのボタンを押し、廊下に残ったままドアを閉める。この音と施錠された状態から、相手はトイレに逃げ込んだと思うかもしれない。贅沢を言うならトイレ内の窓を開放し、外に逃げた可能性を匂わせる工作も行いたかった。が、時間がない。鍵の仕掛けだけでも、上手くいけば数分は時間を稼げるだろう。
 耳を澄ますと、階段を上ってくる何者かの足音が聞こえてきた。音の間隔から速度と二階到達までの予想時間を割り出しつつ、明子は今度こそ自分の部屋に滑り入った。音を立てないようにドアを閉め、内側から鍵を閉める。
 選択肢は二つあった。携帯電話で助けを求めるか、二階から飛び降りて外に逃走するかだ。後者はスリッパを脱いで素足になった今、落下の衝撃で脚を壊してしまう可能性が高い。動けなくなったところを追いつかれればアウトだ。そう考えた瞬間、左手は既に携帯電話を開いていた。指が勝手に動き、なぜか陽祐にリダイアルしてしまう。咄嗟に行われた、ほとんど無意識の動作だった。
 間違いに気付いて、警察にかけ直そうとした時には、既に電話は繋がっていた。先ほどまでは全く出る気配を見せなかったくせ、こういう時ばかり陽祐は素早く対応してくる。
「おい、明子。お前か? 大丈夫なのか。お前――」
「陽ちゃん」
 その声を聞いた瞬間、涙が出そうなほどの安堵が胸に広がった。じわりとほのかに温かい。が、それで状況が変わるわけではなかった。明子は声量を限界まで絞って、もう一度彼の名を繰り返した。出てきたのは、これまで聞いたこともないほどの気弱な涙声だった。
「お願い、陽ちゃん。黙って聞いて。助けて。いま、家に誰か入り込んでるの。電気が通じてなくて、私も襲われかけた。両親がどうなったかも分からない。強盗かもしれない。警察呼ん――」
 階段を上る音が途絶えた。板張りの廊下が、人の体重で微かな軋みをあげる。明子は、声が漏れないようドアから離れた。
「明子、おい。どうした」
「どうしよう、もうそこまで来てる。私、部屋に鍵かけて閉じこもってるけど、いつまでもつか分かんないよ」
 背後で轟音がした。地震のように、部屋そのものが振動する。振り返ると、暗闇の中、ドアの形状が大きく変化しているように見えた。涙のせいか、どこか歪んで見える。木材が裂ける嫌な音が、その希望的観測を粉砕した。再び耳を劈く破壊音と振動が伝わる。ドアが鍵ごと宙を舞った。眼を疑うような光景に、明子はただ見とれた。受話口から、状況の説明を求める陽祐の切羽詰った声が聞こえてくる。弾き飛ばされた丁番が、甲高い音を立てて床に転がった。
 なぜ、と明子は絶望的な思いで侵入者を見つめていた。相手がどの部屋に飛び込んだのか分からない場合、近くのドアから手当たり次第に当たっていくのが常道であるはずだった。この部屋に来る前に、誠一郎の部屋かトイレを先に当たるべきなのだ。
 ドアがあった場所を潜り、人の形をした影の塊が歩み寄ってくるのが分かった。全身から血の気が引き、力が抜け、あらゆる音が遠ざかっていった。陽祐の声がだんだん小さくなる。闇に溶け込むように消えていく。ただ飢えた獣を思わせる荒い息遣いだけが、少しずつ近付いてきた。
 やがてそれが全てになる。
 絶叫しようとしたが、声帯はもう機能しなかった。


    7

 電柱の住所表示に <飛鹿二丁目> の字を見つけて、陽祐はいったん自転車を止めた。自宅を飛び出てから約一五分。命がけでぺダルを漕ぎ続けた。既に五キロ前後走り抜けてきたはずだが、ブレーキを使ったのはこれが初めてであった。
 こみ上げてくる吐き気と戦いながら、深夜の住宅街に視線を走らせる。心臓はもはや、ポンプと言えるような動き方をしていない。収縮と開放の間隔が短すぎる。開き放しになった蛇口のような感覚だった。
 明子に教えられ、持田家の住所は知っていた。しかし、それはあくまでアドレス帳上のデータに過ぎない。実際に足を運んだことは一度もなかった。飛鹿区を訪れるのさえ今回が初めてである。住所表示と表札を手がかりに、自力で探し出さなければならないのだった。
 二つ折りの携帯電話を開く。液晶画面に表示された時計は、二三時一九分をさしていた。時間が時間だけに、通行人の姿もない。たとえいたにしても、道を尋ねて素直に答えてもらえるかは疑問だった。
 時間ばかりが過ぎていく。焦燥感と恐怖で気が狂いそうだった。意味がないと分かっていても、大声で明子に呼びかけたくなる。何かの間違いで応答がないものか。いま、あいつの家まで案内してくれるやつが現れるなら全財産をくれてやってもいい。
 あまりの絶望感に、非現実的な考えばかりが浮かんでくる。
 もう一度、明子に電話をかけた。予想していた通り繋がらない。自転車を出す前にも一度試したが、やはり通じなかった。そのとき、苛立ちをこらえきれずアスファルトに投げつけてしまったのが不味かったのだろう。あれ以来、携帯電話の調子そのものがおかしくなりかけていた。バッテリィの残りも少ない。
 ペダルに足をかけ、再び自転車を走らせた。一軒ごとに表札を確認し、持田の二文字を探した。飛鹿地区というのは高級住宅街らしく、表札一つとってみても意匠を凝らしたものが多い。ただ、深夜であるため完全に消灯してしまっている家庭がほとんどだった。彫りこまれた文字を読み取るのに苦労する。
 そんな中、六件目にようやく、表札をライトアップした家に当たった。丁寧に住所まで添えてある。飛鹿二丁目三の二七。近い。三の一が持田家だった。
 そのとき、携帯電話が鳴った。握り潰すように自転車のブレーキをかける。急制動に後輪が浮き上がった。体勢が落ち着くや、慌ててジーンズの後部ポケットから引き抜いた。ディスプレイに持田明子の名前が表示されている。
「おい、明子。お前か? 大丈夫なのか。お前――」
「陽ちゃん」と、か細く弱々しい声が返った。
 およそ彼女らしくない喋り方である。しかし、間違いなく彼女だった。口に出して認めたことはない。本人に誉め言葉を聞かせたことはない。だが、いつも耳に心地よいと思っていた声だった。
「お願い、陽ちゃん。黙って聞いて。助けて。いま、家に誰か入り込んでるの。電気が通じてなくて、私も襲われかけた。両親がどうなったかも分からない。強盗かもしれない」
 警察呼んで、と言いかけたところで、彼女の声が途切れた。
 ――警察。愕然として気付いた。彼女の言う通り、通報すべきであった。最初にそうしなければならなかったのだ。警察沙汰にできない種の問題ばかりを抱えていたせいで、完全に彼らの存在を思考の外に追いやってしまっていた。だが、今はそれを悔いている時間も惜しい。明子が途中で言葉を飲み込んだのも気になる。
「明子、おい。どうした」
「どうしよう、もうそこまで来てる」切羽詰った声が聞こえた。ほとんど泣き声に近い。「私、部屋に鍵かけて閉じこもってるけど、いつまでもつか分かんないよ」
「大丈夫だ。隠れてろ。すぐ行くから。近くまで来てるから」
 その場に自転車を放り捨て、自分の足で走り始めた。右手で携帯電話を握り、明子を励ましながら血眼になって彼女の家を探す。近いはずだ。特徴も押えている。土地面積は一〇〇坪ちょっと。周りの家と比べて、少しだけ庭が広い。本人がそう言った時、陽祐はこう返した。それは謙遜だろう。うちは七〇そこらだ。
 じゃあ、今度はちゃんと自慢。彼女が微笑みながら言ったのを思い出す。うちの庭は結構広くて、なかなかお洒落。お母さん、イングランドのガーデニングに憧れてるから。いま、いろいろ花が咲いてて綺麗だよ。さくらんぼをね、鳥が食べに来るんだ。見においでよ。お母さんも久しぶりに会うの、楽しみにしてるって――。
 ふいに電話の向こうから、はっと息をのむ声が聞こえてきた。次いで、耳を劈く轟音があがる。ショックで携帯を取り落としたのか、硬い音と共に大きなノイズが撒き散らされた。
「明子? おい、明子!」
 足を止めて叫んだ。応答はない。通話そのものが切れていた。携帯電話が壊れたのか。或いは壊されたのか。いずれにしても、いまこの瞬間、明子は誰かの襲撃を受けている。耳から電話を離し、沈黙した機体を呆然と見つめた。
 もう一刻の猶予もない。我に返ると、半分泣きながら周囲を見渡した。この界隈に存在する一戸建てのどこかに彼女がいることは間違いないのだ。すぐにでも見つけ出さなければ手遅れになる。
 と、また何かの破壊音が聞こえた。電話越しにではない。鼓膜に直接、飛び込んできた音だった。そう理解したときには、もう勝手に足が動いていた。乗り捨てていた自転車に駆け寄り、起こし立ててサドルにまたがる。音は区画の反対側から聞こえてきた。焦れったさを噛み殺しながら迂回路を探す。
 視界に収まる場所まで来ると、持田邸を見つけるのは簡単だった。一階と二階に煌々と明りをともした、周囲では唯一の家だった。情報通り相対的に庭が広く、「レンガっぽい」と明子が表現していた壁面の仕上げには特徴がある。ヨーロッパ風の煉瓦造りを意識した、大きな二階建てであった。巨大な鉄門の脇には特注品と思われる表札があり、淡いライトがそれを闇の中に浮き上がらせている。間違いなく持田とあった。
 外から見る限り異常性は見出せない。ガラスが割れているようなところもなかった。男一人を含む、三人もの大人がいるはずなのだ。本当は何事も起こっていないのではないか。電話も何もかも、性質の悪い悪戯だったのではないか。そう、思えてきさえする。
 門を無断で潜り、玄関ポーチまでの長い煉瓦道を走った。右手に二台分のスペースがある車庫と、手入れの行き届いた芝の庭が見える。近所の人間と茶会でも開くのか、白いテーブルセットも置かれていた。明子の証言通り、昼間は咲き誇る春の花々に彩られた、イギリス風の見事な空間が演出されるのだろう。
 ポーチに辿り着くと、対人センサーが働いたのか自動的に照明のスイッチが入った。鍵穴が上下に二つある、重たそうな玄関ドアがライトアップされた。迷わずドアノブに手をかける。驚くべきことに施錠はされておらず、扉はすんなりと開いた。
 中に一歩足を踏み入れると、秋山家とは比較にならない面積の玄関が広がっていた。家族全員が真横にならび、余裕をもって靴を着脱できるだろう。その玄関は小さなホールに接続され、更にその奥、左側には二階へ続く階段、右側にはLDKに続くのであろう長い廊下が見える。照明器具の電源は入っておらず、周囲は薄暗かった。リヴィングから漏れ出してくる淡い明りだけが唯一の光源である。
 靴を脱ぐ前に、大声を張り上げて名乗った。夜分ではあるが、明子の無事を確認しに来た旨を伝える。しかし、返答はなかった。不気味なほどの静寂に包まれている。
「入ります」と宣言してから、靴を脱いでホールに上がりこんだ。電気スイッチの在り処を示すオレンジ色の光を頼りに、廊下の照明をONにする。たちまち周囲が柔らかな光に包まれた。階段の途中に、脱ぎ捨てられたスリッパがあった。左右いずれなのかは分からないが、片方しかない。天地が逆になり、白い裏の部分が天井を向いている。廊下のなかほどに、その片割れが転がっていた。
「おい、明子。いないのか」
 少し逡巡し、長い廊下を走って一階のリヴィングに駆け込んだ。明りがついていることからも、人のいる可能性が高い。
 実際、人はいた。二〇帖はあろうかという広い居間に、人であったものが二つ転がっていた。そのうちの一つ、部屋の中心部に倒れているのは、首を奇妙な角度に曲げた中年の女性であった。座卓を上から抱え込むようにして崩れ落ちたのだろう。割れたグラスの欠片で肌のあちこちを切り、血を流している。瞳孔の開ききった両眼が、ちょうど陽祐の潜った出入り口のドアの方を向いていた。
 明子に似た女だった。髪は彼女より長いが、総じて顔のつくりに相似する部分が多い。一〇年近い時を隔てた再会であったが、彼女は当時とあまり変わっていなかった。本人にそう言えば、きっと陽祐の背中を引っぱたきながら喜び笑っただろう。だが、彼女があの豪快な笑い声を上げることは二度とない。それが分かりすぎるほど分かるありさまだった。
 もう一つの死体は、彼女の更に奥、居間の壁際に横たわっていた。巨大な薄型TVの傍らに、仰向けの姿勢で転がっている。その破損の激しい頭部を見た瞬間、陽祐は腐ったトマトを連想した。冷蔵庫の奥で気付かれずに長い時間を過ごしたトマト。熟れきって腐敗し、ぐずぐずに崩れて原型を留められなくなった赤黒い塊だ。
 彼のすぐ近くにあるTVのディスプレイは、粉々に砕けていた。ボウリングの球を思い切り投げつけられたように中央部をへこませている。鮮血と黒い人間の毛髪がべっとりと付着していた。ここに凄まじい力で顔面を叩きつけられたに違いない。こときれた持田誠一郎の頭部は、個々のパーツの判別すら難しい、単なる肉片と化していた。
 気付くと、陽祐はフローリングの床に尻餅をついていた。無意識のうちに後退りし、何かにつまづいて転倒したのだろう。全く記憶にない。そのときに打ちつけたのか、左の踵が痛んでいた。少しして、先ほど聞いたしゃっくりに似た声が、自分のあげた悲鳴であったことに気付いた。なぜ、こんなことになったのか分からない。眼の前の光景が信じられなかった。二人の死に方は、事故や自殺などではありえなかった。明らかに第三者の力が働いている。暴力的な意思が介在している。持田理子。誠一郎。七、八年前の記憶でしかないが、彼らは善良な人間であった。仲の良い家族だった。殺されなければならない理由など無い。
 そこまで考えて、ようやく明子の存在を思い出した。廊下と階段の途中に転がっていた女性もののスリッパ。助けを求める彼女のか細い声が脳裏に蘇る。
 跳ねるように立ち上がり、死にもの狂いで階段に向かった。明子の名前を叫びながら階段を駆け上る。返事はない。電話が切れてから何分経ったか考えた。三分か。五分か。絶望的な数字に思えた。
 階段は暗かったが、辿り着いた二階の廊下には電灯がともっていた。視線をめぐらせた瞬間、彼女の部屋は一目で分かった。四つの出入り口の中に、一つだけ壊れたドアをぶら下げたものがある。その木製ドアは、外側から蹴破られたがごとく真っ二つに折れ裂けていた。
 侵入者が居残っている可能性などは、まったく頭になかった。明子の安否だけを案じながら飛び込む。部屋の明りはついたままだった。蛍光灯の白い光が、床に倒れた仰向けの人間を照らしている。青いストライプの入った純白のシャツに、濃紺のストレッチパンツをはいた少女だった。眠るように横たわっている。だが、顔は潰れていない。首は折れていない。大きな外傷は見当たらなかった。
「明子。おい、明子!」
 駆け寄って、名を呼びながら抱き起こした。下唇が一箇所、縦に小さく切れていた。微かに血が滲んでいる。他に目立った怪我はなかった。着衣の乱れも全く無い。上半身を抱きしめたまま、彼女の左胸に耳を当てた。聞こえない。更に深く押し当てる。しばらくして、今度は確かな鼓動を捉えた。鼻先に手をかざすと自発呼吸も確認できる。歓喜が、痺れにも似た感覚を伴い全身を駆け抜けた。
「しっかりしろ、明子。起きろ」彼女の両肩を抱えて揺さぶった。死んではいない。暴行を受けた形跡もない。充分だった。ショックで気を失っただけなのだろう。そう思いたかった。
 何度か揺さぶり続けると、彼女の目蓋が痙攣するように震えだした。やがて躊躇うようにゆっくりと開かれていく。しばらく焦点が定まらないようだったが、やがてそれに意思の力が宿った。
「明子、お前――大丈夫か。何があった。怪我はないな?」
「陽ちゃん?」まだ状況が掴めていないらしい。自室に陽祐の姿があることを訝しむような声と表情であった。
「良かった。何もなかったのか。何ともなかったんだな」
 全身から力が抜けた。頭を垂れ、その重さを彼女に半分ゆだねる。柔らかい感触が額に感じられた。
 再び名前を呼ばれる。まだ声に力がない。電話越しに聞いたときのままだった。陽祐は、顔をあげて彼女と視線を合わせた。
「陽ちゃん。私、どうなったの」
「どうもなってない。ショックで少し気を失ってただけだろう。心配するな。お前は大丈夫だ」
「お母さん、たちは――?」
 どう答えるべきか一瞬迷った。今の状態で真実を告げたとして、明子が冷静に対処できるとは思えない。陽祐自身、まだ状況の整理がついていなかった。
「まだ確認してない。一階にいるみたいだったけど、お前を優先した。お前が大丈夫なら、親御さんたちも無事だろ。心配すんな」
「なら、確かめないと」
 明子は床に両肘をつき、自らの上半身を支えた。そのまま立ち上がろうとするが、顔をしかめてバランスを崩した。小さな苦痛の呻きが漏れる。倒れかけた彼女を、陽祐は慌てて抱きとめた。
「無理するな。本当に立てるのか?」
「うん、立たせて。なんか、右の足が上手く動かない」
 痛むのかと訊くと、彼女は辛そうに首を縦に振った。捻ったか、或いは倒れたときに骨折したのかもしれない。何とか立たせることには成功したが、自足歩行はどう考えても無理そうだった。肩を貸してベッドに運び座らせる。
「それより、何があった?」
「分かんないよ」ベッドの縁に腰掛けた明子は、右手で両眼と額の一部を覆った。喋り方にいつもの明瞭さが無い。寝起きのような声だった。「急に停電みたいになって、一階でなんか壊れるみたいな音がして。だから私、一階に下りてみたんだけど」
「停電?」
「うん」彼女は力なく頷いた。「でも、いまは電気ついてるね」
 それで、と話の先を促すと、彼女は頭痛をこらえるような口調で語りはじめた。総合すると、ブレーカーが落ちたと思って一階に様子を見に行ったとき、侵入者と思われる人物と鉢合わせたらしい。何とか逃げ出して陽祐に電話したが、すぐに追いつかれた。その後の記憶は全くないようだった。いつ気を失ったのかも判然としない。
「――私、すごく怖かった。もう駄目だって思った」
「そうだな。でも、無事でいてくれた。お前は良く頑張ったよ」
 恐怖だけでなく、彼女はこれから想像を絶する心的苦痛を味わうことになるだろう。肉親が共に殺害されたことを知らねばならないのだ。深く傷つくに違いなかった。呆然とし、泣き崩れるかもれしない。だが、気丈に振舞おうともするだろう。そういう人間である。
 それが分かるからこそ、辛かった。陽祐は、彼女の背に両手を回して慰めてやりたいという衝動と必死に戦わねばならなかった。
「なあ、明子。忍び込んできた奴の顔を見たか?」
「ううん。暗かったから。……あいつ、もういない?」
「そのようだな。逃げたんだろう」
 言ってから、彼女の肩に手を置いた。彼女の身体は思いのほか細く、華奢だった。微かに震えている。
「親御さんたちのことは俺が見てくるから。ついでに警察にも通報する。お前は、自分の身体が何ともないか確認しとけ」
 少し悩むような素振りを見せたが、彼女は分かったと答えた。それから、また何か考え込むような仕草を見せる。次に口を開いたとき、机の小物入れから手鏡を取るよう頼まれた。その通りにする。
「どうするつもりだ、それ」鏡を眼で示しながら訊いた。
「肩、貸してくれる? 部屋出たすぐのところに、トイレがあるから。一階に行く途中、そこまで連れてって」
「いいけど」疑問もあったが、追及は避けた。指示に従って、抱えあげるように明子を立たせる。部屋を出てトイレに連れて行った。
「何かあったらすぐ呼べ。それから電話を借りる」
「うん。お母さんたち、無事だと良いけど」
 無事に決まっている。そう声をかけて踵を返した。背後でトイレのドアが閉まる音がする。彼女に、両親のことをどのように伝えるべきか。出るはずのない結論を求めながら階段をおりた。


to be continued...
つづく